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2014.10.27

計算尺の思い出

 先日、宮崎駿の『風立ちぬ』について書いたおり(参照)、こういうコメントを貰った。名前は出す必要がないので省略する。


申し訳ないけど、どう読んでも映画の素晴らしさが伝わってこない。これはもう世代の断絶だね。

 この映画のすばらしさを伝えるのが目的ならたぶん、読者層を想定して別の書き方をすると思う。また、評論的に書くなら、cakesのような別の媒体に書くと思う。先日の話は、自分の思いをまず自分のブログに勝手に書いてみたかったというのがあった。ただ、「勝手に」といっても迷ったことがあった。計算尺のことである。
 この映画では、計算尺がとても大きな意味をもっている。だが、そもそも、計算尺というものの歴史的な情感が、ある年代より若い人に伝わるのだろうかと考えていた。もちろん、計算尺がなんであるか、というのは、一言で言える、手動式の簡易な計算機である。であれば、電卓のようなものかというと、とりあえずそうだとも言えるが、ここから、微妙に口ごもるのである。
 電卓はどちらかというと算盤に近い。算盤については、教育的な見地から現代でも見直されつつあるし、米国などでも理解されている。数という概念や四則演算を理解する教育的な道具にもなりうる。しかし、計算尺となると、対数の理解にはよいかもしれないが、やはりそうもいかないだろう。
 算盤と計算尺はどう違うのか? なぜ飛行機の設計者が計算尺を片時も離さなかったのか? なぜ「風立ちぬ」の主人公は片手で計算尺が使えることを誇っていたのか?
 ここで「そんなことあたりまえだろう」と言えるのだろうか。いや、もちろん、設計には計算が必要だから計算機が必要……という文脈は理解されるだろう。ここでさらに口ごもる。
 本当は、計算尺とは何か、なぜそれが使われたのか、ということを、説明した気持ちに駆られる。もちろん私が適任者ではない。幸い、この文章を書き始める前にネットを検索したらそういう説明サイトもあったので、詳しく調べることもできるだろう。ついでに、私より一年年下の女優・樋口可南子が中学生のころ計算尺のクラブに入ってという話も見かけた。
 私の思い出みたいなところから話したい。大正15年生まれの私の父も技術者だったので、いつでも計算尺をもっていた。家にも計算尺が何個かあった。小学生の時、自分専用にもらったこともある。嬉しかった。父の部署の若い人で、計算尺大好きという人がいて、わざわざ計算尺の個人教授をしてもらったことがある。残念ながら大半は忘れてしまったが、彼が熱烈に述べていたのは、一つの計算をしてその答えを出したあと、さらに数値を使ってどう次の計算をやっていくかという、計算尺特有の手つきだった。感心して見ていた。手の動かし方が見事だった。映画を見て、あれを片手でやるのだなと、胸にじんときた。
 私にとって計算尺の時代は1960年代である。すでにコンピューターの時代が到来することはわかっていた時代でもあり、私の父も特別にコンピューター技術の講習会に通っていた。その時の講座テキストで私はコンピューターを学んだ。70年代が始まる前のことである。その後、トランジスタを使ってAND回路やOR回路などからラッチを作る技術などに私も夢中なり、そこからコンピューターに魅了されていくようになった。
 関連してもう一つ思うことがあるが、私は小学生のころ父から電気磁気を学んだのだが、そのころの教科書にはすべて巻末に三角関数表と対数表が付いていた。あの数字だけのページを見なくなって久しい。あの数表は計算尺の補足でもあった。
 変わったのはいつだろうか。転機は関数電卓の登場である。その始まりは、HP-35。1972年である。ポータブルで画期的な関数電卓だった。余談だがこいつはリバース・ポーリッシュ方式だった。FORTHと同じ、ポストスクリプトとも同じである。
 HP-35の1972年は「カシオミニ」も出て、日本社会にも大きな影響を与えた。現代的な意味での電卓というものの事実上の始まりと言っていい。社会的なエポックは名刺サイズまで小型化された1978年のLC-78だろう。だが、計算尺を実際に追いやったという点からすると、1974年のカシオのポータブル関数電卓fx-10からだろう。
 この歴史に並行してマイコンが成長していた。嶋正利が関わった、現代のマイクロプロセッサの原形のインテルの4004が1971年。8ビットの8008が翌年。この時点ですでにパソコンの原形が見え始め、1974年に我らが8080が登場した。アルテア8800が翌年である。ここからマイコン、そしてパソコンの文化が始まる。当初はマイコンのニーズは制御が主目的だったが、BASICをOSとして(そうだったのだ)コンピューター言語を持ち、関数計算に結びついていった。
 かくして、1980年までにはだいたい計算尺のニーズはなくなっていった。
 しかし、1970年までの技術の世界の大半を支えていたのは計算尺である。原爆も計算尺から生まれた(ファインマンが機械式計算機を使ったのも有名だが)。人類を月面に送り出した技術も計算尺に大きく依拠していた。アポロの乗員は計算尺を持っていた。
 現代ではもう、『風立ちぬ』のような計算尺は製造もされていないらしい。円盤形のはまだある。あれだと、手つきは変わるだろうなと思った。
 
 

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2014.10.25

[映画]風立ちぬ(宮崎駿)

 宮崎駿の『風立ちぬ』は前評判的な情報などを聞いて少しうんざりした感じもあり、また私も、リアリズムっぽい作品が苦手でSFやファンタジー的な作品のほうが好きだし、どっちかというと、アニメ映画は子どものためにつくるもので、大人のために作っちゃいけないつくっちゃいけないような感じもしていたので、少し避けていた。

cover
風立ちぬ
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 が、見た。完全な作品だった。そのことにまず圧倒された。もちろん、三行でまとめられる大きなストーリーがないのにどこが完璧なんだよという意見もあるかもしれない。いや、そうしたストーリーこそ完全性の対極にあるものだ。
 まったく隙というもののない完全な作品だった。こんなものが創作できるのかというのが驚きだった。隙のなさはバランスの良さということもであるのだが、映像のディテールの充実にも圧倒された。緻密に歴史考証していくと間違いやフィクションとしてやりすぎという部分もあるのかもしれないが、よくここまで詳細に風景が描き出せるのものだ。
 オオバコの一カットにさえ泣けた。タバコに火をつける紙マッチのしぐさもしびれた。言葉の美しさは陶酔的でもあった。「大心配(おおしんぱい)」の響きが聞けたときには涙ぐんだ。そして私のルーツは軽井沢だし、故郷の一つといってもいいあの町の、万平ホテルあの風景はも胸締め付けられるほどの郷愁を感じた(さりげないテニスコートのシーンは戦後の天皇制の近代性への信頼もある印象を受けた)。
 映画に描かれているあの時代の風景を生活実感の延長として想起できる世代が恐らく昭和32年生まれの私で最後なのだろう。よくこれだけの映像を残してくれたなあという感謝のような思いがある。
 物語のテーマは、近代人の夢ということでよいのだろう。もちろん、巨大な作品だし、多様な読み方はできるだろう。零戦賛美というような陳腐な理解というか誤解についても作者は想定の上だろうし、戦争との関連の自己批判はゾルゲをなぞらえた人物からも語られていた。だが率直に言えば、この映画の、言語化できる思想的な意味合いなど、どうでもいい。
 意味は、近代人の夢というもののもたらす魅惑と、必然的な悪、その双方をそのままに含めて、それが時代の狂気のなかで風が立ちあがるとき、人は生きようと試みなければならない。その生への依拠に美が現れることは避けがたい。

  Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
  風が立ち上る、生きようと試みねばならない。

 映画の冒頭のシーンで、菜穂子が"Le vent se lève"と語りかけ、堀越二郎が"il faut tenter de vivre"と答えるシーンは軽妙なのにテーマが強く暗示されて美しかった。
 菜穂子が"Das gibt's nur einmal"でリリアン・ハーヴェイ(クリステル)に重ねられたイメージで示されたシーンも心地よく感じられた。歌詞の訳は表示されなかったが、菜穂子の死を暗示する響き("Vielleicht ist es morgen schon vorbei")があった。


Das gibt's nur einmal, das kommt nicht wieder.
Das ist zu schön, um wahr zu sein.
So wie ein Wunder fällt auf uns nieder
vom Paradies ein gold'ner Schein.

これは一度だけあることで、再び来ることはない。
それは素晴らしすぎて、本当ならありえない。
だから天国から奇跡みたいに
私たちに降ってきた黄金の輝き

Das gibt's nur einmal, das kommt nicht wieder,
das ist vielleicht nur Träumerei!
Das kann das Leben nur einmal geben,
vielleicht ist's morgen schon vorbei!
Das kann das Leben nur einmal geben,
denn jeder Frühling hat nur einen Mai.

これは一度だけあることで、再び来ることはない。
これは多分ただの夢にすぎない。
生きているのはただ一度のだけかもしれない
多分、明日はもう終わっている。
生きているのはただ一度のだけかもしれない
だって、どんな春でも五月は一度だけだから。

 ふと振り返ると、この映画には英語が出て来ないのもよい。英語や英語的な批評観点からは見えにくい「生」の感性がよく表現されているようにも思えた。
 この映画をもって宮崎駿が制作を終えるということも納得がいった。そして、そうしたごく彼の個人的な了解で私の印象を語るなら、菜穂子の性交の暗示がありながらその死の描写を避けたのは、九試開発の描写を避けたことにも重なるが、そうした堀越二郎の人物像に関連しているよりも、宮崎自身のごく個人的な青春の思い出に関連しているように受け止められた。
 
 

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2014.10.23

香港・雨傘革命の本当の力

 21日、香港で普通選挙を求める抗議デモのなか、デモ学生の代表と香港政府代表の対話が実施された。この問題に関心をある人なら、この対話の内容や結果に期待をもつことはないだろう。重要なのは、対話に香港政府代表を引き出したということで、それ自体がデモ側の勝利の一つとして位置づけられる。
 今後の動向がどうなるかはわからない。大筋、共産党中国政府が、香港の民主化に明示的に妥協することはないと見られる。それをすれば中国が解体してしまう。中共側としては、現状の台湾との関係と同様、言語的な規定は曖昧のまま実態を静かにねじ曲げていくという方向ならざるをえない。
 このことは、天安門事件のような流血や、李総統(大統領)選出時のミサイル威嚇のようなことを中共側がしずらい、ということでもある。しかし、中国という国はこうした常識的な視点からは捉えられない面があるので、国際社会も慢心はできない。
 今回の雨傘革命でも、そもそも中共側としては、言葉上は香港に普通選挙を認めた妥協案を出していたつもりだった。もちろん、中国にありがちなことだが、制度のからくりからは別になっている。香港でも自由に市民が立候補できないようになっていた。そのあたりの無茶なからくりを、中共側としては、武力と経済力を背景に押せば、香港側が飲むだろうと見ていたのだろう。
 そうした読みは従来の視点からはすれば合理的でもあった。だが、一部には米国民間団体など外国からの支援はあるにせよ、今回のデモはかなり深いレベルで香港市民から発生しているため(その顕著な部分は高校生の運動に見られた)、読みが外れたと言える。
 今回のデモが香港市民社会の基盤的な部分から発生してということは、中共がお好みの、標的にできる先導者や中核が不在であることを意味している。中国国内にようには弾圧しづらい。これは非常に興味深い現象でもあった。
 いずれ中国国内でも市民意識が一定段階に達すれば、この香港と同様のことが発生し、中国共産党は歴史的な幕を下ろすことになるだろう。ただ、その段階に達するまで、基礎的な経済成長が進むかどうかは危ぶまれる。
 基本線は以上のような見通しを私はもっていたのだが、もう一点、香港の本当の力を考えさせらることがあった。逆説がある。
 香港がその返還時に英国と結んだ約束では(それは同時に国際社会が履行を監視するものだが)、二制度が50年間維持することになっていた。この決断を下した鄧小平としては、実質的な資本主義化の先端として香港を貿易・金融センターとして位置づける意味合いもあった。しかし近年の動向から、中共側としては香港なくして上海で貿易・金融センターが維持できると見るように変化し、ゆえに香港を政治的に弾圧できるとしてきた。
 そこまでは私も想定していたのだが、どうやら今回の雨傘革命の進行を見ていると、上海の問題のほうがじわじわと浮かび上がってきた。
 ポイントは昨年9月29日に開催された「上海自由貿易試験区」がすでに失敗していることだ。ちょうど1年後の9月29日のWSJ「上海自由貿易試験区、開設から1年も成果は期待外れ」(参照)より。


 事業手続きの簡素化や特定業種への投資開放など、一定の変化も見られるが、企業幹部らは改革が不十分との見解を示している。上海自由貿易区管理委員会の党組書記を務めていた戴海波氏が15日に更迭されたことも、試験区の不振に拍車を掛けた。
 コーネル大学で中国を専門とするエスワール・プラサド氏は「上海自由貿易試験区では、ほんのわずかな進展しか見られない。中国では市場主導型の金融システムへの移行を目指す改革の歩みが段階的にしか進まないという低い基準で見ても、そう言えよう」と述べた。

 やっかいなのは、この問題が李克強首相批判という政治問題に変化してくると別の危険な問題になることだ。いずれにせよ、「上海自由貿易試験区」が発展していく兆しはない。いろいろ問題があるが、これは、そもそも高度な資本主義が機能しないことであり、そもそもそれを支える自由主義が機能できないからではないだろうか。

 だが、企業幹部の反応は鈍い。スウェーデンのスカンジナビスカ・エンシルダ銀行(SEB)上海支店のマーチャント・バンキング部門責任者、フレドリク・ハーネル氏は「自由貿易区として大きな魅力があるとはまだ感じられない。1年もすれば、もっと多くの進展があると期待していたからだ」と述べた。
 ハーネル氏は、試験区内での人民元建て社債の発行に関する許可や、全額出資の外国投資銀行や証券会社による中国国内の資本市場への全面アクセスなどで、飛躍的な進展が見られることに期待していたと言う。
 ハーネル氏によると、SEBは現時点では試験区内の支店開設を検討していない。同氏は「今のところ、試験区外では不可能でも区内なら可能ということが見当たらない。ただ、オフショア市場での資金調達や資本市場への完全なアクセスといった抜本的な改革がなされた場合は、支店開設を検討するつもりだ」と述べた。

 上海でのこのドジな状況は、逆に対比として香港の優位を語っていることになった。
 香港の市民社会の規範が、その貿易・金融的な機能の基盤になっているなら、これを現時点では中共はつぶせない。そこに香港・雨傘革命の本当の力の源泉があるように思われる。
 さらに、ここで香港の市民社会を押しつぶせば、中国本土側の貿易・金融規制緩和に国際的な汚点ともなるだろう。上海への期待は消える。
 中国的な考えからすれば、経済(儲け)というのは政治と分離できるという前提があるのだろう。だが実態は、市民社会の倫理と資本主義経済の規範は同質であり、そのことを中共は、本当には知らなかったのかもしれない。
 
 

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2014.10.22

[書評]初代総料理長サリー・ワイル(神山典士)

 ミラノ風ドリア? 知らないでいたら、どうも知らないのは私くらいらしく、そのことで私のほうが驚いた。ツイッターや周りの人に訊いたりしてなんとなくわかった。調べてみて、なんでミラノ風かということもわかって、苦笑した。

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初代総料理長
サリー・ワイル
 それはまあそれでいい。が、「ドリア」については長年疑問に思っていたので、この機にちょっと調べたら、意外なことがわかった。昭和初期に来日した横浜のホテルニューグランド初代総料理長サリー・ワイル(Saly Weil)の創案らしい。
 後世にその料理が残って日本に定着するほどの影響力をもっていた料理人である。どんな人だったのだろうかと、ちょっと興味を持った。しかも、彼はスイス系のユダヤ人らしいというのも興味引かれる。そこで書籍を探したらそのまま『初代総料理長サリー・ワイル』という本があったので読んでみた。これは面白い。
 サリー・ワイルは、1897年(明治30年)に生まれ、1927年(昭和2年)、横浜ホテルニューグランド開業にあたり、パリのホテルから招請されたらしい。当時の年齢は30歳になったばかりなので、かなり若い人のようにも思うが、本書を読むとわかるが、その年齢で欧州の諸処でいろいろ料理の経験を積んだ人らしい。ただ、なぜこの時期に来日を望んだかというのは、著者がこだわりをもつように、いろいろ考えさせられるものがある。
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Kindle版
初代総料理長
サリー・ワイル
 著者は本書執筆にあたりいろいろと彼の事績を調べ、その人物像を描こうとしているが、ノンフィクションにありがちな奇妙な思い入れがない分、サリー・ワイルという人の実像は掴みにくい印象をもった。
 小泉八雲の来日前の生涯を追ったときも思ったのだが、自由な個人という陰影が深く、本質的に理解しづらい人物だと思わせる部分がある。八雲同様、女性遍歴もいろいろあったようにも察せられる。それなりの資産を形成したはずなのだが、戦禍という不遇はあったにせよ、晩年は質素に暮らしているのも奇妙には思える。
 80近い年齢まで生きて、日本の弟子からも慕われたが、直系の子どもがなかったこともあるだろうが、本書が書かれた2005年にはその墓の所在も苦労して探すように忘れられていたようだ。
 人物像に関連し、これも著者の関心をなぞることになるが、戦中日本にいたことも興味深い。最初に連想されるのはユダヤ人なので欧州を恐れたということはある。が、そのあたりも判然とはしない。それでも当時日本に残っていた西洋人たちが軽井沢の「つるや旅館」付近で事実上の軟禁状態にあった歴史なども、こういうとなんだが、面白い。。
 サリー・ワイルを一流の料理人という点から見ると、私もその存在を知らなかったのだが、同書が出るまで本格的な研究はなかったようだが、他面、これも本書でわかるのだが、きらびやかといってほどの弟子の人材・人脈を日本に残している。彼は戦後も欧州にあって、日本のフランス料理人の育成多大な貢献をしたことが本書からうかがわれる。
 そうした日本との交流の結果的な一端とも言えるのが、彼の創案の「ドリア」らしい。なぜ「ドリア」という名称なのかは本書でもわからない。
 いろいろディテールが面白い書籍でもあり。戦争だの政治・経済、あるいは大衆芸能史などで語られやすい昭和史も本書のようなハイカラな描写も見直すと興味深いものである。
 そうした逸話的な部分でちょっと驚いたのが、「ハンバーグ・ステーキ」である。私は以前から、この日本の「ハンバーグ・ステーキ」とはいったいどこの西洋料理なんだろうかと疑問に思っていた。似たようなものは米国料理にもあるが、違う。どちらかとミートローフに近いがそれでもない。そもそもパン粉を混ぜるところが面妖である。
 ところが本書にあるようにサリー・ワイルが伝えるその調理法は、なるほど現在日本のハンバーグ・ステーキに近い。というか、これだろう。印象ではあるが、日本のハンバーグ・ステーキというのもサリー・ワイルの創案なのではないだろうかと思える。
 スイス人という視点も興味深い。サリー・ワイルという人物を著者の感覚で追いながら、その視点でとても納得するのが「スイス人」という見立てである。いろいろ考えさせられるのだが、なかでも以下の一言には感銘した。

誰とも与しないかわりに誰とも対立しないという永世中立国の理念は、そうした国民の行動様式がベースになっている。
 そのことを端的に示す例として、スイスの小学校の教えの一つにこんな言葉があると聞いた。
「一つの言語を覚えると、一つの戦争がなくなる」
 この教えに、世界の中でも特異なスイスのありかたが凝縮されている。

 いい言葉である。「一つの言語を覚えると、一つの戦争がなくなる」
 世界の平和を希求する日本人としても、一つ一つ戦争を無くすために一つ一つ言葉を覚えていくとよいだろう。習得できなくても、覚えようとするだけでも、それは本当に平和につながっていくのではないだろうか。
 
 

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2014.10.21

フィナンシャルタイムズは安倍内閣による第二次消費税増税に懸念

 安倍晋三首相は、日本経済に打撃を与えるなら、消費税率10%への引き上げは「無意味になる」とフィナンシャル・タイムズ(FT)とのインタビューで述べた。時事「消費増税、「経済に打撃なら無意味」=安倍首相、英紙インタビューで」(参照)ではこう伝えている。


 同紙電子版が19日報じたところによると、安倍首相は、消費税増税の狙いが次世代のための社会保障財源を確保することにあると強調。ただ、「他方で、われわれはデフレを終わらせるチャンスをつかんでおり、これを失うべきではない」と指摘し、「もし増税で経済が成長軌道を外れたり、減速してしまったりすれば税収が増えず、全てが無意味になってしまう」と述べた。

 該当のFT記事は19日付けの「Abe balances tax rise against economic damage」(参照)だろうか。

The Japanese economy shrank 7.1 per cent between April and June compared with a year ago after Mr Abe’s government raised consumption tax from 5 per cent to 8 per cent. A second rise has strong backing from the Bank of Japan, the finance ministry, big business and the International Monetary Fund, which all want action to reduce the country’s mountainous debt. A postponement would require a change in the law.

安倍氏の政府が消費税を5パーセントから8パーセントまで引き上げた後、1年前にと比較しすると、4月と6月の間に日本経済は7.1パーセント縮小した。第2増税は、日本銀行、財務省、大企業と国際通貨基金から強い支持を得ている。彼らはとにかく山のような国債を減らしたいのである。延期するなら法律改変が必要となる。

But Mr Abe said: “By increasing the consumption tax rate if the economy derails and if it decelerates, there will be no increase in tax revenues so it would render the whole exercise meaningless.”

しかし、「消費税増税によって、仮にこの経済が軌を逸し減速するなら、税収増加は期待されないし、すべての実施が無意味になる」と安倍氏は語った。


 特に注目に値するインタビューでもないように思われる。ただ、消費税増税見送りの意図を安倍首相が持っているとも一部で受け取られたのか、管官房長官はコメントを出していた。「「増税先送り示唆」報道を否定=菅官房長官」(参照)より。

 菅義偉官房長官は20日午前の記者会見で、安倍晋三首相が消費税率10%への引き上げを延期する可能性を示唆したとの英経済紙フィナンシャル・タイムズの報道について、「そうしたこと(先送り示唆)ではない。首相が常日ごろ発言していることを申し上げた」と述べた。
 同紙は消費税の再増税に関し、首相がインタビューで経済に大きな打撃を与えるなら「無意味になる」と述べたと報道。この発言について、菅長官は「当たり前のことだ。いつも通りの発言と全く変わっていない」と指摘した。 

 実際、「いつも通りの発言と全く変わっていない」と以上のことはないのだが、そういう含みを持つにはフィナンシャル・タイムズ側の報道からの印象もあったかもしれない。というのも、そう連想させるような関連記事が他にもFTにあった。「Abe has no easy fix for Japan’s economic woes」(参照)である。社説ではないが論説に近い。

In recent months a succession of weak economic data has raised concerns that Abenomics is stalling. This has prompted questions about whether the government should continue with a planned increase in the consumption tax next year.

この数か月、弱い経済データが連続することで、アベノミクスは行き詰まっているのではないかという懸念が起きている。このことで、日本政府が来年消費税の計画的増加を続行すべきかどうか疑問を投げかけている。



Mr Abe must decide by the end of this year whether to press ahead with the second planned increase of the tax to 10 per cent in 2015. Much depends on whether consumer sentiment bounces back in the third quarter. In an FT interview this week, he said he was considering delaying the second increase, saying the move would be “meaningless” if it inflicted too much damage on the economy.

安倍氏は、第二弾として計画された10パーセントへの2015年の増税についてこの年末までに決断しなければならない。趨勢は消費者マインドが第3四半期に回復するかにかかっている。今週のFTインタビューで彼は、第二次増税の遅延を考慮していると語り、仮にこの経済に大きすぎるダメージを与えるなら、この動向は「無意味」になるだろうとも述べた。

He is right to be wary. After all, if the effect of the tax is merely to slow the economy further, there will be no increase in tax revenues, making the entire exercise meaningless.

彼が慎重なのはよいことだ。結局、税金の効果が、さらに経済を減速させるだけなら、税収の増加はなく、その実施自体を無意味にするだろう。


 FTの社説ではないが、消費税増税第二弾延期を肯定的になぞっている。
 しかし、この記事はこの記事で、日本の消費税増税を強く否定しているわけでもない。この先話題はこう転換する。

Decisions on the consumption tax are not going to change the direction of the economy. It is only one of many factors. The government needs to persuade Japanese businesses to stop hoarding cash and invest in new equipment and infrastructure. It also needs to press ahead with labour market reforms, overhauling a workforce dominated by protected regular employees who are unproductive and difficult to fire.

消費税についての決定は、経済の方向性を変更させない。それは多くの要因のほんの1つにすぎない。この政府は、日本のビジネス界を説得し現金の貯蔵をやめさせ、新設備とインフラストラクチャーに投資させる必要がある。それにはまた、非生産的で、解雇しづらく保護された正規従業員で支配された労働力を再点検し、労働市場改革を前進させる必要がある。


 むしろ興味深いのは、FTとしては日本の経済停滞の問題の主要論点として、「解雇しづらく保護された正規従業員で支配された労働力を再点検」が挙げられていることだ。この問題は、私の印象では、日本のマスコミやネットではそのまますぐ「新自由主義」という奇妙なラベルを付けられ非難の対象となる。
 さらにFTのこの寄稿では安倍政権への期待は低い。

Mr Abe still has time on his hands before the next election, due in 2016. But the exuberance has gone out of Abenomics. Mr Abe must continue with his course and not allow himself to be distracted. However, no one should expect a miracle cure.

安倍氏には、2016年予定の次回選挙前に行政を手中にできる時間がまだある。しかし、アベノミクスの活力はもう失せている。安倍氏は責務を継続しなければならないし、気を散らしてはならない。しかしながら、この奇跡的治療を期待すべきではない。


 率直にいえば、まあ、前回の消費税増税でやっちまったな感が強く、その失態の痛手からある程度戻ることは可能であるにせよ、大きく明るい方向に転換することはなさそうに思える。さらに率直に言えば、安倍内閣後の政府にまったく明るい展望はもてない状況なので、奇妙な政局でぐだぐだやっていないで、普通の政治・外交を地味に進展させることを願っている。
 
 

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2014.10.20

[映画]シックス・センス

 そういえば映画「シックス・センス」が面白いという人がいた。どう面白いのかと聞くと要領をえない。ネタバレはよくないからということらしい。しかし、どことなく私に向いていると勧められていたふうでもあって、気になっていた。見た。

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シックス・センス
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 なるほどこれは確かに、ネタバレはよくないタイプの映画だ。もしこれから見ようと思う人がいたら、ネタバレをググらないほうがいい。たぶんウィキペディアなんかも見ないほうがいいと思う。そして、この映画は十分に観る価値のある映画だった。
 私は題名から超能力系のSF映画だと思っていた。が、分類的にはホラーらしい。予断なく見始めたら、さすがにホラー映画らしい雰囲気で、これはまずったかなあと少し思った。私は、ホラー映画やスプラッタが嫌いなのである。しかし、映像は美しく、ところどころ奇妙なひっかかりを感じさせる演出である。これはトリックがいっぱい仕掛けられているのだろうということはわかった。
 物語は、冒頭に衝撃的なシーンがあった後、霊が見えるという霊能力ゆえに苦しむ少年に、児童精神カウンセラーの中年男が向き合い、しだいに心を通わせていくという枠組みの世界観でとりあえず進行していく。
 この霊能力が、第六感つまり表題のシックス・センス(The Sixth Sense)である。しかし、中盤までは、本当にこの少年に霊が見えているのか、少年の心理的な世界観が映像的に表現されているのかは、判然としない。
 私としては、超能力とかオカルトかの荒唐無稽な話は、荒唐無稽なほど好きなので、この映画もほどほどのホラーテイストならまあいいかと思って見つづけていく。ところどころ児童精神カウンセラーの夫婦問題というテーマも絡み合う。結婚して二年程度の関係なのに、なぜかひびが入り、妻は他の男になびいていくかのように見える。これは、中年カウンセラーを中心とした、少年や妻との心の交流という物語なのだろうか。
 物語は中盤以降は、霊が存在するという表現の色合いを強め、一気に後半に流れ込む。やっぱりオカルト系の映画に人情物語を加えたお話であったかと多少脱力しているところで、エンディングでやられてしまった。「あ、そんなのあり?」という見事などんでん返しであった。
 どんでん返しはあるんだろうなという予感はしていたが、読み切れなかったというか、映画の進行中各所気になっていたところが、フラッシュバックのようにすっとつながって、奇妙な爽快感があった。そして終わってみると、全然別の印象の映画になっていた。
 というわけで、もう一度最初から見た。ネタバレ後に見るとつまらないということではなく、要所要所のトリックのうまさに驚いた。これは最初から二度見るように出来ている作品なのだと確信した。たぶん、もう一度見ると思う。
 娯楽作品としては見事なものだが、人情物語としても、上手に死者の視線というのを取り込んでいて面白かった。
 それと、この作品は、トリック上の都合で霊能力を描いているとも言えるのだが、誰からも理解されない恐怖を抱えてしまった子どもの心という点から見ても、味わい深かった。子役の子のうまさもある。
 ところでなぜ、このような映画が作成されたのか。その筋の人からはいろいろ説明もあるのだろう。が、私の印象としては、フィラデルフィアという街の独自の風合いのようなものに引きつけられたのではないかと思えた。
 
 

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2014.10.19

現代の若者は絶望しているのか?

 現代の若者は絶望しているのだろうか。どうなんだろう。というのは、昨日のエントリーへのツイッターのコメントでこういうのを見かけた。晒しとか、反論というかいう意味ではない。基本的には「ふーん、どうなんだろうか」と思っただけ。なのでコメント部分だけ引用。


ないのはお金だけじゃないよ。将来に対して絶望感以外なんにもない国で、落ちていくしかないんやから、恋愛みたいな長期的なことより、刹那的なものに流れるにきまってるやん。

 現代の若者が恋愛できないのは、お金がないこと論に加えて、この「国」の将来に対して絶望感以外ない、という意見があるらしい。
 若い人が絶望を抱くことについては、20歳までに自殺すると思っていた私としては、特に違和感はない。違和感があるとすれば、私がそうであったように、小学生だった1960年代から、青少年期だった1970年代、若い人の絶望というのは凡庸なことだった。
 特に60年代から70年代にはこの世の終わりという感じだった。核戦争で地球は滅亡すると思われていた。人口増加で食糧危機が発生し巨大な飢餓が起きるとも思われていた。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が『生と死の妙薬』として日本で出版されたのは1964年だった。今だと冗談みたいだが、氷河期がやってきて地球は凍るとも言われた。日本が沈没したらみたいなネタでウケていた小説『日本沈没』が出たのは1973年である。
 ノストラダムス予言はまだ一部でしかネタになっていなかったが、「もうすぐこの世はおしまいだ」と野坂昭如が「マリリン・モンロー・ノーリターン」で歌っていたのは1970年だった。あのころもの社会も若い人にとって特段に希望なんてなかった。ヤケクソと自暴自棄のナンセンスな世相だった。他面にはモーレツ社員がいた。「社畜」という言葉はなかったが、実態は同じだった。
 ただ、なんというのかな、あの時代、若い人の絶望は、「国」とか、なんかそういう外的な要因よりも、内的なものが強かった。
 内面からこみ上げるように、自殺するかなあ、という絶望感だった。自分の実存はもう存在しえないのだという切迫感もあった。当時よく読まれていたカミュの『シーシポスの神話』(参照)とかにその感じがよく表現されている。

Il n'y a qu'un problème philosophique vraiment sérieux : c'est le suicide. Juger que la vie vaut ou ne vaut pas la peine d'être vécue, c'est répondre à la question fondamentale de la philosophie.

本当に深刻な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である。生きることが、その困難に値するものかを判定することだ。これが哲学の根本問題に答えることなのである。


 青臭い。それもそのはず。カミュが24歳のときの作品である。若者の感覚がよく表れている。
 とはいえ、この本のオリジナルの出版は1942年。意外と古いというか第二次世界大戦中。日本だと1969年だった。
 この時代の若い人の絶望感については、いつかcakesに『二十歳の原点』(参照)の書評として書きたいと思っているので、その話自体はいずれ。
 それで思ったのは、絶望から自殺が連想されるように、では、当時の若者の自殺はどうだったかなと思い出していた。ネットなどではバブル期以降の日本の停滞から若者の絶望そして自殺の増加という議論をよく見かけるけど、私が青春時代だった1970年代、さらにその前の1960年代はもっとすさんでいたように記憶しているからだ。
 どっかにそのスパンの資料でも転がっているのではないかと、気まぐれに見ていたら、興味深いデータがあった。平成23年版・自殺対策白書「年齢階級別の自殺の状況」(参照)である。もっと新しい白書もあるがこれが見やすかった。

 日本の場合、若者の自殺率が高かったのは、1950年代から60年代前半のようだ。
 その後、1960年代半ばにぐっと落ち着いて、以降基本的に下がる傾向があるが、2000年代まであまり変わっていない。1960年代にはまだ若者の自殺は多い傾向があっただろうが、1970年代にはいって以降は若者の自殺が多かったとは言えそうになく、安定している。
 日経サイエンス「データで見る日本の自殺」(参照)ではこれに関連してこう説明されている。引用中グラフとあるのはこのグラフと同種の以下のグラフである。



 過去には若者の自殺率が非常に高かった時期がある。1950年代後半から60年代の戦後最初の自殺のピーク時だ(上のグラフを参照)。このときと比較すると現在は男女とも自殺率は1/3程度まで下がっている。1950年代以降で比較すると,欧米では逆に増えている国が多い。例えば,米国は1950年以降,15~24歳の白人男性の自殺は3倍に増えた。若者の自殺が増える要因としては,両親の離婚の増加,薬物乱用の蔓延と低年齢化,価値観の変化などが挙げられている。これらは程度の差こそあれ,日本でも問題になっていることだ。なぜ日本では若者の自殺が減ったのか,専門家も答えを出しあぐねている。

 記事中、「なぜ日本では若者の自殺が減ったのか,専門家も答えを出しあぐねている」とあるが、日本の若者の自殺が減ったことのほうが、この分野では奇妙な現象のようだ。
 また同記事では、若者の死因の上位に自殺がくるのは病気で亡くなる人が少ないからだという説明や、日本では男性の自殺が多いといっても他国と比べると少ない部類でどちらかというと、日本は女性の自殺傾向が強い国といった興味深い話もあった。
 いずれにせよ、長期スパンで統計的に見ると、現代日本の若者は絶望しているということと自殺にはそれほど強い繋がりはなさそうだ。
 ただ、グラフを見ていて、思ったのだが、15歳から24歳の若者の自殺が減るなか、35歳から44歳は1970年代以降増える傾向はありそうだ。また、この層はバブル期後の日本経済停滞期に入って自殺率が減り、2000年あたりから増えていくような傾向が見える。理由はわからない。
 ここでふと思ったのだが、現在のネットだと、若者というのは30代を指していることもあるので、その辺りの層が、40代に近づいていくと、自殺の傾向は自然に増えてくるというのはあるのかもしれない。
 絶望というのが自殺数という指標で図れるものかはよくわからないが、自殺数の推移を見ていくと、日本人の若者に自殺したくなるような絶望というが広まっているというようすは見られないように思えた。もちろん、これで「国」がいいとか社会がいいとか言いたいわけでもない。
 
 

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2014.10.18

若者はお金がないから恋愛できないのだろうか?

 若者はお金がないから恋愛できないのだろうか? 私にはわからない。ある程度社会学的に考察したとき、なんらかの答えが出るのかもしれないが、知らない。
 青春が1970年代後半の私からすると、私の若い時代も若者にお金はなかった。それで恋愛ができなかったかというと、そうでもなかった。それ以前に、お金がないゆえに恋愛ができないという問い自体が、どうもそもそも象を結ばない。あの時代の私に十分にお金があったとして恋愛でどう使うのか? コンサートに行く? 旅行? ちなみに映画は安かった。500円で三本見れた。
 問いかけはたぶん、バブル期と比較してみると、現在の若者はお金がないから恋愛できないという枠組みなのだろう。
 だが、これもその時代を見てきた自分としては、やはりぴんとこない。あの時代、自分も含めてまだ若い部類の人たちは、けっこう大きなお金をくだらないものに突っ込んではいた。自分の場合はMacintoshとかだった。SE/30が80万、Ciが100万くらいした。パソコン通信関連で月額5万円くらい払っていた。それらに突っ込んだから、他にお金はない。そんな感じだった。
 というわけで、結局、この話は私には扱えないが、先日、健康年齢について厚労省の白書を見ていたとき、関連してちょっと気になったことがあった。「未婚者の異性との交際の状況」(参照)という話にある、その変遷のグラフが何を意味しているのか。しばし考えていた。これである。

 1982年から2010年までの「未婚者の異性との交際の状況」を示している。1982年というと私が大学院生だった時期なんでずばり若者だった時代である。そのころは、恋人がいるのが約17%。異性の友だちがいるが36.8%、交際相手なしが36.8%。まあ、そんなものだっただろうか。
 そして現在に近い2010年はどうかというと、恋人がいるのが約21%。約20年前と比べてさしたる変化はないと言ってよい。バブル時期を眺めてみても、それほど変化はない。ここには掲載しなかったが、女性については、1982年には約18%だったのが、2010年には約29%と大きく変化している。つまり、女性の場合、恋人が増えたとは言える。ただ、この変化は1990年ころに定着してその後は変わっていない。
 1982年から2010年までで何が変わったかというと、2点ある。1つは「異性の友だちがいる」という割合だ。男性だと約37%から10%まで落ち込んだ。そして、それを埋め合わせるかのように「恋人なし」が、約37%から62%へと拡大している。この傾向は、女性についても見られる。
 簡単に言うと、日本がこの20年間で変わったのは、「恋人とはいえないが、異性の友だちとはいえる」友だちの減少である。段階的に減少しているので長期潮流と見てよい。男でいうなら、女友だちというのが減少してきた。
 なぜ、男に女友だちが減ったのだろうか。若い男にお金がなくなったからか?
 白書にはこの答えの暗示はない。社会学的にはなんらかの説明があるのかもしれない。
 私が思うのは、1982年時点で異性の友だちがいる率が高かった理由は、学校や地域という男女を閉じ込める枠組みの延長がまだ社会に存在していたからだ、ということだ。それが時代ともに開放されて、男女の同級生的関係や、幼なじみ的な友だち関係が壊れていった。そういう過程なのではないだろうか。そういえば、私が若い頃は、なにか若者の集まりというと共学時代の延長みたいに男女が適当に集められていたものだった。
 別の見方をすれば、この約20年の間に、男は男だけ、女は女だけの集団形成が進んだということかもしれない。
 いずれにせよ、とりあえず若い男女を閉じ込める枠のようなものがなくなってしまったら、友だちもなくなったか、あるいは同性の友だちだけだから、その割を食って「恋人なし」が増えたことのように見える。
 白書では、これに補足して、「さらに、そもそも異性との交際を望んでいない割合は、男性で28.0%、女性で23.6%に上っている」と記しているが、その変遷についても記述はない。
 先の傾向を見ての推測でしかないが、「そもそも異性との交際を望んでいない」という比率もこの約20年間に増加したのではないだろうか。つまり、もともと「押しつけられた枠のなかでの異性との交際なんかやだなあ」ということだったのではないだろうか。自分の実感からするとそこは共感できる。
 こうしたデータを見ていて気になるのは、これはそもそも、時代変化に付随して起きた現象なのだろうか?ということだ。つまり、現代の若者が貧しくなったから、だから、変化が起きたのだ、というような関係とは違うのではないか。
 私の印象からすると、これは、日本の文化・社会構造が安定性を得ていくためのある必然的な過程なのではないかという疑問がある。
 そう思うのは、「「現在、婚約者または恋人がいる」人の割合の変化」を各国比較で見ると、単に文化・社会構造の要因だけではないかと思われるからだ。

 韓国はたいていの場合、日本と相似な文化で、しかも少子化を辿っているという点でもそっくりなのだが、「現在、婚約者または恋人がいる」という点では、日本よりも米国に似ている。しかし、日本はフランスやスウェーデンなど成熟した市民社会のほうに似ている。
 つまり、伝統的文化をもち市民社会として成熟してくると、「現在、婚約者または恋人がいる」比率は自然的に25%くらいに収束するものなのではないだろうか。
 このことは、「独身にとどまっている理由」からも察せられる。25歳から34歳の男性を見ると、結婚の障害が金銭面である理由というのは少なくはないものの、他の要因と比べてこの10年間で目立った変化があるとも言えないし、そもそも他の要因のほうが大きい。

 ざっと見た印象だと、「適切な異性との出会いがないから、今のままで独身を続けよう」ということで未婚状態が続いている、という以上の意味はなさそうだ。
 ただ、金銭面の貧しさという関連していうのなら、男女がともに働いてお金を寄せ集めて生活するというふうに変化していくしかない。その意味で、恋愛にしても結婚にしても、お互いの労働生活の調和を自然に含めるものになるだろう。別の言い方をすると、「普通に職業観というのが一致してないと、恋愛とかもきついよね」ということだろう。

追記(2014.10.19)
 文化差については、raurublockのブログ「若者はお金がないから恋愛できないのかどうかはわからないが、外国と比べて日本人に恋人・同棲相手が少ないのは間違い無い」(参照)で興味深い指摘があった。指摘される議論が正しいかどうかは率直なところよくわからないが、指摘とそのコメントは理解できた。
 
 

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2014.10.17

[映画]レオン・完全版

 なんとなく見逃していた映画「レオン」を見た。日本公開は1995年3月25日で、その20日に地下鉄サリン事件があった。そして22日には上九一色村の強制捜査があった。この映画はそうした世相の記憶と結びついている。作成されたのは1994年なのだから、そこから考えると20年経ったことになる。あのころもチョーカーとか流行っていたな。

cover
レオン 完全版
[Blu-ray]
 どうしたことか私はこの映画をフランス映画だとばかり思っていた。ジャン・レノ(Jean Reno)が主演だからというのもある。なので当初、ブルーレイでフランス語に切り替えられないのかなと戸惑っていた。しかし考えてみたらニューヨークが舞台である。それでも映画の感触としてはフランスっぽい印象も強かった。光の扱い方のせいだろうか。音楽もよかった。
 少女マルチダを演じてる子はなんとなくユダヤ人だろうなと思ったが、パドメ・アミダラのナタリー・ポートマン(Natalie Portman)だった。
 物語は、ニューヨーク下町のイタリア人街を舞台に、手練れの殺し屋中年男レオンと12歳と見られる少女マチルダの交流を描いている。愛と言ってもよいのだろう。いわゆるバイオレンス・アクションはハデだが、映画全体のトーンはおとぎ話のようでもあり、その感触をジャン・レノとナタリー・ポートマンがよく描いていた。二人はほんと黙っていても絵になる顔である。
 映画としては普通に娯楽作品として面白かった。殺し屋という設定も興味深いが、中年男の純情と幼い少女の純情というより、大人になれない男と大人にさせられてしまう少女の奇妙な交錯が叙情的でもあり、まあ、リアルに考えるとこれはありえないだろうという世界でもあるから、おとぎ話的なトーンによくなじんでいた。
 見終えたから、完全版ということに気がついた。ということは、これ、劇場公開版とかテレビ放映(あったのだろうか?)とは違うバージョンだということだろう。どのあたりが違うのかについては、おそらくバイオレンス・シーンや性的な会話の部分だろうと思っていたが、ネットをちょっと覗くと、だいたいそうらしい。公開版と完全版とで大きく違う印象があるかはわからない。マルチダがレオンのプレゼントのドレスを着るシーンは公開版ではカットされていたのようなので、あのシーンがないとつまらないだろうなとは思う。
 些細なことだが、レオンが牛乳ばかり飲むという設定は面白い。どういう背景があるのかわからなかった。気になった人はいるらしく、適当な理由付けがネットにもあったがたぶんデタラメだろう。映画の進展からすれば、19歳でイタリアを飛び出したレオンが生きて行くには牛乳を飲むくらいだったということはないだろうか。
 レオンの最期も洒落ていた。あれを洒落と受け取っていいのか、いけないような気もするが、私は笑った。そして泣けた。
 レオンを失った少女は恋と死を抱えて生きていくことになるだろう。そういう種類の孤独の情感は、かなり多数の女性の心理に重なるのではないだろうか。その点でこの映画は、とても女性的な映画なのではないかと思った。


 
 

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2014.10.16

トルコ軍による「クルド労働者党」(PKK)空爆の意味

 国際情勢を見ていると悲惨な事件にもあまり驚かなくなる。まして、想定可能な事件であると、「やはりな」というくらいな印象に終わることが多い。しかし、14日に発表されたその前日のトルコ軍によるトルコ南東部ハッカリ(Hakkari)県ダグリカ(Daglica)村の「クルド労働者党」(PKK)への空爆(参照)は、予期されないことではなかったにも関わらず、さすがに驚いた。トルコ側の言い分としては、後述するコバニでの戦闘に連鎖してPKKがダグリカの警察署を銃撃したため、空爆で対応したとしている。
 まったく予期できないことではなかったが、まさかそこまでやるのかという思いがあった。前兆は先週の状況である。日本では台風騒ぎで他のニュースが薄い扱いではあったが、トルコ各地でクルド人のデモ隊と治安部隊が衝突し、5日間で31人が死亡し、1000人以上が拘束される緊張した事態が起きていたことだ(参照)。今回のトルコ軍によるクルド人PKKへの空爆は、まずPKKへの威嚇と見てだろう。そして2013年3月のトルコとPKKの停戦は事実反故になった。
 このトルコによるPKKへの空爆の結果、国際社会としては、トルコはイスラム国のクルド人居住地域やトルコへの侵攻をどう見ているのか改めて疑問を抱くことになってしまった。
 背景となるトルコでのクルド人デモだが、同質のデモがドイツで起きていたことから見るとわかりやすい。ドイツのハンブルクでは、7日から8日、クルド人と「イスラム国」支持派の間で衝突が起き20人以上が拘束された。クルド人としては、反イスラム国の訴えである。特に、クルド人には、アイン・アルアラブ、クルド地名コバニ(ちなみにオバマ米大統領もこの呼称を使っていた)がイスラム国に制覇される危機感が強い。
 加えてトルコ国内でのクルド人デモの主張には、トルコが裏でイスラム国と通じているのではないかという疑念もあるようだった。エルドアン大統領は、PKKとイスラム国を同質に見ているし、そこからイスラム国による、PKKのシリア支部組織である民主連合党(PYD)潰しを狙っているのかもしれない。
 トルコの思惑は別として、国際社会が注視しているのは、イスラム国が侵攻中のコバニの状況である。現下、米軍はコバニ近郊の21カ所を重点に空爆しているし、この空爆に地上側でクルド人勢力も参加しているようだ(参照)。

 コバニが問題になるのは、イスラム国がここを制圧すると恐るべき虐殺が行われる懸念があることに加え、軍事面から見ても、北部ラッカからアレッポまでが支配下に置かれ、実質トルコとシリアの境界の一帯がイスラム国となり、ここを拠点に戦闘員の拡大や闇貿易が強化されることだ。かつてアサド政権がクサイルを支配下に置いた時点でシリア問題が絶望的な状況になったように、コバニがイスラム国下に置かれるとイスラム国が確固たる存在となり国際社会としては絶望的な状況に陥る。
 今後はどうなるか。コバニで西側が優勢となるためには、地上部隊の投入が不可欠だろうと見られている(参照)。だが、その決断を米国を中心とした勢力が決断することは難しいだろう。
 また、こうした流れから見ると、このトルコのPKK空爆の意味は、トルコの支援が必要される地上部隊への期待を疑しくすることだ。
 今後はどうなるかだが、どちらかというと、イスラム国はコバニを制圧するだろう。そしてそれを契機として国際社会としてはかなり絶望的な状況になっていくだろうという印象が強い。
 
 

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2014.10.15

国境なき記者団声明「日本人ジャーナリスト加藤達也は名誉毀損で起訴されることになる」

 昨日読売新聞で少し気になるニュースを見かけた。「韓国検察起訴に「あぜん」…国境なき記者団批判」(参照)である。


 【パリ=三井美奈】韓国の検察当局が産経新聞の加藤・前ソウル支局長を在宅起訴したことについて、ジャーナリストの国際団体「国境なき記者団」(本部パリ)は13日までに、「あぜんとした」と批判する声明を出した。

 私が気になったのは、実は些末なことで、「あぜんとした」というのはフランス語でなんと表現されているのだろうかということだった。
 調べてみたのだが、よくわからかった。それ以前に「13日までに」が何を意味しているか不明に思えた。というのは、国境なき記者団は10日以降、この件について声明を出していないからだ。
 しかし、10日の声明(参照)は13日に更新されており、読み返すと、「ああ、これかな」と思う表現はあった。" Reporters sans frontières a appris avec stupeur la mise en examen de Tatsuya Kato"の「avec stupeur」である。これが「あぜんとした」と訳せるのか、ちょっと興味深く思った。
 ついでなので、声明全体も試訳してみた。


LE JOURNALISTE JAPONAIS TATSUYA KATO SERA POURSUIVI POUR DIFFAMATION
日本人ジャーナリスト加藤達也は名誉毀損で起訴されることになる

PUBLIÉ LE VENDREDI 10 OCTOBRE 2014. MIS À JOUR LE LUNDI 13 OCTOBRE 2014.
2014年10月10日金曜日に発表。2014年10月13日月曜日に更新。

Tatsuya Kato a été mis en examen le 8 octobre dernier par le parquet sud-coréen, suite à la publication d’un article s’interrogeant sur les faits et gestes de la présidente Park Geun-Hye lors du terrible naufrage du ferry Sewol en avril dernier qui a fait plus de 300 morts. Il encourt jusqu’à sept ans d’emprisonnement.

この4月、300人以上の死者をもたらしたセセウォル・フェリーの恐るべき遭難時の朴槿惠大統領の事実と行為に疑問を呈する記事報道について、加藤達也は10月8日、韓国検察当局から起訴された。彼は7年まで可能な拘置期間に直面している。

Reporters sans frontières a appris avec stupeur la mise en examen de Tatsuya Kato, chef du bureau de Séoul pour le journal japonais Sankei Shimbun. Ce dernier, auteur de l’article publié le 3 août dernier et intitulé “President Park geun-Hye went missing on the day of the ferry sinking… Who did she meet ?”, avait été interrogé par les autorités sud-coréennes le 18 août dernier. Il s’était également vu interdit de quitter le territoire et avait été placé sous surveillance. Son article citait principalement des informations déjà accessibles en ligne et pour lesquelles leurs auteurs n’avaient fait l’objet d’aucune plainte.

国境なき記者団は、日本の新聞社産経新聞のソウル局長・加藤達也の起訴を知り、衝撃を受けている。先日、「朴槿惠大統領はフェリーが沈んだ日に行方不明になった……彼女は誰と会ったか?」と題した8月3日報道の記者は、この8月18日、韓国当局から尋問された。彼は、その国からの出国を禁止され、監視下に置かれた。彼の記事は基本的にオンラインで入手可能な情報を引用しただけで、その情報の作者は告発されていない。

“Nous condamnons fermement cette décision de la justice coréenne, déclare Benjamin Ismaïl, responsable du bureau Asie-Pacifique de Reporters sans frontières. La liberté de la presse n’est pas seulement un privilège pour les journalistes mais aussi un droit pour les citoyens. Et cette affaire relève de l’intérêt général. Quelle que soit sa ligne éditoriale et sa couleur politique, le Sankei Shimbun est fondé à soulever des questions sur le gouvernement coréen et la présidente et à faire état de ce qu’il semble être des rumeurs.”

「私たちは、加藤起訴の決定を非難する」と、国境なき記者団アジア太平洋デスク長ベンジャミン・イスマイルは宣言した。報道の自由はジャーナリストの特典だけではなく市民の権利でもある。そして、この話題は公共の利益に関係している。編集方針と政治色を問わず、産経新聞は、韓国の政府と大統領についての問題を提起し、何が噂のようであったかを述べる資格がある」。

“Si l’on peut discuter sur un plan journalistique de la valeur informative du contenu de ces rumeurs et des raisons pour un journal de les relayer, il est dangereux que ces questions soient uniquement discutées par la justice, poursuit Viriginie Dangles, adjointe à la directrice de la Recherche de Reporters sans frontières. D’abord parce la loi sur la diffamation coréenne est contraire aux standards internationaux car elle peut entraîner une peine de prison pour l’accusé. Ensuite parce qu’une condamnation pourrait entraîner une recrudescence de l’autocensure pour les médias coréens et étrangers.”

「この噂の内容の報道価値と、それの中継としての新聞の理由について議論ができるとしても、これらの問題を唯一その法廷の議論とすることは危険である」とと国境なき記者団の副プログラムディレクター・ヴァージン・ダングレスは付け加えた。「最初の理由は、被告の拘置が導ける点で韓国の名誉毀損法が国際標準に違反しているからである。それに次ぐ理由は、第二の理由は、有罪となれば韓国人と外国メディア双方による自己検閲の増加をもたらすことになるからである。」

Les plaintes avaient été déposées par une association de citoyens sud-coréens, révélant à nouveau les tensions persistantes entre le Japon et la Corée du Sud.

これらの告発は、韓国市民の団体が申し立てたものであり、韓国と日本の固執を再び明らかにしている。

La Corée du Sud occupe le 47e rang sur 180 pays dans le Classement de la liberté de la presse établi par Reporters sans frontières.

韓国は、国境なき記者団の報道の自由指数で、180か国の47位にある。



 試訳は以上のとおり。英語版もあったが、微妙に意味合いが違っていた。フランス語版が正式なのではないだろうか。
 余談めくが、韓国側はこれを報道の自由とは関係させくないらしい。朝日新聞「前支局長起訴「言論の自由と関連付けるな」 韓国外交省」(参照)より。


 一方、韓国外交省報道官は14日の記者会見で、起訴は市民団体の告発による正当な司法手続きだと強調し、「言論の自由と関連させてこの問題をみるのは適切ではない」と述べた。
  報道官は会見で、日本政府が言論の自由の観点から批判していることについて、「法執行の問題で、韓日政府間の外交問題ではない」と反論。「日本政府関係者が不要な言及をするのは適切ではない」と不快感を示した。
  さらに、会見に出席していた日本メディアの特派員に対しても、「この席で質問を自由にして、言論の自由がないと言うことができるのか」と述べた上で、「わが国は言論の自由について、どの国よりも保障されている」と強調。起訴をめぐる日本社会の反応についても「少し冷静になる必要がある」と語った。(ソウル=東岡徹)

 韓国側がそう言いたい気持ちはよくわかるし、それが韓国の司法なのだということも理解できる。しかし、国境なき記者団の声明を見てもわかるが、報道の自由と関係させるなとまでいうのは、さすがにそれは全然無理でしょ。
 
 

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2014.10.14

「墓が捨てられる」時代

 先週のクローズアップ現代「墓が捨てられる」(参照)が興味深かった。文字どおり、墓が捨てられていく現代日本の状況を描いていた。墓が誰の所有かわからなくなれば、捨てるしかない。
 目につくのは、捨てられる膨大な墓石である。番組冒頭では、淡路島に不法投棄された1500トンもの墓石の山が映し出された。
 その投棄される墓石には合わせていなかったが、少なからぬ遺骨もまた捨てられているように思えた。
 墓石自体は岩石なので砕けば道路工事用の砂利として再利用できる。その費用は1トン5000円から1万円ということで、コストの都合から淡路島に不当投機されたらしい。
 映像を見ながら、行政で罰則規定と墓石再利用に補助金を付ければ、なんとかなるだろうなと私はぼんやり見ていた。しかし、ゴミ投棄やゴミの再利用のような話ではないなとも思っていた。墓そのものを維持することが難しくなった現代が背景にあり、そこに問題の根もある。
 番組はもちろん、そこも考慮されていたし、近代日本における墓の問題にも言及していた。

cover
生誕の災厄
 自著にも書いたが私は若い頃、離人症的な状態に陥って来る日も来る日も墓を巡って見ていた時期がある。人は死ものだという実感を確認したくもあったし、墓の風景にもなぜか魅了されていた。後に愛読したエミール・シオラン(Émile Michel Cioran)もそうした人であることを知って親近感を覚えた。
 日本の墓というのは近代に大きな変化を遂げている。番組でも触れられていたが、明治時代の民法で家制度が定められると、それに合わせて変化した。それ以前は個々人の土葬が中心であったが、家を単位に先祖代々墓というようにまとめられるようになった。もちろん、これはそういう傾向があったということで、すべてでもないだろう。
 これに戦後、労働者の都市流入と核家族化が拍車をかけた。番組では、「都会で墓ブームが起きる一方で、地方の墓の守り手は減っていきました」としていたが、このころから核家族が墓を都会に持つようになった。もちろん、これも傾向としていうことではあるだろう。いずれにせよ、戦後は都会に墓ができたが、人口縮小に合わせたかのようにしだいに田舎の墓は見捨てられていく傾向がある。
 番組はそれから、田舎での「墓仕舞い」を描いていた。田舎に残した墓の維持ができないので、それを仕舞って更地にするのである。遺骨は都会に持ってきて、別の場所を探すということになる。
 都会でも今後は墓は消えるしかない。人々は墓を持たなくなる。
 ここでおそらく私もそうだし、私より若い世代ですらそうだろうと思うが、自分が死んでも墓なんか要らないのではないだろうか?
 私にしてみると、墓は要らないと思う。沖縄の海に散骨してくれればそれでいい。
 しかし、それでいいのだろうか? いやいい悪いという問題でもない。市民がそれぞれ決めればいいことだが、ただ、ここでも、「墓なんか要らない」ということだけでは問題はうまく解決されないだろう。
 そう痛感したのは、先日テレビのニュースでぼんやり見ていた北朝鮮からの未帰還遺骨問題である。2万件を越えるらしい。80歳を過ぎた老人が北朝鮮の寒々とした荒れ地で遺骨を探している映像を見ながら私は、これはどういうことなのだろうかと困惑していた。私のように墓なんか要らないという人であれば、北朝鮮の遺骨なども収集しなくてもよいという考えに結びつきそうだが、そうにもいかない情感がそこにある。
 遺骨にこだわるのは、日本人特有の宗教観によるのかもしれない。そう解説して済む問題でもない。余談だが、日本人の墓というのは、中世まではなかった。親鸞なども廟があるだけだった。遺骨信仰がどのように生まれ、家制度に結合していったかは、実体的に考え直してみたいようにも思うが。
 結局のところ、墓石や遺骨というよりも、死者の名前という問題かもしれないとそれから考えた。そして私は沖縄南部に八年暮らし、なんども糸満の平和祈念資料館を訪問し「平和の礎」に刻まれた人々の名前を見て回ったことを思い出した。
 これの施設も、広義には墓と言えるだろう。そこで重視されているのは遺骨よりも名前であった。あそこでは沖縄の戦禍という、ある共同性が示されていた。
 死者の名前というのはなんらかの共同性のなかで、継がれるものなのではないか。。
 現代日本人の墓の問題は、おそらく理念的には、地域に根ざした市民社会のなかで示された共同性としてそこで名を刻むという形に収斂されていくように思う。
 そうした試みもすでに見られるとは思う。と、心にひっかかっているのは、その共同性への合意のようなものを市民側が了解できるだろうかということだ。
 単純に問うなら、その共同性は生前の市民の生活の延長にあるもののはずだが、現在の日本人の多数がそうした市民社会の共同性の生活空間を獲得しているようには見えない。
 
 

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2014.10.12

滴防水Bluetoothスピーカーが楽しい

 滴防水Bluetoothスピーカーというのを気まぐれに買ったら、これが楽しい。昔のラジカセみたいだなと思った。

cover
MOCREO®
防水小型ポータブルワイヤレス
mini Bluetooth speakers
 形状は缶詰めの缶みたいというか、寿司屋の湯飲みといった風情なのだが、触ってみるとシリコンで覆われていて手触りがいい。滴防水といって多少水がかかっても大丈夫という仕様のBluetoothスピーカーである。つまり、お風呂にもって行けるというわけである。実際に、お風呂にもって行くと、とても快適なのだった。
 色もいくつか選べる。白を買ったけど、汚れやすいだろうか。まあ、この値段ならいいかという感じ。CDより安い。
 形状からわかるように2スピーカーとしてのステレオではない。今までもこの手のポータブルな単体スピーカーは使っていたことがあるが音があまりよくなかった。というわけで、期待してなかった。Bluetoothもめんどくさいとか互換性の問題があるんじゃないかと思っていた。
 ところが音はいいのであった。びっくりした。
cover
Touch Tone
I Am Robot and Proud
 もちろん、本格的なオーディオシステムと比べたら全然比較にはならないけど、低音から高音までバランスがいい。人の聴覚に聞きやすいという感じだ。よくわからないのだが、音の広がりもある。"I Am Robot and Proud"の"Touch Tone"とか聞いているとごきげんになれます。
 Bluetoothの接続も簡単だった。操作は、オンボタンを2秒長押しすると、英語で用意してますみたいに喋る(Hi, I am ready for connection.)。最初なんだこれと思ったが、慣れるとこれは便利。
 いちばん便利なのは持ち運びしやすいこと。お風呂にももっていけるし、散歩にももっていける。ああ、ラジカセだよ、このノリ、と思った。自動車のなかで聞いてもいい。それなりに音量も出る。
 iPhone/iPodもAndroidも簡単に接続できる。ということは、あれです、クラウドに入れてある音楽がそのまま聞ける。
 ネットラジオと繋ぐと、そのままラジオになる。……だったら、最初からラジオでいいんじゃねと思うけど、驚いたんだけど、雑音なしのラジオなんだよ、これがさ。
 電池は充電式。スマホと同じ。4時間くらいで電池が切れる。
 スマホと繋げて通話もできるらしいが、その機能は試していない。音源とはケーブルで直接することもできる。古いタイプのiPodとかつなげてもいい。
cover
MOCREO
Bluetoothモバイル
 これにはもう一種類、安価なタイプもあって、買うときどっちがいいか迷った。お風呂で聞けたらいいなと思ったので、これにしなかった。たぶん、音の性能は同じなんじゃないかと思う。デスクトップで使うならこれでもいいかもしれない。というか、誰かのプレゼントかにいいかなとも思った。
 あと、MOCREO(参照)ってどこの会社なんだろちょっと調べた範囲ではわからなかった。本社は米国だけど、これって中国製か韓国製みたいな印象。
 けっこう音がよかったので、この会社がもっと上位の製品出していたらどんな感じかなと見ていたらよさげなのがあった。うーむ、これも欲しいけどなあと思うが思案中。
cover
MOCREO®重低音Bluetoothスピーカー
ポータブルワイヤレス高音質スピーカー

 
 

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2014.10.11

加藤達也・産経新聞前ソウル支局長による朴槿恵大統領への名誉毀損起訴の不可解

 韓国の司法当局が、加藤達也・産経新聞前ソウル支局長を朴槿恵大統領への名誉毀損により情報通信網法違反の罪で在宅起訴した件について、私はごく基本的なことを勘違いしていたかもしれない。
 名誉毀損とされた該当文章だが、現在でも普通に産経新聞のサイトから「朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」(参照)として読むことができる。率直に言って、こんなくだらない内容が自由に読める報道の自由が日本にはあるのである。
 私が勘違いしたかもしれないと思ったのは、この内容を韓国語で翻訳した記事(参照)が名誉毀損の対象になっていたのだと思い込んでいた点である。
 そのうえで私は、わざわざ他国に行って他国の言語で嫌がらせのような記事まで発表することはないのではないかと思っていた。
 とはいえ、原文を読まない限り、なにが名誉毀損なのかも判断しがたいし、私は韓国語を読みこなす能力がないので、詳細が分からない以上、判断は控えるしかないだろうと思っていた。
 それが勘違いだったかもしれない。
 名誉毀損とされたのは、まさに、この産経新聞のサイトに日本語で記載された記事そのものだったらしい。そんなことがありうるんだろうか?
 疑問に思ったのは、昨日zakzakという産経系のサイトに掲載されたコラム「「行方不明」「下品」…事情聴取で浮き彫りになった日韓の言語文化の違い 産経前ソウル支局長起訴 」(参照)を読んでからのことである。


 【ソウル支局】韓国検察が産経新聞前ソウル支局長に対する一連の事情聴取で重点を置いたのは、前支局長がコラムで使った「行方不明」「下品」といった漢字語についてだった。これらの言葉は通常、韓国語では日本語より強い意味となる。「朴槿恵(パク・クネ)大統領を誹謗(ひぼう)した」と検察側が前支局長の在宅起訴に踏み切った背景には、こうした日韓の言語文化の違いもあった。

 正直なところ、まさかと思った。が、この先を読むと、どうやら、産経新聞のサイトに日本語で記載された記事がもとで起訴されているとしか読めない。

 2日間にわたった8月の聴取で検事が時間を割いたのは、「朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…」というコラムのタイトルに、なぜ「行方不明」という言葉を使ったのか-だった。
 沈没事故当時の朴大統領の居場所について、大統領府の秘書室長は「分からない」と国会で答弁していた。日本では首相の動静が分単位で報じられるが、朴大統領は事故当日、7時間にわたって大統領府内の所在がはっきりしなかった。
 前支局長は「国会の質問者や国民が所在を明確に知りたかったはずだ」と強調したが、検事は、大統領府内にいたのだから「行方不明ではない」と指摘し、記事は虚偽であると認めさせようとした。
 「行方不明」は韓国語では、「行方をくらます」といった強い意味で受けとめられる。前支局長は、日本語では同じ敷地内にいて姿を見かけない程度でも使うと説明したものの、検事とのやり取りはかみ合わなかった。

 これが本当なら、日本語で書かれた、通常日本人向けと想定される記事について、韓国検察は、裁判のために韓国語に翻訳したもので、起訴を行っていることになる。これはどう考えても、翻訳の質の問題ではないかと思えてならない。
 問題の該当となるコラムだが、私も8月時点で読んで、下品なくだらないコラムだなと思ったが、そう思った理由の最大の点は、独自取材がなされていないことで、読めばわかるが、韓国でのデマをまとめた以上の内容になっていなことだ。この点は、各方面の識者からも指摘されていて、このコラムが名誉毀損ならなぜ元ネタの記事は名誉毀損にならないのか疑問視されていた。
 しかし、ことの大半は、検察側の私的な翻訳の解釈だったのだろうか。
 zakzakの記事では同質の翻訳問題が取り上げられている。

 次いで検事が追及したのは、コラムで「『下品な』ウワサ」という表現を使った意図だ。前支局長は、「品格が落ちる」という意味で漢字熟語の「下品」を使ったと説明。だが、韓国語では「下品」はほとんど使われず、「賤(いや)しい」を意味する強い言葉で訳されがちだ。検事はこの言葉を「誹謗」の一つとみなしたようだ。
 コラム中の「政権の混迷ぶり」「不穏な動きがある」という表現も問題視された。「混迷」や「不穏」は政権の不安定さを伝える用語として日本の報道でしばしば使用される。だが、韓国語の「混迷」はより強い意味となり、「不穏」は「反逆的な陰謀」を示す言葉としても用いられる。
 このため検事は、これらの単語は「大統領を誹謗するためのものではないか」と迫った。(後略)

 このzakzak記事では、結語として次のように述べている。

 日本語と韓国語には同じ漢字語が多いが、ニュアンスが異なる言葉も少なくない。さらに、韓国ではハングル表記が主で、漢字の本来の意味に疎くなっている。こうした事情も今回、誤解を生んだ背景にある。

 もし問題の核心がそうなら、その前提は、韓国語が日本語と同じという認識が潜んでいることになる。別の言い方をするなら、韓国検察が加藤氏のコラムを名誉毀損とするなら、それをきちんと翻訳して司法に提出しなければならないはずだ。
 このzakzakが伝えている事実部分は本当なのだろうか?
 基本的に日本語を解する日本人向けに日本国内と想定されるサイトに発表した言論が、たまたま記者が韓国にいたという理由で名誉毀損で裁判に掛けられるのだろうか? 
 以上の構図が本当なら、自由主義国家として考えられない事態である。どうなのだろうか?
 以上の疑問が自分では明確になっていない。
 しかし、その点が明確になっていなくても、そもそもこの起訴は言論封殺として批判されるべきだろう。
 気になるのはこの検察の背後である。読売新聞「韓国市民団体、名誉毀損の告発を乱発」(参照)より。

 【ソウル=吉田敏行】産経新聞ソウル支局の加藤達也・前支局長(48)が情報通信網法の名誉毀損罪で在宅起訴されたきっかけは、現地の市民団体による刑事告発だった。
 被害者本人の告訴が必要な日本と異なり、韓国の名誉毀損罪は、第三者の告発でも捜査・起訴できるため、告発が乱発される要因にもなっている。

 この読売新聞記事の真偽もいまひとつよくわからない。そもそも名誉毀損として成立するためには、被害者の意思が必要であり、それに反してまで第三者が起訴ができるとは思えない。もしそうであれば、朴大統領の意向が関連していることになる。
 私の知識は不確かなので、仮定に仮定をかさねることになるが、もし今回の名誉毀損に、朴大統領の意向が関連しているなら、韓国国家はべたにもう独裁者による暗黒状態と言ってよいだろう。
 ただ、正確な事実関係がわからない。本当に、日本語の記事を私的翻訳で検察が起訴したのか、朴大統領の意向が関連しているのか、この二点は現状の報道から明確にならない。
 こうした現状は、日韓問題に閉じないことは、米国務省のサキ報道官は8日の会見でも示されていたことでもあきらだろう(参照)。

QUESTION: In South Korea, former Seoul bureau chief of the Sankei Shimbun, the Japan’s daily newspaper, was indicted on charge with defamation of President Park. Do you have any comment on that?

質問者:韓国でのことですが、産経新聞(日本の日刊紙)の前ソウル局長が朴大統領の中傷容疑で起訴されました。あなたはこの件にコメントがありますか?

MS. PSAKI: We are aware of the reports that the Seoul prosecutor’s office today indicted the Sankei Shimbun Seoul bureau chief -- bureau editor for defamation. We’ve been following the investigation by the Seoul prosecutor since its initiation. We certainly don’t have additional details. As you know, we broadly support freedom of speech and expression, and we have outlined in the past, and including in our recent reports that we issue annually from the State Department, about our concerns about the law on the books in South Korea.

サキ氏:私たちは、ソウル検察当局が今日、産経新聞ソウル局長(編集局長による中傷)を起訴したという報告を知っています。私たちはその開始以来ずっとソウルの検察による取り調べを追っています。私たちは確かなところ、追加の詳細情報を持っていません。ご存知のように、私たちは幅広く、表現言論の自由を支持し、以前にまとめましたが、韓国の法律記載への私たちの懸念については、私たちが毎年国務省から出るしている最新報告書に含めてあります。


 米国としては、言論の自由の侵害として注視していることを明確にしているものの、詳細な事実関係がよく認識できないということのようでもある。
 なお、サキ報道官が言及している報告書は国務省は2013年版の人権報告書・韓国(参照)である。
 該当となるのは以下である。

Libel Laws/National Security: The law broadly defines and criminalizes defamation, which could have a chilling effect on news coverage. The law calls for a punishment of up to seven years in prison. In 2012, according to a media report, more than 13,000 defamation complaints were filed and 3,223 persons were convicted. While the vast majority of those found guilty were fined, 24 individuals were sentenced to prison.

名誉毀損法/国家安全保障:該当法律は幅広く中傷を定義し、有罪としている。このため、ニュース報道に対して萎縮効果を及ぼすことができる。法律は最高禁固7年の処罰を要求している。2012年には、メディアの報告によると、13,000を超える中傷不満が申し立てられて、3,223人の人が有罪宣告された。有罪とされた大部分に罰金が科され、24人の個人が禁固刑を宣告された。


 試訳文中の「萎縮効果」は”a chilling effect”の定訳語だが、原義は「身も凍るほどの影響」ということで、英語のニュアンスが伝わる。
 ぞっとするね、ということだ。
 
 

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2014.10.10

ピンズラー教材ドイツ語2をようやく終えた

 ピンズラー教材ドイツ語2をようやく終えた。教材は本来一日一課だから、30日で終わるはずなのに、70日かかった。途中、もうダメだとなんども思った。こんなに難しい言語だと思わなかった。

cover
German I,
Comprehensive
 当初、ドイツ語なんて英語とそっくりで簡単じゃないかと思っていた。枠構造とかも規則は簡単だから覚えたらそれでいいではないか。動詞変化も格変化も規則的だし数は多くないから暗記はそれほど難しくない。まあ、そこまではそう。
 愕然と難しいと思ったのは、聞き取りからだった。だんだん自然な速度になるにつれ、聞き取れなくなる。Duで受ける動詞が倒置になるとDuのDの音が、動詞の変化形のstに吸収されて聞こえない。ちょっと気になって音声波形を分析してみたけど、Dは発音されてなかった。
 格変化も一通り暗記しただけだと、聞き取りのなかでほいっと出てくるときは難しい。発話するときには格変化の感覚がないと違和感がある。というか、プログラミング言語を書いているような感じで、自然言語の感覚が追いつかない。
 どうしたらいいんだろうと思って、とまどっているとき、Allaboutのサイトで次の詩を知った。"Der Tod des Todes bringt dem Tod den Tod."
 ナンセンスなようだが、「死神の死は、死神に死をもたらす」とも訳せる。これを呟いていると、ただ冠詞だけ並べて暗記するよりも格の感覚が乗ってくる。同サイトでは他のお勧めもあったが、なんどかやってみて次のようにしてみた。訳は適当だが、いちおう文章化できればいい。
 男性形と女性形と並べるより、男性と中性形、そして、女性形と複数形としたほうがわかりやすかった。

Der Tod des Todes bringt dem Tod den Tod.
Das Geld des Geldes bringt dem Geld das Geld.

死神の死は、死神に死をもたらす。
金の銭は、金に銭をもたらす。

Die Liebe der Liebe bringt der Liebe die Liebe.
Die Kinder der Kinder bringen den Kindern die Kinder.

愛の神の愛は、愛の神に愛をもたらす。
子らの子らは、子らに子らをもたらす。


 冠詞だけで取り出すとこうなっている。

m: der, des, dem, den
n: das, ---, ---, ***

f: die, der, der, ***
p: ---, ---, den, ***


 基本的に、男性形以外では、目的格は主格と同じで、むしろ、denの場合の感覚をきちんとするよさそうだ。所有格については、desとderの感覚。そして、与格は別途、前置詞なんかと合わせて覚えればいいのかという感じになってきた。
cover
German II,
Comprehensive
 ピンズラーはこうした変化形を表化しては教えないので、ある程度、自分なりに格の感覚が出来てくると、逆にいい練習になった。
 そして、この格変化だけど、単に定冠詞だけはなく、代名詞Sieのなんかもこれに準じているし、zuがzurやzumに変わるのも、格変化の音の響きに準じていることが感覚的にわかってきた。
 そのおり、英語で「he, his, him」なのになぜ、「she, her, her」なのかと疑問にふと思った。これはドイツ語と同系の言語の名残だろうな。
 ドイツ語の定冠詞の格が男性名詞だと、des, demと活用し、女性名詞だとder, derと活用する。これは、英語のhis, himそしてher, herと対応している。ということ。
 もちろん、現代ドイツ語の人称代名詞だと、「彼」はseiner, ihm、「彼女」はihrer, ihrになる。だけどたぶん、これは現代ドイツ語もドイツ語として変化してそうなったのだろう。というか、現代ドイツ語の人称の使い方はとても難しい。
 いすれにせよ、このあたりで、ふーむ、なんとかもう少しドイツ語やっていけるかなという感じになった。
 枠構造についてはもうひたすら慣れるしかなかった。
 この「ひたすら」に準じて思ったのだが、昨年から、フランス語、中国語と学んで来て、それらも忘れないように勉強を続けようとしてきたのだが、いったん、やめることにした。日課的な英語の勉強もやめた。語学はしばらくドイツ語だけに集中しようと思った。この踏ん切りもけっこう大変だった。おかげで英語の発音がドイツ語っぽくなった。これはもうしばらくしてから戻すことにしようと思う。
 とはいえ、Duolingoのフランス語だけは少しずつ進めた。
 この毎日こつこつと小学生の漢字の書き取りみたいにDuolingoを勉強するのも積み重ねるとそれなりに効果はありそうだ。いちおうDuolingoの説明だと、私は65%フランス語を学んだそうだ。ドイツ語は37%。
 というか、Duolingoをやって思ったのだけど、語学は初級的なことが終わると、あとは語彙だなあと思う。これはピンズラーも言っていたが、語学でいちばん難しいのは語彙だと思う。
cover
Learn German
with Paul Noble
(Collins Easy Learning)
 この先、ドイツのフェーズ3を進めるか、しばらくDuolingoでドイツ語を進めて、一点集中的に、ロシア語か朝鮮語でも学ぶかちょっと戸惑っている。ポール・ノーブルのドイツ語に戻ってみたい気もする。
 それにしても、フランス語は英語(ピジン化したフランス語)の延長、中国語は日本語(漢文)の延長に思えたけど、ドイツ語は根幹で英語に近いぶん、英語の違いが最初は楽に見えたけど、学ぶにつれ、逆に阻害要因になってきた。これは英語国民でも同じように感じるのではないか。他方、ドイツ人にしてみると、英語は比較的習得が楽な言語に見えるだろうなと思った。動詞変化や格変化、前置詞格変化や枠構造・倒置などがないので。
 あと、ドイツ語勉強して、哲学者だとカント(Immanuel Kant)やヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)、マルクス(Karl Heinrich Marx)、ハイデガー(Martin Heidegger)、文学者だとヘッセ(Hermann Hesse)やリルケ(Rainer Maria Rilke)、音楽だとベートーベン(Ludwig van Beethoven)やモーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)などが、随分身近に感じられるようになった。特にマルクスとかハイデガーとか原語の感覚が少しわかってくると、ああ、なーんだ、そうことかという感じもした。G-W-Gとか、Daseinとか。
 英語もおぼつかないが、それでも初級レベルのフランス語、ドイツ語、そして中国語を学んで、だいぶ世界の見方というか世界というものを受け止める感覚は変わったなと実感する。これらの国の人名とか見て、カタカナ使わなくてもわかるというのもけっこう便利だ。
 
 

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2014.10.09

野田国義参議院議員に謝罪せよとまでは思わないが、謝罪したほうがよいのではないかとは思う。

 7日の参議院予算委員会の基本的質疑で、山谷国家公安委員長が在特会メンバーと一緒に写真を撮っていたということに関連した質疑の際、委員会室で山谷氏に「団体のメンバーと懇ろなのではないか」というやじが民主党議員と思われる側から複数回飛び、これはセクハラ発言ではないかと話題になり、民主党の蓮舫元行政刷新担当大臣は、やじを飛ばしたのが同党所属議員による発言であることを認め、議会に対して陳謝した。このおり、やじを飛ばした議員は名乗り出るようにも示唆された。
 名乗りでたのは民主党・野田国義参議院議員であった。しかし、野田議員は、私の誤解かもしれないが、陳謝はせず、セクハラとして受け止められたのは誤解であると釈明するに留めた。NHK「民主 野田参院議員 やじを認め釈明」(参照)より。


 そのうえで、野田議員は「山谷大臣と団体との関係が親しいのではないかという意味で『ねんごろ』という表現をしたが、結果として誤解を与えたことは申し訳ないと思っている。今後の対応は党と相談して決めたい」と釈明しました。今回のやじを巡って、民主党は8日朝の参議院予算委員会の理事会で、重く受け止めているなどとして、各会派に陳謝しています。
 菅官房長官は午後の記者会見で、「私は現場で聞いていたが、確か3回も言っていた。セクハラ発言の最たるものだったと思うし、女性の品格を著しく傷つける発言だと思う。やじを飛ばしたことを認めたのであれば、素直に謝罪したようがよろしいんじゃないかなと私は思う」と述べました。

 現場にいた菅官房長官は「セクハラ発言の最たるものだった」との認識を示したが、当の野田議員は「結果として誤解を与えたことは申し訳ない」としている。つまり、セクハラではないとの認識である。
 野田議員の釈明には詳細報道があった。産経「山谷氏への「懇ろ」やじ 野田議員釈明詳報「九州ではよく使う」」(参照)より。

--どういう意図でやじったのか
「全く違った解釈をされているんで、ちょっと私も驚いている。というか憤りも逆に感じている。私の場合、小川(敏夫元法相)先生が質問していて、いわゆる在特会(=在日特権を許さない市民の会)との関係、思想的な懇ろな関係、そしてそれが長くずっと続いていた、いわゆるそれが懇ろな関係じゃないかということで言ったつもりなんですね」
--親しいという意味だったのか
「九州じゃあ、よく使うんよ(注:野田氏は参院福岡選挙区選出)。今日も理事会で九州の先生が言ってくれたらしいが、懇ろって結構使うんよ。そしたらどうもこっちは違うみたいだね。それがまあ、一つ反省なんだけど」
--問題になった点はどう釈明するのか
「そういうことで在特会との思想的なつながりが親密、懇ろでしょう、と。小川議員の発言に対して明確な答弁もなくて、はぐらかす発言をずっとしていたから、そういう中でみんな、『が-』ってなったんじゃない。そこで私自身もそういう意図で、発言したということですね。だからなんでそういう取り方するのかなと思ってね。皆さんも辞書をひいてもらえば分かるように、いくつか意味があって、その一つに確かにという部分が一つあるよね。皆さんがおっしゃっていることでしょう。しかし、僕の場合はまったく在特会との関係が長く続いていたことが懇ろでしょうと(言った)」
--蓮舫筆頭理事が予算委理事会で謝罪したことをどう考えるか。騒動になった点は
「誤解を招いたということは申し訳なかったということなんですが、僕はそういう意味で使って、全く皆さんが思ったような取り方はしてませんので。おかしいって、安倍晋三首相が最初におっしゃっていたけど。九州じゃ、よく使うよ」
--やじの内容は「宿泊先を知っているなら懇ろではないか」ということだった
「そうそう。だから宿泊先を知ってるぐらい懇ろなんでしょうと。そうでしょう。だから在特会とのつながりが長く、親しいから宿泊先を知っているんじゃないのということを言っている」
--「宿泊先」と言うと、違って受け止められるのではないか
「しかし、来たという形になっていたじゃない。小川先生の話も訪ねてきたという話よ。そうでしょう。訪ねてきたというところを、ずっと小川さんも話していたよ。訪ねてくるぐらいだったら親しいんじゃないですか。そうよね。確かに。僕も泊まっているホテルなんかあんまり教えないよね。親しい人しか。だから、それが懇ろなんでしょう。親しいというね。それも長年。だからずっと長く付き合っていらっしゃったら、いろいろマスコミも今書き始めているみたいだけど。それで明解な答弁もなく、はぐらかしての答弁ばっかりが続いていたということでしょう」
--都議会でもセクハラ発言が問題になった。それと比較する声もあるが
「全く違うじゃない。辞書を引けば、全然違うじゃない。皆さんが一方的に当てはめているだけであって、僕の言わんとするところは全く在特会との付き合いが長くて親しいんでしょうと。だから、私が在特会と懇ろな関係でしょうと。どうとる? ねえ。個人との話じゃないわけだから」

 野田議員の釈明のポイントは「懇ろ」という表現は、九州では「親しい」という意味で使うし、「辞書を引けば、全然違う」とのことで、性的な文脈で読むことは誤解であるから、セクハラ発言ではないということだ。そこで文脈を再現しておこう。聞き取れる範囲で書き起こしてみた。



小川:平成21年2月22日、この日に在特会の幹部が3人いると。その他の方も含めて大臣は記念写真を撮っているということが公表されておるんですがね。これは大臣が宿泊されているホテルに朝、訪問してきたんではないですか。
山谷:あのぉ竹島の日の集会のことだと思いますけども、朝訪ねて来たとかどうかということはあのちょっと記憶にございません。あのその人が関係者、、在特会の関係者だということも全く存じておりません。
小川:記憶にないのにね、なぜ講演会の場でたまたま頼まれたから写真を撮ったと説明できるんですか。
山谷:あのぉ政治家でございますから様々な場所で、ま、様々な方とお会いするということでございまして、え、写真を求められれば撮るということでありますが、あ、その方たちが在特会にメンバーであるということは全く存じませんでした。
小川:あの訪問したほうのですね、在特会の幹部の方がこういうふうにホームページで言っていますよ。「山谷先生の宿泊されているホテルに押しかけ、そうしょう、少々遅い夜明けのコーヒー」とこういうふうに言っています。大臣が泊まられているホテルに朝方午前中にですね、訪問したんじゃないんですか。大臣はそれを受け入れてお会いされたんじゃないんですか。
野田ヤジ:「宿泊先まで知っているっていうのねは、懇ろな関係じゃねえか」
山谷:そのような、どのようなホームページかは私は承知しておりませんが、私はあの早寝でございましてですね、夜明けのコーヒーなどは飲みません。

 ヤジ部分は次のほうが、多少聞きやすい。

 私はこれを聞いて二つ印象をもった。一つは、山谷議員が「夜明けのコーヒーなどは飲みません」と笑って述べているが、これは、「夜明けのコーヒー」の含みを理解してのことだろう、ということだ。この文脈ではもとは在得会が使っている表現だが、昭和の人間であれば、これからピンキーとキラーズの『恋の季節』の次を思い浮かべる。


夜明けのコーヒー
ふたりで飲もうと
あの人が云った
恋の季節よ

 これが一般的にどう受け止められているかというと、日経のコラム・春秋がわかりやすい(参照)。

春秋
2013/10/29 3:30
 昭和29年のことだ。ブラジルで、同じホテルに泊まるフランスの若い俳優が歌手の越路吹雪に声をかけた。「あす朝早く二人でコーヒーを飲もう」。うなずいた越路さん、約束を守ろうと翌朝、眠い目をこすり彼の部屋をノックすると、彼は一睡もせず待っていた……。▼越路さんはやっと気づく。朝のコーヒーを一緒に飲もうとは、一夜をともにしようという誘いなのだと。この逸話を気に入ったのが越路吹雪を家族のように支えた作詞家の岩谷時子さんだった。かくして後年、ピンキーとキラーズの「恋の季節」に「夜明けのコーヒー 二人で飲もうと~」の一節が盛り込まれたのである。

 つまり、「夜明けのコーヒー 二人で飲もうと~」は、「一夜をともにしようという誘い」ということで、その文脈を山谷議員も了解したうえで、またこれが回答になると理解したうえで、そんなことはないでしょう(飲みません)と否定したわけである。
 ここで考えることは、なぜ山谷議員がそう文脈を考えなければならかったかである。それは、小川議員から「夜明けのコーヒー」の言葉が出て、野田議員のヤジで「宿泊先まで知っているっていうのねは、懇ろな関係じゃねえか」という文脈が形成されたからではないかと思う。ヤジがこの文脈を形成したように見える。
 しかし、野田議員としては、文脈をはずして、「懇ろ」の字義から釈明しているが、その字義を文脈に挿入すると、「宿泊先まで知っている親しい関係」ということになる。ここで、なぜその男女関係で「宿泊先」を告げるかといえば、「一夜をともにしよう」あるいは、性的な密会という含みが生じるからだろう。
 私はこの部分からそのように受け取ったし、これは、管官房長官が言うように「セクハラ発言の最たるものだったと思うし、女性の品格を著しく傷つける発言だ」ということに同意した。
 もう一点は、しかし、それも解釈にすぎないということだ。それはゲスの勘ぐりだというなら、それもそれはそれで受け入れたいとも思う。たぶん、このエントリーにもゲスの勘ぐりというコメントが来るだろうと予想する。山谷議員や在得会を弁護するための議論だと脊髄反射される方が少なくないと予想するからだ。
 だから、解釈問題だという還元のしたかたもあるだろう、ということで、野田国義参議院議員に謝罪せよとまでは思わない。
 それでも管官房長官や私のような受け止め方はけして少数ではないだろうという点で、きちんと謝罪したほうがよいのではないかとも思う。
 謝罪を勧めるのには、もうひとつ理由がある。山谷議員を在特会の関連で批判したいなら、セクハラと受け止められるような追求はしないほうがよいからだ。そこはきちんと分けたほうがよいと思う。この意見が、野田国義参議院議員や民主党に伝わってほしいと思う。
 セクハラというのは受け取った人の問題である、とまでははっきりとはわからないし、また山谷議員がこれをセクハラとして受け取ったかも判然とはしない。しかし、国会の場で直接的な事実関係の判然としないなかで、密会的な性関係を否定するような配慮を女性に強いる状態自体が、私にはセクハラの空気であると感じている。
 
 
 

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2014.10.08

青色LED開発関連ノーベル物理学賞もなんか微妙だった

 今年のノーベル物理学賞の受賞者に青色LED開発の関連で、カリフォルニア大学教授の中村修二さん、名城大学教授の赤崎勇さん、名古屋大学大学院教授の天野浩さんが受賞した。よかったかと言えば、よかった。うれしいニュースかといえば、うれしい。ということ。ああ、でもなあ。どっちかというと微妙なニュースだった。どうリアクションしていいか、ちょっと困惑した。
 中村修二さんが受賞することはわかっていた。今年になるか、というのはわからなかった。その点では予想していたわけではない。いずれ取るでしょう、いつごろなんだろうと思っていたくらいである。
 しかし、振り返ってみると、予想はできた。なんとなく失礼な言い方になってしまうのを恐れるが、赤崎勇さんのお年である。
 基本的にこの分野の業績は中村修二さんの単独でよいのではないかとも思っていたが、ノーベル賞の傾向として先駆的業績には配慮するので、赤崎さんははずせない。すると、お二人かな。もうひとりジェームズ・ビアード、誰?みたいな感じになるか。
 てなふうに思っていたところで天野浩さんなので、はて?と思ったが、赤崎勇さんのお弟子さんだからということなのではないか。「低温バッファー層技術」開発時に天野さんは修士二年だったが一人前の研究者として扱った赤崎先生がいい先生でしたというこのような印象を持つ。というか、ノーベル賞側では、中村さんと赤崎さんは決まっていて、そこからいろいろ調べて検討し、こういう師弟関係が日本には好ましい、という配慮の意味合いがなかっただろうか。
 中村修二さんについては、彼が話題になる時代をずっとなぞって見てきたので普通に知っていることはある。いろいろ語られ、それが語られるべきテンプレ話題になりすぎていて、今振り返って特に言及すべきこともない。
 それでも、彼の研究は文字どおり、独創だっただろうと思う。「窒化ガリウムを選んだのはやけくそでした」(参照)より。


 ついでに,フロリダ大学に1年間行かしてくれと言って,MOCVD(有機金属気相成長)を勉強しに行きました。
 1989年に日本に帰ってきて,それから青色LEDの研究を始めました。これを始めるときに,過去10年を振り返って,それまでとはまったく違うやり方でやると決めたのです。
 それまでやってきたのは,全部他人の真似なんです。文献を全部かき集めて,片っ端から一生懸命読んでやっていました。そうするとどうしても,無意識にひとの真似をするんですよ。頭の中に入っているんですね,概念が。先にやった人がこうだと決めつけたものが。
 だから今度は文献を読まないと決めました。論文も本も一切読まないと決めたのです。
 それから,人のやっていない材料ということで,窒化ガリウム(GaN)を選びました。当時,青色LEDというとジンクセレン(ZnSe)とかシリコンカーバイド(SiC)とかもあったのですが,もう大手がやってる材料は絶対やるまいと決めました。自暴自棄でGaNを選んだわけです。当時,名古屋工業大学の赤崎勇先生だけはGaNをやってらっしゃったのですがね。
 外国でも,数は多くないのですが,いくつか窒化ガリウムの論文が出ていました。それもすべて無視,です。

 赤崎先生の業績なくしてできたということでもないだろうが、見方によっては、やはり中村さんの独創でよいような気はしている。
 自然科学のノーベル賞というと、ついしかたないと思うのだけど、日本の科学振興とか、基礎研究の予算とか、言われるわけだけど、中村さんの独創で思うのは、もっと素の力みたいな感じかなあ。たとえば、装置開発でも、彼はこう言っていた。

ヒーターの設計が一番難しいんですね。私はそのあたりは得意なんです。10年間装置を自作し続けた経験が生きているのですよ。今の人はどんなにいい大学を出ても,改造ができないですね。私はそれまでずっと,ガラクタをかき集めて自作をやってきましたからね。ヒーターも自分で巻いたし,透明石英の溶接とかも,ずーっと自分でやってきましたからね。

 つまり、そういう人が独創なんだろう。そういう人材を育てるというのは、科学教育をとか予算をというのと少し違うような気がする。
 もう一点、今回のノーベル賞で、当然話題になって困惑するだろうなと思って、そのとおりになったことが、中村さんの国籍問題である。別の言い方をすると、日本人なのか、ということだ。
 日本の場合、二重国籍を認めない建前で、しかも他国籍を取ると、たしか自動的に日本の国籍は失効だから、中村さんは、その意味でもう日本国籍はないのではないかと思う。はっきりしたことはわからないのだけど、これを機会に日本も二重国籍ありにすればいいのではないか。
 ちなみに、中国系のノーベル物理学賞受賞者には、李政道、楊振寧、丁肇中、朱棣文がいるが、中国人と見るか米国人と見るか、どうでもいいような問題にも思える。
 米国というのは、オバマ大統領も父親はケニア人だし、米国籍で米国人という以上のこともないだろう。
 
 
香港・真正的普選
  

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2014.10.07

日本人イスラム国兵士志願問題が微妙に面白い

 日本人イスラム国兵士志願問題が微妙に面白い。不謹慎な、と思われるかもしれないが、微妙に面白いのである。ブログのネタにしかならないんじゃないかというくらい。
 昨日、イスラム過激派組織「イスラム国」の志願兵になろうとしてシリア渡航を計画したとされる日本人の大学生の関係先が捜索を受けた。日本人からもイスラム国への志願兵が現れたのかと、驚きをもってそのニュースを聞いた人もいるだろう。私もその一人だった。しかし、どうもこの問題、シリアスな問題というより、微妙に面白い。
 なにより、この問題の発端となる募集が単なるイタズラだったようだ。
 このネタは以前からネットのネタで流れていたのは私も知っていた(参照)。まさか、このネタがこの事件の募集張り紙だったとは思わなかったが、NHKの報道映像を見たら同じだった。

 NHK報道によると背景は次のように、ただのイタズラだったらしい(参照)。


 その後の警視庁の調べで、大学生は東京・秋葉原の古書店にあったシリアでの勤務を募集する貼り紙を見て応募していたことが分かりました。
 貼り紙はことしの春に貼られ、「求人」、「勤務地:シリア」などと書かれていたということです。
 貼ったのは古書店の関係者の男性でNHKの取材に対し「誰かに頼まれたのではなく、これを貼ればどうなるかと思って、おもしろがって貼っただけだ」と話しています。
 また、この関係者は応募してきた複数の若者をイスラム法学が専門の大学教授などに紹介したということです。

 つまり、元々ツイッターとかに流されることを想定した上でのバイラル用のネタだったと理解してよさそうだし、流れて来たこのネタについて、私もまたネタかあと笑って終わりにした。
 で、このネタに警視庁がまじめくさってぱくついたのはなぜなんだろうか?
 しかも、当初の報道はけっこう大まじめに読めるものだった。「日本人 「イスラム国」に参加計画か」(参照)より。

警視庁によりますと、この大学生はシリアに渡航する求人に応募し、渡航を計画したということで、任意の調べに対し「シリアに入ってイスラム国に加わり、戦闘員として働くつもりだった」と話しているということです。

 しかし、そもそも求人はネタではないかと思われるのに、どうしてこういうふうな情報を警察は流したのだろうか。
 理由を少し考えてみると、その「求人に応募し」というのは疑問だとしても、学生がシリアに渡ろうとしたことは本当だったのかもしれないからだろうか(参照)。

 イスラム過激派組織「イスラム国」に戦闘員として加わるためにシリアに渡航しようとしたとして日本人の大学生の関係先が捜索を受けた事件で、この大学生が7日、成田空港から出国する計画だったことが警視庁への取材で新たに分かりました。
 ことし8月にも渡航しようとしていたということで、警視庁で詳しいいきさつを調べています。

 トルコ経由でシリアに行こうとしても別に違法でもないし、手引きする裏の組織についてこの時点ではなんら報道もないので、このニュースもよくわからない。印象だと、特段に計画もなく、とにかく「シリアに行く!」と騒いでいた変な学生さんということのような印象は受ける。そう思える報道も出て来た。FNN「「イスラム国」戦闘員事件 北大生の男「なれないなら自殺する」」(参照)より。

 イスラム過激派組織「イスラム国」で戦闘員になるために、北海道大学生の男がシリア入りを計画していた事件で、男は、ジャーナリストのインタビューに、「義勇兵になれないなら自殺する」と話していたことがわかった。
 シリア行きを計画していた北大生は「そこには戦場があって、全く違う文化があって。イスラムという強大な宗教によって、民衆が考えて行動している。このフィクションの中に行けば、また違う発見があるかな。それくらい」と話した。
これは6日、「イスラム国」で戦闘に参加する私戦予備の疑いで、警視庁公安部の事情聴取を受けた北海道大学生(26)が、取材のため、一緒に渡航する予定だったフリージャーナリストのインタビューに答えたもの。
 男は、この中で「義勇兵になれないなら、自殺すると思う。たとえシリアで死ぬことになっても同じことだ」と話していたという。
 インタビューをしたジャーナリストの自宅も、6日、家宅捜索を受けていた。
 フリージャーナリストの常岡浩介氏は「警視庁公安部捜査員7人が来まして、支度している機材を洗いざらい押収していった。『(北大生は)もしもシリアに行かないとしたら、ことし中か、来年にも、間違いなく自殺しているから、シリアで死ぬことになっても、全く変わりがありません』という言い方をしていた」と話した。
 男は、秋葉原の古本を扱う書店でシリア入りを募るビラを見て、シリアに渡航歴のある元大学教授の手配で、トルコ経由でのシリア入りを計画し、イスタンブールに向け、7日、成田から出国する予定だった。
 この元教授は、8月にも今回の北海道大学生と、千葉県出身の23歳の元アルバイトの男性をシリアに連れていく予定を立てていたが、男性の親の反対などにより、頓挫していたという。
 警視庁は、7日朝からこの元教授の関係先を捜索し、裏づけ捜査を行っている。

 相談に乗った常岡浩介氏によるとどうもこの大学生には特段イスラム国に賛同して志願兵になりたというものでもないようだ。一種の鬱憤晴らしみたいなものようでもある。
 その後、ツイッター周りの情報を読んでいくと、該当の学生さんはその界隈では有名な人らしく、どうやら、イスラム国への支持というわけでもなそうだ。
 警察の対応も、その異常さ加減が微妙だ。なんで「刑法93条 私戦予備及び陰謀罪」なんか持ち出してきたのだろうか。
 これ、ちなみに、法的な根拠はNHK報道ではこう(参照)。

 刑法の私戦予備及び陰謀罪とは、外国に対して私的に戦闘行為をする目的で、その準備または、陰謀をした者を罰する規定で3か月以上5年以下の禁錮刑にするとしています。
国家の意思とは無関係に私的に外国に対して武力の行使を行う目的で武器や資金の調達、それに兵員の募集を行うことなどが、「準備」に当たるとされています。
また、「陰謀」とは、2人以上の人が戦闘を実行するために謀議などを行うこととされています。
 この規定が実際に使われるのは、極めて異例です。
 中東地域の紛争に詳しい桜美林大学の加藤朗教授は「日本でこうした法律が適用されるのはこれまで聞いたことがなく、大変驚いている。イスラム国はプロが作ったような宣伝用の動画をインターネット上で公開するなど世界を対象に巧みな宣伝活動を行っていて、イスラム教の教義を知らない日本人でも、影響を受けかねないと思う」と指摘しました。

 警察としては、これ死文化していると思われるのもなんだから、ちょっと使ってみようかというノリだったのかもしれないし、この死文ならみなさんも警察の冗談だってわかるよねって親心だったのかもしれない……それはないだろうなあ。ただ、親心じゃないけど、パターナリスティックに日本人に脅しをかけたという意味合いはあるだろう。なんかそれでも権力の濫用だなあというのも面白い……いや面白いと言っていいか微妙かあ。
 そういえば、これ当初朝日新聞が「逮捕」と誤報を出していたが(参照)、どうにも、そもそも逮捕できるような事件ではありませんね。
 まあ、微妙に面白いということについては以上の通りで、もっとこの学生さんについての情報など(参照)を掘ると面白おかしく書けるのだけど、率直に言って、この学生さんがこの事件の中心的な課題ではない。
 ただ、これ、イスラム国と関係ない実に日本人らしい頓珍漢な話だよなで終わるかというと、ちょっと考えてみると、欧米からイスラム国に参加する若者も案外この程度のノリというか、いや生死も賭けているくらいだからこの程度とか言っちゃいけないのだろうなとは思うが、この日本の学生さんが言ったみたいに「そこには戦場があって、全く違う文化があって。イスラムという強大な宗教によって、民衆が考えて行動している。このフィクションの中に行けば、また違う発見があるかな」として乗り込んでヒャッハーしちゃうということはあるのだろう。
 その意味では、イスラム国の問題がきちんと日本に日本らしく影響したということかもしれないとも思う。
 
 
香港・真正的普選
 
  

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2014.10.06

モディ首相時代の中印関係(アルナチャルプラデシュ州問題)

 インドがインド人民党(Bharatiya Janata Party、BJP)のモディ首相の時代となった。これに合わせて、新しい中印関係、というか、中印日関係について少し触れておきたいことがある。
 基本的な構図は、中国に対して日本とインドが領土問題を含み緊張関係にあることだ。この構図からは、自由主義の日印の関係強化によって、中国の軍拡を抑制し、自由主義諸国の関係にどのように上手に取り込むかという課題が浮かびがある。概論としてはそうだが、個別から見ると微妙な印象がある。
 首相就任後活発な外交を展開しているインドのモディ首相だが、インドの思惑としては経済面では日中を両天秤に掛けている。この戦略は自然なので、日本の安倍首相は5年間で3.5兆円の投融資を行うと賭けた。相手は中国であり、これに上回るかが見どころだったが、習主席からは同期間で約2兆2千億程度で受けた。形の上では日本側の賭けが買ったが、中国としても微妙なバランスの額である。
 このモディ・習会談の際、興味深いことがもう一点あった。この投資を決めたのは9月18日、ニューデリーで実施された会談だったが、その前日、モディ首相がその故郷グジャラート州に習主席を招いているさなかに、中国軍がインド北部カシミール地方で実効支配線を越えてインドに侵入しインド軍と対峙したことだ。首脳会談が平和裏に進んでいるなか、軍事衝突の危険があったのである。
 軍事を背景にしたいかにも中国らしい外交のやり方だとも言えるし、インドもこうした中国の手法には慣れているのできちんと受けていた。もっとも平和主義国である日本側から見ると、奇妙にも見える。
 冗談はさておくとすれば、普通に考えてもこの中国のやり方は異常なことである。中国という国はこういうわけのわからないことをする。
 難しいのは、中国のこうした行動に総合的なメッセージが存在するのか、軍の行動が政府下にないため、政府の意向とは別にこういうことが起きるのか、それすらもよくわからないことだ。当然、こうした行動は、他国に不可解な恐怖を与えているのだが、そのことも中国は理解しているふうではない。
 中印会談時の中国軍の軍事的な威嚇については、当の習氏としても困った事態と見ていたふしもある。帰国後、彼は軍に対して異論とも取れるメッセージを出していたからだ(参照)。もっとも、たとえそうであっても、困った事態にはまったく変化が起こりそうもない。
 今回の中国軍によるインドへの軍事的な威嚇だが、モディ・習会談が直接の背景ではないのかもしれない。
 6月のことだがインドは、中国の地図で、インドが実効支配しているアルナチャルプラデシュ州について、中国領の南チベットとして記載されていたことに批判を表明し、国際社会が注目した。
 この批判は、中国の領土対応が突然変わったことで偶発的に起きたことではない。モディ首相が選挙活動をしていたときから、関連する領土問題についての主張には大きな比重で含まれていた。
 モディ氏は首相就任前にアッサムに趣いた際、「この地球上のいかなる権力もインドからアルナチャルプラデシュを消し去ることはできない」とも述べていた(参照)。
 こうした点からすると、中国側としては、今回の軍事的な威嚇はモディ首相に対するテストの意味合いもあっただろう。むしろ会談がテストに適した時期と見られていたかもしれない。繰り返すが、こうした中国の奇妙な外交手法は、今後日本にも適用されるので、日本人もこうした手口は学んでおくとよい。
 個別にアルナチャルプラデシュ州問題を現時点で簡単に再考してみたい。これは中国が南チベットと呼んで自国領土主張している問題だが、奇妙な呼称からも連想が付くように、当然チベット問題とも関連している。この点については以前このブログでも危機の可能性がある時点で言及したことがある(参照)。今回は簡単に地図で再確認しておこう。赤い部分がそれである。

 この位置に関連して日本人として留意しておきたいことの一つは、アルナチャルプラデシュ州の西側の部分が、ブータンであることだ。ブータンが日本に対して親日国であるとアピールしたい背景は、こうした地図から一目で見て取れる部分がある。この地域に第3の勢力を関与させておきたいのである。
 アルナチャルプラデシュ州を巡る緊張の今後だが、日本も含めた国際社会としては、問題地域であることは認識しても、あまり事を荒立ててほしくない地域でもあり、そのメッセージは、話を聞きそうにもない中国は別として、インド側に伝えられてはいる。
 だがそもそも、モディ氏が首相になったこと自体、この領土問題がインド国内でナショナリズムと結びつきやすい状況にあることを示している。
 日本側や西側報道からはあまり見えてこないが、今回のモディ・習会談でも、アルナチャルプラデシュ州問題に関わる、ブラマプトラ川ダムの問題がインドのアッサムでは主張されていた(参照)。
 このダムについては環境問題としても重視されてきつつある(参照)。近い時期に、突発的な問題が発生する可能性もあるだろう。
 
 
香港・真正的普選
 
  

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2014.10.05

ああ、安倍政権の外交センスは嘆かわしい(訂正追記あり)

訂正・追記(同日)この記事末に追記したが、10月3日に菅官房長官から「自由で開かれた体制」を求める旨の談話があった。よって以下の関連記述は間違っていたことになる。以下は、それを見落としている時点の記述である。その事実を認識した現在、安倍政権の対応は正しいとしたい。

 香港で普通選挙を求める市民のデモについて、二つ気になっていることがある。
 一つは、日本のリベラルと称する人たちのこの運動への関心が低いことだ。あるいは関心があっても、香港の人たちはデモ行動ができて偉いという程度で、香港の人たちが民主主義の基本である普通選挙を求めているのだということが、よく理解できてないんじゃないか、という印象があること。まあ、しかし、これは印象にとどまるのでブログの話題にはならない。
 もう一つは、安倍内閣がこの問題に沈黙しているかに見えることだ。率直な印象をいうと、この「黙っていようっと」という印象は、安倍内閣を批判する種類のリベラルとも共通しているように思える。しかし、それについては大したことではない。
 問題は、なぜ安倍内閣が、自由主義国で民主的な普通選挙を持つ日本として香港の民主化について言及しないのだろうか?ということだ。
 他国への内政干渉になるから普通しないでしょ、ということだろうか。中国共産党政府がそう言っているのを真に受けるのも、彼らの領土主張を真に受けるくらい滑稽なことに思えるが。
 米国オバマ大統領は、中国の王毅外相に直接、批判を述べている。朝日新聞「米大統領「香港市民の志を支持」 中国外相は強く反発」(参照)より。


 オバマ米大統領は1日、香港で行政長官選挙の改革をめぐる抗議デモが拡大していることについて、訪米中の王毅(ワンイー)・中国外相に「香港市民の志を支持する」と述べ、香港の安定には開かれた制度が必要との考えを伝えた。ホワイトハウスが発表した。これに対し、王氏は「中国への内政干渉だ」と強く反発した。

 ケリー国務長官もこの点は明確にしている。

ケリー氏は会談前に記者団に対し、「できる限りの高度な自治と法の支配に基づく社会が、香港の安定と繁栄には重要だ」と指摘した。その上で、学生らに催涙弾を使った警察当局に抑制を求め、「デモ参加者の平和的に意見を述べる権利が尊重されることを希望する」とも語った。

 香港のかつての宗主国でもあり、香港の民主化が50年間保たれることで中国と合意した英国でもキャメロン英首相は言及している。「キャメロン英首相、香港デモでの衝突を「深く懸念」」(参照)より。

キャメロン氏はスカイニュースに対し、香港の中国返還の際の英中合意に触れ、「中国側と設置した(一国)二制度の下で香港の人々に民主的な将来を与えることが重要との合意があった。それ故、今起きていることについて私は深く懸念しており、この問題が解決することを望む」と述べた。

 とはいえ、フランスのオランド大統領やドイツのメルケル首相がこの件について言及したという報道も聞かないので、日本の安倍首相だけが特異というものでもないのかもしれない。
 とま、そう思っていた。
 そうしたなか、ジャパンタイムスでスタッフ・ライターの人が興味深い記事を昨日、書いていた。「Japanese officials silent on drama unfolding in Hong Kong(香港で展開しているドラマについて沈黙を守っている日本の政府高官)」(参照)である。

In the past few days, high-ranking government officials were willing to discuss the importance of keeping Hong Kong stable, prosperous and free. The city is particularly important to the future of Japan and the Asia-Pacific region, they said.

この数日のこと、いくにんかの政府高官が、香港を安定させ、繁栄させ、自由にしておくことの重要性について快く議論していた。あの都市は、特に日本とアジア太平洋地域の将来に重要であると彼らは言っていた。

But when pressed by reporters, they have been tight-lipped about whether they support the pro-democracy demonstrations in Hong Kong and residents’ calls for universal suffrage. This has raised suspicions they are afraid of upsetting Beijing.

しかし、レポーターが強く押すと、香港の民主化賛成デモと、住民らの普通選挙権への要求を支持するかという点について、彼らの口は固かった。このことで彼らが、北京を動揺させることを恐れているという疑惑を招くことになった。

The four high-ranking government officials contacted by The Japan Times, two who spoke publicly and two who spoke separately on condition of anonymity, responded exactly the same way: by ducking the question.

ジャパンタイムズが接触した、4人の高官--公然と話した2人、および匿名を条件に別個に話した2人--は判を押したような反応をしたのである。つまり、質問を回避した。

This signals that not responding is the government’s official policy on the Hong Kong demonstrations.

これは、反応しないということが、香港のデモについての政府が公式な方針であるということの合図なのである。


 これは安倍政権の方針ということだ。
 ああ、安倍政権の外交センスは嘆かわしい。
 率直に言って、ひどいもんだなと思う。そして、このことが、ひどいことなんぜと声を上げないリベラルなんて、ナンセンスでしょと思う。
 もちろん、外交的な配慮があることは理解できる。

Prime Minister Shinzo Abe is trying to arrange a meeting with Chinese counterpart Xi Jinping on the sidelines of the Asia-Pacific Economic Cooperation forum in November in Beijing. This is widely believed to be another reason for Tokyo’s restraint, though Suga denies it.

安倍晋三首相は、北京で11月に開催されるアジア太平洋経済協力会議フォーラムに合わせて、中国側の相手として習近平との会合を手配しようとしているさなかである。管はそれを否定するが、これが、日本政府による抑制のもう一つの理由であると広く信じられている。


 率直なところ、日本政府は、英米の指導者ほどのトーンではなくても、とにかく結果として天安門事件の流血を避けるような配慮として言及があってもよいのではないか。たとえば、「香港での普通選挙を求めるデモは平和裏に解決することが好ましい」くらいには。
 そしてその結果として中国側からの会談ボイコットになるなら、それを甘んじて受けるべきだろう。そうすれば、批判していても対話を維持する米国への対応と、日本への対応の差が明確になってよい。
 関連して言及しておくと、中国政府へのチキン対応は、ダライ・ラマの扱いで国際問題になっている。
 一番ハデにヘマにやったのが南アフリカである。あるいは中国の手前そうならざるを得なかったのかもしれないが。「南アがダライ・ラマ入国拒否、ノーベル平和賞6人が国際会議ボイコット」(参照)より。

【9月26日 AFP】南アフリカ政府がチベット仏教最高指導者のダライ・ラマ(Dalai Lama)14世への査証(ビザ)発給を拒否したことに抗議して、ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)受賞者6人が南アフリカで来月開かれる国際会議へのボイコットを表明した。カナダを拠点とする「ノーベル女性の会(Nobel Women's Initiative)」の広報担当者が25日、述べた。


 「ダライ・ラマはチベット問題に対して非暴力的な交渉による解決を呼び掛けている」と、ノーベル女性の会はボイコット発表の際に述べた。
 さらに、中国政府がダライ・ラマの移動の自由を制限するために政治的な圧力をかけていると非難し、「中国は南アフリカが同宗教指導者の入国を拒否したことに公式に謝意を表明した」と付け加えた。

 これは南アだけの問題ではない。グローバルポスト「No one likes the Dalai Lama anymore(ダライ・ラマを好む人はもう誰もいない)」(参照)で包括的に触れていた。
 英国のキャメロン首相は2012年5月、中国政府の警告に反してダライ・ラマと会談したため、中国の怒りを買った。そして中国をなだめるためにいろいろ苦労したらしい。寛容とされるノルウェーでも、劉暁波にノーベル平和賞を与えたことで中国の怒りを買い、その反動でダライ・ラマと高官の接触は拒まれた。
 つまり、中国は、自由主義諸国も香港と同様にしてくれるということでである。手始めに身近なところから。


追記(同日)
 ニュースに見落としがあった。10月3日に菅官房長官からの関連の談話があった。ANN「菅長官、香港に「自由で開かれた体制を望む」」(参照)より。


 菅官房長官は、香港で学生らによる大規模なデモ活動が続いていることついて「1国2制度において、自由で開かれた体制が維持されることを強く望んでいきたい」との認識を示しました。
 菅官房長官:「我が国としては、香港において引き続き1国2制度のもとに、従来からの自由で開かれた体制が維持されて我が国と緊密な交流関係が維持されていくことを強く望んでいきたい」
 香港の民主的な選挙を求める大規模なデモ活動は、香港の学生らが行政長官の辞任などを求めて今も座り込みを続けています。菅長官は「香港の平和と安定はアジア太平洋地域の繁栄と発展に重要な役割を果たしている」と述べ、引き続き事態を注視していく考えを示しました。


追記・補足(同日)
 ジャパンタイムスの記事でも管官房長官の談話については言及していたが、否定的な文脈からクローズな場での発言だと私が誤解していた。関連部分は以下のとおり。

“The future of Hong Kong is extremely important to the future of Japan. The prosperity and stability of Hong Kong will play an important role for not only China, but also for the whole of Asia,” Chief Cabinet Secretary Yoshihide Suga said Friday at a news conference.

「香港の未来は日本の将来に極めて重要である。香港の繁栄と安定性は中国のためにだけでなく、アジア全体のためにも重要な役割を果たすだろう」と内閣官房長官菅義偉は記者会見で金曜日に語った。

But when asked whether Japan supports the street protests, as the U.S. White House officially did on Monday, he didn’t answer.

しかし、米国ホワイトハウスが月曜日に公式にしたように、日本が街頭での抗議を支援するかどうかを尋ねられたとき、彼は答えなかった。


 
 

 
 
香港・真正的普選
 
 

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2014.10.04

「ホラサン」への空爆は何だったんだろうか?

 自分なりに調べてみたがわからなかった。9月22日に米国が実施した「ホラサン」への空爆である。心にひっかかったままというのもなんなので、ブログに書いておこう。
 疑問の核は非常に簡単である。イスラム国に空爆をすると言ったオバマ米国大統領が、それとは関係のない「ホラサン」に空爆をしたのは何故か?
 もちろん、あとから理由は付くし、その理由はあとで触れたいと思うが、率直に言って、そんな話は事前に聞いてなかったし、いったい、どんな根拠で、そんな空爆が可能だったのだろうか? もっと、言えば、どさくさにまぎれにこんなことやっていいのだろうか?
 事態をNHKのニュースで確認しておこう。「米軍 別の過激派組織「ホラサン」も空爆」(参照・リンク切れ)より。


9月23日 19時53分
 アメリカ中央軍は今回、イスラム国に対する空爆に加えて、シリアで活動する別の過激派組織「ホラサン」に対しても、空爆を行ったと発表しました。
 「ホラサン」は、アフガニスタンやパキスタンなどの出身者からなる国際テロ組織アルカイダ系の過激派組織で、アメリカの情報機関は、イスラム国と同様にアメリカにとって脅威になり得るという見方を強調しています。
アメリカ中央軍は今回、シリア北部のアレッポの西で、「ホラサン」の司令部や爆発物などを製造する施設、それに訓練場などに対し、8回にわたって空爆を行い、作戦はアメリカ軍が単独で実施したと発表しました。
 また、空爆の目的は「ホラサン」が即席の爆発装置の開発や欧米諸国から戦闘員を勧誘するなどの活動をし、アメリカなど欧米諸国に対する差し迫った攻撃を計画していたことを阻止するためだと説明しています。

 NHK報道はアメリカ中央軍の話をまとめただけで、あまり報道の体をなしていない。そのことは、NHKにも自覚されているらしく、こう続く。

米にとって脅威の「ホラサン」
 アメリカのメディアは、イスラム過激派組織「ホラサン」について「アメリカにとっては『イスラム国』よりも脅威になり得る」などと、相次いで報じていました。
 アメリカの新聞、ニューヨーク・タイムズやAP通信は、今月に入ってアメリカの情報機関の当局者などの話として、「『ホラサン』はアメリカを狙って攻撃することを目標としており、その脅威は『イスラム国』よりも大きい」などと報じました。
 また、CBSニュースも18日、CIA=中央情報局の元高官へのインタビューで「『ホラサン』は攻撃の対象をアメリカやヨーロッパにしており、空港の警備をすり抜けて機内に持ち込める爆弾を開発している。シリアでは、実際に運ぼうとした欧米の戦闘員も見つけている」と伝えていました。

 米国メディアをNHKがまとめてみましたということで、正直といえば正直だが、ブログの記事みたいなものにしかなっていない。もっともそれは日本の報道社は他も同じではあるが。
 さて、どうにも変な話である。
 シリアはとりあえず主権国家である。そこにひょっこり空爆してよいものだろうか。いいわけはない。そして、今回のシリア空爆は、シリアの防空網を考えると、ますますよくわからない。ごく簡単に言えば、米国はシリアの防空網を抜けたか、あるいは、シリア政府(アサド大統領)が暗黙に自国空爆を認めたか?
 おそらく後者だろうと見られている。
 そこで「ホラサン」への空爆を当てはめると、特段に陰謀論というわけでもなく、「ホラサン」への空爆はシリア政府というかアサド大統領の、暗黙かもしれないけれど、認可があったと見てよい。そして、認可するのも当然で、「ホラサン」はシリア政府(アサド大統領)の敵だからだ。しかも、アレッポはアサド側にとって激戦の要所である。
 この先は陰謀論めく。ここから陰謀論……シリア空爆にあたって米国とシリア側で裏の交渉があって、「アレッポ近いあそこを叩いておいてくれたらOK」みたいなことになっていたんじゃないだろうか。……ここまで陰謀論。ただ、この陰謀論は否定できない。陰謀論は終わり。
 さて、このホラサンへの空爆理由だが、ブルームバーグ「米本土への「差し迫った攻撃」計画、「ホラサン」空爆の理由」(参照)ではこう伝えていた。

 イラクとシリアで支配を拡大する「イスラム国」が注目される中、より差し迫った脅威としてここ数週間にホラサンが浮上。米国の情報当局は、ホラサンの方が米国と欧州への攻撃に一段と的を絞っていると分析する。
 国防総省は声明で、ホラサンは国際テロ組織アルカイダの「経験豊富な古参兵士のネットワーク」で構成されていると指摘した。米当局はホラサンの攻撃計画や、それに関する情報の信頼性に関する詳細を明らかにしていない。
 ランド・コープ(サンタモニカ)のインターナショナル・セキュリティー・アンド・ディフェンス・ポリシー・センターでディレクターを務めるセス・ジョーンズ氏はホラサンについて、「西側を脅かす組織の頂点に位置する」と指摘した。
 国防総省によれば、アレッポ西方のホラサンへの攻撃には巡航ミサイル「トマホーク」が使用された。これとは別に、米国とアラブ5カ国はイスラム国の14の目標物に対し空爆を行った。

 いろいろ書いているが重要なのは「米当局はホラサンの攻撃計画や、それに関する情報の信頼性に関する詳細を明らかにしていない」ということ。わからない、というのが確実なのである。
 以前のブッシュ大統領のとき、不確かな情報を元に軍事行動に走ったとかよく批判されたものだが、今回のオバマ大統領も構図としてまったく変わらないが、なぜか十分な批判を見かけない。なぜなんだろうか。なんとも不可解でならない。
 ブルームバーグ報道はこう続く。

 米国が懸念しているのはイエメンを拠点とするアルカイダ系武装勢力「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」の爆弾専門家イブラヒム・アシリ容疑者とホラサンがつながっているとみられることだ。アシリ容疑者は衣服や人体内に爆弾を埋め込む技術を開発しているといわれている。米国は同容疑者殺害を図り無人機による空爆を行ってきたが成功していない。
 オバマ米大統領は23日にホワイトハウスで、「アメリカを攻撃し、アメリカ人に危害を加えようと策略を立てる者に対し、はっきりさせておかなくてはならない。米国は市民を脅かすテロリストの隠れ場所を放置しない」と述べた。

 さらっと書かれているが、この情報はまったく不確かである。
 また、「米国は同容疑者殺害を図り無人機による空爆を行ってきた」ともさらっと書いているが、ようするにイエメンでオバマ大統領が認可した殺人ロボットを使って日夜暗殺を繰り広げていたわけである。
 「ホラサン」グループだが、イスラム国に匹敵するような脅威なのだろうか。もちろん、そう語られているのだが、事実関係を見ていくと疑問は深まる。AFP「アルカイダ系組織「ホラサン」、シリア空爆で一躍注目の的に」(参照)より。

 米国防総省は、ホラサンが欧米に対する「大規模な攻撃」を計画中だったとした上で、欧州あるいは米国に対する攻撃計画の「最終段階」にあったホラサンの戦闘員らを殺害したと発表した。
 専門家やバラク・オバマ(Barack Obama)政権によれば、アルカイダの元最高指導者ウサマ・ビンラディン(Osama Bin Laden)容疑者の仲間や古参工作員らが率いるホラサンの存在は、以前から知られていた。メンバーは最大1000人ほどで、イスラム国の戦闘員推定3万1000人よりもはるかに小規模だ。

 つまり1000人ほどの組織である。イスラム国の規模には匹敵しない。もちろん、それでも脅威だったということだが、どういう脅威なのかは、はっきりしない。

 ホラサンが計画していたとされる攻撃の内容はこれまでほとんど分かっていなかったが、米当局は先週になってその計画を把握したと報じられている。米CNNテレビは情報当局筋の話として、ホラサンの計画には、歯磨き容器や爆発物に浸した衣類などの非金属製の爆弾の使用も含まれていたと伝えた。

 驚くべきことは「米当局は先週になってその計画を把握した」ということで、これは、それほど緊急性があったということか、なんとなくその時のノリで空爆しちゃったかのどちらかだろう。案外、後者ではないのか。
 さていずれにせよ、「ホラサン」への空爆は意味があったのだろうか。時事がロイターの孫引きでこう伝えている。「アルカイダ系指導者の死亡認める=戦闘員がツイッターで」(参照)より。

【エルサレム時事】米テロ組織監視団体SITEは28日、国際テロ組織アルカイダの戦闘員がツイッター上で、アルカイダ系の武装組織「ホラサン・グループ」の指導者ファドリ氏が、米軍による空爆で死亡したことを認めたと明らかにした。ロイター通信が伝えた。

 やはり不確か情報であり、先の中心人物イブラヒム・アシリ容疑者については話が途絶えた。
 結局その後、どうなったのだろうか。というか、この空爆はなんだったのだろうか? 率直に言って、こんな変な話はないと思うのだが。
 あまり疑問が投げかけられているふうでもないが、9月28日のヒューマン・ライツ・ウォッチは「米国/シリア:米国が違法な攻撃か 調査必要」(参照)で疑問を呈していた。

(ニューヨーク)— シリアのイドリブ県で米軍が行ったとみられるミサイル攻撃で、少なくとも7人の一般市民が死亡した。武力紛争法違反の可能性を念頭においた調査が必要だ、と本日ヒューマン・ライツ・ウォッチは述べた。2014年9月25日のマスメディアに対する声明内で米国防総省のジョン・カービー報道官は、米国による攻撃でシリアの一般市民に死傷者が出たという報告を検証したが、一般市民の死について「現地から信頼に足る報告」を米軍は受けていないと述べた。
 地元住民らがヒューマン・ライツ・ウォッチに語ったところでは、9月23日早朝にイドリブ県北部の村落Kafr Deryanで、少なくとも男性・女性がそれぞれ2人、子ども5人が死亡した。未確認ではあるが、男性2人はイスラム過激派組織アルヌスラ戦線のメンバーだったという情報がある。これら一般市民が、米国の保有するトマホーク巡航ミサイルにより殺害されたという目撃者証言と一致する動画もある。

 奇妙なのはこの先である。

 米国防総省は9月23日にフェイスブック上で声明を発表。同日に米中央軍が、アレッポ県西部を拠点にするアルカイダ系過激派組織「ホラサン集団」に8回の攻撃を実施し、同省がいうところの「米国および西側諸国の利を損なう差し迫った攻撃構想の粉砕」をしたと認めた。同省は空爆地域の特定をさけ、アレッポ県西部に位置するKafr Deryanへのいかなる攻撃についても詳細を発表しなかった。
 「人権のためのシリア・ネットワーク(SNHR)」の報告によると、Kafr Deryanへのミサイル攻撃で直撃を受けたのは、武器庫を含むアルヌスラ戦線本部だという。同ネットワークはしかしながら、武器の隠し場所への米軍攻撃で起きた二次爆発で、100メートルほど離れたところにある民家が崩壊し、12人の一般市民も犠牲になったとしている。これら犠牲者の氏名にはヒューマン・ライツ・ウォッチが収集した目撃者証言と一致するものも含まれる。

 正直いって、ヒューマン・ライツ・ウォッチの情報もよくわからない。私の誤解かもしれないが、ホラサンへの攻撃のどさくさで秘密裏に市民への空爆をしていたのだろうか。
 ところでその後だが、昨日、3日付けのロイター「U.S. strikes on al Qaeda group in Syria did not inflict decisive blow: sources」(参照)の記事があった。それによると、現状まだ調査中ではあるが、「ホラサン」への空爆は失敗だったようだ。空爆した地域の「ホラサン」グループは実際にはもぬけの殻でもあったようだ。
 おいっ。
 
 
香港・真正的普選
 
 

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2014.10.03

なるほど捕鯨を自由化すれば捕鯨は終わるかも

 日本の捕鯨問題は微妙な問題だと思う。個人的には、各国から捕鯨はやめろ言われているのだし、日本にとって捕鯨がさほど重要だとも思えないので、やめればそれで終わりではないかという印象はある。が、少し考えると、なかなか実態は複雑だなと思える。考えるに怯むという感じもする。なのでごく簡単に、3月31日国際司法裁判所(ICJ)下された判決あたりから振り返ってみる。
 今回問題となったのは、2005年から実施されている第2期南極海鯨類捕獲調査事業(第2期調査)の実施についてである。判決は、南極海に限定されるが、第2期調査の実施を差し止め、さらに今後は日本政府の調査計画も差し止めるというものだった。
 なぜこうなったかだが、前提は、科学的な調査は認められるが、商業捕鯨は認められない、ということ。そこで第2期調査の実態を見ると、日本側の科学的な調査ではないと判断された。だったら、実質商業捕鯨になっているではということだった。
 なぜ、科学的な調査ではないと判断されたか。科学的な調査なら対象となるミンククジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラの三種について、前提として統計的な有意レベルの捕獲数が必要だが、にもかかわらず、それが現状捕獲されていないからだ、ということだった。
 逆に言えば、ミンククジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラが予定どおり捕獲されているなら、その統計的な有意レベルになっただろうし、商業捕鯨とは見なされなかっただろう。
 実態はどうか。ザトウクジラはゼロ。ナガスクジラはわずか。ミンククジラは計画の4分の1だが、全体から見るとミンククジラだけ捕獲しているかに見える。これでは科学調査になりえない。
 これだけ見ると、これでは調査になっていないと思う。だが、裁判に上がらない背景がある。ザトウクジラは主にオーストラリアからの政治的圧力で実質2005年から捕獲をすでに断念していた。ナガスクジラの捕獲が少ない理由はよくわからない。ミンククジラも捕獲が少ないことから、同様に反対意見に配慮したためではないかと思われる。
 いずれにせよ、これでは調査になっていないということは言える。そもそも調査できないじゃないですかと言えないこともない。
 その現状を判断すると今回の結論になったということではないだろうか。その他にも、規定の解釈に異論もありそうだった(参照)が、法議論は私にはよくわからない。
 南極海以外に三種のクジラはいるし、この点については直接的には今回の判決には影響しないので、三陸沖から東経170度、北緯35度以北の海域の調査捕鯨は継続する。
 それでいいのかという問題が起きる。
 率直に言うと、その枠組みでは私にはわからない。
 ただ、今週のニューズウィークにも翻訳記事が掲載されているが、ディプロマット寄稿による視点、「日本:クジラを食わせてやれ(Japan: Let Them Eat Whale)」(参照)は興味深かった。捕鯨を自由化すれば捕鯨は終わるかもしれないというのだ。
 記事は、南極海での捕鯨調査が実際上難しいという現状についての言及がないので、あまり公平ではないなという印象もあるし、また、そもそもこの記事はネタかもしれないなという印象もある。だが、指摘自体は興味深い。


That Japan is now going all out to morph its bogus research program into something the international court would legally sanction is not surprising. For years, its whaling programs have enriched and empowered an interlacing web of business, political, and bureaucratic interests often at odds with many of Japan’s larger national objectives, such as environmental stewardship.

日本は現在、偽の研究計画を国際法廷が法律上是認可能なことに変更すべく全力を尽しているが、これは驚くべきことではない。何年にもわたり、その捕鯨プログラムはビジネス、政治で、官僚的な利益が交錯する関係で資金投入され強化されてきた。これらは、しばしば環境保全など日本のより大きな国家目標にそぐわないにもかかわらずだ。

The result is that whaling in today’s Japan is neither “research” nor “commercial.” Now an essentially state-run enterprise, it has all the trappings of the worst kind of market-distorting subsidies and wasteful government spending that rival the world’s most inefficient state-owned corporations.

その結果、今日の日本の捕鯨は「研究」でも「商業用である」でもない。今や、本質的には国営で企業であり、それは市場を曲じまげる最悪の補助金と、世界で最も非能率な国有企業に肩を並べる無駄な財政支出で全体が覆われている。


 ごく簡単にいうと、捕鯨というのは、一種の国家事業で、商用と言っているわりに、商業的な基盤が予期されているわけでもないということ。
 水産庁関係の存続が目的なのだとの指摘もある。

Set up in 1987, the non-profit Cetacean Research Institute runs Japan’s whaling program. It owns Japan’s whaling fleet, hires its mariners, and distributes and stores whale meat. It receives tens of millions of dollars annually in government subsidies for its services -- more than $50 million just for the most recent fiscal year. It is also where many retired officials from Japan’s fisheries agency and other bureaus go after retirement, forming an extended iron rice bowl system of lucrative sinecures that helps ensure Japanese whaling survives.

1987年に設立された非営利団体である鯨類研究所が日本の捕鯨プログラムを運営している。それは日本の捕鯨船団を所有し、要員を雇用し、鯨肉の配布・保管を行う。それは、このサービスのために政府補助金として、毎年数千万ドルを受け取っている--最新会計年度で言えば5000万ドル以上である。それはまた、日本の水産庁や他局からの多くの退職者に退職の世話を行っているし、儲かる閑職に食いはぐれのない職種システムを形成し、日本捕鯨を存続を手助けしている。


 そこはよくわからない。それほど強固な団体とも思えないからだ。
 しかし、捕鯨が商業的であると海外から見られているわりには、実際に市場で求められているかというと、日本人として、まったく生活実感がない。この点も同記事に言及されているが、そもそも現状でも余剰在庫があり、日本人が鯨肉を食べていない。ときどき食べるとまれに食べるを合わせても日本人の14%。食べないとするのは37%とある。実感に近い。
 ということから、同記事では逆に、捕鯨をきちんと自由化させ、日本国家から切り離したら、捕鯨は終わるだろうというのだ。
 まあ、そうかなとは思う。近未来的にはそうだろうと思う。世界史を眺めてもわかるようにそもそもクジラの乱獲を長年やってきたのは、日本だけではないし、当時の乱獲ニーズが現在世界にあるとも思えない。食材として、ミンククジラより他のクジラが美味しいといっても、それが理由で即座に乱獲が始まるとも思えない。
 市場原理に従えば、日本の捕鯨は終わるだろうと思う。
 なんとも皮肉な話だが、ディプロマット記事は日本での捕鯨団体の利権を批判しているが、実際のところ、世界の反捕鯨団体もまたそのシステムの中にある。捕鯨を批判するから、市場が適正化されないのである。
 もっとも、捕鯨というのはそもそも市場の問題ではなく、生態系の問題であるとも言える。だったら、国際機関で調査捕鯨をすればよいのではないか。
 
 
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2014.10.02

[書評]愛は、あきらめない(横田早紀江)

 どさっと届いたDMのカタログの一つの表紙がもうクリスマスっぽくなっていて、おやおや気の早いことだなと見ると、「いのちのことば社」の「クリスチャンライフ カタログマガジン」だった。「だったらそうだよなあ」と思いつつ、ぼんやり表紙を眺めていたら、「私の力の源は、祈り」とある。福音派的な信仰の人はいつもそうだよねと、普通に見過ごしてしまいそうになったが、その横に「横田早紀江さん」と書いてあって、驚いた。

cover
愛は、あきらめない
(横田早紀江)
 横田早紀江さんは、北朝鮮による拉致被害者・横田めぐみのお母さんである。彼女はクリスチャンだったのか? 知らなかった。まさかとまでは思わなかったが、そこに思いが至ることがなかった。各種媒体で彼女を見かけることがあっても、品のいい女性だなあという以上に、この人はクリスチャンだろうと思うことはなかった。
 カタログを捲ると巻頭に特集があり、この書籍が「横田早紀江さんを囲む祈りの会」での話を中心にまとめたものであることを知る。まあ、読んでみよう。
 読んだ。泣けた。
 横田めぐみさんが拉致されるということは、こういうことだったのだなというのに初めて向き合ったようにも思った。
 そして、北朝鮮という国家と、それを支持してきた人たちへの憎悪のような感情が胸にこみ上げそうになる。だが、そこで憎悪は終える。横田早紀江さんが願うのは憎しみではない。この本は信仰という一つの奇跡の書籍なのだし、涙もそうした思いに集約されてくる。いや、そう紹介すべきではないかもしれないし、そう読まれるべきではないかもしれない。ただ、私はそう読んだ。
 北朝鮮による日本人拉致問題を軽視する思いはない。だが、この本は、そうした文脈で読まなくてもよいと思う。この本には、人生でとてつもない理不尽な不幸に向き合ったとき、信仰が何を意味するかということが、普遍的に描き出されていると思った。それはもしかすると、信仰やキリスト教というものを越えたなにかかもしれないとも思う。
 彼女がクリスチャンになったのは、拉致問題が公にされる前のことだった。めぐみさんの生死もわからずに過ごした日々のことであったらしい。

 そのうち雪の降る季節がやってきて、雪が降るまでに見つかってほしいと思っていましたが、見つかりませんでした。なぜ娘がいなくなったかもわからず、本当に苦しみました。あの子に対して何か悪いことをしたのだろうか、親として至らなかったのであの子がいなくなったのだろうか、と自分を責めました。追い詰められて、死にたいとも思いました。

 あっさり書かれているが、こうした不可解な絶望に触れたときに、人が辿る思いがきちんと書かれている。そこには確固とした普遍性のようなものがある。

 そのような時に私は聖書に巡り会いました。お友達が「読んでごらん」ともってきてくれて、初めて聖書を手にしました。その人は「難しいけれど、大事なことが書いてあるから」と言いました。ヨハネ福音書に、1人の盲人の人について弟子たちがイエスに尋ねているところがありました。「これはこの人に罪があるからでか、それとも両親にあるのですか」。イエスは、「この人が盲人なのは、本人の罪でも、両親の罪でもなく、この人の上に神のみわざが現れるためです」と言いました。
 私には難しくてよくわかりませんでしたが、でも何だか救われた気がしました。神のなさったことなら、ものすごく大きな意味があるのかもしれない。そう思いながら聖書を読んでいきました。(後略)

 彼女はそこからキリスト教を、というか、その神を信じるようになる。その信じるありかたは、素直にこう書かれている。

 新約聖書のマルコの福音書5章を読むと、ヤイロの娘が亡くなって、父親がもうあきらめていた時、イエスは「恐れないで、ただ信じていなさい」と一言おっしゃいました。それは今の私と同じだと思いました。神様がいらっしゃることは確信していますが、神様が何をお考えになり、何をなさろうとしているのか私にはわからないので、信じるだけなのです。

 「信じる」というということの一つの普遍的な形が簡素に表現されている。神の御業は理解できないが、信じる、あるいは、それの理解できない状態であることが信じるというということである。微妙なので、こう言ってもいいかもしれない。御業が理解できたらそれは信じるというのは少し違うのかもしれない、と。
 私にはそういう信仰はない。まるでないと思う。人生にはなんらかの意味がなければ生きることは難しいだろうと思うし、人生は無意味だという人もどこかで意味を隠して生きているのだろうと思う。私が思うのはそこまでである。
 だが、振り返って横田早紀江さんの人生に示されたものは何だろうかと考えると、畏敬の念に打たれる。私の人生にはありえないことだ。では、それは奇跡だと言えるのか。
 私は奇跡と言っていいと思う。それを生み出したのが信仰だというなら、そう思う。

 
 
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2014.10.01

赤い羽根の原価はいくらなんだろうか?

 テレビの国会中継をちらと見たら、政治家が胸に赤い羽根をさしていた。そうか、10月1日かと思った。赤い羽根共同募金が始まったわけである。そしてぼんやり、あれの原価が500円だという話を思い出した。

 500円? そんなわけないでしょと自分でも思う。その話を聞いたときにもそう思ったので、逆にたぶん、その記憶自体は違っていないのかもしれない。困ったことに、なぜ原価が500円もするかという理由は、けっこう経費がかかってねという以外は忘れてしまった。あるいは、町内会で渡される募金用の専用封筒に「500円一口」とあったことでそういう話になったのかもしれない。実際、これ500円なんだし……みたいな。

 この手の話は、たぶん誰も疑問に持つことだろうと、調べてみると、ある。「赤い羽根の原価は、1本あたり1.6円です」という話はよく出てくる。他に人件費込みで2円くらいという話も出てくる。まあ、いろいろ出てくる。

 だが、どこにも根拠がない。まいったなとさらに調べていくと、かつて赤い羽根共同募金のサイトに「1.6円」という情報が掲載されていたことがわかった(参照・リンク切れ)。現在では同サイトを探してもみつからない。2007年ごろの話である。さらにネタとしてはさらに古いかもしれない。

 常識的に考えて、あれの原価が500円というのもなさそうだが、1.6円というのもありないように思う。ピンを付ける手間を省いても、もう少しかかっていそうに思えるし、そもそも加工賃を含めると、どのくらいになるだろう。

 ここで、またマヌケなことを思い出す。現在は、ピンではなくてシールになっている。調べてみると、昭和の時代からそうなっていたらしい。ピンの加工がなければ、普通に鳥の羽を赤く染めたくらいで済むから、かなり原価は低く抑えることができるはずだ、それでも1円とか2円とかでは、材料の購入も可能とも思えない。

 しかしと思う。今朝見た国会議員の胸についていたのは、ピンだったように見えた。あれ、特注品じゃないの?

 というわけで、この愚問について調べてたのだが、やはり皆目わからない。赤い羽根共同募金のサイトには、決算事業報告書や事業報告書があるのでそれを見るとわかるかなと読んでみるのだが、わからない。私に決算報告書を読む能力が足りないというのは認めるが、ここからわかるもの? たとえば、赤い羽根の原価とか?

 率直なところ、「原価厨」というわけでもなく、別にあんなもので暴利をむさぼっているとも思いもしない。大半は、町内会とかで実質強制的にする募金のほうが多いだろうと思うからだ。だが、事業規模として「毎年169億円以上に上ります」というのと、さきの決算事業報告書の関係がよくわからなかった。募金というのは、それ自体は事業の収益とは異なるからだろうとも思うが。

 つらつらと関連の資料を見ていくと、率直なところ、なんのためにこの募金活動をやっているのか、そのミッションが理解できなかった。スローガンは「自分の町をよくする仕組み」とある。それはわからないではない。基本的に寄付金は都道府県ごとに使われているからだ。

 だが、それでも実態はほぼ強制に近く、税に近いことを考えると、なんでこの規模の地方行政が、現実の地方行政と別立てに存在しているのか、わからない。これも皆目わからない。

 ウィキペディアの情報は不確かなのだが、このあたりは、私が聞いた話でもそうだったようなと思うので、引用する。


 この赤い羽根は、アメリカにおいて共同募金の象徴として使われていたものを日本でも戦後の混乱期に戦災者への募金の象徴として援用したのがはじまりである。アメリカの共同募金は自主的なものであるが、GHQの指示でそれを日本でも行う際、募金を自主的に行う団体が立ち上がるまでの暫定措置として自治体やその関係機関で募金を行っていたところ、占領が終わって自主団体が立ち上がらないまま現在に至っているものである。

 なんとなくGHQの名残が惰性で続いているだけなんじゃないだろうか。あるいは、自治会会費を集めるのと込みになっているんじゃないだろうか。

 このあたりは、社会福祉協議会とも関連するし、同じようなGHQの名残であるPTAなんかとも似ている。これらの組織は、基本的に初期段階のGHQの日本統治構想から出て来たものだろうが、GHQが冷戦対応で逆コースになっていくうちにそまま放置され、その後は官僚制の末端と接合されて、あとはただその団体の存続がために続いているのではないだろうか。

 赤い羽根共同募金をなくせ、とか奇矯なことを言うつもりはないけど、自分としては、戦後のこうしたタイプの制度とその変遷についてなにかまとまった本でも読みたいものだと思うが、見つかりませんねえ。
 
 
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