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2014.06.30

「脱法ハーブ」は英語でなんと言うのか?

 問題は、「脱法ハーブ」は英語でなんと言うのか、ということだ。なんと言うのだろう? 
 仮に分けて考えてみると。「脱法」はなんと言うのか、そして「ハーブ」はなんというのか、その二要素を組み合わせると、「脱法ハーブ」が英語で表現できるのか。とりあえず、そう考えてみよう。
 「脱法」って英語でなんて言うのか? ちょっと思い浮かばない。こういうときは、反対語を思うといい。脱法の反対は「合法」である。「合法」は"legal"または"legitimate"かな。すると、その反対は、"illegal"または"illegitimate"か。おっと。それは「非合法」だよ。
 というあたりで、「脱法」は「非合法」とどう違うのか。ここで気がつくのは、「脱法ハーブ」は「非合法ハーブ」ではないこと。「合法」なんだけど、なんだかよくない、ということで、「脱法」とか呼んでいるわけな。あるいは、過去形で、呼んでいた。
 そういうのを表す英語はなんなのか?
 それには「法」というのを「なんとか逃れる分野」を想像する。あれだ。「脱税」。それは"evasion of taxes"あるいは"tax evasion"。
 でもこの場合、"evasion"は「回避」ということ。
 それって「脱法ハーブ」に使えるのか? "herb evasion"? 無理。
 他に似たような「脱」ってなんかあるか?
 「脱原発」!
 そういえば、「脱原発」って英語でなんと言うのか?
 フランス語だと"Sortir du nucléaire"(参照)って言うのだけど、英語ではどうなんでしょ。話が逸れていくなあ。
 というわけで、「脱法ハーブ」の「脱法」がよくわからない。
 そこで意味から考える。と、脱法できるのは「法の不備」なんだ、が、"defectiveness(不備)"なわけはない。
 「法の抜け穴」と考えると、"loophole"なる。このあたりで手を打ってみて、"loophole"と"herb"で検索すると、あった。毎日新聞だ(参照)。


According to police, Nagura has admitted the allegations against him. He was quoted as telling investigators he drove into the pedestrians shortly after smoking a so-called "loophole" hallucinatory herb. Police searched Nagura's car, as he said he had kept the substance there.

 というわけで、「脱法ハーブ」は"loophole hallucinatory herb"ということかな。
 実はこの記事にもっと簡単な表現がある。

A driver suspected to have been under the influence of a quasi-legal drug veered onto a crowded sidewalk in Tokyo's Ikebukuro district on June 24, hitting and killing one woman and leaving seven others injured, police said.

 つまり、"quasi-legal drug"。"quasi-"は「疑似の」ということで、ようするに、「疑似合法麻薬」ということ。
 共同もこの訳語を採っている(参照)。

A man under the influence of quasi-legal herbs slammed his car into pedestrians Tuesday evening in Tokyo’s bustling Ikebukuro district, injuring seven people, police said.

 とはいえ、日本語の表現としては、「ハーブ」と「麻薬」の差の微妙さを「脱法」で表現していたわけで、「疑似合法麻薬」と言われると、ちょっと違うなあという感じはする。
 そのたり、毎日新聞の記事で、"loophole hallucinatory herb"という表現をしたのは、"herb"の語感を残したかったからだろう。
 先の共同だと、おもむろな表現もある。

Police quoted the man as telling investigators that he had inhaled “dappo herbs,” or quasi-legal herbs containing cannabis-like ingredients.

 ちょっと話がずれるが、「脱法ハーブ」って成分なんだか報道ではよくわかんないが、ようするに「cannabis-like ingredients」ということで、「大麻に似た成分」ということ。
 すると、「大麻」は、いずれ米国では合法化されるしかないくらいなものだから、さほど危険な薬物ではない。なので、むしろ、大麻より「大麻に似た成分」が危険だということなんだろうか。とか考えると、なんとなく、脱法ハーブの報道って、大麻規制で警察が焦点化しただけなんじゃないのという印象も生まれるが……。
 実は、「脱法ハーブ」は実体的には、大麻の「有効」成分「テトラヒドロカンナビノール(Tetrahydrocannabinol)を似せて合成したものが多いらしい。なので、こうした合成薬の毒性は大麻よりわかっていない。
 ウィキペディアなんかだと、「脱法ハーブ」をあっさり、"synthetic cannabis"としている。つまり、「ハーブ」っていうなんか自然のイメージとは別に、たいていは薬学が生み出した合成品なわけな。
 言葉の問題に戻ると、ジャパンタイムスの記事(参照)だと、写真のキャプションには" quasi-legal herbsがあるが、本文は"dappo herbs"で通しているんで、まあ、「脱法ハーブ」の英語は"dappo herb"でいいんじゃないか。
 ついでにジャパンタイムスの記事だとこうもある。

It was not until last April that the Pharmaceutical Affairs Law was finally revised to make possession and use illegal.

 法が変わったから、合成カンナビノイドが規制されたということなんでしょう。そこを警察としては、ちょっと危険をもって演出しているかなという印象はある。
 ほいで、「脱法ハーブ」という言葉のネタは以上でおしまい。

 なんだが、ついでなんで、ここでもう一つ。

 "Herb"の発音できますか?

 "Herb"なんだから、「ハーブ」だろ?
 まあ、そうでもあるんだけど、ちょっとそういうことでもない。
 解答から言うと、英国英語だと「ハーブ」なんだけど、米国英語だと"h"の音が抜けて「アーブ」です。というか、米国人、これは、"hour"や"honest"なんかと同じタイプのフランス語の外来語だと思っているようだ。
 日本の英語教育だと、英国英語と米国英語の差は、なんとなく適当にごまかすから、米人が「アーブ」って、hを落としているのを知らない人も多い。
 これで、おしまい。
 
 

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2014.06.29

やっぱりピンズラーでドイツ語をやりなおそう

 とほほ。ドイツ語についての、このなんとも言えない、微妙な残念感はなんなんだろう。ドイツ語という言語がどういう言語かはよくわかったし、英語をある程度知っている人がドイツ語を学ぶときのキモもよくわかった。そして、英語の表現を微妙にドイツ語に移し替えるコツみたいのもわかったが、が、なんか、この微妙な残念感。一つには音楽性だろうな。
 どの言語にも、美しいといってよい音楽性のようなものがある。いや、どの言語にもあるのかまではわからない。少なくともその言語の国民が、努力して母語の音楽的な美しさを守ろうとする意識に対応してだろうと思うが、それはある。自分がなんとか中国語を120日間勉強できたのも、ああ、中国語(マンダリン)って美しいなあ、という思いがあったからだ。フランス語にもある。というか、フランス人はこれに執拗にこだわりすぎる。ついでに言うと、英国英語や米国英語にもあるのだけど、日本の英語教育だと、そこは語学学習上どうでもいいみたいになっていて、あまり考慮されない。日本人の英語は日本風でよいとか、英語は国際語だからネイティブの発音にこだわらなくてもよいとか。でもなあ、言語というのは、あの音楽性において学ぶもんだろうと思うんだよ。
 と。
 いうわけで、ピンズラーのドイツ語教材が30分無料であるんで、まあ、聞いてみるかなと聞くと、フランス語や中国語のときと同じ感じで、いきなりの状況から始まる。そして有無も言わさず、"Entschuldigen Sie?" "Ich verstehe ein bisschen Deutsch."とくる。最初は若干遅いけど、すぐにナチュラルスピードになる。ああ、ドイツ語やん、という感じ。
 こりゃ、やっぱりピンズラーでドイツ語をやりなおそうかと思った。
 中国語のときは、どうせ自分は中国語なんか習得できっこないから、フェーズ1で挫折したらやめようと思ったけど、結局、現在あるフェーズ4までやって、文化やビジネスや現代中国がわかるフェーズ4はとても楽しかった。
 そうなんだよな、ピンズラーの教材は、文化的にとても楽しい。フランス語のときでもそう思った。なかなかドラマ性もあった。母と息子がのみの市に行くんだけど、息子がやだあ、とかいう状況なんか、おお、そうなんだろうと思った。じゃあ、フランス息子、なにが好きなの? B.D.(ベデ)。なんじゃ、それ。Bande dessinéeのことだ。たぶん、日本の漫画だろう。
 ドイツ語はどうだろう。言語の内側に入って見える文化はなんだろう。そこまで到達できるかわからないが、植田重雄先生の思いの一端が見えたらいいだろうな。
 というわけで、ドイツ語もやるかな。
 中国語のときよりもさらに脱力でピンズラーで向き合ってみるかな。
 ということで、フェーズ1を実は昨日購入して、今、二日目を終えた。"Wie geht es Ihnen, Frau Meyer""Es geht mir gut. Danke. Herr Gordon"。まあ、ありがち。しかし、容赦ないナチュラル・スピードで、とても音楽的。ドイツ語ってこういう言語だ。マグニートーの母語ですよ。
 話はそんだけなのだが、ふと昔のことを思い出した。

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German I,
Comprehensive
 中学生のとき、友だちで、ドイツ好きという変なやつがいて(そいつに言わせると私のほうが変だとのことだったが)、NHKで一生懸命ドイツ語勉強していた。おまえもドイツ語学べみたいなことだったかな。当然挫折したのだけど、Rの音はできた。そして、なぜか、「ラウフン・ジー・イェト?」という文だけ記憶に残った。「タバコ吸いますか?」という意味もついでに覚えた。思うに、当時のNHKの語学講座でも初歩で学ぶのは、そんな話が多かったのだろう。そうけば、オリジナルのピンズラーもそういうのだったらしい。まあ、30年くらい前の語学の教材ってタバコでもいかが?という時代だったのだろう。
 「ラウフン・ジー・イェト?」がなんであるかは、ポール・ノーブルの教材を聞きながら思い出したし、文法もわかった。"Rauchen Sie jetzt?"ということだ。
 なんか奇妙なものだなと思う。40年以上もまえのことだ。
 そういえば、NHKでそのころだったが「天下堂々」という変な時代ドラマがあって、そこで謎の言葉「イクベヨイヒト」というのがあった。謎はついにオランダ語だということで、ふーむオランダ語かと、オランダ語ってそう聞こえるのかと思った。オランダ語ってドイツ語に近いんじゃなね、"Ich bin recht"かなとか、そんなことを思っていた。
 少年の日のなんか無意味な一言が、40年以上もたって、奇妙な果実となるというのも人生って、不思議なものだな。
 

 
 

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2014.06.28

3日で覚えるドイツ語、そんなことが可能なのか実験してみた

 ブログにも書いてきたが、昨年から今年にかけて、1日平均で1時間くらいの語学学習を、フランス語を120日間、そして中国語を120日間、どちらも英語を通してピンズラー(Pimsleur)方式で学んだ。所定のコースを終えてみて、率直なところどちらもまだまだ初心者といったレベルだが、それなりに学んだかなという実感はあった。辞書を引きながらなら、それなりにいろいろ読んだり書いたりもできるようになった。発音にもそれほどは困難を覚えない。

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Learn German
with Paul Noble
(Collins Easy Learning)
 さて、ドイツ語。今回は、ポール・ノーブル(Paul Noble)の方法で学んでみた。
 「みた」と過去形で書いたのは、所定の講座を三日で終えたからだ。つまり、三日で覚えるドイツ語、である。そんなことが可能なのか?
 その前にポール・ノーブルのドイツ語コースの構成だが、約1時間のCDが12枚でできている。他にDVDも1枚あるがこの手法の宣伝といったもので語学にはさほど関係ない。76ページのほどの教本もついているが、CD内容の復習用になっていて、ピンズラー方式のフランス語の添付冊子のように、正書法で書かれた文章の読み方の教材ではない。
 全体で、ざっと12時間のレッスンになる。比較としてピンズラー方式の場合は、1日のレッスンはどれも30分で、各段階(フェーズ)は30日になっている。フランス語や中国語の場合は、第4段階まであり、最終的には日常会話に近い速度で内容もけっこう高度になる。中国語のフェーズ4では、深圳でソーラーパネルの商談をするといった内容にもなっていた。
 ポール・ノーブルのドイツ語コースを開始する前は、ピンズラー方式の時間で換算するとどうか考えていた。このポール・ノーブルの講座は30分で見ると、ピンズラーの24回分に相当するかなと思った。そこで、だいたいフェーズ1に相当するのではないかとも思った。結論からいうと、かなり違う。
 また、ピンズラー方式の場合は、毎日30分きちんとこなしていけばあるレベルに達するようにできている。実感すると、フェーズ1でも15日を過ぎるとけっこうきつく感じられる。この方式を開発したピンズラー博士は心理学者でもあり、一般的な人間の記憶力を想定してできているのだが、逆にいればそれなりにきちんと向き合って単語や文法を記憶していかなくてはならない。
 ポール・ノーブルのこのコースでは、冒頭で、記憶を負担に思わないでください。リラックスして進めてください。あなたが記憶できるかは教えている私の責任です、というかなりすごいことを言っている。ほんまかいなという感じで始めた。まったく未知の言語を学ぶのに、そんなことが可能なのか?
 これが驚くべきことに、ほぼ可能だったと言ってよい。ポール・ノーブルに心理学の知見があるのかわからないが、かなり独自の手法を使って記憶を定着させようとしている。
 さらに初めてすぐにわかったのだが、英語を通してドイツ語を学んでいるのだけど、最初から「グリムの法則」を効果的に使っている。もちろん、グリムの法則という名前は出て来ない。この法則については、ウィキペディアかなんかに解説があるだろうとざっとみると、ちょっこと解説があった。
 どういうことかというと、英語からドイツ語を魔法のように作り出してしまうのである。もともと、アングロ・サクソン語はドイツ語の一種なので、英語のそういう部分を上手に抜き出して、グリムの法則を適用していくと、英語が魔法のようにそのままドイツ語に変わっていく。
 もちろん、このことはドイツ語学習者はある程度知っていることだが、これがコース全体に適応されているので、ほとんど新規に覚える単語がない。しかも、ポール・ノーブルもピンズラーのようにオーラルなんで、音声から教えるから、音に意識すると、グリムの法則が直観的にわかりやすい。英語の"do"からドイツ語の"tun"を引き出したときは、おもわず、あっ!と驚いた。そんなことわかっている人にはわかっているのだろうが。ほかに、「ああ、やられた」感があったのは、"yesterday"から"gestern"を導いたところ。
 こうした手法は、ミシェル・トーマスが使っていたのを知っていたので、その影響だろうとすぐにわかった。実際、ポール・ノーブルは、自身がピンズラーとミシェル・トーマスの双方からの影響を受けていることを述べている。
 いずれにせよ、こうした独自の工夫のおかげで、ほとんど記憶の負担がない。逆に言えば、それだけ単語が少ないので、コース終了後のレベルは高いとは言えない。ピンズラーは言語の学習でもっとも難しいのは単語だとし、そこに配慮してコースが作られているが、ポール・ノーブルは、文法というものを重視し、初学者のために作り替えている。つまり、それがコースの基本コンセプトになっている。なにか。
 ポール・ノーブルは、英語話者がドイツ語を学習するときに、もっとも重要な文法部分の直観を与えることだ。それ以外の文法面はほとんど説明していないし、英語の能力でカバーされると見ているようだ。
 そういうことなのでコースは実際には、人称代名詞と動詞の活用、時制の基本、そして、名詞の性と格変化だけにしぼられている。しかも難しい内容には立ち入らず、本質がわかるように説明している。そのあたりは、芸術的といえるほど見事な説明だった。
 ポール・ノーブルのこのコースでは、学習一回にどの程度の分量を進めたらよいかについて規定はない。ピンズラー方式のような時間割的な指針はない。内容は10分以内のパーツで構成されているので、理解できなかったら前に戻ってくださいとだけある。
 逆に言えば、困難を感じなければ、どんどん進めてよいということで、久しぶりに寝るのも忘れてとまでいかないが、休息は入れたけど、基本ぶっ通しで全レッスンを進めてみた。三日で無理なく可能だった。だいたい、三日で終わると思う。正確にいうと、最後の1時間分は復習なので、明日か明後日にやるつもりでいる。少し忘れたから復習するほうがたぶん、学習効果が高いだろうから。
 これでドイツ語が習得できた感はないが、あとはしこしこDuolingoとか、あるいはNHKの教材を使えば、ある程度の段階のドイツ語は習得できるだろうなという確実感はもった。
 発音については、教材では、ネイティブの比較的若い女性を使っている。発音がかなり滑らかで、自分が思っていたドイツ語の音と随分違う印象をもった。特に、R音については、フランス語のR音に近くてよいようだ。あとシュワ音もわかった。発音の訓練はないが、12時間くらいぶっ通しで、やっているとそれなりにドイツ語の音声の感覚はつかめた。
 
 

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2014.06.25

中国語学習120日間、終わった! やった!という感じ。

 ピンズラー方式(Pimsleur Method)による中国語(Mandarin)学習のフェーズ4を終えた。結局120日間、毎日、一日一時間平均だとして120時間、中国語を勉強した。英語を通して中国語を聞いては答えるというプロセスの繰り返し。120日間。うぉー、やった!という感じ。自分でもここまでできると思わなかった。うぉー!
 今回は、フェーズ1(30日)でくじけるだろうなと思っていたし、フェーズ2(60日)あたりですでにきつかった。フェーズ3(90日)を終えたあたりで、もはやここまでだろうと思っていたが、フェーズ4も終えることができた。
 実際のところ、フェーズ4に入ると、内容は難しいのに、学習は少し易しくなった印象があった。実際には易しくなっていない。逆に中国語の発音の速度は速くなっている。ついて行けるのは、無意識で中国語の響きがわかってきた部分が大きいのだろう。人間の学習って無意識で進行するものなんですね。
 なんとかやれたのはしかし、音声中心のピンズラーの意図とは違うだろうけど、聞いて書き起こしの復習をしたせいも大きいと思う。聞いた音を拼音入力で確かめると文字がわかる。漢字を見ると覚えやすい。そもそも拼音入力によって、発音も訂正される。
 そして、フェーズ3を過ぎるあたりから、レッスンの内容が難しくなるにつれて、出てくる単語が、「おっ、それ、日本語やん」と思うことが増えた。フェーズ4あたりになると、英語を聞いて、中国語を聞くと、「ああ、これ漢字であれだわ」というのがかなり連想できるようになった。

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日本語から覚える
中国語単語
 率直に言って、どうして中国語にこんなに日本語が入っているのか、以前興味があって『日本語から覚える中国語単語』(参照)を買っておいたので、共通する語が多いのはいちおう知識としては知っていたが、実際に学んでみると、ほんとびっくりこいた。
 英語の辞書だと、ちょっと立派な辞書だと語源解説が付いているし、調べる気になるとかなり詳しく語源がわかる。英語の場合は、ちょいと難しい単語は、基本的に、ギリシア語やラテン語から、あるいはフランス語からの外来語ということが多い。フランス語も勉強したら、フランス語から英語に入る外来語の仕組みも感覚としてわかるようになった。なので、英語の場合は、気になる単語を辞書で語源の裏付けを見ると、何年ごろに英語に入ったとかまでわかる。納得できる。
 ところが、私が中国語の初心者であるせいもあるけど、中国語の語源のわかる辞書が見つからない。ないわけはないと思うので、今後も探そうと思うけど、まあ、ない。中国ではそのあたり、辞書に記載されている語源の情報はどうやって学んでいるのだろう。案外知らないのかもしれない。
 いずれにせよ、現在の普通の英語の辞書のように、中国語の辞書にもきちんと語源情報が掲載されるようになると、中国人も「うぁあ、我々の使っている言葉の七割から八割は日本語からの外来語じゃね」と普通に思うようになると思う。
 もちろん、漢字で表して同じでも、発音は違う。
 それに日本語からの中国語に入った外来語といっても、漢字を使っているから、その意味ではもともとの漢字という点では中国語が基本だとは言える。まあ、それはそう。
 120日間ぶっ通しで中国語勉強して成果はどうかというと、これは、フランス語を120日間ぶっ通しでやったときにわかっていたことだけど、まだまだほんの初心者といったレベル。北京の報道官のアナウンス聞いても、わからーんという言う感じだ。でも、ところどころ、音は拾える。"Huánjìng wūrǎn"とかだったら、「あ、環境汚染だな」、とか。
 というわけで、フランス語の場合でも、その後のフォローアップの勉強が大切だったが、今後は中国語の勉強のフォローアップをどうするか。幸いなことに現在クールのNHK「まいにち中国語」の内容がけっこういいし、レベル的にもあっているので、これを続けるかなと思っている。
 ちなみに、フランス語のほうも前クールのNHK「まいにちフランス語」はよかったけど、今期のはちょっといまいちなんでやめた。困ったなと思ったけど、そのあたりは、Duolingoでけっこう補える。というか、ピンズラーだと正書法を学ばないので、Duolingoでこれをみっちり補える。Duolingoのほうも半分を超えたあたりで、けっこう難しい。一つのユニットをクリアするのに、20分くらいかかることもある。でも、それが学習っていうものでしょ。
 ピンズラー中国語が続けられた理由の一つに、フェーズ3までは、女性の声がきれいだったからというのがあったが、フェーズ4では女性の声が、ぐっと大人の女性の声になった。最初は、おばさあーん、とか思ったけど、慣れるとこれもよい。しかし、フェーズ4では声よりも内容がとにかく面白かった。
 ピンズラー中国語フェーズ4が作成されたのは2013年ということもあって、しかも、どうやらこれ、米国のビジネスマンを対象にしているせいか、ビジネスと観光という側面から、すぐに使える単語や表現と、またそういう対象が関心もつ現代の中国というのをピックアップしていて、楽しかった。
 北京や上海の環境汚染とか、以前は日本に偏西風で来るなよとか他人事に思っていたけど、現地のようすをより知るようになると中国人大変だなあと思うようになったし、上海の電気自動車の普及についても、意外とけっこうマジで取り組んでいるんだな、がんばれとも思うようになった。
 この先、まだ別の言語を学ぶつもりでいる。この間、朝鮮語に関心があったのだけど、朝鮮語は別の意味できつい。
 それと、ちょっとピンズラー方式を離れたいというのもある。他はというと、ミシェル・トーマス(Michel Thomas)かポール・ノーブル(Paul Noble)か。
 ポール・ノーブルだと、フランス語、イタリア語、スペイン語なんで、イタリア語かスペイン語どっちにするかなと悩んでいた。ミシェル・トーマスだと、ドイツ語かロシア語かなと思っていた。
cover
Learn German
with Paul Noble
(Collins Easy Learning)
 いろいろ見ていると、最近、ポール・ノーブルのドイツ語があったので、それにすることにした。教材はまだ来てない。その間、明日からどうしようかと思うが、どうするかな。というのは、語学の新しい勉強がないと、なんか物足りなような感じがしてきてしまうから。
 と思ったら、今、届いた。こりゃ明日から、ドイツ語にするかな。
 歳とって語学なんて、もう使う人生そんなにないよと思っていたけど、逆だな。むしろ語学というのは年配者の知的関心や基本的な頭脳能力向上に最適なんじゃないかと思うようになった。なにより、学んだ分だけ前に進めるというのがいい。ネットとかで偉そうなこと言ってるより、自分がいろんな面で初心者にもどって、きちんと前に進んでいくほうが大切だと思う。 
 

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2014.06.24

塩村文夏都議会議員へのヤジ・セクハラ問題、一名名乗り出後の雑感

 自分の関心事からというと、現下のニュースでは、栃木女児殺害事件で「特徴が一致する車が少なくとも3か所の防犯カメラに写っていた」(参照)として容疑者が起訴になったことのほうが重要だけど、このところ扱ってきたせいもあるが、塩村文夏都議会議員へのヤジ・セクハラ問題で名乗り出があったとこに関連して、補足の雑感を述べておきたい。
 この名乗り出で私が一番落胆したのは、自民党の石破幹事長の次の対応だった。NHK「石破氏「責任者としてお詫び」」(参照)より。発言部分を太字で強調して引用する。


自民党の石破幹事長は、記者団に対し「気持ちを傷つけられた人は、塩村議員本人だけではなく大勢おり、自民党の責任者としてお詫びする。結婚したくても、できない人たちのためにも、党全体として、さらに強力に政策の実現に取り組む」と述べました。

 これだと、「結婚したくても、できない人たち」に「早く結婚しろ」と言うのは結婚したい気持ちを傷つけるということになり、そもそものセクハラの構図がまったく理解されていないことになる。当の問題が、結婚の意思は個人にあり、そのありかたを認めないことを公言することがセクハラなのであるということが、意図的な曲解ならしかたがないが、理解されていないように見える。
 この点は、名乗り出た都議会議員の謝罪会見でも奇妙に思えた。すでにネットには書き起こしがあるので、該当部分を引用する(参照)。

記者:フジテレビ・ホソガイです。どうしてこのような不適切な発言をしてしまったのでしょうか?
鈴木:少子化、晩婚化の中で、早く結婚していただきたいという思いがある中で、あのような発言になってしまったわけなんですけれども、本当にしたくても結婚がなかなかできない方の配慮が足りなかったということで、いま深く反省しています。


記者:不適切発言について、うっかり言ってしまったんですか?
鈴木:私の心の中で塩村議員を誹謗するために発した言葉ではないんですけれども、少子化や晩婚化の中で、早く結婚していただきたいという思いがあって、あのような軽率な発言になってしまいました。それは本当に、結婚したくてもできないとかさまざま思いを抱えている女性がいらっしゃるなかで、本当に配慮を欠いた不適切な発言だった申し訳なくおもっています。

 石破自民党幹事長と同じく、「結婚したくてもできないとかさまざま思いを抱えている女性」に申し訳ないという「謝罪」になっている。
 ごく簡単にいうと、謝罪会見という形式になっているし、塩村議員も形式上「謝罪」を認めたことになったが、当のセクハラという問題からすると、謝罪にはなっていない。大きな問題を残してしまった。
 この点について、不思議なのだが、どうも記者たちも問題をあまり理解していないように思われることだ。一番近いのが共同通信記者だったのだが、それもこういう質問だった。

記者:共同通信です。ご自身の娘さんが35歳になったとき、独身で子どもができない病気を抱えていた場合、このようなヤジを第三者から投げられたとしたら、父親としてどう思いますか?
鈴木:その部分、深く反省させていただいて、本当に配慮を欠いていたなという思いで反省しております。

 ごく簡単に言うと、娘が35歳であることも病気でもあることも今回の問題には関係ない。
 全体的に、報道関係者も今回の問題を理解してなかったのではないかという、なんとも、もにょーんとする結果になっている。
 次に、この当事者同士の謝罪についてなのだが、基本的にこの問題は個人への侮辱というのが一義なので、直接の謝罪があってよかったようには思うが、NHK7時のニュースで見た範囲では、当の塩村議員は、これでなかったことにされなくてよかったという気持ちはよく伝わってきたものの、直接謝罪が報道的なセッティングにお膳立てされていることに対して、違和感を感じているようには見えた。違和感があるなら、おそらく、鈴木議員の謝罪で幕引きされる懸念、またその幕引きの場にある意味引き出されたことへの困惑だろう。前者については、他のセクハラ発言があるので、これで終わりにしないでほしい旨は述べていた。
 この対応で塩村議員に問題点はまったくないが、私はひそかに彼女がこう言うことを期待していた。

 「鈴木さん、時間がだいぶ経ってしまいましたが、勇気をもって名乗りでてくれてありがとうございます。セクハラ問題に悩む女性はたくさんいます。私のように声を上げられない人が多数なのです。ですから、この問題を理解して、この問題を解決するための仲間になってください。今回、セクハラ発言をした人はあなただけではありません。他の人にもあなたの勇気をわけてあげるように活動してください。」と

 敵であったものを仲間に取り込んでいくことで、政治的な主張は大きな広がりを見いだす。また誰であれ個人に向ける過剰なバッシング(参照)を抑制することもできる。もちろん、それを若い塩村議員に求めるのは難しいので、みんな党として配慮してほしかったように思う。
 事態の幕引き感についても、想定はしていたが、よからぬ方向に向かっている。想定というのは、前々回「それとまあ、勇気を持って代理で土下座するような人も世の中にはいるから、名乗り出た議員が本人かはよく吟味する必要もあるかもしれないが」としたことで、鈴木議員がセクハラ発言したのは確かなのだが、現状では他の議員の「代理」の側面がセットアップされている印象はぬぐえない。今回の件では「子どもを産めないのか」の発言者も鈴木議員なのか、他にいるのか曖昧なまま幕引きになる空気は感じられる。
 名乗りで後の雑感は以上。
 以下は、昨日のエントリについていたコメントで「ああ、なんとも理解されないものだな」という思いがあるので補足したい。
 別にどういう感想をもっていただいてもかまわないのだが、基本的なことが理解されていない人もいるように思われる。特定のコメントについては引用しない。要点だけを示すようにしたい。
 要点は、「クオータ制を導入することはセクハラ・ヤジを無くすこととは関係がない」という批判である。
 今回の問題では、「ヤジがいけないのだ、ヤジを無くせ」という意見の人が多いので、そういうフレームワークでは、ヤジの抑制によってセクハラが包括できると考えているのだろうと思う。私はまったくそう考えていない。
 極論すれば、ヤジをもっと活発化させたほうがよい。女性が半数いる議会で、今回のようなセクハラ・ヤジが出たら、その場で、ヤジの大洪水になって議事がいったんふっ飛ぶくらいがよい。議会のなかでそれが可視になり、その場で、セクハラが意識されたほうがよい。性差別がここに顕現しているのだということを示して、言論において戦って性差別は解消されていく。根幹は、性差別を解消させるプロセスに乗ることである。
 この点については、理解が難しいのかもしれないとも思うのだが、パリテというのは憲法によって天から降って湧いたように性差別がなくすというのではなく、性差別がなくなるための闘争の場をフェアに提供するということなのだ。パリテによって、性についての闘争が激しくなって当然なのである。その過程で権利が着実に市民のものになっていく。
 この点に関連して、前回も少し留保はしたが、クオータ制とパリテは異なるもので、前者は民主主義の思想から生まれているが、後者は人権思想から生まれている。そのため、パリテではクオータ制の比という考えは否定されている。
 私は人類の市民化は人類の進歩に付随する必然的な過程だと確信しているので、いつか日本でも(日本がそのときなくてもよいのだが)パリテが実現される日がくると信じているし、それを早めるために些細なブログを続けたい。ただ、実現はけっこう先のことで、私がその光景を見ることはないんだろうなとは思う。
 
 

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2014.06.23

都議会で女性議員へのセクハラを撲滅するもう一つの方法

 ネットをそんなに見ているわけではないせいもあるけど、不思議だなあ、と思うのは、都議会で女性議員へのセクハラを撲滅するもう一つの方法について触れてある報道やブログを見かけないことだ。たぶん、たまたま私が見かけないだけなんだろうと思うけど。
 ちなみに、もう一つの前の一つというのは、前回、前々回のエントリーで触れたように、都議会でセクハラ発言を禁じる規則を作ること。
 そして、もう一つの方法がある。
 こっちのほうがはるかによい。ただ、厳密にいうと、これで「撲滅」とまでいくかはちょっと不安な点がないわけではないが、それでも私の考えでは、こうした都議会で女性議員へのセクハラ問題はほぼ終わると思う。そして、この話の関連はすでにこのブログでも書いているのだけど……。
 それは、都議会議員の半数を女性にすること。
 大事なことなので、もう一度言いますね。都議会議員の半数を女性にすること。
 そのためには、各政党からの議員候補者を強制的に半数にすることから始めるといい。
 ここまで言えば、なーんだと言う人もいると思うけど、フランスがすでに14年前からそうなっている。通称「パリテ(parité, Loi sur la parité en politique)」。「公職における男女平等参画促進法」とも呼ばれている。一般的な政治用語としては、「クオータ(quota)制度」である。
 厳密にいうとパリテとクオータ制は同じではないし、またパリテの詳細についてはいろいろあるし、14年間の間に手直しもされてきた。しかし、いずれも代議員の数を男女半々にしていこうとする根幹は変わらないし、概ねうまく行っている。フランスでは地方議会から改善が進行し、国政や企業にも広まってきている。サルコジ元大統領も組閣にこの理念を反映し、さらに現オランド大統領は組閣で女性閣僚を半数にした。これがフランス行政の原則になっていると言ってもよい。
 東京都議会もクオータ制を導入するとよいと思う。都議会の女性議員が半数になれば、女性へのセクハラ・ヤジはなくなると思う。
 難しいだろうか?
 公的な法制度として実施するのがまだ難しいなら、前段として、政党が自主的に「クオータ制」を導入するとよい。たしかドイツの社会民主党は党規約としてが党内選挙候補者の40%を女性とするように定めている。日本の民主党も率先して導入するとよい。社会保守主義を基本とするドイツキリスト教民主同盟もたしか三分の一を女性としている。都議会の自民党から率先して実施するとよいのではないだろうか。政党が率先して有能な女性探すために社会に目を向けることでも社会は改善される。
 「クオータ制」は各国で広がっている。韓国でも近年その方向にぐっと進んできている。日本はかなり立ち後れているので、これを機会に推進するとよい。もともとフランスもカトリック文化などの影響もあり、先進国のなかでは「フランス的例外」と揶揄されるほど、政治への男女平等参画は遅れていたものだったが、この20年に大きく変化させた。
 フランスのパリテについては興味深い経緯も辿っている。これを憲法改正によって実現しようとした経緯である。
 憲法を使って、男女平等参画を実現しようという実践は、現代的な流れで見れば、1994年の東西ドイツ統合の際の憲法改正において、男女平等参画の理念が憲法に明記されたことから始まる。これがどういう意味かについては、日本と比較するとわかりやすいかもしれない。日本国憲法の場合、第24条で家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めているが、注意したいのは、これが市民社会における本質的平等の規定になっていないことだ。


第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 もちろん、日本国憲法では法の下の万人の平等の上に成り立っている。この点は第14条には明記されている。

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 「政治的、経済的又は社会的関係において」すべて国民が平等であれば、政治においても当然平等である。だが、この日本国憲法の平等は、公における男女の平等を明示的に指示するものではなく、「差別されない」という文言からわかるように、国民が意図するのを妨げないという意味合いになっている。ここから帰結されることがある。現実の日本社会において女性の政治参画が遅れているのは、女性に責任があるのだという自己責任論に帰着してしまう。
 もちろん、男女平等社会の実現にむけて男女ともに批判の矢面に立って戦うことは前回、前々回のアーティクルでも述べたように大切だが、そもそも平等とはなにかという社会原理からの追求も大切で、実はそのためにこのアーティクルを起こしたようなものでもある。おまたせしました。
 フランスでの男女平等参画の話題からすると、日本国憲法における男女平等参画の問題点についてちょっと脇道にそれたように見えるかもしれないが、この問題こそが、フランスのパリテ実現の大きな課題だった。フランスの憲法もかつては現在の日本憲法と同じような状態だったのである。
 だから、フランスは憲法改正を使って、パリテを実現しようとしたのである。
 フランスはドイツに5年遅れ、1999年に憲法改正として、フランス第5共和国憲法に「第3条第5項」「第4条第2項」をパリテ促進のための憲法根拠として追記し、そこからパリテ実現のための法整備が着手された。
 もちろんいろいろと齟齬があったが、齟齬のなかでも理念は推進していった。
 さらに、公職でのパリテの根拠となる1999年の憲法改正から、さらに社会全体に広めるために、2008年、さらなる憲法改正を行ったのである。ここで「職業的および社会的責任ある地位(responsabilités professionnelles et sociales)」を規定する憲法1条2項が追記された。
 フランスは憲法を改正することで、職業的および社会的責任ある地位における男女平等参画を強固に実現した。
 日本でもそうした声があってよいかと思うが、残念ながら「寡聞にして存じません」の部類のように思われる。
 率直にいうと、私は、フランスのように男女平等参画のためには、日本国憲法を改正すべきだと思う。
 しかし、現在のネットの空間のなかでそれを述べたとき、私に向けられる罵倒の基軸を私はほぼ正確に予想している。「こいつの本心は、九条の変更に違いない」と。
 
 

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2014.06.22

不倫は市民社会にとって「悪」でもなんでもない

 昨日のエントリーを書いて、意外な反応があった。率直にいうと、私が何を書いても罵倒を投げかけてくる一群の人がいるので、それはそれとして静かな白樺の林の見える特等席に座っていただくとして、意外だったのは、「不倫」の話題を持ち出すのが「ゲス」とか「セカンドレイプ」だとの指摘だった。
 びっくりした。私の誤解かもしれない。誤解でびっくりしているのかもしれないが、誰が不倫をしていても、そんなことどうでもいいことなんじゃないのか。
 不倫は公の市民社会にとっては「悪」でもなんでもない。不倫が問題になり「悪」であるのは、個的な関係だけである。私を例にするなら、私と性的または愛情の関係にある一群の人との関係内の問題である。別の言い方をすれば、文学的な問題にはなると思う。でも、明らかに市民社会の問題ではない。
 誰が不倫していたかというのも、まったくどうでもいいこと。ではなぜそんな話を出したのかということ、まさにどうでもいいことだからだ。ヤジをした人がそんなことにこだわっているなら、それには意味がないですよという例だった。
 また例としたのは、今回の話が「侮辱」の問題であるなら、一義に当事者間の問題だからだ。極端な話になるが、「侮辱」は受け取る側が「侮辱」として受け取るから成立する(後で述べるがセクハラはそれとは別)。例えば、若い女性議員に「引っ込めハゲ」とヤジを言っても侮辱としては成立しないだろう。ハゲオヤジが全員怒ることでもない。抗がん剤の副作用とかだと話は全然違うが。
 侮辱が成立するには、最初にきちんと侮辱を当事者が私的な問題として受け止めることが前提になる。「私的な名誉」が問われるからだ。
 侮辱はまずそうした市民と市民との個々の関係の内側で成立する。それゆえに、個別の「侮辱」について怒る権利は、その「侮辱」を受け取った人にまずある(「私的な名誉」を毀損された人にある)。
 その個的な関係の外側にいる市民にとっては、一義には、怒る権利はない。これを押し詰めた司法は明確にそういう形態をとっている。
 そうした構図を見るために、「侮辱」というのを、まず当事者間の文脈にまず置き戻してもらいたいというのがある。その文脈化で、ヤジする側にも世界観・人間観・ロジックというものがあるだろうから、事態が発生する仕組みを知る上でも理解したほうがよい。そこでは、今回の事例の一つの文脈化としてだが、ヤジした人が思いつきそうなことの一例として、不倫というのを侮辱に値するものとして想定したのではないか、ということだった。
 別の言い方をすれば、私のように、不倫は市民社会にとって「悪」でもなんでもないと思う人間には、そうした前提はないし、また、私は塩村議員についてはほとんど知らないので、知っている範囲のことで文脈化の例で思いついたのはそのくらいだった、というだけでしかない。侮辱は「私的な名誉」を毀損したとしてまず個別の文脈のなかで問われるから、そのどうでもいい一例としただけである。また「正義」を暴発させないためにも、まず、「侮辱」はまずその個別の文脈で見るほうがよい。実際のところ、都議会での侮辱についての現規定も、個々人の関係としての侮辱が前提になっているから、セクハラという問題は旧来の「侮辱」という範疇では扱いづらい。
 そこをきちんと切り分けて、今回のことでは、ヤジした人が投げかけた言葉は、個的な関係という文脈を外しても明白にセクハラだった。だから、今回のヤジした人は、個別の侮辱の文脈を離れた部分で、きちんとセクハラとして処罰されたほうがよい。しかし現状、都議会には「侮辱」とは別にセクハラを処罰する規定はない。事後に処罰法を作るわけにもいかないから、これは議会のありかたとしてこの機会にセクハラ・ヤジをなくすように是正したらよいだろう。そしてそう私は主張した。
 それと「正義」より大切なのは、議会が正常に機能することだ。
 これも前回書いたとおりのことだが、今回の問題には、まず、社会的な問題として見れば、第一義にはSNSネットワークを使った炎上案件に近い。しかもこれは議会の場に関連した炎上案件に近く、議会を巻き込みうる。そして政治的な思惑がこれに引き寄せられ、しかも不特定の感情を巻き込んで、不特定だが大きな怒りの空気を形成し、政治的に議会に介入的に機能しはじめる。
 だがどういう形であれ、議会という制度に介入してくる政治勢力は民主主義社会とって好ましいことではない。ゼロにはできないものだからこそ、その政治的な勢力・権力は、市民社会が抑制しなければならない。もちろんこれはSNSネットワークを政治に使うなということではない。だが、議会は議会のルールで動いてもらわなくては困る。市民がすべきことはたとえSNSネットワークを使うのであれ、議会が自律的に正常に運営してもらうことを前提にしたい。今回の件では、個別の「侮辱」はまず個別の文脈で扱い、またセクハラについては、新しい議会ルールで対応したほうがよい。
 もう一つ前回のアーティクルの反応で、意外だったのは、強い人にヤジの前面に立ってもらいたという私の願いへの批判だった。「なにこれ生贄?人身御供?」「爺から塩村議員へのサディスティック説教」とも言われた。これは、1960年代のアメリカの公民権運動を自分の人生の歴史のなかでリアルタイムに見てきた人間としては、とても不思議な感覚に思えた。
 公民権運動では、彼らのうち力のあるものは率先して差別の前面に立って戦ってきたし、戦わなくては市民の権利が獲得できないから、戦うしかなかった(もちろん非暴力で)。そして、自分が戦えないほど弱い人間であるなら、強い立場の人に戦ってほしいとして、そのために代表者を選び出した。議員というのは、代議士(representative)であり、私たちの代理で戦ってくれる人のことだ。
 議員ならセクハラに耐えろと言っているのではない。でも、代議士は、この社会に存在する差別が可視になるように戦ってほしい。特にセクハラというのは、この社会の見えないところで、しかも弱者において発生しているからだ(今回の反応例では、「セクハラ経験のない中年男性にはわからないんでしょ」という感じのもあったがそれも微妙にセクハラ)。
 もちろん、特定の議員にはその戦いが難しいというのなら、選挙の時に、新しく戦える人を選びたいと思う。みんなが戦えるわけではない。みんなが戦っている幻想からSNSネットワークで傘連判状を作るのはいいけど、それは代議士で構成される議会のプロセスには乗りづらい。きちんとしたプロセスでセクハラのない社会に変えていきたい。
 
 

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2014.06.21

塩村文夏都議会議員へのヤジ・セクハラ問題、雑感

 6月18日の東京都議会本会議で、みんなの党会派・塩村文夏議員がヤジでセクハラを受けたことは、NHKでもニュースになっていた。そうした話題の背景の一つかもしれないが、昨日のツイッターなどで話題になっていた。私としては、当のヤジにはそれほど関心を持たなかった。関心をもったのはどちらかというと、ツイッターなどで見られたこの件の受け止めかただった。
 こうしたことは時が過ぎると事実部分が忘れられてしまうものなので、まず、ざっと事実関係に関する報道をNHKのニュースでまとめておこう。
 19日「都議会で女性議員にセクハラやじ」(参照)より。


 18日行われた東京都議会の一般質問で、みんなの党の女性議員が子育て支援策について質問を行った際、ほかの議員から「早く結婚したほうがいいんじゃないか」などとやじが飛び、女性議員は「人格を否定するものだ」と反発しています。
 18日行われた都議会の一般質問で、みんなの党の塩村文夏議員(35)が妊娠や出産などに関する子育て支援策について都の取り組みをただした際、ほかの議員から「自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか」、「産めないのか」などとやじを受けました。
 塩村議員は18日夜、ツイッターで「政策に対してのやじは受けるが、悩んでいる女性に言っていいことではない」などと反発し、「リツイート」と呼ばれる引用が19日正午までに1万件を超えるなど波紋が広がっています。
19日午後、報道各社の取材に応じた塩村議員は、やじに同調する議員が複数いたことが残念だとしたうえで、「人格を否定するようなやじや政策と全く関係のないやじはするべきではなく、ひぼう中傷になる。質問に立つ議員を尊重してほしい」と述べました。
 複数の会派によりますとやじは、自民党の議席周辺から聞こえたということです。
 これに対して都議会自民党の吉原修幹事長は「どういう状況だったのかよく分からないが、誰が言ったのか特定することは難しい。それぞれの会派が品格のない発言は慎むようにすべきだ」としています。
 この問題を受けて、19日夕方、会派の枠を超えて都議会の女性議員たちが「品位を汚すやじは控えるべきだ」として議長に対し再発防止に取り組むよう要請したということです。

 これがNHKの、この件の初報道だったかについては詳しく点検はしてないが、この時点のニュースを改めて読み直して思うのは、この件の特徴は、当のセクハラ・ヤジよりも、ツイッターによる炎上現象かなと思えることだ。「塩村議員は18日夜、ツイッターで「政策に対してのやじは受けるが、悩んでいる女性に言っていいことではない」などと反発し、「リツイート」と呼ばれる引用が19日正午までに1万件を超えるなど波紋が広がっています」というわけである。私がその側面に関心をもったもの、それほど外しているものでもないのかもしれない。
 流れをこの視点から見ていくと気はなることがある。
 この時点で、「自民党の議席周辺から聞こえた」ヤジについて、当の都議会自民党の吉原修幹事長は、「それぞれの会派が品格のない発言は慎むようにすべきだ」という一般論的に流し、また、都議会の女性議員たちも「議長に対し再発防止に取り組むよう要請」とある。当事者たちは、「品位を欠くのはいけないねえ、今後はこういうことがないようにしましょう」、といった認識で留まっていたのが興味深い。その安閑とした受け止め方は、常時のヤジ(一例)を知っている私にもそれほど理解できないものない。
 が、流れはそうならなかった。
 ヤジをした議員を特定して処分せよという流れになった。この流れは、私がツイッターなどで見た感想でいうと、そういう空気に押されている印象があった。
 流れをニュースから追ってみよう。
 20日「都議会やじ問題 処分要求書を提出」(参照)より。

 18日行われた東京都議会の一般質問で子育て支援策について質問した女性議員に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」などとやじが飛んだ問題で、20日、女性議員が、発言した議員の処分を求める要求書を議長宛てに提出しました。
 この問題は、18日行われた都議会の一般質問で、みんなの党の塩村文夏議員(35)が妊娠や出産などに関する子育て支援策について都の取り組みをただした際、一部の議員から「自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか」などとやじを受けたものです。
 塩村議員は20日、地方自治法に基づいて、発言した議員の処分を求める議長宛ての要求書を都議会に提出しました。
 この中で、塩村議員は、やじの内容は名誉を害し侮辱に及ぶものだったとして、議会として調査を行い発言した議員を明らかにするとともに、再発防止のための措置を取るよう求めています。
 要求書を提出したあと、塩村議員は取材に応じ、発言した議員が名乗り出ないことに対し、「犯人捜しをして判明するよりも名乗り出ていただいたほうがすっきりすると思うし、私自身も少し心の傷が癒える」と述べました。
 また、都議会に都民の抗議が多数寄せられていることについて、「私1人に浴びせられたやじというよりも、妊娠・結婚にまつわる悩みを抱えた方たちの気持ちが数字に現れていると思う」と述べ、議長に早急な対応をとるよう求めました。

都議会に批判の声相次ぐ
 18日に行われた東京都議会の一般質問で女性議員が質問を行った際、一部の議員から「早く結婚したほうがいいんじゃないか」などとやじが飛んだ問題で、東京都議会には都民から抗議や批判の声が相次いで寄せられています。
 この問題で、東京都議会には19日の午後4時までに都民から電話やメールでおよそ1000件の意見が寄せられました。
 内容は、▽女性に対して失礼な発言だ、とか▽やじだとしても言い過ぎではないか、などといった抗議や批判が大半だということです。
こうした声は20日になっても相次いでいるということですが、都の議会局では「議会が開会中で通常の業務が多いなか、抗議が相次ぎ、集計する余裕がない」としています。


 この件についての私の率直な印象を言えば、ヤジ議員は堂々と名乗り出るべきだと思う。名乗り出て、あのヤジは悪かったと土下座すればよいと思う。土下座というのはこういうときにするのがよいと思う。
 で、名乗り出ないなら、仲間の議員が、名乗り出るように勇気づければいいと思う。でも、それもできないのは、仲間の議員もまた、セクハラ意識がないか、勇気がないからだろう。いや、そうでもないか(参照)。それとまあ、勇気を持って代理で土下座するような人も世の中にはいるから、名乗り出た議員が本人かはよく吟味する必要もあるかもしれないが。
 それでももっというと、都議会自民党議員を支持している人は、ヤジ議員に勇気をもって名乗り出るように声を上げるべきだと思う。私は、都議会自民党議員を支持してないが、「おーい、勇気出して名乗りでろや」と言っておく。
 で、そういう意見は、私が見た範囲ではツイッターにはなかった。
 そのことに、奇妙な違和感を覚えた。逆に、ツイッターでは、「ヤジのやつを探しだし、とっちめ、土下座させたるぅ」みたいなものが多いように思えたことだ。私がそれをどう思ったか。うへぇ。
 この当たりで、私はもう一つ気になることがあった。このヤジの意味とその文脈である。
 ヤジは報道からは、「自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか」、「産めないのか」とのこと。文脈から切り離されている。
 もちろん、これだけでべたにセクハラである。これを言われた女性は侮辱されたと怒ってもいいし、法的手段をとってよいし、できればとるべきだと思う。私が、法で争えることは法で争うほうがいいという考えの持ち主であることは自著にも書いたとおり。
 ただ、違和感もあった。
 私は、こう思ったのである。塩村文夏議員が、このヤジについて「女性一般への侮辱として許せない、それは正義だから、ヤジ者を処罰する」というのに異論はないが、その前に、そのヤジをその文脈のなかで、議員としての自分の問題として、受け止めてほしかった。
 このあたりの私の感性はまたしても世間を逸脱しているかもしれないので、補足しよう。
 この件についてまず、ためらうことが私にはある。私は塩村文夏議員のことをよく知らないのだ。関心ないと言ってよい。美人議員全般に関心もないんだけどそれはさておき。
 なので、私の誤解かもしれないが、彼女には不倫ゴシップがあった。当然、ゴシップなんで事実とは関係ないし、ゴシップに興味を持つのは時間の無駄だとは思うが、とりあえず、私の耳には入っていた。そこで思ったのは、ヤジ者はそうした文脈でのヤジではなかったかという疑問だった。
 ちょっとこの件で、ネットをあたると、二番煎じゴシップネタでPVを稼いでいるJ-castに格好の記事があった。「「セクハラヤジ」飛ばした都議はだれ? 塩村文夏議員「『結婚しろ』と言った議員ほぼ分かる」(参照)。これ読むと、不倫ゴシップの文脈を思った人はいるのだなとは思う。
 その文脈だと、こういう意味なのではないか。

 「早く結婚したほうがいいんじゃないか」→不倫だから結婚できないんだろう?
 「産めないのか」→不倫だから産めないんじゃないか。

 塩村議員はこのヤジのとき「「はー」と言いながらも下を向いて少し笑」ったというが、だとすれば少し、自分のこととしてヤジを受け止める瞬間はあったのではないかと思う。まあ、ボケた保守議員が言いそうなことなんで、普通笑うだろう。笑ったこと自体を責めるのはどうなんだろうか(参照)。
 私は、ここで塩村議員はこう言ってもよかったのではないかと思う。あるいは議事の妨げにならないように後で言ってもよい。

 「ヤジをした議員さんは、不倫ゴシップを真に受けているのかもしれませんが、そんなことは議員活動には関係ありません。また仮に、私が不倫してたとしても、子どもを生む産まないには関係のないことです。また不倫で生まれるたくさんの子どものためにも、よい都政を作りたいと思っています」と。

 もう少し踏み込んで言うと、規模の大きな公議会の議員は、ヤジを受けたほうがよいと思っている。ヤジに耐えろという意味ではない。
 これがある職場で「自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか」「産めないのか」ということで激怒した女性が訴訟のためにカンパを求めるというなら、私がその職場の一員なら喜んで少額カンパする(少額なのがとても残念だが)。彼女は弱い立場にいる弱い人だからだ。しかし、塩村議員は強い立場にいる強い人だし、そこは弱い人の代表で強くあってほしい。弱い人が受けるセクハラを身をもって前線で受けてほしいと思う。そうすることで、セクハラの風潮に代表者=代議士として戦ってほしいと思う。今回のヤジ議員を処罰する行動もそうした戦いの一環だと理解できないこともないが、一般化に拙速すぎるように思う。自分が自分のこととして受け止めることができる以上の「正義」を語るときは、少しためらったほうがいいと思う(この場合では個人的な侮辱から女性全般への侮辱)。
 まあ、私のこの件の受け止め方はそういうことなんで、その後、これを、女性の一般問題として、正義の立場から、ヤジ議員を処罰していこうという空気には違和感があった。ネットでの炎上とか見ているといまだ日本人は自分が正義だと思うと日比谷焼打事件みたいな空気を醸し出すことがあるので、そういうのは、やだなあと思っている。
 処分を求めることから、この問題は、ちょっと、私から見ると別の方向、懸念していたいやな方向に向かっている印象もあった。報道を追ってみる。
 NHK20日「やじ問題 女性議員が処分求めるも不受理」(参照)より。

 東京都議会で、質問をした女性議員に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」などとやじが飛んだ問題で20日、この女性議員が発言した議員の処分を求める要求書を議長宛てに提出しましたが、議員の名前が特定されておらず、要件を満たしていないとして受理されなかったことが分かりました。
 この問題は18日、都議会の一般質問で、みんなの党の塩村文夏議員(35)が妊娠や出産などに関する子育て支援策について都の取り組みをただした際、一部の議員から「自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか」などとやじを受けたものです。
 塩村議員は20日、地方自治法に基づいて発言した議員の処分を求める要求書を議長宛てに提出しました。
 この中で、塩村議員は議会として調査を行い、発言した議員を明らかにすることなどを求めていました。
 これについて、20日夕方、みんなの党の両角穣幹事長が報道各社の取材に応じ、議長から処分を求める議員の名前が特定されておらず、要件を満たしていないとして補正を求められ、要求書が受理されなかったことを明らかにしました。
 このため、議員の名前を特定して再度、要求書を提出することはできないと判断したということで、今後、塩村議員と相談して対応を検討していく考えを示しました。

 この展開部分についてのツイッターなど印象だと、受理しない議長は許せないという空気を感じた。私はこれは単に手続きの問題と思う。
 つまり、ヤジ者を特定して再提出すればよいのではないか。
 ただ、ここでの問題は、「議会として調査を行い、発言した議員を明らかにする」かどうかということだろう。
 これについては、塩村議員が求めるように、「議会として調査を行い、発言した議員を明らかにする」といいと思う。議員全員が雁首さろえてごめんなさいというよりも、きちんと議会の手段として機能したほうがいい。
 しかし、その追求の要求が受理されないのはどうかというなら、まず、「議会として調査を行い、発言した議員を明らかにする」要望を議会にきちんと上げて、「3日以内に訴える規定」をいったん凍結すればいいと思う。一切を、変な正義の空気を醸し出さず、議会の手順として進めていけばいいと思う。
 最後に一番前提となる疑問をここで蒸し返すのもなんだが、今回の問題では、「ヤジ」なのか「セクハラ」なのかというのが曖昧だった。ヤジには通常民主主義の議会では罰則は持たないし、都議会でも同じ。つまり、これは通常のヤジではなかった。ヤジに乗じたセクハラだった。
 今回は、ヤジに乗じたセクハラを「議会で侮辱を受けた議員は議会に処分を求めることができる」という規定で処罰しようとしている。それに特段の異論はないが、この機会に、一般的な侮辱ではなく、セクハラやヤジに乗じたセクハラを妥当に処罰する規定を都議会が率先して持つようにすればよいと思う。
 罰することは適切に処罰されなければならない(過剰な罰を与えてはらない)が、今回の件は罰を優先するより、将来の都議会のあり方を示すことで、世の中でセクハラを受ける弱者の支援にしてほしいと思う。
 
 

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2014.06.20

困ったちゃんの壁

 昨日のエントリーを書いた後、ぼんやりと、図書館に来る困った人のことを思っていた。
 これから暑くなる日々、図書館に行くと、涼を求める行儀の悪い老人をたくさん見るようになるので、いつからかそういうところには近づかなくなった。(もちろん、老人の熱中症対策として図書館が利用されることには賛成ですよ。)
 「行儀が悪い」というのは主観かもしれないけど、ソファー席を二つぶんどって裸足で半あぐらかいている中高年男性というのとか、ちょっと見るに耐えないというか、見るとこちらの精神にダメージが大きい。
 図書館のテーブルのあるところにバーっと新聞広げて見ている老人もよくいる。目が悪いのかもしれないなとは思う。が、その横にカバンのようなものをどかんと置いている人もいる。あれはさすがに人迷惑だと主観的に思うが、私はもう特に何も言わない。
 目の前で、図書館所蔵の本をびりびりと破いている人がいても、もう特に何も言わないかもしれない。
 そういえば、公共の席にカバンとか置いて、席取りしている人がいるのを見ても、いつからか何もしなくなった。
 いや、カバンとかだと泥棒に誤解されるのは嫌だから、以前も何もしなかったなと思い出す。
 でも以前は、ハンカチとか置いてあると、さりげなくどけて座ったりしたものだった。特に、どう考えてるわけでもない。
 すると、少なからぬ確率で、「そこ私が席取っていたんです」と苦情を言われる。怒られることもある。「はあ」と言って、私は、どく。請坐。Asseyez-vous. いやいや、そのころは中国語もフランス語も話せなかったな。
 それ以前は、「そういう権利はあなたにはないと思いますが」と言って相手を激怒させたこともあった。たびたび。
 いつからかそういうことはしない。
 こういうとなんだが、世の中の困ったちゃんには十分に関わる気がしない。
 だが……、もう一つ思うのだ、困ったちゃんは、たぶん、そういう私なんだろうな。m9(^Д^)プギャー
 きちんと考えると、公共的な席にハンカチ置いて、そこが権利の主張になるわけないのだが、それを暗黙の社会ルールだと思っている人にとっては、私はとても困った人なのだろう。
 ぎゅうぎゅうの満員電車ではほとんどないが、それなりに席がうまっている電車のなかでも、ぽつんと開いている席がある。ハンカチ発見。そこにハンカチとか置いてあると、誰も座らない。奇妙な暗黙の社会ルールだなあと思う。
 でも、私もそれがどうやらルールなんだから、守ってもいいかと思ようになった。あまり困った人に見られたくないとも思う。
 もうちょっと自分の思いを見つめてみると、でも、ちょっと違う。
 そういえば、ツイッターで言われたことがあるだが、私は日本社会に順応しすぎている、と。そうかもしれない。
 ちょっと違うかなとはも思っていたが、そういう違いは、言っても通じないので黙っていた。
 でも、どう違うのかというのをこの機に言ってみると、私を困ったちゃんと思っている人たちに、私はできるだけ関わりたくないなという心理かもしれない。
 悪く言うと、おバカな社会ルールに従っている人がいても、自分に特段に利害に関わるわけでもないなら、あまり関わりたくない、と。図書館のソファー席であぐら組んでるおっさんの裸の足は見たくないな、と。
 それでいいのだろうか、自分?
 言論とかいう以外でも、こういう公共性について、その場で何か市民として言うべきではないのか?
 よくわからない。
 ネットだとたまに、電車の中のベビーカーをどうする論争が起きる。迷惑だと思う人と、そういうふうに迷惑だという人が問題だという人で、それぞれ相手を困った人だと思っている。
 これ、お金があると解決できるのですよね。タクシー乗るとか。
 図書館の不作法な老人というのも、図書館に行かなければ見ないわけだし、本が読みたければ借りるんじゃなくて買えばいいわけだし。もっとも、図書館は無料貸本屋ではないんだけど。
 各種の公共の問題、経済学で「共有地の悲劇」というのは、プレミアムマネーで解決する。ということは、公共の問題ではなく、自分の問題として考えると、プレミアムマネーの換算ということなんだよな。

cover
バカの壁
(新潮新書)
 ブログなんかでも、無料で書いていると、わけのわからない罵倒を貰うことが多いんだが、これも一種の「共有地の悲劇」みたいなもんで、読んでもらいたい人のためには、ちょこっと有料化するというもありなんだろう。あるいはコメントを有料にしてよいコメントだったら、逆にお金を払うというのがよいんだろうな。
 話がなんか逸れてきたので、おしまい。
 
 

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2014.06.19

アンネの日記破損事件は終了か?

 杉並区など東京郊外市図書館を中心に『アンネの日記』の関連本が多数破られるという不可解な「事件」があった。これが国際的な話題ともなり、2月21日には官房長官も記者会見で言及した。2月24日には、警視庁捜査一課が器物損壊事件として杉並署に捜査本部を設置した。
 実に不可解な事件だったが、3月7日、ジュンク堂書店池袋本店で「アシスタントとゴーストライターは違います」という手書きのビラを貼りつける男を逮捕したところ、この男がアンネ関連の書籍を破ったことを自供した。が、この男は心神喪失ではないかということで、その後の報道はひとまず沈静化していた。
 そして今日、この男が不起訴処分になると報道された。精神鑑定が実施され、心神喪失の状態だったと判断されためである。一例として、NHKニュースはこう伝えていた。「アンネの日記 破損で逮捕の男は心神喪失 不起訴へ(6月19日 11時51分)」(参照


 この事件は、東京都内の図書館や大型書店で「アンネの日記」などの本300冊余りが破られているのが見つかったもので、東京・小平市の36歳の無職の男が、杉並区の2つの図書館で合わせて40冊余りを破ったなどとして、器物損壊などの疑いで警視庁に逮捕されました。
 これまでの調べに対し男は、一連の事件への関与を認めていましたが、動機について意味の分からないことを話したことなどから、東京地方検察庁はことし4月から2か月間にわたって専門家による精神鑑定を行い刑事責任を問えるかどうか調べていました。
関係者によりますと、鑑定の結果、男は事件当時、心神喪失の状態だったと判断されたということです。
 これを受けて東京地検は、男の刑事責任は問えないとして近く不起訴にするものとみられます。

 ひとまず、この「事件」は終了したと言ってよいだろうとも思われるが、多少腑に落ちないところがあるので、「事件」の経緯を振り返って少し言及しておきたい。
 まず、この「事件」はいつ発生したのだろうか?
 どの報道社が初報道したのかという切り口で見ていく。残念ながら、ネット側からははっきりとはわからないが、時刻を比較するととりあえず共同通信であるようには想像される。いずれにせよ、初報道に近い報道形態はそこから読み取れるだろう。「アンネの日記、相次ぎ破られる 都内31館で265冊(2014/2/21 13:19)」(参照)より。

 東京都内の公立図書館が所蔵する「アンネの日記」や関連書籍が、ページを破られるなどの破損被害に遭っていることが21日までに分かった。被害は、杉並区や中野区など少なくとも5つの区の31館で計265冊に上る。
 23区の区立図書館で構成する特別区図書館長会が1月以降に被害報告が相次いだことを受け、取りまとめた。
 誰が何の目的で行ったかは不明。中野区立中央図書館は警視庁中野署に被害届を提出し、同署は2月上旬に受理した。
 被害冊数が一番多いのは杉並区立の図書館で、計119冊。練馬区内の図書館では、児童書計20冊のほか、アンネの研究本、ホロコーストに関する本などが被害に遭った。豊島区では、開架書庫にあった本が、カッターのようなもので何ページも切り裂かれていた。
 23区以外では、東久留米市、西東京市で同様の被害が確認されている。
 「アンネの日記」は、ナチスの迫害から逃れ、ドイツ占領下のアムステルダムに家族と隠れ住んだユダヤ人少女アンネ・フランクがつづった日記。2009年、世界記憶遺産に登録されている。〔共同〕

 この共同通信報道からわかることとして、この「事件」がメディアに乗る形で報道されたのは、「21日までに分かった」ということから、2月21日と見てよいだろうということだ。
 共同報だけはなかったことは、毎日新聞でも同日報道があることからわかる。「アンネの日記:関連本破損、東京の3市5区で294冊被害(2014年02月21日20時57分)」(参照・リンク切れ)より。

 東京都内の公立図書館で世界的ベストセラー「アンネの日記」と関連図書が相次いで破られた問題で、21日現在の被害は都西部の3市5区で計294冊に上ることが分かった。各自治体は器物損壊容疑などの被害届を警視庁に提出した。

 同日の時間差からすると、共同報を受けて毎日新聞も動いたという形にも思われるが、いずれせよ、初報道の由来は、2月21日という日付以外にはわからない。
 なぜ、2月21日なのだろうか?
 その理由の推測は後で触れるとして、情報の原点となった杉並区図書館もこの日にアナウンスしていることに注目したい。同サイト「「アンネの日記」等の破損被害について(2月21日掲出、3月7日内容更新)」(参照)より。

 練馬区立図書館では、平成26年1月下旬に「アンネの日記」を借りようとした利用者から、本が破られているとのお届けがあったことから、区内12館の状況を確認したところ、現在までに9館で32タイトル44冊が破られていることがわかりました。被害状況等は下表および破損資料タイトル一覧(PDFファイル)のとおりです。
 図書館では、管轄の警察署に被害届を出すとともに、破損された図書の購入を進めています。

 練馬区図書館の2月21日のアナウンスからわかることは、(1)それが2月21日であること、(2)警察への被害届はこの時点ではまだであるかのように読めること、(3)発見されたのが1月下旬の利用者からの報告であったこと、である。
 個人的に気になるのは、私も公共図書館を利用するとき、破損ページや書き込みがあると係員にいちいち報告しているのだが、こうした組織的な対応はされたことがない。その点から、どのように練馬区図書館で組織的な点検に結びついたのかは興味がある。この興味には後で触れる関連もある。
 また、この杉並区のアナウンスでは、「32タイトル44冊が破られている」とのことだが、これが「アンネの日記」がキーワードであるかにはついては明示的に書かれてはいない。
 今回の「事件」が事件性を持つのは、他区への広がりが見られたことだ。広がりについての例として、杉並区でも2月25日時点でアナウンスがあった。「アンネ・フランク関連書籍の破損被害について」(参照)より。

 杉並区では平成26年2月3日に隣接する練馬区からの連絡をうけ、アンネ・フランク関連書籍を調べたところ、平成26年2月6日に中央図書館において当該書籍が切り裂かれているのを発見しました。その後さらに調査を進めたところ地域館を含め11館において、現在までに合計121冊の書籍に同様の被害が確認されました。図書館では管轄の警察署に被害届を提出するとともに、2月21日に調査結果について公表しました。なお、破損された図書については速やかに購入を行っていきます。

 ここからわかることは、練馬区は2月3日に杉並区から連絡を受けて調査があり、同様の発見があったということである。逆に言えば、この視点から調査のない時点ではわかっていなかったとも言える。
 また、練馬区も2月21日に結果を公表していることからすると、この日がやはり事実上メディアの初報道であることがわかる。この日に杉並区と練馬区で共通する行動があった。さらに文面からは練馬区での警察署への被害届は2月21日から2月25日であるとも思われるが、そこは後述するようにそうではないらしい。
 練馬区のアナウンスには言及されていないが、先の毎日新聞報道では、2月の「6日に「特別区図書館長会」から注意喚起があり」とあるので、この特別区図書館長会が事実上の、図書館界での共通意識の原点ではあるのだろう。なお、この「特別区図書館長会」という組織は、よくわからないが、23区の区立図書館の連絡会のようなものだろうか。
 2月21日という報道の起源だが、この「特別区図書館長会」のようだ。2月21日のスポニチ「都内の公立図書館「アンネの日記」265冊が切り裂きなど被害」(参照)ではこう言及されている。

 東京都内の公立図書館が所蔵する「アンネの日記」や関連書籍が、ページを破られるなどの破損被害に遭っていることが21日までに分かった。被害は、杉並区や中野区など少なくとも五つの区の31館で計265冊に上る。23区の区立図書館で構成する特別区図書館長会が取りまとめた。

 ようするに、「特別区図書館長会」が2月21日に情報発信をしたというだ。
 またこの時点ですでに、「アンネの日記」や関連書籍が焦点化されていた。なお、同記事に「ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は20日、「衝撃と深い懸念」を表明した。」とあるがこれは時差によるものだろう。
 スポニチ記事で興味深いのは、杉並区図書館による警察への被害届日が報道されていることだ。

 杉並区内では3日、他の図書館から情報が寄せられたときは被害が確認できなかったが、6日にあらためて調べると、大量の関連本が引き裂かれていたという。12日に警視庁杉並署に被害届を提出した。

 杉並区では12日の時点で杉並署に被害届を出し、中野区も「上旬」に被害届が出されている。この時点、2月の中旬までには、警察も事態を知ってはいたと思われる。が、杉並署や中野署というように分断されて共通の認識はなかったのかもしれない。
 時系列の整理から興味深いのは、今回不起訴となった男の行動である。逮捕の関連する初報道を振り返ってみよう。3月13日の毎日新聞「アンネの日記:30代男が破損関与供述 建造物侵入で逮捕」(参照・リンク切れ)より。

 東京都内の公立図書館などで「アンネの日記」や関連書籍が相次いで破られた事件に絡み、被害に遭った豊島区の大型書店に不法に侵入したとして、警視庁捜査1課が30代の無職の男を建造物侵入容疑で逮捕していたことが捜査関係者への取材で分かった。男は図書館でアンネ関連の書籍を破ったことについてもほのめかす供述をしているという。ただ、供述にはあいまいな点もあることから男の関与について刑事責任能力も含め慎重に調べている。
 捜査関係者によると、男は2月19日と22日、豊島区南池袋2の「ジュンク堂書店池袋本店」にビラを張る目的で立ち入った容疑で、今月7日逮捕された。同課の調べに容疑を認めているという。ビラには「アシスタントとゴーストライターは違います」などと意味不明の文言が手書きされ、思想的な背景はうかがえないという。
 同書店では2月21日、3階の売り場で「アンネの日記」2冊が破られているのを店員が発見したが、男は同日にも書店を訪れていたことが確認された。この店では1月にも関連本数冊が破られていた。
 都内では昨年2月以降、杉並区▽中野区▽武蔵野市--など計5区3市の公立図書館38カ所で計311冊の被害が確認された。うち最多の杉並区では11の図書館で121冊が破られた。大半の図書館は今年1月下旬~2月中旬に被害が発覚。手でちぎったように扇形に破られる場合が多いが、カッターナイフのような刃物で切り取られたものもあった。

 この男が逮捕されたのは3月7日だが、その理由は、2月19日と22日にジュンク堂書店池袋本店にビラを張る目的で立ち入ったことであり、また、21日にもこの男が来店したおりにも、「アンネの日記」2冊が破られているのが発見されている。さらに遡って、「1月にも関連本数冊が破られていた」とのことだ。同書店側も警戒してたのだろう。
 警察届出を2月中旬までに済ませた各図書館による「特別区図書館長会」が問題の発表をしたのは、2月21日である。
 するとこの時点で、警察は、同書店や同会の情報に合わせて、この男をマークしていただろうと推測するのは自然だろう。
 ここからすこし踏み込んだ推測になるのだが、この時点で、警察としてはこの男について注視する過程から、その心神喪失の状態の目星を付けていただろうと思われる。
 もちろん、そのことを断定することは手続き上到底できないし、その間、この話題が国際ニュースに伝搬することに追加する情報とはなりえなかっただろう。
 さて、こうした文脈からはこの男が「事件」と関連付けられているが、実際の「事件」がなんであったかは、実は依然よくわかっていない。
 ごく簡単に言えば、多数発覚された破損本がすべてのこの男の心神喪失の結果であると見なすことは難しいだろう。報道では横浜市西区の市中央図書館でも被害があったが、この男によるものだろうか。
 2月21日の毎日新聞報道では、関連して次のような言及があった。

 豊島区では昨年2月と5月に計7冊の破損を発見。今年1月下旬以降に、新たに5冊の破損が見つかった。西東京市では先月22日に図書館利用者からの指摘で破損が発覚した。

 今回不起訴処分となった男が昨年から地味に活動していたとも考えられるが、私などもよく毀損本をよく見かけることから考えると、一定数、公共図書館での本の毀損は継続していただろう。また、今回の不起訴処分の男がそうであったように毀損されやすい種類の書籍も存在するのだろう。
 現時点で振り返ってもっとも興味深いのは、2月23日時点で書かれたオタポロサイトの「“中二病”の犯行ではない!? 被害は30年以上前から…図書館関係者が口に出せない『アンネの日記』破損事件の背景」(参照)である。

 一挙に国際問題にまで加速しつつある、この事件。ところが、当の図書館関係者からは「過剰反応では?」と戸惑いの声が挙がっている。本サイトの取材に応じた、都内の図書館関係者は語る。
「『アンネの日記』が、破損される事件は今に始まったことではありません。私が図書館に就職した1980年代には、そういったことはよく起こると、関係者の間では話されていました」
 この関係者によれば『アンネの日記』とヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』は、図書館関係者の間では、昔から破られる被害の多い本だという。
「やはり、“ナチズム”や“ホロコースト”は特定の精神的構造を持った人を引きつける要素が強いんじゃないかと思います。私も過去に、図書館内でホロコースト関連の本を破っている人を見つけたことがありますが、その人物は刑事事件の責任能力がない人でした」
 詰まるところ、精神医学的に“コダワリ”の強い人の犯行なのではと、図書館関係者は経験則から指摘をする。だからこそ、この事件にはコメントし辛い。その結果、すわ国際問題かというような妙な状況になってしまっているのである。
 ちなみに、同様の図書館関係者しか知らない「あるある」はほかにもある。なぜか、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、毎年補充しなければならないほど、盗まれることの多い本なのだとか。

 結果的に、この考察がその時点でもっとも優れていたと言えるが、それでも、「都内の図書館関係者」のおそらく一名からの話なので、残念がら、弱い見解と見られてもしかたのない面があった。
 今回の「事件」が事件性を濃くした点については、容疑者逮捕後の3月23日であるが、京都大学大学院教育学研究科准教授・佐藤卓己氏が「画一的なアンネ本破損報道」(参照)としてこうも主張していた。

 2月に東京都内の図書館などで「アンネの日記」関連本が破られる被害が相次いでいることがわかったとき、たいていの人が同様の印象を持ったようだ。図書の破損はそれが何であれ厳しく追及されるべき犯罪だが「アンネの日記」は特別だ。ホロコースト犠牲者が残した記録を破損する行為はネオナチなど差別主義者の犯行にちがいない、と。
 実際、中国や韓国のメディアは「日本の右傾化が背景」と報じ、2月27日付産経「主張」もこう指摘した。「欧米ではとりわけ、今回の行為は反ユダヤ主義的なものではないかともみられ、日本のイメージを損ないかねない」
 被害にあった書店に不法侵入したとして建造物侵入容疑で30代の無職男が逮捕されたのは、今月7日である。つまり、犯人像も動機も不明な段階から、この事件は政治的に枠付けされていた。
 「言動に不安定な部分もみられることから捜査1課は刑事責任能力の有無を含めて慎重に捜査している」(産経13日付夕刊)というが、既に報道されたステレオタイプから全く自由に報じることは至難だろう。状況の定義が、状況そのものを確定するからである。

 今回の事件が国際的な大事件になってしまったのは、同氏の指摘するような文脈があったとしてよいだろうが、残された課題は、「既に報道されたステレオタイプから全く自由に報じることは至難だろう。状況の定義が、状況そのものを確定するからである」という点だろう。
 ジャーナリズムはどうあるべきだっただろうか?
 おそらくこの「事件」ついては、「発表」数日後のオタポロサイトの見解のような考察を、ジャーナリズムがより広域に行うべきだった。
 図書館関係者や公共図書館をよく利用する人の証言を集めれば、今回の事件の陰影はかなり異なったものになっていた可能性がある。
 ただし、大きな話題性のある「事件」を求める要求に答えた形で報道が形成されがちなのも、やはりしかたのないことかもしれない。
 ブログとしては、以前に触れた話題でもあるし(参照)、このままなんとなく立ち消えにするより、そのあたりのことを触れておきたいほうがよいだろうと思って、以上書いてみた。少なくとも今回の「事件」は、日本に反ユダヤ主義が存在する事例とは異なったものであることは、確認できるようにしておきたいとも思った。もちろんこのことは、日本に反ユダヤ主義が存在しないという意味ではまったくない。今後、発生するかもしれない。
 
 

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2014.06.15

そして女児殺害事件と遠隔操作事件の報道は途絶えた

 たぶんこんな疑問を持っている人は少ないと思うが、私は、栃木女児殺害事件とPC遠隔操作事件の報道がどのように推移していくか、この間、見つめていた。そして、どうやら、この二事件の報道は途絶えたかに見える。理由は難しくない。他の話題が生まれているし、この件では新しいネタが投下されないからだろう。私は違和感をもっている。
 私の読み落としかもしれないが、女児殺害事件について最新の主要な週刊誌で見かけることがなかったのも違和感を強くした。週刊誌の読者層がすでにこの話題に関心をもっていないという理由も当然あるだろうが、その統制されたような沈黙に奇妙な印象を受けている。少なくとも、この事件には、どうやら確たる証拠もなく、冤罪事件と同じ構図があるのにそのことへの言及すらない。
 ネットから見渡せる範囲が主になるが、その他の報道でも見かけなくなった。だが、その言わば消灯とも言える前、この事態の前に、逮捕後一週間目に当たる10日、東京新聞「「自信の逮捕」乏しい物証 今市女児殺害 容疑者逮捕1週間」(参照)に、ようやくと言えるが、この問題の構図への疑問が書かれていた。


 栃木県今市市(現日光市)の小学一年、吉田有希ちゃん=当時(7つ)=を殺害したとして、殺人の疑いで鹿沼市の無職勝又拓哉容疑者(32)が逮捕されてから十日で一週間。栃木、茨城両県警の合同捜査本部は「自信を持って逮捕するに至った」と強調したが、凶器など犯行を裏付ける直接的な物証には乏しい。殺害現場も特定できないなど、未解明な点も残る。

 捜査本部や捜査関係者によると、勝又容疑者は「一人で下校途中の子を、無理やり車に乗せて連れ去った」と供述。「自宅に連れていった後、別の場所で殺害した」などと説明したとされるが、肝心の殺害場所は曖昧なままだ。
 物証となる有希ちゃんのランドセルや衣服は「処分した」、凶器の刃物は「殺害後、遺棄現場までの途中の山中で捨てた」と話しているとされ、いずれも見つかっていない。
 勝又容疑者の自宅のパソコンには、有希ちゃんとみられる画像があったとされる。しかし、画像はインターネットで取り込むこともできる。
 事件をめぐっては、現場に残されたDNAが捜査幹部のものと判明したり、不審車両のイラストが発生二年後になって公表されるなど、捜査の不備が指摘された。
 自供に頼るだけでなく、客観的な裏付けのある証拠に基づき、犯行状況や動機を解明することが求められる。


 この記事は10日のものだが、その後、その疑問について私が見た範囲ではなんら進展はないようだ。
 茨城両県警の合同捜査本部は「自信を持って逮捕するに至った」と強調したというが、それを市民はどう受け止めてよいのか、宙ぶらりんの状態になり、そして報道も途絶えつつある。
 11日の読売新聞「勝又容疑者の供述あいまい…殺害場所特定できず」(参照)では、供述が二転三転している様子が描かれていた。

 勝又容疑者は逮捕直後、捜査本部の調べに対し、「茨城の山中で殺した」と供述。9日に勝又容疑者を立ち会わせ、同市の山林で現場検証を行ったが、殺害場所や時間の特定に至らなかった。ここ数日の取り調べで、勝又容疑者は供述の矛盾点を追及されると黙ったり、「言いたくない」と答えたりしているという。

 警察側にはおそらく焦りがあるのだろうが、報道がない現状、わからない。ただ、警察が現状、容疑者の自白に頼っていることの弱みは理解しているらしく、率先して可視化的に調べは進められているようだ。10日の時事「乏しい物証、動機解明急ぐ=取り調べ、全面録画も—逮捕から1週間・栃木女児殺害」(参照)では録画が強調されている。

◇全過程を録音録画
 捜査本部は取り調べの全過程を録音録画している。直接裏付ける物証が乏しく、供述が最大のカギを握るためだ。8年半前の記憶に基づく供述は曖昧な部分もあり、別の捜査幹部は「裁判で任意性の争いを避けられ、否認に転じても有力な証拠になる」と説明する。 

 推測なのだが、物的証拠が出てくる可能性はもうほぼ絶望的なのではないだろうか。そして、これまで報道されてきた逮捕にまつわる理由付けは、どうも根拠としては成立せず、報道側も誘導的な立場にあったことに今頃気まずい思いをしているのではないだろうか。
 事件報道の混乱した推移を追っていて私が思うのは、容疑者の記憶がすでに曖昧なのではないかということだ。嘘をついているというより、事件後の時関係から現実記憶が歪んでいるのではないだろうか。
 いずれにしても、このままこの冤罪と同構造の異常な状態のまま報道が立ち消えていくことに、ある恐怖のようなものを感じている。
 PC遠隔操作事件の報道も途絶えたようだ。
 この事件はすでに解決したから途絶えてもよさそうにも思うが、気になるのは、それまで被告を擁護して、被告の告白があってからも、今後も事実の解明を見つめて行きたいとした人たちからの声もほとんど途絶えたように見えることだ。
 非難にとらないで欲しいのだが、精力的にこの事件を追っていた岩上安身さんのサイトでは「【特集】PC遠隔操作事件」(参照)だが、被告の告白まで精力的にアーティクルが書かれ、また今後の展開も次のように約束されていた。

※この特集ページは、5月20日午前に片山祐輔被告が一連の事件への関与を認めるより前に取材したものをまとめたものです。IWJは、今後の展開についても引き続き取材を継続します。

 該当特集の枠外で「2014/05/30 片山被告、遠隔操作のトリックを暴露「まだ見つかってないサーバーが」 ~PC遠隔操作事件 第10回公判後の記者会見」(参照)などで記事が書かれているので、その後の継続取材は理解できるが、そろそろ1か月近くが経過したので、特集記事としても、その後の「展開についても引き続き取材」が読める時期ではないかと期待している。次回公判が20日なのでそれを待ってということかもしれない。それでもその際は、5月22日の第九回公判以降も含めて記事にしていただけたらと願っている。
 第九回公判については随分報道されたようだが、改めて見直すと、心にひっかかることがある。ニッカンスポーツ「片山祐輔被告、保釈取り消し後初公判」(参照)より。

被告人「今まで多くの人をだましてしました。まぁ...まず、脅迫の対象にした方、誤認逮捕の方々に対して謝罪したいです。あと、弁護士の先生や検察官や裁判長、支援してくれた方々、家族に対しても裏切りました。加えて、届いたメールにもひどいことを書いてしまいました。その中で支援してくれた女性ジャーナリスト、裁判長の名前をあげて脅迫したのは、まさか公判中に片山がそんなことを書くはずがないだろうと思わせるためでした。すべての人に申し訳ないと謝罪したいです」
と、述べると、弁護人が「どうも申し訳ありません」と付け加えて質問終了です。これで閉廷かと思ったら、
検察官「じゃあ、こちらもちょっとだけ」
と、検察官からも質問です。

検察官「全部やってない、ハメられたと主張してたのに、すべて認めようと思ったのは何故なんですか?」
被告人「前回の(真犯人を名乗る)メールが自作自演だとバレて、言い逃れることができないので...、あれが出て、3つの選択肢がありました。シラを切りとおすこと、すべて認めること、死ぬこと。1分で死ぬことを考えました」
検察官「シラを切ろうとは思わなかったんですか?」
被告人「河川敷にケータイ電話を埋めたとき、指紋が残っているかは確認してなかったんですけど、DNAとか証拠が出てくるだろうと思いました。まさか、(警察が)そこまでするとは考えてなかったので、シラを切るのは無理だと思いました」
ここで検察官が質問を終えて着席すると、弁護人が立ち上がって、
弁護人「追加で1点だけ。メールはともかく、本件全部を認めたのは何故なんですか?」
被告人「本文の内容で、onigoroshiのメールアドレスにアクセスしたと書いてあって、実際にログインしている表記がありまして、真犯人でないとパスワードを知りませんので...。そこさえなければ、有罪になるのが怖くてメールは送ったけど、本件はやってないと言ってたかもしれません」
と、述べて質問はすべて終了。

 こうなってくると、被告人の発言をどこまで本当のこととして扱うかも重要になってくるよなぁ。この日だけで傍聴席を11回も見回していつもの違って落ち着きもなかったし。


 被告の告白関連時の報道にさらに加えるべき新事実はないかのようだが、気になったのは、「追加で1点だけ」として弁護人が加えたのはなぜなのだろうか?ということだった。
 弁護人が追加しなければ、「まさか、(警察が)そこまでするとは考えてなかったので、シラを切るのは無理だ」ということで告白にいたることになったが、この追加によって、それが事実上否定されることになる。告白の理由は、「onigoroshiのメールアドレスにアクセスした」という自分のミスだとしており、つまり、その自分のミスがなければ、「本件はやってないと言ってたかもしれません」としている。
 弁護人の意図としては、この事件を、警察側の執拗な追求が実を結んだというより、被告の失敗が自業自得として告白にいたったという話にしたいように読める。それがどのように弁護になるのかが、この時点では私にはよくわからなかった。
 その後、直接的にはこの事件とは関係ないのだが、気になる情報をネットで見かけた。結論から先に言うと、ネットによるありがちなデマにすぎないだが、「片山祐輔「自殺未遂したのは嘘。本当はずっとホテルにいた」」という掲示板記事を見かけた。デマであることは明白である。公判日数と整合しないことや、リンク先アドレスがAFPであることから偽記事であることは明白で、ネットユーザーが釣られたわけだが、しかし、ふと考えてみると、「1分で死ぬことを考えました」という公判の被告の証言もなんら確証的なものではないことに気がつく。先の公判傍聴記に「こうなってくると、被告人の発言をどこまで本当のこととして扱うかも重要になってくるよなぁ。」というのは共感できる。
 何を言いたいかというと、被告は自分のそれまでの虚偽を告白したのだから、これから言うことが正しい、という保証は何もないのだということである。事件の核心についてすべて認めたのだから、今後は真人間に戻って正しいことを言う、という推定はまったく根拠がない。
 弁護側はこの点を織り込んでいるから、先のような追加質問になったのではないだろうか。つまり、被告の嘘が混じり込む可能性の多い推定はできるだけ避けるようにして、弁護のロジックが今後作られていくのだろう。たしかに、今後、この裁判で弁護側はどういう弁護のロジックを作っていくのだろうか?という点は興味深い。
 
 

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2014.06.14

現下のイラク危機、雑感

 イスラム系武装組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」によるイラクの情勢が急展開しているかのように見える。簡単に現時点の雑感を書いておきたい。
 現在の事態の象徴的な出来事は、6月9日の夜、イラク首都バグダッド(Baghdad)北方350キロに位置するイラク第2の都市、ニナワ(Nineveh)州の州都モスル(Mosul)が陥落したことだった。数百人程度と見られるISISによって、州本庁舎や刑務所、テレビ局が占拠された。
 しかし、突発的な侵攻というわけではない。すでに昨年末からISISの活動は活発化していて、1月にはバグダッドに近いファルージャがISISの元に落ちている。ファルージャは、もともとスンニ派の多い地域であり、シーア派色の強いマリキ政権への反対者が多い。
 この時点で、米国もイラク国内の事態に懸念し武器供与を強めている。現マリキ政権もその補助を受け、それなりの対応をしている。例えば4月には、イラク軍はシリア国内に入り、イラク内のISIS組織に燃料を運ぼうした車両8台を攻撃した(参照)。今年に入り、すでにイラク政府も米国も、シリアから侵入するISISに警戒していたと見られる。だが、その延長でファルージャをイラク政府側が奪還することはできないままでいた。
 今回のモスル陥落から始まる事態も、こうした文脈で見れば予想外のことではなかった。だが、モスル掌握の9日から2日後の11日という短期間に、フセイン元大統領の故郷でもある北部主要都市のティクリートまで掌握されると、ISISの進路が南下して、次は首都バグダッド包囲を狙っていると見られるのも不思議ではない。そこで一気に国際的な危機として認識されるようになった。
 6月以降の事態をファルージャなどの文脈から切り離してシリア側からの武力侵攻として見ると、確かに危機が迫るようにも感じられる。だが、モスルとティクリートはファルージャ同様に、イラク国全体から見ると少数派のスンニ派が住民の多数を占めているので、基本的には、シーア派色の強い現マリキ政権への反発という土壌があり、今回の急変もその土壌に載ったものである。
 また基本的にISISの侵攻は、都市単位の点と線の制圧なっていて、地図で領域をべったりと塗って表すような領土的な制圧ではない。現状では、次のようなものと見られている(参照)。黒い部分がISISが掌握している地域である。なお、これは現状であって今後も変化はリンク先に掲載されるとのことだ。

 地図の赤い部分が攻撃のある部分で、見てわかるようにバグダッドが取り囲まれているようにも見える。当面は、首都バグダッドが今後どのようになるのかとい問題が取り上げられるのは、世界の人の関心の持ち方からしてしかたがない。連鎖して、現マリキ政権が崩壊し、文字どおり「イラク・シリア・イスラム国」なるもが出現するのではないかという関心も避けがたい。
 今後はどのようになるだろうか。つまり、バグダッドは陥落するだろうか?
 いろいろと予測はあるが、私は当面の陥落はないと思う。理由は二つある。一つはこれまでのISIS侵攻はイラク内のスンニ派に支えられてきた面があるが、バグダッドではその背景が弱いこと。もう一つの理由は、ISISの侵攻がクルド人地域を実情避けている(参照)ことから推測されることだが、クルド地域のように所定の武力をあるところを避けることでここまで侵攻できたので、現状はまだ弱点を突いて動いている状態であることだ。バグダッドでの本格的な戦闘にはまだISISは耐えないのではないだろうか。

 この予想は逆に言えば、今後のイラクは事実上の内乱の状態が長期的に継続することも意味している。
 しかも、この内乱にはISISを取り巻き、大きくわけて四者の関係者の利益が大きく関わっているために、全体構造から抑制することが難しく、長期化するだろう。
 利益者の第一は当然だが、イラク内のスンニ派勢力である。これでシーア派中心の現政権を弱体化させることができる。実際のところ、ISISの今回の活動は、イラク内のスンニ派人脈の軍事経験が生かされていると見てよく、クーデーターあるいは革命の志向がある。
 第二は、クルド人である。今回の事態でもはや引き返せなくなったことでもあるが、クルド人自治区が実質独立を遂げた。イラク政府が内乱状態であれば、つまり、暴力を収納する国家が不在となり、クルド人の区域は自身が国家の機能を担わなければならない。これはクルド人の悲願である独立の達成とも言える。当然彼らに利益がある。すでに油田のあるキルクークもクルド人が掌握した。ただし、この事実上の東部クルディスタン独立は、それ自体が別の国際的な問題を引き起こしかねない。
 第三は、隣国イランである。同じシーア派としてイラクへの関与を強めることになる。結果、イラク内にあるシーア派の聖地ナジャフとカルバラが事実上、イランの関与の下に入ることが利益として見込める。
 第四が、サウジアラビアである。ISISを含め、シリア内で活動している反政府派を支援しているサウジアラビアを中心とした、クエートやカタールなどにもその力の誇示という利益と、イラクの原油を不安定化させる点で利益がある。
 この地域の平和の実現は以上の利益者に関わる。
 こうした利益者の利益を抑制するための国際的な連携が必要になる。だが、シリアでの失敗を見ると難しいだろう。
 なお、米国はこうした利益者に含まれない。
 現状、オバマ政権は、シリア問題やウクライナ問題と同様、修辞だけで済ませている状態で、表面的に軍事介入をすることはないだろう。ただし、リビアを背後から崩壊させたのが米国であるように、見えづらいなんらかの手を打つ可能性はある。
 実際のところ、イラクがさらなる混乱に陥れば、イラク戦争の意義が米国的には失われてしまうので、そこは米国の総意としては避けたいところだろう。

 

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2014.06.09

自分と同い年の校長先生の不謹慎な犯罪にちょっと驚く

 基本的にこれは自分にはどうでもいいニュースなんだけど、「うぁあ、こいつぅ、俺と同い年かぁ」というところで、ちょっと驚くニュースというのがある。昨日の七時NHKニュースでも報道されていたけど、「小学校長がトイレで盗撮容疑逮捕」(参照)というニュースだ。
 NHKのニュースは一週間くらいで消えてしまうので、きちんと「忘れられる権利」を自然に守っているけど(皮肉1%未満)、私のブログはもう10年もやっていて、どうやら生きているかぎり続けそうな気配もあるので、残るのもなんだから実名部分はコメコメで引用する。


 群馬県高崎市の小学校の校長が、勤務先の学校の女子トイレに侵入し、女性教諭をスマートフォンで盗撮したとして、県の迷惑防止条例違反などの疑いで逮捕されました。
 逮捕されたのは、高崎市立大類小学校の校長、※※※※容疑者(56)です。
 警察の調べによりますと、※※校長は、今月5日の昼前、勤務先の学校の1階にある女子トイレに侵入し、女性教諭をスマートフォンで盗撮したとして、建造物侵入と県の迷惑防止条例違反の疑いが持たれています。
 トイレにいた教諭が頭の上にカメラのようなものが差し出されたのに気付き、学校から通報を受けた警察が調べを進めていたところ、※※校長が7日夜、高崎警察署に出頭してきたということです。
調べに対し「撮影したのは、間違いありません」と容疑を認めているということです。
 高崎市教育委員会の速水裕行学校教育担当部長は「被害者をはじめ、児童や保護者の皆さんに大変申し訳なく深くおわびします。今後、事実を確認したうえで厳正に対処します」と話しています。

 はあと。溜息出るなあ。しょーもないなあ。
 なんでこうなっちゃうかなあ。
 今年56歳だと俺より一学年下だけど、これから誕生日というなら俺と同学年だよなあ。校長先生というから、それまで立派にやってきたんだろうな。それでで、「女子トイレに侵入し、女性教諭をスマートフォンで盗撮」かよ。他ニュースにあたったら、「20代の女性教師」らしい。うひゃあ。
 あのですね、私がですよ、当時の平均的な男性として25歳くらいで結婚とかして、すぐにほいと翌年子どもを持っていたとしますよ、今、娘、30歳ですよ。三十路アラサーですよ。
 平均的な年齢で結婚してないとしても、子どもがいたら、20代近い。20代の女性って、すでに自分らの娘の世代ですよ。せっせと、おしめ取り換えていたあの娘ですよ。うひゃあですよ。
 って、そういう話でもないんだろうな。
 この校長先生に共感できるかというと、まあ、僕にはないのだけど、ないというのは、しかし、公平に言うなら、趣味が違うからなあということで、じゃあ、お前の趣味はなんだよというと、まあ、そこは口ごもるけど、盗撮とか下着泥棒とかはないんで、反社会性からは免れているんだろう。
 その点、校長先生のお趣味が女装とかだったら、家族には迷惑は掛けるかもしれないけど、逮捕ということにはならないんじゃないか、よほどのことでないと。いやいや、56歳校長先生で女装趣味というのはあってよいと思います。俺は、その趣味もないけど。
 そういう性的なお趣味という部分を除いて、もっと一般的に「背徳」という感じでまとめてしまうと、人間って56歳になっても、一種の「背徳」の欲望を抱えているものだなあと、しみじみ思う。
 そのあたりの、「背徳」ならぬ「背徳的な欲望」自体でいうなら、自分の場合はどうか? ある種、文学的な欲望でうまくごまかしているというか、なんらかの理由でそっちに向いているのだろうなと思う。でも、背徳の強度では同じなんじゃないか。
 こういう「背徳性」というのは「虚偽の人」とはまたちょっと違うものがある。なんなんだろうか、人間って地獄だなあと思う。
 そういえば、最近のあのニュースも同年代の校長先生だったな。同じくNHKから、同じくコメコメで。「元校長 ネットで知り合った男から買った」(参照)より。

 覚醒剤を隠し持っていたとして逮捕・起訴された、福岡県の小学校の元校長が「覚醒剤はインターネットで知り合った福岡市の男から買った。気分がよくなるものだと言われて軽い気持ちで使ってしまった」と供述していることが、捜査関係者などへの取材で分かりました。
 警察はすでに別の覚醒剤事件で起訴されている福岡市の男を今後、追送検し、詳しいいきさつを捜査する方針です。
 福岡県春日市の小学校の元校長、※※※※被告(57)は、覚醒剤およそ0.5グラムを隠し持っていたとして、先月、逮捕・起訴されました。
 警察は覚醒剤を入手したいきさつを調べていますが、※※被告が「インターネットで知り合った福岡市の男から購入した。気分がよくなるものだと言われ、軽い気持ちで使ってしまった」などと供述していることが捜査関係者などへの取材で新たに分かりました。
また、「4年前の人事異動で自宅から遠い小学校へ転勤を命じられ、左遷されたと感じたのをきっかけに使うようになった」とも供述しているということです。
 警察は、別の男に覚醒剤を譲り渡したとして逮捕・起訴されている、福岡市の※※※※被告(55)が※※被告にも譲り渡したとみており、今後、追送検してさらに捜査を進める方針です。

 今年誕生日を過ぎていたら、彼も俺と同い年なわけで、実はコメコメを検索したらけっこうきちんとした教育面での業績みたいなのもめっかって、先生、立派じゃん、とも思ったけど、覚醒剤というのは、かなりいけない背徳だよなあ。
 当初、この事件、率直にいうと、その地域の風土が関係して、幼なじみとかそういう経路で普通に貰っていたんじゃないかと思っていたが、「インターネットで知り合った福岡市の男から購入した」というので、これもちょっと唖然とした。
 「インターネットで知り合った」人に会うものかなと思うが、まあ、そこは考えてみると、パソコン通信とかでもそういう経験は自分でもあるんだが、それでもネット上である程度、懇意というか伝わった上でのことだと思うのだが、この校長先生の場合は、むしろ覚醒剤への関心からだったのだろう。まいったなあ。
 まあ、こうした背徳者の犯罪は、他にも事例はあるだろうし、たまたま最近、こうしたことが重なっただけだろうと思うけど、社会的にちゃんとしてきて56歳にもなった人間が、背徳の欲望に突き動かされて転落していくというのは、ああ、人間!と思う。

人の生の道なかば、
ふと気がつくと、私は正しき道の失われた
暗き森の中をさまよっていた。
ああ、そこがどのようなものだったかを語るのは
いかに辛いことか、鬱蒼と茨に満ちたこの野生の森を
思い返すだに、恐怖が甦る。
その余りの苦しさは死にも劣らぬ。

---「ダンテ『神曲』地獄篇対訳」(参照PDF


 人生、そういうもんだよなあ。
 虚偽の人間つまり悪の人と、背徳の人とはどう違うのかというのは微妙なもんがあるし、重なりもあるのかもしれないが、背徳というのはけっこう普通の人が抱えているものだろうなあ。
 
 

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2014.06.07

なぜ市民は女児殺害事件容疑者逮捕について考えなければいけないのか?

 なぜ、私が女児殺害事件容疑者逮捕にこだわって考え続けているのかについて書いておこうと思う。

問題の基本構図としてのジレンマ
 まず枠組みとして重要なことは、この問題がジレンマの構造をしていることだ。私はまずそう認識するし、日本の市民にとってもそうであると思う。ジレンマというのは、問題の対応に二つの選択肢が存在するがそのどちらを選んでも不利益があって態度を決めるのが難しい状態を指している。
 しかし、ジレンマの問題が市民社会でまさに問題となるのは、ジレンマの状況そのものではない。なぜなら、それは最終的に総合的な利得にかなり還元できるからだ。
 ではジレンマが市民社会で問題になるのはどういうことか? それは、市民がジレンマを避けられるように行動を取り、選択による不利益を自己の市民としての責務として担うことを放棄することである。
 これは、いじめ問題の傍観にも似ている。いじめはよくないしよくないと表明したいが、そう表明することで自分がいじめ対象になるのを怖れる。よって、そのジレンマを自分の問題としないとして表明を控える。
 では、その全体的な結果はどうなるのか? 自明だろうと思う。いじめが続く。
 いじめ問題の本質は、実はそうした、ジレンマによる不利益を自分の責務とする主体的な責務感の欠如がある種経済学的な均衡を介して継続することだ。

女児殺害事件容疑者逮捕のジレンマ
 女児殺害事件容疑者逮捕はどのように、市民にとってジレンマなのだろうか。対立する二つの項は、こうである。

  1. 凶悪犯罪を未決事件として放置しておくことはできない。
  2. その解決たのために冤罪事件を誘発する手法を警察が採ることは許しがたい。

 そのジレンマに対して、市民はどのように回避し、無責任となれるのか。次のようになる。

犯人について主体的な印象を持とうとすることを避け、それを市民としての自分の市民社会問題から疎外して、ジレンマを悩むことを放棄する。

 もう一歩進めよう。なぜ、そのような市民的な責務の回避が起きているように見えるのだろうか?

なぜこの事件が冤罪事件の構図として批判されないのか
 この事件の特性には、冤罪事件の構図に従属ではあるが、犯人の自白という大きな問題がある。
 現状、私たち市民が報道から知りうる情報を市民の常識として吟味する限り、確固たる証拠はなにも存在していない。そのうえ、事件の解明はすべて自白に依存しているように見える。つまり、この事件はまったく冤罪事件と同じ構図にある。
 にもかかわらず、この事件が冤罪事件と同じ構図ではないかとして、PC遠隔操作事件のように警察を非難する論調は、ネットですらほとんど見かけない。私は見かけたことがない。なぜなのだろうか?
 さきのジレンマに直面し、ジレンマを引き受けることを放棄しているからではないだろうか?
 別の言い方をすれば、こういう心理ではないだろうか。


凶悪犯人は逮捕してほしいが、そのために冤罪事件を導く捜査方法は是認せざるを得ないにも拘わらず、それを是認するかのような意見を述べると、自分が正しくないように思えるというのは嫌だな。黙っていよう。いっそ、犯人であるか犯人ではないかという主体的な印象をもつのも避けてしまおう。

 理路は逆になる。
 女児殺害事件容疑者が犯人であるか、そうではないのかという市民的な主体的な意識をもってこの事件を見ていけば、この事件が冤罪と同じ構図にあることがわかり、無関心からではなく、また、「印象をもつべきではない」という理由からでもなく、きちんと、容疑者が犯人だともそうでないとも思えず、結果、嫌悪感ももてない、という帰結になるはずだ。

では市民はどうしたらよいのだろうか?
 ではどうしたらよいのだろうか。二つある。

  1. 現時点で、容疑者が犯人であるという判断ができないということに主体的に関わり、その表明をする。
  2. 警察の冤罪誘導的な手法を是認してはならないが、それなくして逮捕できない現実についての責務感を持つ。市民として汚れの部分を引き受ける。

 問題は、ゆえに、さらにもう一歩すすめて、警察が冤罪をもたらす手法をある程度是認するということは、どういうことなのかということを市民として考え詰め、それも表明していくことである。
 あるいは、それは断固として是認できないとして、この事件における冤罪的な構図を主張しつづけることである。

コメントに答える
 以上で、私の基本的な考えを示したので、いただいた以下のコメントに答えてみたいと思う。このコメントの背景的部分についての感想は含めず、書かれたことに、直球的に答えてみたいと思う。また謝辞的な部分は引用しない。


 まず、今回の事件に対して、最も重要なことは、「真実は何か?」ということではないかと思います。
 というのも、いたいけな命が奪われたという、厳粛な、痛ましい事実があるからです。
 かような事件を扱う局面において、多様な臆見を表明し、戦わせることが、相応しいことである、とは、私には思えなかったのが、正直な感想です。
 「現時点の報道では、真実が何か、得心のいくまでの情報が公開されていない。警察は、無用の心理操作を行う暇があるのならば、市民が真実を得心できうる情報をもっと追及し、それを公開すべきだ」という論であれば、私も話はわかります。
 そうでなく、市民は、痛ましい犯罪を前にして、それでも、真実は何か、ああではない、こうではない、と、臆見を戦わせるべきである、という主張であるならば、これは直ちに筋が通りにくいのではないかと思えます。
 現在、供述内容は二転三転するといわれているものの、容疑者が、自白を撤回した、という報道はまだ聞こえてきません。
しかし、finalvent様は、おそらく、容疑者が、後日、自白を撤回するのではないか、と見込んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 あるいは、容疑者が、厭世的であるとかいった理由で、意図的に、自ら犯人であると騙っているのではないか。
こうした可能性は、依然、あるのかもしれません。
 しかしながら、このような可能性を想定すること自体が、事件の痛ましさを思い起こせば、心情的に、どうしても苦しく、耐えられないものがあります。
 犯罪に対する判断は、非常に難しいと思います。
 例えば、小野悦男受刑囚の件を想起してください。
 痛ましい事件においては、自らの臆見を披露することは、政治的な議論を行うような場合とは全く次元の異なった、倫理的な慎重さが要求されてくるように思われるのです。
 アレントの議論が、直ちに妥当する場面ではないと感じるのです。

 コメントありがとう。
 では答えてみよう。

この事件における「真実」とは何か?
 この女児殺害事件における「真実」とはなんだろうか。
 コメントのかたからいただいた疑問点で、一番違和感をもったのが、まさにその問いだった。違和感のコアは、その文脈から「真犯人を割り出す」ことが「真実」とされていることだった。
 私は、まず、そうは考えていない。
 「真犯人を見つけ」それに適切な処罰を与えることが、この事件の「真実」だとは考えていない。
 「いたいけな命が奪われたという、厳粛な、痛ましい事実」に対する親御さんにとっての「真実」は、処罰であるかもしれない。近代国家の刑は、復讐の抑制的な代理という側面がある。
 しかし、それは市民には該当しない。私は「いたいけな命」について、市民としてしか関与できない。
 では、市民という点からその事実が意味するところ、「真実」とはなんだろうか?
 犯罪が適切に解明されるように警察を支援することだと思う。さらに裁判が正しく進むことを支援することだと思う。
 真犯人の割り出しは、その支援の結果として、蓋然として得られることがありうるということで、あくまで蓋然に置かれるものだろうと考える。
 私たちは神のような全能ではないので、犯罪を映画のように見通すことができない。公的に理解される手順や証言の審議を通して、犯罪についてのある合意を形成する、その合意形成が「真実」であるにすぎない。

自白と日本人的な倫理感について
 今回の事件の自白についてこう問われる。


容疑者が、後日、自白を撤回するのではないか、と見込んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 あるいは、容疑者が、厭世的であるとかいった理由で、意図的に、自ら犯人であると騙っているのではないか。

 これに対する私の答えとして、率直なところ、まったくそう考えていない。自白のとおり、なんらかの物的証拠があがる可能性は少なくないとは思う。
 私が関心を持つのは、この事件を、自白に倫理的な意味合いを持たせ、そのような倫理を市民社会の倫理とすることへの拒絶感である。
 ここから少し日本人論ぽくなることは留意しつつ述べたい。
 日本人はこう考えがちではないだろうか。

悪い人がいて、それをとっちめて、「悪うございました」と土下座させれば、悪が終わる。

 それを日本人は「正義」の実行と考えているのではないだろうか? そして、「清らかなる本心」を守る。
 犯罪や悪を、そうした「清らかなる本心」の問題として、そこに帰着させたいという欲望を強迫的に持っているのではないだろうか。私はそうした、強迫的な倫理こそが個人の思想を尊重する市民社会の原則に反するものだと考える。
 すべての自白がいけないとは言わない。ある事件の犯人が犯行後、自分の罪を自覚して、罪が存在することを公にするために自ら犯罪の証拠を提示するというなら、それにはまったく異論はない。
 しかし、今回の事件には、そうした構図は、現状見られないのである。

主体的に関心を持つから犯人であるとは思えない
 すでに述べたとおりの再掲になる。私はこう問われる。


 痛ましい事件においては、自らの臆見を披露することは、政治的な議論を行うような場合とは全く次元の異なった、倫理的な慎重さが要求されてくるように思われるのです。

 私の答えは、その倫理的な慎重さが、先に提示したジレンマを回避しないことである。
 また、私は、主体的に関心を持つからこの事件の容疑者が現時点では犯人であるとは思えない。
 そうした風潮で報道されている現状に違和感を思える。また、そうした風潮にきちんと、そうであってはならないという否定の意見を述べておきたい。
 
 

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2014.06.06

遠隔操作事件被告がキモくて、現時点で女児殺害事件容疑者がキモくない理由

 ブログをやっていると罵倒コメントを貰うことが多い。罵倒ならまだいいほうかもしれない。
 その手の罵倒コメントは、基本的な誤読の上に成立していることが多いので、返答するとさらにこじれる。それは例えば、「君は最近奥さんを殴るのをやめたのかい?」と問われて、「いや」と答えればそれ以前は殴っていたんだということになってしまうような構図と似ている。
 ネットの世界だとある一定の知的水準がある場合でも、そうした誤解を解くのはむずかしい。もちろん、それを試みる価値はある。
 たまたま、罵倒コメントでネットで有名な、はてなブックマークを見たら、こういうコメントがあった。コメント者については関心ないので、名前は省略する。


今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/05/post-1d21.html 2014/06/05

 このネガコメ(否定的なコメント)にも見えるコメントがついたのは、昨日のエントリー「栃木小1女児殺害事件、現時点の雑感」(参照)である。このエントリーで私が、女児殺害事件容疑者に対して「キモくね」(気持ち悪い)と言ってないのはなぜかと疑問に思ったらしい。
 そして、「今回は」に対応するのは、以前のエントリー「パソコン遠隔操作事件、その後の雑感」(参照)であり、このエントリーでは私は、実質、遠隔操作事件被告に対して「キモくね」というに等しく扱っている。
 さて、私としては、「今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?」というコメントの誤解がとても不思議である。

それが誤読に基づくだろう理由
 遠隔操作事件被告は、前科と容疑を認める前の二つの状態について私は知っていて、そこに人格的な統合性を見ることができなかった。さらに、容疑を認めたあとは、容疑を否認していた状態について、彼が「平気で嘘をつく」人であることをかなり明白に知った。この二つの点から、私は彼に人を騙す邪悪性を感じ取った。そしてスコット・ペックが言うことを思い描いた。


健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。相手の邪悪性があからさまなものであるときには、この嫌悪感は即時に生じるものである。相手の邪悪性がより隠微なものである場合には、この嫌悪感は、相手との関係が深まるにしたがって徐々に強まってくる。

 これに対して、女児殺害事件容疑者については、すでに該当エントリーに書いたように、容疑者について、犯人だという感覚を私は持つことができないでいる。まとまった印象すらない。こう書いたとおりである。


一番気になったのは、そして今も気になっているのは、逮捕された栃木県鹿沼市無職・勝又拓哉容疑者(32)が、真犯人だという感覚を持つことができないことだ。

 そういう対象に対して、「キモくね」という印象を持つことは、とうていできない。
 私はこの女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていない。ロリコンだとも変質者だとも思っていない。そう思えない理由も該当のエントリーに書いたし、むしろ、世間がこの事件が解決したかのような風潮で実質彼を犯人のように扱っていることに違和感を覚えたというのが、そのエントリーの主旨だった。
 というわけで、「今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?」とコメントされても、それは普通に誤読でしょと思う。

もう一つの誤解、あるいは異論
 関連して。私は現時点では、女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていないと書いたのだが、こういうコメントもあった。同じく、コメント者には関心ないのでそこは省略する。


そもそも捜査中の事件の被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」を取ろうとすること自体が非常に危ういわけで 2014/06/05

 短いコメントなので、コメント対象が判然とはしないのだが、誤読なんだろうなと思うことはあった。
 まず、事件が解決したかのような現在の報道を見るかぎり、現在の報道は、「有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」を実際上与えようとしている現実がある。だからこそ、私は該当エントリーで、女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていないと書いた。
 しかし、世間自体が、市民が、ある事件について、「有罪(真犯人)か無罪かの「心証」を取ろうとすること自体が非常に危うい」という点については、もちろん、危ういのだが、その危うさを回避することは、「「心証」を取ろうとする」行為を排除することではない、と私は考えている。
 このエントリーを書こうと思ったのは、まさにそれである。

市民社会に求められるのは臆見を排することではなく複数の声があること
 市民社会の市民は犯罪者に対して心証をもつべきだが、同時にそれは複数の声でなければならない、ということだ。
 市民社会では、宗教的な意味合いでの絶対的な規範、あるいは独裁国のような絶対的な規範は存在しない。市民社会はそれを調停するルールによって成立している。そのことは同時に、市民の意見はすべて等しくドクサ(臆見)であり、そこでは、ハンナ・アーレント(参照)の言うようにドクサ(意見)の複数性を廃棄する真理観のほうが問題になる。
 アーレントの公共性の考えは、市民社会における市民が、単に多様に存在しているという存在の様態を指しているのではなく、市民がある単一の真理に還元不可能に存在していることを示しているのであり、複数の声が挙げることがその実践にもなる。
 私は、ブログとは、そういう複数の声の場であると思う。
 そして、その複数性があるということは、市民の意見=ドクサ(臆見)が前提となる。

ドクサ(臆見)の無言の市民社会機能について
 具体的に犯罪者と市民の受容についていえば、市民は、容疑者について、犯罪の彼(彼女)が真犯人であるかそうではないのかというドクサ(臆見)=意見を自然的に持つということだ。市民の主体意識は、社会のありかたを問う一環として、容疑者についての考えを自身に問うことになる。そうでなければ、犯罪に無関心であるか、報道の誘導や権威者の判断など、他者の考えを自己の感受性に優先させることになり、いずれにせよ、市民としての主体性が抑制される。
 もちろん、そうした意見=ドクサ(臆見)は、公共性のプロセス、例えば、司法のプロセスにおいて調停され、調停されることで便宜的な正義となる。だが、そのような場で、例えば、陪審員や裁判員などは、その任として市民から疎外されたときには、「そもそも捜査中の事件の被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」がまず排されたのち、次に、「被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」を積極的に得ようとすることになる。いずれにせよ、公共性のプロセスでは、市民は「公」として疎外される。
 私はこうしたアーレントの公共性の前提にはもう一つ、市民社会のドクサ(臆見)=意見の積極的な意味合いがあると思う。
 私は先のエントリーでこう述べた。


 私たちは普通に生活していれば、たんまりと自己嫌悪を抱く。そして邪悪な人に接しては、たんまりと嫌悪感を抱く。
 しかし、それが人間の正常というものだし、そういう正常が市民社会を支えていくんじゃないか。

 市民がそれぞれはその生活感から得られた他者というものへの人格的な了解性を持つが、その了解とともに必然的に生まれてきた嫌悪感というものが、市民社会を支えている一つの無言の原理になっているのだろうと私は考えている。
 遠隔操作事件被告については、前科について忘れられる権利はあるにせよ、前科の言動と容疑を認めるまでの言動との間に、ある人格的な統一性が見られなかった。そこで市民の一人である私はドクサとして「キモくね」と思う。そしてできるだけ言う。こうしたことは、おそらく正常な市民社会を実際に支えている原理ではないかと思う。
 と、同時に、そうした原理性がはたらかない、さらにはゆがんだ情報が与えられているときは、「キモくね」とは思わないし、そういう意見を挙げる。
 踏み込んで言えば、複数の意見が聞こえるように、市民社会の市民が声を挙げることを励ますべきだと思う。多様な声の一つではあるとしても、罵倒コメントを書く代わりに。
  
 

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2014.06.05

栃木小1女児殺害事件、現時点の雑感

 栃木小1女児殺害事件の容疑者が逮捕され、自白もしているということで、全体としては彼が真犯人であるという風潮で報道が進んでいるように思える。これに対して、いや彼は真犯人ではないという論調は自分の見ている範囲では見かけないし、私としてもそうした印象はもっていない。
 だが、この逮捕にまつわる情報について、なんとも言いがたい違和感を感じている。気に留めずに過ごしていってもいいのかもしれないが、やはりそういうことを一人の市民の視点から留めておくこともブログの役割かもしれないと、少し自分を励まして書いてみる。

 事件は、2005年12月に栃木県今市市(現日光市)の、当時7歳の女児が下校中に行方不明となり、茨城県常陸大宮市の山林で刺殺体となって発見された事件である。
 このブログも10年以上に経過しているが、事件発生当時も気がかりで、しかし状況が皆目わからないまま、とりあえず関連してスクールバスについて言及したこともあり(参照)、ずっと心にひっかかっていた。なによりも痛ましい事件であることが心に残る理由だった。
 容疑者逮捕後の状況についての報道がどうも渾然としていて、こうした問題は何か言及するにしても、もう少し待つほうがよいのではないかと思っていたが、どうも報道の流れはさらに曖昧になっていくように見える。むしろ、初報道に近い現時点で、それなりに思いをまとめておいたほうがいいのかもしれないと思った。
 とはいえ思いがうまくまとまっているわけではないので、心の引っかかりの部分から書いてみたい。

真犯人だという感覚を持つことができない
 一番気になったのは、そして今も気になっているのは、逮捕された栃木県鹿沼市無職・勝又拓哉容疑者(32)が、真犯人だという感覚を持つことができないことだ。
 逆に犯人ではないという感覚もない。どうしたことなのかと思いを見つめていくと、市民として、そうした感覚を形成するための情報が提供されていないのではないかという疑念にいたる。
 ごく簡単に言えば、二点ある。一つは、警察が市民に説明すべき逮捕の根拠とされる事物に説得力がないことだ。もう一つは、PC遠隔操作ウイルス事件で片山祐輔被告が逮捕されたときのような前科などいった、事件を考える上での文脈が与えられていないことだ。
 一言で言えば、事件についての「なぜ」が宙ぶらりんになっているなかで、事件が解決されたかのような風潮が形成されていくように見える。

「ロリコン」は偽の文脈ではないのか
 しかし、その「文脈」がまた微妙なのだ。
 私から見れば、今回の逮捕について、市民がその「何故」を想定する文脈は存在していないように見える。にもかかわらず、現状の流布されている報道からは、「フィギュア好き」(参照)、「幼時性愛・ロリコン趣味」(参照)といった情報から、それが殺害に関連したかのような、偽の文脈が与えられている。
 奇妙に思えるのだが、このエントリーを記載している時点の最新報道で、かつ日本の報道では比較的信頼の置けるNHKの報道を見ても、そうした異常性愛者的な情報は見つからない。「小1女児殺害 消去された一部画像を復元へ」(参照)。


 9年前栃木県の旧今市市、今の日光市で、小学1年生だった女の子が連れ去られて殺害され、3日32歳の男が殺人の疑いで逮捕された事件で、男のパソコンに大量に保管されていた画像の一部が消去されていたことが分かり、警察はデータの復元を進め事件に関係するものがないか詳しく調べています。
 この事件で、逮捕された栃木県鹿沼市の無職、勝又拓哉容疑者(32)は、9年前の平成17年12月、栃木県の旧今市市、今の日光市で小学1年生だった吉田有希ちゃん(当時7)を下校途中に連れ去り、刃物で刺して殺害したとして殺人の疑いで逮捕され、5日午前7時半すぎ、検察庁に向かうため車で警察署を出ました。
 これまでの調べに対し勝又容疑者は容疑を認め「女の子を車で連れ去ったあといったん自宅に連れて行き、その後、騒がれたので殺害した」などと供述しているということです。
 その後の調べで、勝又容疑者の自宅から押収したパソコンには、インターネットを通じてダウンロードしたものも含め大量の画像が保管されていましたが、一部が消去されていたことが警察への取材で分かりました。
警察によりますとデータは復元が可能で、これまでに不鮮明で誰かは特定できないものの、女の子の顔を写したと見られる画像も見つかったということです。
 警察はデータの復元を進め、事件に関係するものがないか詳しく調べています。

 NHKの報道が他の報道より遅れているということは、他の事件でのNHK報道などから類推するにあまり想定しにくい。現状では、勝又容疑者が異常性愛者であるという印象は私にはとうていえられない。
 ただし、ネットの世界から見ると、勝又拓哉容疑者のツイッター投稿のようなものが見つかり(参照)、それが本人であれば「スク水」好きとかではあったようには見える。ただ、それでも事件と結びつけられるものではない。
 これに関連して、「警察によりますとデータは復元が可能で、これまでに不鮮明で誰かは特定できないものの、女の子の顔を写したと見られる画像も見つかったということです」ということは、警察による伝聞であって、私たち市民はどの程度その警察を信頼する問われている。
 この件についていえば、そうした状況を想定しても、女の子の特定は難しいのではないかと私には思える。先のツイッターが本人であれば、そうしたデータを多数持っていても不思議ではない。

証拠はなんだろうか?
 また「警察はデータの復元を進め、事件に関係するものがないか詳しく調べています」ということも奇妙で、逆に報道から得られる印象は、この逮捕についての証拠は何もないのではないか、ということだ。
 このあたりで、ふとすでにある異世界に混入しているような違和感を感じる。
 そもそも勝又拓哉容疑者は何の件で逮捕されたのだろうか。もちろん、女児殺害事件である。だが、当初の逮捕は1月の「商標法違反容疑」だった。偽ブランド品を取り扱っているということだった(余談めくが先のツイッターがその時点で途切れていることは印象的)。
 ここは私の社会人としての常識からの推測だが、警察としては勝又拓哉容疑者が女児殺害事件の犯人であるという想定で、別件逮捕し、その過程で、容疑者の自白を誘導して、次に女児殺害事件の逮捕ということになったのだろう。
 率直なところ、そんなことをしてよいのか?というのが疑問になる。
 そして、その疑問に対して、自分の心を除くと、私のかわいい悪魔の代弁者はこう呟く、「そうでもしなければ、証拠もないのにこんな極悪犯人、捕まらないぜ。PC遠隔操作事件だってそうだっただろ。犯人を誘導しなければわからない事件というのがあるんだ」、と。

日本人の強迫的な心性が報道の受け取りに影響していないか?
 ここで私はもう一つ奇妙な、まるで氷の城のなかに自ら幽閉されたような感覚に襲われる。私、というより私たち、そして私たちというより日本人は、自分がいかに純真で正しい心を持っているかを表明したい欲望を持つがために、ある政治的な立場に立つことを強迫され、敵対者を想定してバッシングする心性を持つということだ。
 今回の事例で言えば、「こんな極悪人」を支援するような立場に立っていいのか?という怖れになる。だから、「容疑者が犯人であることは現時点では非常に疑わしいし、警察のやりかたは正統とは思えない」と私が言うとすれば、そういう立場に立った私がバッシングの対象になりかねない。
 このことは、PC遠隔操作事件を連想させる。こちらの事件は、全体構造を俯瞰すればそれほど「極悪」と言えるか疑問な事件であったせいもあるが、「容疑者が犯人であることは現時点では非常に疑わしいし、警察のやりかたは正統とは思えない」ということは、許容されていたし、私の見るかぎり、ネットではそうした許容が優勢であり、むしろ、「こいつ前科の口調を考えると相当に疑わしいぜ」とでも渦中で言おうものなら、バッシングの対象にされかなかったかと思う。

女児殺害事件とPC遠隔操作事件はどこが違うか?
 この女児殺害事件とPC遠隔操作事件はどこが違うのか?
 即座に「違うだろう、当然」という思いが沸き起こるが、しかし冷静に見れば、警察がやっていることは、毎度のお仕事である。毎度というよりしっかりとリキの入ったお仕事である。そしてそれはかなり点で市民の感謝の対象となりうるものだとも思う。だがいずれにしても、警察の対応という点では、それほど違いはないように見える。
 では「違うだろう、当然」という思いの由来はどこか?
 市民としての立場の選択に対する影響から発しているのではないだろうか?
 つまり、立場だけが問われている。
 かわいい悪魔の代弁者は「女児殺害事件の容疑者を支援している立場にあると思われるのが怖いからでしょ? こんな極悪事件をのさばらせておくような立場ってありかよ」と言う。しかし、かわいい悪魔は理性的ではない。今回の逮捕にどれだけ疑念を抱いても「こんな極悪事件をのさばらせておくような立場」とは実は関係ない。

微妙に歴史隠蔽的なカタルシスに関与しているような疑念
 話を栃木小1女児殺害事件に戻して、関連してもう一つ自分の思いをいうと、今回の逮捕は微妙に歴史隠蔽的なカタルシスに関与しているような疑念がある。
 社会に関心を持っている人なら、指摘されれば、気がつくことだが(すでに気がついている人も多いはずだが報道やネットから見えづらいように思えることだが)、1980年ころから栃木県と群馬県では女子殺人事件が連鎖的に発生していた。ネットの情報を当たってみると、ウィキペディアに「北関東連続幼女誘拐殺人事件」(参照)という項目があったが、今回の事件もその一連の最後に位置づけられるかのようにも見える。だが、今回の容疑者が犯人ならその年齢からして、他の事件との関連は薄いだろう。では、他の殺人事件はどうなったのだろうか?
 この関連と、今回の事件についてのもう一つの関連がここで結びつく。一連の女子殺人事件がこの事件を終わりにしたかのように途切れたのはなぜだろうか?
 これは偽の疑問かもしれない。つまり、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」というのは、リスト化はできるにせよそこに共通する犯人についての事項は存在しないかもしれない。だが、「栃木県と群馬県」という点についてはおそらく何らかの説明が可能だろう。

防犯カメラの現状
 今回の事件で、逮捕の根拠とされたかに見えるのは、防犯カメラ映像だった。孫引きメディアのJ-Castをさらに孫引きするのもなんだが、わかりやすいので引用したい(参照)。


 高村智康リポーターが有希ちゃんが連れ去られた現場にいた。「勝又容疑者逮捕の決め手となったのは、防犯カメラに撮影された彼の白いセダンタイプの車とパソコンに残っていた映像です。栃木県警と茨城県警の合同捜査本部が死体を遺棄したと見られる時間帯の車を調べたところ、2台だけが詳しいことがわかりませんでした。今回、そのうちの1台のナンバープレートが解析でき、勝又容疑者がかつて所有していて、犯行現場と遺棄現場の間にある防犯カメラに写っていました」
 司会の羽鳥慎一「防犯カメラの映像分析は、それほど難しいものですか」
 神奈川県警元刑事の小川泰平氏(犯罪ジャーナリスト)はこう説明する。「肉眼による分析は難しいものでも、1年半ほど前に新たな分析装置が導入され、肉眼では判別不能な人相・風体や車のナンバーも識別できるようになりました」

 情報をもっときちんと整理すべきなのだが、このこと、「勝又容疑者逮捕の決め手となったのは、防犯カメラに撮影された彼の白いセダンタイプの車とパソコンに残っていた映像です」というのは正しいだろう。
 つまり、今回逮捕できたのは、実際には、誘導自覚とそれに拠るこの防犯カメラ映像だった。
 実は先に挙げた「北関東連続幼女誘拐殺人事件」だが、栃木小1女児殺害事件がそのリストの最後だったかについては疑問がある。「ゆかりちゃん誘拐事件」(参照)があるからだ。1996年、群馬県太田市のパチンコ店で当時4歳の横山ゆかりちゃんが行方不明になった事件である。未決である。生存しているなら今年で22歳になっているだろう(参照)。今回の事件との関連はないと思われる。
 ゆかりちゃん事件では防犯カメラが犯人を捕らえていた。
 防犯カメラの普及がおそらく「北関東連続幼女誘拐殺人事件」のような事件をしだいに抑制してきているのだろう。世間ではそれほど話題にならなったように思えたが群馬県と防犯カメラの関係で気になる事件があった。国立の骨董店主殺害事件である。防犯カメラによって群馬県まで追跡された。

 桜井正男、久美子両容疑者を特定する決め手になったのは、またしても防犯カメラの画像解析による追跡だった。発生直後から目撃情報が寄せられていた不審なワゴン車のナンバーから所有者を調べ、骨董品店の客と合致。逃走ルートを割り出し、群馬県みなかみ町内の自宅を突き止めた。
 目撃された不審なワゴン車の色はシルバーで、男がつぼなどを運び込み、女が同乗していたという情報もあった。警視庁立川署捜査本部が店周辺の防犯カメラの画像を解析し、ナンバーを読み取ることに成功。所有者の久美子容疑者が浮上し、桜井容疑者が客だったことも分かった。
 車の登録先は桜井容疑者らの自宅と別の住所だったが、Nシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)などからワゴン車が都内から関越自動車道を走行し、群馬県みなかみ町に向かったことが確認された。

 Nシステムがかなり強固なものになってきていることがわかる。
 そのことは市民社会の安定に寄与しているとも思える半面、私たちの市民社会像がほぼ情報統制されているような印象もある。

出自を巡る困惑
 栃木小1女児殺害事件に関連して最後にもう一点だけ触れておくと、容疑者が台湾出身であったことだ。読売新聞「勝又容疑者、フィギュア好き…母は台湾出身」(参照


 栃木県今市市(現・日光市)の女児殺害事件で逮捕された勝又拓哉容疑者の母親(55)の知人によると、勝又容疑者は1982年、台湾出身の両親の間に生まれた。
 近所の住民などによると、勝又容疑者は90年頃~2000年頃、当時の栃木県今市市に住んでいた。母親と再婚相手の日本人男性、勝又容疑者、きょうだいと暮らしていたという。有希ちゃんと同じ大沢小と大沢中に通っていたが、日本語がうまくなかったこともあり、1人でいることが多かった。小学校時代の同級生は「教室の隅でポツンとしていた」と話す。
 学校関係者によると、一時、台湾に帰っていたこともあったという。捜査関係者らによると、勝又容疑者は00年頃から鹿沼市で生活、09年に日本に帰化した。

 このことがこの事件とどのように関わっているかは現時点ではまるでわからないし、基本的に関係のないことにも思える。だが、ネットを見ている自分からすると、無意味な差別を煽り立てるネタにならなくてよかったような思いはあった。そう思う自分はなんだろうかとも考えた。
 
 

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2014.06.04

ファイナル・フレーバード・ウォーター

 なんだこの暑さは。なぜ北海道が沖縄より暑いんだ。というお天気は今日でいったん小休止するらしいです。でもま、梅雨が明ければ暑い夏がまたやってくるのではないかな。それとも冷夏?

cover
フレーバーウォーター
野菜、果物、ハーブで作る
 さて、暑いときに何を飲むか。いろいろ。いろいろですよねぇ。

 おしまい。

 だと話にならないので、「ファイナル・フレーバード・ウォーター」のご紹介。
 フレーバード・ウォーターというのは、英語で"flavored water"。「香りのついた水」ということです。ちょっとレモンの香りがするなとか。タイ料理のお店だと、ちょっとレモングラスの香りのする水とか、ジャスミンのとかもある。
 日本だと和製英語で「フレーバー・ウォーター」になる。あれです、"Iced coffee"が「アイス・コーヒー」になるノリです。ただ、英語圏でもべたに"Ice coffee"という例もあるみたいだけど。
 ほいで、水にほのかに香りがつけばいいので、いろんなもので香りを付けるわけです。英語だけど50種類くらい載っているサイトもある(参照)。
 日本でも最近は「フレーバー・ウォーター」がちょっとブームらしい。そして、ハーブとかナチュラル志向が多いみたい。
 それはそれでよいでしょう。
 でも……そうでなくてもいいじゃないですか。
 そこで、ファイナル・フレーバード・ウォーター。
 ハーブとかナチュラル志向ではありません。
 めっさ簡単です。
 説明しましょう。

用意するもの
  ドロップ(佐久間のがいいよ)
  空の500mlのペットボトル
  冷蔵庫
  水

作り方
 1. 空の500mlのペットボトルにドロップを1つ入れる。
 2. 1に水を入れる
 3. 冷蔵庫で1時間ほど冷やす
 4. ちょっと振ってから飲む

できあがり
 ドロップは1時間くらいで自然に溶けて見えなくなり、水にもほとんど色は付きません。
 サクマ製菓のドロップ(キャンディー)だと、昭和のフレーバーが楽しめます。
 甘みはあります。あるといえばあるなあくらい。
 カロリーも少しあります。佐久間製菓のミックスキャンディーだと100グラムで391kcal。ドロップ1個が3.9gなので、13.65kcal。
 ちなみに、栄養表示上「カロリーオフ」は100mlあたり20kcal以下なので該当。さらに、「カロリーゼロ」や「ノンカロリー」は100mlあたり5kcal未満なので、これもクリアします。なので、「カロリーゼロ」や「ノンカロリー」だぞと言ってもいいかも。

注意事項
 ドロップがペットボトルの口より大きいと困ります。そこは適当に工夫してください。

cover
サクマ
果実ミックスキャンディ
 ドロップはなん個入れてもいいけど、1個より多くいれたら「ファイナル・フレーバード・ウォーター」じゃないよとしたいです。
 炭酸水でもできますが、ドロップ入れるとき、若干メントスコーラふうになるので注意しましょう(参照)。
 ドロップがペットボトルの内側につっくいてうまく溶けないこともあるかもしれません。まあ、待ちましょう。

"Si je veux me préparer un verre d'eau sucrée, j'ai beau faire, je dois attendre que le sucre fonde. Ce petit fait est gros d'enseignements."(Henri-Louis Bergson )

「私がグラス一杯の砂糖水を用意したい場合、それを成し遂げるには、私は砂糖が溶けるまで待たなければならない。この些細なことから大切なことが学べる。」(アンリ=ルイ・ベルクソン)

 

追記(2014.6.6)
 ツイッターやコメントで、「それ、オードリー春日の「飴ジュース」と同じ、という」話を聞いて、逆にその「飴ジュース」というのが何かを伺ったのだけど、どうも水に飴を溶かすという点は同じらしけど、そちらのは、水1ℓに飴10個くらい入れて甘くするらしい。また、それは「ケチ芸」らしいのだけ、「ケチ」はまったく想定してなかった。
 ファイナル・フレーバー・ウォーターのポイントは、あくまでウォーターなので甘くさせないこと。ほとんど水なのにほんのり香りがある点がポイントなので、うーん、そのオードリーさんのとは似て非成る物だなあと思った。
 繰り返すけど、使うキャンディーは佐久間がよいですよ。
 
 

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