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2014.04.05

ピンイン(拼音)について

 中国語を学んでいて、発音についてかなり手こずった。理由はピンイン(拼音)の存在である。当初、ピンインを発音記法だと思い込んでいたからだった。もちろん、そう思い込んでいても間違いではないのだが、記法の記号を一対一に対応しても実際の発音は構成されない。つまり、仮に発音記法ではあっても発音記号ではない。
 手こずったのは、今学んでいるピンズラー方式では、実は発音訓練というのは存在しないこともある。これは創始者ピンズラーの直観が関係しているのだろう。結論からいうとそのあたりがなるほどと理解されつつもある。中国語に関して言うと、初学者がピンインから入ると発音がうまく習得できないという思いもあるのだろう。敷衍していうと、そもそも音記法は言語習得の邪魔になるとピンズラーは考えていたとしてよいだろう。
 そういうわけで、自分については、基本はまず耳に聞こえた音で学ぶ、それからピンインや漢字を見るというふうにして中国語を学んでいる。が、いずれにせよ、ピンインを避けるわけにもいかない。
 そしてピンインは一見するとやさしく見える。例外は例外として丸暗記すればなんとかなる。それはそれでいい。
 だが、どうにもこれは不合理な体系ではないかなあ、というあたりで、ああ、これは発音記法ではなく、正書法の一種なのだというふうに理解を変えた。それでも発音記法的な正書法なのだから、発音という点から見てどうなのか。
 先日のアーティクルにも書いたが、まずここに引っかかっていた(参照)。


 そういう点で普通話の音韻体系を眺めてみると、捲舌音あたりに奇妙なComplementary distribution(相補分布)みたいなものがあって気になった。これ、つまり、qとchiというのは、phoneme(音素)としては独立してないんじゃないかという疑問がちょっと浮かんだわけだ。もちろん、La linguistique synchronique(言語の共時制)として見ると、体系としては、phonemeとしてよいのだろうが、それにしても、これはなんだろと思った。

 そのおりはこれは学習上の便宜ではないかと思ったし、書かなかったが正書法として歴史を反映しているのではないかと思っていた。
cover
中国語概論
 が、それでも不合理なんで、気になっていたが、「中国語概論」(参照)にだいたいこうなんだろうなという答えがあった。
 ああ、またかあという感じである。自著に高校生時代、英文法が不合理で専門書を読んだらわかったという挿話を書いたが、ここにも似たようなことがあった。
 結論からいうと、音韻論的には「そり舌音」(zh ch sh r)と「舌面音」(j q x)を独自に書く必要はなさそうだ。「歯音」(z c s)をベースに、それぞれ、/zr/ /cr/ /sr/と/zy/ /cy/ /sy/ そして/y/を加えれば、それで簡単にComplementary distribution(相補分布)が整理できてしまう。なーんだという感じである。
 もちろん、ゆえに現状のピンインを改良せよとまではいわないし、無理だろうが、学習者には、ピンインに入るまえにこの構造を教えておいたほうがわかりやすだろうとは思った。というか、自分ではようやくこの部分はすっきりした。
 ただし、すっきりするためには、発音論と音韻論の差違が前提になる。一般的に書くためには、そこをきちんと説明しないといけないのだが、これはけっこうテクニカルなんで、英語に関して以前書いてもなかなか理解されなかったが、やはり一般的には理解されないだろうと思う。まずもって、発音記号と音素記号の差が理解できない人が多いし、そこはしかたがない。
 関連して、/zr/や/zy/の表記からわかるように、/i/の範列では、/si/ /sri/ /syi/となる。これだと日本人的には/si/が「し」のように思えるが、実際には、/si/は「すー」のように聞こえる。とはいえ、この問題は基本的に現在のピンインでも同じではある。
 有気音についてはそうした分布がないので、ピンインのpとbをウェード式のようにphと音韻表記はできないが、発音表記としてはウェード式のようでもいいようには思った。が、実際の音を聞くと、ピンインのdaは「だ」のように聞こえるので、どういじくっても日本人のような外国人には難しい。ついでに/h/だがこれは、牙音ではなく喉音。やっぱりね。
 先の音韻整理で、/sri/ /syi/が出て来たが、ここから想像がつくように、尾音も範列的に整理できる。/φ/(なし) /n/ /ng/ /y/ /w/である。
 これがどういう意味かというと、uとiが消える。理由は二面あって、まず韻母がより簡素に整理されるからだが、関連して、oの必要がなくなることだ。
 尾母は次のようになる。

/i/
/a/ /ә/
/ay/ /әy/
/aw/ /әw/
/an/ /ang/
/әn/ /әng/

 尾音のついでに子音として/w/が独立すると、/wi/ができるが、これがピンインのwuに相当する。同様に、/yw/ができる。
 というふうに音韻論的にまとめると中国語の音韻はかなり簡素になってしまう。
 とはいえ、「中国語概論」でもそのまま音韻論的に提示しても学習者は戸惑うだろうとして、/w/ /y/を/u/ /i/にした折衷案の韻母表を提案している。それでも私の印象ではかえって混乱を招くだろう。
 いずれにせよ、音韻論的に整理しても、/si/などは「し」ではないわけで、それなりの訓練は必要になるだろう。
 個人的には、音韻論的にはかなりクリアになった。ピンインはやっぱり正書法だな。学習上は、尾音の/u/ /i/は母音じゃないし、子音の扱いの場合にも要注意。/e/は英語のシュワのようなものなので、「え」にひっぱられないようにしよう、とも思った。
 できたら以上の話を体系的に学習者に提示できるようにまとめるといいだろうとは思うけど、僕なんかにできることではない。当面は、ピンズラー的にできるだけ、原音に注意して学習しようと思う。というか、耳を信じよう。
cover
ゼロから始める
「中国語の発音」徹底トレーニング
 あと、実際のところ、ピンインが正書法ならこれはこれできちんと習うべきで(パソコン入力にも必要だし)、その参考書として「ゼロから始める「中国語の発音」徹底トレーニン」(参照)も買った。
 
 

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2014.04.04

[書評]一度、死んでみましたが(神足裕司)

 コラムニストの神足裕司さんが倒れたのは2011年9月3日。東北大震災があった年のこと。その日からは半年くらい。54歳になってから1か月くらいのこと。そうわかるのは、彼と私と誕生日が近いからだ。当然同い年である。

cover
一度、死んでみましたが
神足裕司
 彼の、その時代時代の活躍は私の人生の指標にもなっている。1984年の出世作「金魂巻」も初版で読んだ。もちろん、このときには「渡辺和博とタラコプロダクション」となって彼の名前はなかった。名前に出ていた渡辺和博は当時の「へたうま」的な人気を博していたイラストレーターで1950年生まれ。2007年に肝癌で亡くなった。57歳になる手前。つまり、神足さんや私の今の年齢である。人は少しずつこの世を去ることになる。
 神足さんが倒れたのは、故郷・広島から東京に戻る航空機内。意識不明となる。「くも膜下出血」である。生死をさまよった。一か月近く意識は戻らなかったらしい。一年後、要介護5で自宅に戻る。書くことができるようになったのは、半年後くらいからのようだ。日付のわかるもので、本書に収録されているは、2012年9月25日の手紙からだろうか。

 手紙を書くことになった。
 いまの状況を少し話すと、たぶんボクは1年くらい前、病に倒れた。
 ICUに2か月近くいて、もう助からないと言われたらしい。
 そのことも最近、何だかわかってきた感じだ。
 命が助かっても、記憶は戻らないと言われたらしい。

 記憶がそれでまったくなくなったわけでもないが、本書を読むと記憶機能などに障害は残っているようだ。以前のようにものを書くことは難しい状況にも見える。
 こう言うといけないのかもしれないが、我が身につまされたからだろうが、彼をうらやましくも思った。命を救うことになった医師も知人であったようだし、奥さんや家族、そして多数の友人に励まされている姿を見てそう思った。俺はそうはいかないなあと卑屈に思ったのである。人徳の差というか、業というものか。それなら自分は自分相当ではあるなと。
 本書は一度さっと読んで、彼の現状に近い姿を知り、それなりに回復している様子を、よかったなあと確認してしばらく、ほっておいた。率直にいうと、病気でしかたがないだろうけど、かつての神足さんの切れる文章に比べれば、それほど読み応えのある本ではない。
 ところが不思議なことに、この本の、詩のような文章は、ふっと自分の薄っぺらな心のそこから沸き起こる。じんわりと、潮が満ちるように思い出して感激して、読み返して涙してしまう。

 ボクには娘がいる。文子という。高校生かと思っていたら大学生だという。
 ボクが寝ている間に大学生になっていたのだ。
 まだ学生の子どもがいるのだから、のんびりと寝ているわけにも行かない。
 顔を見ていると犬のようにかわいい。いや犬が文子のようにかわいいのだ。
 無条件にかわいいのだ。

 言葉に詰まる。
 そうなんだろうなと思う。神足さんには「パパになった男 娘の誕生がぼくを変えた!」(参照)という名著もある。その心情はよくわかる。この本が出て数年後に、私もさらによくわかることにもなったがその話は自著のほうに書いた。
 どうも言葉に詰まっていけない。

 ボクの先はない。
 先には、何も見えない。
 暗闇だけだ。
 小さな明かりが見えるとしたら、子どもの成長と妻の笑顔と友だちの顔。

 それにあと、生活するだけのお金と住処があればもう十分だと続く。人生からいろんなものを削ぎ落としたらそうなったのだという。
 本当にそうだと思う。泣ける。かくしてまた言葉に詰まる。
cover
パパになった男
娘の誕生がぼくを変えた!
神足裕司
 詩集だなと思う。
 死の淵をさまよった話や子ども時代、青年時代の話もある。たぶん、この境涯にならなければ書けなかった貴重な独白なのかもしれない。
 うまく言えないがぞっとする思いがした文章もある。まだリハビリの途中のことだろう。

 大きな声では言えないが、ときどき頭がものすごくしゃんとすることがある。
 いまも、そういうときかもしれない。
 いままで何もなかったかのように、昔もいまも、そして次の瞬間もクリアだ。

 最初読んだときは、意識に障害が残るなかで、たまに正常機能に復帰したように思っていた。が、あれはそうじゃないんじゃないかと思い返した。
 うまく言えないのだが、自分も、おそろしく頭がクリアになる瞬間がある。あれはなんなのだろう。しかしその意識を何かに利用できるわけでもない。ただ、人間にはなにか普通には使われていない高次な意識状態がありそうな気はする。あるいは人生を俯瞰する特殊な意識のようなものが開かれるのだろうか。
 この本では、神足さんはまだ書き続けるとあった。そうだろうと思う。そのクリアな意識がなにかとてつもないことを露わにしてくれるように期待している。
 
 

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2014.04.03

[書評]遺言 最後の食卓(林葉直子)

 なんとなく怖くて読めなかったのだが、今の時期を逸したら読めないのではないかという思いもして、自分なりの勇気を奮って、棋士・林葉直子の「遺言 最後の食卓」(参照)を読んだ。

cover
遺言 最後の食卓
林葉直子
 意図的に軽く書かれているせいもあって、怖いということはなかった。うっすら期待していたスキャンダルについてもそれほど書かれているという印象は受けなかった。でも、相応の衝撃は受けた。まるで自分がかつて愛していた女から末期の手紙を貰ったような妄想もわいた。
 妄想。そのとおり。私は、林葉直子の年齢をいつからか勘違いしていことに気がついた。私と同年代だと思い込んでいたことに気がついた。知らなかったわけではない。でも、無意識にすり替えていた。
 無意識の理由はなんとなくわかる。衝撃の余波だ。一つは彼女のヌード写真集が出たときの奇妙な衝撃があった。メディア攻勢があったからいくつか目にしたがなぜかそれ以上見たくはかった。「謎の美女」シリーズとはわけが違う。彼女は謎の人ではない。もう一つは棋士・中原誠との不倫も、それなりに衝撃だった。彼女が不倫か、というのと、あの中原がか、という思いだった。中年の男の真実とはああいうものだろうとも思った。自分が凡庸な人生を歩んでいるのはなんかの恵みでもあるだろう。
 そうした衝撃から私は、できるだけ彼女に関心をもたなようにしているうちに、彼女の年齢を無意識に勘違いして同年代と思ってしまっていた。近年のやつれた相貌もそれを無意識に支持した。
 しかし、彼女は私より10歳近く若い。そりゃそうだと、20年くらい前の記憶を思い出す。そして、少し泣きたい気分になる。
 「遺言 最後の食卓」は私には痛ましかった。痛みはうまく表現されていないようにも思えた。そのあたりの自分の受容のなかで、がんがんと存在の根底に響くものがある。ああ、あれだと思う。私も些細ながら遺書代わりの自著を書いたとき、痛みはうまく描けず悪戦苦闘したなあと思い返す。でも、それを描きたいのは、ある種、なんとか愛情のようなものを伝えたい焦りのようなものがあるからだ。ああ、あれだと思う。
 まえがきがこう始まるのもわかる。

人は事故で突然死んだり、ガンになったり、白血病になったりと
いろんな試練が突然やってきます。

自分だけは大丈夫なんてことは、思い込み。


 そのとおり。そのとおりなんだけど、それが本当に伝えにくい。いや、どうしてそれを伝えようとするのかも、その渦中にいると困惑する。
 読んでいて意外に思えたことがいつかあるが、そのひとつは、「私は、なんで将棋が強くなったのかも不思議」と素直に書かれていることだった。たぶん、そうなんだろうと思う。そのことをあまり考えたことがなかった。
 たぶん、人はなにか、そんなふうになにか才能のようなものを背負ってままやっかいな人生の渦中に投げ出されるのだろう、といえばそうだが。
 彼女の声を聞くように読みながら、意外というか、彼女は女流棋士というのは違うものだなとも思った。将棋はある意味、彼女に偶然の産物だったのだろう。むしろ、料理や占いに関心を持つ彼女のほうがいっそう彼女らしい。
 重度の肝硬変という病状についても書かれている。改善もうかがえるが、かなり深刻だとも思う。率直なところはよくわからない。つい、そう思ってしまうのは、小康を続けて長生きしてほしいという願いが混じるからだ。
 なぜ病気に。それはこの本からよくわかる数少ないことのように思う。ウィルス性も疑えないではないが、飲酒と暴食の不摂生がたたったということでほぼ正解ではないか。2003年からγGDPが高かったらしい。肝臓を病んでいたのも2007年くらいからなので、もうけっこう以前からと言ってよさそう。そのなかで飲食と暴食は続いていたようだ。
 あまり書かれていないが、「日本の人じゃないんだけど」以外にも支えてくれた男性もいたように思えるが、その関係が今も支えているふうには見えない。そういう人がいたらよかったかというと、そこは誰もそうだが、人生というものの大きな謎に関わっていたなんとも言えない。
 あまり整理して書かれた本でないようだが、それゆえに、不思議に思えることもある。「◎聖書」という断章がある。

 なぜ私が辛子好きになったかというと、新約聖書に”からし種のようになりなさい”とかなんとか書いてあったから。
 作家の先生から聖書を読んでおくとタメになるよ、と言われて読んだからなんだけど、聖書にイチゴを食べなさいって書いてあったら、イチゴを好きになっていただろう。
 判断するのは自分なのにアホッな私。

 私はこういう呟きに深く感動する。林葉直子という人は「アホッな私」という以外にないんだろうと思うし、そこが愛おしく思えてならない。
 彼女は、たぶん、新約聖書を読み込んではいないだろうけど、その本には、そういう「アホッな私」のような人を愛おしく思って、その家をわざわざ訪問したり、また一途な「アホッな私」は小賢しい世事をこなす人より大切なのだと諭す人のことが書かれている。
 
 

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2014.04.02

「我愿意(我願意)」という歌

 ときおりふっと見知らぬ歌が心に寄って大きな衝撃というか感動というか何かを残していくことがある。歌というのはそういうもので、誰にでもよくあること、かもしれない。ただ、その歌にいつ最初に出会ったのかは覚えていない。「我愿意」である。
 「我願意」とも書く。音から「ウォーヤニー」と読むべきかは知らない。
 あるいは別の経緯で買った許景淳のCDにこの歌が入っていたのを聞いて、いつか心を離れなくなったのかもしれない。ただ、なぜこのCDが私の手元にあるのかはよく覚えていない。台湾の旅行で買ったものだろうか。CDの制作年は1997年とあるが、翌年私は台南を旅行していた。恋人に貰ったものではないというのは断じて言える今日この頃である。

cover
純・景淳 (台湾盤)
 そのCDは「純.景淳 Pure Cristine」とある。
 これ日本で売っているのかなと思ってAmazonを覗いて見たらあるにはあった(参照)。中古でとんでもない値段が付いている。他をさがすと、ITMSで1500円で売っていた。一曲のばら売りもしている。こちらはCDのカバーもAmazonのそれとは違うが、私がもっているのはこっちのほうで、このキリンの遊具の見える風景である。これ、どうも日本の風景らしい。どこなんだろうか。
 許景淳の「我愿意」だが、美しい。

 歌詞も見るとなんとなく意味がわかるようなわからないような気がしていた。
 先日、ふと、あれ今の自分だともっとわかるんじゃないかと思ったら、自分ではびっくりするくらいわかって、びっくりした。出だしの「思念是一种很玄的东西」。「东西」って先日ちょっと書いた「東西」ですよ。
 なんとか訳せるんじゃないのかと思って、中国語の勉強をかねてちょっと挑戦してみた。間違っているかもしれない。というのは、ネットに訳と称するものを見かけたのだけどピンとこなかったので。

我愿意
Wǒ yuànyì

思念是一种很玄的东西
Sīniàn shì yī zhǒng hěn xuán de dōngxi
思いはある種神秘的なもの

如影随形
Rúyǐng suíxíng
影が形に寄り添うようなもの

无声又无息出没在心底
Wúshēng yòu wú xi chūmò zài xīndǐ
声もなく息も立てず心に現れる

转眼 吞没我在寂寞里
Zhuǎnyǎn tūnmò wǒ zài jìmò lǐ
瞬く間に私を孤独に飲み込む

我无力抗拒 特别是夜里 喔
Wǒ wúlì kàngjù tèbié shì yèlǐ ō
私には拒む力も無い 特に夜は ああ

想你到无法呼吸
Xiǎng nǐ dào wúfǎ hūxī
あなたを思って息もできない

恨不能立即 朝你狂奔去
Hèn bu néng lìjí cháo nǐ kuángbēn qù
すぐにあなたのもとに向かっていきたい

大声的告诉你
Dàshēng de gàosu nǐ
声を上げてあなたに言いたい

我愿意为你 我愿意为你
Wǒ yuànyì wèi nǐ wǒ yuànyì wèi nǐ
あなたのためなら あなたのためなら

我愿意为你 忘记我姓名
Wǒ yuànyì wèi nǐ wàngjì wǒ xìngmíng
あなたのためなら自分の名前も忘れてしまおう

就算多一秒 停留在你怀里
Jiùsuàn duō yī miǎo tíngliú zài nǐ huái lǐ
一秒でも長くあなたの胸にいられるなら

失去世界也不可惜
Shīqù shìjiè yě bù kěxí
この世界を失っても惜しくない

我愿意为你 我愿意为你
Wǒ yuànyì wèi nǐ wǒ yuànyì wèi nǐ
あなたのためなら あなたのためなら

我愿意为你 被放逐天际
Wǒ yuànyì wèi nǐ bèi fàngzhú tiānjì
あなたのためならこの世の果てに追われてもいい

只要你真心 拿爱与我回应
Zhǐyào nǐ zhēnxīn ná ài yǔ wǒ huíyīng
あなたが真心から愛で私に応えてくれるなら

什么都愿意 什么都愿意 为你
Shénme dōu yuànyì shénme dōu yuànyì wèi nǐ
どうなってもいい どうなってもいい あなたのためなら

 訳してよくわからないところがあるだけど、それよりまずシチュエーションと背後の世界観がよくわからない。なさけない。というか、これ道教じゃんと思った。
 出だしのちょっと先に「如影随形」とあるのだけど、この部分、後で触れるけど他の人の歌だと、「如影随行」となっていることが多い。結論からいうと、オリジナルは「如影随行」でよいようだ。「形」と「行」は「Xíng」で声調上の違いもない。
 「如影随形」とあえて書いたのは、「純.景淳 Pure Cristine」の歌詞カードにそう書いてあったからだが、もうひとつ。「如影随形」は「にょえいずいけい」、親鸞や日蓮の文書なんかにも見かける熟語で、親鸞だと教行信証で「涅槃経言、善男子、大慈大悲名為仏性。何以故、大慈大悲、常随菩薩、如影随形」とある。仏教用語と言っていいかもしれない。結論からいうと、たぶん「如影随形」のまま、台湾仏教の偈で知られているんじゃないだろうか。
 そのあたりから、歌詞を考えると、いろいろ奇妙印象もある。というか先にも触れたけど、背景がよくわからない。
 個別には「我愿意为你 忘记我姓名」の感覚がわからない。「忘记我姓」だったら、中国システムへの反抗かなとか思うけど、「姓名」だからふつうに名前を捨てたいということになる。歌の主人公は有名人かなにかで名前に縛られているのだろうか。
 「失去世界也不可惜」や「被放逐天际」とか、孫悟空かよとも思うが、背景には七夕のような神話世界がありそうにも思う。乞巧節を背景にしているのだろうか。余談だがこの近年の中国の風習は戦後日本の影響ではないかと思う。
 許景淳の歌に戻る。歌詞と許景淳が実際に歌っている歌とでちょっと違いがある。「吞没我在寂寞里」の「里」は聞こえない。中国語の「里」とか「儿」の含みがよくわからない。
 「我愿意」の歌は、当然私は、台湾でできた歌で台湾人の許景淳の持ち歌かと思っていた。大ぼけでしたね。持ち歌というなら、王菲でした。王菲については知っていたつもりだったので、まいった。

 ユーチューブ映像の王菲の年齢はわからないが、冒頭に「王靖雯」とあるから1994年以前だろう。もっと前か。王菲というと広東語の歌手と思っていたので(中国語わかんないから、俺)、改めて普通話だとわかって聞くと、けっこうよい。
 というか、王菲、すげーよい。
 声質としては許景淳のほうがよいと思うが、映像のせいもあるんだろうが、日本や台湾のようなド演歌的な情感がない分、ぐっとくるというか、いや王菲すげーわ。
 王菲が歌うと、すげーフェミニンな歌のようにも思って、ふと思い返したのだが、これ、作詞作曲は男だよな、というあたりで、またぽか。作曲者の黃國倫自身が歌ってました。

 まあ、悪くないです。
 って、なんだよその上から目線はという気もするが、なんとなく黃だと日本の歌手のような感じがしてしまうというか、日本だったら誰? Shuí? 顔的には麻原さん?
 黃には最近の他のバージョンもあり(参照)。
 冗談はさておき、これ、元は男の歌だったのか?
 というあたりで、中国語の歌って、日本語みたいに言語上で男と女の刻印はない。もちろん、女の歌を男が歌うといううのは、美川憲一のようにあるんだが、って例がちょっと違うが。
 男で、もっとセクシーな歌手が歌うとどうなんだろうかとサーチしていたら、いや、またぽかぽかですな。知らなかったですよ。EXILEのATSUHIカバーがあるのを。聞いてみると、まあ、悪くないです。


EXILE ATSUSHI 我願意MV 投稿者 chunghsi

 あと、「いかないで」という日本語訳でJaywalkというグループが歌っているのがあったのだけど。





いかないでここにいて
それだけしか今はただ
言えないの
しらなかった気持に包まれて
いかないでそばにいて
それだけしか望まない
二人だけのこの世界に
一秒でも長くいたいから

 こういう歌唱があってもいいと思うけど、っていうか、俺のカラオケ、けっこうこれにちけーわとも思うけど、すまん、歌詞的に「これじゃなーい」感がぱねえっす。日本語が乱れてまいりました。
 「我愿意」は男、あり、だよなっと見ていくと、妙なものをめっけた。

 すげえ。
 イケダハヤト師、スキンヘッドにして歌を歌ってもPV500000は固いんじゃないだろうか。
 っていう冗談はさておき、この平安さん、すげーうまいと思いますよ。っていう時点で、この人知らなかったのだけど。日本だったら福山雅治とかに似ているような感じだけど、ヘアスタイルにはぐっと好感がもてます。
 誰? Shuí? ぐぐると、「歌手の平安氏、街角でキス」(参照)の記事がめっかる。

 中国のオーデション番組「中国好声音(The Voice of China)」に出場し有名になった歌手の平安氏。中国中央電視台の春節聯歓晩会にも出演し、人気が急上昇しています。その平安氏がこのほど彼女と見られるダンサーの朱潔静さんと街角でキスしていたところを写真に撮られました。しかし、本人は恋人同士であることを否定しています。  朱潔静さんは上海歌舞団有限公司に所属する中国国家一級俳優で、ダンサーです。(牟、高橋

 ウィキペディアにもある(参照)。
 平安さん、歌の素養もあってのことだけど、オーディション出かあ。
 さてさて。
 そもそも「我愿意」っていう歌はなんなんだろと思って、作詞者とこととかもちょっと調べたのだけど、長くなったので、この話はもういいでしょ。

追記(2014.4.3)
訳詞について詳しいご指摘をいただき、訳を検討しなおしました。ご指摘、ありがとうございました。

追記(2014.5.1)
 「我愿意为你 忘记我姓名」の部分だが、シェークスピアのロミオとジュリエットにある「Deny thy father and refuse thy name」からかなとふと思った。
 
 

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2014.04.01

ロシア政府はオバマ大統領個人を狙った特殊な制裁を発動した

 ウクライナ南部クリミアのロシア編入は国際法に違反しているとして、ブリュッセルで26日、米国と欧州連合(EU)は首脳会議を開催し、ロシアへのさらなる制裁を検討した。会議は共同声明として「エネルギー調達先の多用化を図り、ウクライナに隣接するEU加盟国による同国へのガス輸出を可能にするため、欧州のエネルギー安全保障の支援に向けた欧州と米国の協力を一段と進めることの重要性について意見が一致した」と発表した(参照)。
 共同声明からは具体的な制裁内容が読み取れない。これまでもプーチン大統領側近やロシア政府高官に対する資産凍結や渡航禁止などの制裁措置は取られていたので、これがさらに拡大されることは確実であるが、現実的な追加制裁は曖昧のままに留まった。
 弱いメッセージとなることを懸念してか、会議後オバマ米大統領は記者会見で、プーチン大統領が西側諸国を分断できると考えているなら大きな誤算であるとし、「ロシアが態度を改めなければ、同国の孤立は一層深まり、より厳しい制裁措置が発動される。これによりロシア経済にも影響がおよぶ」と述べた。だが、ここでも具体的な追加制裁への言及はなかった。
 今日のグローバル化した世界では、冷戦時代のような対立的な制裁は世界全体の経済停滞を招きかねない。制裁を科す側でも抑制が働く。翌27日には国連総会でクリミアの住民投票を無効とする決議が採決され可決されたが、中国やブラジル、インドなど有力な新興国を含む58か国が棄権に回った。そもそも決議自体が弱いものである。ロシアは名指しされてはいないし、法的拘束力もない。具体的な行動は伴わない。米国と軍事同盟を結んでいる日本ですら、もっとも弱い制裁しかロシアに科していない。
 ロシアもこうした西側諸国と国際世界の動向を見極めて対応している。国営ロシア通信(RIA)によると、ロシア外務省のアレクサンドル・ルカシェビッチ報道官は「当然、このような措置に対し対抗手段を講じないわけにはいかない。ロシア側も対抗措置を取った」と述べた(参照)。だがここでも実施した具体的な制裁については触れなかった。
 しかし西側世界では報道されていないものの、ロシア政府が実施した特異な制裁はすでにロシア社会では衆知となっている。この制裁にはロシアの民間の力も借りているからだ。どのようなものか。
 米国、特にオバマ大統領個人を標的とした、非常に強力な制裁である。ピンポイント攻撃と言ってもよい。オバマ大統領にウォッカを禁じるという制裁である(参照)。
 なぜこのような特異な制裁をロシア政府が実施できたのか。裏には、ロシアに事実上亡命した米中央情報局(CIA)元職員のスノーデン容疑者が所持していた機密資料の存在がある。この資料からロシアの情報機関は、オバマ大統領の個人的な弱点として、彼がロシア人に匹敵するウォッカ愛好家であり、毎晩ウォッカを煽っていることを割り出していた。そこから、ウォッカを失ったオバマ大統領が早晩、禁断症状に陥り、ロシアに屈すると見られた。

 なぜウオッカ禁止といった制裁が可能なのか、疑問を持つ人もいるかもしれない。これにはあまり知られていない背景がある。純正ウォッカはその化学的な特性にロシアの国家機密が関連しているが、通常、西側諸国で販売されているウォッカとして称している蒸留酒は単に純度の高いアルコールに過ぎない。
 オバマ大統領がそれなくしては激務に耐えられないウォッカは、ロシア国家が厳密に管理している純正品である。このウオッカにはソ連時代の化学技術によって特定のアルコール分子にロシア精神(スピリッツ)を刻印する独自の製法を経て作成され、独自のロシア人ルートでのみ販売されている。
 今回、この販売関与する民間シンジケートがロシア政府支持に回ったため、オバマ大領へのウォッカ禁止が可能になった。ただし、ホワイトハウスにはかつて、エリツィン大統領が寄贈した純正ウォッカが2本ほど残っていると見られ、現実的にオバマ大統領のウォッカ禁断症状が表面化するのは二週間後と推測されている。
 当初この制裁の公開を望まなかったロシア政府だが、ホワイトハウスが非正規ルートからの純正ウォッカを入手することを阻むために民間有志の支援を得たことの余波として、反オバマ大統領のアピールがロシア社会に自然な形で浸透してきている。

 いかにもロシアらしい巧妙な反撃制裁だが、このオバマ大統領個人を狙ったウォッカ禁止措置が裏目に出る可能性もあると国際政治学者イヤン・ブルマー氏は指摘する。「このロシア制裁が発揮するのは、純正ウォッカによるロシア人のジョークが通じている場合に限るのであって、オバマ米国大統領からジョークのスピリッツを奪ったら、禁酒のブッシュ前米国大統領のように洒落の通じない軍事行動に踏み出すかもしれない」と彼は懸念している。

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