「進撃の巨人」14巻が面白かった
すでに「進撃の巨人」はコミック全巻買って既読のうえ、アニメも全部見ているが、これまでとりわけブログに書いてこなかった。面白いと言っていいのだが、進行中の話と受け取り方の微妙なズレみたいのがまだまだあって(物語の価値観がなんども逆転する)、現状では言及できる段階ではないとも思っていた。が、一昨日発売された「進撃の巨人」14巻はさすがに面白い。ちょっと書きたい気がした。
![]() 進撃の巨人(14) |
文学的な作品を何らかの比喩として見るのは(特に、現代性の比喩とか)、その手の批評形式は、どれだけ知的な装いをしたところで、つまんないお遊びにしかならない。そうとわかっていながら、14巻の持つ、現代日本への比喩性というのは考えざるをえなかった。
というあたりで、「進撃の巨人」という物語がどういう話なのか、今北産業的に書いておくとよいがブログなので割愛。でも、ごく簡単な世界観の説明は必要になる。この物語で「人類」と呼ばれている人々は壁のなかに閉じ込められている。壁の外には生命を脅かす恐怖(巨人)が存在する。と、いうことは抑えておきたい。
恐怖から守るという名目の壁によって閉ざされた世界と、そこから出られない人間という比喩は、現代の世界や日本をよく比喩してしまっている。
![]() DVD付き 進撃の巨人(14) 限定版 |
比喩として読めてしまう一点目は、記憶の改竄である。物語の主要登場人物エルヴィン団長は、子供の時、教師として歴史を教える父にある疑問を投げかける。公式の歴史では、壁に逃げ込むことで平和が達成されたというのだが、そこに矛盾があるのではないか。歴史の事実は文献では握りつぶせても、100年ほどの人々の経験には残り語り継ぐことができるはずだ。なのに、その口承がないのはなぜなのか? それは人々の記憶が改竄されたからではないかというのだ。もちろん、マンガだから、ここでは超能力的な記憶改竄が示唆されている。
この仕立ては日本の戦後の思想空間の比喩に見えてしまう。江藤淳が言うWGIP(War Guilt Information Program)のような戦争罪悪感計画が実際に存在していたかはわからないが、戦後日本にはWGIPという連想が浮かぶような思想空間が存在するようには思える。そのため、ネット右翼と呼ばれる人たちは、しばしば「記憶の改竄を解いて真実の歴史を発見」してしまう。その詳細や議論は置くとしても、戦後日本はなんらかの歴史記憶の改竄を強いられたような心情は蔓延しているとは言えるだろう。そこから、そうではない世界を構築したいという欲望も付随してしまう。
関連したもう一つの比喩は、巨人世界の王の存在である。比喩されるものは、当然天皇である。巨人の世界では、国の存続を象徴する高貴な血筋として描かれているが、それに対して、エルヴィンは、現王は偽物であり、正しい王にすげ替えようとしている。
この比喩は、三島由紀夫に顕著であり、また最近では、長谷川三千子に顕著だが、死を捧げるに足る「本当の天皇」の希求がある。つまり、王制・天皇制の「本来」のあり方すれば、戦後象徴天皇というのは、すげ替えらた天皇であり、さらに本当の天皇にすげ替えなければならない、という比喩がありうる。あるいは左翼的には、戦後象徴天皇がさらにすげ替えられなければならないものともされている。そこでは新しい天皇は具体的には希求されてはいないものの、北朝鮮のような王制への親和心情は見られる。なおこの王=転倒の比喩の延長から壁を考えるなら、眠る巨人の硬化によって作られたことは「英霊の御柱」が連想される。
もう一つ比喩性として思えたのは、「革命」への倒錯的な期待である。王制を変えるためには、民衆の支持が必要だとする考えから、主要登場人物アルミンはこう語る。「何か象徴的な事件でもでっちあげてそのすべてを王制か憲兵がやったことに仕向ければいい。そこで調査兵団が救世主のように登場し民衆の味方は調査兵団しかないと強く印象付ければいい、きっと民衆はだまされやすくて……なんちゃって」とギャグにしているが、この手の謀略性は、2.26事件にも見えるし、戦後の不可解な事件にも見える。北朝鮮や中国共産党の成立史なども連想する。いずれ、「民衆はだまされやすくて」というのが状態である世界のあり方を比喩してしまっている。なお、この部分、雑誌では「きっと民衆はだまされやすくてクソ……」となっていた。「クソ」が単行本では削られているが、まさに比喩の心情は、そこ(民衆への嫌悪)にある。
先にも述べた、こうした比喩性というのは、読む側の興味のありかたの一つであって、物語の解釈に必要なものでもないし、なにより、「現代思想」とか「現代批評」みたいにお手軽すぎて、なんだかなあという代物だが、それでも、この物語の現代性は、そうした比喩性を各種喚起するところにあるのだろう。そして、それらの比喩のどのあり方が正しいかということを、巧妙に転換しつつ、実際には比喩性を批判している点にある。ここは誤解されやすいからもう一度いうと、「進撃の巨人」は現代の右翼的なあるいは左翼的な心情世界の比喩になっているのではなく、そうした比喩性に対する、世界認識の転換可能性による批判となっている点が重要なのである。
そのことは、正義に荷担してバッシングとして発言している現代の匿名的な暴力性に、根拠がありえないことを結果として大きく比喩している。
| 固定リンク
「書評」カテゴリの記事
- [書評] ポリアモリー 恋愛革命(デボラ・アナポール)(2018.04.02)
- [書評] フランス人 この奇妙な人たち(ポリー・プラット)(2018.03.29)
- [書評] ストーリー式記憶法(山口真由)(2018.03.26)
- [書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵)(2018.03.28)
- [書評] 回避性愛着障害(岡田尊司)(2018.03.27)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
先日『進撃』15巻読み終わりました。ほんとう、どこまで行くのか、ハラハラしつつ読んでしまいました。
で、14巻の指摘をされた「比喩」のはなしですが、俺はツカミだなと感じました。ついつい本当に地下住民だとか、本当に血塗られた王の異端の喩えとか、比喩として本当にあるのだ、と感じてしまいますが、そこから結局、何処にも行けない。「壁」の中に読者も作品も閉じ込められる。となると、しっかりと読むということは、辺鄙な地方では原理的に不可能、ということになる。ちなみに当方奈良県民です。。
無意味とまでは言いませんが、しっかりと作品を読むためには、『壁』の外に居ること、すなわち、違う国に居住していることが必要なのではないかな。そういう電波をわぁっと聴きました(笑)。
ディスではないです、悪しからず・・・。
投稿: まさみち | 2015.01.02 17:37