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2014.11.05

[映画] ベティ・ブルー

 手元の早川文庫の『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(参照)の奥付を見ると昭和62年8月21日発行とある。西暦だと1987年。たぶん、私はこれが出た時点で読んで感動していた。私が30歳になった晩夏である。文庫は同題の映画を当て込んだもので、映画はその年の年末に日本で公開された。オリジナルのフランスではその前年の公開だった。というわけで、私はこの映画を見るつもりだった。

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ベティ・ブルー
愛と激情の日々
(ハヤカワ文庫NV)
 運命というのは不思議なもので、なぜかこの映画を見ることができない。もちろん、そんなはずはないだろう、とも言える。ただ、振り返ると奇妙な成り行きだった。30代の前半は自著にも書いたがそれなりに些細な激動というか青春の終わりを引きずっていたりした。それはよい。
 1992年に「インテグラル」が公開されて驚いた。映画なのでそういうことはあるだろうと思うが、どうも1時間近く追加されたらしい。それってとんでもない話なのではないか? 別の作品と言えるだろ、それ。
 その後、2002年に「ノーカット完全版」が出た。そして2013年に「HDリマスター版」が出て、そしてこれからブルーレイの「HDリマスター版」が出るらしい。もうなにがなんだかわからない。というのも、なんとなく見る機会を逸していた理由の一つだった。
 どれが本物なのか。ここは若い頃に学んだ聖書学の応用の時である。オリジナルの基本骨格が大切になる。だから、やはりインテグラル版が基本だろう。以降は猥褻修正がどの程度入っているかということだ。猥褻シーンに関心ないの私にとってはどうでもいいことなんじゃないか。映像自体が美しいほうがよい。
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ベティ・ブルー インテグラル
完全版 (ノーカット完全版)

[DVD]
 と、思っていた。
 今回みたいのは「ノーカット完全版」である。思ったのは、やはりこの作品は猥褻修正すべきではないだろう。ジャン=ユーグ・アングラードの包茎ペニスがぶらぶらしているところに映像的な価値がある(気がついたのだが彼は私より二つ年上であった)。もちろん、ベアトリス・ダルのヌードも圧巻だった(こういうヌードは最近見ないように思う)。あの裸身の強烈さが風景や物語に均衡しているので、この映画作品は、オリジナルにごちゃごちゃ手を加えるべきじゃないだろ、というのは納得できた。ブルーレイで本当の完全版が出たらまた見たいものだと思う。
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ベティ・ブルー
愛と激情の日々
HDリマスター版 [Blu-ray]
 物語は、作家志望で世間に背を向け、リゾート地の海辺のコテージ管理をしている主人公の「ぼく」と、そこにセックス目当てに訪れる恋人のベティの物語である。ある日、彼女が「ぼく」の未発表の小説原稿を発見することから、彼の小説家の才能を信じて挫折し、そこにまた妊娠の契機もあったのだろう、次第に生活が狂気への暴走していく。映画では「ぼく」にゾルグという名前が与えられている。
 恋愛というのは本質的にこういう狂気を辿るものだと、30歳になったばかりのころの私は思った。そこは小林秀雄や吉本隆明、高村光太郎なども交えて自分語りしそうになるが、いずれにせよそう思っていた。しかたないことだろうとも思っていた(考えてみると破滅な恋愛はしなかったが無茶な恋愛はすることになった)。
 小説のほうのトーンは、あくまで「作家」という特異な男・人間で整えられている。読みようによっては、その自意識の向け方と文体についてはある時期の村上春樹の作品に近い。映画のほうでは、ゾルグとベティを巡る、いかにもフランスらしい人間の肉体と人間のコミュニティと風景が、独自の調和で描かれている。映像的に美しい。特に映画では、妊娠と人間への独自のインサイトが小説よりも独自の深みがある。ベティのイタズラを交えたピアノ曲も奇妙な悲しみの情感がある。3時間近い映画だが、とにかく美しい。
 映画を見終えてからざっと小説を読み返した。小説と映画とは随分印象が違うと思っていたが、違いというより小説作家と映画監督の感覚のむしろ微妙な協調のようなものも感じた。時代の感覚というものあるだろう。
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ベティ・ブルーSoundtrack
 小説のほうでは、「ぼく」はたしか35歳、ベティは30歳ほど。ベティの年の含みは大きいように思う。つまり、ベアトリス・ダルではない別の映像化もありえただろう。
 作家のフィリップ・ディジャンは1949年生まれなので、村上春樹と同じ年である。同時代性としてディジャンは春樹と並ぶ。両者とも米国的なビートニク文化の特殊な派生と見ていいだろう。
 この小説作品"37˚2 le matin"は映画の前年1985年で、そのとき彼は36歳。つまり、作品の「ぼく」は彼自身にきれいに重なる。時代背景もその時代と見てよい。ちょっとひねくれた言い方をすれば村上春樹の言う「懐かしの1980年代」である。些細なことだが、ベアトリス・ダルのこんもりとした陰毛を見ると、あれから20年のどこで陰毛を剃る文化が定着したのだろうかと疑問に思った。
 ベアトリス・ダルの当時の年齢が22歳。映画のベティ設定に近いというかまんまである。そのヌードやしゃべり方ものだが20代前半の女という感覚は映像的によく表現されている。が、その部分で原作とは少しずれがあるし、原作の"37˚2 le matin"、『その朝の体温37.2度』は妊娠を暗示しているのだろうが、30歳の女の設定であれば少し意味合いは異なる。おそらく小説作品としては、「ぼく」が女の身体を通してこの世界に生み出すもの、という意味合いなのだろう。
 

 
 

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