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2014.10.14

「墓が捨てられる」時代

 先週のクローズアップ現代「墓が捨てられる」(参照)が興味深かった。文字どおり、墓が捨てられていく現代日本の状況を描いていた。墓が誰の所有かわからなくなれば、捨てるしかない。
 目につくのは、捨てられる膨大な墓石である。番組冒頭では、淡路島に不法投棄された1500トンもの墓石の山が映し出された。
 その投棄される墓石には合わせていなかったが、少なからぬ遺骨もまた捨てられているように思えた。
 墓石自体は岩石なので砕けば道路工事用の砂利として再利用できる。その費用は1トン5000円から1万円ということで、コストの都合から淡路島に不当投機されたらしい。
 映像を見ながら、行政で罰則規定と墓石再利用に補助金を付ければ、なんとかなるだろうなと私はぼんやり見ていた。しかし、ゴミ投棄やゴミの再利用のような話ではないなとも思っていた。墓そのものを維持することが難しくなった現代が背景にあり、そこに問題の根もある。
 番組はもちろん、そこも考慮されていたし、近代日本における墓の問題にも言及していた。

cover
生誕の災厄
 自著にも書いたが私は若い頃、離人症的な状態に陥って来る日も来る日も墓を巡って見ていた時期がある。人は死ものだという実感を確認したくもあったし、墓の風景にもなぜか魅了されていた。後に愛読したエミール・シオラン(Émile Michel Cioran)もそうした人であることを知って親近感を覚えた。
 日本の墓というのは近代に大きな変化を遂げている。番組でも触れられていたが、明治時代の民法で家制度が定められると、それに合わせて変化した。それ以前は個々人の土葬が中心であったが、家を単位に先祖代々墓というようにまとめられるようになった。もちろん、これはそういう傾向があったということで、すべてでもないだろう。
 これに戦後、労働者の都市流入と核家族化が拍車をかけた。番組では、「都会で墓ブームが起きる一方で、地方の墓の守り手は減っていきました」としていたが、このころから核家族が墓を都会に持つようになった。もちろん、これも傾向としていうことではあるだろう。いずれにせよ、戦後は都会に墓ができたが、人口縮小に合わせたかのようにしだいに田舎の墓は見捨てられていく傾向がある。
 番組はそれから、田舎での「墓仕舞い」を描いていた。田舎に残した墓の維持ができないので、それを仕舞って更地にするのである。遺骨は都会に持ってきて、別の場所を探すということになる。
 都会でも今後は墓は消えるしかない。人々は墓を持たなくなる。
 ここでおそらく私もそうだし、私より若い世代ですらそうだろうと思うが、自分が死んでも墓なんか要らないのではないだろうか?
 私にしてみると、墓は要らないと思う。沖縄の海に散骨してくれればそれでいい。
 しかし、それでいいのだろうか? いやいい悪いという問題でもない。市民がそれぞれ決めればいいことだが、ただ、ここでも、「墓なんか要らない」ということだけでは問題はうまく解決されないだろう。
 そう痛感したのは、先日テレビのニュースでぼんやり見ていた北朝鮮からの未帰還遺骨問題である。2万件を越えるらしい。80歳を過ぎた老人が北朝鮮の寒々とした荒れ地で遺骨を探している映像を見ながら私は、これはどういうことなのだろうかと困惑していた。私のように墓なんか要らないという人であれば、北朝鮮の遺骨なども収集しなくてもよいという考えに結びつきそうだが、そうにもいかない情感がそこにある。
 遺骨にこだわるのは、日本人特有の宗教観によるのかもしれない。そう解説して済む問題でもない。余談だが、日本人の墓というのは、中世まではなかった。親鸞なども廟があるだけだった。遺骨信仰がどのように生まれ、家制度に結合していったかは、実体的に考え直してみたいようにも思うが。
 結局のところ、墓石や遺骨というよりも、死者の名前という問題かもしれないとそれから考えた。そして私は沖縄南部に八年暮らし、なんども糸満の平和祈念資料館を訪問し「平和の礎」に刻まれた人々の名前を見て回ったことを思い出した。
 これの施設も、広義には墓と言えるだろう。そこで重視されているのは遺骨よりも名前であった。あそこでは沖縄の戦禍という、ある共同性が示されていた。
 死者の名前というのはなんらかの共同性のなかで、継がれるものなのではないか。。
 現代日本人の墓の問題は、おそらく理念的には、地域に根ざした市民社会のなかで示された共同性としてそこで名を刻むという形に収斂されていくように思う。
 そうした試みもすでに見られるとは思う。と、心にひっかかっているのは、その共同性への合意のようなものを市民側が了解できるだろうかということだ。
 単純に問うなら、その共同性は生前の市民の生活の延長にあるもののはずだが、現在の日本人の多数がそうした市民社会の共同性の生活空間を獲得しているようには見えない。
 
 

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「社会」カテゴリの記事

コメント

以前から拝読しています。著作も購入しました。共感を感じる部分が多いです。

あえて記させていただくのですが、最近文体などに乱れがあるように感じます。決して嫌みのつもりではありません。基本的には愛読者です。

それと最近は訳文が少しおかしいこともあるようですがお疲れなのでしょうか…。
本記事では以下の訳は変ですよね。
 >>the day of the ferry sinking…
 >>フェリーが死んだ日に行方不明になった……

リフレッシュなどして以前のような気概のある記事を執筆されることを望んでおります。

投稿: 多田英樹 | 2014.10.15 22:31

多田さん、ご指摘、叱咤ありがとうございます。「フェリー死んだ日」は「フェリーが沈んだ日」の誤記でした。訂正しました。文体については、基本的に軽く書くようになってきたように思います。ただ、率直なところ累積的な心の疲れのようなものあります。

投稿: finalvent | 2014.10.15 22:53

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