不倫は市民社会にとって「悪」でもなんでもない
昨日のエントリーを書いて、意外な反応があった。率直にいうと、私が何を書いても罵倒を投げかけてくる一群の人がいるので、それはそれとして静かな白樺の林の見える特等席に座っていただくとして、意外だったのは、「不倫」の話題を持ち出すのが「ゲス」とか「セカンドレイプ」だとの指摘だった。
びっくりした。私の誤解かもしれない。誤解でびっくりしているのかもしれないが、誰が不倫をしていても、そんなことどうでもいいことなんじゃないのか。
不倫は公の市民社会にとっては「悪」でもなんでもない。不倫が問題になり「悪」であるのは、個的な関係だけである。私を例にするなら、私と性的または愛情の関係にある一群の人との関係内の問題である。別の言い方をすれば、文学的な問題にはなると思う。でも、明らかに市民社会の問題ではない。
誰が不倫していたかというのも、まったくどうでもいいこと。ではなぜそんな話を出したのかということ、まさにどうでもいいことだからだ。ヤジをした人がそんなことにこだわっているなら、それには意味がないですよという例だった。
また例としたのは、今回の話が「侮辱」の問題であるなら、一義に当事者間の問題だからだ。極端な話になるが、「侮辱」は受け取る側が「侮辱」として受け取るから成立する(後で述べるがセクハラはそれとは別)。例えば、若い女性議員に「引っ込めハゲ」とヤジを言っても侮辱としては成立しないだろう。ハゲオヤジが全員怒ることでもない。抗がん剤の副作用とかだと話は全然違うが。
侮辱が成立するには、最初にきちんと侮辱を当事者が私的な問題として受け止めることが前提になる。「私的な名誉」が問われるからだ。
侮辱はまずそうした市民と市民との個々の関係の内側で成立する。それゆえに、個別の「侮辱」について怒る権利は、その「侮辱」を受け取った人にまずある(「私的な名誉」を毀損された人にある)。
その個的な関係の外側にいる市民にとっては、一義には、怒る権利はない。これを押し詰めた司法は明確にそういう形態をとっている。
そうした構図を見るために、「侮辱」というのを、まず当事者間の文脈にまず置き戻してもらいたいというのがある。その文脈化で、ヤジする側にも世界観・人間観・ロジックというものがあるだろうから、事態が発生する仕組みを知る上でも理解したほうがよい。そこでは、今回の事例の一つの文脈化としてだが、ヤジした人が思いつきそうなことの一例として、不倫というのを侮辱に値するものとして想定したのではないか、ということだった。
別の言い方をすれば、私のように、不倫は市民社会にとって「悪」でもなんでもないと思う人間には、そうした前提はないし、また、私は塩村議員についてはほとんど知らないので、知っている範囲のことで文脈化の例で思いついたのはそのくらいだった、というだけでしかない。侮辱は「私的な名誉」を毀損したとしてまず個別の文脈のなかで問われるから、そのどうでもいい一例としただけである。また「正義」を暴発させないためにも、まず、「侮辱」はまずその個別の文脈で見るほうがよい。実際のところ、都議会での侮辱についての現規定も、個々人の関係としての侮辱が前提になっているから、セクハラという問題は旧来の「侮辱」という範疇では扱いづらい。
そこをきちんと切り分けて、今回のことでは、ヤジした人が投げかけた言葉は、個的な関係という文脈を外しても明白にセクハラだった。だから、今回のヤジした人は、個別の侮辱の文脈を離れた部分で、きちんとセクハラとして処罰されたほうがよい。しかし現状、都議会には「侮辱」とは別にセクハラを処罰する規定はない。事後に処罰法を作るわけにもいかないから、これは議会のありかたとしてこの機会にセクハラ・ヤジをなくすように是正したらよいだろう。そしてそう私は主張した。
それと「正義」より大切なのは、議会が正常に機能することだ。
これも前回書いたとおりのことだが、今回の問題には、まず、社会的な問題として見れば、第一義にはSNSネットワークを使った炎上案件に近い。しかもこれは議会の場に関連した炎上案件に近く、議会を巻き込みうる。そして政治的な思惑がこれに引き寄せられ、しかも不特定の感情を巻き込んで、不特定だが大きな怒りの空気を形成し、政治的に議会に介入的に機能しはじめる。
だがどういう形であれ、議会という制度に介入してくる政治勢力は民主主義社会とって好ましいことではない。ゼロにはできないものだからこそ、その政治的な勢力・権力は、市民社会が抑制しなければならない。もちろんこれはSNSネットワークを政治に使うなということではない。だが、議会は議会のルールで動いてもらわなくては困る。市民がすべきことはたとえSNSネットワークを使うのであれ、議会が自律的に正常に運営してもらうことを前提にしたい。今回の件では、個別の「侮辱」はまず個別の文脈で扱い、またセクハラについては、新しい議会ルールで対応したほうがよい。
もう一つ前回のアーティクルの反応で、意外だったのは、強い人にヤジの前面に立ってもらいたという私の願いへの批判だった。「なにこれ生贄?人身御供?」「爺から塩村議員へのサディスティック説教」とも言われた。これは、1960年代のアメリカの公民権運動を自分の人生の歴史のなかでリアルタイムに見てきた人間としては、とても不思議な感覚に思えた。
公民権運動では、彼らのうち力のあるものは率先して差別の前面に立って戦ってきたし、戦わなくては市民の権利が獲得できないから、戦うしかなかった(もちろん非暴力で)。そして、自分が戦えないほど弱い人間であるなら、強い立場の人に戦ってほしいとして、そのために代表者を選び出した。議員というのは、代議士(representative)であり、私たちの代理で戦ってくれる人のことだ。
議員ならセクハラに耐えろと言っているのではない。でも、代議士は、この社会に存在する差別が可視になるように戦ってほしい。特にセクハラというのは、この社会の見えないところで、しかも弱者において発生しているからだ(今回の反応例では、「セクハラ経験のない中年男性にはわからないんでしょ」という感じのもあったがそれも微妙にセクハラ)。
もちろん、特定の議員にはその戦いが難しいというのなら、選挙の時に、新しく戦える人を選びたいと思う。みんなが戦えるわけではない。みんなが戦っている幻想からSNSネットワークで傘連判状を作るのはいいけど、それは代議士で構成される議会のプロセスには乗りづらい。きちんとしたプロセスでセクハラのない社会に変えていきたい。
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コメント
前々回のエントリでも同じようなコメントしちゃったからやはり釣られているのかと思わざるを得ないが、この世界に蔓延する「メジャーな差別問題」と同じだろう。要するにレッテルを貼ってみんなでスクラム組んで相手を追い込んでしまえというサヨク発想なわけじゃん。それを真面目に分析した上で「真の差別問題」に取り組んでほしいという締めは見事だと思うよ、本当に。
で、結局同じ話だけどこんな簡単な話にレッテル貼るところで止まっているバカがそんな話聞くかね?ペックさん曰く邪悪な人々が、自己正当化の為の非難の枠をスクラム組んで姉歯ばりのカスカス建築やって、上から唾吐いたり石投げたりが唯一の生甲斐やってるような人にそんな正論届くのかね。無駄じゃないのか?結局、曲解しかせずにまーた理解できてねーなあっていう罵倒コメントが増えるだけじゃないのかね。どうなんだね、チミ。
と、ここまで書いて本当は誰向けのエントリなんだろうと悩み始めた。また的外れだったかな?
投稿: rabi | 2014.06.22 19:01
わざわざ騒ぐ人にとって、この手の問題は騒いで叩いてそれで解決。となるのは仕方ないでしょう。政治にも議会にも民主主義にも実際は興味がなくて、その場その場の状況に対して、自分の感情を噴出させることが出来ればそれでいいんですから。
少なくとも政治や社会制度の中では、処罰のルールを作って対処しないと意味がないのは、現実に(時には辞任にさえ発展するのに)失言の類いがなくならないことを見ても明らかなんですけど、そのことに騒いでいる人たちの理解が及ばないのかとなると、 疑問です。
即席の党派を形作って正義を行使するのが大好きな人たちや、そういった衆愚を集めて支持を伸ばしたい人たちは、目立つ人物が失敗を起こし易い環境であって欲しいと望んでいて、失敗そのものが起こりにくいルールを望む意見には、強い反発を示すこともあり得るんじゃないですかね。
妄想ですけど。
投稿: カラ | 2014.06.22 19:05