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2014.12.29

親称二人称とか

 ピンズラー(Pimsleur)でドイツ語を勉強していて、同じくピンズラーのフランス語と比べて、そういえば、親称二人称のレッスンが二言語では随分違ったように感じられた。ドイツ語のレッスンのほうが多かった。もっとも、一般的にピンズラーのレッスンはどの言語も同じと言われているが、フェーズ4からは随分違う。
 フランス語でも親称二人称で話すというレッスンがある。たしかフェーズ2あたりから含まれていた。ただ、どちらかというと、これまで敬称二人称でレッスンしてきましたが、ここでは親称二人称だとこうなりますよ的なレッスンで、フェーズ4まで多くひっぱるふうでもなかった。
 ドイツ語のほうはそれに比べて、けっこう親称二人称で話す(duzen)レッスンが多かったし、"duzen"という言葉も出て来た。特にフェーズ4では目立った。"Können wir uns duzen?(Duで呼び合いましょうか)"というレッスンすらあった。
 フランス語のほうにはそういうふうに親称二人称にしましょうか?("On pourrai se tutoyer maintenant ?(これからTuにしましょうか?")みたいに切り替えるレッスンはなかったように思う。そもそも「親称二人称で話す」"tutoyer"という単語も出て来なかった。
 フランス語の場合、「親称二人称で話す」"tutoyer"であっても動詞の活用自体は、音声の点ではそれほど難しいわけでもないので、そうしたレッスンが少ないのかもしれない。それでも、ドイツ語の親称二人称とフランス語のそれは、ちょっと違う印象を受けた。ドイツ語で話すという会話の訓練には、"duzen"のニーズが高いのではないかという印象もあった。
 たしか、ブラームス(Johannes Brahms)とクララ・シューマン(Clara Josephine Wieck-Schumann,)が敬称二人称の関係"siezen"だったのが、後年"duzen"の関係になったという逸話を聞いたことがある。当時はけっこう厄介だったかもしれないし、彼ら特有の問題もあったのかもしれない。その点、現代では学生同士なんかは、最初から「ため口」ふうに"duzen"だという話も聞いたことがある。まあ、よくわからない。
 会話らしい会話は親称二人称のほうが自然か、というと、傾向としてはそうなのかもしれない。自分の場合、独仏人と親称二人称で話す機会なんて一生ないだろうし、小説とか映画で二人称が違うなあとと思うくらいだろうから、"dozen"については、あまり乗り気のするレッスンでもなかった。
 考えてみると、"duzen"は日本では「ため口」に近い。ただ、日本語の場合、それが敬体と常体と必ずしも重なっているわけでもない。ただ、敬体は"siezen"に近いようには思う。
 英語にも、現代ではもう、親称二人称は存在しない。聖書の主の祈りとかに、"thy kingdom come"とか出てくるけど、"du"にあたる"thou"自体はそこに出てこない。私はネイティブじゃないのでよくわからないのだが、"thou"は現代では「汝よ!」みたいに、古めかしく重々しい感じではないんだろうか。
 それに対して、ドイツ語の"du"というのは親子関係でも使うようなので、ドイツ人の信仰における神の、祈りでの感覚もそれ近いのではないかと思う。主の祈りでも、昔は"Vater unser, der Du bist im Himmel, geheiligt werde Dein Name;"というふうなっていた。ただ、現代ドイツ語だと、"Vater unser im Himmel, geheiligt werde dein Name."として、"du"自体は消えているみたいだ。
 "du"といえば、ブーバー(Martin Buber)の"Ich und Du"(我と汝)が連想されるが、日本語の「我と汝」には、Duの親愛感は感じられない。英語だと、"I and Thou"なので日本語と同じだろう。フランス語だと、"Je et Tu"なので甘い響きがある。
 ブーバーは世界そのものもこの関係のなかで見た。"Ich und Du"というのは、二項というより、"Grundworts Ich-Du"「根源語の我汝」というふうにそれ自体が一体であり、対するのは、"Grundworts Ich-Es"「根源語の我それ」になる。
 この"Es"は「それ」ではあるのだけど、独仏語を学んでしみじみ思ったのは、これは英語の"it"とは違うなあということだ。
 独仏語に名詞に性があるから、「それ」として受けるときも、性を含むので、逆に、"Es"というときは、中性名詞になる。
 こうした名詞の性は、ただ、言語システムとしての性であって、人間の男性・女性とは異なるとも言えるのだけど、ハイデガー(Martin Heidegger)が"Das Man"「世人」というあえて中性名詞で変な造語を作っていること思うと、人間の性の区別意識は多少含まれているようにも思う。
 ついでに言うと、ドイツ語の"Man"はフランス語の"On"とも少し違う。このあたりの連想でいうと、存在文がドイツ語では、"Es gibt"になり、"Es"が現れる。"Es geht mir gut. "もけっこう奇妙な感じがするが、こうした"Es"を見ていると、フロイト(Sigmund Freud)が無意識をそう名付けた語感がなんとなくわかる。ちなみにフロイトの文脈だと"Es"は、"Das Es"になり、ハイデガーの"Das Man"に近い印象になる。さらに蛇足になるが、フランス語の存在文"Il y a"の"il"はちょっと不思議な「彼」ではあるのだろう。これは、レヴィナス(Emmanuel Levinas)が "Il pleut"(雨が降る)や"Il fait nuit"(夜になる)を連想しているように、<ある>という非人称性というは、フロイトの"Es"に近いようにも思える。
 話をブーバーに戻して、フランス語の場合は、中性名詞がないので、" Ich-Es"はどうなるかというと、"Je-Cela"になる。英語の"it"的なものが"ce"で受けるのはわからないではないので、それを"Je-ce"としない分、"cela(あれ)"は"ceci(これ)"と意味の対立をするので("celui-ci et celui-là"のように)、日英語と同じようにドイツ語からはそれてしまう。
 特に結論とかはないのだけど、ハイデガーにしてもブーバーにしても、フロイトもそうかな、彼らはドイツ語の言語のなかで考えているんだなあという感じがするし、ドイツ語から受ける会話・対話の印象の根底にも関連しているようにも感じられる。
 
 

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2014.12.28

ドイツ語・ピンズラー(Pimsleur)のフェーズ4を終えた、ふうっ

 ドイツ語・ピンズラー(Pimsleur)のフェーズ4を終えた。ふうっ。終えたのは昨日だった。奇妙な感慨があった。「ああ、なんとかやった」というより、「振り逃げしちゃったかなあ」という感じだった。

cover
German IV,
Comprehensive
 ピンズラーの学習は、基本的に最低限一日のレッスンは30分だが、実際にはフェーズ2くらいからは、少し復習したり、あるいは、やりながら聴き戻ししたりということがあって、一日に1時間はかかるだろう。
 フランス語の時はなんとかそれでやって、しかし、十分に出来た感じはしなかった。なにより、ピンズラーは音声中心なので正書法の学習は、簡単なリーディング以外は教材に入っていない。いちおうごく基本の語彙とその読みはできるので、それでいいとも言えるが、その後、ほぼ一年間、Duolingoをやってみると、フランス語は正書法がとても重要なんだろうと思うようになった。
 逆に言えば、異言語は、とりあえずピンズラーで入門したらあとはDuolingoでじっくりやってもいいし、率直に言えば語学学習はDuolingoだけでもいいのではないかとも思う。ただ、今後自分がそういうふうに新しい言語を学ぶかというと、やはりピンズラーからは入るだろうなとは思う。たぶん、イタリア語もピンズラーから学ぶだろうと思う(ええ)。
 ドイツ語のフェーズ4を終えて、次はロシア語をミッシェル・トーマス(Michel Thomas)で学ぼうと思う。すでに基本のセットは買ってある。
 一応大学でロシア語を勉強してあの筆記体で発狂しそうになったわりには(日常英語を使う人がロシア語の筆記体を使うと普通に発狂するんじゃないか?)、もう完璧にロシア語のことは忘れているので、少しなんとかしたいというのがある。もちろん、ミッシェル・トーマスを試してみたいというのも大きい。
 思い出すと、ドイツ語も当初はポール・ノーブル(Paul Noble)で学んで、「うぁ、このメソッドはなんて簡単で、しかもドイツ語って簡単だ」と思ったものだったが、いえいえ、ピンズラーでやり直してみて、とんでもない勘違いでした。ドイツ語は難しかった。発音もナチュラル・スピードだと脱音が多いし、子音の連続なども聞きづらい。
 フランス語は英語と違うけれど、統語の感覚は英語によく似ているし、言葉も英語と被っているのでわかりやすい。もちろん、すごく違っているところや、似ていて非なるところも多いといえば多い。これに対して、ドイツ語は、1500年くらい前に英語と同じだったせいもあり、その点ではよく似ているし、発音も最初はとっつきやすい。
 ところがドイツ語は、ちょっと踏み込むと、なんというのか、英語やフランス語の統語の感覚をいったん捨てないとダメなんだな、というのがわかって、これはけっこう絶望の壁という感じだった。それでも半年近く毎日やっているとそれなりに慣れてくる。というか、ああ、外国学んだなという感じがした。それでもいまだに"Heute lerne ich Deutsch."の語順は変な感じがする。
 中国語(北京語)をピンズラーで学んだときは、教材が音声中心なんで、しかも日本人として大半の漢字は知っている(私は旧漢字も知っている)ので、復習がてら、要点は書き起こしした。この手法がよいんじゃないかと思って、ドイツ語でもやっていたが、フェーズ3の半ばくらいでクラッシュした。無理。そこで、もうどうにでもなれ的にとにかくフェーズ3を終えることにした。
 さてフェーズ4が終えられるものか。やけくそで進めて、まあ、振り逃げ的に終えた。でも、終えたには終えた。けっこうドイツ語が自然に聞こえるようになった(理解できるわけでもないけど)。振り逃げでもいいやと思えるのは、Duolingoでドイツ語は続けていくので、こぼしたところはポツポツ拾っていこうと思うこともある。
 ドイツ語は気楽に効率よく学ぼうと当初は思っていたけど、やってみた感想を言えば、ドイツ語と限らず、異言語を簡単に学ぶということは、原理的には不可能なんじゃないかと思うようになった。
 逆にいうと、Duolingoがいい例だけど、誰でもコツコツやり続けていけばある程度習得できるのだろうと思う。もちろん、語学の才能とかいうのも人によってはあるのだろう。
 ドイツ語を学んで、ある程度予想がついていたが、ドイツにとても親しみが湧いた。そして、自分がどうなるのかなと自分を他人のように見ていると、だんだんクラッシック音楽にぬめり込んでいった。以前はそれほど好きでもなかったブラームスが好きになり、ヴァーグナーも好きになった。ベートーヴェンはいっそう好きになった。という感じで、そのオマケで『のだめカンタービレ』にぬめり込んだ。
 やっぱ日本みたいに西洋風に近代化した国の学生だと、英独仏の3か国語は普通の教養の範囲で学んだほうがいいんだろうと思う。まあ、これは議論をするとめんどくさいんだけど、まあ、そう思うようになった。
 ごく初歩でもこの3か国語を学ぶと歴史や文化への理解が深まる。これに当然というのもおこがましいが、基本の古典ギリシア語とラテン語を学んだほうがいいだろう。と、言ってはみたももののまあ、現実的に現在の大学生に勧めるのは難しいだろう。
 ドイツ語と音楽の延長でいうと、イタリア語を学びたくなった。たぶん、来年、ロシア語に適当にめどがついたら、ピンズラーで始めるんじゃないかと思う。まだ決めていない。イタリア語を学びたい理由は、クラッシック音楽や諸芸術の感覚がイタリア語に結びついているのが感覚としてわかってきたからだ。あと、フランス語とイタリア語と混乱しなくなりつつあるようにも思う。
 ドイツ語を学んでフェーズ3あたりで、フランス語はDuolingoで続けたが、北京語の学習は断念した。英語も苦手なので日々それなりに勉強していたが、これも中断した。多言語を使いこなせる人もいるが、自分の場合は学んでいるときは、基本的に一つに絞ったほうがいいように思えた。(おかげで、英語の発音がドイツ語みたいになってしまった。)
 そうして中国語と少し距離を置いてみると、中国語の場合は、独仏語とは異なりあまり歴史・文化は結びついていないと思う。歴史・文化的な部分は漢文に結びついているようにも思う。その意味では、今後、漢文をどうやって勉強しようかなとぼんやり思っている。白文を現代北京語の発音で音読してもいいんだろうとも思う。
 思ったことをごちゃごちゃと書いてみたが、ドイツ語フェーズ4で、ドイツ文化的な側面の理解はどうだったか。教材的には、フランス語や北京語とはちょっと違って、分量が少ない印象は受けた。ドイツ語のフェーズ4では、自然や環境、身体の不調といった表現が多かった。もっと芸術面があるかと思ったが、教材的にはあまりなかった。
 そんななかで、はっとしたのは、ドイツのは二つの海がありますという説明だった。え?
 フランスと違って海は北部に面しているだけだろうと思ったのだが、どうも、ドイツ人にしてみると、北海とバルト海はかなり明確に異なる海らしい。
 まあ、そこまでは主観の問題もあるかもしれないが、ドイツ語から見て、うぁあと思ったのは、北海は"die Nordsee"でバルト海は"die Ostsee"で、それはそうなんだが、海自体は"das Meer"で、北海は認識上は"das Meer"みたいだ。
 ただ、このあたりの感覚はよくわからない。フランス語と英語の連想からもわかるように、"das Meer"は"la mer"だが、"die See"は語源的には"the sea"だけど意味的には「湖」で、ドイツ人にしてみると、北部に面している海は、"das Meer"よりは「湖」に近い感覚があるじゃないか。ただ、歴史的な経緯で入れ替わっているだけで、「湖」の感覚とは違うかもしれない。それでも、"das Meer"とは区別されている。
 僕は地中海文明が好きな人で(食事もそう)、あまり西欧に関心なかったが、独仏語の初歩を学んでから西欧の地図を見ると、なんか随分、印象が変わった。
 
 

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2014.12.26

finalvent's Christmas story 9

 先日、「サイエンティフィック・エンカレッジメンツ」のキャンプでした雑談をここでもしてくれと古い友人から頼まれました。本当に雑談にすぎないのです。みなさんが取り組んでいらっしゃる「フィールド」プログラムのマイクロビジネスに役立つかどうか、わかりません。役立つといいと思います。前置きはそのくらいにして、話に入りましょう。
 みなさんはこれを見たことがありますか? ちょっと振ってみると何だかわかります。こんなふうにリズミカルに振るのです。そう、そうです。こんな感じ。踊りたくなります。この国のサンバでおなじみのショカーリョのリズムですね。木製なのですこし優しい響きがします。
 すみません。冗談です。
 本当は、これは中国語で「スアンパン」と呼ばれる計算器具です。似た仕組みは古代ローマでも使われていました。中国にはいろいろな種類があります。これは中国から日本に伝わり日本で改良されたものです。日本では「ソロバン」と呼ばれています。プロジェクターで大きく表示してみましょう。
 竹の細い棒に木製の玉が通してあります。この玉はこうして指で1ポジションだけ動かすことができます。
 これでどうやって数字を表現し、どうやって計算するのでしょう?
 まず、直観的にわかるように、この一列が数字の桁を示しています。一つの桁には、上部に1つの玉、下部に4の玉があります。
 下部の玉を1つずつポジションを動かすことで、4までの数字が表現できます。4で限界がきて、上の玉を1ポジション動かします。上の玉は5を意味しているのです。おっと、5になったら、下の4つの玉はリセットされます。
 5進法と言ってもいいのですが、5進法の数字表現なんて不思議だと思いますか? いえ、私たちが現在でも使っているローマ数字もこれに近いものです。5の玉が V だと考えてください。これに1の玉の I が3つ付くと VIII で8になります。桁が上がると X になります。
 ただし、ローマ数字だと4は玉4つではなく、 IV ですし、9は IX です。たぶん、3つ並んだ I と、4つならんだ I は誤解しやすいからなのでしょう。これが I ではなく、ソロバンの玉であれば、3つと4つのは、想像上でも、それほど誤解しません。ここで「想像」というキーワードにちょっと心を留めておいてください。
 ところで、なぜ古代人は5進法で考えたのでしょう?
 考古学者がどのような答えを示しているか私は知らないのですが、私は、これは、人間の指から発想されたものだろうと思うのです。ほら、親指が上の1つの玉、その他の指が4つの玉に見えますね。
 すると、私たちは両手を使って99までカウントができることになります? どうやるか、わかりますか?
 わからない人、手を挙げてください。ああ、いますね。では、周りにいる手を挙げなかった人になぜか訊いてください。どうぞ。
 3分ほど私は沈黙しますよ。


 はい、3分。どうですか。まだ、わからない人、手を挙げてください。いません。いいですね。知識というのは、こうして伝わるものです。
 次に計算の原理を説明しましょう。まず、2と2を加えましょう。これはとても簡単です。下の玉を2つ動かして、次にもう2つ動かせば、4つ動いたことになるので、これで4の数字が表現できます。
 次は、4足す4はどうしましょうか?
 下の玉はもう4つ動いていて、これ以上動けません。そこで上の玉1つが5だったことを思い出します。ここで5の玉を動かせば、5を足したことになります。やってみますね。下の玉は4、これに上の玉1つ、はい、これで9です。
 おっと、これでは4足す5です。
 4足す4はどうしましょうか?
 5は4より1だけ数が多いので、9から1を引けばいいのです。これでめでたく、4足す4は8になりました。
 「古代人は、なんて、バカな考えをするのか」と思いますか? そうかもしれません。
 古代人は、「4は5対して1少ない、3は5に対して2少ない、2は5対して3少ない、1は5に対して4少ない」という、という4つのルールを覚える必要があるからです。
 ついですから、10に対しても同じようなルールも覚えるとよいのです。「9は10に対して1少ない、8は10に対して2少ない……」というふうに9つのルールができます。
 言い忘れていましたが、9の次は次の桁の1になります。これでルールは14個です。
 たぶん、これだけで、足し算ができます。
 8足す6はいくつでしょう?
 上の玉1つと下の玉3つで8、これに6を足すには、10桁の玉を一つ加えて、4を引くのですが、それには、5を示す上の玉を外して、下の玉を1つ加えます。ほら、14になりました。
 難しいですか? わからない人は手を挙げてください。ああ、いますね。この仕組みはあとで家に帰ってから考えてください。ソロバンの仕組みの話はここまでです。
 いったいなぜ、古代のローマ人や中国人はこのような計算器具を作り出したのでしょう? 14個ほどのルールで数桁の足し算ができて便利だからだったからでしょうか? たぶん、そうです。
 では、この計算器具が存在しなければ、計算はできないでしょうか? 
 いえ、そうではないのです。ソロバンの計算になれた人だと、頭のなかにソロバンを思い浮かべただけで、想像上のソロバンを使って、数桁の足し算を行うことができるようになります。それは本当に魔法のようです。みなさんも1週間くらい練習すると、二桁の足し算はできるようになるでしょう。
 さて、私の話のポイントは何でしょうか?
 2つあります。一つは、ソロバンという存在は、本質的には想像上の存在であるということ、もう一つは、それを使うということは、想像を能動的に見ることによって行うことです。
 ここで強調したいのですが、二つ目の「想像を能動的に見る」という想像のプロセスは、思考のプロセスではありません。
 私たちは想像することで存在を生み出すことができ、また想像を能動的に見ることでその存在の力を働かせることができます。ソロバンは、私たちが持っている、想像の力の一つの比喩なのです。
 私たちは、想像を能動的に見ることで、想像の力を引き出すことできます。
 たとえば? 
 この世界に、本当の愛は存在するでしょうか? 本当の善は存在するでしょうか? あるいは神は存在するでしょうか?
 私は、これらは私たちのその想像で決まるのではないかと思うのです。
 想像によって存在を生み出し、想像を能動的に見ることによってその力を引き出します。
 想像を大切にしてください。
 それが私の雑談のメッセージです。終わります。
 
 

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2014.12.17

[書評]若者は本当にお金がないのか?統計データが語る意外な真実(久我尚子)

 表題通りの疑問を持っていたので、『若者は本当にお金がないのか?統計データが語る意外な真実』(久我尚子)(参照)を読んでみた。結論は、明快だった。


 統計データを見ると、今の若者は一概にお金がないとは言えない。一人暮らしの若者の所得はバブル期より増えている。若者を哀れんでいる現在の中高年の所得よりも多い。

cover
若者は本当に
お金がないのか?
統計データが語る
意外な真実 (光文社新書)
 ほほぉ、という感じである。
 これを統計で裏付けられて言われちゃうと、くさす人も人もいるだろうなと、今思って、アマゾンを覗いて見たら、案の定、酷評が目立った。
 こういう場合、実際にアマゾンで買った人の評に絞って見るほうがよいので、それに絞ると星5と星2のみ。その星2の評を読むと「国の報告書の分析を無批判に受け入れる姿勢も気になる」とあるのが微笑ましい。星5の評はしかし特に言及はない。それでも、総じて見れば、問題提起のあるよい本と言えるのではないかと思う。というか、私も読後、これは良書だなという印象を受けた。先入観を持たず広く読まれたらよいのではないだろうか。
 当然ながら統計データというのは読み取りが難しい。そのあたりも本書はいろいろ配慮されているようにも見受けられたが、この引用部の「おわり」にある、一種表題の結語についても、「一人暮らしの若者の所得」とあるように、つまりはそれなりに自立できているわけだから、所得があって当然である。ネットなどで今の若者にはお金がないという主張での若者は、自立できずに親元で暮らしているということではないだろうか、とも思えるだろう。そのあたりはどうか。
 無視されているわけではない。本文には書かれている。

 しかし、これはあくまで一人暮らしの単身世帯のことであり、親元に同居している若者の状況はわからない。現在、若者層では非正規雇用者が増えている。このご時世で一人暮らしができる若者というと、正規雇用で年収水準の高い若者である可能性が高い。

 それはどうか? 
 いくつか前提をおいているが、統計から著者の推論はこうなっている。

 つまり、厳しい経済状況にあると予想された非正規雇用者でも、男性の25歳以上では、家族世帯の大人より多くのお金を手にしており、20~24歳でも若い家族世帯の大人よりも多くのお金を手にしている。


正規雇用が多いバブル期の若者より、現在の非正規雇用者の若者のほうが、実際には多くのお金を手にしている層が多い。

 ネットとかの話題を見ていると、この結論は受け入れがたいだろうなと思う。
 私はというと、ああ、そうなんじゃないのかなと思う。
 繰り返すけど、こういう議論に異論はあると思うが、そう思うなら本書を読んで、データの地点からきちんと批判したらよいのではないだろうか。私としては多様な意見があるほうが世の中好ましいと思う。
 話は、では若者は何に金を使うのか、にも移っていく。
 ネットなどでもよく言われるように、自動車や高級品を若者は買っていないのだろうか。買えないのか?これも「おわりに」に明確に書かれている。

 また、若者は「海外離れ」や「留学離れ」をしているわけではない。「クルマ離れ」は一部で起きているが、一人暮らしの女性ではむしろ自動車保有率が高まっている。「アルコール離れ」は確かに20代では進んでいるが、若者だけの傾向ではない。

 どういうことかというと、若者は、費用対効果のよいものに各人がお金を使っているということのようだ。それはそうだろうくらいの当たり前の結論でもあるが。
 表題から見た本書への関心はそのくらいの射程なのだが、本書はむしろ、出版社側が狙った部分以外で、未婚化などについての議論も面白い。これも「おわりに」に端的に結論がある。

 さらに、現在、日本では未婚化・晩婚化、少子化が進行しているが、実は若者の大半は結婚を望んでいる。結婚に対する先延ばし感も薄らいでいる。恋愛・結婚の状況は、正規・非正規雇用の形態によって異なり、結婚には年収300万円の壁があるようだ。経済問題がある一方、結婚適齢期の男女の未婚理由の第1位は適当な相手にめぐり会わないことであり、恋愛の消極化という現代の若者らしい状況もうかがわれた。

 このあたりは本文のほうも読みながらいろいろ考えさせられた。
 一つ、なるほどなと思ったのは、現在の若者は、30歳までは結婚を待っている、ということで、一種のそういう時代の空気のような支配があるのだろう。私が若い頃はそれが25歳だったが30年くらいで5歳後ろにずれたのだろう。
 本書で示されている「年収300万円の壁」がまた面白い指摘である。本文を読むと、男女ともにということではなく、「男性の年収と既婚率は比例しており」とあるように、基本的に男性の年収を指しているとみてよい。そこを越えると、「一気に既婚率は上昇する」ともある。
 この場合、女性はどうなのかというのがわからないが、仮にアルバイトなどで相手の女性が年収100万少しくらいの層を想定すると、男が年収200万円でも女性に年収200万もあれば、なんとか結婚してやっていこうという日本社会は描けるのではないかと私は思った。
 というわけで、ツイッターでつぶやいたら、「ぬるい」と言われて、「そんな男と結婚する女はねーよ」のごとく言われた。
 あのね、男の年収に期待する女を求めるような社会はやめよーぜという意味だったのだが、通じなかったのであった。
 ほか、それはデフレ志向だ、とも言われたが、デフレを脱するというのは名目の変動なのだから、年収300万同士でもかまわない。ようするに、男女、同じくらいの年収でやっていく社会を構想していくほうがいいという話である。
 さて、私としてはそう考えたのだが、著者はどうか?
 少子化については、麻生さんが言うような、若者が「産まないからいけない」的な議論は否定されていて、統計からは、結婚すれば子どもは生んでいる実態がわかる。とすると、少子化というのは、産む産まないというより、未婚化の問題である。

 少子化の大きな要因が未婚化であるならば、若者の雇用の安定化を図ることと、出会いの場を提供することが、より効果的な少子化対策となるのではないだろうか。

 としている。この場合の「雇用の安定化」だが、メディアやネットでは、旧来の左派の枠組みが強いため正規雇用を示唆されることが多いが、本書にあるように非正規雇用は現実には増えている。ただ、これがデフレ現象の派生で、デフレが止まることで正規雇用が増えるかとなると、どうだろうか。
 いずれにせよ、ここで興味深いのが、政府側の少子化対策についてこう言及されていることだ。

 また、少子化対策は、既婚夫婦であれば必ずその恩恵を受けられるというわけではなく、一部の夫婦しか対象になっていないものもある。
 育休の普及・定着・パパ・ママ育休プラスなどの育休に関連するものは、主に正規雇用者の夫婦を対象にしたもので、非正規雇用は恩恵を受けにくい。

 簡単に自分の受け止めたところを言えば、政策としての少子化対策は、正規雇用の既婚夫婦がターゲットになっているが、むしろ、非正規雇用の未婚者をターゲットにしたほうがよい、ということだろう。もっと言ってしまえば、結婚制度に関わりなく、生まれてきた子どもをもっと補助する社会にしていけばよいのではないか。
 さて、筆者は淡々と議論を進めているようでいながら、微妙に関心の動かし方に興味深い点が感じられる。本書については、どちらかというと出版側から求められて書いたようで、実際の著者の関心は、現代日本の女性に向いているようだ。
 率直なところ、そのあたりの話題が読みたいと思う。
 もっと率直に言えば、それが書かれたら、本書どころではない非難を浴びるのではないかとも懸念する。でも、データを示して読み取れるものがあったら読み取ってみるほうが、現実認識には役立つだろうと思うので、期待したい。
 あと蛇足でいうとなんだけど、ネットで言われる「若者」の意見というのは、もはや実際には若者ではないんじゃないか。40代近いんじゃないかと思えた。
 本書のデータからは、ネットなどから見えるものとは違う、新しい日本人の若者の像が見えてくる。
 と同時に、これも露骨に言うとなんだけど、「30歳までは結婚したい」として期限を「40歳まで」延期してみたけど、特になんにもなくて、じゃあ、40歳以降の人生として結婚をどうするのかというのが、現状ネットに溢れた議論なんじゃないか。新聞雑誌が老人向けメディアになっているように、いわゆるネットの議論は30代から40代のような中年が中心になっているんじゃないだろうか。
 
 

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2014.12.16

選挙期間に思ったことは、地方が静かに窒息していくんじゃないかということだった

 今回の衆院選の選挙間で自分が一番思っていたことは、地方が静かに窒息していくんじゃないかということだった。そして、そのことが選挙の話題として上がらないかに見えたのが、こういうとなんだが、というのは、誰かを責めるというわけではないのだが、不定型な何かに迫られるようで、とても気持ち悪かった。
 選挙で与党・自民党側が提示した争点は、消費税増税の是非であり、実質は、延期はするもののいずれは増税するという確約にもなっていた。与党・公明党はその差違として確実な増税を前提に「軽減税率」を掲げていた。それらについては昨日のエントリーで軽く触れた。
 野党は、特に民主党は「消費税増税の是非」を争点にできないため(この点にいうなら先だって消費税増税停止で内閣不信任案を出しておくべだっただろう)、他の争点を挙げようとしたが、マニフェスト(参照PDF)を見るかぎり、争点が定まらない印象を受けた。GDPが下がったことでアベノミクスが失敗したというのはそうだが、それに対抗する実質的な政策は打ち出されていなかった(あったら与党期間にしていただろう)。非正規雇用が増えるだけとしたのは党内にいるマクロ経済学のブレインを活かし切れないことの露呈だった。議員定数問題は問題だが、与党との争点としては弱かった。意外に思えたのが、原発やTPP問題への主張に弱い印象を受けた。党内での意思統一に問題があったのではなかったか。そうしたなか、左派らしい主張は、集団的自衛権行使閣議決定と秘密保護法採決への批判だったが、これは国民に届く争点にはなっていかなったように思えた。
 他野党については、率直に言って現実性も感じられず、投票も基本的に反与党あるいはかつて与党だった民主党への批判票といったもので、こうした面の国民からの批判(政治なるものへの批判)は、むしろ低投票率として現れていた。
 もちろん、そうは言っても、与党も民主党も公約のなかでは地方の再生を歌い上げてはいたのだが、そうした公約が、解散後の実質的な選挙期間中に発生した11月22日の長野県北部地震や12月4日からの四国山間部大雪の災害と噛み合っていなかったように私には見えた。
 もちろん、そうした災害に噛み合えばいいというのとは違う。そこをなんと言っていいのか、奇妙な居心地の悪さを感じていた。幸いといってよいのか、この二つの天災については、死傷者という点では大災害には至らなかった。ニュースも選挙に影響することなく過ぎて行ったように見えた。だが、私には大きな違和感として残った。ブログに書いてみたい。
 11月22日の長野県北部地震については気象庁による命名もなかったが、長野県としては「長野県神城断層地震」(参照)として扱っている。そのことも印象的で、国の問題というより長野県の地方の問題にされた印象がある。実際のところ、対策は県単位で行うしかないせいもある。
 長野県の報告(参照)によると、死者は出なかった。重症は10人。軽症は36人。人的な悲劇は少なく、その点からすると小規模な災害に見える。
 全壊家屋が39、半壊が71軒。一部損傷が1194軒。これを多いと見るか少ないと見るかは、私のような素人は戸惑う。ニュース報道で全壊家屋の映像を見るとひどいものだなという感想を持たざるをえないのだが、その映像で焦点化されていない家屋が映ると、それほどの被害を受けていないかにも見えるのが印象的で、もしかして家屋の損壊は、古い家屋の耐震性に問題があるのではないかと思えた。どうなのだろうか。気になったのだがそのことに触れた報道を私は知らなかった。この点についていえば、被害のあった村落は、歴史的に地震が問題の地域でありながら、耐震性への施策が放置されていたのではないだろうか。
 12月4日からの四国山間部大雪を含め、この関連の大雪では死者が出た。徳島県と富山県でそれぞれ3人、福井県で2人。多くは副次的な事故によるものと見てよいが、気になったのは、大雪で孤立した「つるぎ町半田」で98歳の女性がその孤立によって死亡したことだ。高齢で対応できなかったという印象もあるが、逆に高齢者はこういうことになるものなだなと暗い気分になった。
 広義に選挙期間中の二つの天災だが、死傷者という点ではわずかなせいもあり大災害とは言えない。ただ、自分が思ったのは、これは、天災というより、日本の地方が抱えるリスクが所定の条件で顕在化しただけなのではないかということだった。
 ここの部分がどうも上手に伝えられないでもどかしいのだが、通常、私たちは、天災など災害に対応するとして防災という視点で考える。しかし、私が思ったのは、潜在的なリスクが一定条件で露見する例ではないかということだ。その一定条件として天災という変数があるのではないか、ということだ。
 そう思ったのは、特に四国山間部大雪での村落の孤立だが、今年の2月の山梨県での豪雪孤立と似た状態で、2月の時点での対応のまずさをそのままなぞっているような印象を受けたからだ。
 くどいけど、言い換えると、豪雪孤立村落というリスクは日本全土に薄く広がっていて、ほぼ潜在的にどこにでもあるにも関わらず、行政の県の縦割りで国家的な対応はできていない。対応のシステムも標準化されていない。
 なぜこうなのだろうか? この問いも、もどかしい。というのは、日本列島は昔から豪雪地帯はあり、また地震も多発している。「長野県神城断層地震」の地域については江戸時代に大災害が発生している。だから、日本が経済発展していく過程で、それなりの対応が出来ていてよいはずであり、実際には、その時代ごとにできていた、と言ってもいいのだろう。だが、そろそろそれが、ダメの方向にギアを変えているんじゃないだろうか?
 ダメというのは、補足すると、理論的には、耐震も豪雪対応も可能なのだ。だから選挙公約とかでは美しく歌い上げられる。だが、現実には、県や国家の災害予算や対策には、もう基本的な限界が来ているのではないか。その限界は、目に見える予算・金銭というより、人口過疎化による費用対効果の問題ではないだろうか。
 簡単にいうと、地方が過疎化しているので、費用対効果の点から十分な防災は無理だという実態があり、それが、偶然的な天災の変数で露呈しているのではないだろうか? (だから、一定のリスク変数で地方の災害は定量的に発生するのではないだろうか?)
 そして、そのことは、そもそもが、地方が静かに窒息していくことの可視化の現象の一部なのではないか?
 これはとんでもない国政上の問題ではないのか? と私はこの間、ぼんやり考えていたが、ごらんのとおり上手に考えがまとまらず、また選挙はどこか遠い国の出来事のようでもあり、奇妙な感じがしていた。
 
 

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2014.12.15

2014年年末衆議院選挙、雑感

 衆議院選挙が終わった。ブログではいつも選挙前に自分の見通しを記してきたが、今回はポリタスに寄稿(参照)したのでブログには書かなかった。
 率直に言うと、ブログに書くと気が滅入る嫌がらせが多く、忙しいときにその対応に時間を割くのがめんどくさい。というか、ブログに書くと不快なレスポンスが想定されるとあまり書く気力がしてこない。ただ、それでもいけないなあとは思う。
 この件で言えば、私は自民党の支持者ではないが、自民党が勝利するだろうという見通しを持っていた。だが、そう書くと、自民党支持者であるとして批判を受けるという図柄がある。辟易とする。日本が負けるだろうと言えない戦中はこんな感じだったのだろう。戦争は負けるべくして負けたのであり、今回の与党は勝つべくして勝ったのだから、思想や意見というものを主張するなら、現状を冷静に見つめて未来に向けた見通しを構想していくしかない。戦後を復興させた人々はそうしていた。
 選挙結果は与党で326議席なので、余裕で317議席の「衆院の優越」が得られ、与党としては圧勝になったことは予想どおりだった。私は自民党単独でそこまで行くのではないかとも思っていたのでその点では外した。自民党は議席数では1議席減らしたが、「0増5減」で見れば減らしたというより現状維持であった。
 公明党は4議席伸ばして民主党は10議席伸ばした。そもそも小選挙区制に向かない小党が総崩れしたのを民主党が吸収したとも言えるが、民主党の支持が国民に少なくないことは再確認された。それでも、投票率の低い選挙における組織票的な公明党との比率から考えると、民主党の組織票が十分活かされた形にはなったと言えるだろう。
 他方、小渕優子議員の当選などを見ると地方では自民党の基盤は強いとも見えるが、全体としては自民党はその傾向を脱しつつあり、よりポピュリズム的な政党に変わりつつあるが、今回はそのメリットが出せなかったように見えた。こうした傾向は自民党の選挙のやり方において、民主党の有力候補の狙い打ちに顕著だったように思う。率直にいえば、こうした自民党の選挙戦略はポピュリズム的すぎて国政という点からは好ましくない。
 公明党が躍進したことで、公明党が与党のキャスティング・ヴォートを握ることになった。公明党は支援母体の創価学会でXデー問題を抱えているので、これが国政に影響してくるなら、ろくでもないことになりかねない。逆に言えば、公明党は急いでより市民政党として成熟してほしい。その意味で、今回の旗印だった「軽減税率」はインヴォイス制の構想なかで解消される方向を取れば好ましい。
 今回の選挙は、全体としては与党圧勝という評価は崩れないので、アベノミクス信任であるとは言えるだろうだろうが、公明党との協調のなかで推進せざるをえないし、官邸側としては自民党内での非金融緩和派を圧倒できるほどの信託を国民から受けることはできなかった。そこが今後の危うさとして残ることになった。
 実際のところ、今回の選挙の意味というのは、来年中に任期を迎える日銀審議委員2名(3月・宮尾龍蔵、6月・森本宜久)の後任人事だと言ってよい。
 今回の解散の原因となった消費税増税についてだが、消費税増税の有識者会議で当初、財務省や内閣府の選んだ人選に官邸側が不満を持ち、増税延期派の識者をねじ込ませた経緯があった。露骨に言えば、そうすることで、消費税増税反対解散の名目を作るようなものであり、米国からノーベル賞受賞の経済学者クルーグマンまでそのショーアップに使われた。
 そもそも憲法の趣旨からすれば「7条解散」は憲法解釈のバグみたいなもので、ひどいことをするなとも思えるが、このまま消費税増税で日本経済が沈めば、再配分政策など各種福祉政策や雇用改善も途絶しかねない。もちろん、そんなことはないと政策的に主張してこれを阻止するということも可能だが、少なくとも今回の選挙ではそうした争点も出て来なかった。
 10月31日に黒田東彦日銀総裁のもと追加緩和が決断されたが、日銀内での票決は5対4という僅差であり、今回の衆院選挙でアベノミクスと称される金融緩和への支援が弱いとこの傾向が逆転される可能性がある。その意味で、日銀審議委員2名の人事が、今後の日本を決定するだろうし、今回の選挙の意味はそこで判明するだろう。
 もちろん、金融緩和はもう十分だという意見もあるだろう。そうなれば、印象としては、野田政権がだらっと続いていたような日本にはなるだろう。私としては、そうなれば日本は経済的に没落して、再配分や雇用改善の道筋は見えづらくはなるだろうと思う。
 
 

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2014.12.09

[書評]こんにちは、ユダヤ人です(ロジャー・パルバース 、四方田犬彦)

 『こんにちは、ユダヤ人です』は、ロジャー・パルバースと四方田犬彦の日本語による対談で、テーマは表題が暗示するように、ユダヤ人を巡る話題。内容はけっこうディープなのだが、彼ら自身が対談の終わりで言うように、結論のようなものはない。ユダヤ人とは何か、イスラエルはどうあるべきかといった、よくあるユダヤ人論のようなまとまった主張というのはない。そのことは本書の美点であると言ってよいと思う。

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こんにちは、ユダヤ人です
(河出ブックス)
 ロジャー・パルバースは、劇作家や文学者であるということを除くと、イスラエル以外によくいる、というか米国人に多い感じのユダヤ人の一人という印象は受ける。つまり、実質、宗教性が薄い。もちろん、当然としてユダヤ人としての歴史を背負って生きている。そのあたりの彼のルーツや彼の人生にまつわるユダヤ人としての話題もとても興味深い。
 こう言ういいかたはちょっと僭越かもしれないけれど、米国的な世界観でユダヤ人というのは何かというのを論じるなら、普通のユダヤ人はこういう感じですよ、というある地平が見渡せると思う。
 例えば、パルバースはこういうふうに自分を語る。

 ぼくは二回結婚しているんですけど、最初の妻は宣教師の娘だからユダヤとは関係ない。今の妻もユダヤ人じゃないし、子どもにはユダヤ人のことは何も教えていないです。彼らはユダヤ人のことを知らない。それでいい。ユダヤジンであることが自分の代で終わるということは、全然構わないんです。ぼくがヨーロッパでした経験、それこそ個人的な経験、ぼくが小さいときから聞いたり見たりしたこと、そのすべてを教えることはできないし、彼らの意識にはないことだからどうだっていいんです。

 現代の米国的な世界観でのユダヤ人の大半は、そんなふうに生きている、というか、私が若い頃出会ったユダヤ人の多くもそんなふうだった。ただ、本書では「ユダヤ人の母」についてのまとまった言及はないが、母系には多少いろいろあるようには思えた。
 読みながら、いろいろな挿話が面白い。あれ?、なんでこんなことに自分は気がつかなかっただろうこともいくつかあった。例えば、アンネ・フランクの母語の問題である。

アンネ・フランクはドイツ生まれでドイツ育ちだったんですけど、一九四三年にオランダに移った。オランダに行けば大丈夫とお父さんが判断した。もうちょっと警戒感があったらよかったかもしれなかった。彼女は、オランダで日記をオランダ語で書いている。

 私は彼女がドイツのフランクフルト生まれで、オランダのアムステルダムに亡命したことは知っていた。だから、母語はドイツ語だと思っていたが、反面『アンネの日記』はオランダ語で書かれていることも知っていて、自分の頭のなかでなんの矛盾もなかった。
 結論からいうと何の矛盾もないのだが、ちょっと整理すると、本書にあるように彼女の亡命を1934年としていて、彼女の生年は1929年なので、5歳ごろと見てよい。彼女はそこでその地のモンテッソーリ学校に通っている。このころからオランダ語になじんだのだろう。ただ、親との会話は何語だったのだろうか?
 その手の疑問というか、ああ、これなあ、と思ったのは次の話である。

四方田 逆に言えば日本人は、ボブ・ディランもポール・サイモンもウディ・アレンも皆単なるアメリカ人だと思って楽しんでいるんです。普通のアメリカのカルチャーだと思っているんです。ポール・サイモンの歌を聴くと、その歌詞の中に「ぼくの前世を思い出すと、仕立屋だったんだ。ぼくはいつも自分を偽っている」という一節がある。
パルバース それは典型的なユダヤ人ですよ。
四方田 ええ、でも日本人はそれが全然わからない。
 森鷗外の『舞姫』だって「エリスは町の仕立て屋の娘で」って書いてあったら、それがどういう意味があるかをどうして日本人は考えないんだろう。

 これなんだが、私は、ボブ・ディランもポール・サイモンもウディ・アレンもユダヤ人だなと思って理解してきた。『舞姫』についても、四方田のこの意見とは異なり、私はユダヤ人説を知っていた。ただ、「仕立屋」という着眼は面白いなとは思った。
 話が逸れるようだが、『舞姫』の原文を見ると、エリスとの出会いの光景に興味深くユダヤ人(猶太教徒の翁)が登場している。

 或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯は直ちに樓に達し、他の梯は窖住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
 今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。

 「仕立て屋」は次のように書かれている。四方田の言うような「エリスは町の仕立て屋の娘で」とは異なる。

 余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。

 描写からは、「仕立物師」が重視されていることがわかることに加え、「エルンスト、ワイゲルト」も重視されている。
 「エルンスト、ワイゲルト」はドイツ語では"Ernst Wiegert"だが、この"Wiegert"姓はユダヤ人姓が暗示されるとしてもよさそうだ(参照)。とはいえ、鴎外がどの程度それを意識していたかはわからない。あと、言うまでもないが、六草いちか『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(参照)のようなエリスのモデル論とは別の話題である。
 さて、こういうと矛盾しているようだが、パルバースはユダヤ人なんのだなと私に思えるのは次のような、心に響く述懐である。

パルバース 相手の気持ちを理解すること。それができるのがユダヤ人だと思う。言うまでもありませんが、ユダヤ人でないとできないとは言いません。相手の靴を履いて相手側の目から地球を観察する。しかし、いわゆるホロコーストを存在理由とするユダヤ人は反対です。六〇〇万人が殺されているわけですから、これはもう本当に大災害である。だけど、いつまでもそう語れば自分が必ず加害者になる。ぼくはそう思っているんです。復讐というのは人間の心に必ず潜む。ルワンダやどこかでホロコーストが起きたら、行ってそっちの人を助ける。そっちの人の物語を書く、あるいは絵を描く。「皆さん、見てください。これがあったことをぼくたちはわかっている。それがまた起ころうとしている。だからどうか助けてください」というのがユダヤ人です。いつまでも自己憐憫の気持ちになって、一番ひどい目に遭ったのは自分だと言い続けるのは、ぼくは逆にユダヤ人じゃないと思います。だからイスラエルはユダヤ人じゃない。中上健次はユダヤ的です。それから筒井康隆も、井上ひさしもそうです。

 同種の言葉を私は他のユダヤ人で知っている(参照)。
 
 

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2014.12.08

MOCREO重低音Bluetoothスピーカー、すごかったです

 先日MOCREOのBluetooth防水スピーカーを買った話を書いた。その後もよく使っている。この用途には特に不満もないのだが(風呂極楽)、その上位版のMOCREO重低音Bluetoothスピーカー(参照)はどうなんだろうか、と気になっていた。もしかしたら、すごいんじゃないか、という感じがしたからだ。もっとも、こうした予感はよく外れる。

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MOCREO®重低音
Bluetoothスピーカー
3Dステレオサウンドサラウンド
 でも、そんなに高額でもないから、ええいと衝動買いしてしまった。
 人生変わったです。すごいです。
 そりゃ、んじゅう万円ものオーディオセットには叶わないと思うけど、これ、呆れるほど低音が出た。以前、いくつかオーディオの追加でサブウーファーとか使っていたし、Macのあの化学実験みたいなサブウーファーも使っていたけど、その比じゃないくらい、体にがっつり響く低音です。いやすげー。
 自動車用のオーディオで低音が響くのがあるけど、ああいう不自然な感じはないし、他、中音から高音の伸びもいい。正直、なんだこれ?というくらいよい、というか、自分が持っている曲をいろいろこのスピーカーで聞き直した。
 クラシックにはよい。特に交響曲とか。オケの現場で聴く迫力は無理だけど、音の延びがよくて気持ちいい。バスやドラムがきっちり聞こえる。
 でも、びっくりしたのは、宇多田ヒカルの曲。前からいろんな音が隠れていたのは知っていたし、けっこう上手に低音使っているのはわかっていた。けど、こいつで聴くと、え?というくらいはっきりして、別アレンジみたいだった。まあ、人にもよるのかもしれないけど。ちなみに、どれ?というなら、"Show Me Love"(参照)で聞き比べてみるといいと思う。MP3でも高レートならかなりきっちり聴ける。
 というわけで、これすごいっすとブログにでも書こうと思ったら、僕が買ったあと、しばらく売り切れだった。意外とディスコンかなと思って今アマゾンみたら、戻っていました。しかもなんか知らないけど、セール中ですよ。ぷんすか。
 まあ、それほどいいスピーカー持ってなくて、僕の話にダマされちゃっていいやっていう人は買うといいと思いますよ。もし買ったら、3Dサラウンドへの切り替えは「LEDライトが緑色に変わるまで、同時に+ / - ボタンを押してください」をお忘れなく。必ずしもこの機能がいいかは異論もあるかもしれないけど。
 これ買ってから、似た感じのBOSE SoundLink Mini Bluetooth speaker(参照)のことを知った。アマゾンの評価は高い。聴いたことないので、こっちのほうがいいのかはよくわからない。YouTubeの評だとおんなじくらいみたい。

 べた褒めで気持ち悪いという人もいるかもしれないので、欠点というか気づいたことを補足しておくと……。起動時にピーっとなるのがセンスがない。最初はちょっと、げっと思う。ただ、これは慣れるとも思う。
 バッテリーの持ちはメーカーでは8時間とか言っているけど、けっこう持つ。バッテリー切れは、OFF時のランプでわかるとあるけれど、僕にはよくわからない。随分聴いたなと思ったら充電しておく。
 見た目は、大きいような小さいような奇妙な形態。かなり重たい印象はある。安定感はいい。欠点を書くといってまた利点を書いてしまうのだけど、持ち運びにいい。部屋を変えたりしてあのアングルで聴きたいなというときに、このスピーカーなら簡単に移動できる。パーティ向きかも。友だちの家に持っていってもいい。持ち運び用の保護につかえるネル製の巾着袋もついていて気が利いている。
 通常の立派なオーディオシステムだと、どうしても聴くポジションが固定化されるのだけど、これはそれがない。というか、「人生変わったです」はけっこうこの要素がある。すでにオーディオシステム持っている人でも、トイレ用に買ってもいいかもしれない(トイレは冗談です)。
 いつごろこの手の小型オーディオの性能が革命的に向上したのかしらないが、この音質がたぶんスタンダードになると思うので、数年使いつぶしてまたいいのがあったら買おうか思っている。
 ついでにMOCREOというメーカーがどこの国のメーカーなのか依然わからない。韓国か中国だろうか。どう考えてもDSPの設計技術はすごいと思うのだけど。ちなみに、MOCREOという会社の製品が面白いのでその他の製品も買ってみたりしているが、どれもかなりいいという印象がある。ただ、ちょっと困ったことがあったので、サポートに連絡したら、日本語できちんと対応してくれた。

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MOCREO無線Bluetooth
レシーバー・アダプター
 話のついでになるけれど、まだ使っているテレビのサウンドシステムが悪くないのでMOCREO無線Bluetoothレシーバー・アダプター(参照)も買った。すごく小さいのだけど、性能悪くないです。自動車とかにもアダプターが合えば当然使える。
 本来だったら日本の家電メーカーがこういう製品作ってくれるといいなと思う。たぶん、作ってくれていると思うので、折に触れて日本製品の質もみていきたい。

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2014.12.07

[書評]反音楽史(石井宏)

 言語を勉強すると微妙に感覚や感性が変わってきて面白いのだけど、ドイツ語を勉強し始めて、自然にドイツ的なものに関心が向くのか、あるいは無意識がそういうふうにドイツ語的な感覚で配列されるのかよくわからないのだけど、何か微妙に変わってきて、自分でも不思議だったのだが、ブラームスとか聴くようになった。以前は好んでいなかったのに。
 聴くというより、わかるという感じだろうか。その他、モーツアルトやベートーヴェンやバッハもそうなのだが、ドイツの音楽がなんか、以前よりくっきりわかる。どうやらワーグナーにも感覚が届いてきた。(副作用で小林秀雄が以前よりわかるようになった。)
 これはいったいどういうことなんだろうか? というのとたまたまマイブームの『のだめカンタービレ』がシンクロしてしまって、どうにも奇妙なことになった。
 さらに言うと、そろそろ書こうかと思うだのけど、もう一台ブルートゥース・スピーカーを買ったら(以前ちょっと欲しいなと言ってやつ)、こいつがすげー性能よくて、クラッシックを聴いたら全然迫力違う。もちろん、ホールの広がりはないけど、低音は身体にじゎ~んとくるくらいは来る。というわけで、空いた静かな時間があれば、クラシックばかり聴いていた。そういうなかで、あれれ?と思ったことがある。
 これは未だに解けないのだが、なぜ、日本人のドイツ語学習者の発音は変なのか?ということ。おこがましい話が、たぶん、カタカナ英語と同じでカタカナでドイツ語を覚えてしまうというのがあるだろうし、戦前の日本の教育などもそうした部類だったのだろういうのもわかる。それにドイツ語はフランス語みたいに国家統制してないみたいなので、方言がいろいろあるのだろうと思うが、それにしても、あの”r”の音はおかしい。日本語だと”g”に近いはずだ。
 でも他人のことはどうでもいいやと思っていたのだが、なんとなく、これは、Bühnendeutschという「舞台発音のドイツ語」というやつじゃないかと思うようになった。つまり、人口言語的発音なんだろう、と。ほんとうかどうか自分で確認したわけではないけど、独和辞典なんかでも舞台発音だったらしい。
 考えようによっては、日本人がドイツ語を学ぶというのは、独文科とかになるし、当然文学や音楽ということだから、舞台発音のほうがよいというのもあるのかもしれない。
 それで、なんでこの奇っ怪な舞台発音ができたかだが、ウィキペディアとかみると、19世紀末らしいのだが、それにしてもこんなアルヴィオラ・トリルを使うのかとぼんやり疑問に思っていた。
 が、ふと、これって、偽イタリア語じゃね?と思った。
 モーツアルトのオペラ、『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』は全部イタリア語で、『魔笛』だけがドイツ語。その理由は知ってはいたが、それにしても、モーツアルトの時代、オペラというのはイタリア語でやるものだったのだろうし、彼自身の旅人生や父親の葛藤を見ても、イタリア志向であることがわかる。それがこの舞台発音のアルヴィオラ・トリルの”r”なんかと関係しているんじゃないか。

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反音楽史
 そのあたり、ふと、実はドイツのクラッシック音楽というのは、イタリア音楽へのコンプレックスから反動的に形成されたもんじゃないのかという疑問が沸いて、そういう話ってないのかとみつくろっていたら、本書『反音楽史』(石井宏)をめっけて読んだ。
 紹介文に「モーツァルトは名前をイタリアふうに書き換えた。なぜ、ヴィヴァルディは二百年以上も音楽史から消されていた。なぜ、真実の音楽史をスリリングに解き明かす!ドイツ人がでっちあげた虚構をあばく」とあり、興味を引くように、やや偽悪的に書かれているが、音楽史という点ではパウル・ベッカーの音楽史をたたき台にしているという他は、著者。石井宏が詳しいモーツアルトの話に、各種面白挿話をまとめた感じがした。読んで、まあ、そういうことだよねと思った。サリエリもイタリア人だし。
 本書の趣向はそれはそれとして、もう一つ以前からなんとなく、クラッシック音楽というジャンル自体、ベートーヴェンの創作なんじゃないかというのも、この本で少し納得した。ヘンデルについても、ああ、やっぱりそうじゃんとか思った。このあたり猫猫先生風味ではあるな。
 とはいえ、自分としては、「反音楽史」という着想の面白さより、ベートーヴェンからブラームスが出てくるまでのドイツのクラッシック音楽というのは、かなり芸術性が高いものだなとしみじみ思うようになった。
 あと、シューマンからブラームス、そしてそこからドボルザークという流れで、ブラームスがこのベートーヴェン的なクラッシック音楽を立て直したというの感じがしてきた。なので、これはこれでいいじゃんという感じである。
 まあ、難しいこと抜きにして、以前よりクラッシック音楽が自分には楽しくなったので満足だし、本書もふつうに読んで面白かった。
 もし、音楽に関心があって未読だったら、エンタテイメント感覚でこの本、軽く読んでみるといいですよ。

 
 

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2014.12.06

Duolingoの語学学習で体験する究極のライフハック "You've conquered the French skill tree!"

 Duolingoの語学学習で体験する究極のライフハック、それは、地味な努力。
 見出しに釣られたかたがいたら申し訳ない。ほんと、ただただ、地味な努力があっただけっだったのだ。
 昨年の10月ピンズラーでフランス語の学習を初め、今年の1月にフェーズ4を終えた。それでフランス語が習得できたかというと、今思うとそれでも、ちゃんちゃら低レベル。一通り、文法と基本語彙と会話を音声中心で学んだというくらい。その先の勉強が問われる。
 さて何をするかということで、とりあえずNHKの語学講座なども聴いていて、それはそれは面白かったのだが、4月の新初級コースがちょっとレベルが低く、中級はちょっとレベルが高いということで、さて、どっちつかずだなというあたりで、その前ころだったかDuolingo(デュオリンゴ)の学習を始めた。これが、なんというか、進んでいくと、とほほな体験だった。
 ピンズラーは音声中心で、それに読む訓練もあるにはあるのだけど、書くという訓練はしない。だから、スペリングがどうなっているかとか、アクサンとかあまり気にしていなかった。だけど、Duolingoだとそれじゃダメダメというわけで、少しずつ始めた。
 基本くらいはそれでも楽にできたけど、普通にレベル8くらいだったか、語彙を増やし、文法を進めていくと、いやあ、難しい。たまに一日抜けも出てくる状況。
 これはいけないなあ、毎日やらなくてはと、気を取り直して、今日で170日連続、来る日も来る日も忘れず、1レッスンずつやった。もう泣けるほどのろい歩み。
 1レッスンは20問。4問間違えるとやりなおし(なんかこれシステムが変わるらしいが)。最初はそれでも、やさしいのだけど、文法学習が進み語彙増加につれて難しくなり、1レッスン突破するのに、4回エラーなんていうこともあり、すごいトホホな気分にもなった。
 でも、石にかじりついて170日。
 それでなんとか突破、ということで全レッスンを突破した。そこまで辿り着くと何かいいことあるのかなとちょっと期待してたら、うひゃー、トロフィーを貰いました。といってもただの一枚の画像なんですけどね。

 いやあ、なんかすごく嬉しかったです。
 何が嬉しいかというと、これ、誰もでも、地味な努力を150日から200日続けていったら貰えるもんですよ。語学の才能とかなくてもそれだけやれば、貰えます(きっぱり!)。
 で、嬉しいのは、そういう当たり前の、地味な努力ができるもんだなと自分を見直しました。自分って、けっこうダメダメな人間だというのが自己評価で、あまりそこは今でも変わってないけど、地味な努力ができるものだなと。考えてみると、ピンズラーのフランス語、中国語、ドイツ語合わせて、120日+120日+100日で、340日、毎日語学の勉強をしていたわけです。
 ネットとかでよく語学のライフハックとか見かけるけど、そういうのがうまくいかなかったら、ひたすら地味な努力でいいんじゃないでしょうか。
 Duolingoについては、ネットとかで紹介記事とかよく見かけるけど、実際にこのトロフィーゲットした人の話はそれまで知らなかったので、もしかすると、ゲットできた人はそれほどは多くないのかもしれない。
 トロフィーはもらったし、努力は努力だけど、レベル的にはまだまだレベル12です。レベル25くらいまであるらしい。とった人の話(参照)だと1年かかったとのこと。私は約半年でレベル12だから、かなりの劣等生。Duolingoは上位レベルに上がるほどきついんですよ。だから半分という状態ではないですね。(ただ、フランス語が難しいという印象はだいぶ減った。)
 ドイツ語についてもDuolingoをやっていて、こちらも170日連続。トロフィーは遙かかなた。現状はレベル9。Duolingoのよると、それでも普通のドイツ語は52パーセントくらいは読めるとのこと。フランス語のほうは、63パーセントくらい。
 いつか、レベル25に達するのか、自分?
 スペイン語でレベル25になった人の話(参照)を読むと、フランス語と英語のバイリンガルの人だけど語学は苦手だと思っていたらしい。でも、スペイン語でレベル25になって、ラテンアメリカ行ったら通じたという話があった。今度はイタリア語に挑戦するらしい。
 というわけで、猛者みたいな人がいろいろいるなあと思う。
 とりあえず、今後も独仏語はDuolingoで続けていくと思う。ピンズラーのドイツ語も理想的に進めば年内でフェーズ4は終わる。あと、19日。
 その後はどうするか?
 実は、ロシア語を学ぶ気でいる。ただ、これはもう最初から、断固としてお気楽レベルにしようと思う。以前も書いたけど、僕は大学で、古典ギリシア語とラテン語を除くと、現代語としては第二外国語でロシア語を学んでいたはずだけど、これが徹底的に忘れていて、なんだろう状態なので、少しはロシア語学んだくらいにはしたい。
 その後は、イタリア語もいいなと思っている。理由は、簡単にいうと、ドイツ語学んでクラッシック音楽の感性がなぜか変わって、ドイツ語勉強してよかった気分なのだけど、その延長にイタリア語がわかるともっといいよねが感じられるから。
 中国語のその先の学習は、いい手段はない状態。まあ、そんなに手は伸ばせない。
 朝鮮語の学習は後回し。
 
 

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2014.12.04

ドイツ語学習(ピンズラー)、90日を終えた。もうほとんどヤケクソ、そして「ベルリンの壁崩壊」とか

 ドイツ語の学習はそれほど意気込まず、楽しくやろうと思っていたが、無理、無理ぃという感じ。こうなったら、ただただしゃにむに突き進むしかないなあと諦めて、とっちらかっていた語学学習を、Duolingo(デュオリンゴ)のフランス語とドイツ語だけは残して、ピンズラー教材に専念することにした。
 これまではわからない部分があるとなんども戻ってやり直してというふうにやってきたり、たまには書き出したりしていた。それもやめた。もう多少わかんなくてもとにかく前に進むことにした。

cover
German III, Comprehensive
 そうしてみると、不思議と前に進む。ピンズラーは心理学者でもあったので、人間の忘却曲線を考慮して(ピンズラー死後はそのメソッドで)教材を作っているので、むしろ毎日毎日、突き進んだほうがよいみたいだ。かくしてなんとか90日を終えた。フェーズ3がなんとか終わった。ピンズラー方式では、フェーズ3が終わるといちおうその言語の基本は学んだことになる。え?
 そんな実感はないのだが、いわゆるドイツ語の入門書とか捲るとけっこうわかる。入門書とかだとカタナカナでふりがながあったりするが、これはけっこうひどいなというくらいはわかるようになった。ちなみに「ベートーヴェン」とかも。
 余談に突っ込むと、けっこう少なからぬ人が、カタカナ英語ならぬカタカナドイツ語で発音していることも知った。これはどうやら、ドイツ語が英語やフランス語より日本人にやさしいと思われているせいもあるだろう。でも、そ、そんなことはねーよというのがフェーズ3あたりで思った。とにかく自然な速度だと曖昧母音みたいのが、がそがそ脱落する。ほんとかと思って音声波形で分析してみたが、抜けている。そこに音がないんだもの聞けるわけないというか、そういう省略を前提にしないといけない、というか、もう自分の耳を信じるしかない。
 この間、甚だしく遅ればせながら『のだめカンタービレ』に嵌って、全巻読んだ。アニメも少しずつ見ている。ドラマと映画もそのうち見ると思う。というか、その話はいずれ書く。もしかするとcakesのほうに書くかもしれない。で、このマンガ、少しだけど、ドイツ語の会話が出てくるのだが、あれ? だいたいわかる。ちなみに、フランス語も出てくるのだが、だいたいわかる。おや? こういうのはとても変な感じだ。ちなみ『進撃の巨人』のドイツ語の歌も、歌詞を見るとだいたいわかる。
 それなりにドイツ語を勉強しましたくらいにはなったような感じはした。
 副作用というのか、逆に英語と日本語の発音がおかしくなった。日本語のほうはネイティブだからそれでもなんとかなるが、英語はドイツ人が喋っているような英語になってしまうので、米語主義の私はけっこうトホホになったが、これはもうしばらくこのままにして、ドイツ語のメドがついてから直すことにしたい。
cover
German IV, Comprehensive
 という、ドイツ語のメドは何かというと、フェーズ4である。できるのか?自分。もうむちゃくちゃな気分でフェーズ4に突っ込んで、実はもう9日目のレッスンを終えた。実感としては半分くらいしかわかってないよという感じもするが、ここまでくるとなんとかやるぞという感じ。
 実はフェーズ4がやりたかったのだ。ピンズラーの教材は、フランス語と中国語(普通話)をやって思ったのだけど、フェーズ4が面白いのである。その国の文化や生活感覚がよく出てくる。"Stehen Sie in der Schlange?"(あなたは列に並んでいますか?)とかも、しつこく学ぶ。基本的にピンズラーの語学学習はどの言語も同じ話題で、同じ程度の複雑さで進むようになっていて、「ああ、ここはあの言語だとこうだったな」と思うようになっているのだが、フランス語や中国ではこういう表現の練習なかったなあと思う。ピンズラー教材はその国で生活するときの重要性をかなり考慮している。
 フェーズ4では、"Die Wiedervereinigung"(再統一)の話題が出てくる。どうもこれがドイツ人の生活に深く関係しているという実感が伝わってくる。そんなの考えればあたりまだろということではあるが、語学学習のなかで見つめるとちょっと実感の度合いが違う。"Die Wiedervereinigung"という言葉の響きにもよるのだろう。
 再統一というのは、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊がもたらした再統一のことなのだが、ふと思ったのだけど、これって世界史的な用語ではなんというのだろうか。
 ちょっと調べてみると、というか、ウィキペディアを当たると、あれ?という感じだった。「ベルリンの壁」はドイツ語で"die Berliner Mauer"なんだけど、 「ベルリンの壁崩壊」ってなんと言うのだろうか。もちろん、"Fall der Berliner Mauer"ともいうのだが、ウィキペディアにはそういう項目がない。もちろん、"Berliner Mauer"の項目に"Mauerfall"はあるのだけど、独立していない。
 読んでいくと、"die Öffnung der Berliner Mauer"という言い回しが気にかかる。というか、そのあたりのドイツ圏とそれ以外の国の温度差みたいのがなんとなく感じられる。ベルリン市の観光用ウェブサイトだろうと思うが"Das offizielle Hauptstadtportal"では、英語では"The opening and fall of the Wall"(参照)とあり、なんとなくだが、西側としては冷戦視線で「崩壊」なんだけど、ドイツ人としては「開放」なのだろう。そしてそこが統一の国民史的なイメージのようだ。
 項目的には、「再統一」は"Deutsche Wiedervereinigung"になり、ウィキペディアにしっかり項目あるのだが、ちょっと気になったのは、私たち日本人は「ドイツ再統一」って呼んでいるだろうか?「東西ドイツ統一」とか言っているような気がするがどうだろうか?
 ところが再の前の「ドイツ統一」というのは、ドイツ帝国(1871年)ではないのだろうか。ちょっとこのあたり自分でも自信がない。あるいは、第二次世界大戦後の分裂からの再統一か? ここでちょっと思い出したのだが、つい冷戦構造で歴史を見がちだが、冷戦の前に第二次世界大戦があって、その終了時には、ドイツは、英米仏露で4分割されていた。しみじみ日本ってこの時分割されてないなと思う。
 この東西ドイツの統一の記念日は"Tag der Deutschen Einheit"(参照)と呼ばれていて、まさに"die Einheit"ということで「統一」になっている。"Die Wiedervereinigung"との差の語感がよくわからない。
 ピンズラーのフェーズ4の話題に戻ると、この"Die Wiedervereinigung"だが、日常的には、"die Wende"と言うので、これからはこの言葉を使いましょうとレッスンが進む。え? 何それ?
 調べると、これは、"Wende und friedliche Revolution in der DDR"(参照)のことらしい。直訳すると、「東ドイツでの転換と平和革命」となるのだろうか。これを英語で用語としてなんというかと、"Die Wende"(参照)だった。このあたりも、え?な感じで、ベルリン崩壊、再統一と微妙に意味のずれというか認識のズレがある。ちなみにフランス語でも"Die Wende"(参照)である。日本語でこれ、何というのだろうか?
 ちなみに、「コペルニクス的転回」は"die Kopernikanische Wende"(参照)。英語だと"Copernican Revolution"になってしまう。何がいいたいかというと、"Wende und friedliche Revolution in der DDR"のときの"Wende"の意味合いがズレるなあという感じだ。
 こういうズレを感じるときはGoogleの画像検索してみるとわかることが多いのでやってみると、"Die Wende"は日本人が言うところの「ベルリンの壁崩壊」みたいだ。というか、"Die Wende"という、ドイツ人には現代日常的な歴史感覚の言葉が、日本にはうまく伝わっていないのかもしれない。
 あと記念日としては、"Die Wende"は"Tag der Deutschen Einheit"も意味しているようでもある。このあたり、ドイツ人の実感としては、11月9日としたいところだが、この日付なにかと紛らわしくて、10月3日に移したようでもある。日本の憲法関連の記念日を連想させるものもある。
 うぉぉ、これだけでもフェーズ4学んでよかったと思った。"Die Wende"から25年だけど、ドイツ人にとってそれだけ重たい歴史経験の日付であり、おそらく30代半ばまでの人には、東西分裂は記憶の実感としてまだ感じられるのだろう。そういう感覚からドイツ人を理解しないといけないなとも思う。
 
 

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