「若い女性がおだやかな環境でブログ書くためにはどうすればいいか」
ツイッターで「若い女性がおだやかな環境でブログ書くためにはどうすればいいか書いてほしい」と聞かれて、いいよと安請け合いをした。答えがすぐに浮かんだからではなかったが、その問いかけに、なんというのか、詩情のようなものを感じたからだった。絵が浮かんだという感じに近い。フェルメール作「おだやかな環境でブログ書く若い女性」みたいな。
考えてみると、問いには「環境」の意味合いから、二つの面がある。一つは、実際にブログを書く環境、もう一つは、ブログを書き続ける発表の場という意味での環境である。
どっちかなと思ったが、二つには関連があるので、分けて考えればいいというものでもない。
最初の側面は、単純な形にするとブログを書くことにかかわらず、「若い女性がおだやかな環境をどう得るか?」ということだろう。実際にはそこがとても難しい。あるいは、それが難しいと感じられる女性の、人生の局面を意味している。
![]() 本を読む女 (新潮文庫) |
私が「本を読む女性」というのは、林真理子『本を読む女』(参照)というような意味合いに近い。なのでその本読んでご覧なさい、いい本ですよ、とも言いたいが、とりあずそれはさておき、本さえあれば幸せな女性がいる。なぜ「女性」というと、そういう女性ってなんだろうと社会の側から女性として認識されがちだからだ。それ以上の意味はない。特定の女性の特質ということではない。
誰でも学校時代を思い返すと、「本を読む女性」がいたことも思い出すのではないだろうか。その女性の姿を思い出すと、本を読んでいるのである。フラゴナールの絵のように。そしてその女性の周りには、おだやかだけど誰も入り込めないような沈黙がある。男性でもそういう人はいるがどこか女性的な陰影を持つようには見えるかもしれない。
私が言いたいのは、そういうおだやかな沈黙をどこでも作り出せる人がいるということ。あるいは一時的にそれが無理でも、そういう人は自然に新しい静かな環境に移っていく。そういう人にとっては、改めて「若い女性がおだやかな環境をどう得るか?」という問いが存在しない。
それは一つの自然な生き方の反映だからだろう。むしろ、「どうしたらおだやかな環境をどう得るか?」という問いは、矛盾から生じている。おだやかな環境も欲しいけど、それだけではいられない自分がいるという矛盾である。
矛盾を責めても矛盾が深まるばかりだから、少しづつ自分を静かな環境に移していくといい。誰にも声を掛けられない、なんの情報も耳に入らない、そんな静かな20分から30分、一時間、二時間というふうに持つようにする。
個人的に思うのは、すぐさま個室に一人籠もるより、その前に静かに町や自然を一人歩くといいと思う。うまく言えないのだが、そうしていると、脳のなかに孤独のパワーというか、おだやかな環境を作り出す力みたいのが自然に充電されるように思うからだ。あるいは、雑踏やあえて騒がしいカフェのなかでぼーっとしてみるのもいいかもしれない。まるでホワイトノイズのように頭のなかの混乱が散らばって消える。
以上はしかし、ちょっと迂遠な話だった。
現実、その女性、というふうに特定の女性を考えるなら、20分ですら静かな環境がもてない状態にあるのだろう。育児のある時期には10分の読書すらままならないことがある。しかしそうした時期は一種の非常時であり、非常時として対応して、一般的な解決策はないだろうと思う。
もう一つの面は、「若い女性がおだやかな気持ちでブログを書き続けられるか」というふうに考えると、それはブログを書いて発表する場に大きく影響を受けると思う。
一般的に、有名人でもなければ、ブログを書き始めたころは誰も読んでくれない。誰も読んでくれないと空しい気持ちがして続かない。それは、しかし、それで自然な状態である。それはそれでおだやかさの基礎でもある。
おだやかさを揺るがす問題は、二点から生じる。一つは、読ませたいような話をブログに書き始めることと、突発的に読まれてしまう想定外の事態である。
ブログを書いてある一定数に読まれるにはどうしたらいいかというと、学校の定期テストでいい点を取るのとさして変わりない。学校の定期テストでいい点を取るには先生の思惑やウケを想定して、勉強すればいいだけだ。つまり、そういうことができるずる賢い奴が学校ではいい成績を取るし、そのずる賢い能力がブログで一定数の人気を得るのにも役立つ。
あるいは、バカを演じて人気を得ていたクラスの人気者みたいなのもいる。でも、こいつらもずる賢い点では同じ。他者のウケみたいのをさささっと自分に織り込めるずる賢いやつがブログで人気を得る。
でも、そうなったら自分を見失う。そして、自分を見失ったら、おだやかな環境なんてない。
ウケを狙わなくても続けられるようなブログはなんだろうと考えておくといい。自分はこういう人だから、このブログを書くのだ、ということが、自分のなかできちんと了解できていることが大切になる。
もう一点は、突発的に読まれることがあってこれが、ブログのおだやかさを破壊する。
人気があって共感があっていいじゃないかと思うかもしれないけど、かならず変な人が湧いてくる。とんでもない誤解から罵倒の言葉を投げかけたりもされる。特に、書き手が女性だとわかるとひどい事態になりかねない。
どうしたらよいかというと、突発的に読まれることがあることを想定しておくことと、そうなったとき、不可解なリアクションから自分を守るような場をあらかじめ選んでおくとよい。具体的にどこ?と言うなら、はてなブログはおやめなさい。noteを選びなさい。あるいはその二つの場を軸に場を選ぶといい。
もっと具体的に、「若い女性がおだやかな気持ちでブログを書き続けられるか」についてブログの実技論での話をするなら、ブログを始める前に、伝わる人の範囲の感覚というものをSNSのようなもので掴めるよう訓練しておくといい。
TwitterやLineで、ブログの読者の核となりそうな人たちの感覚を掴んで、「ああ、この人たちに読んで欲しいな」という視点からブログを書く。そしてブログが書き上がったら、その人たちにさりげなく伝わるように通知をするといいと思う。あくまでさりげなく(余計な人の気を引かないように)。
以上が、僕からの回答。
回答になってなってなかったらごめんね。
あと一つ付け足す。
ブログを書き続けると、自分の内面からとてもおだやかじゃいられないような嵐のようなものが吹き出てくる。そもそも書いて発表することができるというのは、一種の業(ごう)のようなものだからだ。表現という行為そのものの本質が現れてくる。
それは怖いものだし、自分というのはこういう存在なんだという、自分の正体を知るような不思議な感覚でもある。その感覚は、どうやら、生きるという感覚の何かにつながっているので、それが感じられるようになったら、そこからブログの意味が自分に本格的に問われるようになる。
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コメント
編み物をするようにすればいいんですよ。
これを機会に、もっと質問を受け付ければいいのに。
投稿: | 2014.09.26 06:03