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2014.08.29

イエス・キリストに会ってから信じても遅くないのでは

 ネットにはいわゆるネタというのがある。ただ話題のための話題というだけで、それ以上の意味はないが、ネタはネタだから話題にしてもりあがろうという不毛な遊びである。
 その手のネタにぱくつくのもどうかとは思うが、たまたま「会ったことのないイエスという存在をどうしてキリストだと信じられるのだろうか」というネタを今朝方ツイッターで見かけて、ああ、この人、聖書読んだことないんだなと思った。
 ヨハネによる福音書の話である。イエスの弟子であるトマスは当然生前のイエスを知っていた。その意味ではイエスに実際に会ったことがあるが、イエスが処刑されて死んだ後、復活されてキリストとなったということはトマスには信じられなかった。
 十字架刑で手に釘をさされ、脇を槍で突かれて死に絶えたイエスがどうして復活するんだろう。そんなわけないじゃないか。イエスが復活したとか言っているやつ、どうかしてんじゃないの。頭おかしいんじゃないの、とトマスは思っていたのである。
 だから、トマスは、復活したイエス・キリストが信じられるというなら、まず、その手の釘の傷痕と、脇の傷痕を自分で確かめて、自分で本人確認して、きちんと一度死んでいることを理解して、その上で生きた本人イエス・キリストに会わないと、信じられるわけないじゃん、と思ったのである。
 こう書いてある。ヨハネ福音書20:25から。


かの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 だっからさあ、処刑されて死んだイエスが復活したら、自分の目で会わないと信じられねーよ、とトマスはいうのである。
 すると、その8日後、復活したイエスが家庭訪問してきたのだった。

 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

 というわけで、復活したイエス本人がやってきて、トマスに対して、じゃあ、手に釘の傷痕見えたあ? 脇の傷はまだ穴開いているまんまだからねえ、と、実演してくれたのである。これでトマスもご納得。ようやく、「わが主よ、わが神よ」とイエス・キリストが信じられたのである。めでたしめでたし。
 どういうことか。
 それいいんじゃないの、ということである。
 イエス・キリストに会わなければ信じられないというなら、それでいいんじゃないのというのがこの話である。聖書である。
 イエスは歴史上のある特定の時代に生きていた人物に出会うことはできないと思うかもしれないが、聖書によれば、復活されたのだから、今、ほいっとやってきて、ほらねと会ってくれるかもしれない。
 それだけのこと。
 そんなのあるわけないじゃんというなら、それもそれだけのこと。
 ただ、そこまでして会わなくても、イエス・キリストが信じられる人もいるし、聖書ではさっきの話の先にこうもある。

 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 見なくても信じられたら、そりゃラッキーじゃないのということだ。でもそれはあくまでラッキーというだけで、イエス・キリストを信じることは関係ない。
 復活のイエスに会うまで信じられないというなら、それはそれでまったく無問題である。信じる人もいるし、信じない人もいる。他人は他人、自分は自分。
 トマスのようなことを言うやつは、イエスの弟子とは認めない、不敬だ、不信仰だといった罵詈讒謗を加えたりということはない。
 反面、戦前の日本では、天皇は現人神と言われていたが、そんなのいるわけないじゃんと公言してトマスのようなことができただろうか。

「私は天皇のところへ行って、直接『私は現人神』だという言葉を聞き、『疑うなら、この手にさわってみよ』といわれて、その手にさわり、その感触から、なるほどこれは人間ではない、やはり現人神だなあと感じない限り、そんなことは信じない」といったところで、「トマスの不信」が当然とされる社会なら、たとえ戦争中でも、これは不敬でなく、むしろ尊敬のはずである。第一、「信じない」ということは、自分の状態を正直に表明しているのであっても、客観的に「天皇は現人神でない」と断言しているわけではない。従ってそう私に質問した人間が、本当に天皇を現人神だと信じ、そう書いた新聞記者も本当にそう信じているなら、「なるほどね、そういう機会があるといいね」というだけのはずである。
(『ある異常体験者の偏見』山本七平より)

 戦前の日本では現人神に対するトマスの不信は許されなかった。なぜかというと、たぶん、「天皇は現人神だと信じる」と言う人は、言ってはみるものの信じてはいなかったからだろう。信じていないのに信じるという矛盾が、他者に信仰を強いるという奇妙な行動を引き起こした。
 イエスに戻れば、イエスに会うなんて幻覚だろというなら、それもそれでいい。さっきの聖書の話も、仔細に読むと、「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ」とあるので、よほど特殊な量子トンネル効果があったか、復活のイエスは微妙に物質のみで形成されたわけでもないのかもしれない。ただ、トマスが触れたくらいだから、まったくのダークマターであったということでもないだろう。
 冗談みたいな話になってきたが、重要なのは、「こうこうしたらイエス・キリストが信じられる」として自分の真実性に課した条件が、どのように満たされるかということだ。別の言い方をすれば、その条件に課した真実性を上回る確信が生じたら、イエス・キリストが信じられることだろう。もちろん、別段信じなくてもいいと結果的に聖書は言っている。そうじゃなく信じろというなら、戦前日本の現人神信仰みたいなことになってしまう。
 つきつめれば、自分の人生のなかで、真理とされる最終条件は何かというふうに考えてもよい。
 それはなにか?
 自分の死である。
 自分にとって自分の死ほど確実なことはない。自分の死は認識でできないから自分にとって死はないと言うこともできるし、それを信じてもいい。だが、人は心の底で自分が確実に死ぬことを信じている。あるいはそう信じなくても処罰の最終に置かれるのは死刑である。
 しかしその先には、そうであれば死を決意しえすればなんでもできるはずだという思いが潜む。この世が与える罰は死刑までだ(そこに至るまで苦しみはいろいろ選べるが)、自分の死を支払えば人を殺したっていいことにだってなる。
 実はそこで、人は死の支配の奴隷になっているのである。
 復活のイエス・キリストは、そうして死を信じる人間の絶望にユーモアをもたらす。
 
 

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コメント

トマスはイエスが現れて自分に声をかけただけで信じたので、実際に以前公言していたように試してみたわけではないと思いますが。私はそう思っていました。

投稿: 横着サイクリスト | 2014.08.29 17:08

ひどい内容だ(;一_一)。
ブログ主はトマス・アキィナスについて全く知り得ていないのだろう。彼の信じた所謂キリスト教神秘主義は、体験できればラッキーだとかそんなレベルの話ではない。れっきとした敬虔信仰である。
それと、キリスト教と天皇を同列に捉えるのも理解に苦しむ。当時の人が一神教のように天皇を崇拝していなかったというのは、現代では常識だということを、このブログ主は知らないのだろうか?
普遍主義的宗教には存在する原理や教義を、神道は持たないという初歩的なことが分かっていれば、両者を同列に論じられるものではないことはすぐに分かるはずだ。原理やドグマを持たない神道のどこに、一神教のような絶対性があると考えるのか。まずはその根拠を示して頂きたいものだ。
それができないくせに、素人が下手な内田樹の猿真似のような文章を書いてほしくないね。

投稿: ババァズマジック | 2014.08.29 18:26

「ゴータミー」で検索すると「ラザロ」のことがでてくるね。結局、本人が気付けるかどうかだよね。ネットの困ったところは、永遠に気付けそうもないんだよね。オレは、ラジオ深夜便で、現代の治らない結核の人が、自然を観察していたら、気がついた、そうしたら結核も治ったというのがあって、それがきっかけで、自然信仰みたいのがはじまったかなぁ。なので、信じることができる人のそばにいるだけでも、気付きの始まりだとは、思う。ま、ネットを見続けているのは、気付く人がたまにいて、その瞬間に接するのが楽しみなんだよなー。

投稿: | 2014.08.29 19:38

 ヨハネの教団で断食行とか修行してるから全く文盲じゃ無かったとは想うけど残る程の著作能力は無かったし、反ローマ民族主義者の大工の徒弟崩れと逢ったって鎧と無知が透けて視える此の男に入信する気に成るか甚だ疑問です。 結集の際、多くの初期教団文書が廃棄された様に、無稽の神人伝承が流布され、撞着回避の為三位一体説がでっち上げられた位の曾孫玄孫弟子の聖化され神話化されたた描像で有る聖書から本人の実像を把握するのは不可能です。 但し、水をワインに変える(本人談若しくは母親証言)のみは羨ましく思う次第です。

投稿: 甕星亭主人 | 2014.08.30 00:49

なるほど。
得心が行きました。ありがとうございます。

投稿: ザカリア | 2014.08.30 15:05

現人神とトマスについて覚書レベルですが。
以前は山本氏の考えを全くその通り、などと思っていたものだった。
が、最近意外なところから現人神概念の別の面が見えてきた。
Google画像検索で現人神を検索するとトップに出てくる緑髮の少女、東風谷早苗から思い至ったことである。
早苗は同人ゲーム「東方project」の登場人物であり、彼女の一族は強力な神(とはいえゲーム中では家事を早苗とともに当番でやっているような存在)に代々仕え、神の力を代行することで自身も神としての信仰を受けた結果、奇跡を起こす神となり現人神になったという。
この一族のモデルは諏訪大社神官守矢氏なのだが……本来の現人神概念はこっちの方が近いんじゃないか、と思うのだ。江戸時代まではこんな現人神の家系は幾つもあったのだ。
まず、イエスはヨハネ福音書にあるように「私がそれである」とイエス=ヤハウェ(「ある」)がいく度となく繰り返されている。いわゆる「生き神様」ではなく「神様が生きている」状態であり、ヒンドゥー的なアバターともまた違う。ここら辺は色々な人が詳しく言っていることを平たく言っているだけなのでこの先は省略。
一方、元々本邦で言われていた現人神は先に信仰があって神になるのであり、つまるところ「神様仏様ほにゃらら様」という言い回しがあるように神様や仏様と同列の存在に格上げすることに本質があると考える。実際いいお代官様だかなんだかが祠を作られ現人神になり祠にお神酒が献杯されると本人が飲んで無くても酔っ払ってしまうようになったという伝承もあるそうだ。(ただしソース失念につき嘘だと思うなら嘘と思え)
そして一方で東方の作中でいみじくも言われているのだが、神と巫女は互いに依存して存在せざるを得ないため、どちらがどちらに仕えているのだか分からない状態に現在は落ち着いている。多神教世界の日本の神は人間より優位な知的生命体程度のものでしかないのだからしょうがない。
つまりまとめると、現人神はたゆまぬ信仰の力で、人間よりちょっと強いくらいでしかない神様と同レベルに引き上げられている、と言った程度の状態になるわけだ。
ここでトマスが出てきたら……現人神は墜落する。古代であればそれこそ先代現人神を殺して新しい現人神を立てることになるが現人神たる有資格者が少なければもはやそれすら困難だろう。いきおい、トマスをなんとしてでも排除せざるを得ない。
なんだか「超常現象を疑う人物の前では超常現象の原因となるものが拗ねてしまうので超常現象が観測されない」みたいなもやもや話になるが、書き殴ったまで。我ながら日本語になってないところが多い。

なお、東方は原作はほとんどがシューティングゲームであり原作のキャラクターも二次創作ほど萌え傾向はない。たまに格ゲーもあるが。

投稿: 黒猫屋倫彦 | 2014.09.07 13:13

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