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2014.09.18

広島市の土砂災害で心にずっとひっかかっていたこと

 広島県広島市で先月20日に発生した土砂災害のごとか、ぼんやりとだが、ずっと心に引っかかっている。
 なにが、どう、自分の心に引っかかっているのか、うまく言葉にならないので、さらに心にひっかかる。結論も主張もないが、そのひっかかりの感覚からブログで少し言葉にしてみたい。
 心のひっかかりの一つの焦点は死者が多いことだ。正確には思い出せないが、海外報道で、日本の自然災害でこれだけの多数の死者を出したのは東北大震災以降初めてのことだ、という指摘を見かけた。海外報道で見ることで、これは大災害だなと私は思った。BBCなどもよく報道していた。
 災害後しばらくは死者数が確定しなかった。現時点では、死者73名、行方不明者1名、重軽傷合わせた負傷者44名(参照)とのこと。行方不明者の探索はほぼ終わり、死者数も確定したかに見える。
 なぜ先進国の日本で土砂災害で多数の人が亡くなってしまうのだろうか。そうナイーブに疑問を発してみて、問いの立て方が間違っているようにも思うが判然としない。
 国際的な土砂崩れの災害リスト(参照)を見て、今年の3月米国ワシントン州で大規模な土砂災害が起きていたことを思い出す(参照)。
 この災害に関連して、ナショナルジオグラフィックは「米国疾病予防管理センター(CDC)によると、アメリカでは、土砂崩れや地滑りによって年間平均で25~50人の死者が出ている」と書いていた。
 この種類の自然災害は、先進国だからどうという問題でもなさそうだ。
 また、こうした災害は結果の被害から見るよりも、個別の自然と人がどう暮らすかという問題でもある。
 それでもワシントン州の地滑りと広島の地滑りを見ると、ずいぶん土砂の量が違うようにも見える。
 印象にすぎないのだが、広島市の災害は、人家が多い地域で発生したために被害が大きくなったようにも見える。

 そして疑問が続く。なぜこの地域にこれだけの家屋が存在しているのだろうか。
 今回の被害は、八木、緑井、可部、山本の順で激しかったようだが、私は八木について災害発生当初、Googleマップのストリートビューでこの災害前の昨年の風景を、なんとなく見て回っていた。そこには田舎なら日本中どこでも見られる普通の風景があった。「ああ、こんな普通に見える風景のなかで大災害が発生したのか」という奇妙な感じに打たれた。
 ストリートビューで見た光景を脳裏に置いたまま災害写真などを見てると、該当地の県営団地は流されていなかったように見えた。団地のような集合住宅ならこの災害の被害は最小限に食い止められただろうかと疑問に思った。県営住宅における実際の被害はよくわからない。災害報道を見ていると、一部取り壊していた。

 八木の県営住宅のつくりや、その周りの家屋を見ていると、新しい建造もあるようだが、総じて昭和の建物のように思えた。昭和50年代か40年代かはわからない。40年代ではないだろうか。
 昭和40年代なら、と思う。日本の産業成長期にこの地域を造成して家屋を建ててしまったものの、その後の防災基準と対応が取れずに放置されていたら、大災害になってしまった、ということではないか。
 11日毎日新聞「広島土砂災害:「警戒区域」基準見直しを 県が国に要求」(参照)に関連の気になる話があった。


 広島市の土砂災害で、広島県が土砂災害防止法に基づく「特別警戒区域」に指定しようとしていた範囲を超えて多くの建物に被害が出ていた問題で、県が国に対し、同区域を指定するために使う計算式を見直すよう要求していることが分かった。全国的にも同様の災害で指定区域外の建物被害が相次いでいることが判明。専門家からも「国の基準は実態に合っていない」との指摘が出ている。

 専門家から見ると、土砂災害防止の基準が合っていないということだし、これは潜在的な危険でもある。今回の広島の災害も、とりあえず、それが健在化したと言えるのだろう。
 微妙に「とりあえず」といったふうに口ごもるのは、後の引用にも関連するが、この問題を誰かをバッシングするいつもの構図に落とし込むのを避けたいという思いがあるからだ。災害の人災面を強調してそれに一斉にバッシングの声を上げるという、昨今のネットの風潮は問題の解決を結果的に阻むようにも思える。
 記事で気になるのはここだ。

 国土交通省は今後の対応について明らかにしていないが、仮に計算式などが見直されれば、新たに特別警戒区域に指定された地域で不動産の価値が下がるなど住民にとって不利益が出る恐れがある。それでも県の担当者は「技術的に裏付けのある基準で区域を決め、住民に危険な場所を知ってもらうことが先だ」と語る。

 明確に書かれているわけではないが、ハザードの計算式の改訂を実質阻んでいるのは、地域住民の不動産価値の意識ではないだろうか。
 もう一つ先の県営団地と関連するのだが、県営団地のような公的住宅は、かなり余裕のあるハザード計算で建てられているのではないか。
 こんな疑問は、たぶん識者なら即答できるのだろうと思う。ネットのどこかにその即答があるのかもしれない。ただ、私にはわからなかった。
 話をここで一般化する。
 居住環境に自然災害のハザードがあるなら、なぜ日本人は堅牢な集合住宅を形成しないのだろうか? 
 なぜ日本人は、火災があれば一気に燃え広がるような住宅を密集させているのだろうか?
 堅固な集合住宅からコンパクトシティを設計していこう、という発想なぜ出てこないのだろうか。いや、そんなの当然出ているけど、現状こうなっている、ということなのか。
 これも微妙に不動産市場の動向がこのマッチ箱みたいな家屋の密集と関連しているようには思える。
 さらに話題を一般化する。
 この問題に対応するのが政治というものなのではないだろうか。つまり、政治を必要とする生活上の問題があり、それが自然災害として顕在化しているのだから、政治がきちんと問われるべきなのではないか。
 ところが、現在日本で政治として問われているのは、安倍内閣が右傾化しているとかいうイデオロギー問題ばかりに思える。なぜかそこに焦点化されている。
 と、書きながら、少し一般化しすぎたなと思う。
 心のひっかかりをさらに覗いて再び、70余人の死者を思う。すると、自分でも不思議なのだが、誰がこの死者を追悼するのだろうかという疑問が沸いてきた。
 私は、国家による死者の追悼といったものにはあまり関心を持たない人なのに、なぜここでこの災害者の追悼の思いがわき上がるのだろうか。
 とりあえず、ということで、言葉にしてみると、それがあるべきコミュニティの機能だからではないか。
 国家というイデオロギーを巻き込む政治の文脈で追悼が置かれることと、地域という生活空間の大量死への追悼は意味合いが違うように思う。
 今回の自然災害で、そのコミュニティを追悼できる立場に私はないとも思うし、私の立場があるとすれば日本の市民ということだけだ。いったん国家を迂回する。
 それでも、どこかで上手に国家を迂回させずに、コミュニティ間で追悼のような共感を繋げて、新しい市民生活の空間を形成する原理の構築は可能なのではないか。そう考えている。そうした追悼の共感は、新しいコミュニティの倫理的な基盤にもなるように思える。
 
 

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コメント

大工さんが言ってた、ある時期は、釘さえ打てれば仕事が貰えるのがあってと。あと、木の家は、ちゃんとつくれば、丈夫。法隆寺を見よって。で、弱点は釘。で、最近はステンレスの釘を使うけど、これは、まったく錆びないから、釘を木が乾燥して閉めて吐き出してしまうとか。ま、いくら丈夫でも、家が少し傾くだけでも、ストレスだから、家の弱い構造だけのせいにはできないかなぁ。結局、造成にしても建築にしても、工期が短いのが原因じゃないかな。で、今でも、農家は、昔から安全といわれてる土地に工期を長くかけて建築しているけど、すごく短いのは心配だよね。なので、リスクを減らすのは、賃貸で引越しをすることかも。だって、農家式でたてると、土地も建物も、すごく高いから。

投稿: | 2014.09.18 17:19

土砂の割には被害が大きいという点は、日本は山から海までが短いからかなと。

政治は経済あってのもの。

誰もが追悼することだと思います。テレビに映るとかの形に関係なく。

投稿: Yoshihiko Morita | 2014.09.18 20:13

素人目に見ても土砂災害が起こりそうな所。建築許可がおりていることが不思議。土砂ダムを造るより、広島県内は過疎化であり、広島市に人口が集中することが異常で、解消するには、郊外の過疎化した安全な地域に住宅を建設し、危険な地域には建設せず、過疎化した地域を解消することにより全県的な発展が期待できるのでは。この為には過疎化した地域に交通網確保が必要であり、其の為に貴重な税金が使われるのであれば皆様が納得するのでは。

投稿: 3.11宮古 | 2014.09.19 22:22

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