政策意思決定と"公共マフィア"について
昨日のエントリーを書いたあと、そういえば最近考えていることで、"公共マフィア"のことがあった。これをどう考えたらいいのかなと考えるためにまた、一人考え続けているが、これは話したことがなかった。ブログに少し書いてみたい。
"公共マフィア"というのは、これも私の造語である。英語だと"public mafia"だろうか。調べてみると私の意味合いでは、英語にもそんな言葉はなさそうだ。もちろん、あまりよい造語ではない。
マフィアの原義はいうまでもなく、「イタリアのシチリア島が起源と見られる組織犯罪集団」である。が、一般用法では別の意味合いがあり、慶応OBの「三田会マフィア」やマッキンゼー出身が「マッキンゼー・マフィア」と呼ばれることもある。伊賀泰代氏などもそうなのだろうか。日本での呼称はOBとか元なんたらという含みだが、英語だと、Dicntionary.comにあるように、「any small powerful or influential group in an organization or field; clique.」つまり、「ある組織や分野における強力で影響力のある小集団」ということだ。犯罪組織の呼称が転じてるのはユーモアの含みがある。
そういうことなので、そのまま「マフィア」と日本語で表現すると誤解を招くので、「公共マフィア」と呼んだらどうかなと、考えてみたわけである。かなり昔からある別の「インナーグループ(inner group)」とはちょっと意味合いが違うのは、その影響力という外性にあり、つまり、それが政策意思決定に関わる部分である。
とま、うだうだと書きだしたので問題意識がぼけてしまったが、ようするに現代世界の政治決定にどのようにこの「公共マフィア」が関連しているかということだ。
現在のネット的な文脈で言うと、メディアの進展でどんどん愚民化していく現状が合理的な政策意思決定を歪ませていくなか、可能なかぎり合理的な政策意思決定を維持しようと奮迅しているのが「公共マフィア」のように見えるということだ。
普通に考えると、現在のネットが促進している愚民化に対抗するには、知識や啓蒙などをすればよいように思えるが、実は昨今の愚民化の特徴は、まさに、その知識や啓蒙と同型になっていることで、正しい知識や啓蒙としてばら蒔かれているものがまさに愚民化そのものでしかなく、合理的な政策意思決定にノイズとなってしまっている点にある。
こうした問題を、その普通の延長で考えるなら、「知識」のありかたを学問的に維持するような方向で進めて、合理的な政策意思決定に結びつければよいようだが、実際には、「知識」は合理的な政策までは結びついても意思決定には結びつかない。そもそも「知識」を維持する学問がそのような限界を持っている。
では他面、意思決定はどうかというと、従来的には、まさに政治プロセスであり、政治家が担うことになり、であれば民主主義の建前上、市民による代議士ということになるのだが、少し話を省くと、これで意思決定ができるのは、おそらくせいぜい地方政治までだろう。
逆に言えば、そもそも民主主義が通常プロセスで行政的に機能できるのは地方政治までという限界があり、連邦や国家のレベルでは、民主主義はルールメークまでということで、もちろん行政は最初から分離されるにせよ、行政のコンサルティングは別の専門知識集団に委ねる必要がある。
端的に具体例を挙げれば、軍事とマクロ経済はそうしたプロセスに寄らざるをえない状態にまで達している(医療や社会保障はなんとも言いがたい)。補足すると、その専門知識が高度化すぎて民主主義プロセスにもう達し得ないのだろうと思う。
これは近未来の問題というより、70年代のトフラー的な言い方になるが、現在の未来であり、現在実際にはそれが代替的に機能している。というのが、その「公共マフィア」の存在である。
そんなものどこにあるのか?というなら、一番顕著なのは、国際規制に現れやすい。環境問題や各種の国際間ルールメークの実際をになっている人たちである。で、これらがマフィア化しているのは、各国の国策と合理的な意思決定の間のトレードオフ交渉ができるのが彼だけしかいないということである。もっというと、トレードオフの負債は彼らの親密な仁義のなかで交換されている。TPPがうまく動かないのは意外とこうしたマフィアの不全であるかもしれない。
当然、世界第三位の経済をもつ大国日本はこの公共マフィアにかなりの人材を出しているのだが、従来は官僚が担ってきた。が、どうもそもそも日本の官僚制度も知識の高度化の限界に至って機能しづらくなっているようだ。そもそも官僚は二年くらいで専門が入れ替わる国内ジェネラリスト養成と権力化の篩いのシステムが先行しているので、公共マフィアとして適さない。
そこで次に学者さんが出てくるのだが、この場合は、政治家との関連が微妙になる。理想的には、官僚の専門家を大学の先生に押し出してそこでマフィアを担わせるという方向に向かっているようだ。というか、どうもそうする以外に方法がないのだが、この場合、彼らは研究者でもなく教育者でも、また実際のところ特定大学の経営陣でもない(余談だが日本大学の教授というのは大学の経営者であり、あまり経営者として適切ではないために経営がうまくいっていない)。このあたり、もうそうした側面の大学側でのマフィア的な連携はかつてはまさに日本的なOBが担っていたのだろうし、今でも基本はそうなのかもしれない。私は日本の大学組織はよくわからない。
こうした日本における公共マフィア排出の構造は、改めて問うほどのことはないただの現状の観察でしかないのだが、気になるのは、まさに政策意思決定というとき、合理的な政策意思決定は可能だが、彼らには本質的に責務はなく、責務は行政に戻される点だ。このためかなり難しい国家意思の決定や危機の決定では、この日本の定式では機能しない。
そのあたりの問題は基本的に日本だけの問題でもなさそうで、どうもうすうす先進各国の行政が折り込みに見える。主体的に公共マフィアが責務感を持ち始めているように見えるのである。あるいは、それをささえる団体がある。考えてみると、リーマンショックのときの対処も、この意味での公共マフィアの政治性を明確に意識していたのがベン・バーナンキで彼がポールソンと連携できたのはまさにその実現であり、世界はこのマフィアに依存していた。その意味で、彼らこそが政治家であった。
現状、米国では各分野で実質「公共マフィア」の人材を養成するしくみが出来つつあるように見える。対して日本は、先の公共マフィア学者さんで補えるのだろうか、その行政との連携がどうなるのか、また、そうした再度は圧倒的に進んでいく愚民化と対応できるのか。よくわからない。
などなどと、つらつらと考えていた日曜日の朝であった。
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