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2014.03.26

とりあえず30日間ピンズラー方式で中国語を勉強してみた

 というわけで昨日だったが、ピンズラー方式による中国語の学習、30日間を終えた。
 なんでも20時間学ぶとそれなりにものになるという考え方(参照)からすると、とりあえず、そこには到達した。
 で、どうか?
 結論からいうと、よかった。やってよかったということ。日本人は初歩的なレベルでいいから中国語を学ぶべきだとまで思うようになった。
 英語を勉強している人も、中国語を勉強すべきだと思う。それは無理とか嫌だというなら、せめてピンインをきちんと学ぶべきだと思う。なぜか? 現代で英語に触れる人はいやでも中国人名や中国地名など中国語を英語にした単語に触れるだろうけど、あれ、ピンインがわかっていないと誤解してしまうからだ。
 いや自分、ほんとうかつだった。ピンインをローマ字くらいに思っていた。いやいや、あれはいちおうローマ字と言ってもいいのだけど、xiとかqiとかの音は、ラテン文字から連想しちゃだめなのな。この点は、英語国民にも言えることではあるけど。
 さて、とりあえず30日間ピンズラー方式で中国語を勉強してみて成果はどうかというと、まあ、ほんと大したことないなあと思う。
 フランス語を学んだとき、この時点(参照)では、同じく大したことないなあと思いつつも、それなりにフランス語を学んだという実感があった。今回はなかなかその実感もおぼつかない。
 じゃあ、無駄だったかというと、いやその逆で、ようやく中国語の入り口に立てた充実感がある。最初、なんじゃ?と思っていた中国語の音が、あのころに比べるとかなりくっきり聞こえる。町なかで中国語を喋っている人の声を聞いても、内容はわからないけど、音は聞き取れる感じがする。
 それでもなぜフランス語と中国語とでこんなに差が出たかというと、フランス語のほうは、英語と違う部分はあるにせよ、だからこそ、英語との対比で文法の体系は30日もすれば全体が見渡せるようになった。だから、他にも学習書や単語集を買ったりして、適当に自己学習ができる。習熟してなくても全体が見渡せた。
 中国語はそういかない。
 少なくとも僕にはそういかなかった。発音がまず思いがけず難関だったが、文法がいまだに皆目わからない。
 いやもちろん、中国語の文法と称する書籍をいろいろ見て回った。どれがいいかはわからないが、基本的に、どれも語法は書いてあるんだが、英語やフランス語的な意味での文法書が存在しない、としか思えない。
 もうこれはなんつう言語だろと思っていたのだけど、先日丁寧なコメントを頂いたのもきっかけではっとわかったのだけど、中国語というのは基本、前置詞句と動詞句の差が先験的にはない。「在北京」というのは、動詞句か前置詞句かというと、まあ動詞句だけど、前置詞句と理解してもかまわない。
 そのあたりから、うっすら、なんじゃこの言語を思った。
 たとえば自分の難関としては、「是」と「很」がある。「是」はあきらかに、英語でいうBe動詞的ではない。じゃあ、なにかというのがいまもってわからない。copula(連辞)の機能はもっているがそれだけではない。
 「很」は、英語でいう"very"の意味もあるし、ピンズラー方式でも基本そのように指導しているのだが、これ、"very"ではないな。「今天很热」というというのは、"very"でもあるのだけど、この「很」は主題提示のマーカーみたい思える。つまり、形容詞述語文におけるcopulaなのだろう。

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Why?にこたえるはじめての
中国語の文法書
 まいったなあ、なんだろこの言語と思いつつ学習して、それでもなにか一冊参考書が欲しいなと思って、「Why?にこたえるはじめての中国語の文法書」(参照)を買った。先の「很」の説明などもあったからだ。
 というあたりで、「你普通话说得很好」の「得」も同様のマーカーであり、これは形容詞述語文の主題に補文が埋め込まれている(NPを持っている・動詞句)のマーカーなんだろうと思う。英語なんかの文副詞のマーカーだろう。とかいうのだが、英語の文法には文副詞という概念はあまり明瞭ではない。
 つまり、「你说普通话」という文(S)が形容詞的に評価(判断)されるために、主題形式(NP?)で「你普通话说得」となり、これが述部で「很好」で受ける、となって、全体が「你普通话说得很好」なのではないか。先の参考書などを見ると、この「得」の構文は「程度補語・様態補語」となっている。
 自分としては、「你说普通话」がなぜ「你普通话说得」に変形されるのか、そのあたりの文法が知りたいのだが、皆目わからない。
 あるいは、以上のような変形の文法概念はないのだろうか?
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Basic Patterns of
Chinese Grammar
 参考書といえば、あと「Basic Patterns of Chinese Grammar」(参照)はためになった。英書である。英語国民がおかしやすい中国語の間違いをまとめたものであり、また英文法の視点から中国語を実践的に解説した本である。が、体系的にまとまっているわけではない。
 中国語のど初心者のわりに文法論的にはちょっと込み入ったことを書いてしまったが、自著にも書いたけど高校生のときに学校英文法で感じたもどかしさを、中国語の文書にも感じた。
 しかし、こうしたもどかしさは、初学者だからだろうなという楽観論もある。
 実際のところ、私は日本語ネイティブだが、日本語の文法がどうなっているのかさっぱりわかっていない。いや、もちろん、高校とかで学ぶ日本語の文法なるものは知っているが、あれ、正直言って、そもそも文法になってないでしょ。語法の説明くらないもの。つまり、その点では、中国語も日本語も同じ。
 というか、中国語の文法の感覚は、一般的には英語のようにSVOだとか言われいるのだけど、どうも日本語の省略表現とよく似ている。
 「私あした、台北行って、学生声援するよ」みたいなことは普通に日本語で言うわけだけど、これ動詞句のとこだけVOに入れ変えればそのまま、「我明天要去台北助威学生」とかなるのだけど、これで案外中国語なんじゃないのか?
 だんだん話がばらけてきたが、そういえば、中国人が喋る日本語の偏見的な表現に「~あるよ」あるよね。「わたし、勉強した、あるよ」とか。あの「あるよ」が何に由来しているかというと、「有没有」の「有」の感覚ではなかろうか。
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ビジュアル中国語・文法講座
&例文ドリル/基本の表現編
 まあ、もう少し学ぶと何かもう少し見えてくるものがあるんじゃないか。さて、何を教材として学ぶかなと「ビジュアル中国語・文法講座&例文ドリル/基本の表現編」(参照)が良さそうに見えたので、買ってみた。
 これ悪くないし、わりやすいのだけど、なんかいまいち、どこに向かって学んでいるのか自分のほうがわからない。
 結局いろいろ考えたのだけど、ピンズラー方式の第2フェーズに進むことにした。つまり、もう30日間、ピンズラー方式で中国語を学んでみようということ。英語で、音声中心で、ということ。できるかなあ。
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Chinese (Mandarin) II, Comprehensive

 
 

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2014.03.25

その問題で思った、もう一つのこと

 昨日の記事に含めようとしたものの、話がいつにもましてごちゃごちゃするといけないから避けていたことがある。この問題、黒子のバスケ脅迫事件で考えさせられた、もう一つのことだ。結論から書くこともできるのだけど、あえて、これを考えたきっかけ話からだらっと書いてみたい。
 きっかけは、ドミニオンである。
 ドミニオンというのは、カードゲームだ。自著にも書いたが、私はけっこうカードゲームをする。
 ドミニオンがどういうゲームなのかというのを、まったく知らない人に伝えるのは難しい。多分、ウィキペディアには解説があるだろうと覗いて見ると案の定あるのだが、まったく知らない人がこれで理解することはできないのではないだろうか。しかし、難しいゲームではない。小学生でもできる。これが、けっこう面白いのだ。
 ドミニオンをあえてごく簡単に言えば、トランプゲームのようなものだが、日本のトランプゲームにありがちなストップ系(早く上がった人が勝ち)ではなく、一種のお買い物ゲームである。領土に関するお買い物でもっとも得点の高い人が勝ちになる。
 つまり、富を最大に得た人が勝ちである。国家間の争いにも似ているが、同時に資本主義社会にも似ている。
 つまり、ゲームの目的は、富を最大限にすること、だ。
 いや、そのはず、だ。
 実際、このゲームを基本セットという基本の枠組みでやると、「富を最大限にすること」だけに専念した方針のプレイヤーがけっこう強い。ドミニオンを知っている人向けに言うと、地味に高価な貨幣カードを増やし手繰りをよくすれば、けっこう勝てる。これはある意味、ドミニオンの常勝公式だとも言える。ついでにいうと、資本主義社会の常勝公式の一つでもあり、華僑など本能的ともいえるように実践しているものだ、しかも二代をかけて。
 だが、ドミニオンというゲーム自体の面白さは、その戦略性にある。そこで、アクションとして、富の獲得の手順に別の多彩な手法を織り込むことができるようになる。
 当然問題になるのは、つまりドミニオンの基本の枠組みでまず問題になるのは、その常勝公式とアクションを駆使したプレイのどちらが優位かということになる。
 これもまた当然だが、常勝公式はつまらない。手が最適化されていてプレイの妙味がないからだ。必然的に、ゲームもまたそうした常勝公式をいかに崩せるかという問題意識が仕組まれている。アクションをどう巧妙に組み合わせるか。これを仮に常勝公式に対してアクションプレイとしよう。
 アクションプレイもまたしかしマンネリ化する。そこでドミニオンは基本の枠組みをどんどん拡大したり、崩したりして、アクションプレイを多彩にする方向に進化する。ゲームの枠組みが進化するのがモダンゲームの特徴でもある。
 当初の進化は、ゆえにバリエーションの影響を深くする「陰謀」、世界の拡大として「海辺」といった方向だった。
 が、これもある飽和点に達し、まあ、ドミニオンも飽きたなあという感じがしてきていたのだが、「暗黒時代」「異郷」あたりから、一段とアクションプレイが深くなった。
 ちょっと驚いたのだが、基本の枠組みである「富を最大化する」に対して、それまでは富を蓄積するというのが常だったのだが、アクションだけでも、結果的に富が達成できるようになった。
 ゲームの進化の要因は、先にも述べたマンネリ化があるが、もう一つは、ハラスというプレイである。ハラスメントの俗語だ。邪魔をすること。他のプレーヤーが富を蓄積するのを邪魔するということである。
 ちょっとドミニオン話に突っ込みすぎたが、いずれにせよ、ここまでは、こういう世界観がドミニオンにはあるということだ。
 ここまでは最大命題はゲームの目的性から「富を蓄積せよ」ということだった。次に「そのために戦略を駆使せよ」であり、「戦略には、他者の富蓄積を妨害せよが含まれる」ということである。
 私は先日までそう理解していたのだが、ぎょっとするような事態が起きた。
 ドミニオンは通常四人のプレイヤーで行うのだが、中盤から一人のプレイヤーに異変が起きた。ハラスだけに特化してきたのである。つまり、「自分はこのゲームに負けることは必然だから、他のプレーヤーの目的、それ自体を破壊させてしまえ」とするのである。具体的にどうやるかはさらにドミニオンに特化した話なんで、そういうことが可能になるとだけ理解してほしい。
 当初、私はその意図が見抜けなかった。
 通常のハラスが暴走しただけだと思っていたのだ。つまり、そのプレイヤーもいくらハラスをしても最終的には「富の蓄積」という目的を基本的な枠組みに置いているはずだと思っていた。一位ではなくて二位でもいいじゃないですかみたいな考えを採ると思っていたのだ。
 違った。
 彼はもはやただゲームの破壊だけがプレイ目的になっていった。
 そのことに気がついたのは、もはやゲームが破壊されたことを認めざるをえない時点になってからだ。私はある種呆然とした。そしてちょっと怒った。これじゃない!と思ったのだ。
 いや、これもプレイでしょと彼は言う。
 え?と思って、他のプレイヤーに発言を促すと(本来はそういうことをしてはいけないのだけどね)、いや、これもプレイでしょと言う。実際、もう一人の負けが決まったプレイヤーも報復的に破壊プレイに実際参加すらしていた。
 私の呆然には拍車がかかった。
 そこで私は、れいの黒子のバスケ脅迫事件の被告陳述を思い出したのだ。
 ああ、これだ。
 資本主義経済というのは、プレイヤー側からはゲームとして見れば富を最大限にするという目的が設定されていると言ってよい。もちろん、実際にはそれだけではなく、国家を作り、富を再配分するといったゲームも仕組まれてはいるし、それも本質的な枠組みだが、それはどちらかというえば、富を最大限する現実のゲームに必要なことだからだ。
 そのため経済学では、合理人を想定する。このゲームに合理的に参加するプレイヤーを仮定するわけだ。
 しかし、実際の人間の経済活動では、合理人は存在しない。
 そこで、合理人ではない非合理人も想定したらどうなるかという経済学も存在する。だがその場合でも、基本的に非合理人も合理人の補完なり、局所的な問題となる。もちろん、局所が重要なこともあるが。
 非合理人があってそれは、各プレイヤーが「富を最大限にする」という目的自体を破壊することが目的だとする異質なゲームを並行的に存在させる、というものではないはずだ。というか、どうなんすか?
 そのドミニオンについていえば、私は「富を最大限にする」というゲームをしていたが、二人のプレイヤーはもはや「ゲームを破壊すること」が目的のゲームをしていた。
 どうしたらよいのだろうか。
 どうしたらこれに防戦できるのだろうか。私はできるかぎりの智略を尽くして惨敗した。といっても破壊者より負けるわけでもない。
 ゲームが終わってみると、勝者はいた。当然、勝者が生まれる。一番巧妙なプレイヤーである。彼に聞いてみた。どう、これ?
 いわく、「読んでました(李牧の声で)」。
 僕が必死に防戦に切り替えるとき、こいつは、「ああ、このプレイヤーゲームを破壊しているな」と読んでその対応をしていたというのだ。
 どう防戦したの?
 いや、防戦じゃないっすよ。
 え?
 というわけで解説を聞くと、そのプレイヤーがゲームを破壊することで生じる利得が存在するから、それに賭ければいいということだった。
 私の言葉で翻案すると、ゲームの破壊者は破壊者として合理的にプレイしているから、読みやすい、というのだ。
 絶句した。
 その通りだ。
 ゲームが二人の対戦であれば、自滅を目的にすることはただのナンセンスである。三人であれば、自滅者と巻き添え二人だが、相対的に一人は勝者になる。その場合、巻き添えを避けるという防戦より、もう一方の巻き添えをゲームの破壊にたたき込めば、自分が勝利できる。これが四人だと、より戦略的に組みやすくなる。
 私が何をここで考えたかはもうおわかりだろう。
 この世の中もそうできているに違いないのだ。
 現実の社会は、合理人だけが存在しているのでなく非合理人も存在していて、それが補完している、なーんてもんじゃない。
 現実の社会は、その社会を破壊させることが目的のゲームのプレイヤーとして参加している人が存在し、そのやっかいに見える存在と活動が「富を最大限にする」ゲームの目的になるように結果的に支配されているのだ。
 簡単にいうと、この社会は、社会を破壊することが目的のプレイヤーが「富を最大限にする」ゲームの道具として組み込まれている。
 テーゼ的に言うなら、テロリストこそ社会勝者の道具なのだ。
 社会の破壊を目的として合理的に参加しているプレイヤーは、まさに社会に実際は認可されて存在している。
 黒子のバスケ脅迫事件で言うなら、ああいう嫉妬から破壊を求めるプレイヤーは、特異な存在でも事象でもなく、この社会のシステムの普通の顕現なのだ。
 だとすれば少数の勝者以外の参加者、市民の利得を全体的に向上するには、(1)破壊者を徹底的に粉砕する(自由主義を越えて)、(2)破壊者のプレイで利得を上げる勝者の存在を構造的に排除する、ということが求められる。
 そうしてみると、実際に現在の社会で実施されているのは、(1)破壊者を徹底的に粉砕する、という方策と、それでも破壊者を使って利得を上げる結果的な操作、の二つの均衡から成り立っていると言えるだろう。
 しかしそうではなく、(2)破壊者のプレイで利得を上げる勝者の存在を構造的に排除する、が正解でなくては、多数の利得は得られない。その正解を求めるべきではないのか。
 じゃあ、具体的にどうしたらいいかとなると、まあ、よくわからない。
 もっとも私が今頃気がつくようなことは、もっと頭のいい人が考えているだろうから、そういう人の研究を探して参考にするかなと思っている。それでも、いわゆる経済学やそれを補完する行動経済学でもダメだろうし、そもそもこういうのをモデルにしたゲーム理論(目的の違うプレイヤーが参加してゲームの破壊によって利得を得るゲーム)も知らない。
 ただ、こうは言えるだろう。
 この世界には「破壊者のプレイで利得を上げる勝者」が存在するということだ。破壊者は実際にはその勝者に間接的に操作されているということでもある。
 端折って言うなら、それは人々の感情をかき立て騒ぎのなかで破壊の熱狂(嫉妬)に巻き込むことで利得を得る人々であり(なぜならその情念で彼らは合理的に破壊活動をするようになるから操作しやすい)、さらに言うなら、「正義」の旗を掲げて実際には、破壊プレイの正統化を喧伝しそうした被操作者を結集させる人である。
 ニーチェは弱者の怨恨(ルサンチマン)・弱者正義を社会の善とすることに異を唱えた。だが、もう一歩進めるべきなのだ。嫉妬を含めた弱者のルサンチマンは勝者が弱者を操るための道具なのだ、と。この道具を無化しないかぎり、弱者の利得は実際にはない。
 
 

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2014.03.24

心に引っかかっていた、そのこと、その一つ

 なんとなくブログを書かない日が続いたが、ネットから消えたわけでもなく、それなりにこの日々だらだらとツイッターには書いていたりした。何も書くことがないわけでもない。ということで心に引っかかっていた、そのことを少し書いてみようとかとも思うのだが、そう言い出してみて、やはり気は重い。
 その一つは、れいの「黒子のバスケ」脅迫事件である。
 「黒子のバスケ」というアニメ(実は私もたまに見ることがあるし、コミックも持っていたりもする)と簡素に説明をするにもどうするかなと思って事実関係を見直そうとニュースを見直す過程で、早々にウィキペディアに項目があったことを発見した(参照)。事件を知らない人で知りたい人がいたら参考にするとよいだろう。
 当初このニュースを私が聞いたとき、作者に個人的な怨みのある人物の犯行ではないかと思ったが、少し関心をもっただけでそういう印象は消えた。むしろ、なにか社会的なメッセージ性の強い、テロにも近い事件ではないかとの直観があった。だからこそか、その否定的な精神性にあまり接近したくないと思い、以降あまりニュースを追っていなかった。
 しばらくして容疑者が捕まった。大阪市東成区に住む36歳の男である。ふと気になって「黒子のバスケ」の作者の年齢を調べてみると32歳であり、まったく同年齢というわけでもなかった。報道された犯行理由は、成功した他者への嫉妬ということであった。であれば、私がなお関心を持つような事件でもない。そのような不定形な嫉妬にはなんら解決策もないことはわかりきったことだからだ。いや、それでよいのだろうか。
 やや不自然に抑え込んだ関心には滲むような無意識のひっかかりがあるものだ。その正体がうっすらと見えてきたのは、「黒子のバスケ」脅迫事件初公判での被告冒頭意見陳述だった。これがネットに伝聞としてではあるがおそらくかなり正確に掲載されていた(参照参照)。一読して圧倒された。なによりその動機として語られる内容が異様だった。


 動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
 ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。

 奇妙な話のようでもあり、「秋葉原通り魔事件」のように誰かを特定しない通り魔に近い事件として概括できるかもしれない。「社会的安楽死」という彼の術語もその印象を支援する。しかしこれは通り魔事件ではないな。
 「人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたい」というのは、一つの形式として神学的な神義論ですらある。
 このあたりで、自分の心のなかに重苦しい石のようなものを感じる。おそらくこれはそれなりに神義論なのだから、神学に志すものなら、正統な回答をすべきではないのか? 私にそれができるだろうか?
 できない。私も彼と同じ理不尽さを世界に感じて生きて来たからだ。次の表現はまさに私が言いそうなことでもある。

自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。

 私も30代を過ぎたころ「人生オワタ」状態になった。生きる気力も湧かないような事態もあった。幸い他者のもめ事に巻き込まれていたので、自分の人生を忘れて過ごしていた。そのあとは、自殺するほどの意義も自分の人生に感じられず、死ぬまでの暇つぶしに自由に生きようと思った。というか、それまでの人生を両手一杯に放り出したときに、自由を感じた。そのことが奇妙な転機となったのだがそれは自著に書いたとおり。
 彼のほうが私より、そうした人生への直観は優れている。引用を長くするのもなんだが、この文章はある種の感動をもたらす。

しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。自分は犯行の最中に何度も「燃え尽きるまでやろう」と自分に向かって言って、自分を鼓舞していました。その罰によって30代半ばという年齢になるまで何事にも燃え尽きることさえ許されなかったという意識でした。人生で初めて燃えるほどに頑張れたのが一連の事件だったのです。自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。

 好意的に考えれば、生を燃えるほどに頑張れる何かが嫉妬事件でさえなければ、彼にはなにか別の人生の転機があっただろう。
 社会的に見れば、そのほうがましである。つまり、私のような凡人になり、たまに罵倒コメントをいただくくらいが関の山のブロガーになりさがることができたはずだ。

カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。

 恐ろしいことだが、彼はその高らかな自嘲のなかである勝利を得ている。彼はその神義論において絶望をもって神に勝ったと言ってもよい。どうです、神様、私の不幸があなたの義にまさったでしょう、と。
 結局どうなのか?
 それでいいわけはないなあ。
 神義論とか言い出さなくてもよいが、私たち市民は、彼が提示する絶望の義には勝たなくてはいけないと思う。
 もちろん個別的には、法はこの事件にきちんと凡庸な罰を与えるだろうし、そのことにはなんら異論があるわけでもない。山手線が日々運行され、毎朝菓子パンがコンビニ店舗に届くのと同じような社会の仕組みというだけのことだ。
 だが、市民社会としては、絶望の義は打ち砕かれるべきだろう。「キモブサメン」や「同性愛者」が「人生オワタ」とならないように生きられる社会を作っていかなくてはならないはずだ。
 具体的にどうしたらよいのかというのは、率直に言ってわからないなあと思うが、理路としては、失敗者から成功者への嫉妬をどのように解体するかということだから、「成功」の意味、つまり、社会的な成功の意味付けを、市民が組み替えていけばよいのだろう。
 とすれば、社会的な成功者ではない凡庸な市民が、それなりに愉快に暮らして、自然が与える死を受け入れるまで生きていけるような事例を地味に重ねていけば、ある量の臨界で質が変わるのではないだろうか。
 
 

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