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2014.09.30

IKEAのミートボールを真似てみた

 IKEAのミートボールを真似てみた。スウェーデン風ミートボールである。
 料理自体は別にどうってことのない料理なんだけど、リンゴンベリージャムが普通の店は売ってないので、つい他のジャムとかにしたり、ソースはグレービーでいいや、とかやっちゃいがち。でも先日、IKEAに行ったおり、ソースの元とリンゴンジャムを買っておいたので、いつか作ろうと思っていた。
 今日でいいんじゃね、というわけで作ってみた。

 作り方は、IKEAのサイトに書いてある(参照)。レシピカードもダウンロードできる(参照)。

 ミートボールは普通にハンバーグを作る要領でいいので、ハンバーグ作れる人なら特に問題はない。というか、なんか違いがあるのか? ハンバーグより簡単。ちなみに、できあいのもIKEAに売ってはいた。
 ソースはIKEAに粉末のが売っていたのでそれ使った。これ、グレービーでもいいのだけど、ほいとグレービーだけが出来るわけでもないし。
 マッシュトポテトは圧力釜使うと8分くらいで簡単に出来ちゃう。

 というわけで、作ってみたら意外に簡単だった。
 喰ってみた。ありゃ、自分で言うのもなんですが、おいしいです。
 IKEAで食べたのよりおいしいんじゃないか。そりゃ、しかし、ソースとリンゴンベリージャムがIKEAのまんまだものね。

 でも、気のせいか、ソースもリンゴンベリもおいしかったような気がするというか、ソースがやっぱこれがええわ。こんなのただのグレービーじゃんと思ったけど、かなりポイントだった。こんどこれで、プーティンを作るかなあ。カナダ料理のあれ。料理っていうのか知らないけど。
 そして、リンゴンジャムがすげーミートボールとこのソースに合う。ちょっと他のジャムで代替しちゃだめだね。というか、だったら別の料理にするほうがいい。

 というわけで、そんだけ。

 飲み物はIKEAで売っていたエルダーフラワーのジュースがおいしいです。というか、シロップを薄めるのだけど、けっこう酸味があって、十分薄めるとちょっと白ワインふうになる。酒を飲まなくなったので白ワインの代わりに使えてこれも便利。

 私は、料理が満足にできるとその後は作らない人なんだけど、これはまた作ってもいいかなとも思った。簡単だし。

 IKEAの飯というと、あとはザリガニかなあ。冷凍みたいのが売っていたし、IKEAでは食べて意外においしくて驚いたのだけど、ちょっと冷凍の買ってまで食べるのはどうかなあ。
 
 
香港・真正的普選
 
 

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2014.09.29

御嶽山の噴火のニュースで困惑したこと

 御嶽山の噴火のニュースを聞いたとき、噴火というだけで驚いたが、その後しばらくよくわからない状態でいた。変な言い方だが、何がわからないのかわからないという感じだった。
 御嶽山は以前にも噴火した。1979年(昭和54年)に水蒸気爆発したときは前橋にも灰が降った。休火山と見られていた御嶽山が噴火したということも合わせて大きなニュースだったが、人的な被害が出たという記憶はない。だが、今回は被害が出たらしい。(追記:記憶違いで当時は「死火山」と見られ、これを機会に「死火山」「休火山」がなくなった。)
 当初けが人は少なくとも8人、4人が灰に埋まっているといった報道(参照PDF)だったので、それほど人的な被害はないだろうとも思っていた。ただ、山頂に150人以上取り残されているとの報道(参照)もあり、被害者は膨らむ可能性はあるなと思った。いずれ、水蒸気爆発の影響で溶岩流ということではないさそうだ。
 被害者が増えれば大事件だろうとも思ったが、今まさにその救出活動なのだろうと思い、報道を見守ることにした。NHK系の報道が厚かったが、災害者を気遣ってというのもあるだろうが、関係者の情報が入手できたので報道にしているような印象もあった。
 その後、心肺停止者が31名という報道も流れ、大きな災害であることは察せられた。反面、千人単位の人が亡くなるような巨大な天災とまではならなかったかとも思った。
 今回被害者が多かったのは、なぜだろうかとも考えた。そこがよくわからない部分だった。仮にこう言えるだろうかとも思った。つまり、被害者は登山客であり、わざわざ危険な地域に入っていたから被害にあったのだ、と。しかし、彼らとしても、安全だと想定して入ったのだから、そうも言えない。
 ここで、自然に思考はこう向かう。事前に危険性は予知できなかったのか。また、事前に危険地域は指定できなかったのか?
 前者については、振り返ってみると、無理だったと考えるのが妥当だろう。いろいろ調べてみると予兆と見られる地震はあった。10日からである。気象庁「火山の状況に関する解説情報の発表状況 御嶽山」(参照)にまとめられている。16日はこうだった。


 9月10日からの火山性地震及び火山性微動の回数(速報値を含む)は以
下のとおりです。
             火山性地震 火山性微動
 9月10日        52回     0回
 9月11日        85回     0回
 9月12日        10回     0回
 9月13日         7回     0回
 9月14日         8回     0回
 9月15日        27回     0回
 9月16日(15時まで) 12回     0回

 その後はこの情報は途絶え、27日に次のようになる。

1.火山活動の状況
 御嶽山では、本日(26日)11時53分頃に噴火が発生しました。
 山頂火口の状況は視界不良のため噴煙の高度は不明ですが、中部地方整備局が設置している滝越カメラでは南側斜面を噴煙が流れ下り、3キロメートルを超えるのを観測しています。11時41分頃から連続した火山性微動が発生し、現在も噴火が継続していると推測されます。
 15時までの火山性地震及び火山性微動の回数(速報値)は以下のとおりです。
           火山性地震
  9月26日11時   79回
  9月26日12時  159回
  9月26日13時   31回
  9月26日14時   23回
 
 噴火発生後も火山性地震の多い状態が続いています。

 この経緯を見ると現時点の体制では今回の噴火は予測できなかっただろう。
 なお、この16日だが噴火警戒はレベル1だった

<噴火予報(噴火警戒レベル1、平常)が継続>

 今回の噴火後はレベル3となっている。

<火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)が継続>

 レベルの解説も公開されている(参照)。これでもわかるように、レベル3は「有史以降の事例なし」である。
 単純に考えると、今後は、10日のような兆候があった時点で、レベル2に引き上げれば、人的な被害は避けられそうだ。


 だが、ここで思うのである。今後の噴火はそのように起こるのだろうか? つまり、今回は予兆があったが、この次の噴火は今回と同じ予兆があると言えるのか?
 たぶん、答えは、ノーだろう。
 予兆なく、レベル3状態は発生すると考えたほうが妥当だろう。
 すると、どうなるのか?
 つまりこれが冒頭記した「変な言い方だが、何がわからないのかわからないという感じだった」という核にある。
 被害を絶対に出すなというなら、いかなる時でも入山禁止とすればよいということは言える。だが、それも可能だろうか。そう疑問に持つのは、その地域の産業全体とのバランスでそういう決定がどういう手順で下せるのか、よくわからないということである。
 ここで私はふと、そういえば、日本の新聞の社説はどんな意見を出しているのかと気になる。覗いて見る。
 朝日新聞の社説を読んだ。率直にいって雲を掴むように思えた。29日「御嶽山噴火―火山リスクの直視を」より。


 今回、噴火するまで御嶽山の警戒レベルは、5段階で最低の「レベル1」(平常)だった。
 気象庁は噴火を予知することは困難だったとしている。火山性の地震が今月になって増えたが、ほかに異常がなく地震も落ち着いていた。地震の続発は、地元自治体に伝えてもいた。
 もし地震が増えた段階で、火口周辺への立ち入りを規制する「レベル2」に警戒レベルを引き上げていたら、あるいは立ち入り自粛を呼びかけていたら、被害を減らすことができただろうか。検証が必要だろう。
 自己責任にゆだねられる部分が多い登山で、こうした警戒情報をどのように伝え、万が一の事態にどう備えるのか。それぞれの火山で、地元自治体は気象庁や登山愛好者らと相談してみてはどうだろう。
 火山噴火予知連絡会の拡大幹事会はきのう見解をまとめた。今回の噴火は、地下水がマグマで熱せられて起きた水蒸気爆発で、火砕流を伴った。今後も同程度の噴火や火砕流の発生に警戒が必要と呼びかけている。
 国内の噴火で犠牲者が出たのは、1991年の長崎県の雲仙・普賢岳以来だ。110もの活火山がある日本だが、全体としては静穏な歳月が続いてきた。
 火山噴火は比較的低いリスクと見なされ、他の災害に比べ対策が遅れている。火山予知連が監視強化を求め、気象庁が常時監視する47火山でさえ、必ずしも観測体制は充実していない。


 世界有数の火山国である以上、政府は火山のリスクを軽視していてはならない。
 火山の観測や研究を強化するとともに、噴火被害の軽減策を着実に図るべきである。

 揶揄したいわけではないが、ナンセンスなことを言っていると思う。レベル2に上げていたらというのは今回の事例であって、今後はわからない。検討対象でもないだろう。「地元自治体は気象庁や登山愛好者らと相談してみてはどうだろう」というのはなんかのギャグということでもないだろう。
 結語に至っては、およそ、ではどうしたらいいのかというのがわからず、提言にすらなっていないように思える。
 というわけで、他紙も見たが、率直に言って、引用する意味も感じられなかった。それでも部分的に見ると。
 読売新聞社説。

 最近は、中高年の登山ブームもあり、登山客でにぎわう火山は多い。周辺には温泉など有名観光地もある。万一の事態があることも忘れてはならない。

 毎日新聞社説。

 00年3月の有珠山(北海道)噴火では、地震活動が活発化したことを受け、噴火2日前に自治体が住民に避難指示を発令したが、11年1月の霧島山系・新燃岳の噴火では、事前予知ができなかった。こうした経緯を教訓に、噴火警報の在り方や活火山の監視・観測体制の見直しについて、今後、検討を重ねてほしい。

 産経新聞も結語は似ているが途中、率直に不可能だと認めている。

 観測技術の向上により、自然災害の予測がある程度可能になった分野もある。しかし、全ての災害を予測し、リスクを回避することは不可能だ。

 結局、どういうことかというと、今回程度の被害を考えるなら、「常時、御嶽山は入山禁止にすべきだ」ということになる。ただ、これが新聞各紙社説で主張されてないのは、ちょっとそれは言えないよねということだろう。
 あるいは、「入山するなら災害の覚悟はしてくださいね。災害時には救助は行いますが」ということだろうが、それもちょっと言えないよねということだろう。災害後の責任の問題は厳しくなるだろうし。
 困ったなと思う。
 そして、困ったなと思うのは、たぶん、この問題、なんとなく忘れ去られて、20年後くらいにまた災害を起こすのではないだろうか、ということだ。
 
 

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2014.09.27

北朝鮮はそろそろ崩壊するか

 北朝鮮の崩壊という話はもう20年くらい定番で外し続けているので、もはやネタにしかならない。崩壊しない強固な理由があるからだと考えた方がいい。外的には関係諸国のどこも崩壊を望んでいないこと(大量破壊兵器があっても米国は攻めない)と、内的には人民が疲弊していて反抗もしそうにないことだ。
 加えると、アノミー(無秩序)になるのを防ぐほどには警察力や軍事力が保持されていることもある。
 内情は見えない。かくして北朝鮮国内の人権侵害が深刻化するが、北朝鮮についての人権活動家の活動は、ないわけではないが、にぶい。ついでに余談だが、現在米国では北朝鮮で強制労働刑を宣告されたマシュー・ミラーさんのことが話題になっているが日本での報道はないわけではないが少ない。
 とはいえ、昨今の外部の動向を見ていると、北朝鮮が崩壊する可能性はあるかもしれないとも思う。なぜそう思うかという理由を最初に述べておくと、安倍政権が進めている拉致被害者調査がどうにもきな臭く、その先に不安があるからだ。
 日本側からオファーに北朝鮮が応じるメリットが、そもそもきな臭いと言ったほうがいい。日本は、それ相応のシナリオとカネを北朝鮮側にちらつかせたと思うのだが、ようするにそれで釣られる勢力が北朝鮮内の権力機構にあるということだ。なぜそんな勢力があるかというと、北朝鮮あるいは一派が、経済的に追い詰められているからだろう。また、追い詰めができるのは中国ということになるので、その面から言えば、北朝鮮が日本に色目を使うのは対中バランスでもあるのだろう。どちらかというとそのバランス面が濃くなってきたのか、安倍政権のシナリオは狂い始めているようにも見受けられる。
 もう一つ理由がある。張成沢の粛清である。率直に言って私は想定外だった。金正恩というのはただのハリボテで、背後は中国チャネルを持つ張成沢か、あるいは彼が他の利権グループ(呉克烈)、あるいは軍など、と調停した象徴だろうと思っていた。利権の奪いの結果だろう、と。それが粛清までさらりとやってしまうのだ。権力構造がとても不安定である。
 いずれにせよ張の粛清を誰が行ったかというのは諸説があるが謎だったが、張後の権力構造から概要は結果的には示されることになるはずだ。
 その相貌が少し見えてきた。今日のNHK「北朝鮮 ファン氏が国防委副委員長に」(参照)より。


 北朝鮮は25日、ピョンヤンで国会に当たる最高人民会議を開き、キム・ジョンウン第1書記は出席しませんでしたが、キム第1書記が提出した議案に基づいて、国の最高指導機関と位置づけられている国防委員会の人事が承認されました。
 それによりますと、国防委員会のチェ・リョンヘ副委員長がその職から解かれ、新たな副委員長に軍のファン・ビョンソ総政治局長が就くことが決まりました。
 ファン氏は、ことし4月に軍の要職である総政治局長に就任するなど軍で急速に頭角を現し、今回、国防委員会の副委員長となることで、キム第1書記の最側近として存在感をさらに強めそうです。

 ナンバー2だった崔竜海(チェ・リョンヘ)は国家体育指導委員会委員長に就任したので粛清というわけではないらしい(参照)。浮上したのが黄炳瑞(ファン・ビョンソ)だった。
 どのような意味か? 黄炳瑞による他派追求の一環だろうとは思われる(参照)。だが、経緯はよくわからない。
 張粛清の指揮は、金元弘(キム・ウォンホン)と崔竜海であるという話もあり(参照)それにつなげると、黄炳瑞が金元弘を抑えたのかもしれない。
 さらにきな臭い話につなげると金元弘が日朝協議を実質的に取り仕切っていたらしい(参照)ので、そのあたりの事態が現在の対日外交の歪みと関係あるのかもしれない。内情の人脈の動きはわからず、憶測を越えることは難しい。
 いずれにせよ、基本的な枠組みは利権の争いだろう。そうなる理由は、北朝鮮の利権が外貨獲得経路に関係しているためだ。軍もまたその外貨なくしては存続できない。
 そうしたなか、産経新聞のネタ記事だろうと思っていた「「金正恩の権力強くない、台本を書いているのは組織指導部」「体制崩壊は5~7年後」 脱北者ら分析」(参照)という記事のウラが意外に興味深いものだった。まず同記事だが。

北朝鮮に関する学術会議がオランダ南西部ライデンで開かれ、体制内で高官を務めた脱北者7人が金正恩(キムジョンウン)体制の現状などについての分析を語った。元高官らは、権力の中心は朝鮮労働党組織指導部だとした上で、金正恩第1書記は金正日(キムジョンイル)総書記ほどに権力を掌握できていないと指摘。内部闘争の恐れや統治システムの衰退を踏まえ、体制崩壊も遠くないとの見解を示した。

 ここでは、「権力の中心は朝鮮労働党組織指導部」としている。

 張真晟氏は「張成沢氏排除で団結した人々も、もはや同じ船に乗っている必要がなくなった」と語り、新たな内部闘争が起こる可能性を指摘。さらに争いの目的もかつては最高権力者に近づくため、金総書記への忠誠心を示すためだったのが、今は「ビジネスや貿易への影響力」の確保に変わっていると分析した。
 食糧の配給制度が破綻して密輸などヤミ取引が拡大し、これに伴い外部からの情報を得ようとの動きも強まっているという。張真晟氏は体制を支えてきた「物質的管理」「思考管理」という2つの柱が崩壊しつつあるとした上、「体制崩壊はそんなに遠くない。5年後か、遅くとも7年後だ」と強調した。

 ネタ記事として読み飛ばしていたが、大筋でそういうことなのではないかと思いネタ元を探したところ、ライデンの会議の情報が簡単に見つかった。「North Korean exiles expose the regime’s rationale at Leiden conference」(参照)である。
 会議の要点は「'The North Korean regime will collapse within five to seven years’」(参照)にまとまっている。さらに経済面での要点はWSJ「Q&A: High Level Defector On North Korean Trade」(参照)にまとまっていた。
 これらを読むと、現在でも基本的に中国が北朝鮮の経済の鍵を握っている状態に変更はなさそうだ。その意味では国家の骨組みには問題はない。だが、外貨稼ぎのために、まとまりのない諸活動とその統制の繰り返しは今後も頻繁に続くだろうことは予想される。
 当面の目安としては経済改革措置の実施が気になる。22日時事「個人の自由経営、全面実施か=北朝鮮、来年から農場、工場など」(参照)より。

【ソウル時事】韓国のYTNテレビは22日、消息筋の話として、北朝鮮が来年から、全ての農場、工場、企業などを対象に、生産の一定割合を個人が自由裁量で処分できる経済改革措置を全面実施すると伝えた。既に各工場などを通じ住民に公示されたという。
 配給制度が崩壊し、市場経済化が進んでいる現実を踏まえ、労働意欲の向上を図る措置。北朝鮮は2012年からこうした措置を一部で試行してきたが、全面実施が事実とすれば、一定の成果があり、体制の動揺も招かないと判断したとみられる。(2014/09/22-10:15)

 記事では「体制の動揺も招かない」というふうにまとめられているが、富が北朝鮮に流入すればその利権の対立はさらに深刻化するのではないか。
 北朝鮮の混乱が具体的な崩壊に結びつくには、利権による全体的な富の流入を前提とするだろう。北朝鮮を美味しいビジネス先とする諸勢力が十分うごめいたころに、統制を失ってがらがらと崩壊するのではないか。
 米国側ではそうした北朝鮮崩壊のシナリオもそれに合わせてそろそろと策定されているようではある。フォーリン・アフェアーズより「北朝鮮の崩壊を恐れるな ―― リスクを上回る半島統一の恩恵に目を向けよ」(参照)。以下、「統一」と修辞されているのは北朝鮮の崩壊である。

 だからといって、半島の統一を回避すべきだと考えるのは間違っている。一般に考えられているのとは逆に、統一コストが韓国を押しつぶすわけでも、アメリカ、中国、日本に受け入れ難いリスクを作り出すわけでもない。むしろ、統一は朝鮮半島と近隣地域に非常に大きな経済・社会的な恩恵をもたらす。北朝鮮国家の長いストーリーをハッピーエンドで終わらせるには、民主的な統一国家を半島に誕生させるしかない。半島の統一に向けて、関係諸国はあらゆる手を尽くすべきだろう。

 こうした動向に日本や韓国が戦略を持っているのかというと、どうも、両国とも似たような国家のせいか、なさそうには見える。
 
 

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2014.09.26

オバマ大統領が後世に残す名言「武力でわからせてやる!」

 ぼけっと国際ニュースを見ていたら、オバマ大統領が出て来て、またなんかごにょごにょ言っているなあと聞き流していたのだが、ふと、え?と思った。ちょっと待って。今、なんて言ったの? ほかのこと考えていた。
 ニュースは録画したのを見ることにしているので、おもむろに今のところに戻ってみた。あんだ? 赤毛のアン? ちがう。おいおい、なんか、すげーこと言っているぞ。
 話は、24日、ニューヨーク開催の国連総会で演説である。イスラム教過激派組織「イスラム国」打倒の演説である。ブッシュ大統領のときのように各国に支援を求めていたのだが、その中で、こう言っていた(参照)。

The only language understood by killers like this is the language of force.

こんな人殺しがわかる言葉は、唯一、軍事力という言葉である。

 「ランゲージ(language)」なんて面白い修辞を挟んでいるけど、言っていることは、こう。

人殺しには武力で叩きのめす以外わからんだろう。

 まいったなあと思った。
 これがノーベル平和賞受賞者の言葉なのである。戦後70年の平和主義が、どっかーんとふっとんだような感じだ。
 どんな残虐な人間でも人殺しをしているのには、それなりの理由がある。平和を求めるなら、まずそこを考える。そして、言葉で可能なかぎり対話を試みる。それが平和の基本なんだが、なんなの、これ?
 確かに世界は残酷に満ちている。オバマ大統領の奥さんのミッシェルさんも、私たち少女を返して(#BringBackOurGirls)と訴えていたが、そこにも殺戮はある。シリアのアサド政権に至っては、現状のイスラム国の数倍もの殺戮を行ってきた。だが、そこには関与してこなかった。
 本来なら、オバマ大統領がイスラム国に対応しなければならないのは、「こんな人殺し」だからという理由ではない。軍事力を行使するのも、それ以外に通じない相手だということではない。
 なのに、こんな最低の修辞を繰り出すようになってしまったのはどういうことなのだろうか。
 イスラム国をどう見るかは、いろいろな考えがあるだろうが、そこには、世界の少なからぬイスラム教徒によるカリフへの待望と、西側社会に絶望した若者の姿がある。それらが石油の利権や、イラクのスンニ派の不満などの構造と奇妙に結合してイスラム国が出来ている。
 そこには、「こんな人殺し」でくくれない構造がある。
 平和というのは、その平和を崩す構造への対応である。その対応のなかで「武力」というオプションも限定的にある、というなら理解できる。今回の件でも、実際にはそういう対応になっている。なのに、そのリーダーたるものが、こんなめちゃくちゃな修辞を投げかけてしまった。
 ヘンテコな修辞だけ切り出して批判していると思われてもなんなので、関連の文脈も引用しておく。


This group has terrorized all who they come across in Iraq and Syria. Mothers, sisters and daughters have been subjected to rape as a weapon of war. Innocent children have been gunned down. Bodies have been dumped in mass graves. Religious minorities have been starved to death. In the most horrific crimes imaginable, innocent human beings have been beheaded, with videos of the atrocity distributed to shock the conscience of the world.

このグループは、彼らがイラクとシリアで出会うすべての人にテロをしかけてきた。母、姉妹、および娘は戦争の武器としてレイプを余儀なくされている。罪のない子供は銃で撃ち殺されている。遺体は共同墓地の中に放り出されている。少数派の宗教派は餓死している。想像できる最も恐ろしい犯罪として、無実の人が斬首され、世界の良心に衝撃を与えるために、残忍なビデオが配布されている。

No God condones this terror. No grievance justifies these actions. There can be no reasoning - no negotiation - with this brand of evil. The only language understood by killers like this is the language of force. So the United States of America will work with a broad coalition to dismantle this network of death.

このテロを容赦する神はない。どんな不満があるにせよ、これらの行動は正当化されない。この種類の悪には、情状酌量もありえないし、交渉もありえない。こんな人殺しがわかる言葉は、唯一、軍事力という言葉である。だから、アメリカ合衆国は、この死の連鎖から死を除去するために幅広い連合で働くことになる。


 刮目してビデオで見ると、これは、黙示録的修辞である。この世の終わりのような最終的と思わせる残虐な行動を言葉で絵として描き出し、その映像的なイメージで人々の感情を呪縛させ、そのなかで正義を語る。
 これをやってはいけない。正義は黙示録的修辞で語っていけないというのは、平和主義の基本である。
 そして、処罰するとき、軍事行動を取るとき、神を語ってはいけない。「このテロを容赦する神はない」として武力を行使するとき、自らを神の側にして立ってはいけない。その愚行を普通人は歴史から学ぶものだ。
 このオバマ大統領の演説には、もう一つ、ぞっとするような修辞も使われていた。それは排除すべき対象を「癌」と描くことだ。

There is much that must be done to meet the tests of this moment. But today I’d like to focus on two defining questions at the root of many of our challenges - whether the nations here today will be able to renew the purpose of the UN’s founding; and whether we will come together to reject the cancer of violent extremism.

現時点の課題満たすためにすべきことが多くある。しかし今日は、私たちの課題の根幹で、二つの疑問を定義することに焦点を当てたい。それは、ここに集まる諸国家が国連(連合国)設立目的を更新できるかどうかということ、また、暴力的な過激主義の癌を拒絶するために力を結集できるかどうかということだ。


 演説の主目的は国連の再定義ではあるだろう。そこは理解したうえで、排除すべきものに「癌」という修辞のレッテルを貼るべきではない。
 「癌」の修辞はこの演説でもう一箇所使われている。

On issue after issue, we cannot rely on a rule-book written for a different century. If we lift our eyes beyond our borders - if we think globally and act cooperatively - we can shape the course of this century as our predecessors shaped the post-World War II age. But as we look to the future, one issue risks a cycle of conflict that could derail such progress: and that is the cancer of violent extremism that has ravaged so many parts of the Muslim world.

相次ぐ問題について、私たちは、異なる世紀に書かれた規則書に頼ることができない。私たちが私たちの限界の向こうに目を向けるなら、また私たちがグローバルに思考し協調行動を取るなら、私たちの先人が第二次世界大戦後の世界を築いてきたように、私たちもまたこの世紀の道を形作ることができる。しかし、私たちが未来に目を向けるとき、一つの問題が紛争の循環を危険にさらし、その進展を逸脱させうる。それが、暴力的な過激主義の癌であり、イスラム教世界の多数を破壊してきた。


 率直に言えば、イスラムの世界の内紛に、連合国(国連)の論理をそのまま接合することは危険だろう。連合国によって可能なのは、それがただ、連合国の世界秩序に逸脱した場合の対処だけであり、その内部にイスラム世界の多数を取り込み、それによって一部のイスラム教の動向を癌として排除することは、大きな誤りである。
 この、西側には陶酔的にも響きかねない変な演説は、私をとほほな気分にさせた。どうしてこうなってしまったのか。スピーチライターが無教養なのか、あるいはオバマ政権に多文化を理解するブレインが存在しないのか。
 いずれにせよ、間違った道に世界が進むときには、そのしっぺ返しが必ず生じる。いやそれ以前だろう。実際のころ、大げさな修辞が語られるとき、事態は行き詰まっているのである。
 
 

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2014.09.25

韓国は侵略戦争の被害者ではなく共犯者だったと言っても韓国政府に通じない理由

 この手の議論には参戦したくはないし、する気もないが(原理的に不毛だからということをこれから説明する)、このところなんどかツイッターとかで見かけたブログの話題に、韓国は侵略戦争の被害者ではなく共犯者だった、というのがあった。
 そういうネタを書く人々のことがまったく理解できないわけでもないし、いやそれは違うと反論したいわけでもない。だがそれ以前に、そのネタ話は、原理的に韓国政府に通じない理由は、はっきりさせておいたほうがいいんじゃないかとは思った。ネタを真面目に受け止めている人が多そうなである。
 ところが、ネタを正す話になるとあまり見かけないように思う。ネットだとどうしても反韓か反日みたいな紅白歌合戦風になってしまうので、しかたがないのかもしれない。簡単に概要だけはメモしておきたい。

 このネタ話だが、前提を簡単にまとめておく必要があるだろう。曰く……戦前の朝鮮半島は日本の領土であり、その地の市民は日本国籍であり、志願兵は日本兵である。だから、朝鮮人も朝鮮民族国家も日本の侵略戦争の被害者ではなく共犯者だ……という枠組みである。
 私としはその枠組みにはさほど関心はない。現在の日本から見るとそういう見方もありうるだろうなというくらいである。それが歴史観であれば、よほど史実に反する歴史修正主義というのでなければ、人それぞれなんで、いろいろあるでしょうということだが、現存の国家間の関係にその歴史観を持ち出しても、まったく意味はない。
 なぜ意味がないか。まず、日本を知るには日本を構成(constitute)している憲法(constitution)を知らないといけないが、同じことは韓国にも言える。そこで、韓国という国がどういう国なのかということと、外交とかの次元で言うのなら、その国の憲法による自国規定を理解しておかないといけない。それがわかれば、この枠組みが無意味なことは簡単にわかる。

 韓国、つまり大韓民国の憲法で韓国はどういう国となっているかだが、日本国憲法の前文同様、韓国憲法の前文にはっきり書いてある。なお原文は朝鮮語で書かれているし、以下の訳文はちょっと手間を省いてウィキペディアから拾ってきたものなので、間違いがあるかもしれない、ということを念頭に置きつつ、訳文を引用する(参照)。


悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して正義、人道と同胞愛を基礎に民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台とした自由民主的基本秩序をより確固にし、政治・経済・社会・文化のすべての領域に於いて各人の機会を均等にし、能力を最高に発揮なされ、自由と権利による責任と義務を果すようにし、国内では国民生活の均等な向上を期し、外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ、1948年7月12日に制定され8次に亘り改正された憲法を再度国会の議決を経って国民投票によって改正する。

 ポイントは「3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」である。つまり、韓国(大韓民国)は、大韓民国臨時政府によって作られた国家であるということになっている。

 この大韓民国臨時政府というのがいつできたかというと、「3・1運動」として明記されているように、1919年、日本でいうと大正9年である。朝鮮の暦法でいうと檀君紀元4252年あるいは主体8年、あるいは「大韓民国」という年号があって、当然大韓民国元年になる。
 いわゆる韓国併合が1910年なのでその9年後にこれを認めない大韓民国という国家が臨時政府という形でできた、ということになっている。
 1910年に臨時政府ではあるが建国した大韓民国がどこに出来たかというと、上海である。
 それから中国各地を転々として、1940年(日本では昭和15年)に重慶に移り、大韓民国の軍部として光復軍総司令部を設立し、日本が太平洋戦争(大東亜戦争)として宣戦布告した翌日、大韓民国は日本政府に向けて、対日宣戦布告した。大韓民国は日本と戦争していたのである。
 その後は、大韓民国軍と日本軍との戦闘があったのではないかと思われるが、そのあたりの史実の評価は難しい。いずれにせよ、韓国ではそういうことになっているということだけ確認しておく。
 日本と戦った大韓民国は日本に勝利したということになり、今日の大韓民国を朝鮮南部に樹立し、現在に至る、ということになっている。
 つまり、大韓民国はその憲法によれば、日本に対して戦勝国だし、被害者である。まして共犯者であるわけはない。
 そういうふうに自国を規定した韓国に、日本から、韓国は侵略戦争の被害者ではなく共犯者だったと言っても、通じるわけがない。

 ちなみに、大韓民国臨時政府が朝鮮半島南に移るまでの経緯だが、概略は以前も記したが、こうなっている。
 1945年8月15日に、日本はポツダム宣言を受け入れたが、朝鮮半島でのその統治機構である朝鮮総督府の統治は継続していた。日本の敗戦は本土では9月2日、沖縄は9月7日、そして、これに続いて朝鮮総督府が米軍との間で降伏調印したのが9月9日である。
 この間にはややこしい経緯がある。日本は8月15日以降、朝鮮総督府の統治機構を朝鮮市民に移譲しようとした。具体的には、17日には朝鮮市民側の建国準備委員会に権限を委譲し、その結果、ソウル市中では太極旗の掲揚が推進された。
 ところがこれと並行して米軍は、16日の時点で暫定的な朝鮮統治を、日本の朝鮮総督府に命じていた。日本としては米軍の命令に従うしかなく、統治権限は18日には再び総督府に戻され、一日限りの太極旗も日章旗に戻った。
 なぜ米軍がクチをはさんだかというと、米国としては朝鮮が日本から独立したという形態を避けたかったらしい。なぜそれを避けたかったについては諸論ある。連合国による分割の問題も関連はしていだろう。
 その後、連合国としては、南北朝鮮で総選挙を実施し朝鮮統一政府を樹立させようともしたが、ソ連の反対により頓挫した。しかたなく米軍は、韓国だけで1948年5月10日に憲法制定国会の総選挙を実施させ、この結果、「大韓民国臨時政府」の李承晩が初代大統領なり、1948年8月13日に大韓民国が建国した。なお、現代韓国では、この日は、日本の終戦の日に合わせて2日ずらして15日になっている。

 この韓国側から見た韓国の歴史を世界がどう見ているかというと、支持している国は存在しないようだ。経緯から見ても、米国も認めていない。では間違いかというと、歴史学的には間違いと言ってもよいのかもしれない。そもそも大韓民国臨時政府による対日宣戦布告も他国に認められていないはずだ。また、独立は米国によって創作されたと見るほうが自然だろう。
 とはいえ、ではそれは「嘘歴史」かというと、主権国家である韓国が憲法がそのように規定しているのだから、その歴史観に他国が外交上はとやかく言うことはできない。

 韓国としてはそれを自国歴史として整備するのも自然だし、それを韓国国外に理解を広めたいと願うのも自然である。
 中国も理解を示している。中国国務院は今年、浙江省杭州時代の大韓民国臨時政府庁舎遺跡を含む国家級抗日戦争記念施設および遺跡とした。これには、1932年日本による天皇誕生日(天長節)式典で日本人要人を爆弾で暗殺した尹奉吉を称える記念館も含まれている。
 こうした動向を大韓民国が日本にも広めたいとするのも、それはそれで自然ななりゆきと言えるだろう。日本がその歴史を認めれば、日本国内でも「韓国は侵略戦争の被害者ではなく共犯者だった」とは言えなくなるだろうし、案外それが最終的な目的なのかもしれない。

 とはいえ、歴史的に見れば、現行の大韓民国憲法の自国規定にはちょっと無理があるのではないかという意見もあるだろう。仮にそうだとするなら、どうすればよいかというと、韓国の憲法を改定してもらうという方向性もある。現行憲法前文にもあったように、「1948年7月12日に制定され8次に亘り改正された憲法を再度国会の議決を経って国民投票によって改正する」ということで、こうした韓国の建国の考え方は、1948年に国家が成立してからしだいにその国民史観にそって「8次に亘り」組み上げられてきたものだ。
 今後、こうした面をことさらに強調することもないと韓国市民が考えるなら、日本国憲法ほど硬性憲法でもないなので、また韓国憲法は改定できる。しかし、当然だが、そうしてくださいと他国が言えるものでもない。
 
 

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2014.09.24

「若い女性がおだやかな環境でブログ書くためにはどうすればいいか」

 ツイッターで「若い女性がおだやかな環境でブログ書くためにはどうすればいいか書いてほしい」と聞かれて、いいよと安請け合いをした。答えがすぐに浮かんだからではなかったが、その問いかけに、なんというのか、詩情のようなものを感じたからだった。絵が浮かんだという感じに近い。フェルメール作「おだやかな環境でブログ書く若い女性」みたいな。
 考えてみると、問いには「環境」の意味合いから、二つの面がある。一つは、実際にブログを書く環境、もう一つは、ブログを書き続ける発表の場という意味での環境である。
 どっちかなと思ったが、二つには関連があるので、分けて考えればいいというものでもない。

 最初の側面は、単純な形にするとブログを書くことにかかわらず、「若い女性がおだやかな環境をどう得るか?」ということだろう。実際にはそこがとても難しい。あるいは、それが難しいと感じられる女性の、人生の局面を意味している。

cover
本を読む女 (新潮文庫)
 ここで唐突だが世の中には本を読む女性がいると言ってみたい。いや、当然いるだろう?男にだっている、とありがちに言われるかもしれないし、男女を問わない問題かもしれない。
 私が「本を読む女性」というのは、林真理子『本を読む女』(参照)というような意味合いに近い。なのでその本読んでご覧なさい、いい本ですよ、とも言いたいが、とりあずそれはさておき、本さえあれば幸せな女性がいる。なぜ「女性」というと、そういう女性ってなんだろうと社会の側から女性として認識されがちだからだ。それ以上の意味はない。特定の女性の特質ということではない。
 誰でも学校時代を思い返すと、「本を読む女性」がいたことも思い出すのではないだろうか。その女性の姿を思い出すと、本を読んでいるのである。フラゴナールの絵のように。そしてその女性の周りには、おだやかだけど誰も入り込めないような沈黙がある。男性でもそういう人はいるがどこか女性的な陰影を持つようには見えるかもしれない。
 私が言いたいのは、そういうおだやかな沈黙をどこでも作り出せる人がいるということ。あるいは一時的にそれが無理でも、そういう人は自然に新しい静かな環境に移っていく。そういう人にとっては、改めて「若い女性がおだやかな環境をどう得るか?」という問いが存在しない。
 それは一つの自然な生き方の反映だからだろう。むしろ、「どうしたらおだやかな環境をどう得るか?」という問いは、矛盾から生じている。おだやかな環境も欲しいけど、それだけではいられない自分がいるという矛盾である。
 矛盾を責めても矛盾が深まるばかりだから、少しづつ自分を静かな環境に移していくといい。誰にも声を掛けられない、なんの情報も耳に入らない、そんな静かな20分から30分、一時間、二時間というふうに持つようにする。
 個人的に思うのは、すぐさま個室に一人籠もるより、その前に静かに町や自然を一人歩くといいと思う。うまく言えないのだが、そうしていると、脳のなかに孤独のパワーというか、おだやかな環境を作り出す力みたいのが自然に充電されるように思うからだ。あるいは、雑踏やあえて騒がしいカフェのなかでぼーっとしてみるのもいいかもしれない。まるでホワイトノイズのように頭のなかの混乱が散らばって消える。
 以上はしかし、ちょっと迂遠な話だった。
 現実、その女性、というふうに特定の女性を考えるなら、20分ですら静かな環境がもてない状態にあるのだろう。育児のある時期には10分の読書すらままならないことがある。しかしそうした時期は一種の非常時であり、非常時として対応して、一般的な解決策はないだろうと思う。

 もう一つの面は、「若い女性がおだやかな気持ちでブログを書き続けられるか」というふうに考えると、それはブログを書いて発表する場に大きく影響を受けると思う。
 一般的に、有名人でもなければ、ブログを書き始めたころは誰も読んでくれない。誰も読んでくれないと空しい気持ちがして続かない。それは、しかし、それで自然な状態である。それはそれでおだやかさの基礎でもある。
 おだやかさを揺るがす問題は、二点から生じる。一つは、読ませたいような話をブログに書き始めることと、突発的に読まれてしまう想定外の事態である。
 ブログを書いてある一定数に読まれるにはどうしたらいいかというと、学校の定期テストでいい点を取るのとさして変わりない。学校の定期テストでいい点を取るには先生の思惑やウケを想定して、勉強すればいいだけだ。つまり、そういうことができるずる賢い奴が学校ではいい成績を取るし、そのずる賢い能力がブログで一定数の人気を得るのにも役立つ。
 あるいは、バカを演じて人気を得ていたクラスの人気者みたいなのもいる。でも、こいつらもずる賢い点では同じ。他者のウケみたいのをさささっと自分に織り込めるずる賢いやつがブログで人気を得る。
 でも、そうなったら自分を見失う。そして、自分を見失ったら、おだやかな環境なんてない。
 ウケを狙わなくても続けられるようなブログはなんだろうと考えておくといい。自分はこういう人だから、このブログを書くのだ、ということが、自分のなかできちんと了解できていることが大切になる。
 もう一点は、突発的に読まれることがあってこれが、ブログのおだやかさを破壊する。
 人気があって共感があっていいじゃないかと思うかもしれないけど、かならず変な人が湧いてくる。とんでもない誤解から罵倒の言葉を投げかけたりもされる。特に、書き手が女性だとわかるとひどい事態になりかねない。
 どうしたらよいかというと、突発的に読まれることがあることを想定しておくことと、そうなったとき、不可解なリアクションから自分を守るような場をあらかじめ選んでおくとよい。具体的にどこ?と言うなら、はてなブログはおやめなさい。noteを選びなさい。あるいはその二つの場を軸に場を選ぶといい。
 もっと具体的に、「若い女性がおだやかな気持ちでブログを書き続けられるか」についてブログの実技論での話をするなら、ブログを始める前に、伝わる人の範囲の感覚というものをSNSのようなもので掴めるよう訓練しておくといい。
 TwitterやLineで、ブログの読者の核となりそうな人たちの感覚を掴んで、「ああ、この人たちに読んで欲しいな」という視点からブログを書く。そしてブログが書き上がったら、その人たちにさりげなく伝わるように通知をするといいと思う。あくまでさりげなく(余計な人の気を引かないように)。
 以上が、僕からの回答。
 回答になってなってなかったらごめんね。
 あと一つ付け足す。
 ブログを書き続けると、自分の内面からとてもおだやかじゃいられないような嵐のようなものが吹き出てくる。そもそも書いて発表することができるというのは、一種の業(ごう)のようなものだからだ。表現という行為そのものの本質が現れてくる。
 それは怖いものだし、自分というのはこういう存在なんだという、自分の正体を知るような不思議な感覚でもある。その感覚は、どうやら、生きるという感覚の何かにつながっているので、それが感じられるようになったら、そこからブログの意味が自分に本格的に問われるようになる。
 
 

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2014.09.23

普天間飛行場の辺野古「移設」で新設される「軍港」機能について

 ブログをエバノート代わりに使うのもなんだが、自分の備忘のためにもちょっとメモしておこうかなと思う。ブログを選んだのはこのメモは公開してもいいんじゃないかということ。そういう次第で特に目新しい話題があるわけではないが、普天間飛行場の辺野古「移設」で新設される「軍港」機能についてである。
 話の焦点がしょっぱなから反れてしまうかもしれないが、この問題の現状の一般的なイメージを知る点からも、普天間飛行場の辺野古「移設」の最新のニュースを拾っておきたい。まあ、現状、この問題は政府側からはこんな感じで語られているという一例である。「防衛相 辺野古移設の計画推進を強調」(参照)より。


9月23日 16時00分
 沖縄県を訪問した江渡防衛大臣は、アメリカ軍普天間基地の移設を計画している名護市辺野古沿岸部を視察したあと、記者団に対し、辺野古への移設が基地の危険性を除去する唯一の解決策だとして計画を推進する考えを強調しました。
 就任後初めて沖縄県を訪れた江渡防衛大臣は、宜野湾市にあるアメリカ軍普天間基地を一望できる高台を訪れ、同行した宜野湾市の佐喜真市長から、市街地にある基地が住民生活に及ぼしている影響などについて説明を受けました。
 そのあと江渡大臣は、移設を計画している名護市辺野古の沿岸部をヘリコプターで上空からおよそ1時間にわたって視察しました。
 視察を終えた江渡大臣は記者団に対し、「沖縄の皆さんのなかに、移設への反対意見があることは承知しているが、日米両政府の間では唯一の解決策は辺野古への移設だと決定している。県民に理解を深めてもらうよう努力していきたい」と述べ、辺野古への移設が基地の危険性を除去する唯一の解決策だとして計画を推進する考えを強調しました。

 つまり、「辺野古への移設が基地の危険性を除去する唯一の解決策」という点を政府は強調している。しかも、「反対意見があることは承知している」というので、最善の策ではないが次善だろうという含みがある。
 普天間飛行場は、自著でも言及したが、現状、市街地に置かれて米国の基準も満たしていないので(米国なら即座に撤去となるはず)、その危険性を第一に考えると、とにかく移設したほうがよいというのが政府側の押しのポイントだ。カレー味のうんこより、うんこ味のカレーのほうがいいんじゃなか論である。
 この義論についてはそれ以上ここでは立ち入らない。
 では何のメモかというと、ちょっとその議論の前提に嘘があるよなあ、と思う点だ。どこが嘘かというと、「移設」ではなくて「新設」でしょ、ということ。
 「新設でも移設でしょ」という言い方もあるかもしれないけど、新しい機能を加えて機能まで変えちゃったら「移設」って言わないないんじゃないのか、というのがメモのポイントである。
 辺野古の新基地は、既存普天間飛行場に何を加えて機能を変えるのか?
 答えは、軍港。
 これも自著に書いたけど私は1995年の沖縄少女暴行事件の際に沖縄で暮らしていて、普天間飛行場撤去に関する話題は当時でずっと見てきたのだが、東京に戻ってしばらくした2007年、辺野古新基地についてニュースがあった。琉球新報「普天間代替 米が大型岸壁、戦闘機装弾場を要求」(2007年10月24日)より。

 米軍再編に伴う米軍普天間飛行場の名護市辺野古沿岸部への移設をめぐる2006年5月の最終合意直前の日米協議で、米側が代替施設に現在の普天間飛行場にはない戦闘機装弾場(CALA)や214メートルの岸壁を要求していたことが米公文書で分かった。現飛行場にない施設の整備方針が明らかになったことで、単なる移設でなく基地機能強化の性格が鮮明になった。
 代替施設建設の埋め立て用土砂を採取する予定の辺野古ダム地域や、移設でつぶれるキャンプ・シュワブの陸域部分についても米側は環境影響評価(アセスメント)を実施すべきだと求めている。防衛省が現在進める普天間代替施設のアセスの方法書は辺野古ダムに言及しておらず、装弾場や岸壁の存在も示していない。
 214メートルの岸壁は、従来の施設計画図で大浦湾側に示されていた燃料用の小規模桟橋とは別物。海兵隊員とヘリを海上輸送する輸送揚陸艦も着岸可能な規模で、普天間代替施設の軍港機能を担うとみられる。
 公文書は、普天間移設問題に関連してジュゴン保護を米国政府に求めた訴訟で米政府が提出した資料で、同訴訟の原告団が23日夜、名護市での報告会で明らかにした。文書は、普天間の代替施設で名護市と防衛庁(当時)が基本合意した直後の4月20日付で、日本側の提案に対し米側が逐一コメントを付している。
 一連の文書には、代替施設建設の年次ごとの工事進ちょくを示した地図も添付されている。それによると、工事着手から1年後(アセス着手から4年後)には大浦湾側の海中に堰(せき)を建造し、2年後から3年後に順次海域を埋め立ててV字形滑走路を途中まで整備、4年後までには予定海域をすべて埋め立てる予定だ。

 2006の時点で、当初の移設計画にはなかった軍港機能を追加してしまっていたのだった。請求したらわかったということで、極秘ということでもなかったのだろう。
 その後の経緯だが、どうやら、これは「軍港ではない」という話になっているようだ。昨年の沖縄タイムス「辺野古 新型の軍港に 県「岸壁」主張 識者ら「既に機能保持」」(参照)より。

 辺野古埋め立て申請書で判明した272メートルの係船護岸や斜路(スロープ)設置などによる新基地の軍港機能について21日、申請書審査中の県土木建築部はこれを否定し、「審査への影響はない」とした。在日米軍基地に詳しい識者は、新基地はうるま市の米海軍ホワイトビーチ同様に「米軍港湾としての補助的な支援機能を持つ」と説明する。山口県の岩国基地沖合移設時に係船護岸建造が突然“後出し”された経緯を振り返り、「不足する設備は米軍の将来的な運用の中でいくらでも追加され得る」と指摘している。
 本紙の取材に県土木建築部は「冬場の波の高さ」「波の影響を軽減する防波堤のような施設もない岸壁で、港の形態を持たない」などと軍港機能を否定している。


 また辺野古新基地計画には、ホワイトビーチのような艦船向けの給水設備や高圧電気供給設備といった支援施設がない。だがホワイトビーチの高圧電気供給設備も運用途中で建設された。県の軍港機能否定について、篠崎さんは「軍港と呼ぶか呼ばないかの違いだが、軍の荷役機能を持つ岸壁があることに何ら変わりはない」と話した。

 「岸壁」であって、軍港ではないということだ。なるほど納得、というべきなのか、苦笑すべきなのかよくわからない。
 このあたりは比較的公平に見てきたNHKでも、「軍港」という言葉は使わないものの、疑問を投げていた。「時論公論「説明置き去りで進む辺野古移設」」(参照)より。

加えて、新たに建設される代替施設の機能です。面積自体は205ヘクタールと、普天間基地の半分以下ですが、4分の3にあたる160ヘクタールは、沿岸部を埋め立てて作り、1本しかない滑走路は、V字型の2本になります。さらに全長250メートルを超える大型船が係留できる岸壁や、航空機に弾薬を搭載するエリアなど、普天間基地にはない機能が整備される予定です。代替施設は完成すれば簡単に撤去というわけにはいきません。これで負担の軽減と言えるのか、むしろ基地機能の強化と固定化ではないかという疑問は、移設に肯定的な人の中にもあります。

 で、この先、まだ続きがある。今年の7月31日沖縄タイムス「米軍、辺野古に高速輸送船配備検討」(参照)より。


 【平安名純代・米国特約記者】米軍が名護市辺野古の新基地に高速輸送船(HSV)を配備する可能性を検討していることが29日、分かった。沖縄で前方展開している第31海兵遠征部隊(31MEU)を辺野古から乗艦させることで機動力を高め、アジア太平洋地域への即応展開能力を拡大するのが目的。複数の米政府筋が沖縄タイムスの取材に明らかにした。


 日米両政府は、2005年の外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)の共同文書に、「海上輸送を拡大し、共に実施する」などと、相互輸送協力の方針を明記。一方で、米軍内では、新基地にホーバークラフト型揚陸艇(LCAC)や高速輸送船(HSV)が運用できる軍港機能を整備する必要性を検討していた。
 メイバス海軍長官は28日、米海軍横須賀基地(神奈川県)で講演し、太平洋地域に両用即応群(ARG)を追加配備し、佐世保基地に20年までに沿海域戦闘艦(LCS)を配備する方針を説明。軍事費大幅削減などで遅れが生じていたアジア重視戦略について「確実に実施される」と強調した。
 同長官は昨年2月、米下院軍事委員会に提出した書面証言で、新たに獲得した高速船を沖縄とオーストラリアに配備された海兵隊の輸送用として運用する方針を明らかにしている。

 この話がどのように沖縄タイムスにリークされたのか、いやリークじゃないよ公開情報みたいなものだということなのか、まだまだ懸案という事態なのか、その後の報道を私は知らないこともあってよくわからない。
 ただ、「軍港」と呼ぶか呼ばないかという問題より、これもう、普天間飛行場の代替移設基地、とかいう話ではないよな。
 この点について、政府側からの明確な説明というのがあったのかどうか私は知らない。ないんじゃないかと思う。だとしたら、きちんとまとめて情報を公開し日本国民全体に説明しないといけないのではないか。
 
 

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2014.09.22

巧妙に修辞で覆ったオバマ米大統領による第三次イラク戦争

 今月の10日のことだが、米国オバマ大統領はイスラム国の残虐報道に反応してか唐突にイスラム国の対処計画を発表した(参照)。
 先月28日では、対処を計画を問われた彼は、素直に「戦略はまだない」と発言して、米国民から落胆と失笑を買っていた。共和党ジョン・マケイン上院議員などは嘲笑もした(参照)。
 オバマ大統領は何も考えていなかったか。そう見えるのも、さすがにまずいと思い直し、新しい演説を考えたのが10日のこれではなかった。
 内容は、イラクでの空爆を拡大するという、特に意味のない修辞だけではすまかったので、これまで否定してきたシリア国内での空爆も承認した。ただこれも、当初から軍からも言及されていたことで特に新しい対応計画というほどのことでもない。
 彼は加えて、期限の定まらない長期的な対応になるとした。つまり、前回同様、「戦略はまだない」という発言の言い換えのようにも聞こえた。米国民も議員もこの件はほとんど、えんがちょみたいなものだし大した反応もなかった(参照)。
 その後、ケリー国務長官の動向や米議会での経緯を見ていると、実態は少し違う。どうやら、戦争忌避の修辞と正義の旗を掲げて、オバマ大統領はまたイラク戦争を始めるんじゃないかなと思えてきた。そのあたりを少し書いてみる。
 話題の前提は、今回の米国の介入は空爆に限定されることだ。地上軍の投入はない。もっともそれを言えば、子ブッシュのイラク戦争も当初はそうだった。
 オバマ大統領が空爆、というときは、東京大空襲で焼夷弾をむやみに落としたみたいに爆弾を落とすのではなく、リビアでやったように、ドローン型殺人ロボットで効率的に殺人することになる。そこで重要なのは、地上側からの誘導である。
 だが、この地上側誘導にも直接的には米側の人員が荷担しないとなると、いわゆるシリアの反政府組織を使うか、独自に米国兵ではない傭兵部隊を使うことになる。だが、シリア内の反政府組織はイスラム国よりアサド政権の打倒が重要なので、後者の養成が重要になる。
 そんな筋で見ていくと、なるほどなあという展開になってきた。
 その前に、日本人の戦争観はちょっと独自なので最初に補足説明すると、戦争を実質的に継続するときに、国民として戦争賛意の意思として示されるのは議会における戦争予算の承認である。日本の太平洋戦争でもこの手順は踏んでいるので、ようするに日本人は戦争を承認していた。
 オバマ大統領の戦争計画だが、まず下院で予算承認された。この際に、内容も当然説明される。概要は日経「米下院、シリア反政府勢力への軍事支援予算を可決」(参照)より。


【ワシントン=川合智之】米議会下院は17日、過激派「イスラム国」に対抗するためオバマ大統領が求めたシリア反体制派勢力への軍事支援を認める修正予算案を、賛成多数で可決した。早ければ18日にも上院で最終承認される見通しだ。米軍地上部隊を派遣しない代わりに、シリア反体制派の訓練や空爆を通じてイスラム国の壊滅を図るオバマ氏の包括戦略が実現に向け動き出す。
 穏健なシリア反体制派がシリア領内のイスラム国と戦うのに必要な武器を提供するほか、サウジアラビアで要員約5千人を軍事訓練する。米政府は必要経費を5億ドル(約540億円)と見込む。

 重要なのは、「サウジアラビアで要員約5千人を軍事訓練」というあたりである。
 その後の上院ではどうか。APを受けた記事のようだが毎日「米議会:シリア反体制派の訓練承認 「イスラム国」に対抗」(参照)より。

【ワシントン和田浩明】米上院は18日、シリアとイラクで活動するイスラム過激派組織「イスラム国」に対抗するため、穏健派と米国が認定したシリア反体制派を訓練し、武器などを供与する権限をオバマ政権に付与する決議案を賛成多数で承認した。前日に下院も認めており、オバマ大統領は「議会との共同歩調で米国は強くなれる」と歓迎した。
 支援対象は「自由シリア軍」などの主に世俗系の反体制派。ケリー国務長官は18日の下院外交委員会公聴会で、「少なくとも七つの組織がある」と証言した。オバマ大統領によると訓練は「複数のアラブ諸国」と連携してシリア国外で行われる。サウジアラビアは受け入れに同意した。反体制派には小火器や車両の提供から始め、信頼できる部隊にはより高度な装備を渡す計画だ。
 AP通信によると、米軍制服組トップのデンプシー統合参謀本部議長は18日、訓練開始までに3カ月、完了に1年かかるとの見通しを示した。1年間の訓練可能数は5000人を超える見通し。

 上院でも承認された。
 ただ、毎日新聞記事だと、対応は「複数のアラブ諸国」で、「サウジアラビアは受け入れに同意した」ということで、サウジアラビアはその一つというトーンで書かれている。記事としては誤りではないが、実質サウジになる点が重要ではないかと思われる。
 この点は、下院についての読売新聞「米、シリア反体制派の訓練承認…内容は示されず」(参照)に関連情報がある。

シリア反体制派への軍事支援は、「イスラム国」掃討に向けた戦略の「四つの柱」の一つ。「イスラム国」よりも戦闘能力や装備で劣るシリア反体制派に対し、米軍がサウジアラビアで訓練を行うとの方針を示していた。ただ、下院が可決した法案では、反体制派への訓練内容や武器供与の具体的な内容は示されていない。

 一連の報道で重要なのは、「四つの柱」である。これが、表面的であれオバマ戦略になるからだ。だが、ざっと見渡した範囲ではこのあたりについての国内報道は見当たらなかった。
 「四つの柱」については、直接米軍からも提示されている。DoDニュース「Hagel Explains President’s Strategy to Destroy ISIL」(参照)より。重要なのはサウジについての言及である。

And, the president has asked Congress for $500 million to train and equip moderate opposition forces to confront terrorists operating in Syria. “We have now secured support from Saudi Arabia to host the training program for this mission, and Saudi Arabia has offered financial support as well,” Hagel said.

そして、大統領は議会に向けて、シリアで働いているテロリストに対して適度な反対勢力が立ち向かえるよう訓練と装備のために5億ドルを頼んだ。「私たちは今や、この任務に向けて教育プログラムを主催するよう、サウジアラビアから支援を獲得し、またサウジアラビアはさらに財政援助を提供した」とへーゲルは言った。


 以上を簡単にまとめると、サウジアラビアを実質的な傭兵訓練と後方基地にして、第三次イラク戦争に突入するということだ。
 前回の子ブッシュまでは米国兵が参加することに意義があるとして、実質は米国内の民間傭兵を活用したが、国家の戦争とした。これがもう受けないので、オバマ時代では、タックスヘイブンならぬソルジャーヘイブンのようにして、米国関与を表面的に消して、さらに金銭面もサウジに依存するということになる。
 頭いいなあオバマ大統領、戦争の「飛ばし」みたいだ。
 私はこれ話の流れは、しかし子ブッシュの時と同じで、サウジアラビア主体なのではないかと思う。
 7月ことだったが、こういうニュースがあった。共同「国境にサウジ兵3万 過激派「イスラム国」の勢力拡大を警戒」(参照)より。

 中東の衛星テレビ、アルアラビーヤは3日、サウジアラビア軍がイラクとの国境地帯に兵士3万人の部隊を配置したと報じた。イスラム過激派「イスラム国」の勢力拡大を警戒した対応とみられる。詳細は不明だが、イラク軍が国境地帯の警備から撤退したとの情報がある。サウジは、イラクと約800キロの国境を砂漠地帯で共有している。国営サウジ通信によると、アブドラ国王は「サウジの治安と安定のために必要なあらゆる手段を講じる」との方針を示していた。

 もとからサウジの動きの準備は出来ていた。あとは、どういうふうに米国を巻き込んで戦争を始めるかがこの数か月問われていたと見てよさそうだ。
 この時期の流れでもう一つ気になるのは、6月ごろ5億ドルの支援を議会に求めていたことだ。6月27日「シリア反体制派支援を強化=5億ドル支出、装備供与-米」(参照)より。

【ワシントン時事】オバマ米大統領は26日、シリアのアサド政権と戦う反体制派への装備供与や訓練に必要な経費として、5億ドル(約510億円)の支出を承認するよう議会に要求した。シリア内戦は隣国イラクに飛び火するなど、地域情勢を一段と不安定化させており、オバマ政権は反体制派への支援を大幅に拡充することで、内戦終結に向け局面転換を図りたい考えだ。(2014/06/27-07:55)

 私の勘違いかもしれないが、今回のオバマの対イスラム国対応計画費は、これではないだろうか。
 6月時点の予算問題の話はよくわからないが、サウジアラビア側が主導でオバマのお尻を叩くような話は7月ころから進められていた、ということのように見える。
 
 

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2014.09.21

フランス経済の低迷とオランド政権の迷走

 フランス経済が低迷している。今年度の成長率は0.4%、来年は1%と見られている(参照)。また、現在10.2%の失業率も、さらにこれを越えていくとも見られている(参照・(参照)。
 とはいえ、それをもってフランス経済が危機的な状況にあるとまで言えないのは、昨日ムーディーズがフランス国債を「Aa1」に据え置いたことからもわかる。ちなみに日本はAa3である。
 フランス経済の低迷の原因についてはいろいろな議論があるが、関連して目立つのはオランド政権の迷走がある。象徴的なのは、先月25日、モントブール経済相(当時)を更迭し、内閣改造を行ったことだ。
 更迭理由は、モントブール元経済相が、緊縮財政路線のオランド政権の意向に反し、緊縮財政路線の撤回を主張したことだった。ロイター記事で拾っておこう。8月26日「フランスが内閣改造、大統領は緊縮財政批判の経済相更迭へ」(参照)より。


 モントブール氏は24日、2008年の金融危機以降実施されてきた財政赤字削減策はユーロ圏経済を台無しにしており、各国は迅速に方針転換しなければ有権者はポピュリストや過激主義の政党に流れると警告した。
 さらにドイツに対して緊縮財政という「妄想」によってユーロ圏経済を破壊していると強烈に批判するとともに、自身と同調する2人の閣僚は職にとどまる意向がないと表明していた。


 モントブール氏は会見で「全世界はわれわれにこの馬鹿げた緊縮政策をやめるよう懇願している。緊縮政策はユーロ圏をどんどん景気後退の深みへと沈ませ、ついにはデフレをもたらそうとしている。われわれは緊縮政策が財政赤字を縮小させるどころか生み出していることを認める知恵と政治的勇気を持たねばならない」と言い切った。

 どうだろうか? 私はこれは社会党左派であるモントブール元経済相の主張が正しいように思われる。欧州中央銀行(ECB)ドラギ総裁も緊縮財政についてすでに懸念を表明している。
 モントブール氏の発言は同時に現在のフランス政局にも関連している。

 オランド大統領にとっては今後、モントブール氏ら造反閣僚が議会で勢力を糾合し、改革実行に必要な左派与党内の多数派が切り崩されるリスクがある。

 現下の混乱は、オランド内閣の倒閣運動にもつながっていると見てよいだろう。
 このあたりは、フィナンシャルタイムズも言及していた。「[FT]左派閣僚更迭で賭けに出た仏政権(社説) 」(参照)より。

 第2に、モントブール氏の排除で政権運営が不安定になることが考えられる。オランド政権の求心力は弱く、支持率は17%にとどまる。モントブール氏は、社会党や緑の党の反対派が構成する国民議会の反緊縮派を支持できるようになった。これによりフランス政界は「ねじれ状態」に向かう。最悪の場合、解散総選挙に追い込まれ、(その結果として)左派の大統領と右派の内閣が共存する混乱した事態に陥る恐れがある。

 あまりよい言い方ではないが、「左派の大統領と右派の内閣が共存する混乱した事態」が想定される。欧州左派の混迷と矛盾が浮かび上がってくる一例とも見られる。
 こうしたフランス政局の文脈を眺めると、一昨日のサルコジ復活宣言がただの悪い冗談だとも思えなくなる。朝日新聞「仏サルコジ氏、表舞台に復帰へ 2017年大統領選視野」(参照)より。

 フランスのサルコジ前大統領(59)が、政治の表舞台への復帰を表明した。2017年の大統領選をにらみ、まずは最大野党・民衆運動連合(UMP)の党首選に立つ。社会党オランド政権の任期半ばで、仏政界は「ポスト・オランド」へと動き出した。

 それにしても、なぜ左派オランド政権がこのような混乱に至ったのか。もともと当初から政策的な無策が指摘されていた点については特に弁護もできないが、緊縮政策に固執するのは、EUの財政赤字基準(対GDPで3%)を守ろうと公約していたことがある。しかしこれも、15年ですら4.3%までしか下がらないと見られている。それにしても、そうした公約がするっと通ってしまった空気、つまり経済的な問題を政治問題に還元しようとした政局の成功は、逆に現在となっては仇となった。
 結局、フランスでの政局の混乱は、モントブール元経済相とオランド大統領の対立に見られるように経済政策における左派の混乱と、それに乗じた政局の右傾化の二つの動向があるように見える。そしてどちらも、旧来の左派的な枠組みでは解決できない。
 こうしたフランスでの混乱がEUに再び危機をもたらすまでにはまだ時間がかかるだろう。だが、そろそろスケジュールに乗り出したようには見える。
 
 

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2014.09.20

ウクライナ情勢は今どうなっているか

 ウクライナ東部での、ウクライナ政府と親ロシア派の紛争だが、当初から想定されていた落とし所(東部二州に特別な地位を与えること)にようやく向かっているようにも見える。16日にウクライナ議会はこの二州に特別な地位を付与する法案を可決した(参照)。
 だが、現実的な和平はまだ先のことにかもしれない。そのあたりについて現時点で思うこと少しまとめて記しておきたい。日本を含めて西側メディアからは事態がとても見えづらいせいもある。
 事態が見えづらいのは西側ジャーナリズムの問題だけではない。そもそも、ジャーナリストの立ち入りが可能だったガザに比べて、同程度の被害を出しているにも関わらず、ウクライナ東部の戦闘の実態はあまり報道されてこなかった。
 事態の転機となるのは、5日に成立したウクライナ政府と親ロシア派の停戦だが、この背景もなかなか見えにくいものだった。なぜ、ここに来て、停戦という流れになったのか?
 私の印象では、8月24日のウクライナ独立記念日軍事パレードで盛り上がっていたように、ウクライナ政府側はこの時点までは優勢であった。だが、そのころからロシア側からの支援の影響だろうと思われるが、親ロシア派が急速に盛り返した。象徴的なのは、8月28日にウクライナ政府が暫定州都とした港湾都市マリウポリを「ほぼ包囲した」(参照)ことである。

 ロシアとしては、3月に併合したクリミアへの通路を確保するという意味でマリウポリの掌握はごく基本的なお仕事の内にある。その当たり前の観点から逆に考えると、むしろこれを阻止できないウクライナ政府側の勢力はどうなっているのだろうかと、疑問を抱かせる事態だった。
 結果論ではあるかもしれないが、親ロシア派の盛り返しによって、ウクライナ政府がようやく落とし所に向かう動向となった。これが5日の停戦協定につながる。
 流れを見ていると、ロシア側からの軍事的な支援によって、和平への道がようやく開けた形になっている。平和というのは現実にはこうして実現されることがあるものだなと奇妙な感慨を持つ。
 かくしてようやくこぎ着けた停戦協定だが、次に関心が向くのは、どのような顔ぶれが揃うのかということだ。特にウクライナ政府側から誰が出てくるのかは注目された。
 ウクライナ側から出て来たのは、レオニード・クチマ(Leonid Kuchma)元大統領であった。過去の経緯からロシアとのチャネルを持っている人物だと言える。
 クチマ元大統領が出て来たことで、少し踏み込んだ推論ができる。今回の停戦協定だが、この交渉のひな形は3日ロシアのプーチン大統領が示した段階的停戦案を踏襲した形になっているところに、ロシア側チャネルの人間であるクチマ元大統領の登場である。こうしたことから考えると、和平の段取りと筋書きは、全てプーチン大統領が整えたものではないだろうか。
 クチマ元大統領の登場には他の疑問も残る。ウクライナ政府内でどのような力学でクチマ元大統領が選出あるいは承認されたかである。別の言い方をすれば、停戦協定において彼はどのくらいの権限をウクライナ政府から委託されているのだろうかということだ。
 この疑問はつまるところ、ウクライナ政府が現状、どのように維持されされているのかもよくわからないことに関連する。この不明性が、現状の散発的な停戦協定違反を意味しているように思われてならない。
 こうした文脈で見ると、米国の動きもまた薄気味悪いものである。19日NHK「米 ウクライナ軍への支援強化」より。


アメリカのオバマ大統領は、ホワイトハウスで、ウクライナのポロシェンコ大統領と会談し、ウクライナ軍への装備品の提供など5300万ドル規模の追加支援を行う方針を示しました。

 ロシア側からの落とし所は東部二州に特別な地位を与えることであり、いずれそこに落ち着く以外の道も見えないなか、米国のウクライナの軍事支援はどういう考えなのだろうか。
 しかし米側の支援は、金額も少なく構造的な軍事支援でもないことから考えると、その意味はむしろ逆説的に、ウクライナ政府に対して、ロシア側の落とし所を飲めという意志であるかもしれない。
 あとは、余談的な話題。
 ツイッターにファンの多い在日ロシア大使館だが、9日、いまひとつ切れの悪いジョークが上がった。いや、これはジョークじゃないかもしれないなと思わせるものがあった。


 リンクはないものの、アムネスティ・インターナショナルが明示されているので裏は簡単に取れる。「Ukraine: Mounting evidence of war crimes and Russian involvement」(参照)だろう。
 アムネスティの記事を読むと、冒頭、親ロシア派を支援しているロシア側の関与を示す衛星写真があがっているが、それは別にさほどニュース性はなく、「戦争犯罪(war crimes)」に関心をもって読んでいくと、後半に僅かだがウクライナ側の「アイダル大隊(Battalion Aidar)」関連の言及があった。
 気になってその関連の情報を読んでいくと、西側報道だが、グローバルサーチ記事(参照)やニューズウィーク記事(参照)があった。特にニューズウィーク記事は表題「Ukrainian Nationalist Volunteers Committing 'ISIS-Style' War Crimes」だけでもわかるように、ウクライナ側の勢力がISIS並みの非道を展開していることを伝えている。
 ウクライナ政府側の勢力には、ウクライナ政府のコントロール下になさそうな、過激な極右勢力が混じり、かなり手ひどいことをやっているように思える。
 こうした事態については、残念ながら、ウクライナ政府を支持する西側報道からはそれ以上、はっきりしたことはわからない。
 また、そもそもウクライナ情勢について日本でもあまり話題になっていないようだし、「戦争犯罪」に関心をもつ日本人も、この件についてはあまり関心がないように見える。
 
 

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2014.09.19

スコットランド独立住民投票(レファレンダム)、否決

 イギリスからのスコットランド独立の賛否を問う住民投票(レファレンダム)で、予想通りの接戦の末、予想通りに独立が否決された。自分にとっては予想通りの結果ではあった。だが、強い確信を持っていたわけではなく、関心をもって見つめていた。
 今回の結果で、スコットランドの独立が否定されたとはいえ、これもすでに書いたが、実質的にはスコットランドの自立化は進み、事実上、独立に近い状態に変わっていくだろう。
 一連の動きを振り返って思うことが3点あった。

 1つは、労働党の失策である。左派政党の失策と言ってもよい。
 この点は日本からは見えにくいかもしれない。日本の政治風土は特殊なので、左翼と右翼、左派と右派、あるいはリベラルと保守といった基本的な対立が他の先進国とは異なっている。
 国際的には労働者の政党が左派であり、今回のスコットランド独立の動向はその左派である労働党の政策に対して違和の表明という点が大きかった。その点を延長して言えば、今回の独立運動は保守化の動きであった。後でも触れるつもりだが、より正確に言えば、地域文化・生活に対する保守的な動向でもあった。
 左派的な動向への違和がスコットランドで沸き起こったのは、その政策への失望なのだが、失望というのは期待の裏返しであるように、前段には期待もあった。
 少し大戦後の歴史を振り返る。日本では新自由主義というふうに、なんでも放り込める分別なしゴミ箱のようなレッテルで理解されることの多いサッチャリズムが焦点になる。この政治改革は、日本では英国病という独自の用語で形容される、1960年代以降の産業保護政策がイギリスの国際競争力を低下させてきたことへの対策であった。サッチャリズムの評価は一概には言えないが、この改革の影響を大きく受けた、あるいは受けたと理解したのがスコットランドだった。まず、サッチャリズムや保守政治への反発があり、これが労働党への期待に結びついていた。
 スコットランドはもともと、労働党色の強い地域で現保守政権の前の労働党政権時代の首相であるトニー・ブレアやロバート・ブラウンもスコットランド出身であり、スコットランド人と言ってよい。
 こうしたスコットランド人材によるイギリスの労働党政治が、おもにイラク戦争とリーマンショックへの対応をきっかけに、地元のスコットランドから忌避されるようになっていた。
 経緯を簡単にまとめると、サッチャリズム的な保守主義にも、グローバル化に沿った労働党左派主義にも、そのどちらにもスコットランドは否定的な思いが高まり、そこに地域政治への希求が高まっていたことがある。もちろん、これに北海油田といった利権の思惑も絡みはする。
 労働党政権への失望というものをどう考えるかという点からは、今回のスコットランドのレファレンダムは日本も含めた幅広い意味合いを持つだろう。

 2点目は、ツイッターでいろいろな人の意見を見ていて思ったのだが、今回のスコットランド独立運動を民族自決・民族独立と誤解している人が少なからずいそうで驚いたことだ。大学教授といった肩書きをもつかたや、識者も含まれていた。
 こうした素朴な誤解が日本で生じるのは、今回スコットランド独立を主導した政党"Scottish National Party (SNP)"が「スコットランド民族党」と訳されているせいもあるだろう。NHKもこの用語を使っており、NHKに登場した解説者も多少戸惑いながら軽くこの訳語に言及して、すぐ「SNP」という略語に切り替えている心情が面白かった。
 この奇妙な定訳語が日本国内で使われている経緯もわからないではないし、原語の"National"を「民族」ではなく「国民」とし、「スコットランド国民党」というふうに、あたかも台湾与党のように、呼べばよいのかもしれない。だが、常識的にもわかるように、スコットランドという国家は目標であり、独立前に呼ぶのもためらわれるものもあるだろう。いずれにせよ、SNPには民族主義的な傾向は実質的にはほとんど見られない。にもかかわらず、日本の政治風土では、なぜか、こうした問題を民族主義の問題に押し込みたい政治的な枠組みが存在している。
 スコットランドの独立は地方自治の国家的な規模の問題である。米国とカナダがなぜ国家を分けているのかという問題に近い。
 そこでスコットランドが国家化する場合の規模について触れておくと、スコットランド人口はだいたい500万人(5,254,800)である。世界には500万人以下の国家は世界に多い。フィンランドも500万人ほどである。その点から考えれば500万人国家としてのスコットランドに違和感はない。
 だが、以前にも考察したが国際的な影響力のある国民国家は2000万人規模を要するラインがありそうだ。独自の軍事力を持ち得るラインでもあるだろう。そうした点からざっとした印象ではあるが、スコットランドは独立してもその後国家運営は、イギリスに依存することになっただろう。
 余談だが、500万人というとだいたい日本の北海道の人口(5,507,456)に匹敵する。当然、北海道も地方自治の主体が独立を志向することもできる。戦後日本では、日本を分割し、北海道をソ連領とする可能性もあった。北朝鮮同様、ロシア側の政府を樹立する可能性がまったく不可能ということでもなかった。

 3点目は今回のレファレンダム参加の年齢基準が16歳以上という点だった。数の上では、有権者登録者約430万人のうちの約11万人程度と少数ではあるが、この層が、名目上の独立は果たせなかったものの今後のスコットランドの地域を担っていくことになる。
 その意味で、今回のレファレンダムは若者世代への政治参加への教育的な効果が大きくあった。この点は日本も今後学ぶ点が大きいだろう。言うまでもないことだが、国際的には有権者は18歳以上が普通という状態に向かっていて、日本はこの点で後進国に位置している。

 以上、3点であるが、もう1点、しいて言えば、主に通貨混乱と原子力政策に関連して想像も付かない事態にならなくてほっとしたということもある。
 
 

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2014.09.18

広島市の土砂災害で心にずっとひっかかっていたこと

 広島県広島市で先月20日に発生した土砂災害のごとか、ぼんやりとだが、ずっと心に引っかかっている。
 なにが、どう、自分の心に引っかかっているのか、うまく言葉にならないので、さらに心にひっかかる。結論も主張もないが、そのひっかかりの感覚からブログで少し言葉にしてみたい。
 心のひっかかりの一つの焦点は死者が多いことだ。正確には思い出せないが、海外報道で、日本の自然災害でこれだけの多数の死者を出したのは東北大震災以降初めてのことだ、という指摘を見かけた。海外報道で見ることで、これは大災害だなと私は思った。BBCなどもよく報道していた。
 災害後しばらくは死者数が確定しなかった。現時点では、死者73名、行方不明者1名、重軽傷合わせた負傷者44名(参照)とのこと。行方不明者の探索はほぼ終わり、死者数も確定したかに見える。
 なぜ先進国の日本で土砂災害で多数の人が亡くなってしまうのだろうか。そうナイーブに疑問を発してみて、問いの立て方が間違っているようにも思うが判然としない。
 国際的な土砂崩れの災害リスト(参照)を見て、今年の3月米国ワシントン州で大規模な土砂災害が起きていたことを思い出す(参照)。
 この災害に関連して、ナショナルジオグラフィックは「米国疾病予防管理センター(CDC)によると、アメリカでは、土砂崩れや地滑りによって年間平均で25~50人の死者が出ている」と書いていた。
 この種類の自然災害は、先進国だからどうという問題でもなさそうだ。
 また、こうした災害は結果の被害から見るよりも、個別の自然と人がどう暮らすかという問題でもある。
 それでもワシントン州の地滑りと広島の地滑りを見ると、ずいぶん土砂の量が違うようにも見える。
 印象にすぎないのだが、広島市の災害は、人家が多い地域で発生したために被害が大きくなったようにも見える。

 そして疑問が続く。なぜこの地域にこれだけの家屋が存在しているのだろうか。
 今回の被害は、八木、緑井、可部、山本の順で激しかったようだが、私は八木について災害発生当初、Googleマップのストリートビューでこの災害前の昨年の風景を、なんとなく見て回っていた。そこには田舎なら日本中どこでも見られる普通の風景があった。「ああ、こんな普通に見える風景のなかで大災害が発生したのか」という奇妙な感じに打たれた。
 ストリートビューで見た光景を脳裏に置いたまま災害写真などを見てると、該当地の県営団地は流されていなかったように見えた。団地のような集合住宅ならこの災害の被害は最小限に食い止められただろうかと疑問に思った。県営住宅における実際の被害はよくわからない。災害報道を見ていると、一部取り壊していた。

 八木の県営住宅のつくりや、その周りの家屋を見ていると、新しい建造もあるようだが、総じて昭和の建物のように思えた。昭和50年代か40年代かはわからない。40年代ではないだろうか。
 昭和40年代なら、と思う。日本の産業成長期にこの地域を造成して家屋を建ててしまったものの、その後の防災基準と対応が取れずに放置されていたら、大災害になってしまった、ということではないか。
 11日毎日新聞「広島土砂災害:「警戒区域」基準見直しを 県が国に要求」(参照)に関連の気になる話があった。


 広島市の土砂災害で、広島県が土砂災害防止法に基づく「特別警戒区域」に指定しようとしていた範囲を超えて多くの建物に被害が出ていた問題で、県が国に対し、同区域を指定するために使う計算式を見直すよう要求していることが分かった。全国的にも同様の災害で指定区域外の建物被害が相次いでいることが判明。専門家からも「国の基準は実態に合っていない」との指摘が出ている。

 専門家から見ると、土砂災害防止の基準が合っていないということだし、これは潜在的な危険でもある。今回の広島の災害も、とりあえず、それが健在化したと言えるのだろう。
 微妙に「とりあえず」といったふうに口ごもるのは、後の引用にも関連するが、この問題を誰かをバッシングするいつもの構図に落とし込むのを避けたいという思いがあるからだ。災害の人災面を強調してそれに一斉にバッシングの声を上げるという、昨今のネットの風潮は問題の解決を結果的に阻むようにも思える。
 記事で気になるのはここだ。

 国土交通省は今後の対応について明らかにしていないが、仮に計算式などが見直されれば、新たに特別警戒区域に指定された地域で不動産の価値が下がるなど住民にとって不利益が出る恐れがある。それでも県の担当者は「技術的に裏付けのある基準で区域を決め、住民に危険な場所を知ってもらうことが先だ」と語る。

 明確に書かれているわけではないが、ハザードの計算式の改訂を実質阻んでいるのは、地域住民の不動産価値の意識ではないだろうか。
 もう一つ先の県営団地と関連するのだが、県営団地のような公的住宅は、かなり余裕のあるハザード計算で建てられているのではないか。
 こんな疑問は、たぶん識者なら即答できるのだろうと思う。ネットのどこかにその即答があるのかもしれない。ただ、私にはわからなかった。
 話をここで一般化する。
 居住環境に自然災害のハザードがあるなら、なぜ日本人は堅牢な集合住宅を形成しないのだろうか? 
 なぜ日本人は、火災があれば一気に燃え広がるような住宅を密集させているのだろうか?
 堅固な集合住宅からコンパクトシティを設計していこう、という発想なぜ出てこないのだろうか。いや、そんなの当然出ているけど、現状こうなっている、ということなのか。
 これも微妙に不動産市場の動向がこのマッチ箱みたいな家屋の密集と関連しているようには思える。
 さらに話題を一般化する。
 この問題に対応するのが政治というものなのではないだろうか。つまり、政治を必要とする生活上の問題があり、それが自然災害として顕在化しているのだから、政治がきちんと問われるべきなのではないか。
 ところが、現在日本で政治として問われているのは、安倍内閣が右傾化しているとかいうイデオロギー問題ばかりに思える。なぜかそこに焦点化されている。
 と、書きながら、少し一般化しすぎたなと思う。
 心のひっかかりをさらに覗いて再び、70余人の死者を思う。すると、自分でも不思議なのだが、誰がこの死者を追悼するのだろうかという疑問が沸いてきた。
 私は、国家による死者の追悼といったものにはあまり関心を持たない人なのに、なぜここでこの災害者の追悼の思いがわき上がるのだろうか。
 とりあえず、ということで、言葉にしてみると、それがあるべきコミュニティの機能だからではないか。
 国家というイデオロギーを巻き込む政治の文脈で追悼が置かれることと、地域という生活空間の大量死への追悼は意味合いが違うように思う。
 今回の自然災害で、そのコミュニティを追悼できる立場に私はないとも思うし、私の立場があるとすれば日本の市民ということだけだ。いったん国家を迂回する。
 それでも、どこかで上手に国家を迂回させずに、コミュニティ間で追悼のような共感を繋げて、新しい市民生活の空間を形成する原理の構築は可能なのではないか。そう考えている。そうした追悼の共感は、新しいコミュニティの倫理的な基盤にもなるように思える。
 
 

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2014.09.17

ヘルベチカの語源を知ってますか?

 全国の、おちいさいみなさん、ごきげんよう。雪の降る世は愉しいベチカ、ベチカ燃えろよ、ヘルベチカ。ごろが悪いです。洒落になっていません。蝉の音がやんだばかりの季節にもあっていません。ところで話題はこうです。ヘルベチカの語源を知ってますか?
 ヘルベチカというのは、私は、このフォント(書体)というかタイプフェースの名前だと思っていました。

 誤報です。
 これは、ヘルベチカ(Helvetica)ではありません。エイリアル(Arial)です。アライアルとかアリエルって読むんじゃねーぞ。とかふかしてみたいわけですが、実際にはArial読み方はスコットランド以外では決まってないみたいです。でもま、これ"aerial"の駄洒落なんで、エイリアルでいいかと。
 なぜ、Helveticaの話題にArialを持ち出したかというと、この記事を書いているマシンはWindowsなので、Helveticaは入っていないからです。Macには入っています。簡単にいうと、Windowsの世界だと、Helveticaの代わりにArialでいいじゃんということになっているのでとりあえず、洒落にしたまでです。Arialの詳しい話はこちらへ(参照)。
 で、MacにHelveticaが入っているとは言っても、TrueType。でも商用にはPostScriptなんで、これが別途売っているというか、それ自体がかつて話題になりました。

 というようなことは知っていたのに、がっちょーん、Helveticaの語源を今日たまたま知って、自分の無知さかげんに呆れて、これはブログのネタにいいやと思ったまでのことです。誰にも知識の盲点みたいなものはあるもんです。例えば「カニバリズム(cannibalism)」を「カーニバル(carnival)」としていても生暖かく見守ってあげてください。
 して、そのHelveticaの語源ですが、語源も糞もなくて、そのまま意味が「スイス」でした。永世中立国とか言われている国のスイスです。
 このところドイツ語勉強しています。スイスも一部ドイツ語圏で、スイス・ドイツ語として、ドイツのドイツ語とも馴染み深いです。では、ドイツ語でスイスのことをなんていうか? 最近知りました。Schweizといいます。シュバイツです。
 ドイツ語で「スイス人」はというと、Schweizerといいます。シュバイツアーですね。
 え? じゃあ、人道家として有名なシュバイツアーさんはスイス人なのかというと、アルザス人です。
 正式には、スイスの国名は、"Schweizerische Eidgenossenschaft"です。
 でも、今朝、あれれ、スイスって公用語はドイツ語の他にフランス語もあるよな、すると、Suisseじゃない正式名があるな、と調べたら、"Confédération Suisse"でした。「スイス連邦」ですからね。
 そこで、さらに発見、イタリア語での正式名もありました。"Confederazione Svizzera"です。国境も接しているし、なによりバチカンを守るのもスイス兵だし。これですね。

 というあたりで、さらに発見。スイスのラテン語の正式名がありました!

Confoederatio
Helvetica

 つまり、Helveticaって、正式にスイスのことでした。知らなかったぁ。
 さらに知らなかったのが、スイス・ドメインの".ch"がこのラテン語国名の略語だったことです。
 もともとは、このあたりの地名のローマでの呼称「ヘルヴェティア」だったらしいです。
 ではなんで、いまだにスイスが正式に「ヘルベチア」を残しているかというと、ヴァチカンとの関わりとかもあるようですが、中立国として、独仏語に偏らないためみたいです。
 これで今日のお話はおしまいです。ごきげんよう。
 

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2014.09.16

[書評]ツタンカーメン 死後の不思議な物語(ジョー・マーチャント)

 奇妙なという表現も適切ではないが、なんとも不思議な読後感を残す本がある。なんというのだろうか、その視点に立つと現前の風景やメディアを通して見る映像が微妙に揺らぎ出す。『ツタンカーメン 死後の不思議な物語(ジョー・マーチャント)』(参照)の読後、そうした感覚を持った。

cover
ツタンカーメン 死後の奇妙な物語
 書籍は、帯に「最新DNA鑑定は3000歳のミイラをどこまで解明したか」とあるように、古代エジプト学の科学的探求について、総合的な意味合いから最新の知見が披露されている。ツタンカーメンを巡る各種の珍説はきれいに批判されていると言ってもよい。本書はいわば「破邪」の書ともいえるだろう。
 あるいはもっと素直に、ツタンカーメンと限らず、古代エジプト学について関心のある人や、『ツタンカーメン展 黄金の秘宝と少年王の真実』などを楽しまれた人には、必読書としてもよいだろう。
 一般の読者からすると、悪い意味ではないがそこは少しずれる。不思議な違和感が残るだろうし、その違和感のありかたに、筆者の独自の思い入れが感じらる。そこをどう言い表してよいかもどかしい。まあ、読んでみてくださいとしか言えないものかもしれない。
 私の読書の焦点がその違和感に置かれたせいもあるかもしれないが、ナショナル・ジオグラフィックなどで著名な考古学者ザヒ・ハワス博士らが主導する「エジプト考古学」的なありかたへの疑念は共感した。
 少し勇み足な言い方をすれば、古代ロマンと限らず学問に仮託されたロマン、あるいは科学を道具にしつらえた正義などもそうかもしれないが、それらに本質的に関わる科学というものの問題点が謙虚にかつ描かれている。
 著者にとってもそこは執筆の動機でもあったようだ。著者は、ハワス博士らによるアメリカ医師会ジャーナル(JAMA)論文に関する、興味深い5通の投書に出会ったという。それらは、JAMA論文を否定していた。しかもそれぞれに専門家としての否定であった。著者は、遺伝子学の博士号を持っていることからも、その否定の内実に向き合っていった。
 しかしこの書籍では、その問題の焦点にパラシュート降下はしていない。一般的な読者を対象に、ツタンカーメン発見に至るエジプト考古学の歴史を、1881年から紐解くことになる。その探求自体が興味深い歴史である。
 さらに本書はその探求の背後で、多数の人々が寄せる古代ロマンの情感についても上手に掬い上げていく。この描出の手法こそ著者が前作『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』(参照)でも見せた特質だったなと安堵感も感じられる。
 私にとって本書の圧巻は、各種ツタンカーメンの真実よりも、著者の専攻であるDNA学に関連する部分だった。概要的には知っていたが、「DNAが汚染される」ということの意味合いについての解説は非常にためになった。
 私たちは、つい、科学に神のような真実性を期待しがちだし、その枠組みのなかでDNAという熟語がよく現れるが、純粋に科学的な熟語がどのように社会的関心に翻案されるかというようすが、本書では詳しく吟味され、そこで私たちがどう間違いやすいかがわかってくる。
 こうしたことは科学的知識と限らないかもしれない。知識とはそれ自体、扱いの難しいものだ。インターネットが興隆してから、わからないことがあれば「ググレ」(Googleで検索せよ)と言われる世相になった。
 しかし、本書を読んでしみじみ思うのは、本書に示された内容は、おそらくGoogleでは検索できないことだ。あるいは、いつかの断片を上手に統合すれば本書のような見解に達するかもしれないが、それが可能になるのは、本書の思索があってのことだ。
 ネットに溢れる大衆的な知識やあるいは科学的だと称させる知識、そうした知識は検索すれば集まる。だが慎重な思索の過程は検索できない。当たり前のことだが、その当たり前は、書籍でしか提示できないものだろうか。原理的にはそうではないのかもしれない。それでも、こうした思索過程を示す書籍を読むと、なんとも奇妙な思いに駆られる。
 個人的には、読みながらツタンカーメン・マスクが懐かしいなという思いもしていた。私はツタンカーメン・マスクを20分くらいだったろうか、ただ一人見とれていたことがあった。
 トランジットでカイロに立ち寄ったらアテネ便まで数時間も待つというので、カイロの博物館に行った。そのころもテロ事件で観光客が激減していた。だが私は空港で読んだ英字紙に、軍が出動して治安は確保されているというのを読んだので、意外に穴場かなと出かけていったのだった。本当にがら空きだった。
 本書では、エジプトでのいわゆる「アラブの春」とそれが世界の古代史にもたらす言及もある。あの博物館を思い出すと、今はどうなっているだろうかと不安にもなる。
 
 

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2014.09.15

なぜ従順に殺害されてしまったのだろうか

 イスラム教過激派組織ISIS(イラク・シリア・イスラム国)が、人道支援団体メンバーのスコットランド人デービッド・ヘインズ(David Haines)さんを殺害した。13日の報道である。首をナイフで切断するという残酷な殺害である。同種の殺害として3人目になる。
 一人目は、8月19日、米国人ジャーナリストのジェームズ・フォーリー(James Foley)さん、二人目は、9月2日米国人ジャーナリストのスティーブン・ソトロフ(Steven Sotloff)さんである。
 私はフォーリーさんが殺害されたおり、残酷性が弱められたとされる動画をたまたまネットで見た。実際の殺害シーンはボカされていた。断頭後の死体も見なかった。あの動画はあくまで処理されたものだろうと私は思っていた。
 その後、「あれは本当に処刑の映像なのか」という疑問を投げかける報道を見かけた。もしかすると私が見た映像はISISが流した映像そのものであったのかもしれない。つまり最初から残酷性は弱められるように処理されていた映像だったのだろうか。
 疑問を解明したいとは思わなかった。リアルに首を切り裂いて殺害されるようすを見たいとは思わなかったからだ。
 あとの二人についても同様である。なんとなく、海外報道が取り上げる一部の映像を見ただけだった。
 私は、ある衝撃的な映像報道がなされたとき、当然持つべきはずの印象とは別の印象を持つことがある。疑問と言ってもよい。映像が想定する印象を多くの人が想定どおりに抱いて感情的になっているとき、そこからずれて、些細なことに、なぜなんだろうかと一人考え込んでしまう。
 今回の事態で思ったことは、殺害者はなんでオレンジ色の服を着せられているのか、ということだった。なにか特別な意味があるのだろうか?
 自分なりに調べてみたが、わからなかった。すごく基本的なことで、こんなことも私はわからないのかというような知識が背景にあるように思えたが、わからないものはわからない。報道では、"orange jumpsuit"(オレンジ色のつなぎ服)と表現されていることが多いが、あれはつなぎ服ではない。
 いや、そうじゃない。最初の殺害映像でわかっていたともいえる。囚人服である。グアンタナモ湾収容キャンプの囚人はオレンジ色のつなぎ服を着せられていた。また、米国では"Orange Is the New Black"というドラマがあるが、ここでいう「オレンジ」は囚人服のことである。
 これはさらなる困惑を私に引き起こした。ISISがやっていることは米国民にわかりやすいビジュアル表現としてオレンジ色の囚人服を着せている、ということのだろうか? すると、ISISの行動というのは、広義にアメリカ文化なのだろうか。
 かくしてわからない。しかし、それはもしかすると些細なことかもしれない。
 もう一つの疑問は、なぜ従順に殺害されてしまったのだろうか、ということだった。
 どうせ殺されるのである。頭突きでも歯で噛みつくでもなんでもして殺害者にわずかな痛みくらい与えて死んでもいいのではないか。あるいはあらん限りの呪いの言葉を残して死ぬことはなかったのだろうか。サムソンのように。


サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。

 いや、状況はそうじゃないのだろう。これは断頭台に立つ人とは違う。最後の自由は実際には与えられていないのだ。
 自分が彼らの立場に立ったとき、どうするだろうか。
 自分が愛する人に、自分の死の真相と、最後の姿を伝えたいと思うのではないだろうか。
 おそらくそうだろう。確信はないが。
 あるいはこうしたとき、欧米文化でのなにか基本的な対応というのもあるのかもしれない。
 もしかすると、最後のあがきをした人間が他にいたかもしれないが、ただ殺されて闇に消え、映像として使えるのがこの三人だったということかもしれない。
 もう暫く考える。
 三人の死は、死の威厳というものかもしれないと思う。最期に愛を伝えることができる確信が私には感じ取れたから。
 彼らにはその処刑の理由はない。彼らは無罪である。無罪であるものに死を与えることは不正義である。
 彼らは不正義を、静かに最後に、威厳をもって、訴えていた。
 
 

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2014.09.14

歴代天皇名とか中二病でつい暗記してしまうもの

 最近はどうかなあ。僕が中学生くらいのころは、クラスの一人か二人、歴代天皇名が全部言える!とか言って、ぶつぶつ言っているのがいた。知ってますか? こんな感じ。あってるかな。


神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀応神仁徳履中反正允恭安康雄略清寧顕宗仁賢武烈継体安閑宣化欽明敏達用明崇峻推古舒明皇極孝徳斉明天智弘文天武持統文武元明元正聖武孝謙淳仁称徳光仁桓武平城嵯峨淳和仁明文徳清和陽成光孝宇多醍醐朱雀村上冷泉円融花山一条三条後一条後朱雀後冷泉後三条白河堀河鳥羽崇徳近衛後白河二条六条高倉安徳後鳥羽土御門順徳仲恭後堀河四条後嵯峨後深草亀山後宇多伏見後伏見後二条花園後醍醐後村上長慶後亀山後小松称光後花園後土御門後柏原後奈良正親町後陽成後水尾明正後光明後西霊元東山中御門桜町桃園後桜町後桃園光格仁孝孝明明治大正昭和今上

 僕が子どものころは、戦中これを暗記させられた大人たちがけっこういて、たまに洒落でご披露してくれた。たぶん、これ暗記していて友人もそういう親戚とかいたんじゃないだろうか。
 ところで、これ279文字。僕が無駄に覚えた般若心経とほとんど文字数同じ。
 区切りがないと読みづらいので、中点で区切ってみる。

神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・弘文・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・白河・堀河・鳥羽・崇徳・近衛・後白河・二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽・土御門・順徳・仲恭・後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐・後村上・長慶・後亀山・後小松・称光・後花園・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成・後水尾・明正・後光明・後西・霊元・東山・中御門・桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・仁孝・孝明・明治・大正・昭和・今上

 可読性があがって、それなりに、ああ、こいつなあ(不敬!)とか思う天皇が幾人かいる。個人的には若い頃、日本の古代史に関心をもったので、「崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・弘文・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武」あたりはそれぞれキャラが浮かぶ。
cover
天上の虹(22)
 ふと連想で、「天上の虹」はどうなったかなと調べてみたら、えええ!まだ完結してなかったのかよ!で、次巻で完結!いつその次巻?
 話戻して。
 この歴代だが、「今上」というところが、ちょっと感慨深い。僕が中学生のころは「大正」の次にこのEOFマーカーがあったはず。
 こういうこと知らない世代も増えたのかもしれないけど、この歴代天皇名というのは、諡号と言って一種の戒名みたいなもんで死んでからおくったものだから、今の天皇を「平成天皇」とか言っちゃだめなんですよ。ちなみに、天武天皇は生前からそのように名乗っていたらしい、ほかにも後醍醐もそうかもしれない。ただ、後醍醐は「後醍醐天皇」と言っていたわけでもないとは思うけど。
 時代というとあれかな、こういう話すると、それだけで右翼みたいに思われる時代になってしまったようにも思うけど、この歴代天皇というのは、実は日本の伝統でも天皇制というものでなく、極めて基本近代国家の産物。
 別の言い方をすると、「歴代天皇の順番はこういうふうにしろ」というイデオロギーの産物で、だから、そういうイデオロギーがないと困ちゃうなぁ(山本リンダ)ということだった。実質できたのは、大正時代に入ってから。天皇というのをこう考えるというのは、だいたい百年くらいの歴史しかない。
 史実的には大逆事件で幸徳秋水が、やけくそ紛れであったかもしれないが、南朝の天皇を殺害した北朝の天皇の裔を殺害するのは大罪か、とかぶち上げて、これで国論が沸騰したことがあった。日本人って実質的な意味のないものについ沸騰しちゃうよね、というか、どの国民でもそういうものか。
 現在の天皇家は北朝だが、明治維新のイデオロギーは南朝正統論で、矛盾があった。秋水が処刑されたのが明治44年のことで、実は、明治時代中、歴代天皇名は確立していなかった。皇統譜がなかったわけでもないが。このごたごたを経て、結局、北朝の裔の明治天皇が南朝を正統するということでいちおう話がまとまった。
 どういうことかというと、「後醍醐」から「後小松」の北朝側の5人の天皇がこの天皇名から削除されてしまった。

現状:後醍醐・後村上・長慶・後亀山・後小松

北朝:後醍醐・光厳・光明・崇光・後光厳・後円融・後小松

 「後小松」の北朝の子孫が現行の天皇家になる。後小松は一休さんのお父さんでもあるらしい。
 南朝の「後亀山」の後はどうなっているかというと、後亀山天皇には小倉宮恒敦というお子さんがいて、彼が南朝の天皇と称したかは不明。明治時代の終わりになって、三種の神器がない南朝系の天皇は自称ということになった。自称芸術家みたいなもんか。違うか。
 この三種の神器によって正統とするというのはまた別の議論を引き起こす。立ち入らない。
 このエントリは、中二病でつい暗記してしまうものとして、その他のくだらないものを挙げていこうかと思っていたが、ちょっと史実の確認していて手間取った。
 天皇家の話については、オタクな人が多いので、いろいろ議論があるかと思う。それなりにけっこう沸騰する話題でもある。私としては、この手のものは、中二病でつい暗記してしまうものの一例くらいに思っている。
 
 

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2014.09.13

[書評]アルケミスト―夢を旅した少年 (パウロ・コエーリョ)

 なんか子ども向けのわくわくするような冒険譚みたいなものが読みたいなと思ったら「前兆」があったので『アルケミスト―夢を旅した少年』を読んだ。


羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて。長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越えて少年はピラミッドを目指す。「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」「前兆に従うこと」少年は、錬金術師の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の知恵を学んで行く。欧米をはじめ世界中でベストセラーとなった夢と勇気の物語。

 そういうお話。よく売れた。
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アルケミスト
夢を旅した少年
 現在では文庫本になっているんだな。しかも角川文庫かあ。実は、これが話題のころ勧められたものの、なんとなく読むのを逸していたのだった。
 訳者を見ると山川紘矢・山川亜希子。この訳書が出るまえだったけど、とあるホームパーティでお目にかかったことがある。まあ、そのぉ……パーティのみなさんはチャネリングとかで盛り上がっていましたね。あの時代。
 この『アルケミスト』の翻訳だが、見たら、原典のポルトガル語からではなく、英訳本からの重訳だった。ちょっと落胆した。それでも英語版も原作者の確認が入っているようだし、そう違うものでもないんだろう。
 読んでみて、どうだったか。
 普通に面白かった。もっと、わくわくするような冒険がよかったけどなあと思った。
 人形劇にすると面白いかなとも思った。映画でもいいだろう。ちょっと探してみると、映画っぽい映像があるが、実際に映画化されたのだろうか。映画あったら見てみたい。


 書籍のほうは文字の媒体ということもあって、『かもめのジョナサン』じゃないけど、いちいち神秘的な教訓に満ちていて、うざいなあとも思った。
 ちなみに、カモメ本だけど、完全版(参照)が最近、出たのかあ。五木寛之も長生きしてよかったなあ、というか石原慎太郎と同年(そして同じ生年月日)だから、まだまだお元気。ちなみのちなみ、この本は大学のとき翻訳の授業の課題でネイティブとグループで読んで、えええ?米人はそう読むわけと驚いたことがある。

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シッダールタ
(新潮文庫)
 『アルケミスト』に対しては、ちょっとうざいと思いつつも、しかし、とも思った。
 私が高校生の時に読んでえらく感動したヘッセの『シッダールタ』(参照)もそんなものかなと思い出したのである。こっちのほうは、ちょっとエロいとこもあっていいかなと。
 いずれにせよ、この『アルケミスト』、中学生とか高校生だとなんかラインマーカー引いて覚えたくなるような、知恵がいろいろ書いてはある。
 心についての話なんかはとくに気に入った。

「それなら、なぜ、僕の心に耳を傾けなければならないのですか?」
「なぜならば、心を黙らせることはできないからだ。たとえおまえが心の言うことを聞かなかった振りをしても、それはおまえの中にいて、おまえが人生や世界をどう考えているか、くり返し言い続けるものだ」
「たとえば、僕に反逆したとしても、聞かなくてはならないのですか?」
「反逆とは、思いがけずやって来るものだ。もしおまえが自分の心をよく知っていれば、心はお前に反逆することはできない。なぜならば、おまえは心の夢と望みを知り、それにどう対処すればいいか、知っているからだ。

 自分の心が自分に反逆することがある。それはあるものだなと思う。
 あれです、カスタネダっぽい印象もあり、実際、カスタネダのまんまの部分もありそうには思えた。ただ、じゃあ、そういう基調の本かというと、おそらくこの物語は創世記のヨセフ物語をベースに作成されているのだろう。べたでないにせよ。その意味では、ヨセフ物語的なものを現代風にアレンジするとこういうなるのかもしれない。
 物語中、自分的に一番感動したのは、これ。

 明日、おまえのらくだを売って、馬を買いなさい。らくだは裏切る動物だ。彼らは何千歩も歩いても疲れを見せない。そして突然ひざまずくと、死んでしまう。しかし、馬は少しずつ疲れていく。だからおまえはいつも、どれだけ歩かせてよいか。いつ馬が死ぬ時か、わかるのだ。

 ほんとかなあとも思う。しかし、人類とラクダのつながりは深いものだろうなと、改めて思ったのである。特に日本人だと、ラクダというのの感覚がよくわからないからなあ。ちなみに僕は乗ったことあるけど。
 『アルケミスト』、読むのを勧めるか。特に若い人に。というと、どうだろ。微妙な感じがした。悪いとも思わないので、気になったら読んでみるといいとは言える。そして人によってはとても感動的な本だろう。
 僕なんかがいかんのかなと思うけど、僕なんかだと、この物語の、批判というか否定的に見られている老いた人間の側になってしまったのか、どんなことがあっても不屈の精神で夢を貫く若者というのには、あまり肯定できない。
 ただ、思ったなあ、世界の多くの若者がこの本、読んで、まじで不屈の精神でいろんな夢を叶えてはいくんだろうな、とは。
 
 

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2014.09.12

スコットランド! フリーダーム! SCOOOOTLAND FREEDOOOM!

 9月18日に独立の是非を巡ってスコットランドで住民投票が実施される。目下、独立賛成派が急進してきたようにも見えるので、いろいろと話題になっている。
 これにはいろんな議論があるが、私は、スコットランドの独立はないだろうと見ている。理由はスコットランド社会が緩やかな変化を求めるだろうと思うからだ。逆にいえば、今後は緩やかに独立していくだろうし、日本などから見ると、すでにかなり独立している。
 もう一つ理由がある。たわいない理由だが、もしかすると、重要な理由かもしれないと思うのは、スコットランド人の自虐ユーモアセンスである。それが示す豊かな心がよい選択をするだろうと期待する。
 ネットとかでいろんな他者からの反応に接して思うのだけど、「テラワロスw」みたいに侮蔑の笑いを投げかける人は、どっか心が病んでいるように思える。じゃあ、健康な心はなにか、というと、きちんと自虐ギャグで笑えることじゃないかな。そういう自虐ギャグのセンスがない人は、とても怖いと思う。
 で、これ。スコティッシュな自虐ギャグ。スコットランド独立が自虐ギャグネタなのな。
 有名なので知っている人も多いかと思う。ほんと、おなかが痛くなるほどおかい。それでいて高度に知的でもある。
 当然だがなかなか聞き取れない部分もあるので、違っているかもしれないけど、できるだけ書き起こしと、試訳を添えてみた。そのあとでこれに日本語字幕つけているのを見つけたので、あとでそれも紹介する。最初は発音に注意してそのまま見たほうがいいと思う。「ラフト」って聞こえるのは、"Lift"でエレベーターのこと。英国英語だとこう言う。

A: Where's the buttons? ボタンはどこ?

B: No, no they've installed voice recognition technology in this lift. I heard about it.
ないよ。このエレベータは音声認識装置が装備だってさ。

A: Voice recognition technology? In a lift? In Scotland? Ever tried voice recognition technology?
音声認識技術? エレベーターに? スコットランドで? 使ったことある?

B: No.
いや。

A: They don't do Scotish accents.
スコットランドなまりだと、だめだな。

B: Eleven.

L: Could you please repeat that?
繰り返してください。

A: Eleven.
B: Eleven, Eleven.
A: Eleven.
L: Could you please repeat that?
B: E-le-ven.

A: Whose idea was this? You need to try an American accent. Eleven, Eleven.
これ考えたの誰? アメリカ風に言ってみたら? 11,11。

B: That sounds Irish, no' American.
それ、アイルランドなまりじゃん。アメリカ風じゃないよ。

A: No, doesnae. Eleven.
そう?

B: Where in America is that, Dublin?
どこのアメリカ? ダブリン?

L: I'm sorry. Could you please repeat that?
申し訳ございません。繰り返してください。

B: Try an English accent, right? Eleven, Eleven
英国風ならどうかな。11, 11。

A: You are from the same part of England as Dick Van Dyke!
君はディック・バン・ダイクみたいにイングランドの出身なんだね。

B: Let's hear yours then, smartarse.
じゃあ、お前やれよ。上から目線野郎。

L: Please speak slowly and clearly
ゆっくりとはっきりお話しください。

B: Smartarse
上から目線野郎。

A: E-le-ven.
L: I'm sorry. Could you please repeat that?
A: Eleven. If you don't understand the lingo, away back home yer own country.
11。この言葉わかんないなら、てめえの国に帰れ。

B: Oh, It is that talk now, is it? Away back to yer own country.
おーおーお、なんて話してんだ、てめえの国に帰れだと。

A: Oh, don't start Mr Bleeding Heart - how can ye be racist to a lift?
お涙頂戴ってか? エレベータに向かって人種差別主義者になるわけないだろ。

L: Please speak slowly and clearly.
B: Eleven, Eleven, Eleven, Eleven.

A: You are just saying it the same way.
君が言っているのはさっきから同じだぞ。

B: I'm gonna keep saying it until it understands Scotish, alright?
こいつがスコットランドなまり覚えるまで言ってやるんだよ。

B: Eleven, Eleven, Eleven, Eleven.
A: Oh, just take us anywhere, ye cow. Just open the doors.
どっかへ連れてけ、このまぬけ。ドアを開けろ。

L: This is a voice-activated elevator. Please state which floor you would like to go to in a clear and calm manner.
これは言葉で動くエレベーターです。行き先階をはっきりと落ち着いておっしゃってください。

A: Calm? Calm? Where's that coming from? Why is it telling people to be calm?
落ち着け? こいつどっから来たんだ? なんで人に向かって落ち着けだと。

B: Because they knew they'd be selling this to Scotish people who'd be going off their nuts at it.
だって、この手ものにかっとくるスコットランド人にこんなもの売りつけたんだからな。

L: You have not selected a floor.
行き先階がお選びになっていません。

B: Aye, we have. ELEVEN!
選んでるだろ。11。

L: If you would like to get out of the elevator without selecting a floor, simply say “Open the doors please”
エレベータからお降りのときはそのまま「お願いですから、ドアをあけてください」と言うだけでけっこうです。

A: Please? Please suck ma wullie.
お願いですから? お願いですから、ちんこしゃぶれ。

B: Maybe we should have said please.
俺たち「お願い」ってするべきじゃないの。

A: I'm no begging that for nothing.
あんなのにお願いするのかよ。

B: Open the doors please.
ドアを開けてください、お願いですから。

A: Please. Pathetic.
「お願いですから」 惨めにな。

L: Please remain calm.
お静かにお願いします。

B: Oh gu wud ye let me up to that, get me up there, right, just wait for it to speak.
うぉお、俺を持ち上げてくれ、いいかあ、こいつが話すまで待て。

L: You have not selected a floor.
お客様はまだ行き先階をお選びになっていません。

B: Up yours, ye cow! You don't let us out these doors, I'm gonnae come to America, I'm gonna find whatever desperate actress gave yer voice, and I'm gonnae go to the electric chair for ye.
上のバカやろう。ドアを開けないならアメリカに行って、なんとしてもお前に吹き込んだヤケクソ女優を見つけ出し、お前のために電気椅子に座らせてやる。

A: Scotland, ye bastards.
スコットランド、この厄介者

B: SCOTLAND!
A: SCOTLAND!
B: SCOOOOTLAND!
A: FREEDOM!
B: FREEDOM!
A: FREEDOOOM!
A: Goin' up?
上、行きますか?


 すごくばかげたギャグなんだけど、きちんと人種差別発言のラインがどの辺にあるのか教えてくれていたりする。こういうセンスっていうのは、日本のお笑いにはないんじゃないかな。
 途中、ディック・バン・ダイクのネタが出てくるのだけど、これは彼が「映画のなまりのワースト10」の第二位で、米国人俳優の下手な英国英語とされているためだ(参照)。

 で、先ほど言ったけど、これに字幕付けている人がいた。字幕で見ちゃうと、わかりやすい反面、発音への関心がちょっと反れる。


 
 

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2014.09.11

拝啓 色川先生(NHK BSプレミアムドラマ)

 テレビレコーダーの未試聴リストを見ていたら、NHK BSプレミアムプレミアムドラマでこの3月に放映された『拝啓 色川先生』が入っていたので、へえと思って見た。
 もちろん、録画予約をしたのは私なので少し記憶があるが、ほとんど忘れていた。表題に色川先生とあるくらいなので、このドラマだと色川武大をどう描くかなという関心もあった、開けてみると原作は伊集院静『いねむり先生』(参照)だったので、少し驚いた。
 驚いた理由は、昨日書いた「いねむり先生 [DVD](出演。藤原竜也・西田敏行): 極東ブログ」(参照)と原作が同じだったからというより、同じ時期に同じテーマを民放とNHKでやったのかという点だった。調べてみると、民放のほうは2013年9月、NHKは2014年3月なので、半年の差はある。民放が先だが、この間隔だとNHKは民放を見てからの企画ということでもないだろう。
 視聴後の全体の感想を先に述べておくと、こちらの作品も面白かった。率直にいって、同じ原作なのか、どっちが原作に近いのかよくわからないという印象もあった。こちらのNHKドラマのほうはDVDなどで販売はされてなく、また地上派で放映されたふうでもないので、いずれ地上派で再放送するのではないだろうか。関心のあるかたは見る価値がある。
 少し調べてみると、原作では主人公は伊集院静をモデルとしているものの「サブロー」であって伊集院静その人ではない。だが、NHKのほうでははっきりと、伊集院静としていた。ドキュメンタリー仕立てにしているのである。ただ、「黒金ヒロシ」という名前は明確には出てこなかったと思う。
 色川は國村隼が演じていた。國村隼と言ってもピンとこない人もいるかと思うが、見れば、あの渋い役者さんだとわかるだろう。けっこうなおっさんに見えるが、年はと調べてみると、私より二つ上。この物語の色川を演じるにぴったりの年齢というところだ。渋さのなかに微妙な色気とイノセンシーを感じさせる演技が上手だし、この作品ではその特性を上手に活かしていた。なるほど、色川が女にモテるのはこれだよなという部分である。
 反面、色川が持つ恐ろしい部分については、率直に言ってうまく演じられているふうではなかったし、脚本的にもそういう面は強調されていなかった。私の色川への思い入れが少し勝ってしまった。
 ついでのような言い方になるが、伊集院静を演じる村上淳だが、悪くない。悪くないだけよいと言ってよい。微妙な軽さはそれでよいのかもしれないが、印象はその分、薄い。
 ドキュメンタリー風のドラマではあるが、映像の作りはどちらかというと映画に近い。決定的なことを言うと、この作品こそ二時間枠できちんと作るべきだっただろう。ところどころ、ドキュメンタリー的な趣向で時間を省いていて、そこが奇妙に浮き立ってしまっている。
 特に夏目雅子は、イメージとしては描かれているが、役者としては登場しない。そもそもそういう作品なのだと言えないことはないが、ちょっと無理がある。このドラマでは夏目を描く代わりに、彼らの恋愛が当時どんなにスキャンダルだったかということを表すために、当時の週刊誌のページをいかにもドキュメンタリーふうに画面に並べて映した。ああ、そうだったなあという思い出も蘇るが、この表現手法はちょっとずるい。
 同原作でも民放作品とは、テーマすら違うように思えた。民放のほうでは、伊集院静扮する主人公の、妻への愛と罪責の苦しみから逃れるというのがテーマだが、NHKでは、妻への罪責はあるにせよ自身のやりきれないような駄目さかげと創作者の存在はどうあるべきかということがテーマとなっていた。この後者の創作者・小説家はなぜ生きているのかというところで、色川武大とつながるように作成されていて、その点では、きれいに出来た脚本だった。
 ドキュメンタリー仕立てのせいか、冒頭いきなり、64歳の伊集院静が登場した。ぼそぼそと近況と作家の本質のようなことを語るのだが、背景には東北大震災への思いが滲んでいるようだった。
 彼は小声でどっこいしょと椅子に座り、さりげなく、妻のことを語っていた。「家内の体調悪かったんで」と。「家内」は篠ひろ子である。当時のことを思い出すと、ああこの色男また女優か、と思ったものだったが、1992年だったか。彼らの年齢を見ると、伊集院が42歳、篠ひろ子が二つ年上なので44歳だった。いつ頃からの関係だったか、伊集院が小説家として盛り返したころからなのか、もっと深い過去があるのかよくわからないが、ありそうな印象はある。
 伊集院静と篠ひろ子の再婚では、いろいろ人生を経た大人の恋愛として祝福する気持ちと、長くは続かないよという思いと二つあった。が、お二人連れ添ってもう20年以上。それだけで人間というものだなあという実感がある。
 繰り返しになるが、やはり1時間でまとめるために、かなりきれいにまとめているが、そもそもきれいに整えてしまうには無理のあるテーマだった。そのあたりは脚本家や演出にも理解されていてるだろうというのは、モロ師岡の役回りなど本筋から離れる部分が面白かった。
 同じ原作で二作見てしまったせいか、どうしても隔靴掻痒感は残る。作品の出来不出来とは別に、こーじゃないんだと思う。夏目雅子っていうのはこーじゃない、色川武大はこーじゃないと、つい思ってしまう。
 
 

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2014.09.10

いねむり先生 [DVD](出演。藤原竜也・西田敏行)

 気になっていたがなんとなく見忘れていて、いまごろなんとなく見た。「いねむり先生」(参照)として表題にある「先生」は色川武大である。別ペンネームの阿佐田哲也と言ってもいいかもしれない。

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いねむり先生 [DVD]
 物語は、作家・伊集院静が妻・夏目雅子を失った苦しみのなかで、色川に出会い、そのなかで魂が救われていくという物語である。
 普通に感動的だと言ってよいし、色川という人間というか巨大な魂の姿が、伊集院を通してよく描けていると思う。といいつつ、原作『いねむり先生』(参照)は未読。理由は、伊集院静になんとなく抵抗感があるからだ。いやなんとなくというより、夏目との関係で、若い女に手を出すおっさんというのはいやだなあと思っていた。夏目は私と同い年なので、そういう思いが強い。
 映像作品としてよく出来ていたと思う。民放ドラマがベースになっているが(参照)、そこで可能な線をぎりぎりなところまで表現の可能性をひっぱっていた。映画との差はというと、難しいが、旅先で描かれる地方の風景は美しかった。
 この物語は、色川に魅了された人とそうではない人にとっては、見え方がどうしても変わってしまうだろうと思う。色川を演じた西田敏行は好演だったと思うし、他にこの役者にやらせたいというのがなんとなく思いつかない。だが、諸所、これは色川ではないなと思った。伊集院(作品ではサブロー)を演じる藤原竜也も好演だったと思う。というか、私の伊集院への抵抗感をうまく払拭する若々しさがよかったし、先生への愛情の演技もとてもよかった。
 この作品では終盤までにところどころに思い出としての夏目(作品ではマサコ)の映像が出てくる。物語でも、サブローがマサコ主演の映画ポスターを見てショックを受けるシーンがあるが、実は私も、マサコの病床シーンを見ながら、ぐぐっと胸に痛いものを感じていた。
 私は夏目のファンというほどではないが、27歳で突然ぷつんと糸を切られたような人生をどう受け止めてよいのか、また彼女を「さらっていった」かに見えた結婚のありかたに違和感を感じていた。
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夏目雅子
メモリアルブック
 改めて夏目雅子を思い出し、うまく言えないのだが、とんでもない女優だったなと思った。演じてる波瑠という女優さんがときおりよく夏目に似ているように錯覚し、そう思うほどに、いやこれは違うと頭のなかで繰り返す。波瑠さんがどうというわけではないが、夏目はなにか圧倒的な女優だった。死んでしまったからかもしれないが、ただの美人というではない、こんな人間いるのか?と思わせるものがあった。どこか神聖な印象もあり、なるほど三蔵法師が似合うなとも思い出した。色川にしても夏目にしても、どこかしら、この世ならざる存在で、なんとももどかしい感じがする。
 物語で知ったのだが、伊集院と夏目との付き合いは7年ということだった。ということは、夏目が20歳ごろから、この中年おっさんの毒牙にかかっていたのかと、つい思ってしまうが、それは私も当時は若かったからで、伊集院もそのころはまだ20代だったわけだ。10歳以上も年上のおっさんというイメージだったが、そうでもなかったのだな。
 文芸界というか著名人の交流というのにはあまり関心をもたないせいか知らないでいたが、物語に黒鉄ヒロシや井上陽水が出てくるのも面白かった。時代だなあ。もう何年になるかと思い出して夏目雅子の没年1985年を思うと、もうあれから30年経っている、というか、彼女、俺と同い年だしなあ。生きていたら、56歳かあ。
 色川が亡くなったのは1989年。60歳だった。そしてその頃、伊集院は39歳。まだ30代だったわけだ。ドラマで老人たる風体の色川だが、あれがだいたい今の自分くらいの年齢かとも思う。
 物語は、亡くなった妻への思いに苦しむ伊集院の魂の救済ということだが、見ていると、なんとなく自分の魂の救済にちょっとつながっているようにも思えた。というか作り手の側にもそうした思い入れがあってできた作品だろうし、基本的なターゲットは私の世代だろうか。
 若い人が見たらどう思うだろうか。
 普通に一つのフィクションとして見るということになるのかもしれないし、それはそれでいいのだろう。でも、色川とか夏目とか、ほんと、人間じゃなかったよ、あれは、なんなのだろうという存在だった。
 
 

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2014.09.09

韓国でのタバコの値上げで思ったこと

 韓国でタバコの値上げが話題になっている。禁煙を推進するためにタバコを値上げするのは、国際的な潮流になっているので、韓国が多少遅れたとしてもそれを追いかけたことには、さして違和感もない。なにより韓国は「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(WHO FCTC)」を受け入れたので喫緊の課題になっていた。
 この話題だが少し掘り下げて見ていくと、考えさせられることがあった。
 報道は各所にある。3日付け中央日報「福祉部長官も「たばこ、4500ウォンに値上げを」=韓国」(参照)が焦点化しやすいので、引用したい。


保健福祉部が年内にたばこを4500ウォン(約460円)に値上げする案を推進している。
文亨杓(ムン・ヒョンピョ)保健福祉部長官は2日、政府世宗庁舎で記者らに対し、「最も効果的な禁煙政策はたばこの値上げ」とし「喫煙率を低めるため、少なくとも2000ウォンは引き上げるべきだと考える」と述べた。値上げが決定すれば、国内で最もよく売れているたばこの価格(2500ウォン)を基準に倍近くに上がることになる。
7月に崔ギョン煥(チェ・ギョンファン)経済副総理が聴聞会で「国民の健康増進レベルでたばこ税の引き上げが必要だ」と述べたのに続き、主務部処の福祉部長官がたばこ価格の引き上げ幅に言及したことで、値上げが現実に近づいている。

 現状の二倍に引き上げるというのだから、韓国社会で話題になるのは当然だろう。だが、引き上げ後の額を見ると、一箱460円くらいで、高いかなとは思うが、先進国と比べると標準といったところ。WHOの手前、やや強引に世界標準に持ち込んだかなという印象がある。
 私はタバコを吸わないで、日本国内のタバコの価格にも疎いのだが、「マイルドセブン」改め「メビウス」が430円なので、ウォンの変動も合わせると、日本を追っている印象がある。まあ、実際はそうでもないのだろうけど。
 ちなみに、日本のタバコ価格もこの10年で高騰していて、「マイルドセブン」だと、2004年には270円だったから、10年ほどで160円上がったことになる。前年の2003年では250円だったことを考えると、だいたい二倍くらいにはなった。急激な値上げは2010の300円から410円かもしれない。余談だが、「メビウス」は韓国でも売れ筋のタバコなので免税店でよく買われているらしい。
 ということで余談にそれるが、そういえば、先日セブンイレブンで「しんせい」を見かけ、山本七平がよく吸ってたなあと思いだしたが、これは現在、250円。このあたりは、もうタバコやめてもしかたないでしょうという年代への一種の福祉政策かもしれない。ちなみに、「わかば」が260円、「恩賜のたばこ」だった「ゴールデンバット」が210円。そういえば沖縄の「うるま」は、と見ると260円、「バイオレット」が250円。なんか本土復帰な価格。
 気がついたのだが、現行の韓国でのタバコの価格は250円ほどなので、「しんせい」「わかば」的な価格にある。日本の昭和が続いているような感覚かもしれないし、日本の場合は、昭和な部分をこっそり陰で維持しているとも言えるのではないか。というところで韓国での安価なタバコを調べたら、1000ウォンくらいのもあった。つまり、全体的に韓国のタバコは安かったわけだ。
 話を韓国の今回のタバコ値上げに戻すと、ちょっと、自分には意外なことがあった。

 韓国国内のたばこ価格は、500ウォンの値上げがあった2004年末以来引き上げられていない。文長官は「2004年に500ウォン値上げした後、販売量が減少し、喫煙率が2年間に12ポイントほど落ちたが、時間が経過しながら喫煙率の低下傾向が停滞した」とし「現在約44%の成人男性の喫煙率を2020年までに経済協力開発機構(OECD)平均(25%)に引き下げるには値上げが必要だ」と述べた。韓国のたばこ価格はOECD最低水準だ。

 意外というのは、「現在約44%の成人男性の喫煙率」というのである。そんなにあったかなあと思ったのである。
 関連ニュースを追ってみると、朝鮮日報になぜか一部文字化けしているような、このグラフがあった(参照)。

 見づらいが、棒グラフから直観的にタバコ価格の動向はわかるだろう。日米が同じくらい。欧州は高い。
 気になるのは、数値で示された喫煙率(男性)のほうだが、これだと韓国は49%。日本は34%。フランスの39%に近い。基本的に先進国での男性喫煙率は減っていることは理解できる。
 最近の喫煙率の状態はどうだったか、OECDの報告書で確認してみた(参照PDF
 韓国報道とさほど変わらない。グラフだとこんな感じだが、ちょっと見づらい。

 日本と韓国を含んだ分だけ拡大してみる。

 韓国の喫煙率が他国に比べて頭一つ突き抜けているというか、中国と似ているかというところ。先進国の仲間入りとしてはちょっとまずいかなという印象はある。
 このグラフをぼんやり見ていて、自然に日本に目が向くのだが、日本の喫煙というのはメキシコに似ているんだなと思った。日本は先進国のフリしているけど、性別の生活文化的なところではメキシコ的なのかもしれない。
 というところで韓国に目を戻すと、喫煙の男女差がすさまじい。韓国の徴兵制の影響もあるのだろう(その期間にタバコを覚える)が、それにしても、男女差がある。
 もちろん日本も喫煙で男女差があり、男性が多い。
 ところが、これ他国、主に先進国で見ると、女性の喫煙が多いことに気がつく。
 禁煙政策的な実施をすると、女性の喫煙比率が相対的に上がるということではないだろうか?
 日本はよく女性差別の国家だと言われているが、その場合、男性権力の文化制度として言及されることが多いが、日韓の男性喫煙率の高さと、他国の女性喫煙率の高さを比較して見ると、この女性蔑視的な文化制度と喫煙率にはなにか関係があるのだろうかと、しばし考え込んでしまった。わからないなあ。
 
 

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2014.09.08

核拡散防止条約(NPT)の終わり

 終わると思っていたものが終わるとき、まあ、予想の範囲だよね、ふーんというだけでなく、微妙な切なさを感じるというのは、失恋とかもそうだけど、いやあ、そういう話じゃないぞ。核拡散防止条約(NPT)の終わりを見て、ああ、終わったなあ、これでいいんか、世界、非核平和日本。と思ったのである。
 どういうことかというと、核拡散防止条約(NPT)非加盟のインドに対してオーストラリアがウラン輸出を承認してしまったということ。
 これ、やっちゃいけないことなんですよね。ただ、厳密に違反とまで言えるのか、違反とまでは言えないからやっちゃったのか、そのあたりはどうなんだろうかと少し思った。全体的に言うなら、米国が率先してNPTのルールを破ったあたりから、こうなることは予想は付いていた。
 報道でちょっと確認しておこう。NHK「NPT非加盟のインドに豪がウラン輸出へ」(参照)より。


NPT=核拡散防止条約に加盟していないインドに対して、オーストラリアが原子力発電のためのウランを輸出することで両国が合意し、5日、原子力協定を締結しました。
 インドを訪問したオーストラリアのアボット首相は5日、首都ニューデリーでモディ首相と会談し、オーストラリアからインドへのウランの輸出を可能にする原子力協定に合意しました。
 オーストラリア政府はインドがNPTに加盟していないことなどを理由にこれまでウランを輸出してきませんでしたが、3年前に方針を転換しインドと交渉を進めていました。
 協定の締結後、モディ首相は「互いの信頼の証しであり、両国の協力関係は新たな段階に入った」と述べ、オーストラリアの決断を高く評価しました。
これに対して、アボット首相は「インドは、これまでも国際法を誠実に守ってきており、信頼している」と述べ、ウランが軍事利用されるおそれはないと強調しました。世界最大のウラン埋蔵量を誇るオーストラリアにとっては、産出量の増加で雇用を増やすとともにインドとの経済面や安全保障面での関係をさらに強化するねらいもあります。
 一方、インドは深刻な電力不足に直面しており、2020年までに現在20基ある原発を倍程度に増やす計画で、今回の合意で電力供給を拡大するとともに日本などほかの国との原子力協定の交渉にも弾みをつけたいとしています。

 NHKらしい書き方なのか、NPT違反なのか厳密にははっきりしない。そこは報道からはわからない。いずれにせよ「ウランが軍事利用されるおそれはないと強調しました」というのは、事実上、君も仲間だからね、ということだ。
 この仲間というのに日本も事実上入っているし、そのためのデモンストレーションがモディさんの訪日でもあった。
 というわけで、オーストラリアがイギリスの資本引き連れて最初にうんこ踏んでくれたから、日本も堂々とその上を、今回検討した原子力協定から、原発関連技術を輸出へと向かうことになる。
 それでいいのかというと、いやあ、これはよくないでしょ。
 どのくらいよくないかというと、与党公明党のご意見に耳を傾けてみようではありませぬか。公明党「核拡散防止条約 「核なき世界」実現の舞台に」(参照)より。

公明新聞:2014年8月12日(火)付
 公明党は6日、核兵器禁止条約の合意形成を訴えると同時に、日米安全保障の中で「核兵器のない世界に向けた新たな安全保障の在り方」を世界に発信する必要があるとの視点から提言を発表した。
 核兵器の違法化と、核兵器に依存しない安全保障の確立は、核廃絶への二つの道である。二者択一ではなく、両方の努力があってこそ核廃絶への確かな展望が開ける。
 本来なら核拡散防止条約(NPT)がそうした議論の舞台となるべきである。しかし、核軍縮さえ十分に進めることができないNPTへの不信感も強い。
 それは、メキシコで2月に開かれた「第2回核兵器の非人道性会議」の議長総括にも表れていた。
 議長総括は、核兵器の違法化が「核兵器のない世界を実現するための道」とした上で、「法的拘束力のある文書を通して新たな国際基準と規範に到達する」と述べ、核兵器禁止条約をめざす決意を示した。
 NPTは米、英、仏、ロ、中5カ国に核保有を認める一方で、核軍縮の効果的措置に向けた条約交渉の義務を課した。しかし、いまだに実現しておらず、世界はいら立っている。会議に参加した外務省幹部は「NPTは生ぬるい。別のトラック(交渉の場)をつくろうという考えを想起させる内容だった」との感想を漏らしたほどだ。
 だからといって、核保有国抜きで「別のトラック」が行われ、核兵器禁止条約をまとめたとしても、「核のない世界」が実現するかどうかは不透明との意見は根強い。
 核廃絶が進まない最大の理由は、核兵器の存在によって平和と安全が守られると考える核抑止論の存在である。これを乗り越える必要があり、米国の拡大抑止(核の傘)に依存する日本にとっても重要な課題である。
 「核の目的は核攻撃の抑止に限定する」など「核の役割低減」が核廃絶への確かな一歩になるとの考え方は国際社会で有力になっている。
 来年開催されるNPT再検討会議を舞台に、核兵器禁止条約に向けた合意形成と、核抑止論の包囲網を固める安全保障論議が進展することを期待したい。

 全文引用する気はなかったのだけど、よくまとまっているので、削りにくい。
 まとまっているというのは、一貫した主張というより、特に後半の、これ、gdgdじゃね?という部分だ。混乱が簡素に表現されている。核兵器廃絶を願いながら米国の傘の下にいる現状をどうしたらいいかということだ。
 これ、世界が止まっていたら、それでよかった。
 しかし、今回のオーストラリアの動向を見ても、世界は止まっていなかった。
 過去の現実というリアリティがなくなってしまった現在、どういうふうに日本が核拡散防止条約(NPT)と取り組んでいくべきかは、大きな課題になったし、与党として公明党も重たいものを背負い込んだことになる。
 野党はというと、いろいろ。ただ日本の反核派の人の多くは、ざっくばらんに言えば、基本反米なんで、そもそも核拡散防止条約(NPT)すら意義を認めていないし、北朝鮮の核にはあまり反対を表明しないんですよね。中国の核についてもそう。だから、核廃絶とはいうものの、核拡散防止条約(NPT)が終わってしまったという問題についても、それほど関心もってないみたい。
 さて、どうしたものか。
cover
原発安全革命
古川和男
 ここで暢気なブロガーとしては、トリウムだよねと思うのである。
 妄想? いや、それほどでもない。トリウム原発の歴史は実は原発そのもの原点の1950年代からあるくらい古い。その後たまたま世界が冷戦とかでいろいろあってウランやプルトニウム志向になってしまったが、インドはその時代から、初志貫徹トリウム原発もいいんじゃねという研究は継続して、トリウム炉の試験段階にまで持ち上げてきた歴史がある(もちろんそれだけじゃないけど)。その背景には、インドが世界最大のトリウム埋蔵量を持つということもある。
 なので、日本の技術でそこに梃子入れして、核兵器利用のない原子力利用というのを日印で実現したらすばらしいと思う。
 もっとも、この話、ネットでするとすげー反発が来るのは想定済みなんで、これ以上は言わない。
 そもそも、日本がトリウム炉を推進する気が、トリウム原発も許せない反原発派とそこは同じご意見で、まるっきりやる気ない。
 期待といえば、ビルゲイツさんももう一杯水被るつもりで、トリウム炉研究の支援を進めてくれないか、くらい。
 やればいいのにと思うのですけどね。
 成功するかしないかいう以前に、日本って、核兵器じゃない原子力の平和利用を求めているんじゃんていうアピール費用でもいいと思うのだけど。
 
 

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2014.09.07

「バカみたい問題」について

 「バカみたい問題」はバカみたいである。たぶん、私の造語だと思う(他の人が使っているの見たことないので)。なので私がその意味を書く。ある出来事に接したとき即座に「あ、バカみたい」と思う問題である。
 「バカみたい問題」が若干バカみたいじゃないとすると、その出来事を「バカみたい」とその場で反応しても、「あー、これ『バカみたい問題』だなあ」という認識が同時に起こることだ。つまり、「バカみたい問題」をバカにしているということではない。どっちかというと、なんで自分がそう思うのだろうかということで、なぜそういうふうに即座に認識するかを、メタ認識でカプセル化する。ちょっと込み入ってきましたね。具体的な話をしましょう。
 昨晩、NHK「デング熱拡大予防 「新宿御苑」閉鎖へ」(参照)というニュースを見たら、即座に、「バカみたい」と思った。そして、あ、これは、また、「バカみたい問題」だなと思った。
 即座に「バカみたい」と思った理由は簡単で、デング熱で「新宿御苑」閉鎖しちゃう発想はどこから出て来ているのか? なんでこんな大騒ぎをするのか? ということである。
 前提知識はほとんど常識に属する。厚労省のサイトにもデング熱についての基礎知識がまとめられている(参照)が、なかでも、「問7 罹ると重い病気ですか?」がわかりやすい。


問7 罹ると重い病気ですか?
答 デング熱は、体内からウイルスが消失すると症状が消失する、予後は比較的良好な感染症です。しかし、希に患者の一部に出血症状を発症することがあり、その場合は適切な治療がなされないと、致死性の病気になります。

 デング熱は「予後は比較的良好な感染症」であって、エボラ出血熱とはまったく違う。大騒ぎするほどの感染症ではない。なお、同じQ&Aにあるが「また、感染しても発症し ないことも多くみられます。」というくらい。ついでに「海外の流行地で感染し帰国した症例が近年では毎年200名前後報告されています。」という、症例の点ではめずらしくもない(渡航歴のない感染報告は初めてだが)。
 ついでに今後はどうかというと。

問11 日本国内でデング熱に感染する可能性はあるのでしょうか?
答 日本にはデング熱の主たる媒介蚊のネッタイシマカは常在していませんが、媒介能力があるヒトスジシマカは日本のほとんどの地域(秋田県および岩手県以南)に生息しています。このことから、仮に流行地でウイルスに感染した発症期の人(日本人帰国者ないしは外国人旅行者)が国内で蚊にさされ、その蚊がたまたま他者を吸血した場合に、感染する可能性は低いながらもあり得ます。ただし、仮にそのようなことが起きたとしても、その蚊は冬を越えて生息できず、また卵を介してウイルスが次世代の蚊に伝わることも報告されたことがないため、限定された場所での一過性の感染と考えられます。
 なお、ヒトスジシマカは、日中、屋外での活動性が高く、活動範囲は50~100メートル程度です。国内の活動時期は概ね5月中旬~10月下旬頃までです。

 ということで、既存の知識からすると、現下のデング熱感染の広がりがあっても、期間限定商品みたいなもの。だから、今がゲットのチャーンスというとふざけていいもんではないが、そのあたりから、じわじわ来る「バカみたい」が続く。
 ただ、温暖化している日本でしかも都市部だと年がら年中あったかいので、ウイルスをもって越冬するヒトスジシマカも出てくるかもしれないなという思いもある。
 それを言うなら、今回のデング熱騒ぎも、あれだ、「ガードレール金属片問題」みたいなものではないだろうか。「ガードレール金属片問題」ももう10年近く前になるかあと遠い目になるが、2005年春、たしか発端は自転車に乗っていた中学生がガードレールから突き出た金属片に接してけがをしたということだった。そこから、全国のガードレール金属片を調べたら数千箇所も発見され、問題となった。一時的には大問題になったように思う。というかマスコミがバカ騒ぎしていた。渦中、「バカみたい」と思ったように思う。だからこれを思い出すわけだが。
 この謎の全国事件の真相は国土交通省の専門家がほどなく明らかにして終わった。原因、ガードレールをこすった自動車の傷痕でしょ。そんなの普通に世の中の自動車の傷とか見ていたらわかるじゃん。「バカみたい……問題」。
 今回のデング熱もそういうことじゃないかという印象もある。ただ、この件についていうと、毎年越冬していたのかとか、あるいは一定数恒常的に入っていたのかとか考えると、それもないかなあという感じもする。
 話を新宿御苑封鎖に戻す。率直なところ当初、「どこのバーカがどんな理由で、こんな公権力を振るっているんだ?」思った。市民の行動の自由に介入していくる公権力ほど不愉快なものはない。
 そして思った。「バカみたい問題」というのは、実は、その認識のカプセル化が伴うことでも明らかなように、「バーカみたいだよなあ。日本人っていつもこうだよな。日本の公権力っていつもこうだよ。こういう公権力の小出しのエキササイズを定期的に繰り返すことによって、日本人は公権力に対して、バカじゃあしかたねーよなあ」という諦観を学習していくことになる。
 つまり、「バカみたい問題」の意義は、学習性無気力の問題なのな。学習性無気力というのは心理学者のマーティン・セリグマンがスキナーに楯突いて発見したもので……あー、ウィキペディアでも見といてくれ、たぶん、書いてある。そうでなければ、ツイッターで人気の心理学の先生に聞くとか。
 かくして、日本人は定期的に「バカみたい問題」に接することで、それがバカであることを高度に認知しつつ、なんの行動も起こさないという無気力を習得するのである……ということだが、まあ、じゃあ、行動を起こすといいか、というと、そのあたりも高度に認知できちゃうのな。高度に認知というのがそもそも、この学習性無気力習得の共犯者だからな。それを打破するには、もっとすごいバカが繰り出さないと動きはないんだろうと思う……だから……以下略。
 しかし、今回の「バカみたい問題」も、それなりに官僚支配の定期的なお仕事という以外に、日本人へのご配慮みたいなものもあるに違いない。あれだ、「狂牛病全頭検査」みたいに。あれは壮大な「バカみたい問題」だったが、日本の現状的にはしかたない配慮だったかもしれない。
 今回の新宿御苑封鎖の主体、根拠、理由だが、いちおうなぞってみるかなと思った。
 主体は環境省だった。都の所管ではないなとは思っていたが、感染症関係なんで厚労省かなとちょっと思っていた。環境省としてはNHK報道だと「感染の拡大を予防する必要がある」というのはちょっと違和感がないわけではない。環境問題関係者が、ちょっと調べてみたいなあこの現象という知的な関心があって、ちょっと国民を公権力でどけてみたのかもしれない。いやあ、悪気はないし、支配とかじゃないんですよお、みたいな軽いのりで公権力を振るってみましたと。
 根拠は、たぶんこれからな。

国民公園、千鳥ケ淵戦没者墓苑並びに戦後強制抑留及び引揚死没者慰霊碑苑地管理規則(昭和三十四年五月六日厚生省令第十三号)

第六条  新宿御苑、墓苑及び慰霊碑苑地の公開日時については、別に定める。
2  環境大臣は、特に必要があると認めるときは、前項の規定による新宿御苑、墓苑及び慰霊碑苑地の公開日時を一時的に変更することができる。この場合においては、入口にこの旨を掲示する。


 うかつだったし、こりゃ「バカみたい」とか他人のこと言えた義理じゃないなと思うのは、最初から環境大臣の権限なわけだな、新宿御苑の封鎖は。頑張って駆除したとはいえもっとも蚊いそうな明治神宮は封鎖できそうにないよな。
 そして、環境相が「特に必要があると認める」ということで、その必要性は「感染の拡大を予防」なんだろう。わかりやすい。「バカみたい」と反射せずにはいられない。ただ、これ深掘りすると前例とかあるんじゃないか。
 話は以上。
 でもないか。「バカみたい問題」は認識でカプセル化され学習性無気力に至るというほかに、これ、ネットの話題の典型的な地雷でもある。
 ネットはもう炎上してなんぼになってきたから、勇気をもって地雷を踏みまくる猛者が多いけど、あれです、「バカみたい」ってネットでいうと、「バカっていうお前がバカー」といういう反応が起きる(それ自体「バカみたい問題」だけど)。
 なにかを「バカ」というと、「人をバカって言ったなあ、そういう奴は心の清くない悪いやつだ懲らしめてやれ、うぉー」ってなるんですよね。あるは「お前は自分が意識が高いって言いたいだけなんだろぉ」とか。ネットの反応も炎上承知の上でない人にとっては、言うんじゃなかったなあって無気力を支援してくれるのな。
 まあ、そういうことなんで、「バカみたい問題」というのは、だんだんタブーにもなりつつある。
 ちょっと繰り返しておくかな。この例で言うなら、私は新宿御苑を封鎖するなとか主張したいわけではない(たぶん、このレベルで誤解され非難されるんだろうと思うけど)。そうではなく、「バカみたい問題」というは、「うわぁバカみたい」と反射的に反応しても、自分に関係ないしそんなに大きな害があるわけじゃないし、「しゃーなーよなあ」と無気力に落ち込むという問題である。それにつけて権力がどんどん市民に無気力教育をしていくという問題である。
 ということでした。
 それはそれとして、しばらくしたら、新宿御苑に行くかなあ。青春の思い出いっぱいだからな。
 
 

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2014.09.06

米国務省のサキ報道官批判の話題は、何が問題だったのだろうか

 ツイッターのタイムラインを見ていてちょっと気になる話題があった。一読して、なんだろうと思った。言うまでもないことだが、単純に、「なんだろうこの話は?」と思っただけである。





 一読して思ったのは、誰か著名な人が女性差別発言をしたのだろうか、という疑問と、実際にはどういう英語表現が性差別発言になるのだろうかという疑問の二点が私にはあった。
 当然ながら、この時点で「明らかにおかしい記事だ」とは私にはわからない。そこで気になってリンク先の記事を読んでみた。
 毎日新聞「米国務省:報道官批判に副報道官が「性差別的」テレビ批判」(参照)である。記事全文の引用は好ましくないが、記事検証の意味合いもあるので、以下に引用してみたい。新聞記事なのでまず概要がくる。

【ワシントン和田浩明】オバマ米政権に批判的な米FOXテレビの男性キャスターが米国務省のサキ報道官を「あの女は、実に力量不足に見える」などと女性を見下すように番組で批判した。これについてサキ氏の同僚でやはり女性のハーフ副報道官は4日の定例会見で、「男性に対してであれば使わない表現で、性差別的だ」と異例の批判を展開した。

 簡素にまとまっているが、話題は実は二点ある。
 一つは、保守系のFOXテレビのキャスターが女性のサキ報道官を見下す発現をしたということで、その内容は、「あの女は、実に力量不足に見える」ということ。
 二つ目は、サキ氏の同僚の女性報道官ハーフ氏が、FOXキャスターを批判したということ。その際の文言は、「男性に対してであれば使わない表現で、性差別的だ」ということ。
 記事本文を見ていこう。

 人気キャスターのビル・オライリー氏が3日の番組でサキ氏を批判した。米国人2人を斬首して殺害したイスラム過激派組織「イスラム国」へのオバマ政権の対応に関するサキ報道官の2日の定例会見での説明について「職務に見合った重みが無い」などと述べた。

 概要に加えて、「職務に見合った重みが無い」という文言が加えられている。
 この文言は、先の「あの女は、実に力量不足に見える」という内容、とどういう関係があるのだろうか? 二つの文言なのか、「職務に見合った重みが無い」という文言の内容が「職務に見合った重みが無い」なのだろうか。
 日本語で考えると、著名人が「あの女は、実に力量不足に見える」と言ったら、たしかに「女性を見下す」ように感じられる。ただし、その場合、日本語のポイントは「あの女」という日本語の響きにある。
 そこは英語の原文がどうなっているかはやはり気になるところだ。「あの女」に侮蔑的な隠語が使われていたなら完全にアウトだろうし、だがいくら保守系メディアのFOXでもそこまでするだろうか?
 二点目の問題もこう掘り下げられている。

 これに対し、ハーフ副報道官はまず4日に短文投稿サイト「ツイッター」で、「(サキ)報道官は理知的かつ上品に外交政策を説明している」などと反論。会見でさらに真意を問われると「性差別的で個人攻撃的な発言だ。反論するのは私の義務だと思う」と説明。さらに、「男性が公的立場にある女性にこうしたことを言った場合、より多くの人が批判してほしい」とも呼びかけた。

 事態は概要部とやや印象が違い、どうやらまず、ツイッターでハーフ氏の呟きがあり、それが問題視されて、会見で真意が問われたということだ。
 ここで少し奇妙に思えたのだ。毎日新聞の報道だと、最初にFOXキャスターによる「女性を見下す」発言があり、それが問題を起こしたかに見えることだ。だが、これが問題化した経緯は、サキ氏の同僚のハーフ氏が、おそらく私的にツイッターで呟いて、それが問題化したという手順のようだ。
 つまり、問題は、ハーフ氏の私的なツイッターでの呟きが原点にあることになる。
 ここで問題を整理し直す。何が問題のなのか。この記事からは二つ読み取れるだろう。
 一つは、ハーフ氏のツイッターの呟きによって、FOXキャスターの発言が「女性を見下す」女性差別発言であることが公的に明確になったので、それが問題だということだ。
 もう一つは、それが会見で問われるということは、私的なツイッターの呟きと報道官としての公的な発言がまず問われたということだ。
 二点目はつまり、報道官として公私の意識が問われたという問題だろう。そういう事態をツイッターが引き起こしたことがこの話題が異例である点だろう。
 以上を考えてみると、その真相はいっそう、なんなのだろうか、という疑問がわいてくる。原文を調べてみた。
 まず、FOXキャスタービル・オライリー氏の発言だが、現物がすぐわかる。以下である。



“With all due respect and you don't have to comment this, that woman looks way out of her depth over there just the way she delivers. It doesn’t look like she has the gravitas for that job.”

「で、失礼ながら、あなたはコメントしなくてけっこうですが、この女性は、その報道だけではそこにある問題がわかってないようですね。まるで、彼女はこの仕事のための厳粛さをもっていないようだ。」


 英語の口語表現はけっこう難しい。簡単に英語の解説をすると、「With all due respect」は「恐れながら」というフレーズ、「be out of your depth」は「知識や経験などを持っていない」ということ。
 さて、毎日新聞にある二つの表現「「あの女は、実に力量不足に見える」などと女性を見下すように番組で批判した」と「職務に見合った重みが無い」がどう対応しているかだが、次のような対応だろう。

「あの女は、実に力量不足に見える」: that woman looks way out of her depth over there just the way she delivers.
「職務に見合った重みが無い」:It doesn’t look like she has the gravitas for that job.

 直訳ではないようだが、意訳として適切かどうかは、私の英語力では判断しがたい。
 気になった「あの女」という表現だが、侮蔑的な隠語ではなく普通に「that woman」だった。ただし、そのように性を特定する表現自体がすでに問題なのかもしれない。
 原文がわかった段階で、このFOXキャスターの発言はハーフ氏が指摘したとされる「性差別的」だろうか。ところで、「性差別的」だが、関連の報道をなどを見るとその表現の英語は"sexist"に相当するようだ。
 さて、率直なところ、私の感性からすると、このFOXキャスターの発言が「性差別的」と言えるのかわからなかった。理由は、女性であることに差別が向けられているより、報道官としての適正が問われているだけで、たまたまそれが女性だったという印象があるからだ。ただ、このあたりの私の感性は、現代米国社会的にはすでに「性差別的」なのかもしれないので、気を付けたい。
 次に、実際上、話題の起点となるハーフ氏のツイッターの呟きだが、これも現物がある。


 発言の要点は以下である。

@statedeptspox explains foreign policy w/ intelligence & class. Too bad we can't say the same about @oreillyfactor: http://bit.ly/WfVr6v

サキ報道官(@statedeptspox)は、外交問題を知性と上品さをもって説明している。ひどすぎて、私たちは同じ事は、FOXキャスターのオライリー(@oreillyfactor)に言えない。


 原文にあたって意外だったのは、ここではどう読んでも「性差別的」な文脈が直接的には見当たらないことだ。私の勘違いかもしれないが、この時点でも「性差別的」という問題の文脈はなかったのではないだろうか。単に同僚を庇ったくらいに見える。
 具体的にこの話題が展開される会見はどうだっただろうか。現物がある。

 すでに公式にも発表されている(参照)。


MS. HARF: No, I appreciate the opportunity to give more than 140 characters here. I think that when the anchor of a leading cable news show uses, quite frankly, sexist, personally offensive language, that I actually don’t think they would ever use about a man against the person that shares this podium with me, I think I have an obligation, and I think it’s important to step up and say that’s not okay. And quite frankly, I wish that more people would step up when men say those things about women in public positions and say that it’s not okay.

ハーフ:いいえ、私は、140文字以上の文字与えられる機会をいただいて感謝します。主要なケーブルニュースショーのアンカーの言葉が、ざっくばらんに言えば、性差別主義者の、個人攻撃的な言葉だと思いましたし、私は実際、彼らが、この演壇を私と共有する人に対して、それが男性だったら使うであろうとは思いません。私には、義務があると思いますし、私はこんなのはOKではないと進んで言うことが重要だと思います。そしてざっくばらんに言えば、男性がこの手のことを公的な場にある女性について言うときは、もっと多くの人が、こんなのはOKではないと進んで言うべきだと思います。

QUESTION: So you don’t think that the criticism would have been directed at a man who had replied – who had given similar answers from the podium?

質問者:とすると、応答者、つまりこの演台から同様に答えた男性対して直接向けられてきた批判ではないとお考えなのですね?

MS. HARF: I think some of that language – we’ve seen it before – was – would – I – no, I don’t think would be used against a man. Some of the language used about my colleague I don’t think would be.

ハーフ:これまで使って来た言い回しについていうなら、違います。男性に向けて使われてきたものではありません。私の同僚に向けられた言い回しのいくつかはこれまではなかったと思います。

QUESTION: By this one person in particular --

質問者:特定のこの人に向けたということではないと

MS. HARF: In general.

ハーフ氏:一般論です。

QUESTION: -- or just in general?

質問者:つまり、単に一般論だったと。

MS. HARF: In general.

ハーフ氏:一般論です。


 ざっと訳したので誤訳があるかもしれないが、重要なことがいくつか見受けられる。
 まず、「性差別的」というのは、特定のFOXキャスターではなく、その言い回し(表現)だという点である。繰り返すが、オライリー氏が性差別主義者だと糾弾しているわけではない。
 ただ、このハーフ氏の言い方からすると、そう受け捉とられかねない状態への弁明ではないかという印象を受ける。
 次に気になるのは、「公的な場にある女性(women in public positions)」という表現だが、そもそもこの問題がジャーナリズム側から注目されたのは、FOXテレビという保守系の報道機関が性差別的であるからだ、というより、公的な立場にある政府関係者が民間のジャーナリストを「性差別主義者」だとして批判したのではないかという、公権力の濫用の疑念があるからではないだろうか。
 ちょっと無理な読みをしているかのようにも受け取られるかもしれないが、これをハーフ氏が一般論に持ち込もうとしてるのは、個別論、つまり、FOXキャスターを指名することに問題があるからこそ、公的な場でこのように弁明する必要があったのではないだろうか?
 もう少し延長してみると、そもそも公的な立場にあるハーフ氏のアカウントからツイッターで私的に見られる非難の言葉が漏れたことも問題にあるのではないか?
 どうなんだろうか。
 当然ながら、この手の話題は、保守的な立場ならFOXを支持するだろうし、リベラルな立場ならFOXを非難するか「性差別的」表現を非難するだろうから、各種意見を読んでも、読む前からわかりきった不毛のようにも思えるが。
 だが、保守系とも思われないCNNへの寄稿「State Department's wrestling match with Bill O'Reilly」(参照)が興味深かった。

Let's say Harf is right, and O'Reilly's attack against Psaki was sexist and wrong. It would still seem a totally inappropriate use of her official position at State to call out a cable news personality and defend her colleague, especially considering what else is going on in the world.

ハーフが正しく、サキへのオライリーの攻撃が性差別的で悪かったとしよう。それでも、ケーブルニュースのパーソナリティを呼び出し、自分の同僚を防御するというのは、彼女の公的立場を完全に不適切に使っていると思われる。特に、他の現実に進行していることを考え合わせればだ。


 やはり、公的な立場が問われている面はあるだろう。
 つまり、この話題がニュースであるなら、「性差別」が問題というより、公権力とジャーナリズムの問題として、問題の枠組みがあるということだろう。
 
 


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2014.09.04

JK、加油!

 台湾で学生たちが議会を占拠したときは、日本でもこれを支援する騒ぎがネットから見られたものだが、現在の香港の、なかでも学生を中心とする民主化運動について日本側から支援する声のようなものは、あまり見かけないような気がする。なぜなんでしょう。
 よくわからないのだが、私は日本のネットの動向に関係なく、世界の民主化を支持するので、基本的にこうした運動に肯定的。日本からも民主化を支援しているよ、という声をあげておきたい。ただ、ちょっと微妙な部分がないわけでもないのでそのあたりはあとで触れたい。
 まず、どういう問題か。簡単にいうと、中共政府、ふざけたまねしやがってくのぉー、というか、なーんちゃって民主主義が世界に通じると思ってんのかよぉ、ということ。
 具体的に言うと、中共政府は、香港の市民に対して、2017年の香港特別行政区トップ・行政長官選出では、従来の間接選挙ではなく、直接選挙を認めるという発表をした……すげーなあ……ところが、立候補に制限があり、実質中共政府の息のかかった指名委員会の過半数の推薦を得た二、三人まで。
 あれです、うんこ味のカレーにしますか、それとも、カレー味のうんこにしますか、ということです。ざけんじゃねーよ。
 というわけで、香港の民主化を推進する人が怒って、金融街・中環地区を群衆で埋める抗議行動「オキュパイ・セントラル」を実施すると息巻いている。「ウォール街を占拠せよ」の香港版である。これをすると、香港は経済的な信用を失って大きな損失になるだろうとも言われている。
 とはいえ、そこまでは、率直にいうと、ふーん、という感じ。
 仔細に運動を見ていくと、え゛?という話があった。この運動の中心にいる、17歳の少女、アグネス周庭さんである。何者、それ?
 清純な少女を革命のシンボルに祭り上げる古くさい左翼運動的なものに触れると、その少女が清楚で純潔っぽい感じがするほど、うげぇぇって吐き気がしてしまう私だが、アグネス、いいんですよ。とても自然な感じがする。ああ、普通の女の子じゃん。普通なわけないけど。この真ん中の娘さんである。

 広東語で何言っているのかさっぱりわからない。今回の民主化運動の話なんだろうか。少なくとも、この自然なノリはいいなあと思った。
 ほんとにこの娘さんなのか疑問にも思えるが、タイトル「如今已無特別值得尊敬的政治偶像」を見るかぎり、私はもう政治的な偶像じゃないもんね、という感じである。

 もうちょっと書いてある。周ではなく黄の意見だが。

黃則指出,由於他們過去只是中學生,並非專業人士,亦沒有甚麼財產,所以政客的地區工作與他們的關係較少,亦不會因而特別支持某團體或政黨。

黄が指摘するのは、彼らは単に中学生であり、就労者ではないから、財産ももっていない。だから、地域産業の政治家と彼らの関係は薄い。だから、特定団体や政党をことさに支持しているわけがない。

 そのままに受け取ってよいものかわからない。英国的な支援グループとの関係があるのかもしれない。それでも、全体から滲み出る広東語しゃべくりまくりをみると、英語とか北京語で運動をグローバルに広げないのかよという素朴さがつたわってくる。
 しかし、とここで私は学生時代の香港人の先輩を思い出すのだが、彼女らは普通に英語もしゃべれた。アグネス周もそうなんじゃないのと見ていくと、昨年のだがあった。やっぱりな。それにしても、まじJKな。

 見ながら、インタビューのおっさん(Michael Chugani)の微妙な心情が微妙に伝わってきて微妙に泣ける。たぶん、基本のことろでおっさんはアグネス娘を支持しているし、若い希望を受け止めているが、この年齢のおっさんなら天安門も見てきたし、いろいろ見てきたはず。苦い思いもあるのだろう。
 インタビューのポイントの一つは、"Scholarism"である。「学民思潮」。香港の学生運動で、香港政府が推し進める「德育及公民教育」に対抗して2011年に中学生を中心に出来たものだ。ざっと関連を見るかぎり、つよい政治思想といったものは感じられない。
 さて、これをどう受け止めたものだろうか?
 天安門事件、さらには紅衛兵の運動といったものを見てきた自分からすると、若い人が理想だ民主化だと純粋に運動していても、そう単純には受け付けない。ただ、心のどっかで、本当に革命というものがあるなら、案外、このJKから始まるんじゃないかという思いもある。
 話を少し戻す。インタビューにもあったが、当面の問題としては、オキュパイ・セントラルをどう見るかということだが、そう単純でもない。その一端は、親中派デモからも見えてくる。この親中派デモなんて中共の工作でしょとも思う。実際、広東省から、日当アゴ足つき動員されたのだから、それ以外の何物でもない。が、これも仔細に見ると、香港市民でもうっすら賛同している向きがある。オキュパイ・セントラルとかよくないんじゃないの、香港の食い扶持だぜ、という感覚だろう。
 今後のオキュパイ・セントラルの動向はよくわからない。
 ただ、中共側の香港民主化押しつぶしは、天安門で戦車で民衆を押しつぶしたようにはできず、香港議会側の決断の余地を残している。もっともその余地も、従来どおりの間接選挙ということで、またしたも、うんこ・カレー問題にはなる。
 単純な話ではないなあと思うのは、もう30年以上、なんとなく台湾の民主化を見ていて思うことでもある。李登輝総統つまり大統領を選出した時点で、実質、台湾は独立してしまったのだが、連合国体制=国連の建前上、台湾は国家ではない。しかも、経済的にどんどん台湾は中国に飲み込まれ、おそらく、独立民族国家となる見込みはない。
 さらに小さい香港にそれが可能だとも思えない。それでいいのか。こういう煽り方はよくないが、台湾・香港の未来は日本の未来だし、その前に韓国の未来でもあり、韓国のじりじりとあぶられている様子も伝わってくる。
 それでも、アグネスさんのナイーブなJKぶりを見ていると、どっかに希望があるような気がしてくる。私は荒立たしことは好きじゃないし、政治イデオロギーなんかクソくらえと思うが、それでも、JK、加油!
 
 

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2014.09.03

[映画]アメリ

 なんとなく見逃してしまって、そのわりに関連知識はけっこう知っていたり、その音楽が好きだったりということで、うーん、ちょっと、もう小腹いっぱい感があって、それゆえにますます見逃してしまう映画というのがある。いや、なんか改めて見て、感動しましたとかいうの恥ずかしいな気分にもなるのだけど、でも、よかったっす、「アメリ」。

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アメリ [Blu-ray]
 かなりよかった。実は、昨年の今頃フランス語勉強始めたころ、フランス語ある程度わかったら、アメリは愉しいだろうなという思いがあった。その点はどうだったかというと、率直にいうと、私のフランス語能力ではほとんどついて行けないのだけど、字幕補助に見ていると、なんとなくわかる部分がけっこうある。それにフランス語の響きに違和感がないのも奇妙な感じだった。ちなみに、オリジナルタイトルは、"Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain"(アメリ・プーランの素晴らしい運命)である。
 それにしても、笑い転げた。そして泣いた。監督も主演のオドレイ・トトゥも各種出演者も、ほんとうに、おかしい。うあ、人間ってなんて奇妙なんだ、というか、市民というのはほんと変な生き物だなというが全開になっていて、笑ったし、嬉しかった。
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 ああいう都市のなかで生活するのは、その内実のつらさはこの映画にもよく表されていたのだけど、うらやましくも思った。クレーム・ブリュレ(Crème brûlée)だけが羨ましかったわけじゃないぞ。豆の樽には手をつっこみたいが。
 この映画が大ヒットしたことは知っているし、フランス人は好きなんだろうなと思うのだけど、反面、この、自閉症というかアスペ傾向がない人ではないとこの世界わかるんかな、という思いもした。ねえねえ、これ、君たちほんとにこれわかってんのとか言いたい感じもするが、いやいや、そのあたりを絶妙にくすぐるところがよかった。
 手法も映像も素晴らしかった。コラージュのメタファもよかった。またメッセージもまたメタファになっていた。コラージュはメッセージは人生や市民のメタファでもある。そのなかで、アメリは天使的な存在でもあるのだろう。
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AMELIE
 設定は1997年。ダイアナ妃が亡くなった年だ。通貨もまだフランである。もう一時代以上前になるなあという感じがする。ただ、それほど古びた世界でもないのだろうとも思う。リアリズムというよりもファンタジーではあるだろう。
 リアルさを感じる点も多かった。けっこう感銘を受けたのは、アメリの食事シーンである。一人きちんと夕食していた。彼女が自閉症的だからというのもあるのかもしれないが、隣人の絵描き老人も一人きちんと食事していた。案外そういうフランス人というのは多いのかもしれない。あれは、なんか理想だなあ。そういえば、昔、四谷のパザパで一人きちんと喰っているフランス人をよく見かけたものだったな。
 リアルといえば、アメリが父親との話で、さらっと中絶のことを語っていて、それに父親が反応するでもないというのも、フランス人らしいところだなと思った。日本だと妊娠小説とかいうのがそれだけで話題になりうる文化だし。
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アメリ 期間限定
フォトブックバージョン [DVD]
 今回見たのは、たまたま衛星放送かなんかで放映したのを録画っておいたものだが、かなり気に入ったし、フランス語のスクリプトも見たいので、DVDを買うことにした。どれにしようかなと見ていると、写真集付きのがあるので、それにした。
 
 

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2014.09.02

率直に聞くんですが、どんなふうに死ぬつもりでいますか?

 ツイッターをしていたら「健康寿命」について知らない人がいた。この話は自著にも書いたのになあと思ったが、だからみなさんが知っているというわけはないよな、当然。
 「健康寿命」にはそれなりに定義はあるが、ざっくり言って健康に生きていられるまでの年齢というような考えである。いわゆる平均寿命より10年くらい短い。男性だとだいたい70歳くらいまで。
 自分も気がつくとけっこう年を取ってしまったので、まあ普通に生活できたとしても、不自由なく動けるのはあと12年といったところ。個人的にやだなあと思うのは、そのくらいまで生きていても、文字の読み書きがまともにできなくなるんだろうな、というあたり。失明はするだろうなあ。
 ちなみに平成22年時点の日本人の健康寿命はこんな感じ。厚生労働科学研究費補助金「健康寿命における将来予測と生活習慣病対策の費用対効果に関する研究」より。

 最新の統計だったかなと、先日発表された2014年版の厚生労働白書(参照)を見ると、同じだった。
 今後、いろいろ国や地域なども尽力して双方延びると思うけど、基本的には頭打ちなんで、大きな変化はないだろう。男性でいうと、今後もだいたい健康寿命は70歳くらいまでだろう。
 単純なグラフだがけっこう含蓄深く、女性は子どもと同居しなければ、死ぬまでの最後の5年くらいは不自由な体でひとり暮らしということになる。
 今後の日本人が35歳くらいで最初の子どもを産むようになると、だいたいその子が35歳くらいで親の支援や介護が必要になる。
 と書いてみて、現状だとそれがまだ10年くらい後にずれているから、45歳くらいからぽつぽつと親の介護ということになっている。
 どっちにしても、支援・介護する側の子どもとしては、自分の側にも子どもができて子育て手生活がつらい時期にあたる。
 つまり今後も日本の国民の生活はかなり厳しくなるだろうなという印象がある。誰も他人事ではないのですけどね。
 白書には都道府県別の健康寿命の差のグラフも掲載されているが、グラデーションの差は誤差くらいにしか思えない。それでもトップの長野県と青森県だと男性で3.6年の差はあるので、そう見るとけっこう大きい。ちなみに、なんで長野県の老人が比較的健康なのかというのは、信州系日本人の私には思うことがいろいろあるが割愛。
 昨日癌の種類の話を少し書いたが、その興味から日本の癌の現状を見るとこんな感じ。これは男性だが。

 ちょっと見づらいが、胃癌は横ばい、膵臓癌と大腸癌は地味に増加、肝臓がんは減少気味、肺癌はさらに伸び率が高い。
 大腸がん検診は有益な部類なので、それと比べると、男性の肺癌の現状は難しいものがある。ここには引用しなかったが女性の場合は、肺癌と大腸癌が大きく、乳癌は他の癌と並びといったふうになっている。
 つらつらと白書を見ると、健康と食事の話もある。各種データは面白いといえば面白い。健康な食事ということで昔の日本食が称賛されることが多いが、データを見ると、1970年の食塩摂取は14.0%、現在は10.0%。昔はけっこうしょっぱい食事だったなあと思い返す。ほか、飲酒、喫煙とかも、近年、めだって下がってきている。
 自殺はどうかなと見ると、よくネットでは自殺は社会問題だという枠組みで話題にされることが多いが、これを見ると、健康問題の比重が大きい。もっともその半数は鬱病によるので、社会問題が鬱病を介して自殺を起こしやすいとは言えるかもしれない。

 ついでなんで白書をたらたらと見ていくと死生観という項目があった。ここに「生きたい年齢」と「生きられると思う年齢」というのが、平均寿命に合わせて掲載されている。

 男性で見ると、生きたい年齢は平均寿命くらいで、生きられると思うのほうがそれより二、三年少ない。女性は現実と想定の間に10年近い差がある。この意識差はなんなのだろうか。女性の意識の根幹に関わるように思うがわからないなあ。
 健康年齢に対する想定は、白書には掲載されていない。ざっとした印象だと、死期が近づかないと体がぼろぼろとなっていく実感は持ちづらいのではないか。
 死というもののイメージは、実際に自分が死ぬ場所のイメージとして捉えるとわかりやすいものだが、そういうデータも載っている。

 まず言えることは、三割くらいの人はどう死ぬか想定なく生きているということだ。これは介護されるというイメージもあまり湧いてないということなのだろう。その想定のなさの部分が、現実には病院での死に回収されるというふうになっているようだ。まあ、日本人の八割方は病院で死ぬことになるよね。
 意外だなと思えたのは、半数近い人が自宅で死にたいと思っていることだ。生活の延長に死をなんとなく想定しているか、家族に看取られてみたいな思いなのだろう。これから生涯未婚者も増えるだろうが、それでも自宅で死にたいと思うだろうか。
 白書を見ていていて僕がびっくりしたのは、これ。死が怖いかというデータである。世の中半数ちかい人は死が怖いと思っていないのだなあ。

 どうも僕のように死が怖いと思って生きている人間は、社会的にはそう多くないんじゃないかとはうっすら思っていたが、いやはや半数もいたのかあ。僕なんかからするとちょっと社会観変わるなあ。
 そもそも死というのを大半の人が考えないんじゃないか、というと、そうでもないようなデータもある。

 三割くらいの人は死のことを考えないで生きているが、七割くらいは考えてはいる。
 すると……考えはいえるがそれほど死が怖いものではないと、いう人々がそれなりにいるのだろう。
 これだけのデータからは読み取れないが、死は考えるけど別段怖いものではないという人々は二割くらいだろうか。それがうっすらした意識にまで広げると四割くらいにはなるだろうか。
 と、そんなことを考えるのは、そのあたりに、日本人の宗教意識が隠れているんだろうなと思うからだ。
 日本人の大半は明示的な宗教意識をもたないが、なんとかこの世を暮らしてて来世の思いに繋げる信仰のようなものを持っているのだろう。
 そのことが死を社会連帯と個人で引き受けていく市民意識とどう関わっているのかとても気になる。難しい問題だなあ。そのあたりの意識が、実際には、高齢化社会の介護や健康寿命を終えた人への対応とも関わってくるように思うからだ。
 
 

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2014.09.01

癌についてちょっとめんどくさい話

 日本テレビ「24時間テレビ」を見なくなって久しい。というか今でも毎年やっているのかすら知らないが、この間、ツイッターを覗いていると、『はなちゃんのみそ汁』というドラマが話題だったようだ。同題の書籍もあり、関連のブログもあるらしい。当のドラマはどうかというと、該当のテレビサイトによるとこういう話らしい。
 新聞記者・安武信吾は、音大学生・松永千恵と交際。信吾は千恵から乳がん打ち明けたが、信吾は千恵と生涯をともにすると決意。千恵のがんは悪性度が高く、再発の可能性あり。抗がん剤治療後、5年間再発の兆候がなければ完全寛解(テレビのサイトでは「完治」とあるが誤植だろう)。治療を続けながら出産、はなが産まれるが、はなが9か月のときに転移が判明。玄米に味噌汁という食事療法を始め、はなが引き継ぐ……という話らしい。
 つらい話だなと思う。
 ツイッターで見かけた話題は、この食事療法を含め代替医療への批判が多いようだった。私はドラマも見てないし、本も読んでないので、どのような治療生活をしていたか知らないのでなんとも言えないのだが、ツイッターでの話題を見ていると、癌は早期発見で標準治療をすればよいのに代替医療がそれを邪魔するという枠組みで語られているものが目立った。そういう考えもあるかもしれない。
 これについては、ちょっとめんどくさい話がある。めんどくさい話はブログでするもんじゃないのだが、ちょっとだけ触れておきたい。
 まず、癌の代替補完医療について知りたいのであれば、厚生労働省がん研究助成金(課題番号:17-14)を元に「がんの代替療法の科学的検証と臨床応用に関する研究」班と独立行政法人国立がん研究センターがん研究開発費(課題番号:21分指-8-④)を元に「がんの代替医療の科学的検証に関する研究」班がまとめた無料配布の『がんの補完代替医療ガイドブック【第3版】(2012年)』(参照PDF)を読むとよい。
 この話題は同冊子に尽きていると思われるので、読後は過剰に代替医療を忌避する必要もないだろう。
 この日本の研究のさらに元になったのが、米国国立衛生研究所(NIH)の代替補完医療部門(参照)で、米国で実際代替補完医療が普及していることに対して連邦がどうあるべきかということを示した。簡単にいうと、現状があるのだから連邦としても最低限の指針を示しましょうということ。
 以上で話は尽きているといえば尽きているのだが、ツイッターやネットでよく見かける早期発見と標準医療の話はさらにめんどくさい。そのめんどくさが代替医療の普及とも関連している面もありそうなのがさらにさらにめんどくさい。
 このめんどくさい問題に、NIHはすでに着手している。
 まだNIHとして公式の指針は出していないが、すでにその研究班が医学誌JAMAに昨年、関連の論文を出した。「Overdiagnosis and Overtreatment in Cancer: An Opportunity for Improvement」(参照)。表題を見てもわかるように、癌における過剰診断と過剰検査の問題を考慮するというものである。
 この論文は基本、厚生行政の問題で癌患者に直接は関係ないとも言えるのだが、実質、ニクソン時代から始まった米国の癌戦争の総括とも言える部分があり興味深い。「[書評]病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘(シッダールタ・ムカジー )」(参照)で紹介した同書とあわせて読むと味わい深いだろう。
 内容を簡単にまとめることは難しいが、論文掲載に実質まとめとして掲載されている表がなかでも含蓄深い。


 全体はIncidence(発生率)とMortality(死亡率)で分け、1970年から2010年までの40年間の厚生行政、医学・標準医療における癌対策の成果をまとめている。
 全体は3分類の例でなりなっていて、これが実質、NIHが構想する癌のタイプに関連しているのだが、わかりやすいのがExample2のColon(結腸癌)とcervical(子宮頚癌)である。端的に発生率が低下している。つまり、スクリーニング(検診)がかなり有効であったと言える。早期発見が重要だとも言えるだろう。ちょっと微妙な余談を言うと、よって子宮頚癌については厚生行政としてはワクチン効果と早期発見体制の全体をどう見るかという問題もある。
 それを見た上で見るとわかるのが、Example1のBreast(乳癌)とProstate(前立腺癌)とLung and bronchus(肺癌・気管支癌)で、発生率は低下していない。背後に検診・早期発見があってこの状態なので、当然現状での検診・早期発見の効果をどう見るかということが問題視されることになる。現実乳癌と前立腺癌の検診や早期発見については現状諸論がある。ただ、この表から見ると全体傾向としては、早期発見は言われるほどの効果はなく、標準治療も万全の効果があるとも言いがたい。
 Example3のThyroid(甲状腺癌)とMelanoma(黒色腫)については、ごらんのとおりかなり難しい状態にある。
 以上から一つ言えることは、癌でひとくくりはできないということ。また同じことだが、早期発見と標準治療の枠組みはその癌の種類に対応しないとそれほど意味はないだろうということである。
 ネットやツイッターの世界は、信じた正義からいろいろ他者をバッシングする傾向が見られるが、信じられる正義の根拠の評価は仔細に検討するとなかなか難しいことが多い。
 
 

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