今朝、なんとなく思ったこと
ブログを10年もやっていて、最初の数年は、8月になると戦争の話題を書いたものだった。だが、数年前から意識的にやめた。もう言いたいことは書いちゃったし、自分の思いのあり方もだいぶ変わったからだ。
これを言うと批判されるだろうと思うけど、率直に言うと、もう戦争のことは忘れたほうがいいんじゃないか、と考えるようになった。
もちろん、戦争の史実を忘却せよというのではない。それは明確に反対。だけど、日本の敗戦からもう長い年月が経ち、世代が代わり、戦争の直接経験者も亡くなっていくのだから、若い世代は、戦争を民族の加害・被害という観点から見るのは、減らしてもいいだろうということだ。もう少し言うと、これからは民族が互いに赦し合えるほうがいい。数年前から、そんな思いで8月を迎えるようになった。
そんな8月の日、昨日のことだが、「花アン」を見てたら、明日は放映が遅れますというアナウンスがあって、そうか、8月6日かと思った。つまり、今日である。今朝である。
ぼんやり、7時半ころからNHKのテレビをつけていると、広島原爆の式典が始まった。めずらしく雨が降ってることに見入った。
NHKのナレーションは集団的自衛権がなんたらと言っていたが、式典とどういう文脈なのか私にはよくわからなかった。
しばらくすると、ねずみ男が中年太りしたような感じにレインコートを覆った安倍首相が映されて、ああ、出席しているんだなあと思った。出席しないわけにはいかないよなとも思った。そして、ちょっと休みます、とか言ったら、ひどい目に遭うよな、とも思って、自分で、そこで、え?と思った。え?
そのうち、定刻になって黙祷となった。ツイッターも見ていたのだけど、一人、「木刀」ってしょうもないギャグを放った人がいてちょっと微笑んだけど、黙祷・黙祷・黙祷という感じのツイートが並んだ。ちなみに、私はこの手のことでみんなと黙祷するということはほとんどない。
現実の場だと「黙祷」っていうと、みなさんまじめに黙祷するんで、ぽかんと目をあけてバカ面している私には気がつかない。
別に私は黙祷に反対ということではない。私は祈りというのは、イエスが教えてくれたようにしているだけである。つまり、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)ということ。それだけ。ちなみに、その前にイエスはこうも言っていた。「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。」(マタイ6:5)
今朝もポカーンとしながら、ふと、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という言葉を思い出した。そして、ああと思った。ああ、というのは、思考停止である。
私は、この件について考えるのをやめたのだった。
子どものころ、この言葉が理解できなかった。
「安らかに眠って下さい」は、英語でいう「R.I.P.(rest in peace)」でもあるし、わからないでもないのだけど、それが「過ちは繰返しませぬから」というのがうまく結びつかなかった。
たぶん、「戦争という過ちを日本国民はしないから、安らかに眠って下さい」ということだろうは思ったが、それと米軍が落とした原爆がどう結びつくのかが、考えるほどにわからなかった。考えると、戦争という過ちを犯した罰で原爆を落とされた、ということになりそうで、いやいや、それは違うだろうと思い、まあ、もういいや、思考停止、となったのである。
もちろん、思考停止というのは、うまくいくわけものではない。魔法の惚れ薬を作るには、クミンとシナモンをりんごで煮るだけでよいが、ただし、恋人のことを考えずに20分間かき回す、というのがあっても、無理でしょ。
繰り返してはいけない過ちは、米国が原爆を落としたことかなともちょっと考えてしまう。あれは、通常兵器ではないし、人道上問題のある兵器だし。なので、広島にできるだけ米人を招いて、過ちを知ってほしい、……まさかね。でも日本人に限らないならそうかも。ここで思考停止。
今朝もぽかんとしながら、ついこのことを考えて、またふと、あれ、これって、御霊信仰じゃないのかなと気がついた。世界大百科事典にはこう書いてある(参照)
〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であるが,とくにそれが信仰の対象となったのは,個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって,その威力をかりてたたり,災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は,奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり,以後,さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。 奈良時代の末から平安時代の初期にかけては,あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが,人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え,彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。
「現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本」というが御霊信仰である。現代にまだあっても不思議ではない。
この場合だと、「過ちを繰り返す」と「個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)」が現れるのかもしれない。というか、原爆という戦禍も宗教的な深層心理的な枠組みではそう捉えられていたのかもしれない。それがいい悪いというのではなく、日本民族の自然宗教観として自然かもしれない。
しかし、もちろん、そう考えるも変だなと思う。なにより、戦禍で亡くなった霊魂が再び荒ぶるというのは変だろう。それはないだろう。
が、そこで「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を再び口をついてみると、死霊が「安らかに眠」れない状態は想定されていることに気がつく。
死霊は、日本民族が過ちを繰り返しはしないかと心配なのだ、という含みは、ここにあるだろう。あるいは日本民族として米国の過ちを心配。
私は基本的に死霊というのを信じない。死後の霊魂というのはないと思っている。
ただし、完全にそう思っているかというと、この世に愛を残した人たちの愛はどこかしら死後の霊魂につながっているような気もするので、完全にないとまでは信じられない。
それでも、仮にだが、死後の霊魂というのがあるとする。でまあ、いろいろ考えた結果なんだが、あったとしても、「R.I.P.(rest in peace)」だろう。この世界にいたときにどうあっても、死後は安らかにすごしていると思っている。
死後の霊魂があっても、もうこの世界のことや、生前どっかの民族に所属していることからは解放されている、と思うのである。
そう思うと逆に、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」というのは、死霊を日本民族というものに結びつける祈りになっているんじゃないのかな、と思った。米国など世界の人に訴えるとしても、日本の被害としてという含みがあるのではないかな。
こういう問題については、イエスはどう言うだろうかと思って、ふと、マルコ福音書12章を思い出した。イエスにこう問う人がいた。
ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。
古代ユダヤ人の世界では、子孫を残すために、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』となっていた。
この話に即していうと、この世界での婚姻などこの世界での結びつきは、死後どうなるかということである。
イエスの答えはこうだった。
イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
死後は、天にいる御使いのようになるとのことだ。
この世で結びつけていたものからは解放されている。
へえと思う。信じられるかというと、死後の霊魂のことなので、信じがたいなあとは思う。
それでも、死後の霊魂というのがあるなら、たぶん、もう日本人ということでは、なくなっているのだろうとは思う。
追記
碑文には解釈を巡る経緯もあり、広島市として公式の解釈が示されている。「原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、どういう意味ですか?(FAQID-5801)」(参照)より。
原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)は、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたいという気持ちから、埴輪(はにわ)の家型に設計されました。中央には原爆死没者名簿を納めた石棺が置かれており、石棺の正面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。
広島市は、この碑文の趣旨を正確に伝えるため、昭和58年(1983年)に慰霊碑の説明板(日・英)を設置しました。その後、平成20年(2008年)にG8下院議長会議の広島開催を機に多言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語(簡体字)、ハングルを追加)での新たな説明板を設置しました。その全文は次のとおりです。
この碑は 昭和20年8月6日 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を 平和都市として再建することを念願して設立したものである
碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心が ここに刻まれている
中央の石室には 原爆死没者名簿が納められており この碑は また 原爆慰霊碑とも呼ばれている
ここでは、「冥福を祈り」、「その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです」とあり、その願いは「過ち」の認識を元にしている。なお、2014年時点では、米国は、広島原爆については「過ち」とはしていない。
| 固定リンク
「雑記」カテゴリの記事
- ただ恋があるだけかもしれない(2018.07.30)
- 死刑をなくすということ(2018.07.08)
- 『ごんぎつね』が嫌い(2018.07.03)
- あまのじゃく(2018.03.22)
- プルーム・テックを吸ってみた その5(2018.02.11)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
アメリカ人は大使が出席してることをどう捉えてるんでしょうね
投稿: | 2014.08.10 18:40