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2014.03.09

ピンズラー方式による中国語学習14日目の雑感

 ピンズラー方式による中国語学習は14日目。毎日欠かさずであれば15日目であるはずだったが、忙しく疲れた一日があって、休むことにした。フランス語を学んでたときは、大晦日も正月も一日たりとも抜かすことはなかった。が、そこまでの気力はもうない。それと、こうした感想は、とりあえず当初の目的で30日で書くはずだったが、いろいろ思うこともあるのでざっと記しておきたい。
 まず、慣れてきた。中国語の音や会話に慣れてきたのである。
 言語の学習というのは不思議なもので、ただ自然に慣れるという部分がある。特に音だけを頼りにしていると、音に慣れる。
 フランス語の時でも感じたが、今回の中国語ではさらにその印象は深かった。特に、聞き取れない「変な」音も、次第に自然には聞こえるように変わる。脳の無意識の学習があるのだろう。
 それと似たことだが、音から漢字が浮かばなくても、ある程度耐えられるようになったことだ。それでもyàoとかyǒuとか、知ってる漢字なんだろうな、要と有だろうなという思いは去らない。つい調べる。何しているんだろうか、自分?と思う。が、そのあたりもうちょっと調べていったら、ピンズラー方式でマンダリン(普通話)を学ぶ米人も同じように思う人がいるのか、漢字の書き下しを見つけた。まあ、そうだよね。というわけで、書き下しはレッスン語の確認に使うことにした。
 というわけで、できるだけ聞いた音から入る。漢字を読むことを先行しない。
 おそらく漢字を読むという態度で中国語に接するとフレーズがわかりにくいのではないか。「我不知道」というとき、日本人だとどうしても四文字熟語みたく見えてしまう。
 しかし音で聞くと、微妙な間の取り方で文法構造がはっきりしてくるし、Wǒ bù zhīdàoというふうに聞けば、I don't know.という構造の感覚は浮かびやすい。
 文革で、普通話をピンインにしてしまえと彼らが考えたのも、そういう理由もあるかもしれない。
 中国語を学びつつ思うことには、適切な補助学習書がみつからないこと。
 フランス語の学習のときは、15日目くらいの時に、補助用に学習書をいくつか買ったし、辞書も買った。今回も、自分という人間はそうするだろうなと、いくつか手にしたのだが、なんとも歯がゆい。これという補助学習書がまったく見当たらない。とりあえず英中辞書は買った。
 中国語の文法書というのはいろいろあるし手にしたのだが、自分が見た範囲では、どれも語用説明にはなっていても、文法になってないなあという感じがしてならない。もちろん、ここでいう文法は、結局自分の固定概念が印欧語の文法に拘束されているからだ。
 では、初期の生成文法的にS→NP+VP(文は名詞句と動詞句からなる)みたいに説明したものがありそうにも思うのだが、見当たらない。SVOといった部分はわかるのだが、問題は補語や語形成の規則や拘束(Binding)が知りたいのだが、わからない。
 しかしそれは無理というものなんじゃないか。
 そもそも、中国語というのは印欧語ではないのだから、それをモデルにした文法体系で考えるのが間違っているのだろう。逆にフランス語の文法が比較的楽にわかったのは、印欧語文法のメタ知識があったからだろう。
 このあたりから、ちょっと奇妙な疑問が浮かぶ。
 そもそも中国語に文法ってないんじゃないのか? いや、ひどいことを言っているなあというのは自覚しているし、あるいは無知を晒しているという自覚もある。
 その疑問がもわっと浮かんできたのは、フランス語を勉強したとき、ある程度学習が進むと、字引を使えば、デカルトでもパスカルでも読めるという体験があったからだ。日本の歴史に対応させると、江戸時代初期ころのデカルトやパスカルのフランス語というのは、それなりに現代フランス語の圏内にあり、フランス語、というか、オイル語というか、一応400年くらいの単一性みたいなものがある。逆に英語だとノルマン征服でピジン語化的な大きな変化をしている。
 そういう歴史性がどうも中国語になさそうに思える。
 もちろん、私たちの大半が今高校とかで読まされていた漢文というのは、中国語の一部ではあるのだが、これらと現代中国語との連関みたいのは、どうもフランス語ようにはなってないんじゃないのか? 清朝時代あたりに、一種、ピジン化して現代の中国語ができているんじゃないのか? もうちょっと言うと、五・四新文化運動のころに事実上人工的に創作されたのではないか。近代日本語と同じように。
 近代日本語は、丸谷才一などがずけずけと言っていたが、その調子を真似るなら、西洋言語の翻訳下し文を変化させて作成された言語であり、その意味で、いざとなれば、西洋語に直せば日本語がわかるようになっている。その最たるものが、我らの日本国憲法で、あれが何を言っているかは、原文に当たればわかるようになっている。英文な。
 つまり、実質的に近代日本語の文章が意味をなしているかは、印欧語に翻訳できるかにかかっているともいえる。まあ、極論だけど。
 ところが、近代中国語の場合、そういう参照規範言語をもっていないのはないだろうか。あるいは、ある程度までは日本語がそうだったのだろう。どうやら共産党も成立当時のリンガフランカは日本語だったようだし。
 現在の中国語がそうした参照規範言語としての日本語の影響が残っているかというと、どうもなさそうには見える。
 では、どうやって現代中国語は、文法構造の規範を持っているのか?
 実は、ないんじゃないか? もっと丁寧にいうと、五・四新文化運動が継続しているのではないだろうか。
 まあ、そのあたり、自分の中国語の能力が上がればわかってくるんじゃないかという期待がある。
 もう一つ、そういう疑問を持つのは、さすがにここまでconjugation(活用)のない言語というのは何か異常な感じがするからだ。
 さすがにこれでは日常言語として異常だというのが、児化の背景にあるだろう。あと、我阿という表現を見たときも、え?と思った。
 もしかすると、漢字で表現するために、conjugationが禁止されているという言語が中国語なのではないだろうか?
 もっと探ると、切韻が文書化されときに、こういう変な言語になることが運命付けられていたのではないだろうか。
 ちょっと話がずれるが、先日、人混みのなかを歩いていると、中国語らしき会話が聞こえるので、これはどの中国語だろうかと耳を澄ましてみた、というか、デカイ声だから澄ますほどでもないが。結論からいうと、わからない。捲舌音の響きがないので、普通話ではないんじゃないかくらい。
 で今回、参考書の一環で、ちょっと広東語と台湾語の本も覗いて見たのだが、初めて見たわけではないが、ある程度普通話に馴染んでから見ると、圧倒的なくらい別言語なんで驚いた。先日のエントリで広東語話者さんからのコメントを貰ったのだが(谢谢你!)、すごく納得しましたよ。
 これら(広東語や台湾語)も一応漢字で表現できる。その意味では、切韻が文書化された歴史みたいのはあるんだろう。
 しかしなあ、普通の言語変化なら、どこかで、conjugation(活用)や格変化が生じるもんじゃないかと思って、ふっと唖然としたのだが、そういう逸脱言語が古代にあって、それが百済語の基礎だったのではないか? そしてそこから漏れてきたのは日本語の古型で、そこにヤポネシアというかポリネシア系の語彙を嵌めたのではないかな。
 ちょっと話を戻すと、切韻的な漢字対応の規範性が広義にその後の中国語を決めたのではないか(つまり政治的に)。
 そういう点で普通話の音韻体系を眺めてみると、捲舌音あたりに奇妙なComplementary distribution(相補分布)みたいなものがあって気になった。これ、つまり、qとchiというのは、phoneme(音素)としては独立してないんじゃないかという疑問がちょっと浮かんだわけだ。もちろん、La linguistique synchronique(言語の共時制)として見ると、体系としては、phonemeとしてよいのだろうが、それにしても、これはなんだろと思った。
 これはたぶん、捲舌音が普通にできない中国人のためのredundancy(冗長性)なんじゃないか。
 別の言い方をすると、そもそも普通話というのは、捲舌音ができない民族でも漢民族になれるようなredundancyを持っているんじゃないか。(基本は清朝だろうなあ。)
 その他も、たぶん中国語の会話というは、漢字を離れると、文脈依存的に冗長性があって、tonal(音調)が合っているなら、それなりに変な発音でも通じるようにできてるんじゃないか。
 もうちょっというと、実際のところ、ピンイン(現代版切韻)で区別が付くのは、二語以上の語で、その二語の情報の複雑性が文脈と合わさって、冗長性を確保しているんじゃないか。知ではなく知道、白ではなく明白、というように。
 簡単に言うと、中国語というのは、functional(機能的)な語と基本語以外は、二語構成にせざるをえないんだろうな。
 ま、そんなことを思って、中国語の勉強を続けています。
 我阿想這様的事情、並継続学習普通話。(日体w)
 
 

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