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2014.10.25

[映画]風立ちぬ(宮崎駿)

 宮崎駿の『風立ちぬ』は前評判的な情報などを聞いて少しうんざりした感じもあり、また私も、リアリズムっぽい作品が苦手でSFやファンタジー的な作品のほうが好きだし、どっちかというと、アニメ映画は子どものためにつくるもので、大人のために作っちゃいけないつくっちゃいけないような感じもしていたので、少し避けていた。

cover
風立ちぬ
[Blu-ray]
 が、見た。完全な作品だった。そのことにまず圧倒された。もちろん、三行でまとめられる大きなストーリーがないのにどこが完璧なんだよという意見もあるかもしれない。いや、そうしたストーリーこそ完全性の対極にあるものだ。
 まったく隙というもののない完全な作品だった。こんなものが創作できるのかというのが驚きだった。隙のなさはバランスの良さということもであるのだが、映像のディテールの充実にも圧倒された。緻密に歴史考証していくと間違いやフィクションとしてやりすぎという部分もあるのかもしれないが、よくここまで詳細に風景が描き出せるのものだ。
 オオバコの一カットにさえ泣けた。タバコに火をつける紙マッチのしぐさもしびれた。言葉の美しさは陶酔的でもあった。「大心配(おおしんぱい)」の響きが聞けたときには涙ぐんだ。そして私のルーツは軽井沢だし、故郷の一つといってもいいあの町の、万平ホテルあの風景はも胸締め付けられるほどの郷愁を感じた(さりげないテニスコートのシーンは戦後の天皇制の近代性への信頼もある印象を受けた)。
 映画に描かれているあの時代の風景を生活実感の延長として想起できる世代が恐らく昭和32年生まれの私で最後なのだろう。よくこれだけの映像を残してくれたなあという感謝のような思いがある。
 物語のテーマは、近代人の夢ということでよいのだろう。もちろん、巨大な作品だし、多様な読み方はできるだろう。零戦賛美というような陳腐な理解というか誤解についても作者は想定の上だろうし、戦争との関連の自己批判はゾルゲをなぞらえた人物からも語られていた。だが率直に言えば、この映画の、言語化できる思想的な意味合いなど、どうでもいい。
 意味は、近代人の夢というもののもたらす魅惑と、必然的な悪、その双方をそのままに含めて、それが時代の狂気のなかで風が立ちあがるとき、人は生きようと試みなければならない。その生への依拠に美が現れることは避けがたい。

  Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
  風が立ち上る、生きようと試みねばならない。

 映画の冒頭のシーンで、菜穂子が"Le vent se lève"と語りかけ、堀越二郎が"il faut tenter de vivre"と答えるシーンは軽妙なのにテーマが強く暗示されて美しかった。
 菜穂子が"Das gibt's nur einmal"でリリアン・ハーヴェイ(クリステル)に重ねられたイメージで示されたシーンも心地よく感じられた。歌詞の訳は表示されなかったが、菜穂子の死を暗示する響き("Vielleicht ist es morgen schon vorbei")があった。


Das gibt's nur einmal, das kommt nicht wieder.
Das ist zu schön, um wahr zu sein.
So wie ein Wunder fällt auf uns nieder
vom Paradies ein gold'ner Schein.

これは一度だけあることで、再び来ることはない。
それは素晴らしすぎて、本当ならありえない。
だから天国から奇跡みたいに
私たちに降ってきた黄金の輝き

Das gibt's nur einmal, das kommt nicht wieder,
das ist vielleicht nur Träumerei!
Das kann das Leben nur einmal geben,
vielleicht ist's morgen schon vorbei!
Das kann das Leben nur einmal geben,
denn jeder Frühling hat nur einen Mai.

これは一度だけあることで、再び来ることはない。
これは多分ただの夢にすぎない。
生きているのはただ一度のだけかもしれない
多分、明日はもう終わっている。
生きているのはただ一度のだけかもしれない
だって、どんな春でも五月は一度だけだから。

 ふと振り返ると、この映画には英語が出て来ないのもよい。英語や英語的な批評観点からは見えにくい「生」の感性がよく表現されているようにも思えた。
 この映画をもって宮崎駿が制作を終えるということも納得がいった。そして、そうしたごく彼の個人的な了解で私の印象を語るなら、菜穂子の性交の暗示がありながらその死の描写を避けたのは、九試開発の描写を避けたことにも重なるが、そうした堀越二郎の人物像に関連しているよりも、宮崎自身のごく個人的な青春の思い出に関連しているように受け止められた。
 
 

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コメント

この映画については、批評感想が大きく分かれていたので、あえて見ずにいたのですが、
本エントリのfinalvent氏の論評を読んで、見なけれなならないなと思い、見ました。

見た結果、やはり全く完全な映画でした。
もっとも批判の多いタバコのシーンですが、二郎が幼少のころより相手を傷つけないやさしい
うそをつける人間であったことを考えると、菜穂子が妻としての居場所を与えるため、わざと
二郎が最後に菜穂子に「菜穂子のおかげだよ」という言葉をかけるための布石として取った
行動だと解釈すべきで、すると、一見技術以外は愚鈍な男に見える二郎は、恋愛においても
隙なく完全であったように思えます。

それよりも、この映画について私の個人的な因縁みたいなものが、何点かあったので、この
映画を紹介してくださったお礼に、何かしら「へー、不思議なこともあるもんですね」程度の
興味でも持っていただけたらと思い、ご紹介いたします。

私の妻は6年前の夏に自殺をしました。
生前は、妻と私と二人でこの極東ブログをよく読んだものでした。
色々と後始末を終え、久しぶりに極東ブログを見たとき、「知人の自殺をきいて」がエントリ
されていて、勝手に妙なシンクロを覚えたものでした。
妻の名は「奈緒子」と言い、漢字こそ異なるものの、映画内で同じ発音で呼ばれるヒロインと
その周囲の人間たちを他人事のようには見れないものでした。
作中の"Das gibt's nur einmal"は、妻が死ぬ前年、新婚旅行でウィーンに行き二人で着物を
着てオペラ座でオペラを鑑賞したことを連想させましたし、羽織こそ着なかったものの、式を
挙げる際の菜穂子の着物姿は、色も同じでウィーンでの妻の姿を思い起こさせるものでした。
とはいえ、最後のシーンが、よもや私個人に向けられた言葉であるとは思っていませんが、
(何より、私は作中の二郎とは比較もできないような、「生きて」と声をかけられる価値も
ないダメな夫でした)何かしら、ヒュードロドロと表れて生きている人間を怖がらせるのとは
正反対ではあっても、亡者の念みたいのがあるのかしらという疑念を拭いきれないでいます。
この「風立ちぬ」という映画の企画が挙がったのが、リーマンショックの前後ということで、
妻が亡くなった直後あたりであったことも、妙な偶然性を感じました。

以上、「奇跡体験!アンビリバボー」にでも出てきそうな、この「風立ちぬ」にまつわる、
しょうもない個人的なエピソードでした。
コメント欄に投稿しましたが、本文はfinalvent氏個人に宛てたもので、公開はされないことを
希望します。
最後に乱文乱筆失礼いたしました。

投稿: | 2014.11.03 14:41

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