遠隔操作事件被告がキモくて、現時点で女児殺害事件容疑者がキモくない理由
ブログをやっていると罵倒コメントを貰うことが多い。罵倒ならまだいいほうかもしれない。
その手の罵倒コメントは、基本的な誤読の上に成立していることが多いので、返答するとさらにこじれる。それは例えば、「君は最近奥さんを殴るのをやめたのかい?」と問われて、「いや」と答えればそれ以前は殴っていたんだということになってしまうような構図と似ている。
ネットの世界だとある一定の知的水準がある場合でも、そうした誤解を解くのはむずかしい。もちろん、それを試みる価値はある。
たまたま、罵倒コメントでネットで有名な、はてなブックマークを見たら、こういうコメントがあった。コメント者については関心ないので、名前は省略する。
今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/05/post-1d21.html 2014/06/05
このネガコメ(否定的なコメント)にも見えるコメントがついたのは、昨日のエントリー「栃木小1女児殺害事件、現時点の雑感」(参照)である。このエントリーで私が、女児殺害事件容疑者に対して「キモくね」(気持ち悪い)と言ってないのはなぜかと疑問に思ったらしい。
そして、「今回は」に対応するのは、以前のエントリー「パソコン遠隔操作事件、その後の雑感」(参照)であり、このエントリーでは私は、実質、遠隔操作事件被告に対して「キモくね」というに等しく扱っている。
さて、私としては、「今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?」というコメントの誤解がとても不思議である。
それが誤読に基づくだろう理由
遠隔操作事件被告は、前科と容疑を認める前の二つの状態について私は知っていて、そこに人格的な統合性を見ることができなかった。さらに、容疑を認めたあとは、容疑を否認していた状態について、彼が「平気で嘘をつく」人であることをかなり明白に知った。この二つの点から、私は彼に人を騙す邪悪性を感じ取った。そしてスコット・ペックが言うことを思い描いた。
健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。相手の邪悪性があからさまなものであるときには、この嫌悪感は即時に生じるものである。相手の邪悪性がより隠微なものである場合には、この嫌悪感は、相手との関係が深まるにしたがって徐々に強まってくる。
これに対して、女児殺害事件容疑者については、すでに該当エントリーに書いたように、容疑者について、犯人だという感覚を私は持つことができないでいる。まとまった印象すらない。こう書いたとおりである。
一番気になったのは、そして今も気になっているのは、逮捕された栃木県鹿沼市無職・勝又拓哉容疑者(32)が、真犯人だという感覚を持つことができないことだ。
そういう対象に対して、「キモくね」という印象を持つことは、とうていできない。
私はこの女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていない。ロリコンだとも変質者だとも思っていない。そう思えない理由も該当のエントリーに書いたし、むしろ、世間がこの事件が解決したかのような風潮で実質彼を犯人のように扱っていることに違和感を覚えたというのが、そのエントリーの主旨だった。
というわけで、「今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?」とコメントされても、それは普通に誤読でしょと思う。
もう一つの誤解、あるいは異論
関連して。私は現時点では、女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていないと書いたのだが、こういうコメントもあった。同じく、コメント者には関心ないのでそこは省略する。
そもそも捜査中の事件の被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」を取ろうとすること自体が非常に危ういわけで 2014/06/05
短いコメントなので、コメント対象が判然とはしないのだが、誤読なんだろうなと思うことはあった。
まず、事件が解決したかのような現在の報道を見るかぎり、現在の報道は、「有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」を実際上与えようとしている現実がある。だからこそ、私は該当エントリーで、女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていないと書いた。
しかし、世間自体が、市民が、ある事件について、「有罪(真犯人)か無罪かの「心証」を取ろうとすること自体が非常に危うい」という点については、もちろん、危ういのだが、その危うさを回避することは、「「心証」を取ろうとする」行為を排除することではない、と私は考えている。
このエントリーを書こうと思ったのは、まさにそれである。
市民社会に求められるのは臆見を排することではなく複数の声があること
市民社会の市民は犯罪者に対して心証をもつべきだが、同時にそれは複数の声でなければならない、ということだ。
市民社会では、宗教的な意味合いでの絶対的な規範、あるいは独裁国のような絶対的な規範は存在しない。市民社会はそれを調停するルールによって成立している。そのことは同時に、市民の意見はすべて等しくドクサ(臆見)であり、そこでは、ハンナ・アーレント(参照)の言うようにドクサ(意見)の複数性を廃棄する真理観のほうが問題になる。
アーレントの公共性の考えは、市民社会における市民が、単に多様に存在しているという存在の様態を指しているのではなく、市民がある単一の真理に還元不可能に存在していることを示しているのであり、複数の声が挙げることがその実践にもなる。
私は、ブログとは、そういう複数の声の場であると思う。
そして、その複数性があるということは、市民の意見=ドクサ(臆見)が前提となる。
ドクサ(臆見)の無言の市民社会機能について
具体的に犯罪者と市民の受容についていえば、市民は、容疑者について、犯罪の彼(彼女)が真犯人であるかそうではないのかというドクサ(臆見)=意見を自然的に持つということだ。市民の主体意識は、社会のありかたを問う一環として、容疑者についての考えを自身に問うことになる。そうでなければ、犯罪に無関心であるか、報道の誘導や権威者の判断など、他者の考えを自己の感受性に優先させることになり、いずれにせよ、市民としての主体性が抑制される。
もちろん、そうした意見=ドクサ(臆見)は、公共性のプロセス、例えば、司法のプロセスにおいて調停され、調停されることで便宜的な正義となる。だが、そのような場で、例えば、陪審員や裁判員などは、その任として市民から疎外されたときには、「そもそも捜査中の事件の被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」がまず排されたのち、次に、「被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」を積極的に得ようとすることになる。いずれにせよ、公共性のプロセスでは、市民は「公」として疎外される。
私はこうしたアーレントの公共性の前提にはもう一つ、市民社会のドクサ(臆見)=意見の積極的な意味合いがあると思う。
私は先のエントリーでこう述べた。
私たちは普通に生活していれば、たんまりと自己嫌悪を抱く。そして邪悪な人に接しては、たんまりと嫌悪感を抱く。
しかし、それが人間の正常というものだし、そういう正常が市民社会を支えていくんじゃないか。
市民がそれぞれはその生活感から得られた他者というものへの人格的な了解性を持つが、その了解とともに必然的に生まれてきた嫌悪感というものが、市民社会を支えている一つの無言の原理になっているのだろうと私は考えている。
遠隔操作事件被告については、前科について忘れられる権利はあるにせよ、前科の言動と容疑を認めるまでの言動との間に、ある人格的な統一性が見られなかった。そこで市民の一人である私はドクサとして「キモくね」と思う。そしてできるだけ言う。こうしたことは、おそらく正常な市民社会を実際に支えている原理ではないかと思う。
と、同時に、そうした原理性がはたらかない、さらにはゆがんだ情報が与えられているときは、「キモくね」とは思わないし、そういう意見を挙げる。
踏み込んで言えば、複数の意見が聞こえるように、市民社会の市民が声を挙げることを励ますべきだと思う。多様な声の一つではあるとしても、罵倒コメントを書く代わりに。
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