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2014.06.07

なぜ市民は女児殺害事件容疑者逮捕について考えなければいけないのか?

 なぜ、私が女児殺害事件容疑者逮捕にこだわって考え続けているのかについて書いておこうと思う。

問題の基本構図としてのジレンマ
 まず枠組みとして重要なことは、この問題がジレンマの構造をしていることだ。私はまずそう認識するし、日本の市民にとってもそうであると思う。ジレンマというのは、問題の対応に二つの選択肢が存在するがそのどちらを選んでも不利益があって態度を決めるのが難しい状態を指している。
 しかし、ジレンマの問題が市民社会でまさに問題となるのは、ジレンマの状況そのものではない。なぜなら、それは最終的に総合的な利得にかなり還元できるからだ。
 ではジレンマが市民社会で問題になるのはどういうことか? それは、市民がジレンマを避けられるように行動を取り、選択による不利益を自己の市民としての責務として担うことを放棄することである。
 これは、いじめ問題の傍観にも似ている。いじめはよくないしよくないと表明したいが、そう表明することで自分がいじめ対象になるのを怖れる。よって、そのジレンマを自分の問題としないとして表明を控える。
 では、その全体的な結果はどうなるのか? 自明だろうと思う。いじめが続く。
 いじめ問題の本質は、実はそうした、ジレンマによる不利益を自分の責務とする主体的な責務感の欠如がある種経済学的な均衡を介して継続することだ。

女児殺害事件容疑者逮捕のジレンマ
 女児殺害事件容疑者逮捕はどのように、市民にとってジレンマなのだろうか。対立する二つの項は、こうである。

  1. 凶悪犯罪を未決事件として放置しておくことはできない。
  2. その解決たのために冤罪事件を誘発する手法を警察が採ることは許しがたい。

 そのジレンマに対して、市民はどのように回避し、無責任となれるのか。次のようになる。

犯人について主体的な印象を持とうとすることを避け、それを市民としての自分の市民社会問題から疎外して、ジレンマを悩むことを放棄する。

 もう一歩進めよう。なぜ、そのような市民的な責務の回避が起きているように見えるのだろうか?

なぜこの事件が冤罪事件の構図として批判されないのか
 この事件の特性には、冤罪事件の構図に従属ではあるが、犯人の自白という大きな問題がある。
 現状、私たち市民が報道から知りうる情報を市民の常識として吟味する限り、確固たる証拠はなにも存在していない。そのうえ、事件の解明はすべて自白に依存しているように見える。つまり、この事件はまったく冤罪事件と同じ構図にある。
 にもかかわらず、この事件が冤罪事件と同じ構図ではないかとして、PC遠隔操作事件のように警察を非難する論調は、ネットですらほとんど見かけない。私は見かけたことがない。なぜなのだろうか?
 さきのジレンマに直面し、ジレンマを引き受けることを放棄しているからではないだろうか?
 別の言い方をすれば、こういう心理ではないだろうか。


凶悪犯人は逮捕してほしいが、そのために冤罪事件を導く捜査方法は是認せざるを得ないにも拘わらず、それを是認するかのような意見を述べると、自分が正しくないように思えるというのは嫌だな。黙っていよう。いっそ、犯人であるか犯人ではないかという主体的な印象をもつのも避けてしまおう。

 理路は逆になる。
 女児殺害事件容疑者が犯人であるか、そうではないのかという市民的な主体的な意識をもってこの事件を見ていけば、この事件が冤罪と同じ構図にあることがわかり、無関心からではなく、また、「印象をもつべきではない」という理由からでもなく、きちんと、容疑者が犯人だともそうでないとも思えず、結果、嫌悪感ももてない、という帰結になるはずだ。

では市民はどうしたらよいのだろうか?
 ではどうしたらよいのだろうか。二つある。

  1. 現時点で、容疑者が犯人であるという判断ができないということに主体的に関わり、その表明をする。
  2. 警察の冤罪誘導的な手法を是認してはならないが、それなくして逮捕できない現実についての責務感を持つ。市民として汚れの部分を引き受ける。

 問題は、ゆえに、さらにもう一歩すすめて、警察が冤罪をもたらす手法をある程度是認するということは、どういうことなのかということを市民として考え詰め、それも表明していくことである。
 あるいは、それは断固として是認できないとして、この事件における冤罪的な構図を主張しつづけることである。

コメントに答える
 以上で、私の基本的な考えを示したので、いただいた以下のコメントに答えてみたいと思う。このコメントの背景的部分についての感想は含めず、書かれたことに、直球的に答えてみたいと思う。また謝辞的な部分は引用しない。


 まず、今回の事件に対して、最も重要なことは、「真実は何か?」ということではないかと思います。
 というのも、いたいけな命が奪われたという、厳粛な、痛ましい事実があるからです。
 かような事件を扱う局面において、多様な臆見を表明し、戦わせることが、相応しいことである、とは、私には思えなかったのが、正直な感想です。
 「現時点の報道では、真実が何か、得心のいくまでの情報が公開されていない。警察は、無用の心理操作を行う暇があるのならば、市民が真実を得心できうる情報をもっと追及し、それを公開すべきだ」という論であれば、私も話はわかります。
 そうでなく、市民は、痛ましい犯罪を前にして、それでも、真実は何か、ああではない、こうではない、と、臆見を戦わせるべきである、という主張であるならば、これは直ちに筋が通りにくいのではないかと思えます。
 現在、供述内容は二転三転するといわれているものの、容疑者が、自白を撤回した、という報道はまだ聞こえてきません。
しかし、finalvent様は、おそらく、容疑者が、後日、自白を撤回するのではないか、と見込んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 あるいは、容疑者が、厭世的であるとかいった理由で、意図的に、自ら犯人であると騙っているのではないか。
こうした可能性は、依然、あるのかもしれません。
 しかしながら、このような可能性を想定すること自体が、事件の痛ましさを思い起こせば、心情的に、どうしても苦しく、耐えられないものがあります。
 犯罪に対する判断は、非常に難しいと思います。
 例えば、小野悦男受刑囚の件を想起してください。
 痛ましい事件においては、自らの臆見を披露することは、政治的な議論を行うような場合とは全く次元の異なった、倫理的な慎重さが要求されてくるように思われるのです。
 アレントの議論が、直ちに妥当する場面ではないと感じるのです。

 コメントありがとう。
 では答えてみよう。

この事件における「真実」とは何か?
 この女児殺害事件における「真実」とはなんだろうか。
 コメントのかたからいただいた疑問点で、一番違和感をもったのが、まさにその問いだった。違和感のコアは、その文脈から「真犯人を割り出す」ことが「真実」とされていることだった。
 私は、まず、そうは考えていない。
 「真犯人を見つけ」それに適切な処罰を与えることが、この事件の「真実」だとは考えていない。
 「いたいけな命が奪われたという、厳粛な、痛ましい事実」に対する親御さんにとっての「真実」は、処罰であるかもしれない。近代国家の刑は、復讐の抑制的な代理という側面がある。
 しかし、それは市民には該当しない。私は「いたいけな命」について、市民としてしか関与できない。
 では、市民という点からその事実が意味するところ、「真実」とはなんだろうか?
 犯罪が適切に解明されるように警察を支援することだと思う。さらに裁判が正しく進むことを支援することだと思う。
 真犯人の割り出しは、その支援の結果として、蓋然として得られることがありうるということで、あくまで蓋然に置かれるものだろうと考える。
 私たちは神のような全能ではないので、犯罪を映画のように見通すことができない。公的に理解される手順や証言の審議を通して、犯罪についてのある合意を形成する、その合意形成が「真実」であるにすぎない。

自白と日本人的な倫理感について
 今回の事件の自白についてこう問われる。


容疑者が、後日、自白を撤回するのではないか、と見込んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 あるいは、容疑者が、厭世的であるとかいった理由で、意図的に、自ら犯人であると騙っているのではないか。

 これに対する私の答えとして、率直なところ、まったくそう考えていない。自白のとおり、なんらかの物的証拠があがる可能性は少なくないとは思う。
 私が関心を持つのは、この事件を、自白に倫理的な意味合いを持たせ、そのような倫理を市民社会の倫理とすることへの拒絶感である。
 ここから少し日本人論ぽくなることは留意しつつ述べたい。
 日本人はこう考えがちではないだろうか。

悪い人がいて、それをとっちめて、「悪うございました」と土下座させれば、悪が終わる。

 それを日本人は「正義」の実行と考えているのではないだろうか? そして、「清らかなる本心」を守る。
 犯罪や悪を、そうした「清らかなる本心」の問題として、そこに帰着させたいという欲望を強迫的に持っているのではないだろうか。私はそうした、強迫的な倫理こそが個人の思想を尊重する市民社会の原則に反するものだと考える。
 すべての自白がいけないとは言わない。ある事件の犯人が犯行後、自分の罪を自覚して、罪が存在することを公にするために自ら犯罪の証拠を提示するというなら、それにはまったく異論はない。
 しかし、今回の事件には、そうした構図は、現状見られないのである。

主体的に関心を持つから犯人であるとは思えない
 すでに述べたとおりの再掲になる。私はこう問われる。


 痛ましい事件においては、自らの臆見を披露することは、政治的な議論を行うような場合とは全く次元の異なった、倫理的な慎重さが要求されてくるように思われるのです。

 私の答えは、その倫理的な慎重さが、先に提示したジレンマを回避しないことである。
 また、私は、主体的に関心を持つからこの事件の容疑者が現時点では犯人であるとは思えない。
 そうした風潮で報道されている現状に違和感を思える。また、そうした風潮にきちんと、そうであってはならないという否定の意見を述べておきたい。
 
 

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コメント

finalvent様
こんばんは。先日、ブログを拝見しまして感想を申し上げたものです。
早速、当方のコメントを記事に取り上げていただくとは思いもよりませんでした。ご丁寧に、さらに詳しくお考えをご披露いただき、感銘を覚えました。ありがとうございました。
以下、長文恐縮ですが、あくまでご一読さえいただければ幸甚です。
finalvent様にご指摘いただいた通り、よくよく考えてみれば、過去の事象に対して、人間の知性が獲得できるものは、たかだか、「合意された真実」でしかない。だとすれば、そもそも、刑事罰の実施により実現される正義というものは、どの程度のものなのだろうか。それを、我々は過度に捉えているのではないだろうか、という問題が生じようかと思います。
言い換えれば、犯人が罪を認め、刑事罰が下されさえすれば正義が全うされる、という正義観は、いわば、かつて魔女裁判を支えたであろう価値観と同様に、野蛮な、内実を欠いた正義ではないのか?ということになろうかと思料します。
理屈として、その通りと思いますが、心情がついていかないのが我ながら妙です。この心情を検討することは、
>警察が冤罪をもたらす手法をある程度是認するということは、どういうことなのかということを市民として考え詰め、それも表明していく
ことにつながるやもしれません。今すぐ果たすには当方の手に余りますが、finalvent様に与えられた課題として意識したいと思います。
かかる心情とは、大岡越前的に、悪人が罪を認めて、お裁きがくだり、安心したい、という、言葉にすればどうということのない願望ですが、しかし、これが根強いことを今回改めて自覚しました。
これは、少なからぬ人にとって、止み難い願望でもありましょう。この願望の帰結が何なのか、よくよく、考えたいと思います。
お目通しくださいまして、誠にありがとうございました。

投稿: | 2014.06.09 04:21

いえ、コメントありがとうございました。エントリーは「常体」で書いたのできつい語調になってしまいましたが、そこは差し引いてご理解ください。

投稿: finalvent | 2014.06.09 11:00

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