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2014.11.23

政策意思決定と"公共マフィア"について

 昨日のエントリーを書いたあと、そういえば最近考えていることで、"公共マフィア"のことがあった。これをどう考えたらいいのかなと考えるためにまた、一人考え続けているが、これは話したことがなかった。ブログに少し書いてみたい。
 "公共マフィア"というのは、これも私の造語である。英語だと"public mafia"だろうか。調べてみると私の意味合いでは、英語にもそんな言葉はなさそうだ。もちろん、あまりよい造語ではない。
 マフィアの原義はいうまでもなく、「イタリアのシチリア島が起源と見られる組織犯罪集団」である。が、一般用法では別の意味合いがあり、慶応OBの「三田会マフィア」やマッキンゼー出身が「マッキンゼー・マフィア」と呼ばれることもある。伊賀泰代氏などもそうなのだろうか。日本での呼称はOBとか元なんたらという含みだが、英語だと、Dicntionary.comにあるように、「any small powerful or influential group in an organization or field; clique.」つまり、「ある組織や分野における強力で影響力のある小集団」ということだ。犯罪組織の呼称が転じてるのはユーモアの含みがある。
 そういうことなので、そのまま「マフィア」と日本語で表現すると誤解を招くので、「公共マフィア」と呼んだらどうかなと、考えてみたわけである。かなり昔からある別の「インナーグループ(inner group)」とはちょっと意味合いが違うのは、その影響力という外性にあり、つまり、それが政策意思決定に関わる部分である。
 とま、うだうだと書きだしたので問題意識がぼけてしまったが、ようするに現代世界の政治決定にどのようにこの「公共マフィア」が関連しているかということだ。
 現在のネット的な文脈で言うと、メディアの進展でどんどん愚民化していく現状が合理的な政策意思決定を歪ませていくなか、可能なかぎり合理的な政策意思決定を維持しようと奮迅しているのが「公共マフィア」のように見えるということだ。
 普通に考えると、現在のネットが促進している愚民化に対抗するには、知識や啓蒙などをすればよいように思えるが、実は昨今の愚民化の特徴は、まさに、その知識や啓蒙と同型になっていることで、正しい知識や啓蒙としてばら蒔かれているものがまさに愚民化そのものでしかなく、合理的な政策意思決定にノイズとなってしまっている点にある。
 こうした問題を、その普通の延長で考えるなら、「知識」のありかたを学問的に維持するような方向で進めて、合理的な政策意思決定に結びつければよいようだが、実際には、「知識」は合理的な政策までは結びついても意思決定には結びつかない。そもそも「知識」を維持する学問がそのような限界を持っている。
 では他面、意思決定はどうかというと、従来的には、まさに政治プロセスであり、政治家が担うことになり、であれば民主主義の建前上、市民による代議士ということになるのだが、少し話を省くと、これで意思決定ができるのは、おそらくせいぜい地方政治までだろう。
 逆に言えば、そもそも民主主義が通常プロセスで行政的に機能できるのは地方政治までという限界があり、連邦や国家のレベルでは、民主主義はルールメークまでということで、もちろん行政は最初から分離されるにせよ、行政のコンサルティングは別の専門知識集団に委ねる必要がある。
 端的に具体例を挙げれば、軍事とマクロ経済はそうしたプロセスに寄らざるをえない状態にまで達している(医療や社会保障はなんとも言いがたい)。補足すると、その専門知識が高度化すぎて民主主義プロセスにもう達し得ないのだろうと思う。
 これは近未来の問題というより、70年代のトフラー的な言い方になるが、現在の未来であり、現在実際にはそれが代替的に機能している。というのが、その「公共マフィア」の存在である。
 そんなものどこにあるのか?というなら、一番顕著なのは、国際規制に現れやすい。環境問題や各種の国際間ルールメークの実際をになっている人たちである。で、これらがマフィア化しているのは、各国の国策と合理的な意思決定の間のトレードオフ交渉ができるのが彼だけしかいないということである。もっというと、トレードオフの負債は彼らの親密な仁義のなかで交換されている。TPPがうまく動かないのは意外とこうしたマフィアの不全であるかもしれない。
 当然、世界第三位の経済をもつ大国日本はこの公共マフィアにかなりの人材を出しているのだが、従来は官僚が担ってきた。が、どうもそもそも日本の官僚制度も知識の高度化の限界に至って機能しづらくなっているようだ。そもそも官僚は二年くらいで専門が入れ替わる国内ジェネラリスト養成と権力化の篩いのシステムが先行しているので、公共マフィアとして適さない。
 そこで次に学者さんが出てくるのだが、この場合は、政治家との関連が微妙になる。理想的には、官僚の専門家を大学の先生に押し出してそこでマフィアを担わせるという方向に向かっているようだ。というか、どうもそうする以外に方法がないのだが、この場合、彼らは研究者でもなく教育者でも、また実際のところ特定大学の経営陣でもない(余談だが日本大学の教授というのは大学の経営者であり、あまり経営者として適切ではないために経営がうまくいっていない)。このあたり、もうそうした側面の大学側でのマフィア的な連携はかつてはまさに日本的なOBが担っていたのだろうし、今でも基本はそうなのかもしれない。私は日本の大学組織はよくわからない。
 こうした日本における公共マフィア排出の構造は、改めて問うほどのことはないただの現状の観察でしかないのだが、気になるのは、まさに政策意思決定というとき、合理的な政策意思決定は可能だが、彼らには本質的に責務はなく、責務は行政に戻される点だ。このためかなり難しい国家意思の決定や危機の決定では、この日本の定式では機能しない。
 そのあたりの問題は基本的に日本だけの問題でもなさそうで、どうもうすうす先進各国の行政が折り込みに見える。主体的に公共マフィアが責務感を持ち始めているように見えるのである。あるいは、それをささえる団体がある。考えてみると、リーマンショックのときの対処も、この意味での公共マフィアの政治性を明確に意識していたのがベン・バーナンキで彼がポールソンと連携できたのはまさにその実現であり、世界はこのマフィアに依存していた。その意味で、彼らこそが政治家であった。
 現状、米国では各分野で実質「公共マフィア」の人材を養成するしくみが出来つつあるように見える。対して日本は、先の公共マフィア学者さんで補えるのだろうか、その行政との連携がどうなるのか、また、そうした再度は圧倒的に進んでいく愚民化と対応できるのか。よくわからない。
 などなどと、つらつらと考えていた日曜日の朝であった。
 

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2014.11.22

諸産業を「インフラ化する」こと

 以前ならいろいろブログに取り上げていた種類の話題があったが、この間、なんとなく言及しないでいた。

 沖縄県知事選挙については、辺野古新設基地問題と合わせて重要な話題だったが、ポリタスに「【沖縄県知事選】沖縄県知事選後に予想される泥沼」(参照)として寄稿した。もう数日間は同サイトに掲載されているはず。私が現在の沖縄基地問題にどういう視点に立っているかに関心がある人がいたら、お読みいただきたい。結論は、表題にも示したように泥沼化である。明るい展望は見えない。ポリタスからは選挙を終えてからの意見があるか問われたが、私の寄稿はむしろ選挙後について触れたので新しい稿は起こさなかった。今後の泥沼化の最初の指標は翁長雄志知事の辺野古対応になるはずだ。たぶん、私の想定とおりに進むだろうと思う(県側は非承認できない)。

 他、この間の、国内的な出来事といえば衆院の解散がある。年内に衆院選挙が実施される。この点も次回のポリタスに寄稿する予定でいる。

 ブログに少し書いてみようかと思ったのは、諸産業を「インフラ化する」という話だ。簡単に言うと、Googleが、各種の産業をGoogle事業のインフラとしてしまうことである。
 大した話ではない。私などが言うまでもなく、どこかで同じようなことは言われているのだろうが寡聞にして知らない。以下述べるような文脈で「インフラ化する」という用語の使い方も、他所では見かけないように思う。私の造語っぽい。

 「インフラ化する」というのは、これまで独自分野だったと思われていた分野が、Google事業のインフラにされてしまうことだ。
 子会社化や系列化ということではない。また統合化というのも違う。
 具体的な例としては、スマートフォンを考えるとわかりやすい。スマートフォンは多機能で、電話、アプリ、デジカメ、音楽プレヤーなど、それまではバラバラだったガジェットが十徳ナイフよろしく一つにまとまっている。十徳ナイフと違うのは、バラバラといっても、Googleのアンドロイド基本ソフトの元に統合されていることだ。
 それぞれの機能の製品を担っていた企業はもはや独自に製品化しても売れず、スマートフォンに組み込んではじめて製品化できうる。つまり、「これらはGoogle事業のインフラにされてしまった」。これが、「インフラ化する」という意味である。
 重要なのは「オープン化」の閉鎖性である。オープン化というと、いかにも開かれているようでいるが、実際にはGoogleに沿う以外に選択がなくなっていく。
 「インフラ化する」の概念がちょっと難しいのは、この例で言うと、スマートフォン市場を直接Googleが牛耳っているということではない。「独占する」とは異なる。あくまで、スマートフォンに統合される機能を担う産業が、Googleの事業を成り立たせるためのインフラ(基盤)に見えてしまう、ということだ。むしろ、「創発」の概念に近い。

 「創発」は、マイケル・ポランニーという物理化学者でもあり社会科学者、科学哲学者でもある思想家が提出した考え方である。創発とは、ある全体性が、その部分の性質の単純な総和にとどまらないことを示すことだ。
 生命体でいうなら、ある種の物理現象(例えばミトコンドリア内の陽子の動き)が化学現象を支え、これがさらに生命器官の活動を支える、といった上位の層の活動を生み出していく(創発していく)ことでもある。
 「インフラ化」は「創発」の逆である。Googleで言えば、各種の産業を下位の層として、その上位の層の創発として存在することだ。

 実際に私が「インフラ化する」として考えていたのは、スマートフォンではなかった。自動車産業と医療産業だった。現在の自動車産業と医療産業が、オープン化と情報化(ビッグデーター処理)によって、Google事業の「インフラ化する」だろうということだった。
 現在の自動車は限りなくコンピューター・システム化しているが、その一番の変化要因は、安全運転と効率的な都市交通である。これらは人間による運転の総体を「創発」した位置に存在する。話を端折ると、自動車が走るコンピューターになるというよりも、都市交通システム全体が一つの巨大な知性となり、自動車というコンピューターを下位の層として制御するようになる。そしてそのような下位の層の存在として自動車が製造されるようになる、ということだ。
 このビジョンを明確に描いて邁進しているのが、Googleですよ、という話である。医療についても、同様のことが進展している。

 こうした話では、Googleがそれらの分野で具体的に何をしているかということが重要になる。が、ここでは割愛。秘密部分は秘密だが、かなり公開されている。それだけ見ても興味深い。それらを見ていると、いずれ諸産業がGoogleによって「インフラ化する」というふうに思えた、ということ。
 ここでの鍵はビッグデータ処理である。ようするにクラウドでのこの処理能力を持っているのが、Googleになりそうだということである。ちなみに、この話題は以前、ゲシュテル(Ge-stell)として触れた話題の続編でもある。

 「インフラ化する」ということは、国家の視点からすると、つまり、日本国の産業発展という点からすると、危機だとも言える。もっともインフラに甘んじていてもいいのではないかという考えもあるだろうが。
 しかし実際の危機は、むしろ国家と産業というより、「人間とは何か」という古典的な問いを再提出するところにある。「自由とは何か」とも言える。諸データを瞬時に計算して適切な解答を出すGoogleの存在があれば、人間のある時点の最適行動は計算可能になる。そのとき、自由とは、愚行くらいしか残らないのではないだろうか? 「ハイエクの悪魔」とでも言いたいような感じだ。

 このあたりの問題意識はEUが先行しているようにも見える。彼らが率先してGoogleの規制に乗り出していることにも関連しそうだ。

 以上、ざらっとアウトライン的な話のだが、なにか機会があったらきちんと書きたいとは思っている。
 
 

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2014.11.17

[ドラマ]昨夜のカレー、明日のパン(NHKドラマ)

 なんの思い入れもなく、なんとなく見始めた「昨夜のカレー、明日のパン」というNHKのドラマだったが、昨晩最終回(全7話)を見終えた(参照)。傑作だった。そして感動した。この手のドラマに感動するというのは久しぶりでもあった。
 物語は、32歳の仲里依紗演じる寺山徹子と、その7年前に亡くなった夫・一樹の父親である、退職近い寺山連太郎が、場所は埼玉県あたりだろうか農村と新興住宅地の狭間にある比較的旧家に二人で暮らしている日常から始まる。
 ドラマでは徹子は「テツコ」と呼ばれ、連太郎は徹子の義父であることからそのまま「ギフ」と呼ばれている。妻を何年も前に亡くしたという設定である。役者は「料理の鉄人」で主宰役でもあった鹿賀丈史である。調べると彼は64歳にもなり、このドラマのイメージにあっている。テレビの気象予報士をしているが、そのことがドラマに興味深いトーンを与えている。
 おそらく物語の魅力の三分の一は仲里依紗によっている。スエーデン人クオーターということをすっかり忘れてしまうほど日本旧家の生活と地方都市での生活に馴染みつつ、圧倒的な存在感を表している。演技の自然さと心の微妙な揺れが、現代の若い女性の、生活感ある特有の雰囲気を表現していて驚いた。ある意味、70年代とかの古いタイプの女性のようにも思えるのは、脚本のせいもあるのかもしれない。
 何の予備知識もなく見始めたドラマだったが、数回見て、いったい誰がこのようなドラマが書けるのか疑問になり、その時点で調べて木皿泉を知り、それが団塊世代夫婦の作家であることを知った。隣人夫婦である小田和正と小田みゆきの視点がそれに近いのだろう。

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昨夜のカレー、明日のパン
 原作があることもこの時点で知ったのだが、ドラマの映像の完全さからして、原作との対象がどうしても想像がつかない。いったんドラマを見終えてから原作を読むことにしようと思った。
 ドラマはコミカルなタッチで描かれ、またひとくせふたくせもある登場人物たちの日常の挿話が面白い。その生活の充実と、どこにでもありそうな地方都市の風景が絶妙にマッチしていて、それだけでも面白いのだが、そうした愉快さの背後にある圧倒的な死の支配というものが、この物語のテーマであった。
 私のようにどっちかというとキリスト教かぶれの日本人から見ると、この物語は徹頭徹尾、日本的なドラマであった。神(唯一神)が存在しえない世界である。そのような観点から見るのは私くらいのもかもしれないが、神というものがありえないあまりに日本的な世界というのが演じられるのは、私にとってはしばしば恐怖をもたらす。このドラマも、私もいち日本人として愉快に受け止めつつ、半面、神が存在しえない世界の現前に、蒼白になる思いもあった。当然ながら、この世界には「悪」も「罪」も存在しない。
 しかし、対立的、あるいは批判的に見たというのではない。初回からそうした雰囲気の構えは消えた。圧倒的な強さというものがこのドラマにある。そしてこのドラマは、その死の支配からのがれ市民社会が形成されていく過程を強靱に描いていた。私などは、いったい日本にどのようにしたら市民社会が形成できるのか。疑似インテリやリベラルをぞろっと並べても愚劣なものしかできない限界というものに絶望もしていたのだが、それを打ち砕くにたる希望を描いていた。
 このドラマは、正確に、神も近代原理も抜きで、市民社会というものを描き出していたのである。おそらくこれは、西洋の市民社会に匹敵するなにかであり、さらにこのドラマは微妙に手を入れれば彼らにも理解できる不思議なドラマになるようにも思えた。
 先走って話してしまったが、主人公であるテツコは夫の死を、ギフもまた妻の死を背負って生きている。そうして死を共有しながら、家族というものがいやだなと思いつつ、二人が連帯としての擬似的な家族を演じている。だが、これがさまざまな要因から壊れて、その死の連帯を市民社会の連帯へと次第に解き放っていく。
 ドラマはリアリズムではない。ひょこひょこと死者が現れる。日本人が死者の霊と静かに共存しているリアリティというのはこういうものだろうという感じの自然さである。圧倒的なのは、第四話の法事の話である。ここではギフの亡き妻・夕子が自然に登場する。しかも、その相貌は死期なのであろう。美保純が演じているのだが、これが彼女らしい滑稽さで面白く、そしてつられてテツコの亡き夫・一樹(星野源)も現れる。テツコとギフにはその死者の姿は見えず、テツコに恋慕する岩井(溝端淳平)だけに見える。岩井はこの物語の第三の主人公で、生の世界の側を代表している。
 すでに記したが映像も圧倒的だった。特に衒ったショットもないのだが、どこにでもありそうな、衰退していく日本の地方都市の風景が、美しくなどありえないはずでありながら、美しく描かれている。この風景のなかで、私たち日本市民は生きているのであり、その風景のなかで日本の市民が生きうることを力強く訴えていた。こういうとなんだが、団塊世代の最善の成果がここにあると言ってもよいと思う。

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2014.11.07

先日、ジョセフ・ナイの講演を聴いた

 秋の叙勲受章のためだろうか、先日、米ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が来日し、各所で講演やシンポジウムに出席していた。その一つに一般人の聴講もできるものがあり、応募しみたら当選したので聞きに行った。いろいろ思うことはあったがブログに書くまでもないかなと思っていたが、少し書いておこう。

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国際紛争-理論と歴史
原書第7版
 ジョセフ・ナイ(Joseph Samuel Nye, Jr)は、著名な米国の国際政治学者で、国際関係に関心を持つ人なら知らない人はいないだろう。現在での影響力についてはよくわからないが、今でも国際政治学では代表者の10人、あるいは5人には入るのではないか。
 ただ77才というお年なのでそこはどうかと思っていたが、お目にかかると血色もよく、言葉も明晰で(美しい英語だった)むしろ驚く程だった。来春に新刊本を出すということで、講演はその概要ということだったが、書籍のプロモーションというほどのことはなかった。ちなみに書籍のメインテーマは、中国の台頭を国際社会はどう捉えるかということである。結論からすると、20年くらいのスパンで見るなら米国を中心とした西側諸国の脅威とはならないだろういうものだった。特に奇を衒った議論はないので、退屈といえば退屈な展開とも言えたかもしれない。
 講演を聴きながらとったメモを見直すと、中国が中東の原油に依存している意味合いを強調していた点は興味深かった。ナイらしい基調としては、中国のソフト・パワーの弱さの強調もあった。
 ところでナイに私が注目したきっかけは、自著にも記したが私が沖縄で暮らしていた時代の思い出に重なる。
 民主党クリントン政権下で1995年に少女暴行事件があり、これが米軍基地問題見直しに発展していった。この時期、国防次官補として、つまり民主党政権側のブレーンとして国際関係の問題を事実上支えていたのがナイであった。
 また、それを日本側で受けたのが岡本行夫で、講演では彼も登壇していた。私としては、ナイと岡本が並ぶのだから、沖縄問題の関連の話でも聞けることを期待していた。が、その話題はまったくなかった。
 ナイの業績ともいえるのだが、あの時代に、通称「ナイ・イニシアティヴ」、「東アジア戦略報告(EASR)」を彼が作成し、これが「アーミテージ・リポート」を介して現在至る、日米同盟の再定義に関連する基礎となっている。そのせいか、日経のシンポジウムではアーミテージと並んで出席していた。
 ナイは基本、民主党拠りであり、今後の米国の動向と合わせてそのあたりをどう読んだらいいのか、講演を聴きながら私はぼんやり考えていた。が、これも特にまとまった考えはない。
 話が散漫になるが、沖縄との関連での関心でもう一つ、先日の、彼がハフィントンポストへの寄稿(参照)にも関心があった。
 これはなかなか興味深い寄稿で、なぜか日本ではあまり注目されているふうでもないが、日本の防衛における沖縄の意味合いがまた大きく変わることを示唆している。簡単にいうと、内地の日本人には、沖縄という位置が日本の防衛にとって重要であるといった単純な議論が多いが、ナイはすでに沖縄の米軍基地そのものが米国の軍事において弱点になりうることを指摘している。まあ、このあたりの議論はいろいろと難しいし、講演では、対中戦略の質問などが出ても、ナイはこの議論には一切触れていなかった。
 そういえば、ナイの講演の後に岡本の講演があり、彼はどんな話をするのかと聞いてみたが、特に議論の骨格というものはなく、内輪の雑談という印象だったので、残念にも思えたが、逆に雑談らしくけっこうざっくばらんに言うものだなとも思った。
 岡本の話で印象に残った一つの例を上げると、中国の情報戦として、日本と米国の分断があり、さらに日本と西側諸国の分断という構図によって、中国の非民主主義的かつ非人権的な構図の転倒というのがあるとのことだった。そういう表現ではなかったが。
 その先の彼の説明も実にざっくばらんで、ようするに中国としては、安倍首相をヒットラーに重ねるイメージ戦略によって、第二次世界大戦の枢軸対連合国の構図で、日本はナチスで敵、中国は米国と同じ連合国として仲間としたいというのだ。
 まあ、冗談もかもしれないが、ネットなどを見ていると、執拗に安倍首相をヒトラーになぞらえる傾向をよく見るので、案外中国からのイメージ戦略の影響もあるのかもしれないとも思った。
 と書いてみると、思い出すのだが、岡本は、靖国問題は、内政の問題だとしていたのだが、いわゆる外国が触れるべき問題じゃない論というより、内政のプライオリティとして靖国が出ちゃうのはしかたがないんだという印象だった。こうした関連でナイに向けても質問が出たが、ナイは特に目立った意見は述べていなかった。が、韓国については、いろいろ問題があるにせよ、北朝鮮の脅威を考えると日韓は未来志向で協調したほうがいいとはしていた。
 という点で、そういえば、朝日新聞が日経のシンポジウムに触れてこういう記事を出していた。「河野談話見直しは「日本に傷」 ナイ米大教授が指摘」(参照)。

 米国の知日派で知られるハーバード大教授のジョセフ・ナイ元国防次官補は30日、東京都内であったシンポジウムで、慰安婦問題をめぐる河野談話の見直し論について、「河野談話の細部を蒸し返すのは、日本を傷つけることになる。中国や韓国、他の国が日本をたたく手段を与えてしまう」と述べ、懸念を示した。
 ナイ氏は、「(慰安婦をめぐり)日本が80年前の過去を振り返るのは大きな間違いだ」と述べ、核やミサイル開発を進める北朝鮮に対応するためにも、韓国との関係を重視すべきだとの認識を示した。同席した米国のリチャード・アーミテージ元国務副長官も「我々の国では、アフリカ系米国人の扱いを謝罪してきたし、し続けるだろう。(謝罪が)百年で十分だということにはならない」と語った。
 ナイ氏はまた、靖国神社に代わる国立追悼施設の建設にも賛意を示した。

 このシンポジウムについては日経新聞のほうも読んでみたが、私の読み落としかもしれないが該当の話は日経にはなかったように思う。
 で、この朝日新聞の取り上げ方なのだが、「核やミサイル開発を進める北朝鮮に対応するためにも、韓国との関係を重視すべきだ」というのは、私がナイ講演で聴いた彼の考えからすると、韓国や中国と過去の問題にそもそも関心を向けるのはよしたほうがいいということだ。なので、この朝日新聞が、慰安婦問題をめぐる河野談話の見直し論を焦点化するのは文脈が違うように思えた。
 自分の印象をまとめると、ナイとしては韓国や中国を刺激しても日本はヘマをするだけだから、こんな問題に手をつっこまず、もっと日本ができることをやってくれという感じだった。
 
 

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2014.11.05

[映画] ベティ・ブルー

 手元の早川文庫の『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(参照)の奥付を見ると昭和62年8月21日発行とある。西暦だと1987年。たぶん、私はこれが出た時点で読んで感動していた。私が30歳になった晩夏である。文庫は同題の映画を当て込んだもので、映画はその年の年末に日本で公開された。オリジナルのフランスではその前年の公開だった。というわけで、私はこの映画を見るつもりだった。

cover
ベティ・ブルー
愛と激情の日々
(ハヤカワ文庫NV)
 運命というのは不思議なもので、なぜかこの映画を見ることができない。もちろん、そんなはずはないだろう、とも言える。ただ、振り返ると奇妙な成り行きだった。30代の前半は自著にも書いたがそれなりに些細な激動というか青春の終わりを引きずっていたりした。それはよい。
 1992年に「インテグラル」が公開されて驚いた。映画なのでそういうことはあるだろうと思うが、どうも1時間近く追加されたらしい。それってとんでもない話なのではないか? 別の作品と言えるだろ、それ。
 その後、2002年に「ノーカット完全版」が出た。そして2013年に「HDリマスター版」が出て、そしてこれからブルーレイの「HDリマスター版」が出るらしい。もうなにがなんだかわからない。というのも、なんとなく見る機会を逸していた理由の一つだった。
 どれが本物なのか。ここは若い頃に学んだ聖書学の応用の時である。オリジナルの基本骨格が大切になる。だから、やはりインテグラル版が基本だろう。以降は猥褻修正がどの程度入っているかということだ。猥褻シーンに関心ないの私にとってはどうでもいいことなんじゃないか。映像自体が美しいほうがよい。
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ベティ・ブルー インテグラル
完全版 (ノーカット完全版)

[DVD]
 と、思っていた。
 今回みたいのは「ノーカット完全版」である。思ったのは、やはりこの作品は猥褻修正すべきではないだろう。ジャン=ユーグ・アングラードの包茎ペニスがぶらぶらしているところに映像的な価値がある(気がついたのだが彼は私より二つ年上であった)。もちろん、ベアトリス・ダルのヌードも圧巻だった(こういうヌードは最近見ないように思う)。あの裸身の強烈さが風景や物語に均衡しているので、この映画作品は、オリジナルにごちゃごちゃ手を加えるべきじゃないだろ、というのは納得できた。ブルーレイで本当の完全版が出たらまた見たいものだと思う。
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ベティ・ブルー
愛と激情の日々
HDリマスター版 [Blu-ray]
 物語は、作家志望で世間に背を向け、リゾート地の海辺のコテージ管理をしている主人公の「ぼく」と、そこにセックス目当てに訪れる恋人のベティの物語である。ある日、彼女が「ぼく」の未発表の小説原稿を発見することから、彼の小説家の才能を信じて挫折し、そこにまた妊娠の契機もあったのだろう、次第に生活が狂気への暴走していく。映画では「ぼく」にゾルグという名前が与えられている。
 恋愛というのは本質的にこういう狂気を辿るものだと、30歳になったばかりのころの私は思った。そこは小林秀雄や吉本隆明、高村光太郎なども交えて自分語りしそうになるが、いずれにせよそう思っていた。しかたないことだろうとも思っていた(考えてみると破滅な恋愛はしなかったが無茶な恋愛はすることになった)。
 小説のほうのトーンは、あくまで「作家」という特異な男・人間で整えられている。読みようによっては、その自意識の向け方と文体についてはある時期の村上春樹の作品に近い。映画のほうでは、ゾルグとベティを巡る、いかにもフランスらしい人間の肉体と人間のコミュニティと風景が、独自の調和で描かれている。映像的に美しい。特に映画では、妊娠と人間への独自のインサイトが小説よりも独自の深みがある。ベティのイタズラを交えたピアノ曲も奇妙な悲しみの情感がある。3時間近い映画だが、とにかく美しい。
 映画を見終えてからざっと小説を読み返した。小説と映画とは随分印象が違うと思っていたが、違いというより小説作家と映画監督の感覚のむしろ微妙な協調のようなものも感じた。時代の感覚というものあるだろう。
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ベティ・ブルーSoundtrack
 小説のほうでは、「ぼく」はたしか35歳、ベティは30歳ほど。ベティの年の含みは大きいように思う。つまり、ベアトリス・ダルではない別の映像化もありえただろう。
 作家のフィリップ・ディジャンは1949年生まれなので、村上春樹と同じ年である。同時代性としてディジャンは春樹と並ぶ。両者とも米国的なビートニク文化の特殊な派生と見ていいだろう。
 この小説作品"37˚2 le matin"は映画の前年1985年で、そのとき彼は36歳。つまり、作品の「ぼく」は彼自身にきれいに重なる。時代背景もその時代と見てよい。ちょっとひねくれた言い方をすれば村上春樹の言う「懐かしの1980年代」である。些細なことだが、ベアトリス・ダルのこんもりとした陰毛を見ると、あれから20年のどこで陰毛を剃る文化が定着したのだろうかと疑問に思った。
 ベアトリス・ダルの当時の年齢が22歳。映画のベティ設定に近いというかまんまである。そのヌードやしゃべり方ものだが20代前半の女という感覚は映像的によく表現されている。が、その部分で原作とは少しずれがあるし、原作の"37˚2 le matin"、『その朝の体温37.2度』は妊娠を暗示しているのだろうが、30歳の女の設定であれば少し意味合いは異なる。おそらく小説作品としては、「ぼく」が女の身体を通してこの世界に生み出すもの、という意味合いなのだろう。
 

 
 

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2014.11.04

[映画] 25年目の弦楽四重奏

 2か月ぐらい前からだろうか、幻聴ということでもないが、ふとしたおりに、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番(嬰ハ短調・作品131)のメロディが頭に浮かぶのである。不思議なことがあるものだなという感じで、じっと脳のなかに流れるを曲を静かに聴いていた。いや、静かでなくてもいい。喧噪のなかでも心を集中していくと、いわゆる音ではない音楽としてそれが聞こえるような感じがするのである。
 天啓のようにやってきたというような神秘的なことではない。もう20年以上も前だが、このベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番をなんども聞いていた時期があった。マッキントッシュのハイパーカードで音楽を学ぶというシリーズの第二弾がこの作品だったのだ。ちなみに、第一弾がモーツアルトの魔笛、第三弾はブラームスで、第四弾はなかったと記憶している。
 ハイパーカードを説明するのも難儀な時代になったが、ようするに音楽を聴きながらリアルタイムに各種の解説が表示される仕組みだった。オペラの学習に向いている。ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番でも、「ほら、ここに耳をすませなさい。これが、ベートーヴェンらしい情熱なのです」みたいな説明が出てくるのである。

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ベートーヴェン
弦楽四重奏曲全集7
弦楽四重奏曲
第12&14番
 さすがにハイパーカードのメディアはもう再現できないが、気になって実家の書棚をあさったらCD-ROMが出て来た。幸い音楽部分は音楽CDとして聞ける。iPodで聞けるようにリッピングして、それからは脳内音楽ではなく、リアル音楽として聞くようになった。これをこの一か月くらい、毎日聞いている。病的というわけでもないと思うが、この音楽に取り憑かれてしまったかのようだ。
 ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番には各種の演奏があるが、私にはどれがよいのかよくわからない。私が聞いていたワーナーのはフェルメール・カルテットので聞き慣れたせいか、私には非常に合う。ただ、この音楽のもつエロス性みたいのは別の表現もあるんだろうなとか思っていた。
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25年目の弦楽四重奏
[Blu-ray]
 というところで、『25年目の弦楽四重奏』という映画の存在を知った。いや、この映画の名前とポスターくらいは知っていたが、特に関心を持っていなかった。まさかその弦楽四重奏がベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番だとは思っていなかったのである。
 それがわかった時点で、こういうとなんだが、この映画を作りたいと思った人の気持ちが全部わかった。T・S・エリオットの詩も、シューベルトの逸話も。映画を見る前から既視感のある映画というのも始めての体験だった。
 驚いたのが、この映画の各所にはめ込まれているベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番の各部分がよくわかることだ。そうなんだ、これなんだ、こんなふうに脳内で演奏されていのだ、という奇妙な感じがした。正確に言うと、フェルメールのとは演奏が違うので、ああ、ここはこうか、みたいにも思った。
 いずれにせよ、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番がすべてあってそこからそれをモチーフにした映画を見るというのも奇妙な体験だった。

 映画としてはどうか。いい映画だったと思う。映画として傑作かというと微妙な感じはする。
 映画としての核の部分は、ジュリエット・ゲルバートを中心とした青春の残滓だろう。オリジナルタイトルの"A Late Quartet"はそうした含みで、四角関係と言ってもいいのだろう。まさに、ジュリエットを愛した二人の男と、その愛が音楽グループ「フーガ」になることを道づけた師、というか父代わりの物語であり、その意味では、まさに女の人生の物語そのものだった。
 その矛盾は彼女の娘アレクサンドラ・ゲルバートに集約されていくあたりの脚本も上手だった。物語はゆえに、二人の男による一人の女への愛の物語でもあり、二人は二人でそれなりに男の人生というものの後半生の惨めさをよく表していた。エンディングでダニエル・ラーナーのメモに"Juliette"と記すところが、この映画の軸ではあるのだろうが、こういう表現はやや文学的に過ぎて、映画的ではないようにも思えた。
 逆に、入り乱れた二つの性交の関係は率直なところ私には嫌悪に思えた。一夜の浮気という挿話はわからないでもないが、川端康成『千羽鶴』みたいな展開は私には嫌悪の対象である。そこまで描く必要があったのかと思う。だが、脚本の論理からすると暗譜演奏と情熱の意味合いが、そういう映画表現になるのもしかたないのかもしれない。
 とま、あまりネタバレに過ぎないように書いてみたが。
 エンディングに至るベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番第7楽章 Allegroは見事なものだった。かなりエロス性の高い演奏だが、この映画にはよく調和していた。
 この映画にはもう一つ、妻を失いパーキンソン病になる老人の心という軸もあった(というか、これが四角関係を複雑にしていたのだが)、その文脈で不意に「マリエッタの唄」が出てくるのには驚いたし、亡き妻ミリアムとしてアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが出てくるのは、鳥肌もの美しさだった。

Glück, das mir verblieb,
rück zu mir, mein treues Lieb.
Abend sinkt im Hag
bist mir Licht und Tag.
Bange pochet Herz an Herz
Hoffnung schwingt sich himmelwärts.

私の元に残る幸福よ
おいで、私の本当の愛
夜は森に沈むなか
おまえが私の光と日
心は不安げに高鳴る
希望は大空に舞い上がる

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