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2014.10.03

なるほど捕鯨を自由化すれば捕鯨は終わるかも

 日本の捕鯨問題は微妙な問題だと思う。個人的には、各国から捕鯨はやめろ言われているのだし、日本にとって捕鯨がさほど重要だとも思えないので、やめればそれで終わりではないかという印象はある。が、少し考えると、なかなか実態は複雑だなと思える。考えるに怯むという感じもする。なのでごく簡単に、3月31日国際司法裁判所(ICJ)下された判決あたりから振り返ってみる。
 今回問題となったのは、2005年から実施されている第2期南極海鯨類捕獲調査事業(第2期調査)の実施についてである。判決は、南極海に限定されるが、第2期調査の実施を差し止め、さらに今後は日本政府の調査計画も差し止めるというものだった。
 なぜこうなったかだが、前提は、科学的な調査は認められるが、商業捕鯨は認められない、ということ。そこで第2期調査の実態を見ると、日本側の科学的な調査ではないと判断された。だったら、実質商業捕鯨になっているではということだった。
 なぜ、科学的な調査ではないと判断されたか。科学的な調査なら対象となるミンククジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラの三種について、前提として統計的な有意レベルの捕獲数が必要だが、にもかかわらず、それが現状捕獲されていないからだ、ということだった。
 逆に言えば、ミンククジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラが予定どおり捕獲されているなら、その統計的な有意レベルになっただろうし、商業捕鯨とは見なされなかっただろう。
 実態はどうか。ザトウクジラはゼロ。ナガスクジラはわずか。ミンククジラは計画の4分の1だが、全体から見るとミンククジラだけ捕獲しているかに見える。これでは科学調査になりえない。
 これだけ見ると、これでは調査になっていないと思う。だが、裁判に上がらない背景がある。ザトウクジラは主にオーストラリアからの政治的圧力で実質2005年から捕獲をすでに断念していた。ナガスクジラの捕獲が少ない理由はよくわからない。ミンククジラも捕獲が少ないことから、同様に反対意見に配慮したためではないかと思われる。
 いずれにせよ、これでは調査になっていないということは言える。そもそも調査できないじゃないですかと言えないこともない。
 その現状を判断すると今回の結論になったということではないだろうか。その他にも、規定の解釈に異論もありそうだった(参照)が、法議論は私にはよくわからない。
 南極海以外に三種のクジラはいるし、この点については直接的には今回の判決には影響しないので、三陸沖から東経170度、北緯35度以北の海域の調査捕鯨は継続する。
 それでいいのかという問題が起きる。
 率直に言うと、その枠組みでは私にはわからない。
 ただ、今週のニューズウィークにも翻訳記事が掲載されているが、ディプロマット寄稿による視点、「日本:クジラを食わせてやれ(Japan: Let Them Eat Whale)」(参照)は興味深かった。捕鯨を自由化すれば捕鯨は終わるかもしれないというのだ。
 記事は、南極海での捕鯨調査が実際上難しいという現状についての言及がないので、あまり公平ではないなという印象もあるし、また、そもそもこの記事はネタかもしれないなという印象もある。だが、指摘自体は興味深い。


That Japan is now going all out to morph its bogus research program into something the international court would legally sanction is not surprising. For years, its whaling programs have enriched and empowered an interlacing web of business, political, and bureaucratic interests often at odds with many of Japan’s larger national objectives, such as environmental stewardship.

日本は現在、偽の研究計画を国際法廷が法律上是認可能なことに変更すべく全力を尽しているが、これは驚くべきことではない。何年にもわたり、その捕鯨プログラムはビジネス、政治で、官僚的な利益が交錯する関係で資金投入され強化されてきた。これらは、しばしば環境保全など日本のより大きな国家目標にそぐわないにもかかわらずだ。

The result is that whaling in today’s Japan is neither “research” nor “commercial.” Now an essentially state-run enterprise, it has all the trappings of the worst kind of market-distorting subsidies and wasteful government spending that rival the world’s most inefficient state-owned corporations.

その結果、今日の日本の捕鯨は「研究」でも「商業用である」でもない。今や、本質的には国営で企業であり、それは市場を曲じまげる最悪の補助金と、世界で最も非能率な国有企業に肩を並べる無駄な財政支出で全体が覆われている。


 ごく簡単にいうと、捕鯨というのは、一種の国家事業で、商用と言っているわりに、商業的な基盤が予期されているわけでもないということ。
 水産庁関係の存続が目的なのだとの指摘もある。

Set up in 1987, the non-profit Cetacean Research Institute runs Japan’s whaling program. It owns Japan’s whaling fleet, hires its mariners, and distributes and stores whale meat. It receives tens of millions of dollars annually in government subsidies for its services -- more than $50 million just for the most recent fiscal year. It is also where many retired officials from Japan’s fisheries agency and other bureaus go after retirement, forming an extended iron rice bowl system of lucrative sinecures that helps ensure Japanese whaling survives.

1987年に設立された非営利団体である鯨類研究所が日本の捕鯨プログラムを運営している。それは日本の捕鯨船団を所有し、要員を雇用し、鯨肉の配布・保管を行う。それは、このサービスのために政府補助金として、毎年数千万ドルを受け取っている--最新会計年度で言えば5000万ドル以上である。それはまた、日本の水産庁や他局からの多くの退職者に退職の世話を行っているし、儲かる閑職に食いはぐれのない職種システムを形成し、日本捕鯨を存続を手助けしている。


 そこはよくわからない。それほど強固な団体とも思えないからだ。
 しかし、捕鯨が商業的であると海外から見られているわりには、実際に市場で求められているかというと、日本人として、まったく生活実感がない。この点も同記事に言及されているが、そもそも現状でも余剰在庫があり、日本人が鯨肉を食べていない。ときどき食べるとまれに食べるを合わせても日本人の14%。食べないとするのは37%とある。実感に近い。
 ということから、同記事では逆に、捕鯨をきちんと自由化させ、日本国家から切り離したら、捕鯨は終わるだろうというのだ。
 まあ、そうかなとは思う。近未来的にはそうだろうと思う。世界史を眺めてもわかるようにそもそもクジラの乱獲を長年やってきたのは、日本だけではないし、当時の乱獲ニーズが現在世界にあるとも思えない。食材として、ミンククジラより他のクジラが美味しいといっても、それが理由で即座に乱獲が始まるとも思えない。
 市場原理に従えば、日本の捕鯨は終わるだろうと思う。
 なんとも皮肉な話だが、ディプロマット記事は日本での捕鯨団体の利権を批判しているが、実際のところ、世界の反捕鯨団体もまたそのシステムの中にある。捕鯨を批判するから、市場が適正化されないのである。
 もっとも、捕鯨というのはそもそも市場の問題ではなく、生態系の問題であるとも言える。だったら、国際機関で調査捕鯨をすればよいのではないか。
 
 
香港・真正的普選
 
 

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コメント

捕鯨については商業的な合理性などに基づいて考えると結論は自明ですよね。実際、民間はとっくに撤退しているわけですし。
一方、海軍力(造船・遠洋航海能力)を保持したいがために維持されているという説があります。そもそもGHQ統治時に、旧海軍の船員の再就職先として好都合ということと、アメリカからの緊急食料援助拒否があいまって始まった事業という面もあります。
歴史的にオーストラリアでは日本の海軍力への警戒心が強く、強硬な反発にはそれも背景にあるという説ですが、なんだか深読みしすぎの感もあります。
どう思われますか?

投稿: | 2014.10.03 15:12

たしかニュースに紹介されてるエライ政治家の発言は、あれは、日本文化を守るための捕鯨って何度も言っているんだけどね。日本語で話しているから、外国人は理解できないし、ニュースも知らないと思ってるのかな。で、外国との交渉では、科学的調査のためって言うわけでしょ。ウソついているってことにならないのかなぁ、日本では。で、本当に文化のためなら、その文化をもっとアピールすればいいのに、素直に正直に。ただ、日本の文化のために、地球上の海全部みたいな感じはよくないなぁとも思うから、本当に丁寧にお願いし続けるってことでしょ。当然の権利みたいな主張も変じゃないかな。

食の文化でいうと、どこかの国が犬を食べているわけだけど、そこの国の人たちは、そのことを科学的調査のためだとかいわずに、ちゃんと国の文化だと主張している。と、日本側は、なぜか、そんな文化はおかしいだろうとかというのばかり伝わっていくわけでしょ。もしかして、そうされないように、文化が目的だって堂々と世界に主張できないのかな。

なので、結論でいうと、捕鯨は文化遺産にした方が、美しくなって、後世まで残っていくと思う。その文化の素晴しさが世界に伝われば、その技術を守る最低限の捕獲はゆるされると思うのだけどね。ただ、文化を支える職人さんたちがいることが大前提で。

投稿: | 2014.10.03 16:19

(16:19のコメントへ)
確かに沿岸地域で行われる捕鯨と、そこから供給された鯨肉を食べる(一部地方の)食習慣は伝統文化といえるのかもしれません。しかし、国際的に批判されている遠洋での組織的な捕鯨とは別物でしょう。

ただ、動物愛護的な観点からは両者の区別はないでしょうし、意図的に同一視して自説を有利に展開する向きもあり、話がこじれてしまったというのが現状でしょう。
鯨肉食が全国区になったのはあくまで戦後の食料不足をきっかけとしたもので、伝統や文化といって外洋での捕鯨を擁護するのは無理筋だと思います。
現に、食料供給が安定するに伴って自然消滅しつつあるのが実状ではないでしょうか。

投稿: | 2014.10.03 22:44

捕鯨は単に鯨そのものの利用だけが目的ではありません。長年鯨の捕獲を止めていたために他の魚が猛烈な勢いで減少しています。
和歌山県における沿海捕鯨は、高知県の魚連からの依頼も大きな動機になっています。
このまま何もしなければやがて食用の魚は取れなくなりますし、鯨自身も餌がなくなり自滅するでしょう。
シカやクマによる森林被害を防止するため一定数の「間引き」をしているのと同じ理屈です。
ナルトビエイなどの駆除も一切合切やめてしまって自然の摂理として放置するのも結構ですが、その場合捕鯨反対派が掲げている生態系の維持という目的の達成はまずもって難しいでしょうね。

さて、ここまでは理屈の上での話ですが、ここからは彼らの政治的な意図についてです。
やめろと言われたからやめたら良いとおっしゃいますが、問題なのは仮に彼らの理屈が100%正しいとして、彼らが日本のみを標的にしていることです。
ノルウェーなどは現在でも商業捕鯨を続けており、今年はこの20年で最大の捕獲数に達しています。
であるにもかかわらず、反捕鯨派はノルウェーには何も文句を言わず、それより少ない最低限度の捕鯨をしようとしている日本のみに文句を言っています。
彼らの理屈は初めから全く筋が通っていないのです。

投稿: | 2014.10.03 23:39

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