親称二人称とか
ピンズラー(Pimsleur)でドイツ語を勉強していて、同じくピンズラーのフランス語と比べて、そういえば、親称二人称のレッスンが二言語では随分違ったように感じられた。ドイツ語のレッスンのほうが多かった。もっとも、一般的にピンズラーのレッスンはどの言語も同じと言われているが、フェーズ4からは随分違う。
フランス語でも親称二人称で話すというレッスンがある。たしかフェーズ2あたりから含まれていた。ただ、どちらかというと、これまで敬称二人称でレッスンしてきましたが、ここでは親称二人称だとこうなりますよ的なレッスンで、フェーズ4まで多くひっぱるふうでもなかった。
ドイツ語のほうはそれに比べて、けっこう親称二人称で話す(duzen)レッスンが多かったし、"duzen"という言葉も出て来た。特にフェーズ4では目立った。"Können wir uns duzen?(Duで呼び合いましょうか)"というレッスンすらあった。
フランス語のほうにはそういうふうに親称二人称にしましょうか?("On pourrai se tutoyer maintenant ?(これからTuにしましょうか?")みたいに切り替えるレッスンはなかったように思う。そもそも「親称二人称で話す」"tutoyer"という単語も出て来なかった。
フランス語の場合、「親称二人称で話す」"tutoyer"であっても動詞の活用自体は、音声の点ではそれほど難しいわけでもないので、そうしたレッスンが少ないのかもしれない。それでも、ドイツ語の親称二人称とフランス語のそれは、ちょっと違う印象を受けた。ドイツ語で話すという会話の訓練には、"duzen"のニーズが高いのではないかという印象もあった。
たしか、ブラームス(Johannes Brahms)とクララ・シューマン(Clara Josephine Wieck-Schumann,)が敬称二人称の関係"siezen"だったのが、後年"duzen"の関係になったという逸話を聞いたことがある。当時はけっこう厄介だったかもしれないし、彼ら特有の問題もあったのかもしれない。その点、現代では学生同士なんかは、最初から「ため口」ふうに"duzen"だという話も聞いたことがある。まあ、よくわからない。
会話らしい会話は親称二人称のほうが自然か、というと、傾向としてはそうなのかもしれない。自分の場合、独仏人と親称二人称で話す機会なんて一生ないだろうし、小説とか映画で二人称が違うなあとと思うくらいだろうから、"dozen"については、あまり乗り気のするレッスンでもなかった。
考えてみると、"duzen"は日本では「ため口」に近い。ただ、日本語の場合、それが敬体と常体と必ずしも重なっているわけでもない。ただ、敬体は"siezen"に近いようには思う。
英語にも、現代ではもう、親称二人称は存在しない。聖書の主の祈りとかに、"thy kingdom come"とか出てくるけど、"du"にあたる"thou"自体はそこに出てこない。私はネイティブじゃないのでよくわからないのだが、"thou"は現代では「汝よ!」みたいに、古めかしく重々しい感じではないんだろうか。
それに対して、ドイツ語の"du"というのは親子関係でも使うようなので、ドイツ人の信仰における神の、祈りでの感覚もそれ近いのではないかと思う。主の祈りでも、昔は"Vater unser, der Du bist im Himmel, geheiligt werde Dein Name;"というふうなっていた。ただ、現代ドイツ語だと、"Vater unser im Himmel, geheiligt werde dein Name."として、"du"自体は消えているみたいだ。
"du"といえば、ブーバー(Martin Buber)の"Ich und Du"(我と汝)が連想されるが、日本語の「我と汝」には、Duの親愛感は感じられない。英語だと、"I and Thou"なので日本語と同じだろう。フランス語だと、"Je et Tu"なので甘い響きがある。
ブーバーは世界そのものもこの関係のなかで見た。"Ich und Du"というのは、二項というより、"Grundworts Ich-Du"「根源語の我汝」というふうにそれ自体が一体であり、対するのは、"Grundworts Ich-Es"「根源語の我それ」になる。
この"Es"は「それ」ではあるのだけど、独仏語を学んでしみじみ思ったのは、これは英語の"it"とは違うなあということだ。
独仏語に名詞に性があるから、「それ」として受けるときも、性を含むので、逆に、"Es"というときは、中性名詞になる。
こうした名詞の性は、ただ、言語システムとしての性であって、人間の男性・女性とは異なるとも言えるのだけど、ハイデガー(Martin Heidegger)が"Das Man"「世人」というあえて中性名詞で変な造語を作っていること思うと、人間の性の区別意識は多少含まれているようにも思う。
ついでに言うと、ドイツ語の"Man"はフランス語の"On"とも少し違う。このあたりの連想でいうと、存在文がドイツ語では、"Es gibt"になり、"Es"が現れる。"Es geht mir gut. "もけっこう奇妙な感じがするが、こうした"Es"を見ていると、フロイト(Sigmund Freud)が無意識をそう名付けた語感がなんとなくわかる。ちなみにフロイトの文脈だと"Es"は、"Das Es"になり、ハイデガーの"Das Man"に近い印象になる。さらに蛇足になるが、フランス語の存在文"Il y a"の"il"はちょっと不思議な「彼」ではあるのだろう。これは、レヴィナス(Emmanuel Levinas)が "Il pleut"(雨が降る)や"Il fait nuit"(夜になる)を連想しているように、<ある>という非人称性というは、フロイトの"Es"に近いようにも思える。
話をブーバーに戻して、フランス語の場合は、中性名詞がないので、" Ich-Es"はどうなるかというと、"Je-Cela"になる。英語の"it"的なものが"ce"で受けるのはわからないではないので、それを"Je-ce"としない分、"cela(あれ)"は"ceci(これ)"と意味の対立をするので("celui-ci et celui-là"のように)、日英語と同じようにドイツ語からはそれてしまう。
特に結論とかはないのだけど、ハイデガーにしてもブーバーにしても、フロイトもそうかな、彼らはドイツ語の言語のなかで考えているんだなあという感じがするし、ドイツ語から受ける会話・対話の印象の根底にも関連しているようにも感じられる。
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