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2014.04.12

中国語の助数詞(量詞)って英語の不定冠詞みたいなもんか

 ピンズラー方式の中国語の勉強はまだ続いる。フェーズ2の17。難しかったらくじけるつもりでいたので、フェーズ2に入ってからはいよいよここまでか、と思う日々があったが、なんとなく続いている。
 当初難しいと思えた中国語の発音も、有気音・無気音の聞き分けははっきりできないものの、他はそれほど違和感がなくなった。
 ピンインの仕組みも、その限界ともにわかったので、その悩みも消えた。なぜピンインがああなってしまったのか、ピンインと実際の音の関係はどうなっているかなど。でも、なんか整理してブログに書こうかと思ったけど、この話はもういいでしょ。
 で、中国語の学習、基本、とにかく聞くことを優先している。そのせいか、しだいに英語やフランス語のように聞こえるようにもなってきた。つまり、漢字のずらずらという並びではなく、音でできた言語だなあと。
 そうなってみて中国語についていろいろ思うことはある。
 この数日、あれれと思うのは、その助数詞である。
 当初、日本語のようにものによって助数詞が変わるというのが中国語にあるのは当然だろと思っていた。助数詞というのは、本なら一冊、パソコンなら一台、ウサギなら一羽、箪笥なら一竿、戦死者なら一柱というあれだ。もちろんと言っていいと思うがこうした日本語の助数詞が現代中国語と対応しているわけではない。
 私のような中国語の初心者レベルでいうなら、日本だと、人は「一人、二人」となる。が、中国語だと、「一个人、二个人」となる。
 「个」というのは、日本語の「ヶ」と同じで、「個」の略字である。というか、日本人が一個二個と数えるのは、近世中国語の影響なのではないか、辞書をざっと見たが書いてないが。
 で、「我是一个大学生」というのも、中国語なら人を数えるのに「個」かと思っていたのだが、ふと、あれれと思うようになった。
 ピンズラー方式では、「一个人」というのを先に教えている。だから、大学生も「一个」となるのは不思議ではないというか自然に了解できる。それはいい。
 今日のレッスンだと、「大学」が導入される。その前に「学生」は教わっている。これに「大」が付くというふうに導入される。まあ、それもいいし、そこから、「大学生」が導かれるのも指導法として自然だ。そこで、「我是一个大学生」も別に不自然ではないのだが、あれれと思ったのはそこだ。
 その前に「大学」と聞いて、現代の中国人は四書五経を想像する人はほとんどいないだろうから、「大学」を「中庸」などと並べて連想することもないだろう。が、もとは、「大学」というのは四書五経のあれである。
 それをUniversityの訳語にしちゃったのは、近代日本ではないかな。たぶん、「大学校」があって略して「大学」なのだろう。「希哲学」が「哲学」みたいなものか。とすると、四書五経とは関係ないのかもしれない。
 それでも、近代であれば教養ある中国人なら「大学」は四書五経だろうから、どうなんだろか、とふっと思ったのだが、そこで、「一个人」の語感が響いた。学校なら助数詞は「一所大学」のようになる。
 助数詞を使うことは日本人にしてみると違和感はないのだが、日本人は「一个大学生」「一所大学」とは言わない。「私は一人の大学生です」なーんて言わない。言うのは欧米人くらいなもんである。
 というあたりで、これって、私が使っているピンズラー方式は英語で中国語を教える教材だから、英語国民にわかりやすい中国語表現にしているんだろうなと、思った、当初はね。
 普通は「我是大学生」で十分だろと思った。
 どうもなんか違う。
 叙述的な表現として「他是」で考えてみる。で、ちなみにぐぐってみると"他是大学生"約7,190,000 件で、"他是一个大学生"は2,850,000件。どっちが多いかというと、"他是大学生"なのだが、"他是一个大学生"が変わった表現ということはない。また、日本人がぐぐっているせいもあるのだろうが、"他是大学生"は日本のサイトに多い。
 どうも"他是一个大学生"は中国語として自然な語感があるとしか思えない。なんだそれ?
 ということで、なんだろと調べてみると、この現象はすでに広く知られているものらしかった。
 例えば、『多元文化』「数詞「一」からなる数量詞表現について―日本語と中国語との比較を中心に―」(林佩芬、2010)(参照PDF)があった。


中国語の数量詞の機能として、「計数機能」以外に「個体化機能」があることはよく知られている。「個体化機能」とは、指示物の数量をカウントする「計数機能」とは異なり、大河内(1985)が指摘するように、「“一”+助数詞」を付け加えることによって、類名や総称という抽象的、非加算的な事物を、具体的、加算的な個別物に変える機能のことを意味する。そして、中国語の数量詞「“一”+助数詞」が実際に数字を表示する必要性から用いられる以上に使用されているという事実は、「“一”+助数詞」がヨーロッパ言語の不定冠詞にきわめて近いものであるということを裏付けるものである。

 ほほぉというわけで、これで正解というわけでもないだろうが、中国語の「一个大学生」的な表現には英語の不定詞的な意味合いはありそうだ。
 もちろん、同じではないだろうけど。ちなみに「一直在找一個人」とかだと、探し求める理想のその人っていう感じではないかな。

 ちなみにこれ元歌は「Never Had a Dream Come True」(参照)。
 「一個人不可能」だと「ぼっちにはムリぃ」という感じになる。

 助数詞の話に戻って、先の論文には言及がないが、先日の記事で書いた例を思い出すのだが。


A:他把自已的汽车卖掉了
B:那辆汽车是去年才卖的。

他把那辆汽车卖掉了,去年才卖的。


 類推すると、この助数詞の用例には関係詞的な機能もありそうに思える。
 日本語でも、「その書棚には一冊もなかった」「彼は二冊手渡してくれた」というふうに、助数詞の単独用法があるが、似ているようにも思う。
 日本語とか中国語には不定詞は存在しないが、言語システム的にはそこになんか不足感があって、いろいろな形態で不定詞的な機能を代替する構造が選択されるのだろうか? ちなみに日本語だと、不定冠詞と定冠詞の情報機能は、「は」と「が」の使い分けになっていたりもする。そういえば、フランス語には不定冠詞があるが、ラテン語には冠詞がない。古典ギリシア語やコイネなどにはある。
 表現変遷の歴史も気になる。"他是一个大学生"のような例は漢文で見たことがないように思う。
 中国語の場合でも、"他是一个大学生"のような表現は、白話運動から出て来たものなのだろうか?
 
 

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2014.04.08

消費税が3%上がったその日からセブンイレブンでポイントアップキャンペーンやってた

 話は、消費税が3%上がったその日からセブンイレブンでポイントアップキャンペーンやってた、ということ。なーんだ、という話です。以下を読みたいかたは無料でどうぞ。

 以下のコンテンツは無料です。

 すまん、ギャグです。(なんのギャグかは説明しません。)

 消費税3%アップはどうってことないやという人と、けっこう来るなあという人がいると思う。どこに来るかというと、自分のお財布に来るし、安倍政権にも来るだろうと思う。というか、すでに来ているように思うのだけど、世間はそれほど暗い雰囲気ではない。こういうのは気分の問題もあるから、暗くないほうがよい。
 いきなり3%というと、小売りにはかなり来るなあと思っていた。
 理想的には消費税アップ分で売れなく分をどうするかだが、そのまま価格に転嫁できるのは親方日の丸的な業界だけで、実際のところデフレ傾向が十分に払拭されていないと、微妙な安値競争になるだろう。
 というと、さしあたり、各店舗がやっているポイントのアップになるだろうと予想していた。100円1ポイントだと、1ポイントキックバックくらいで、実際の消費税ショックを2%に下げるのではないかと思っていた。
 そりゃそうだろうと思っていたのに、現実、先日、セブンイレブンでポイントアップキャンペーンやってたのは、実際にレジの表示を見ているまで気がつかなかった。
 あれ、このキックバックはなんじゃ。
 と思って、そうだ、消費税上げただんだよなと思ったのだった。
 レシート貰って見ると、あれれ? 
 このとき自分が買ったのは、れいのドロップポットのポーションなわけです。あまとろ梅、キャラメルコーヒー、HOTオレンジ、太陽のアセロラとか、あれです。このときは、全部で7個買った。
 自分の頭のなかで概算だと1個100円だから、700円くらいかあと思っていた。実際には、以前は「希望小売価格(税込):90円」(参照)ではあるのだけど。
 レシート見ると「今回のポイント12P」とある。あれれ。100円で2Pだから、7個買って14Pじゃないの?と一瞬思ったのである。
 すぐに勘違いはわかった。1個100円ではないのな。税込みで90円だから700円には届かない。
 合計を見ると、651円。ポーション1個の単価で見ると93円。
 ああ、消費税で1個につき3円上がったのか、と思った。90円から3%と上がったとすると、92.7円だからな。
 え? ちょっと待て。元が90円で消費税8%とすると、97.2円。はて?
 レシートを見直すと、合計651円に、内消費税が48円とある。すると消費税抜きだと、603円。これでポーション1個の単価で見ると、86.143円。れれれ?
 どういう計算になっているのだろうか。
 というか、実は日本に消費税が初めて導入されたとき、ちょっとわけあって、そのシステム開発関連に携わったことがあるのだけど、ようするにこの場合、消費税というのは合計にかけているので、単価にかけているのではない。というか、単価にもかける方式の両方があったりして、システムがややこしかった。あのときは、そんなわけで、場合によっては、同じものを分けて買うと、1円お得みたいな奇妙なハックがあった。具体的には忘れた。
 ここで、また、れれれと思った。レシート上の単価93円というのは、これ消費税込みでしょ。すると、ポーション1個の税抜き価格はおいくら? 86.1円?
 あかん、小学生の算数が混乱してきた。
 ちなみに、以上の思考がレジに立つ1秒くらいの間に発生したので、東京大学物語とか黒子のバスケットのような状況を思い浮かべてほしい。
 まてよ、消費税5%のとき90円だから、そんときの税抜き価格は……、85.71円?
 まてよ、それに8%の消費税を乗せると……92.57円。
 ちょっと計算違いはありそうだが(いやとんでもない計算間違いしているかもしれないが)、セブンイレブンとしてはどうも謎の税抜き価格を内部で計算しているみたいだな。
 この計算が合っているとすると、1円以下端数分で、ちょっとした儲けがセブンイレブンに入っているんじゃないか?
 うーむ。
 そうだ、ドロップポットのポーションなんて3月でも買っているわけだから、そんときのレシート、どっかにあるんじゃね。あった。2月のが、あった。しっかし、よくドロップポットのポーション買ってんな、俺。で、おいくら?
 このときは、90円だ。
 このときの消費税分はどうなってたのかな?
 あれれ、この時代のレシートには書いてねーよ。
 5%の消費税の時代、最初から税込みで90円だったわけか。
 うーむ、詳しい計算が知りたくなった。
 調べればわかるのだろうけど、なんとなく思うのは、小売りはけっこうこれで、1円以下端数分でけっこうな利ざやを得ている感じがする。どうなんだろ。システム変更の事実上のキックバック的な性格なんだろうか。
 まあ、今回のお買い物について言えば、基本的にどうでもいいやではあるんだけど。
 4秒経過。
 これ、もし、1個ずつ買ったら、どうなるのだろうか?
 消費税は1個の93円に織り込まれているから、1個につき消費税分は7.3円くらい。これが7個だと、分けて買って合算すると、51円。あれ?
 まとめて買った合計のときだと48円だから、分けて買うと3円損することになるのか。計算間違っている?
 ふーむ。まあ、でもいいや。外、雨降りそうだなあ。
 5秒経過。
 ところでナナコポイントのほうだが、分けて買うとどうなるのかな。
 これは消費税の問題ではないから、店員に聞いてみる。こういうの、ふいに店員に聞くと驚くんだけど、まあ、なるべく悪意はねーよな雰囲気で聞いてみる。
 で、わかった。
 店員の話だと、ポイントは108円に付き1ポイントということ。
 消費税込みなわけか。
 ちなみに、ネットで確かめてみると、「nanacoは100円(税抜)につき1ポイントが通常ポイントとしてたまります。」(参照)とあるから、それでいいにはいいのだろう。というか、店員も教育受けているわけか。
 いずれにせよ、消費税が3%上がるから、そのショック分の1%を吸収するという図のままになっているわけでもないんだな。
 俺「ちなみに、これ、1個1個分けて7個買ったとしたら、ナナコポイントつくの?」
 店員「qうぇrちゅいおp……」
 普通話に翻訳して日本語に訳すと「付きません」。
 1回に108円超えないからね。
 そうでしょうね。答えづらいことを聞いてごめんね。
 さてと、こうしたナナコの今回のキャンペーンは今月いっぱいで終わり。
 ということは、消費税ショックがセブンイレブンでを使う層の世間に、この間に吸収されるなら、このキャンペーンで終わりだろうけど、たぶん、こうした露骨な形態ではなく、商品を選択して全体的に消費税を下げるようなキャンペーンは継続するんじゃないかな。
 
 

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2014.04.07

なぜ関係詞が中国語にはないのだろうか?

 中国語の文法、特に統辞論が依然わからない。ただ、学習上は、文型を整理したものを暫定的に統辞論的に当てはめていけば、さしあたって問題はない。
 このことが基本的に奇妙なのは、文法がわからないというのはそれほど不思議なことではないことだ。私などは日本語のネイティブなのだが、日本語の文法が統辞論的にどうなっているのかよくわかっていない。おそらく日本語の場合、格指標が明示的なので、動詞による文への統辞的な支配が弱いのだろうとは思うので、あまり印欧語的な統辞論で考える必要はないのだろう。
 だが、中国語は日本語のような格指標はない。基本、動詞による文への統辞的な支配が強いように見える。動詞句(VP)の基本的な構造は、いわゆるSVOに(主語+動詞+目的語)なっている。日本のようにSOVではない。
 ところが学習していくと中国語は「動詞による文への統辞的な支配」というものではなく、動詞はどうも隣接する数語の支配程度であり、文への支配とは言いがたいようだ。
 具体例がないとわかりづらいと思うが、別の言い方をすると、動詞を中心した熟語が3文字か4文字が連鎖して句を形成し、これが句単位で意味論的な戦略で並んでいるような気がしてくる。印欧語的なS->NP+VP(文は名詞句と動詞句からなる)というより、VP+VP....->Sというように、熟語のボトムアップの言語なのではないだろうか? これに意味論的な機能語(時制や論理構造を示す)が加わって、文法のような構造を見せているだけなのではないか?
 まあ、このあたりは、まだよくわからないのだが、この考え方に惹かれるのは、どうも漢文というのはそのようにできていると言ってよさそうだからだ。漢文は書き言葉であって、自然言語のネイティブ直観が想定できないが、実際の普通話は、漢文のような公的な性質が普通話に出ているのではないか。
 とはいえ、中国語で副詞句(M, MP)の挙動を見ていると興味深い。SVO的な印欧語の場合、SVOMという構造になりやすい。特に場所や時間の副詞句の場合。少なくとも、印欧語だとSMVOやSVMOは、文法的なエラーとまではなくても違和感がある。中国語の場合は、「Basic Patterns of Chinese Grammar」(参照)に説明があるように、SVMO的に、Mが文末に来るのを逆に避けるようになっている。これはどうも意味論的な戦略からではなく、統辞論的な意味あいで文法臭い。MSVOはできる。
 これに関連して、関係詞節を考えた。SVO的な言語であれば、Vの支配が明確なので、後置的な関係詞・関係詞節が作りやすいのだが、ここも不思議なことに、中国語の場合、これがない。
 ちなみに現代日本語にもないのだが、これは、SOVの構造から、関係詞節があっても、Vに前置せざるを得ない、不利な基本構造だからではないだろうか。
 余談だが、この点、日本の古語だと似たような構造がある。


同じ帝、立田川の紅葉いとおもしろきをご覧じける日...

 この古文の関係詞的な「の」の用法を拡張すると、現代日本語に後置的な関係詞・関係詞節が追加できないでもない。そういえば、高校生のとき、冗談で関係節の英文を日本の古文に訳して遊んでいたことがあった。
 ところで、この「の」を前置すると次のような構造になる。古文の文法をも逸脱はする。

同じ帝、紅葉いとおもしろきの立田川をご覧じける日...

 これは古語でも非文だが、中国語の関係詞・関係詞節は「的」を用いてこうした前置の構造をしている。
 そこで一般的には中国語は「的」による関係詞節的な前置が長すぎると不自然になるとして、それ以上はあまり議論されない。文法の問題が意味論的な問題なのか語用なのか判然としない。
 だが、このあたり、どうもなにか文法が潜んでいるようで納得がいかないでいたのだが、先日、「中国語概論」(参照)を読んでいて、ちょっと気になる議論があった。
 次の二文を「汽车」でまとめるという場合である。実際上は、関係詞に似た構造になるはずである。

A:他把自已的汽车卖掉了
B:那辆汽车是去年才卖的。

 このようになるとされている。

他把那辆汽车卖掉了,去年才卖的。

 Bはいわゆる「是~的」文なので、最初から「的」でまとまっているのでわかりやすいといえばそうだが、すると、通常はこうなるはずである。

他把去年才卖的汽车卖掉了。

 ただ不自然な感じがしないでもない。
cover
中国語概論
 気になるのは、先の「他把那辆汽车卖掉了,去年才卖的。」は不自然ではないのか、というのがよくわからないことだ。同書には「追加式」とあるが倒置法的な表現なのだろうか。
 素直に見るかぎり、「那辆」が関係詞の機能をして、「,」後置の「的」文であたかも関係節が後置されているようだ。
 先の例文も「是~的」文の含みに、「去年才卖的汽车」があるはずだ。
 この構文の結合法を応用すると、中国語に印欧語的な関係詞節がかなり自由に導入できるはずなのだが、どうなのだろうか。
 
 

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2014.04.06

台湾とピンイン

 現下の台湾での学生による立法院占拠についてはなかなかブログに書きづらい。ごく簡単に言えば、心情的には私は学生を支持したいが、国際政治・経済的な観点あるいは日本の国益との関連から見れば、この運動は、かつての韓国の米国牛肉輸入反対運動や日本の反TPP運動のように反動的なナショナリスティックな運動にも見え、支持しがたい面もあるからだ。
 ではどうなのか。近景としては学生に注意深く平和裏に運動を進めてほしいし、巨視的には台湾の難しい状況――中国に経済的に飲み込まれること――に同情するしかない。中国経済に飲み込まれず台湾が存立していけるかは、難題に思えるし、日本もまた同様の立場にある。
 さらに巨視的に見るなら、中国経済が開かれていくことは現在の近景とは逆に、中国の台湾化につながる。そしてそれは中国社会の不安定化と軍事強化の矛盾を強くするだろうし、その余波を日本が強く受けることになるだろう。日本は、静かに忍耐強く平和裏にこの巨大な全体主義国家の権力を民主主義的な体制へと解体できるよう支援していくしかないはずだが、そのことが国益に直結するわけでもない。まあ、これも難問である。
 一つの解法の方向性があるとすれば、国家間のパワーバランスにあって緩和なナショナリズムを志向することであり、それが現在の韓国の状況だろうし、矛盾も困難な形で浮かび上がっている。
 韓国は、これまで米国や日本に飲み込まれていた経済と政治をナショナリズムに転換するために中国とのバランスを取っているかのように見える。が、同時に韓国としても中国経済には巨視的には飲み込まれるしかない命運にあり、そのことが韓国のナショナリズムの苛立ちを喚起して反日的な対応を取らざるをえない状況にもなっている。
 台湾がそのような緩和なナショナリズムな立場を取りうるかというと、国家規模的に難しい。というあたりで、どうしてもナショナリズムのソフトパワー的な側面として言語政策みたいなものも関連して再考される。
 韓国の場合は、朝鮮語という言語とオンモン(ハングル)という正書法をもって、一見独立した自国言語文化を形成しているかのように見せているが、実態は漢字を排することで中国と日本から文化的に距離を置く点にある。朝鮮語については私には十分な知見がないのであまり言えないが、韓国の場合、漢字を復活させると文化的にはあっという間に以前のように中国と日本に呑み込まれてしまうのだろう。

cover
台湾ナショナリズム
東アジア近代のアポリア
 台湾は大陸からの国民党政府の独裁期間が長く、第二次世界大戦後は日本語に変わって北京官話を押しつけられてきた経緯がある。私の記憶では20年ぐらい前まではそれでも台湾語のネイティブ人口が半数を超えていたはずだ。国民党独裁体制が事実上終焉してからは、より自明なかつ緩和な台湾ナショナリズムが形成されれば、台湾語を中心した国家文化が生まれてくるのではないかというふうにも期待していた。
 そのあたりが、時が経ってみるとなんとも微妙である。
 今回の台湾の学生運動だが、私としてはひそかに学生たちの台湾語への回帰が見られるのではないかと注目していたが、私の知る限りではあまり見当たらない。すでに台湾人らしい国語としての事実上の普通話が定着し、学生もそれを駆使しているように見える。まあ、そこまで言えるかどうか、実はもっと知りたいところだが。
 話が緩慢になるが、というか、実は上記の話はブログに書く気はなくて、台湾のピンインについてちょっと書こうかと思っていたのだった。
 話がねじれてしまったのは、台湾が大陸風ピンインをもう事実上採用していることは、経済同様、言語文化的にも中国に飲み込まれていく過程に見えるからだ。そもそも大陸側の普通話も中国人にとっては特殊な共通言語に過ぎないとすれば、台湾の言語状況は、中華圏の必然的なグローバリズムの一環と言える現象だろう。このあたりはもっときちんと書かないと話が通じないかとは思うが。
 ピンインを今回私が学びながら、台湾のピンインの状況も気になった。すでにご指摘をいただいたが、台湾では大陸風のピンインは従来は公的には採用されていなかった。教育でも学ばれていなかった。現状は微妙である。このあたりはかなり複雑な状況にあり、混乱と言ってもよい。
 ごく簡単な例だが、台湾総統の名前「馬英九」だが、英語では「Ma Ying-jeou」と表記される。中国風のピンインなら「Mǎ yīngjiǔ」となるはずである。英語では声調は外されるので、「Ma Yingjiu」だろう。ちょっと気になってこのスペリングでニュースを検索してみると、検索ミスかもしれないが、ほぼ見つからなかった。
 ちなみに、「習近平(习近平)」はピンインでは「Xí jìnpíng」であり、英語では「Xi Jinping」になる。これを英米人がどう発音しているかだが、ニュースなので多く流していることもあって、「She jing ping」のように発音していることはわかる。
 「Xenakis」は英語だと「ジーナキス」なので、「Xi」は「ジー」になりそうだが、それでも「zee」ではなく「she」と読むのはそれほど難しくはないようだ。便法では「SHEE chin-PING」などがある。それでも「She」となるのは避けがたく、日本ではあまり伝えられていないが、その手の英米圏のギャグがけっこうある。「Xi loves me, Xi loves me not」の類である。
 話を戻して「Ma Ying-jeou」だが、ウェード式(Wade–Giles)である。では台湾はウェード式なのかというと、ローマ字化についてはいろいろもめて、1996年4月になって「注音符号第二式」というピンインが公式に採用されたことがある。が、これでももめて曲折して、1998年4月に台北市は中央研究院の余伯泉が考案した「通用拼音」を採択した。
 このもめる内容が何かなのだが、当然ながらピンインとしての便宜と、中国ピンインと差異化するかというナショナリスズムの二点がある。言語学者は当然前者に注力するのだが、紛糾はナショナリズムに関連することが多い。
 このナショナリズムと言語を巡る紛糾は、一見すると韓国がオンモンを使っているように隣国文化の隠蔽・差異化が焦点のようになる。そこで、当初は国民党が「注音符号第二式」や「通用拼音」に反対していた。だが、彼らはこの経緯で国際化に切り替えて一転して1999年に大陸風ピンイン「漢語拼音」を採用した。
 このプロセスが興味深いのは、国民党が中国の台頭に文化的にもすり寄るしかないことである。このエントリーの冒頭で現下の台湾状況に触れたが、似たような構図がここに現れていた。
 紛糾はさらに続き、基本的には民進党側が「通用拼音」を支持し、国民党が「漢語拼音」という構図で、2002年に通用拼音が全国の統一基準となり、これで落ち着いたかに見えたが、馬英九が出てくるれいの2008年の総統選挙で、漢語拼音派の曾志朗が行政院政務委員になり、行政院は漢語拼音になった。
 つまり、台湾のピンインは中国と「統一」されたわけである。
 これで問題は終わったかに見えるが、当の「Ma Ying-jeou」のように、慣例はそのまま生き残っている。台湾は民主主義国なので行政令に強制力はない。このため結局、混乱と同じような状態になっている。実質民間で「漢語拼音」とが普及しているわけでもない。ただ、巨視的に見ると、いずれは漢語拼音になるだろう。
 この過程で興味深いのは、台湾にはもうひとつピンインのような音写システムとして「注音符号」というがある。先頭四文字「ㄅㄆㄇㄈ」 (bpmf) から「ボポモフォ」とも呼ばれている。いわばカタカナであり、実際カタカナに影響されてできたようだ。成立年は1918年で主体は中華民国の教育部である。興味深いのはこれで北京官話以外も音写できるし、さらにその他の言語にも拡張できる点だ。中国共産党は1958年にこれを廃止しているが、台湾では教育補助として生き残った。というか台湾ではむしろこれが対照的に推進された。なお、先の「注音符号第二式」が「二式」なのは「ボポモフォ」があるからである。
 「ボポモフォ」はオンモンのように字母を組み合わせて疑似漢字を形成することないが、基本、オンモンと同じ方向性なので、台湾のナショナリズムの一つのありかたとしては、台湾語と「ボポモフォ」という組み合わせもありえたかもしれない。
 今回ピンインの内側に入って勉強してみると、上記のプロセスのなかで、中国の台頭とナショナリズムの問題という解りやすい構図より、そもそも漢語拼音の欠陥が気になってきた。
 元来台湾でのピンイン問題には、言語学的な洗練も含まれていたのだが、微妙にその洗練よりも、地名表記のような行政問題との折衷からナショナリズムの問題に引っ張られたように見える。
 この機に、「ボポモフォ」を見直すと、音写のシステムとしては、漢語拼音より優れている点があることも理解できた。ただ、当然、言語学的には整備されていない。
 中国語学習に限定して、ピンインは言語学的に改良されたほうがよいようには思うが、国民党の顛末ように、実際には漢語拼音を排除するわけにももういかないだろう。
 
 

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