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2014.08.30

米国の防衛費は主要国の防衛費を合算したくらい大きいですが、それが何か?

 昨日、防衛省の予算要求が出され、3年連続増で、5兆545億円と過去最大となった。ふーん。
 この数値を見ると大きいなあと思うかもしれないし、3年連続増も注目されるかもしれないが、社会保障や公共事業など内政の経費は76兆円弱なので、日本という国で国家予算に軍事費が突出しているということでもない。このことは後でも触れる。
 それはそれとして、ふーんという感じで受け止めていたのだが、この話題にBBCがぱくついていた。「日本防衛省は過去最大の予算要求をする(Japan defence ministry makes largest-ever budget request)」(参照)というのだが、写真がいかにも安倍内閣が軍国主義志向といった印象を与えて、うひゃあと思った。BBCの日本報道って通常けっこう質がいいのだけど、どうしてこうなっちゃうかなあという感じである。

 幸い、内容はそれほど偏ってもいない。APからの孫引きだが小野寺五典防衛相の話もきちんと伝えている。また増えた理由に関連して、共同や時事の孫引きで、離島防衛関連の必要が高まったことも伝えている。なにより、中国の防衛費が日本の防衛費の拡大の2.5倍の急拡大であることもきちんと伝えている。普通に読めば、日本が中国軍拡の煽りを食らっているなあというくらいの線には収まっている。
 BBCとしては日本の軍拡や安倍政権の軍国主義志向というより、アジアの不安定化要因が増してきたという意識はあるだろう。
 さて、BBCの記事もその程度の話で、これもしいていえば、ふーんというくらいのものだが、この記事の終わりにちょっと面白いネタが付いていた。
 結論から言えば、まあ、識者なら知っているよね、これも、ふーんというという話題でもあるのだが、こういうビジュアルでまとまっていると面白いなあという印象があったので、そこだけ切り分けて、ツイッターで流したところ、自分には意外だったのだけど、けっこう関心を持つ人がいた。まあ、こういうの初めて見ると、驚く人もいるかもしれない。
 こういう図である。防衛予算の上位15か国をその費用の大きさを図でまとめたものである。

 見るとわかるけど、「白雪姫と七人のこびと」といった趣きで、米国が断トツにでかい。巨人だ。ベルトルト。円で示した予算の図の下に、米国以外の上位14か国を並べて米国と比較した横棒グラフがあるけど、米国が上位12各国に匹敵する。
 これを見ると、米国ってなーんて軍事大国なんだと思う人もいるかもしれないし、まあ、それはそうなんだけど、それが現実だし、別に降って湧いてこうなったわけでもないので、識者としては、ふーん、というか、これはあれです、「米国の防衛費は主要国の防衛費を合算したくらい大きいですが、それが何か?」という感じ。
 むしろ、この米国が弱体化してきて、世界が不安定化していると見てよいわけだから、現代版パクス・ロマーナ(Pax Romana)というしかないし、現下のウクライナ問題もウクライナとしてはNATOに入りたがっているわけで、これはようするにパクス・ロマーナを拡大してくれということでしかない。
 とはいえ、7人のこびとの順番の顔ぶれはなかなか興味深いものがある。
 長兄・次兄は、中国・ロシアである。中国のほうがすでにでかいのな。いちおう、対米国という枠組みでは、中露は協調することが多くて、シリア問題とか国連は手が付けられない状態になる。余談だが、国連というのは、各国町内会という以上の意味はない。社交の場というか、合コンみたいなもの。
 でと。当然だが、中露も対立しているわけで、この対立がもうちょっと深まると、米国とか、その他のこびとにも微妙にゆったりしたムードが広がるかもしれないが、このあたりも微妙。
 三男がサウジ・アラビア。これが意外だった人は、国際政治のセンスないです。つまり、そういうことです。いや、そういうこと、というか、これがいろいろと諸問題を引き起こしている。別の見方をすれば、中東問題を安定化させてきた要因でもあったのだが……遠い目。
 そして、四番目の長女メグが英国、次女ジョーがフランス、三女ベスが日本、四女エイミーがドイツと、かく若草物語になるわけです。じゃね?
 国家規模からすれば、日本が当然長女なのに三女に収まっているあたりが、なかなか黒髪に青い目で内気なベスといったところ。
 八番目からもなかなか面白い。インド、ブラジル、韓国と新興国が続くというか、韓国は日本の60%くらいなので、国力比としては日本と同じなんだなと思う。防衛費というのはけっこうが人件費なんで、徴兵制の韓国だとその部分で予算削減ができるのかなともちょっと思う。
 それから、オーストラリア、イタリア、イスラエル、イランと続くわけだが、国力比からみると、オーストラリアが意外に軍事に注力している。イスラエルももちろん。イタリアはまあしかたない。
 イランは国力の潜在するからすると韓国を上回るくらいになるだろうから、潜在的に軍事バランスの面からみるといろいろ気になるところ。
 こちらからは以上です。
 
 

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2014.08.29

イエス・キリストに会ってから信じても遅くないのでは

 ネットにはいわゆるネタというのがある。ただ話題のための話題というだけで、それ以上の意味はないが、ネタはネタだから話題にしてもりあがろうという不毛な遊びである。
 その手のネタにぱくつくのもどうかとは思うが、たまたま「会ったことのないイエスという存在をどうしてキリストだと信じられるのだろうか」というネタを今朝方ツイッターで見かけて、ああ、この人、聖書読んだことないんだなと思った。
 ヨハネによる福音書の話である。イエスの弟子であるトマスは当然生前のイエスを知っていた。その意味ではイエスに実際に会ったことがあるが、イエスが処刑されて死んだ後、復活されてキリストとなったということはトマスには信じられなかった。
 十字架刑で手に釘をさされ、脇を槍で突かれて死に絶えたイエスがどうして復活するんだろう。そんなわけないじゃないか。イエスが復活したとか言っているやつ、どうかしてんじゃないの。頭おかしいんじゃないの、とトマスは思っていたのである。
 だから、トマスは、復活したイエス・キリストが信じられるというなら、まず、その手の釘の傷痕と、脇の傷痕を自分で確かめて、自分で本人確認して、きちんと一度死んでいることを理解して、その上で生きた本人イエス・キリストに会わないと、信じられるわけないじゃん、と思ったのである。
 こう書いてある。ヨハネ福音書20:25から。


かの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 だっからさあ、処刑されて死んだイエスが復活したら、自分の目で会わないと信じられねーよ、とトマスはいうのである。
 すると、その8日後、復活したイエスが家庭訪問してきたのだった。

 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

 というわけで、復活したイエス本人がやってきて、トマスに対して、じゃあ、手に釘の傷痕見えたあ? 脇の傷はまだ穴開いているまんまだからねえ、と、実演してくれたのである。これでトマスもご納得。ようやく、「わが主よ、わが神よ」とイエス・キリストが信じられたのである。めでたしめでたし。
 どういうことか。
 それいいんじゃないの、ということである。
 イエス・キリストに会わなければ信じられないというなら、それでいいんじゃないのというのがこの話である。聖書である。
 イエスは歴史上のある特定の時代に生きていた人物に出会うことはできないと思うかもしれないが、聖書によれば、復活されたのだから、今、ほいっとやってきて、ほらねと会ってくれるかもしれない。
 それだけのこと。
 そんなのあるわけないじゃんというなら、それもそれだけのこと。
 ただ、そこまでして会わなくても、イエス・キリストが信じられる人もいるし、聖書ではさっきの話の先にこうもある。

 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 見なくても信じられたら、そりゃラッキーじゃないのということだ。でもそれはあくまでラッキーというだけで、イエス・キリストを信じることは関係ない。
 復活のイエスに会うまで信じられないというなら、それはそれでまったく無問題である。信じる人もいるし、信じない人もいる。他人は他人、自分は自分。
 トマスのようなことを言うやつは、イエスの弟子とは認めない、不敬だ、不信仰だといった罵詈讒謗を加えたりということはない。
 反面、戦前の日本では、天皇は現人神と言われていたが、そんなのいるわけないじゃんと公言してトマスのようなことができただろうか。

「私は天皇のところへ行って、直接『私は現人神』だという言葉を聞き、『疑うなら、この手にさわってみよ』といわれて、その手にさわり、その感触から、なるほどこれは人間ではない、やはり現人神だなあと感じない限り、そんなことは信じない」といったところで、「トマスの不信」が当然とされる社会なら、たとえ戦争中でも、これは不敬でなく、むしろ尊敬のはずである。第一、「信じない」ということは、自分の状態を正直に表明しているのであっても、客観的に「天皇は現人神でない」と断言しているわけではない。従ってそう私に質問した人間が、本当に天皇を現人神だと信じ、そう書いた新聞記者も本当にそう信じているなら、「なるほどね、そういう機会があるといいね」というだけのはずである。
(『ある異常体験者の偏見』山本七平より)

 戦前の日本では現人神に対するトマスの不信は許されなかった。なぜかというと、たぶん、「天皇は現人神だと信じる」と言う人は、言ってはみるものの信じてはいなかったからだろう。信じていないのに信じるという矛盾が、他者に信仰を強いるという奇妙な行動を引き起こした。
 イエスに戻れば、イエスに会うなんて幻覚だろというなら、それもそれでいい。さっきの聖書の話も、仔細に読むと、「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ」とあるので、よほど特殊な量子トンネル効果があったか、復活のイエスは微妙に物質のみで形成されたわけでもないのかもしれない。ただ、トマスが触れたくらいだから、まったくのダークマターであったということでもないだろう。
 冗談みたいな話になってきたが、重要なのは、「こうこうしたらイエス・キリストが信じられる」として自分の真実性に課した条件が、どのように満たされるかということだ。別の言い方をすれば、その条件に課した真実性を上回る確信が生じたら、イエス・キリストが信じられることだろう。もちろん、別段信じなくてもいいと結果的に聖書は言っている。そうじゃなく信じろというなら、戦前日本の現人神信仰みたいなことになってしまう。
 つきつめれば、自分の人生のなかで、真理とされる最終条件は何かというふうに考えてもよい。
 それはなにか?
 自分の死である。
 自分にとって自分の死ほど確実なことはない。自分の死は認識でできないから自分にとって死はないと言うこともできるし、それを信じてもいい。だが、人は心の底で自分が確実に死ぬことを信じている。あるいはそう信じなくても処罰の最終に置かれるのは死刑である。
 しかしその先には、そうであれば死を決意しえすればなんでもできるはずだという思いが潜む。この世が与える罰は死刑までだ(そこに至るまで苦しみはいろいろ選べるが)、自分の死を支払えば人を殺したっていいことにだってなる。
 実はそこで、人は死の支配の奴隷になっているのである。
 復活のイエス・キリストは、そうして死を信じる人間の絶望にユーモアをもたらす。
 
 

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2014.08.28

安価なヘッドフォンを3つ買った話

 よく使っていたヘッドフォンが壊れた。壊れた理由は、まあ、事故といった類であり、品質とかには関係ない。

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Pioneer
密閉型ヘッドホン
オーディオ用
SE-M290
 ちなみにそれは、「Pioneer 密閉型ヘッドホン オーディオ用 SE-M290」(参照)である。音も悪くないし、装着感も悪くない。高級ヘッドフォンと比べるのはナンセンスだが、普通に使っていて特に不満もないといったタイプのヘッドフォンである。またこれを買うかと値段を見ると、7,490円というのだが、そんなに高かった記憶がないので、調べてみたら、当時は1,782円だった。なんで急騰していんでしょ。わからない。
 その価格帯に「PIONEER 密閉型ダイナミックステレオヘッドホン SE-M521」(参照)と「PIONEER 密閉型ダイナミックステレオヘッドホン SE-M531」(参照)があるので、それにするかなあとも思ったが、ヘッドフォン、ヘッドフォンしたヘッドフォンもどうかなとか思って、他のを買うことにした。
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CRESYNヘッドホン
C515HブルーC515H-BL
 そう思ったのは、その間、「CRESYN ヘッドホン C515H」(参照)も使っていて、こういう気楽なのもいいなあと思っていたのだった。音は意外と悪くない。音漏れはする。とにかく気楽に使える。私が買ったのはグレーのやつだが、もうアマゾンでは見かけない。ちなみに、イヤホンが壊れたんだけどなんかないという人がいたので、これ貸したら気に入ったというのであげた。あげたら自分用のがなくなったので、なんか似たようなの買うかと思った。どうでもいいけど、ヘッドフォンとかイヤフォンとかよく人にあげちゃう。
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Pioneer密閉型ヘッドホン
ホワイト SE-MJ522-W
 で、これ。「Pioneer密閉型ヘッドホン ホワイト SE-MJ522-W」(参照)。まあ、音は悪くない。もちろん、そんなにいいわけもなく、音の広がりはあまり感じられない。ただ、低音の響きや中域高域の延びは悪くない。宇多田ヒカルの曲はけっこういろんな音の成分が入っているので、それでチェックしてみると、以前と違った音が拾えててにやにやした。が、まあ微妙に隔靴掻痒な代物。あと装着感がいまいち。ちょっときつい感じがする。僕の頭はそんなに大きくはないのにそうなんで、頭の大きい人にはきついかも。売りポイントに折りたためるので携帯するのによいとあったのだが、実際のところ、それほど便利でもない。それでも、悪くないチョイスかなあ。追記:と書いたのをきっかけに畳む機能を見直したら、意外に便利でした。
cover
audio-technica
密閉型オンイヤー
ヘッドホン
テレビ用シルバー
ATH-200AV
 で、ついでに「udio-technica 密閉型オンイヤーヘッドホン テレビ用 シルバー ATH-200AV」(参照)を買った。何故?というところだが、「テレビ用」とあるように、テレビ用です。コードが3.5m。そんなの延長コードでいいだろうというのもあるのだけど、延長コードは先日、入院する人に貸してなくしてしまっていたのだった。音はそこそこ悪くない。いいんじゃないかと思う。というか、テレビ用にしか使わないが、その用途ではとても便利。装着感も普通といったところ。
 テレビって夜とかだとあまり大きな音立てて聞くもんじゃないよなとつい気兼ねすると、耳がそう悪いっていうことはないと思うのだけど、よく聞こえないんですよね。ヘッドフォンだと便利です。
cover
JVCグミホン
ステレオミニヘッドホン
ブラック HP-F140-B
 ついでにイヤホンも買った。理由は耳に突っ込むタイプのイヤホンがきらいなんで、適当なものはないかと適当に選んだだけ。グミって書いてあるようにグミな感じで、色もいろいろ選べる。装着感は悪くない。音も普通。いい部類。当初、以前から使っていたソニーの買おうかと思ったらもうなかったのだった。
 

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2014.08.27

[書評]関口・新ドイツ語の基礎(関口存男・関口一郎)

 相変わらずドイツ語を勉強していてる。当初、こんな簡単な言語はないなと思っていたが、とんでもない。難しい。文法の規則は頭ではわかるが、文法の感覚がぜんぜん付いて来ない。ナチュラルなスピードで発話されると、あちこち音が脱落・省略しているらしく聞き取れない。二人称の疑問文でDuなんかほとんど聞き取れないというか、動詞語尾のtにほとんど吸収されている。
 でもだいぶ慣れてきた分離動詞もしっくりきつつある。英語がますますフランス語に感じられる。夢のなかで、"Ich gehe gerne nach Österreich."とか呟いている自分がいる。

cover
関口・新ドイツ語の基礎
CD付 復刻版
 それはそれとして。ドイツ語学習であまり他の教材に手を伸ばすのはやめようと思っていた。が、たまたま手にした『関口・新ドイツ語の基礎』(関口存男・関口一郎)という本(参照)が妙に面白かった。というか、あれ、これがかの有名な「関口存男」なのか、へえと思ったのである。
 昭和22年に書かれて、昭和59年に改訂されている。とすると、この関口一郎さんは息子さんかと思ったら、お孫さんだった。しかも、2001年に55歳で亡くなっていた。歴史だなという感じがする。改めて、関口存男の生年を見るに明治27年。私の祖父母よりも10年は年上という感じ。ちなみにそのあたりの小林秀雄の生年が明治35年。そのフランス語の先生・辰野隆が明治21年だから、関口は辰野に近い年代だな。
 同書だが、改訂されているせいか、古びたという印象はない。フランス語もそうだったがドイツ語も、英語のようにころころ語彙・表現・様式が変わるということがない言語のようにも思える。
 卑近に面白いのは、昔の学校の先生ような雑談的な話題が含まれていることだ。

 眼で覚えた外国語はたいして役に立ちません。耳で覚えた外国語は、それよりはいくらかましかもしれないが、役に立たぬ点では大差はありません。では何で覚えた外国語が役に立つか? それは手で覚えた外国語、舌で覚えた外国語です! 手で書きなぐり、口一杯に頬張ってどなり散らした外国語です!
 どなり散らすのはまだちょっと早いかもしれません。あたりに人のいない時をみはらい、やおら奇声を張り上げて例題を読誦してみてください。柱時計がびっくりして止まったら、「何だ!」といってにらみ返してやるべし。そのくらいの元気がなくちゃ駄目です。

 笑った。そして、その方法を真似ることにした。たまにでっかい声でドイツ語で喋ることにした。柱時計がないのが残念。
 ch音の説明もまた、おかしい。

たとえばドイツの映画などを見ていると、女が、Ach!という時の音は、ほとんど「ア!」としかきこえませんが、しずかな時にはその後にもちょっと息のかすれが漏れます。それがまたとても性的魅力があって……(以下削除)。

 「以下削除」は原文にあるとおり。
 同書だが気になって調べてみると元は『新ドイツ語大講座』の三巻本で1965年に藤田栄改訂で合本になっていた。そのころにはまだ普通にこの本が使われていたのだろう。ちなみに、上述の引用部を原本に当たったら「映画」は「トーキー」だった。そりゃそうだよなあ。
cover
関口存男の生涯と業績
POD版
 関口存男という人は面白いなあと思って関連のものをちょっと拾い読みしてくと、これがまた面白い。『関口存男の生涯と業績』(参照)に彼の「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか?」というエッセイがある。

 えゝと、一寸申しおくれましたが、私の年齢は今五十……八だったかな? 九だつたかな?(どうも自分の年という奴は困るです。今年こそは断然覚えてやろうとおもつて年頭に断然覚える事もあるんですが、翌年になるモウ違って来るので、しよつちゆう頭のなかで混乱して今日に及んでいます。

 ちなみに、私も57歳になったが、わかる気がするなあ、それ。
 「語学をやる覚悟」というのもおかしい。

本当に語学を物にしようと思つたら、或種の悲壮な決心を固めなくつちゃあ到底駄目ですね。まづ友達と絶交する、その次には嬶アの横つ面を張り飛ばす、その次には書斎の扉に鍵を掛ける。書斎の無い人は、心の扉に鍵を掛ける。その方が徹底します。


勿論人に好かれない事は覚悟の前でなければなりませんよ。人に好かれてどうなるものですか。人にだけは好かれない方がよろしい。そんな量見だけは決して起こす可らずです。余計なことですからね。『人に好かれる』なんて、人に好かれるような暇があつたら、その暇にしなければならない事はいくらでもあります。


△既に先進国を前に控えた新興国の新興時代は、すべての人が語学者でなければならない。――過去を見ればわかります。漢文ができなくて支那印度の精神文化を受け入れた学者があつたでせうか。
△要するに、そんな言ひ草は通用しません。『ちよつとやつて見る』とか、『手段としてやる』なんてやり方はありません。『やる』以上は『やる』。やるに二つはありません。

 『獨逸語大講座』の六巻にはドイツ語学習のエピローグとして十訓が上げられている。

1. 文法には統一あらざるべからず。
2. 先づ馬鹿の一つ覚えをしろ。
3. 容易な文例を澤山読め。
4. 逐語訳によれ。
5. 音読しろ。
6. 中腰でやる位なら止せ。
7. 文法上の概念と術語とをはつきり意識しろ。理屈に負けるな。
8. 原書を引きながら辞書を読め。
9. 言は事なり。
10. 欧州人種の概念形態に興味を持て。

 そのあとが、じんとくる。

 では本当にさようなら。いつまでも初歩の辺りでうろついてゐないで、はやく原書に沈没して、四五年後に顔を上げて下さい。世間が面白くない時は勉強にかぎる。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ。

 出版されたのは昭和6年8月18日のことだ。その一か月後に満州事変勃発となる柳条湖事件が起きる。
 「失業」という関口の頭にあったのは、世界大恐慌の煽りで、昭和5年翌昭和6年にかけて起きた昭和恐慌だろう。昭和四年小津安二郎『大学は出たけれど』の表題が期せずして流行ることなった。

 Ich sage laut, Lehrer Sondern!

世間が面白くない時は勉強にかぎる。 失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ。
   

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2014.08.25

[書評]あそびあい(新田章)

 ネットで話題になっていたので読んでみた。『あそびあい(新田章)』(参照)アマゾンで見たら売り切れていたので、アニメイトなら売っているんじゃないかと行って主婦風の店員に聞いたらまるで知らない。検索も大変そうだった。こんなマンガですよとケータイで表紙を示した。

cover
あそびあい(1)
 こんなマンガ……いきなり高校二年生がバックでセックスしまくるマンガですよ……とは言わなかった。が、ロリっぽい少女がスカート広げている表紙をかざすおっさんである自分はちょっと気まずい。結局、キンドルで買った。最初からそうすべきだった。
 物語は単純と言えばごく単純な恋愛物語である。ある障害があって二人の恋はなかなか進展しない。そこにいろいろ他の登場人物もまじって恋愛の悩みが繰り広げられる。読者はその恋の行方にハラハラとする。それだけである。源氏物語から「めぞん一刻」とか、まあよくある恋愛物語という感じだ。この物語で彼らの恋を阻んでいるのは、「幼さ」である。恋の。
 高校二年生のややイケメンの山下君は、同級生の小谷ヨーコが好きだと思っている。物語は彼らのセックス・シーンから始まる。ヨーコいわく「山下のは後ろからが好きなの……」。山下君は答える「他の奴のはどうなのかって考えちゃうじゃん」。つまり、「の」というのはペニスである。ヨーコはすでに複数の男と関係をもっている。山下君はそのうちのワン・オブ・ゼムでしかない。
cover
あそびあい(2)
 山下君はなんとかヨーコが他の男と関係しないような、そうした二人だけの関係にしたいと願うが、ヨーコはおかまいなし。他の男と快楽なセックスができたら、お得じゃないと考える。そのために、けろりと、自然に、嘘をつきまくる。
 というわけで、ヨーコはビッチだ、こーゆー女いるよな、というふうにも読まれる。というか、その仕掛けがこの物語の特徴に見えるのだが、たぶん、この仕掛けは作者ではなく編集サイドの提案だろう。ビッチな女とフツーな男の恋の物語って、面白いんじゃね?というくらいの。
 しかしこの物語が面白いのはその仕掛けではない。ヨーコとその風景のある確かな実在感だ。昭和から平成の時代の過渡期のような、写真をトレースしたようなつまらない風景だが、どの風景にも、どけちなヨーコが生まれ育ったある凡庸な貧しさの詩情が感じられる。
 なかでもヨーコの住んでいる団地の描写は美しい。非人間的な団地に抑え込まれた人間のエロス性が解放された顕現としてのヨーコの身体には、団地のバルコニーを登るような生き生きとした生命感がある。反面、快楽としていいセックスをしたいとする、その単純な生命の充実は同時に倫理の欠落を伴う。団地より多少ましなマンション暮らし中年男・遠藤との退廃的な性関係のなかにそれは投影される。
 女の心理的な実在感は、ヨーコよりもその親友設定の横井みおに見られる。心理的というのは妄想的と言ってもよい。表層的に性的に描かれる小谷ヨーコよりも、性の力に動かされているのは、みおのほうであり、それは彼女の視線とその先にある山下君の手に象徴されている。おそらく作者の情感は、実験的にヨーコとみおに分解されているが、おそらく一つの女である。
 ゆえに物語は、山下君とヨーコとみおの三角関係ではおさまらない。恋と性を詳細化するために、山下君には年下の処女である椿が登場する。物語は二巻で、椿にとっては初体験のところで現在終わっているが、この過程で、性交渉というものがまた対比的に描かれることだろう。そして、おそらくうまく行くわけがないという読者の直観が物語を支える。
 物語を物語としてたらしめているのは、恋の「幼さ」である。山下君はもろにその幼さを滑稽に押し詰めるが、同時にヨーコもまた、恋のもつ複雑さを性のなかで単一的にしか理解できない「幼さ」がある。あるいは、他者というのをそのようにしか受容できない「幼さ」である。寝入っている山下君の手が重たいとして振り払うシーンでヨーコは他者の輪郭をしっかり描きながらも、恋の輪郭を知り得ていない。物語はこのあと、ヨーコにとっても恋の成長のように進むかに見える。が、そこでもただ純愛に至ることことがないことは読者に予見される。
 物語はどうなるのだろうか。ハッピーエンドなら駄作のギャグになってしまうだろうし、だが悲劇で解消される予見はない。かぎりなく悲劇に接近していかなければ、かぎりなく恋の切なさを喚起していかなければ、「幼さ」の意味は明らかにならない。
 
 

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2014.08.23

公共図書館のことも考えていた

 気がつくともう二週間経ってしまって、いかんなあ、このままだと心にもわんとひっかかったままの状態が続きそうだ、と思い、とりあえず書いてみることにした。先日、筑波大学春日エリアメディアユニオンで行った「ALIS定例会特別企画 クラウドファンディング報告・講演会」(参照)についてである。
 講演会を実施されたかた、それと聞きに来てくれたかた、ありがとうございます。
 心にひかかった、というより、いろいろな思いがこんがらがっていた、と言うべきかもしれない。そこで思うままにいくつか、もつれた思いを書いてみたい。
 なぜ講演に出たのか。これについてはすでに触れたとおり、主旨に賛同したことがある。ただ、これが募金の前であったら、少し悩んだかもしれないとは思った。つまり、自分の講演の出来不出来が募金に影響したら、どうだっただろうか、ということだ。その悩みを仮想にこの間、自分の思いのなかで繰り返していた。暫定的な、かつ全体的な結論を言えば、主旨に賛同するとしても、募金タイプのクラウドファンディングは、ミッションよって設定された目標値の金額に対して、全体が統制されるべきだろうということだ。集まった寄金が少ないのは残念としても、過剰であるべきではないだろうという含みもある。
 今回のクラウド・ファンディングについていえば、公共図書館で破損された「アンネの日記」関連の書籍の補充に役立てるということが当初の主旨であり、結果報告で伺った範囲では、他の補充援助と併せて、ちょうど妥当なところだったかと思った。逆に言えば、それ以上の寄金が集まったら、それはそれで多少やっかいな問題になっただろうかとも思えた。
 このことは、私自身は今回の件では限定された賛同という関係であり、ミッションそのもののに関わっていないが、それでもミッションの見直しの可能性について少し考えの余地を残した。簡単にいえば、今回のもとになる話題で、「アンネの日記」関連の書籍という部分がどれだけの意味あいを持つかということである。
 原則的に突き詰めていけば、「アンネの日記」との関係より、一般的に一定期間での公的図書館における、破損書籍の補填ということになるはずである。また、そうであれば、寄金型のクラウド・ファンディングの課題より、一般的な公共の行政のありかたの問題になるだろう。
 しかし、と、ここで思う。公共図書館で本が正しく扱われるようにするにはどうしたらよいか。関連して、公共図書館での本の購入のあり方を含め、公共図書館は市民社会にどうあるべきか、という問題設定になると、一般的な公共の行政のありかたを少し越える部分が出てくる。誰が公共図書館を守るのか。その前線に経つのは誰か。図書館員だろう。では、市民は図書館員とどいう接点を持つべきか。
 実は、この部分の関連の問いは、講演時点の質問で問われた部分でもあった。私の回答は、公共図書館のありかたについて意見提言をする市民団体を形成するとよいだろう、ということだった。これはもっと一般化できる。市民と公共図書館のありかたを考える市民団体があるべきだ、ということである。
 私はこの分野に専門外なので伝聞かつ断片的な情報しかないが、そうした思いを持つ人や試みもあったらしい。
 以上をまとめると、「市民と公共図書館のありかたを考える会」というのの運営の寄金をつのるクラウド・ファンディングが継続的にあってよいのだろうと思う。
 では、と、ここで課題が続く。それはどうあるべきか。何を指針に考えるべきか。この部分も後援会の質問で問われたことに関連している。
 私の答えは、「固定的に考えるべきではない」ということと、そのうえで、「図書館員のと対話を通して、順次考えればよい」というものだ。対話を通して、図書館員の常識に市民が信頼するという形態にもっていけたらよいと思う。
 もちろん、それはとても難しいことである。その対話、つまり、図書館員間の対話と、図書館員と市民の対話、そうした対話の運動は、今後の日本の市民社会にとって大切な課題になるように思う。
 もちろん、現実問題としてどうするのか、というのは難しい。だが、市民が結果的に求めているのは、市民は公共図書館をどう考えたらいいかという、なにかきっかけというか、糸口のような指針だろう。図書館員の誰かが、きっかけとなる声を上げるべきではあるのだろう。
 と、書いてみると、結局、質問回答で述べた部分をまとめた形になった。
 もわんとした思いに戻る。
 わざわざ私の講演を聴きに来てくれたかたがいらっしゃって、けっこうびっくりした、というのがある。嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。伺うと、申し込んだけど締め切りで参加できなかった人がいたという話も聞いた。こっそり言うと、私はあまり多くの人の前に出たくはないというのもあったので、申し訳ないなあと思った。
 講師としての一般的な反省もあった。自著にも少し書いたが、私は30代から40代、業界の講師をしたり、専門学校や、大学の非常勤講師などもしたことがある。20代、大学院生時代にも代講みたいのをしていた。
 他にも思い出すと、プレゼンなどもやった。よくやったなあという部類だったが、気がつくと、この十年はやっていない。久しぶりにやってみると、あがったせいもあるが、声のトーンや大きさ、話す速度、目配せ、時間配分など、基本が少し下手になっていた。やっている途中に気がついて、焦った。
 他に、会場である筑波が東京から意外に近いのにも驚いた。筑波エクスプレスというのに乗るのは初めてだった。速いものだ。当初、筑波は遠いなあ、帰りはどっかで一泊していくかなあ、とか暢気に考えていたがのだが、電車を調べると、そんな必要はまったくなかった。
 車窓から田んぼよく見た。今年はよく田んぼを見る。
 先日、cakesに開高健記念館のことを書いたが(参照)、7月、茅ヶ崎に行った返り、ふと気まぐれで相模線に乗り、ぼんやりと田んぼを見ていた。相模線も久しぶりである。ホームでは電車のドアが閉まっていて、はて?と思ったら、ボタンを押して開ける仕様であった。
 ユーミンの「天気雨」である。


白いハウスを眺め
相模線に揺られて来た
茅ヶ崎までの間
あなただけを思っていた

 この時は逆方向である。さすがに行きは使えない。
 話が逸れてきたのでおしまい。もわんとした思いは書いてみると、けっこうそのくらいのことだったか。
 
 

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2014.08.22

クラウド・ファンディング(crowd funding)を巡る無想

 考えがまとまらないだが、このところ思っていたことをとりあえず、書いておきたい。いちおう、話は、クラウド・ファンディング(crowd funding)と地域問題に関連する。
 クラウド・ファンディングとは、群衆(crowd)と資金調達(funding)から成る造語であるように、群衆から資金調達をする仕組みである。
 カタカナだと似てしまうが、クラウド・コンピューティング(cloud computing)とは直接は関係ない。こちらの「クラウド」は雲に例えたインターネットのことだ。ただし、直接関係ないが微妙に関係もなくもない。群衆(crowd)と資金調達(funding)するのには、雲(cloud)=インターネットを使うことが多いからだ。
 こうした基礎的な話は、このブログでくだくだ書くことでもないが、「なぜ、今、クラウド・ファンディングなのか」というと、いろんな議論があるが、私が注視しているのは、「これが資本主義(capitalism)の未来形」だという可能性だ。
 「資本主義」という日本語は「主義」とあるので、なにか思想の主張のように思う人もいる。だが資本主義(capitalism)というのは、資本という貨幣(G:Gelt)を、商品(W:Ware)に変え、さらに多くの貨幣(G')を生み出す、つまり、G->W->G'という貨幣増大化の循環の現象を指している(G'はGより増加)。一般的に英語の"-ism"には、"alcoholism(アルコール依存症)"のように、現象を指す意味合いが含まれる。
 この「G->W->G'」の構図はマルクスによるもので(ただし彼は"Kapitalismus"という語は積極的には使っていない)、彼の考えで重要なのは、商品(W)が「労働力(Arbeitskräfte)」でもある点だ。ここで人間疎外と資本主義体制の問題が関連する。別の言い方をすれば、W->G->Wでは生じない剰余価値(Mehrwert)のありかたが、この生産様式を含む体制のなかで問われることになる。単純に考えると、「資本主義(G->W->G')を排除すればよい」「資本主義の限界だ」という安易な議論にもなりがちだ。
 このあたりの議論はもっときちんとつめないといけないのだが、ざっくりと言えば、マルクスの考えの枠組みでは、生産様式に対して資本を担う資本家(Kapitalist)と労働力という商品を担う労働者(Arbeiter)がそれぞれ、人間のタイプ化である階級(Klasse)として固定的に扱われ、社会を構成する市民間の分断に重ねられている。階級間の闘争が市民間の闘争になぞらえられてしまう。
 実際には(その後の歴史発展では)、マルクス以降の資本主義社会では、資本家(Kapitalist)労働者(Arbeiter)は実体的な階級ではなく、資本主義の生産様式を担う機能単位となり、人間実体とは直接的には結びつかなくなった。ごく簡単な機能例でいえば、労働者がそのまま資本家となりうる。
 労働者が資本家になるという点では日本の戦後体制がそれに相当する。国家が主導し、労働者の富を利潤誘導した郵貯の形で収集・迂回投資させることで、資本家の機能を実現させていた。同時に資本家は国家に吸収されたので、冗談のようだがある意味で、日本で社会主義が実現されていた。
 だが問題が起きる。日本の特殊な国家社会主義が上手に機能すればよかったのだが、これもいろいろな議論があるが、実際のところ、この収集・迂回投資の機能が、労働者=国民=投資家と対立した形で、実体的な階級を形成してしまい、ようするに国家にむさぼりつく度合いで、国民間に実体的な階級が生まれた。またこの社会主義は列島改造論に典型的だが地域への再配分的な投資でもあり、地域が中央権力に結合した。かくして実質的な差別と非合理性が生じることになった。このシステムは同時に、暗部の富も生み出した。汚れ役のようなものである。日本という社会主義は必然的に暗部を必要するシステムでもあった。
 まとめれば、親方日の丸の度合いで日本国民間の貧富が決定づけられることになり、さらに、この国家システムの外部の暗部を吸収して富による社会暗部が形成された。
 さて、クラウド・ファンディングである。
 これによって群衆=労働者の富が国家を介さずに資金調達として資本化されれば、G->W->G'という資本主義の構図から、マルクス・エンゲルスのいう剰余・搾取は、国家の寄生者を介さず、再び労働者に還元されることになる。原理的にこの機構では国家を必要としない。これが上手に機能すれば、マルクスの予見とは異なったかたちで社会主義が実現できることになる……かに見える。
 この想定の時点でうまくいかない。投資が成功した労働者=資本家はよいが、かならず、投資の失敗者が出る。リスクが生じる。投資リスクは投資の知識を体制的に要求するので、貧富差は拡大する。また、投資に利用される貨幣は、原理的には国家から分離できても(ビットコインでもよいから)、実際には国家に依存するだろうし、国家はやはり投資市場のルールキーパーであることは求められる。
 うまくはいかないだろうなと、ぼんやり考えていたのだが、この文脈からもう一つ考えていたのは、こうした場合のクラウド・ファンディングの投資規模は、基本的に地域に限定したらよいのではないか、ということだ。簡単な例でいえば、市町村レベルで限定し、地域コミュニティだけの投資に限定したらよいのではないか? 投資の失敗や貧富差は緩和されるのではないか。
 もちろん、それですべて解決するわけでもない(経営知識や技術の問題も残る)が、地方行政のかなりの部分は補えるだろう。もちろん、投資の元になるその地域の富そのものが枯渇している現状はあり、当初は国家を迂回した地域補助金ようなものも必要だろう。
 というあたりで、地域行政の基本をそのままクラウド・ファンディングにしてしまえばいいんじゃないかと、思いついて、ぼんやり考えていた。
 さらに、そうした限定された地域というのを、クラウド・ファンディングをベースにして、逆に市民を流動的にしたらよいのではないだろうか。どういうことかというと、たとえば、この村で電気自動車を作りたいという人がクラウド・ファンディングで資金を集めて、その村に移住して生活するというものである。
 考えてみると、昭和の日本も、工場を中心に市町村が形成されてきたし、原発などもそうした市町村の構成原理でもあった。
 まあこれも、地域愛とか既存の地域の権力関係で齟齬は生じるだろうが、理念的には可能に思える。
 まとめると、クラウド・ファンディングをベースにした地域的な活動を通して、コミュニティを再編成していくといいんじゃないかということだ。くどいようだけど、地域活性とか地域を生かしてという地域ベースではなく、クラウド・ファンディングの投資対象の理念から逆に新しく地域を形成・再形成していけばいいのではないかということ。ここに村作っちゃえとかいう感じ。
 
 

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2014.08.18

久しぶりに中野ブロードウェイに行ってみた

 先日、「まんだらけ」の万引き犯と見られる人物の防犯カメラ写真を公開するかしないか、というニュースを見たとき、僕は二つのことを思ったのだった。
 一つは、久しく中野ブロードウェイに行ってないこと。どのくらい久しぶりになるのか。思い出したらもう20年くらいになるぞ。そんなになるのか。びっくりした。もう一つはその万引き内容が鉄人28号のブリキ玩具だったことだった。
 そういえばのそういえば、阿佐ヶ谷にもアニメのなんか商店街が出来たんだかっけな。最初そっちに寄ってみた。高架下の「阿佐ヶ谷アニメストリート」だった。ちょうどコミケの時期に重なっていたからかもしれないが、閑散としていた。なんかこう、なんとかならないもんかなあという閑散感だった。途中、同じく高架下の阿佐ヶ谷ゴールド街を抜けたのだが、こちらの閑散感は風流というか昭和にスリップした感じだった。ポッカ缶コーヒーのやつに会いそうな雰囲気だった(参照)。

 で、中野。中野は昔、オイリュトミー講習会で通ったり、友だちとか会ったり、新井薬師に行ったり、もちろん中野ブロードウェイもだけど、よく行ったほうじゃないか。駅前の雰囲気は変わったふうでもなかった。中野ブロードウェイに至る道は、変わったといえば変わったか。ファストフード屋が目立つ感じがした。それなりに人出も多かった。
 中野ブロードウェイに至る。雰囲気は変わらない。ビルも相変わらず古い。店舗は変わったかといえば、変わったものが多いようだが、変わってないものもある。20年前、自分はここで雑誌や古本眺めながら、気がつくと二時間、三時間と時を過ごしていた。さて、今の私。そういうのに関心がなくなっている。なんてこった。
 関心がないというより、わからんのだな。コミックとかが現在、なにがどうなっているかわからない。全体像というか関ヶ原両軍マップみたいな感覚がなんもない。しかたないね。と思いつつも見て回る。
 見て回るうちに琴線に触れるものもある。いや、ありまくり。これ欲しいだろ。おい。ドンガバチョ。スナフキン。

 予想はしていた。鉄人28号のブリキ玩具みたいなもんがあるんだろうなと思っていたのだった。いやあ、あるある。ソニー坊やの人形とかもあった。これって、俺の幼稚園時代のおもちゃ箱にあった新幹線と同じだろみたいなのも。
 いかんなあと気がつく。こんなの見ていると一種、退行催眠みたいになるぞと警戒する。というか、中野ブロードウェイってオタクとか若い人というより、俺くらいの年齢にとっても、ど真ん中物がいろいろあるんだなと思った。やべーわ。

 本もそうだ。小学校んときの図書館の棚じゃねの、みたいな本がある。
 そういえば、引っ越しとき、もういらねという古本を売ったのだが、これは売れないなあという児童書を山にしておいたら、古本屋、それをチラ見して、あっちを売ってくれないですかねえ、とぼやいていたな。売らないよ。

 コスプレ物も売っている。自分の時代にこういうのがあったら、着てたなあと思う。今着たらドット・ピクシスだよな。笑いを取ってどうする。

 ちょっとかわいげな小物とかあるかなとも見て回った。けっこうある。
 最近なんかやらなくなっちゃったズーキーパーだけど、あの園長のキーホルダーとかあったら絶対買おうかと思った。だけど、それはなかった(けっこう見て回ったのだった)。キャラクター製品世界にもいろいろ掟があるんだろう。
 そういえば、漫☆画太郎さんの個展をやっていた。すげー長蛇の列で諦めた。いや、すげー、列でした。

追記(2014.8.19)
 この事件の容疑者が逮捕された。産経「まんだらけ「鉄人28号」、50歳男を逮捕 「お金にしようと…」6万円で売却 警告「知っていた」」(参照)より。


古物商「まんだらけ」(東京都中野区)の店舗で漫画「鉄人28号」のブリキ製人形が万引された事件で、警視庁捜査3課と中野署は19日、窃盗容疑で、千葉市若葉区都賀の台、アルバイト、岩間和俊容疑者(50)を逮捕した。同課によると、「ショーケースが少し開いていたので盗んでしまった。売ってお金にしようと思った」と容疑を認めている。


岩間容疑者が7日に中野区内の別の古物商で、身分証を提示し、被害品とみられる同型の人形を6万4千円で売却していたことから関与が浮上。

 エントリーでは明示的には書かなかったが、鉄人28号のブリキ玩具に魅了されるのは、50歳過ぎの私くらい年代ではないかという思いがあったので、容疑者が50代との速報では、やはりという感じがしたが、上述の最新のニュースのように容疑者は50代といっても50歳ちょうどで、鉄人28号のブリキ玩具に魅了される年代ではない。また、それを安値で売り払おうとしているところには、この玩具への愛情は感じられない。実を言うと、なーんだ、ただの金目当てだったかという思いもした。金目当てでなければいいとは思わないが、金ではなくこの玩具に魅了された犯罪ではないかと「期待」していた面はあった。
 
 

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2014.08.13

「エーデルワイス」という歌の秘密というか、僕は知らなかったなというか

 ピンズラー方式のドイツ語学習は第一段階を終えて第二段階に入ったらつまづいた。文法が理屈として理解できても、あの枠構造が感覚的にしっくりこない。
 ドイツ語の発音はフランス語や中国語にくらべればはるかに楽なのにナチュラルスピードの会話になると聞き取りにくい。英国英語と似た感じがして混乱するからだろうか。まあ、いいけど。
 で、つまづいて、このところ、ようやく、少し進み出した。というか、枠構造に馴染んできた。
 思ったのだけど、気楽にドイツ語を学ぶつもりでいたが、やっぱ、ある程度没頭というか、語学というのはモーティヴェーションを上げないと難しいんじゃないか。
 そうこうして関連知識とかに関心をもっていくうち、そうだ、「エーデルワイス」だと思ったのである。
 「エーデルワイス」。歌のほうである。「サウンド・オブ・ミュージック」に出てくるあの歌である。
 あれ、元歌はドイツ語じゃないの。ドイツ語で歌えたらいいんじゃないのと、"Edelweiß"で検索したら、すぐにドイツ語の歌が見つかった。

 ああ、なんかドイツ語の歌っていいじゃないかと聞いていたのだが、微妙な違和感が湧く。まあ、湧くよな。この女性、たぶんオーストリア人かドイツ人なんだろうと思うけど、このめいっぱいツーリスティックな感じなのは、ちょっと違和感がある。まあ、ある、と。
 お目当ての詩のほうだが、これに付いている。


Edelweiß, Edelweiß,
Du grüßt mich jeden Morgen,
Seh ich dich, Freue ich mich,
Und vergess meine Sorgen

 あれ?
 "Du grüßt mich jeden Morgen, "は、"You greet me every morning."でいいよな。
 で、"Seh ich dich, Freue ich mich, "は、"I see you, I please myself"かな。あれ?
 "Und vergess meine Sorgen."は、"And forget my worries."かな。あれ?
 あれ? というのは、英語と違うなということ。英語はこう。

Edelweiss, Edelweiss
Every morning you greet me
Small and white,
clean and bright
You look happy to meet me.

 なんで英訳が違うんだ? (後述するけど、その疑問自体が違っていた。)
 もうちょっとドイツ語を見ていく。縮約が多いのと私のドイツ語学習ではまだよくわからないので適当だけど。

Schmücke die Heimat
nach Schnee und Eis,
Blüh'n soll'n deine Sterne.
Edelweiß, Edelweiß,
Ach, ich hab' dich so gerne.

(I decorate the homeland
on snow and ice
Your stars will bloom.
Edelweiss, Edelweiss.
Oh, I like you so happily.)


 英語の歌だとご存じのとおり、こう。

Blossom of snow
may you bloom and grow,
Bloom and grow forever.
Edelweiss, Edelweiss
Bless my homeland forever.

 うーむ、この違いはなんだろ。と、当然思う。
 そして、英語の"Bless my homeland forever."という、なんだか、愛国心みたいのが強調されているのは、「サウンド・オブ・ミュージック」という映画にあわせた演出だろうなと。そして、ドイツ語の歌がもっと長いから、これはドイツ語の歌があって、米国語訳では愛国的に作り直したのだろうとか……思う。
 がっちょーん。
 どうも逆らしい。
 このを歌の詩を書いたのは、米国人オスカー・ハマースタイン2世。しかも、これが絶筆(参照)。つまり、「サウンド・オブ・ミュージック」のために作った歌だから、英語の歌詞がオリジナル。調べていくと、メロディも米国人リチャード・ロジャース。しかも二人ともユダヤ系ですね。なんだか、すごく納得。
 じゃあ、あのドイツ語歌詞の歌、あれはなんなの?
 ということだが、当然、メロディーに併せて、ドイツ人が付けたということでしょう。「レリゴー」が「ありのままでぇ」となるのと同じ。ただ、どうも独訳者は不明っぽい。
 さらに調べてみると、About.comには(参照)、この歌はオーストリアではあまり知られていないとあり、どうも米人観光客向けに盛り上げる歌らしい。というのがどうも最初の動画の意味っぽい。
 ということに関連して、英語の"Bless my homeland forever."も、これがオリジナルなわけで、どうやらこのせいで米国人には、勝手にこの歌がオーストリアの国歌だと思う人も多いらしい。たしかに、映画だとそんな雰囲気。国歌ではなくても、国歌に準じる愛唱歌かも思いがちだけど、そうですらない。
 いやあ、なんかすごい複雑な気分なんですけど。
 ちなみにオーストリアの国歌はこれ。いちおうモーツアルト作と言われている。

 これが制定されたのは1946年だから、その前、「サウンド・オブ・ミュージック」の物語の時代となると、あれです。「神よ、皇帝フランツを守り給え」。

 メロディはドイツ国歌と同じ、まあ、聞けばわかる。
 ご存じの通り、現在のドイツでは三番だけが公式。
 ネットを見てたら、一番と二番を付けたのがあった。三番で画面の国旗が変わるのがちょっと洒落ている。

 いずれにせよ、これらの歌は米国的な「サウンド・オブ・ミュージック」では、使えないだろうなと実感する。
 このあたりの文化変化というのは、どことなく日本も他人事じゃないよね感もある。
 
 

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2014.08.12

イラク新首相指名問題、雑感

 イラク情勢について気になることがあるので少し書いておこう。イラク新首相候補と米国の関係である。と同時に報道への疑問でもある。
 一例として、比較的最近新のNHK「米 イラク新首相候補支持の姿勢強調」(参照)を取り上げてみよう。まず冒頭の全体的なまとめ部分は、可もなく不可もなしといった話にも見える。


 緊迫した情勢が続くイラクで、マリキ首相は新しい首相候補が指名されたことについて強く反発していますが、アメリカ政府は支持する姿勢を強調し、イスラム過激派組織に対抗するため、挙国一致の政権づくりを急ぐよう求めていく方針です。

 気になるのはその詳細である。こう展開される。

 イスラム教スンニ派の過激派組織と政府軍との戦闘が続くイラクでは、マリキ首相によるシーア派の優遇策に対するスンニ派の不満が過激派の勢力拡大を招いたとして退陣を求める声が強まっています。
 こうしたなか、マスーム大統領は11日、新しい首相候補にハイダル・アバディ氏を指名しましたが、マリキ首相は憲法違反だとして退陣を拒否しました。
これに対しアメリカのオバマ大統領は、声明を発表し「アバディ氏の指名は憲法に基づくもので、イラクの異なる宗派や民族を結束させる新たな政権づくりに向けた重要な一歩だ」と述べ、支持する姿勢を強調しました。
 一方、アメリカ国防総省は、過激派組織に対し4日連続で空爆を行った結果、過激派組織の勢いは一時的に抑えられたものの、全体的な戦闘能力をそぐには至っていないという認識を示しました。
 アメリカ政府としては、空爆を続ける構えを示していますが、過激派組織に対抗するためには「すべての勢力を代表する政権をつくることが唯一の解決策だ」として、イラクに対し挙国一致の政権づくりを急ぐよう求めていく方針です。

 わかりにくい報道ではないが、背景を知らないとわかりづらいだろう。
 ごく簡単にいうと、イラクの混迷の原因は、マリキ首相の失策だから、この首相を新しいのにすげ替えることで、イラクを混迷から抜け出すようにしたい、ということだ。
 そう思う人はイラク人にも少なくない。私もその点までは同意できる。
 論点は、その意図を強く打ち出した米国のあり方が、正当なのか?という点である。
 まず日本語として曖昧なのが、「マリキ首相は新しい首相候補が指名されたことについて強く反発しています」という表現で、この指名の仕組みがNHKのこの報道からは読み取れない。
 この点についてはしかし、前日の報道がある。「イラク 大統領が新しい首相候補を指名」(参照)である。

イスラム過激派に対し、アメリカ軍が空爆に乗り出すなど緊迫した状態が続くイラクで、大統領がマリキ首相に代わる新しい首相候補にアバディ氏を指名しました。

 つまり指名したのは大統領である。
 そしてこの指名に賛同したのが米国である。これは早朝の報道「米副大統領 イラク新首相候補に支持表明」(参照)にある。

アメリカのバイデン副大統領は、11日、イラクのマスーム大統領や新しい首相候補に指名されたアバディ氏と相次いで電話で会談し、双方に支持を表明するとともに、イスラム教スンニ派の過激派組織に対抗するために挙国一致の政権作りに向けて協力していく意向を伝えました。

 さらっと語られると、米国がイラクの新しい動向に対して、受け身的に賛意を示しているように見えるが、私は、ここで驚いたのだった。
 なぜかというと、基本、イラクの大統領というのは、ドイツの大統領のように儀礼的・象徴的な存在にすぎないと理解していたからだ。当然ドイツの大統領がサミットに出ることはない。日本の天皇と似たようなものだと言ってもいいかもしれない。天皇がサミットに出ることはない。
 大統領は国によって権限が異なり、フランスや米国のように強力なものもあり、イタリアのように弱い形で権限をもつタイプもある。大統領に権限があるとしても、基本、直接民主制に基礎を持つのだが、イラクの大統領の選出は間接選挙である。外務省に説明があるように、「国会が召集され,新国会議長及び副議長が選出される。さらに召集から30日以内に国会議員の3分の2の賛成で新大統領が選出」(参照)する。ゆえに、そもそも強い権限はもてない。
 東大「中東・イスラーム諸国の民主化」(参照)はイラクの大統領制度を簡素にまとめている。

新憲法は、大統領の役割を「国家の長、国家統一のシンボルであり、国家の主権を体現する」(第67条)と定める一方、首相は「国家の政策を遂行する責任者、軍の指揮官」(第78条)であるとしている。首相の選出は大統領の指名によって行われるが、その人選は、与党となる議会の最大政党が行うとされており(第76条第1項)、首相が閣僚を指名した後、議会の絶対過半数の賛成を経て内閣が発足する。従って、大統領は存在するが、制度としては議院内閣制に近い。

 つまり、イラクの大統領は国家統一のシンボル(象徴)であり、実質の権限は、議会にある。

また、国民議会は大統領・首相を罷免できるが、大統領・首相に国民議会の解散権はなく、さらに、軍参謀総長および副官、師団長以上の者、諜報機関・治安機関 長官などの人選においては、議会の承認が必要と定められており、制度上は独裁体制の反省を踏まえて議会重視のアプローチが採用されている。

 イラクでは議会が大統領を罷免する権限を持つ。
 こうした点を踏まえると、「大統領が国会内の第一政党(政党連合)から首相候補を指名」(外務省説明)するというのは、日本国憲法第六条「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。」と同質の儀礼であることが理解できる。
 この点に注目するとわかるが、今回米国がイラク大統領による首相指名を支持しているということは、日本に例えるなら、天皇の儀礼的な首相指名になんらか、内政の混乱や国際政治動向で重要性を持たせるに等しい。
 だから、私はびっくりしたのだった。
 以上を踏まえて、冒頭のNHKニュースに戻る。再掲になる。

 こうしたなか、マスーム大統領は11日、新しい首相候補にハイダル・アバディ氏を指名しましたが、マリキ首相は憲法違反だとして退陣を拒否しました。
 これに対しアメリカのオバマ大統領は、声明を発表し「アバディ氏の指名は憲法に基づくもので、イラクの異なる宗派や民族を結束させる新たな政権づくりに向けた重要な一歩だ」と述べ、支持する姿勢を強調しました。

 まず疑問に思えるのは、オバマ米大統領の声明「アバディ氏の指名は憲法に基づく」という点だが、イラクの政体において大統領が首相を指名するのは、議会手続きの延長の儀礼なので、議会が首相を選出できるかにかかっているはずだ。
 だが、そこは混迷した状態になっている。なのに、それを越えて、「アバディ氏の指名は憲法に基づく」と他国が言えるのだろうか? 言えないだろうと私は思う。
 この私の疑問は、当然、現マリキ首相にもあり、「憲法違反だとして退陣を拒否しました」ということに対応する。
 では、大統領が議会手順を越えて首相指名することは憲法違反なのだろうか。あるいは、議会手順は正しいのだろうか?
 この点については、イラクの最高裁がすでに判断を示した。ロイター「マリキ首相3期目続投に道、最高裁決定でシーア派陣営が組閣へ」(参照)。

 イラク最高裁は11日、イスラム教シーア派であるマリキ首相の陣営が議会の最大会派だとする判断を示した。同首相の3期目続投につながる可能性がある。国営テレビが伝えた。
 憲法に基づき、大統領はマリキ首相に組閣を要請しなければならなくなる。


 マリキ首相率いる「法治国家連合」のメンバーであるマフムード・アル=ハッサン氏はロイターに対し、大統領は同首相に組閣を要請しなければならず、さもなければ憲法違反行為を犯すことになると指摘した。

 どういうことかというと、イラクの最高裁は「マリキ首相の陣営が議会の最大会派だとする判断」したので、その会派から首相が選出されるということだ。大統領は、憲法の規定から、その会派から選出された首相を指名しなければならないのである。
 独立した司法の頂点で憲法判断が示されたのだから、おそらく以上で、この問題の正当性の議論は終わったと思われる。つまり、米国大統領の判断は間違いである。
 ただし、このロイター報道には奇妙な尾ひれがついている。

 一方、イラク政府高官は匿名を条件に、最高裁の判断は「非常に問題がある」と指摘。「情勢を非常に、非常に複雑化させるだろう」と述べた。

 イラク最高裁判断に「非常に問題がある」があるのは、法の適用上なのか、遵法が問題を起こすことになるのか曖昧である。が、「情勢を非常に、非常に複雑化させるだろう」というのは後者の含みを持つ。おそらく、民主主義国家の法的な議論としては問題ないと見てよさそうだ。
 話を少し割愛するが、しかし、以上のような論点は欧米ではどう議論されているか、いろいろ見て回った。私の見た範囲の結論からいうと、この問題にきちんと触れているものはない。一例ワシントンポスト記事(参照)のように、マリキ首相の支持は議会においても少ないから、彼は支持されていないといった意見は目に付く。たしかに、支持母体の政党が大きいともいえず、しかもその所属議員の意見も割れている。だが、そのことと法の正当性の議論は別である。
 憲法を遵守する考えからすれば、大統領指名に着目するのではなく、議会手順をやりなおす必要がある。つまり、最大派がマリキ氏を選出しないという点が明確にされなければならない。
 その意味で、共同「イラク首相候補にアバディ氏 米要求でマリキ氏見切り」(参照)にも疑問は残る。

 【カイロ、ワシントン共同】イラクのマスーム大統領は11日、マリキ首相に代わる新首相の候補に、イスラム教シーア派政党連合のハイダル・アバディ連邦議会副議長を指名した。マリキ首相は自らの首相指名を要求していたが、身内のシーア派連合から見切りを付けられた形となった。
 内外の信頼を失っていたマリキ氏に代わる首相候補が決まり、米国の要求に沿った形で、スンニ派の過激派「イスラム国」の脅威に対抗する挙国一致内閣づくりがようやく始動する。
 しかしイラク戦争後に主導権を握るシーア派に対し、スンニ派、クルド人勢力の不信感は根強く、組閣は難航が予想される。

 「身内のシーア派連合から見切りを付けられた」は「マスーム大統領」によるので、議会最大派の動向とはいえない。むしろ、このように「米国の要求に沿った形」が形成されるのは、民主主義国家にとっては異常な事態だろう。
 以上で、イラク新首相指名についての話題は終えるのだが、米国がイラク国内で実施している空爆の正当性もこれに関連して疑問が残る。イラクでの米国による空爆は、イラク政府からの要請によるとしているだが、そのイラク政府の主体は誰なのだろうか? 端的に言えば、マリキ首相なのだろうか?
 この疑問が起きるのは、これまでマリキ首相が米国に空爆を求めてきたのは事実と見てよさそうだが拒否されてきた(参照)。しかし、ここに来て突然、マリキ首相失脚の目が出て来てから転換して空爆に踏み込んでいる。率直な疑問を言えば、米国がイラクから要請されたというイラクとは、マリキ首相の行政府ではなく、実質「マスーム大統領」かクルド自治政府ではないだろうか。
 米国空爆の文脈だが、米国側の筋立てとしては、見過ごせない人道危機に対応するというものだが、誰もが即座に疑問を持つのは、シリアも同様なのだが、そうした対応を米国は示してこなかったことだ。また、人道危機への対応として、危機地域に食料・医療物資の投下を行っているとしても、実質、クルド自治政府の軍事援助が基本になっているように見えることだ。
 米国の筋立てを単純に否定するものではないが、イラク政府の問題の文脈に置き換えれば、こうした危機と米国の軍事介入を背景に、米国がイラク政府に圧迫をかけていることがわかる。むしろ空爆は、イラク内政への米国の介入の口実なのではないかとも思えてくる。この空爆は「限定的」であるが、何への「限定」なのか。問題化している「イスラム国」の運動については、付随的なという意味ではないだろうか。
 
 

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2014.08.10

「進撃の巨人」14巻が面白かった

 すでに「進撃の巨人」はコミック全巻買って既読のうえ、アニメも全部見ているが、これまでとりわけブログに書いてこなかった。面白いと言っていいのだが、進行中の話と受け取り方の微妙なズレみたいのがまだまだあって(物語の価値観がなんども逆転する)、現状では言及できる段階ではないとも思っていた。が、一昨日発売された「進撃の巨人」14巻はさすがに面白い。ちょっと書きたい気がした。

cover
進撃の巨人(14)
 物語はけっこう複雑で伏線も多い。ほら予想通りでした、などとは到底言えない。逆に予想外で驚いたというほどでもない。そう思わせる緻密な展開もさすがで、同様にこの物語の面白さは多面的だが、一つ、ブログに書きたいなと思ったのは、その比喩性である。
 文学的な作品を何らかの比喩として見るのは(特に、現代性の比喩とか)、その手の批評形式は、どれだけ知的な装いをしたところで、つまんないお遊びにしかならない。そうとわかっていながら、14巻の持つ、現代日本への比喩性というのは考えざるをえなかった。
 というあたりで、「進撃の巨人」という物語がどういう話なのか、今北産業的に書いておくとよいがブログなので割愛。でも、ごく簡単な世界観の説明は必要になる。この物語で「人類」と呼ばれている人々は壁のなかに閉じ込められている。壁の外には生命を脅かす恐怖(巨人)が存在する。と、いうことは抑えておきたい。
 恐怖から守るという名目の壁によって閉ざされた世界と、そこから出られない人間という比喩は、現代の世界や日本をよく比喩してしまっている。
cover
DVD付き 進撃の巨人(14)
限定版
 このところ話題のガザなどまさにそれだ。パレスチナ側に壁をこさえているイスラエルもそうだと言える。また、情報遮断も壁として考えるなら中国は政府によって外部から概ね遮断されている。なにより日本人も外部世界を恐怖として見えない壁のようなものを自ら形成している。TPP反対とかもそうした壁だろう。現実世界には存在している戦闘をよそに平和が叫べるのも壁のおかげかもしれない。日本にも「ウォール教」のようなものがあるのだろう。日本から出て行く若者の減少もそのせいかもしれない。いずれ、壁に閉ざされたような閉塞感は現在の日本人に共通している。
 比喩として読めてしまう一点目は、記憶の改竄である。物語の主要登場人物エルヴィン団長は、子供の時、教師として歴史を教える父にある疑問を投げかける。公式の歴史では、壁に逃げ込むことで平和が達成されたというのだが、そこに矛盾があるのではないか。歴史の事実は文献では握りつぶせても、100年ほどの人々の経験には残り語り継ぐことができるはずだ。なのに、その口承がないのはなぜなのか? それは人々の記憶が改竄されたからではないかというのだ。もちろん、マンガだから、ここでは超能力的な記憶改竄が示唆されている。
 この仕立ては日本の戦後の思想空間の比喩に見えてしまう。江藤淳が言うWGIP(War Guilt Information Program)のような戦争罪悪感計画が実際に存在していたかはわからないが、戦後日本にはWGIPという連想が浮かぶような思想空間が存在するようには思える。そのため、ネット右翼と呼ばれる人たちは、しばしば「記憶の改竄を解いて真実の歴史を発見」してしまう。その詳細や議論は置くとしても、戦後日本はなんらかの歴史記憶の改竄を強いられたような心情は蔓延しているとは言えるだろう。そこから、そうではない世界を構築したいという欲望も付随してしまう。
 関連したもう一つの比喩は、巨人世界の王の存在である。比喩されるものは、当然天皇である。巨人の世界では、国の存続を象徴する高貴な血筋として描かれているが、それに対して、エルヴィンは、現王は偽物であり、正しい王にすげ替えようとしている。
 この比喩は、三島由紀夫に顕著であり、また最近では、長谷川三千子に顕著だが、死を捧げるに足る「本当の天皇」の希求がある。つまり、王制・天皇制の「本来」のあり方すれば、戦後象徴天皇というのは、すげ替えらた天皇であり、さらに本当の天皇にすげ替えなければならない、という比喩がありうる。あるいは左翼的には、戦後象徴天皇がさらにすげ替えられなければならないものともされている。そこでは新しい天皇は具体的には希求されてはいないものの、北朝鮮のような王制への親和心情は見られる。なおこの王=転倒の比喩の延長から壁を考えるなら、眠る巨人の硬化によって作られたことは「英霊の御柱」が連想される。
 もう一つ比喩性として思えたのは、「革命」への倒錯的な期待である。王制を変えるためには、民衆の支持が必要だとする考えから、主要登場人物アルミンはこう語る。「何か象徴的な事件でもでっちあげてそのすべてを王制か憲兵がやったことに仕向ければいい。そこで調査兵団が救世主のように登場し民衆の味方は調査兵団しかないと強く印象付ければいい、きっと民衆はだまされやすくて……なんちゃって」とギャグにしているが、この手の謀略性は、2.26事件にも見えるし、戦後の不可解な事件にも見える。北朝鮮や中国共産党の成立史なども連想する。いずれ、「民衆はだまされやすくて」というのが状態である世界のあり方を比喩してしまっている。なお、この部分、雑誌では「きっと民衆はだまされやすくてクソ……」となっていた。「クソ」が単行本では削られているが、まさに比喩の心情は、そこ(民衆への嫌悪)にある。
 先にも述べた、こうした比喩性というのは、読む側の興味のありかたの一つであって、物語の解釈に必要なものでもないし、なにより、「現代思想」とか「現代批評」みたいにお手軽すぎて、なんだかなあという代物だが、それでも、この物語の現代性は、そうした比喩性を各種喚起するところにあるのだろう。そして、それらの比喩のどのあり方が正しいかということを、巧妙に転換しつつ、実際には比喩性を批判している点にある。ここは誤解されやすいからもう一度いうと、「進撃の巨人」は現代の右翼的なあるいは左翼的な心情世界の比喩になっているのではなく、そうした比喩性に対する、世界認識の転換可能性による批判となっている点が重要なのである。
 そのことは、正義に荷担してバッシングとして発言している現代の匿名的な暴力性に、根拠がありえないことを結果として大きく比喩している。
 
 

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2014.08.07

理研・笹井芳樹副センター長の自殺について

 理化学研究所・再生科学総合研究センター(CDB)の笹井芳樹・副センター長(52)が8月5日午前、自分の研究室のある先端医療センターで致死状態となり、病院に搬送されたが、ほどなく病院で死去した。同所で自殺を試みたものと見られている。他殺説はまったくありえないと断定はできないが、死因は自殺と見てよいだろう。
 笹井氏は、STAP細胞論文の共著者の一人であり、同論文の主執筆者・小保方晴子氏の上司でもある。笹井氏の研究は再生医療の分野で世界的に注目されており、いずれノーベル賞とも噂されるほどであった。その意味で、日本の知的損失は大きい。
 著名者の自殺ということと、STAP細胞論文の関連から、笹井氏の自殺の理由についてもいろいろと話題となった。日本の文化に関連づける荒唐無稽な印象の論考などもあった。そうした並びの一つになるのかもしれないが、私のごく簡単な印象をブログなので書いてみたい。
 私の印象は、氏の自殺は、通常の精神疾患の帰結であり、それ以上の意味はないだろう、というものである。
 つまり、氏に限らない。そういう精神状況にある人には一定の自殺の危険性があり、そこが十分にケアされないとき、自殺の事態が起こりやすくなり、今回は偶然死に至った、というだけのことだと私は思う。
 私たちは、STAP細胞論文にまつわる各種のスキャンダラスな事態の発覚について、多大な知識を持っているため、そうした知識で自殺者の理由付けという物語をえたいという欲望を持つ。だが、そもそも事態との整合は取り得ないものだ。
 もちろん自殺した本人にはそれなりに自分の納得する死に至る物語があったとしても、すでに正常の精神状態にはなかったと思われる。
 いずれ、各種の理由付けは、ほとんど意味がないだろう。
 むしろ、精神疾患の帰結ということは、氏の精神状態を管理する組織の、その点での監督責任は大きいと言える。なお、私がいう監督責任はあくまで勤務者のメンタルケアに限定されているもので、理研という組織がどのように運営されるべきかという話とは別である。
 また、今回の事態が自殺であれば、私たちが確実にわかっていることは、その試みの場所についてだけである。自宅でも人目に付かない郊外でもなく、自分の仕事場であったということだ。
 仕事場という場所が死の衝動を発作的に引き起こしたとしても、そこに残る自分の遺体というイメージが本人に想定されないとも考えにくいことから、その場所については一つのメッセージ性を多少帯びるだろうし、その意味は、やはり、彼の精神状態を管理する組織の責任が重くなるということである。
 繰り返しになるが、笹井芳樹・副センター長の自殺から受け取れることは、一般的に労働者の精神的状態についての企業の管理のありかたというだけだと思われる。
 その点でこの事例はどうであったかというと、報道(参照)によれば、STAP細胞論文の問題が騒動となった2月の時点で、心療内科に通院を開始し、3月からは1か月入院していた。その後は退院したのだろうが、3月には自身の地位を辞す旨を表明しており、また報道では「周囲の研究者は、笹井氏の様子が変わっていることに気づき、気遣っていたが、最悪の事態を防ぐことはできなかった」としていることから、精神状態を慎重に管理する必要性はあったと見られる。
 そこから私が必然的に興味を持つのは、自死への物語的な理由ではなく、精神ケアの状態である。
 より具体的に言えば、こうした事例で、どのような医療が適切だろうかということであり、自分の関心の中心をより簡単にいうと、抗鬱剤服用についてである。もちろん、抗鬱剤の副作用という単純な話ではない。
 抗鬱剤と自殺についての関係の話題は欧米ではこの10年来注視されている。比較的最近では、今年の6月18日に「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」発表された論文「若者の抗鬱病剤使用と、米国食品医薬品局(FDA)の警告及びマスコミ報道の後の自殺行動の変化:準備実験的な研究(Changes in antidepressant use by young people and suicidal behavior after FDA warnings and media coverage: quasi-experimental study)」(参照)は注目された。
 同論文は、2004年にFDAが発した抗鬱剤と自殺の関係についての警告によって、どのような変化が生じたかを扱っている。背景となるのは、FDAが2003年に要請した警告表示ある。FDAは臨床試験データの審査から抗鬱剤の使用による若者の自殺願望や自殺行為のリスク表示を製薬会社に要請した。
 BMJによる調査結果どうであったか。FDA警告後、抗鬱剤使用は31%減少し、自殺未遂件数は21.7%増加。表題にもあるように若者(18~29歳)では、自殺未遂は33.7%増加した。
 評価は難しい。抗鬱剤を使用しないことが、自殺を増やしたというようにも見える。抗鬱剤不使用がもたらした影響のようもある。反面、FDAの判断の背景となった抗鬱剤の副作用が関連すると見られる自殺がないわけではない。ようするに、自殺の関連で抗鬱剤の使用のありかたは慎重さが問われるということだ。
 なお、私の印象にすぎないが、抗鬱剤が効く効かないという論点よりも、抗鬱剤使用をきっかけにした適切な医療の有無が自殺率に影響を与えているようにも見える。
 
 

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2014.08.06

今朝、なんとなく思ったこと

 ブログを10年もやっていて、最初の数年は、8月になると戦争の話題を書いたものだった。だが、数年前から意識的にやめた。もう言いたいことは書いちゃったし、自分の思いのあり方もだいぶ変わったからだ。
 これを言うと批判されるだろうと思うけど、率直に言うと、もう戦争のことは忘れたほうがいいんじゃないか、と考えるようになった。
 もちろん、戦争の史実を忘却せよというのではない。それは明確に反対。だけど、日本の敗戦からもう長い年月が経ち、世代が代わり、戦争の直接経験者も亡くなっていくのだから、若い世代は、戦争を民族の加害・被害という観点から見るのは、減らしてもいいだろうということだ。もう少し言うと、これからは民族が互いに赦し合えるほうがいい。数年前から、そんな思いで8月を迎えるようになった。
 そんな8月の日、昨日のことだが、「花アン」を見てたら、明日は放映が遅れますというアナウンスがあって、そうか、8月6日かと思った。つまり、今日である。今朝である。
 ぼんやり、7時半ころからNHKのテレビをつけていると、広島原爆の式典が始まった。めずらしく雨が降ってることに見入った。
 NHKのナレーションは集団的自衛権がなんたらと言っていたが、式典とどういう文脈なのか私にはよくわからなかった。
 しばらくすると、ねずみ男が中年太りしたような感じにレインコートを覆った安倍首相が映されて、ああ、出席しているんだなあと思った。出席しないわけにはいかないよなとも思った。そして、ちょっと休みます、とか言ったら、ひどい目に遭うよな、とも思って、自分で、そこで、え?と思った。え?
 そのうち、定刻になって黙祷となった。ツイッターも見ていたのだけど、一人、「木刀」ってしょうもないギャグを放った人がいてちょっと微笑んだけど、黙祷・黙祷・黙祷という感じのツイートが並んだ。ちなみに、私はこの手のことでみんなと黙祷するということはほとんどない。
 現実の場だと「黙祷」っていうと、みなさんまじめに黙祷するんで、ぽかんと目をあけてバカ面している私には気がつかない。
 別に私は黙祷に反対ということではない。私は祈りというのは、イエスが教えてくれたようにしているだけである。つまり、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)ということ。それだけ。ちなみに、その前にイエスはこうも言っていた。「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。」(マタイ6:5)
 今朝もポカーンとしながら、ふと、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という言葉を思い出した。そして、ああと思った。ああ、というのは、思考停止である。
 私は、この件について考えるのをやめたのだった。
 子どものころ、この言葉が理解できなかった。
 「安らかに眠って下さい」は、英語でいう「R.I.P.(rest in peace)」でもあるし、わからないでもないのだけど、それが「過ちは繰返しませぬから」というのがうまく結びつかなかった。
 たぶん、「戦争という過ちを日本国民はしないから、安らかに眠って下さい」ということだろうは思ったが、それと米軍が落とした原爆がどう結びつくのかが、考えるほどにわからなかった。考えると、戦争という過ちを犯した罰で原爆を落とされた、ということになりそうで、いやいや、それは違うだろうと思い、まあ、もういいや、思考停止、となったのである。
 もちろん、思考停止というのは、うまくいくわけものではない。魔法の惚れ薬を作るには、クミンとシナモンをりんごで煮るだけでよいが、ただし、恋人のことを考えずに20分間かき回す、というのがあっても、無理でしょ。
 繰り返してはいけない過ちは、米国が原爆を落としたことかなともちょっと考えてしまう。あれは、通常兵器ではないし、人道上問題のある兵器だし。なので、広島にできるだけ米人を招いて、過ちを知ってほしい、……まさかね。でも日本人に限らないならそうかも。ここで思考停止。
 今朝もぽかんとしながら、ついこのことを考えて、またふと、あれ、これって、御霊信仰じゃないのかなと気がついた。世界大百科事典にはこう書いてある(参照


〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であるが,とくにそれが信仰の対象となったのは,個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって,その威力をかりてたたり,災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は,奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり,以後,さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。 奈良時代の末から平安時代の初期にかけては,あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが,人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え,彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。

 「現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本」というが御霊信仰である。現代にまだあっても不思議ではない。
 この場合だと、「過ちを繰り返す」と「個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)」が現れるのかもしれない。というか、原爆という戦禍も宗教的な深層心理的な枠組みではそう捉えられていたのかもしれない。それがいい悪いというのではなく、日本民族の自然宗教観として自然かもしれない。
 しかし、もちろん、そう考えるも変だなと思う。なにより、戦禍で亡くなった霊魂が再び荒ぶるというのは変だろう。それはないだろう。
 が、そこで「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を再び口をついてみると、死霊が「安らかに眠」れない状態は想定されていることに気がつく。
 死霊は、日本民族が過ちを繰り返しはしないかと心配なのだ、という含みは、ここにあるだろう。あるいは日本民族として米国の過ちを心配。
 私は基本的に死霊というのを信じない。死後の霊魂というのはないと思っている。
 ただし、完全にそう思っているかというと、この世に愛を残した人たちの愛はどこかしら死後の霊魂につながっているような気もするので、完全にないとまでは信じられない。
 それでも、仮にだが、死後の霊魂というのがあるとする。でまあ、いろいろ考えた結果なんだが、あったとしても、「R.I.P.(rest in peace)」だろう。この世界にいたときにどうあっても、死後は安らかにすごしていると思っている。
 死後の霊魂があっても、もうこの世界のことや、生前どっかの民族に所属していることからは解放されている、と思うのである。
 そう思うと逆に、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」というのは、死霊を日本民族というものに結びつける祈りになっているんじゃないのかな、と思った。米国など世界の人に訴えるとしても、日本の被害としてという含みがあるのではないかな。
 こういう問題については、イエスはどう言うだろうかと思って、ふと、マルコ福音書12章を思い出した。イエスにこう問う人がいた。

ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。

 古代ユダヤ人の世界では、子孫を残すために、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』となっていた。
 この話に即していうと、この世界での婚姻などこの世界での結びつきは、死後どうなるかということである。
 イエスの答えはこうだった。

イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

 死後は、天にいる御使いのようになるとのことだ。
 この世で結びつけていたものからは解放されている。
 へえと思う。信じられるかというと、死後の霊魂のことなので、信じがたいなあとは思う。
 それでも、死後の霊魂というのがあるなら、たぶん、もう日本人ということでは、なくなっているのだろうとは思う。
 
追記
 碑文には解釈を巡る経緯もあり、広島市として公式の解釈が示されている。「原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、どういう意味ですか?(FAQID-5801)」(参照)より。

 原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)は、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたいという気持ちから、埴輪(はにわ)の家型に設計されました。中央には原爆死没者名簿を納めた石棺が置かれており、石棺の正面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。
 広島市は、この碑文の趣旨を正確に伝えるため、昭和58年(1983年)に慰霊碑の説明板(日・英)を設置しました。その後、平成20年(2008年)にG8下院議長会議の広島開催を機に多言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語(簡体字)、ハングルを追加)での新たな説明板を設置しました。その全文は次のとおりです。


 この碑は 昭和20年8月6日 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を 平和都市として再建することを念願して設立したものである
 碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心が ここに刻まれている
 中央の石室には 原爆死没者名簿が納められており この碑は また 原爆慰霊碑とも呼ばれている 

 ここでは、「冥福を祈り」、「その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです」とあり、その願いは「過ち」の認識を元にしている。なお、2014年時点では、米国は、広島原爆については「過ち」とはしていない。  
 
 

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2014.08.05

朝日新聞による慰安婦強制連行証言記事の一部取り消し、雑感

 なぜ今日なのかという疑問がふんわりと心に残ったままだが、いずれにせよ今日付けで、朝日新聞が、過去の同紙の慰安婦強制連行証言記事の一部取り消しを発表した(参照)。具体的には、吉田清治証言を報道機関として明確に虚偽だとした。


■読者のみなさまへ
 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。

 この発表に触れたとき、私は意外な感じがした。意外というのは、吉田清治証言に信憑性がないことは、今回の取り消し発表の関連記事にも言及があるが、すでに1993年の時点で吉見義明・中央大教授などから指摘されていた。そこで私は、1990年代に朝日新聞では事実上、吉田清治証言に関連した記事は取り消されているものだと理解していた。
 そのため、産経系メディアなどでこの件について近年になっても糾弾しているのは、なんらかの誤解ではないかと思っていたのだった。例えば、藤岡信勝・拓殖大学客員教授によるZAKZAK「【元凶追及! 慰安婦問題】誤報を意地でも認めない朝日新聞 吉田証言のウソ露見後も謝罪せず」(参照)などがある。

 韓国・済州(チェジュ)島で、慰安婦を強制連行したという懺悔(ざんげ)本を書いた吉田清治氏に、最も入れ込んだメディアは朝日新聞である。1992年1月23日付夕刊では、論説委員が次のような吉田氏の証言を丸ごと無批判に引用している。
 《国家権力が警察を使い、植民地での女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、一年二年と監禁し、集団強姦し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います》
 ところが、この記事の2カ月後に、吉田氏の証言は完全な創作であることが露見した。現代史家の秦郁彦氏が92年3月、吉田氏の本で強制連行が行われたとされる済州島の貝ボタン工場の跡地に行って調査した。工場関係者の古老に「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞かれ、秦氏は返答に窮した。
 それ以前に、地元紙「済州新聞」の女性記者が、吉田氏の著書の韓国語訳が出た89年に調査し、「事実無根」との結論を記事にしていた。その記事の中で、ある郷土史家は吉田氏の著書について「日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物」と憤慨していた。

 ここで引かれている1992年1月23日朝日新聞夕刊の論説委員記事での吉田清治証言だが、今回の取り消し発表にもあるように、1997年3月31日朝刊で「真偽は確認できない」との認識が示され、以降、吉田清治証言を朝日新聞が扱うことはなくなっていた。私はこれで事実上、この件についての朝日新聞報道の問題は終了していたと思っていた。
cover
昭和史の謎を追う〈下〉
 なお、関連する歴史家・秦郁彦の話題は現在は絶版のようだが『昭和史の謎を追う』(参照)に収録されている。
 しかし、今回の発表を読むと、この時点では「吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため」とあり、対比して、今回の発表では、吉田清治証言が明確に虚偽であり、ゆえに関連過去記事の取り消しとなったようだ。
 こうして流れを確認してみると、1997年3月31日から今日2014年8月4日まで17年以上も、吉田清治証言の虚偽性を朝日新聞は認識していなかったのだなと感慨深い点もある。
 今回の発表では、吉田清治証言以外に、慰安婦と挺身隊を過去記事で混乱していたことも「誤用」として明確にした。「「挺身隊」との混同 当時は研究が乏しく同一視」(参照)より。

■読者のみなさまへ
 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。

 この件については、私は基本的に苦笑という以上の関心はもっていなかった。私の母親は「女子勤労挺身隊」ではなかったが、国民学校の生徒として戦時下軍需工場で働かされていた。機械のグリスかなにかをなめたら甘かったとかいう同級生の話など、実感のこもったしょーもないディテールなども私は聞かされている世代なので、挺身隊と慰安婦を混同すること自体ありえないと思っていた。ついでにいうと、当時の朝鮮は日本の植民地として日本であり基本的にではあるが、住民は日本人として扱われていた。慰安婦に日本人が多いのもそのためで、ここでは日本人と朝鮮人との区別は基本的にはない。
 話を、吉田清治証言の虚偽性に戻すと、私としてはこの問題は1990年代に終わっていて、いわゆる従軍慰安婦の問題は、その枠組みとは別のものだと考えてきた。
 ただし、国連人権委員会報告書「女性への暴力特別報告」(E/CN.4/1996/53) 、通称「クマラスワミ報告」(参照)では、作成年代が1996年であることから吉田清治証言が虚偽ではなく歴史証言として参照記載されていることには困惑を感じていた。この点については、2006年の米国下院121号決議(参照)の審議にも影響を与えていたが、翌年の改訂報告では日本国側からの指摘で削除された。米国の議会レベルでの吉田清治証言の扱いも、慎ましやかであれ、虚偽として終了したものと見てよい。
 他面、韓国における吉田清治証言の流布はその後も続いた。日本における従軍慰安婦問題では、吉田清治証言の意味合いはほとんどなくなっていたが、韓国ではようすが異なっている。例えば、韓国の主要紙中央日報では2007年3月10日のコラム「【噴水台】河野談話」(参照)は、こう記していた。

 河野談話が出てくるにあたっては、慰安婦強制募集事実を暴露した吉田清治の証言が起爆剤になった。 吉田は「太平洋戦争当時に‘国民総動員令’を執行する労務報国会の山口県動員部長として朝鮮人6000人を強制連行し、その中には慰安婦女性も多かった」と明らかにした。 彼の証言は、91年に朝日新聞に集中報道されて慰安婦問題への関心を触発させ、韓国では元慰安婦の公開証言が相次いで出てきた。

 韓国側としても、2007年の時点ですら、河野談話の起源を吉田清治証言に見ていることがわかる。
 中央日報コラムはその後、これをどう見ていたか。その虚偽性はどのように認識されていただろうか。

 しかし吉田はその後、多くの批判に直面することになる。 著名な歴史学者である秦郁彦は済州道(チェジュド)現地調査を行い、「吉田の言葉を裏付ける証拠や証言は何も出てこなかった」とし、吉田を‘職業的作話師’だとして攻撃した。 窮地に追い込まれた吉田は「一部の事例の時間・場所には創作が加味された」と告白した。
 これをきっかけに河野談話に対する批判的認識が日本で相当広まった。 政界では安倍晋三首相がその代表だ。 彼は首相就任前である2005年4月の講演会で「慰安婦は吉田の作り話で、朝日新聞がこれを報道し独走した。日本メディアが作り出した話が外国に広まったのだ」と述べた。 しかし吉田が強制動員事実自体を否認したわけではない。 彼は自費を投じて韓国天安(チョンアン)に「謝罪の碑」を建てたりもした。

 翻訳のせいかもしれないが、微妙な含みで書かれている。「吉田が強制動員事実自体を否認したわけではない」という点の理解は難しい。本来なら、強制動員事実自体は吉田清治証言とは関係ないとしたほうがよい。だが、「彼は自費を投じて韓国天安(チョンアン)に「謝罪の碑」を建てたりもした」という情感的であるが、肯定心情もうかがわれる。
 韓国での、こうした傾向はさらに近年でも見られた。例えば、2012年9月9日の朝鮮日報「【コラム】「慰安婦狩り」を告白した日本人」(参照)ではこう書かれていた。

 「慰安婦強制連行の証拠はない」と主張する野田首相の発言に憤慨した読者のキム・ウォンテさんが、自身の所有する日本の本を送ってきた。吉田清治という日本人が1972年に書いた手記だった。吉田氏は戦時中、下関で、労働者の徴用機関だった「労務報国会」の動員部長を3年間務めた。吉田氏は、数多くの朝鮮人を強制的に連行して戦地に送ったが、当時の蛮行を悔いて『朝鮮人慰安婦と日本人』と題する本を執筆した。
 吉田氏の証言は、現場を見ているかのように詳細かつ具体的だ。吉田氏は、日本政府の指示を受けて韓半島(朝鮮半島)に渡り、朝鮮人を集めた。警察の護送車を先頭に慶尚北道永川一帯を回り、若い男性を連行したという。当時、吉田氏の一行は朝鮮人を強制的に徴用することを「狩り」と呼んだ。確かに、他人の家に押し入って人を連れていくという行為は、人間狩りにほかならない。


 後に吉田氏は「朝鮮民族に対する犯罪を、私は卑劣にも30年間隠してきた」と告白し、謝罪した。吉田氏は、日本メディアにも自分の行為を打ち明けたが、日本政府は事実でないとして取り合わなかった。吉田氏の慰安婦募集は、銃剣の代わりに「わな」を使った、明らかな人間狩りだった。この1冊だけでも、当時の日本による慰安婦強制連行は十分立証されている。「銃を突き付けなかったから強制的ではなかった」と言い張る日本政府の関係者は、この本をしっかり読んでもらいたい。

 繰り返すが、これが書かれたのは、2012年であり、匿名掲示板ではなく、韓国大手紙・朝鮮日報であり、執筆者は知識人であると理解してよい。
 こうした韓国側からの主張には、日本の市民としては非常に困惑するものだ。「この1冊だけでも、当時の日本による慰安婦強制連行は十分立証されている」と言われた際、「その本は、フィクションであり、事実としては虚偽ですよ」と答えてよいものだろうかと困惑するのである。そう主張することで、日韓問題の波風は立てたくないと思うからだ。
 よって、日本人としては、こうした問題は、市民レベルでは、困ったなあ、しかたないなあ、と、失礼にならないように、気づかれないように、こっそりと困惑を抑えることになる。
 そうした点からすると、日本を代表する大手紙であり、従軍慰安婦問題に取り組んできた朝日新聞が、吉田清治証言を虚報と明言してくれたことには、率直に安堵する気持ちがある。
 吉田清治証言を排しながら、慰安婦問題を日韓で考えていく基礎となるからである。
 
 

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2014.08.04

佐世保女子高生殺害事件、雑感

 7月26日に長崎県佐世保市のマンションに一人住む15歳の女子高校生が友人で同じく15歳で高校一年生の女子高生を殺害した事件は、日本全体に衝撃を与えた。大事件であったと言っていい。日本のブログとして少し雑感を留めておきたい。
 私は基本的に、こうした非組織的な殺人事件については関心をもたないようにしている。今回も、NHK7時のニュースで初報道があったときも、概要を聞いてから、さっと飛ばした。私は基本的に国内ニュースはNHK7時のニュースしか見ないし、また見るときはいったん録画して見るので、関心のないニュースは飛ばしている。
 この事件に関心がないわけではない。関心をもたないようにしているというだけである。当然だが、15歳の少女が15歳の少女を殺害したというニュース自体には、ある種、衝撃を受けた。
 そして場所が佐世保であることから、2004年6月に同市で発生した長崎県佐世保市女子児童殺害事件のことを即座に思い出した。なぜ佐世保で未成年女子による殺傷事件が起きるのだろうかと不思議に思った。
 ニュースは即座に国際ニュースにもなった。私はBBCの主要ニュースは見ることにしているので、ここでもまたこのニュースがひっかかっていることに、半ば驚き、半ば当然だろうと思った。国際的に見ても、異常な事件であることはあきらかである。そしてどこかしら日本人というものの恐ろしさを暗示しているように世界で受け止められているようにも感じられた。
 BBCは「日本の女子高校生が’同級生を切断”した(Japanese high school girl 'dismembers classmate')」(参照)として報道した。表題から見てもわかるように、その殺害の猟奇性に注目していた。印象だが、こうした表題の作為性からは、英国的では、2000年の「ルーシー・ブラックマンさん事件」の印象があるのではないかと思った。
 私はこの事件に関心を持たないようにしているとは言ったものの、事件の妖しい魅力と言っていいのか、その衝迫性には抗しがたいものがあって、事件のアウトラインは了解した。知るほどに恐ろしい事件である。その殺害手順が尋常ではない。
 当初私は、佐世保市女子児童殺害事件を連想したように、背後に怒りのような、否定的な、そしてあまりに人間的な感情の物語が潜んでいるのではないかと思い込んでいた。そして私は多分にスノビズムの人だからそういう通俗小説のような筋書きを好まない。だが、明らかにこの事件はそうした類とは異なっていた。
 とんでもないものないものに遭遇したような恐怖感を覚えた。連想したのは、1981年のパリ人肉事件や1997年の神戸連続児童殺傷事件のような、一種「サイコパス」がもたらす事件である。そう思えた瞬間に、足下に落ちた矢を避けるように身を引く。
 基本的に私の理解を絶する事件であり、そして市民にとっても理解できる種類の事件ではないと、とりあえず思うことにした。その意味合いは、なにかの物語を背後に読もうとすることは空しいだろうし、ここから教訓のようなものを言うのも難しいだろう、ということだ。
 ましてや、誰かを罰したいような物語も紡げやしないだろう。にも関わらずこの事件に魅了された人々はそこから罰の物語に酔おうとするだろう……そう思えた。こうした怪物のような何かに恐怖を感じる心理がさせるだから、しかたがないことだ。
 こうした事件に遭遇したとき、私はできるだけ遠景から見たいと願う。できるだけ遠景に身を引いたときこ、の事件はどのように見えるだろうか。もちろん、なにも見えないということはありうる。が、ほとんど暗闇のように見えなくなったときに、まるで色の違う小さな三つの点のような疑問がわいた。
 一つめは最初の疑問である。なぜ佐世保なのか。理性は、それはただの偶然であると告げようとするが、逆に理性的に考えれば考えるほど、偶然というには奇妙すぎる。だが、そこから何か通俗的な物語を描くこともおそらく間違いだろう。
 二つめは年齢である。事件当初は容疑者と被害者はともに15歳であった。だが、いつからか容疑者は16歳と言われるようになった。誤報だろうかと調べると、事件の2日後に容疑者は16歳になったらしい。両者、高校二年生だった。不確か情報ではあるが、もし容疑者が誕生日前の出来事であるとしたらそれになにか意味はあるのだろうか。ここでも通俗的な物語は抑制したほうがよいが、日本の場合少年法20条2項で少年が故意に殺人を起こした場合、16歳以上の場合は検察官に送致するので、今後の扱いを含めての関心は起きる。容疑者が14歳以上であることから刑事罰の対象となるが、現状、家裁送致前の捜査段階で精神鑑定を実施することになったので、この疑問は曖昧な状態に置かれたように見える。
 三つ目は、なぜ容疑者はひとり暮らしをしていたのかという疑問である。この点は、かなり合理的な説明がつくはずであり、そして、ついた。時事報道「複数の精神科医受診=父殴打後、協議で1人暮らし-高1女子殺害・長崎」(参照)によれば、3月2日、容疑者の少女は実家で父親を殴打し大けがをさせたことがあり、これを機に彼女は精神科医の診断やカウンセリングを受けていたらしい。彼女が4月からひとり暮らしを始めたのは、医師との協議の結果、実家で暮らしつづけることは、父親の命の危険があったらしい。
 この三点目の疑問が解決されたことは、私に奇妙な困惑をもたらした。正確にいうとそれを知って私はあることを思った。
 その前に、この関連から、こう言うとなんだが、人々が起こす反応を思った。父親へのバッシングである。おそらくこの事実から、容疑者の少女から実父への憎悪を描きその構図のなかで父を捉える誘惑は断ちがたい。だが私はすでにそうした物語はおそらく不毛だろと思っていた。実際のところ現状では、この物語はうまく描けていない。
 私が容疑者のひとり暮らしの背景を知って思った、そのあることには、自分のちょっとした狂気性が混じらざるをえない。だがあえて言うと、父親は殺されてもしかたないとして娘に向き合うことだった。そしてその結果、撲殺されても、しかたがない、と。
 ひどい言い方に聞こえるかもしれないので、別の言い方にすると、自分ならそうするということだ。自分は娘に殺されよう、と決意するということである。もちろん、無抵抗に殺されるということではなく、防衛はする。防衛しつつ、娘がむき出す狂気の姿態を二人で見つめたい。そういう運命になったら、それが自分の人生の意味だったのだと諦める。そして、もしこの運命に癒やしというのがあるなら、そのカーリー神のような演舞をすべて見届ける必要があるはずだ。
 少し自分の狂気性から離れると、それはむちゃくちゃな話だということは理解している。到底、他者に、そうあれ、とは言えない類の話であることはわかる。実際、そういう場面に自分がおかれて、そうできるかは明確な確信もない。それでもが、成人してない娘に殺されるなら、親は本望ではないかと思える心情があるし、その心情が自分にすぐに浮かんだことに不思議な思いがした。
 さらに別の言い方をする。
 この問題はもはや、市民社会の理解を超えていると私は思う。だが、人間のありかたとして見つめれば、けして異常ではない。
 人間というのはそういう存在なのだ。そういう状況に置かれたときは、人間は静かに一人、市民社会の外側に立つことがある。その一つの形が、「さあて、結局、俺は娘に殺されるか、しかたねーな」という観念ということは、ありうるだろう。
 
 

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2014.08.03

人はなぜ不運を自分の能力の欠如だと思うのだろうか?

 世の中には、そしてもちろんネットにも、名言集というのがある。覚えておくと便利だったり勇気づけられたり、あるいは手短で洒落た皮肉な言い回しに人生の真実を感じさせたりといったものだ。ツイッターの投稿などにも、これは名言だなというのもある。
 で、例えば……という一例の名言をここに書くかというと、その前にだ、私は名言集というのが好きではなかったという話を書く。中学生のころその手の類をいろいろ読んで、たまたま学校にもっていって読んでいたら、友人がそれ貸せというので貸したところ、友人から友人へという連鎖で読まれていった。彼ら、なにやら名言集に感得しているのである。その様子を見ながら、自分もああいう読者の一人だったんだと妙に醒めた思いがした。以来、その手の本を読むのをやめた。概ね。
 名言集の名言というのがきらいになった。格言、アフォリズムといったものは、知性の軽薄なありかたにすぎないと思っていた。「結婚は人生の墓場だ」で?
 だが、いつからか、そうでもないなと思うようにもなった。30代だっただろうか。人生が自分のなかにワインの澱のように貯まりだしたのと関係しているのだろう。
 私は何が言いたいのか? 名言というのは、無理して読もう、知ろうとしなくても、自然に心がキャッチして、反芻することがあると思うようになったのだ。例えば……そう、最近のそれをご紹介。ビジネス英語の教材にあったものだ。

The easiest thing to do, whenever you fail, is to put yourself down by blaming your lack of ability for your misfortunes.

失敗したときにする一番簡単なことは、不運について自分の能力が足りなかったと自分のせいにして、いじけることだ。


 作家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving)の言葉とされている。
 訳がつたないのだが、ようするに、不運を自分の能力の欠如だとして自分を責めるのは安易なことだ、というのだ。
 不運は不運としてある。別に能力の欠如で不運がもたらされたわけではないよ、と。
 自分の能力を信じていたら幸運なときには成功するかもしれない。不運について自分をそう責めるなよ、ということ。
 ただし、英語で読んだときは特に違和感なかったが、ちょっと試訳を添えようとしたら、意外に難しかった。"put down"と"blame"が意味的に重なっているのに気がついた。どっちも結果的に自分を責めることなので直訳すると意味がまどろっこしくなる。あと、ふと"ability for your misfortunes"という解釈はないよなあと思った("blame for"だから)。
 英語の話はさておき、この名言がなんとなく最近、心に引っかかっていた。
 心に引っかかっていた理由は、自分でもわかった。私は、自分の不運をみんな自分の能力の欠如が理由だと考える人だからだ。
 自著にもなんたら書いたが、私は人生の失敗者だと自分を思っていて、その理由は自分の能力の欠落だと思っている。
 そう思おうとしている、と言っていいかもしれない。自分がたまたま不運だったのだとは思わないようにしている。そう思いながら、世の中の成功者の多くは幸運だっただけなんじゃないかなともなんとなく思っている。
 さて。
 自分の能力とか「私は人生の失敗者だ」とかは、とりあえずどうでもいいとして、なんで自分はそう考えるのか。つまり、先の名言でいうところの、「一番簡単なこと」を私はつい選択してしまうのだろうか?
 別の言い方をすると、なぜ自分は、不運を能力の欠如と見たがるのだろうか? そしてたぶん、それは自分だけの傾向と限らないだろう。
 人はなぜ不運を自分の能力の欠如だと思うのだろうか?
 先の名言の文脈でいえば、それが「一番簡単なこと」だから、ということだが、それもちょっと違うなという感じがしていた。
cover
脳科学は人格を
変えられるか?
エレーヌ・フォックス
 心のひっかかりをぼんやりと見つめていると、ああ、そうかと思う。
 先日読んでちょっとひねくれた書評も書いたのだが、『脳科学は人格を変えられるか?(エレーヌ・フォックス)』(参照)に、この件で関連することがあったのだった。この本、オリジナルタイトルが、悲観的な脳=雨降りの脳(レイニーブレイン)対楽観的な脳=お天気な脳(サニーブレイン)とあるように、人間の脳の、悲観・楽観の自然的な対応について論じたものだ。
 そのなかで、いろいろと楽観的な脳=お天気な脳(サニーブレイン)について脳の解剖学的な枠組みで挿話を並べたのち、こうある。

 サニーブレインのしくみについて、解剖学的に考察した結果は以上のとおりだ。楽観とはいつもただ上機嫌でいるだけではなく、意義深い生活に積極的にかかわり、打たれ強い心を育み、「自分で状況をコントロールできる」という気持ちを持ち続けることだ。これは、「良いことも悪いことも受け入れる能力があってこそ、楽観はプラスに作用する」という心理学の研究結果とも符号する。


 これは、多くの自己啓発本にあふれる「ハッピーな思考はすべての問題を解決する」というアプローチとは似て非なるものだ。ポジティブに考えるかネガティブに考えるかはもちろん重要だ。だが、単にいつも「こうなってほしい」と期待するのが真の楽観主義だと思ったら、それはおおまちがいだ。


楽観的なリアリストは、自分の運命は自分でコントロールできると意識の底で信じているのだ。

 つまり、物事をポジティブに考えればうまくいくというのではなく、不運があってもそれを自分が乗り越えられるという確信が楽観だというのだ。
 そうなんだろう。
 そして、私は悲観的なリアリストとして、自分の運命は自分でコントロールできると意識の底で信じているから、自分の能力で対処できない不運まで自分の能力で対応しようとして、そして結局できないから、自分の能力の欠落だと思うようになってしまう。
 と、いうことなんじゃないか。
 こうした考えが正しいかどうかというより、ああ、俺、年取ったなあという思いともこれが呼応していた。
 私はこの夏、57歳になるのだが、「人生の失敗者」とかほざいていても、今日までそれなりに生きて来て、ここまではいちおう生存を達成した。
 達成の繰り返しから、「不運があってもなんとかやってきたじゃん、だから、まあ、これから人生そう長くもないけど、適当なとこまでなんとかやってけるんじゃね」という楽観みたいなものも持つようになった。
 それと、ここまで生きてみると、「ああ、不運というのは、純粋に不運だ」と素直に思えるようになった。これは他人の人生を見ていても思う。「ああ、あれはかわいそうだ、あれは不運すぎる」というのを随分、見た。
 人生ってなんじゃこりゃというくらい、不運の駒を背負ってこの世にやってくる人がいて、しかもその不運がなかなか他人から見えない類のものがある。人生とはそんなものなんで、成功した人がこうすれば成功できるとか言うと「嘘だろそれ」とかつい思う。
 この話にオチは特にない。
 みなさんはどうですか。とかね。でもしいていうなら、不運のときは、いろいろ理屈を考えるより、しばらく時が過ぎるのを待ったほうがいいんじゃねくらいは思う。
 暑いときは、水分補給をしてぐったりと休みましょうとか。
 

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2014.08.01

[連絡]ALIS定例会特別企画 クラウドファンディング報告・講演会に出ます。

 来週になりますが、8月9日(土)、筑波大学で開催される講演会に講師として出ます。
 一般向けに、finalvent本人が出るのは、初めてことになります。
 内容は後に記しますが、「公立図書館に『アンネの日記』など376冊の本を寄贈したい!」(参照)とするクラウド・ファンディング活動に関連して、「アンネの日記破損事件の海外での受け止めかたについて」の話題です。以前、このブログで書いた記事の関連を詳しく説明することになります。
 今回、講師を受けたのは、主旨に賛同したことからで、他意はありません。
 
 ブログを初めて、基本、自分の仕事とは関係ないことから、長くfinalventとして匿名で続け、また、公に出るこということも控えていました。匿名という点については黎明期からパソコン通信をしていた延長であって、正体を隠したいという意図ではありませんでした。
 10年をきっかけに自著『考える生き方』(参照)を出して、また、Cakesで連載(参照)をするようになってから、その関連にまれに顔を出すようにはなりました。

 イベント詳細は「ALISの活動記録」のホームページ(参照)にありますが、以下にも転載します。



【イベント詳細】
日時:8月9日(土)14時~16時
場所:筑波大学春日エリアメディアユニオン3階共同会議室
https://www.tsukuba.ac.jp/access/map_kasuga.html

タイムテーブル:
13:30~14:00:受付
14:00~14:05:冒頭説明
14:05~14:25: 事件概要と調査報告/赤山みほ(筑波大学大学院図書館情報メディア研究科)
14:25~14:55:日本最大級の読書SNSの中の人から見た図書館とアンネの日記破損事件/大西隆幸(株式会社ブクログ)
15:05~15:35:図書館と資料毀損: 表現の自由の視点から/木川田朱美(桜の聖母短期大学助教)
15:35~16:05:アンネの日記破損事件、海外での受け止めかた/アルファブロガーfinalvent
16:05~16:35:質疑応答
16:35~17:00:茶話会(フリートーク)
料金:無料

【講師紹介】
・赤山みほ(あかやま みほ)
1984年生まれ。公立図書館の民営化について研究している。
公立図書館の非常勤職員等を経て、現在、筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程1年。READYFOR?「公立図書館に『アンネの日記』など376冊の本を寄贈したい!」のプロジェクト実行者。

・大西隆幸(おおにし たかゆき)
1979年大阪生まれ。大阪府立高専卒。
編集プロダクション勤務を経て、2011年より株式会社paperboy&co.(現 GMOペパボ)に入社、2012年より分社化された株式会社ブクログに所属。ブックレビューコミュニティサイトのブクログでは書籍のプロモーション業務、電子書籍作成販売のパブーではディストリビューション事業の立ち上げや電子書籍の企画を担当。2014年3月より取締役就任。

・木川田朱美(きかわだ あけみ)
1984年生まれ。日本学術振興会 特別研究員
(DC2)にて、「現代日本のポルノ規制とその構造:有害図書規制に関する人文社会情報学的検討」のテーマで研究し、有害図書規制を通じて、社会的な議論の争点となるような図書館資料の取り扱いについて研究している。現在、桜の聖母短期大学、助教。

・finalvent(ファイナルベント)
アルファブロガー(2004年アルファブロガー・アワード)。1959年東京生まれ。
著書『考える生き方』(ダイヤモンド社)。黎明期1984年からパソコン通信を開始。ブログは2003年から現在まで続けている


 申し込みは該当ページから可能ですが、ここ(参照)にもリンクをつけておきます。

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