杉並区など東京郊外市図書館を中心に『アンネの日記』の関連本が多数破られるという不可解な「事件」があった。これが国際的な話題ともなり、2月21日には官房長官も記者会見で言及した。2月24日には、警視庁捜査一課が器物損壊事件として杉並署に捜査本部を設置した。
実に不可解な事件だったが、3月7日、ジュンク堂書店池袋本店で「アシスタントとゴーストライターは違います」という手書きのビラを貼りつける男を逮捕したところ、この男がアンネ関連の書籍を破ったことを自供した。が、この男は心神喪失ではないかということで、その後の報道はひとまず沈静化していた。
そして今日、この男が不起訴処分になると報道された。精神鑑定が実施され、心神喪失の状態だったと判断されためである。一例として、NHKニュースはこう伝えていた。「アンネの日記 破損で逮捕の男は心神喪失 不起訴へ(6月19日 11時51分)」(参照)
この事件は、東京都内の図書館や大型書店で「アンネの日記」などの本300冊余りが破られているのが見つかったもので、東京・小平市の36歳の無職の男が、杉並区の2つの図書館で合わせて40冊余りを破ったなどとして、器物損壊などの疑いで警視庁に逮捕されました。
これまでの調べに対し男は、一連の事件への関与を認めていましたが、動機について意味の分からないことを話したことなどから、東京地方検察庁はことし4月から2か月間にわたって専門家による精神鑑定を行い刑事責任を問えるかどうか調べていました。
関係者によりますと、鑑定の結果、男は事件当時、心神喪失の状態だったと判断されたということです。
これを受けて東京地検は、男の刑事責任は問えないとして近く不起訴にするものとみられます。
ひとまず、この「事件」は終了したと言ってよいだろうとも思われるが、多少腑に落ちないところがあるので、「事件」の経緯を振り返って少し言及しておきたい。
まず、この「事件」はいつ発生したのだろうか?
どの報道社が初報道したのかという切り口で見ていく。残念ながら、ネット側からははっきりとはわからないが、時刻を比較するととりあえず共同通信であるようには想像される。いずれにせよ、初報道に近い報道形態はそこから読み取れるだろう。「アンネの日記、相次ぎ破られる 都内31館で265冊(2014/2/21 13:19)」(
参照)より。
東京都内の公立図書館が所蔵する「アンネの日記」や関連書籍が、ページを破られるなどの破損被害に遭っていることが21日までに分かった。被害は、杉並区や中野区など少なくとも5つの区の31館で計265冊に上る。
23区の区立図書館で構成する特別区図書館長会が1月以降に被害報告が相次いだことを受け、取りまとめた。
誰が何の目的で行ったかは不明。中野区立中央図書館は警視庁中野署に被害届を提出し、同署は2月上旬に受理した。
被害冊数が一番多いのは杉並区立の図書館で、計119冊。練馬区内の図書館では、児童書計20冊のほか、アンネの研究本、ホロコーストに関する本などが被害に遭った。豊島区では、開架書庫にあった本が、カッターのようなもので何ページも切り裂かれていた。
23区以外では、東久留米市、西東京市で同様の被害が確認されている。
「アンネの日記」は、ナチスの迫害から逃れ、ドイツ占領下のアムステルダムに家族と隠れ住んだユダヤ人少女アンネ・フランクがつづった日記。2009年、世界記憶遺産に登録されている。〔共同〕
この共同通信報道からわかることとして、この「事件」がメディアに乗る形で報道されたのは、「21日までに分かった」ということから、2月21日と見てよいだろうということだ。
共同報だけはなかったことは、毎日新聞でも同日報道があることからわかる。「アンネの日記:関連本破損、東京の3市5区で294冊被害(2014年02月21日20時57分)」(
参照・リンク切れ)より。
東京都内の公立図書館で世界的ベストセラー「アンネの日記」と関連図書が相次いで破られた問題で、21日現在の被害は都西部の3市5区で計294冊に上ることが分かった。各自治体は器物損壊容疑などの被害届を警視庁に提出した。
同日の時間差からすると、共同報を受けて毎日新聞も動いたという形にも思われるが、いずれせよ、初報道の由来は、2月21日という日付以外にはわからない。
なぜ、2月21日なのだろうか?
その理由の推測は後で触れるとして、情報の原点となった杉並区図書館もこの日にアナウンスしていることに注目したい。同サイト「「アンネの日記」等の破損被害について(2月21日掲出、3月7日内容更新)」(
参照)より。
練馬区立図書館では、平成26年1月下旬に「アンネの日記」を借りようとした利用者から、本が破られているとのお届けがあったことから、区内12館の状況を確認したところ、現在までに9館で32タイトル44冊が破られていることがわかりました。被害状況等は下表および破損資料タイトル一覧(PDFファイル)のとおりです。
図書館では、管轄の警察署に被害届を出すとともに、破損された図書の購入を進めています。
練馬区図書館の2月21日のアナウンスからわかることは、(1)それが2月21日であること、(2)警察への被害届はこの時点ではまだであるかのように読めること、(3)発見されたのが1月下旬の利用者からの報告であったこと、である。
個人的に気になるのは、私も公共図書館を利用するとき、破損ページや書き込みがあると係員にいちいち報告しているのだが、こうした組織的な対応はされたことがない。その点から、どのように練馬区図書館で組織的な点検に結びついたのかは興味がある。この興味には後で触れる関連もある。
また、この杉並区のアナウンスでは、「32タイトル44冊が破られている」とのことだが、これが「アンネの日記」がキーワードであるかにはついては明示的に書かれてはいない。
今回の「事件」が事件性を持つのは、他区への広がりが見られたことだ。広がりについての例として、杉並区でも2月25日時点でアナウンスがあった。「アンネ・フランク関連書籍の破損被害について」(
参照)より。
杉並区では平成26年2月3日に隣接する練馬区からの連絡をうけ、アンネ・フランク関連書籍を調べたところ、平成26年2月6日に中央図書館において当該書籍が切り裂かれているのを発見しました。その後さらに調査を進めたところ地域館を含め11館において、現在までに合計121冊の書籍に同様の被害が確認されました。図書館では管轄の警察署に被害届を提出するとともに、2月21日に調査結果について公表しました。なお、破損された図書については速やかに購入を行っていきます。
ここからわかることは、練馬区は2月3日に杉並区から連絡を受けて調査があり、同様の発見があったということである。逆に言えば、この視点から調査のない時点ではわかっていなかったとも言える。
また、練馬区も2月21日に結果を公表していることからすると、この日がやはり事実上メディアの初報道であることがわかる。この日に杉並区と練馬区で共通する行動があった。さらに文面からは練馬区での警察署への被害届は2月21日から2月25日であるとも思われるが、そこは後述するようにそうではないらしい。
練馬区のアナウンスには言及されていないが、先の毎日新聞報道では、2月の「6日に「特別区図書館長会」から注意喚起があり」とあるので、この特別区図書館長会が事実上の、図書館界での共通意識の原点ではあるのだろう。なお、この「特別区図書館長会」という組織は、よくわからないが、23区の区立図書館の連絡会のようなものだろうか。
2月21日という報道の起源だが、この「特別区図書館長会」のようだ。2月21日のスポニチ「都内の公立図書館「アンネの日記」265冊が切り裂きなど被害」(
参照)ではこう言及されている。
東京都内の公立図書館が所蔵する「アンネの日記」や関連書籍が、ページを破られるなどの破損被害に遭っていることが21日までに分かった。被害は、杉並区や中野区など少なくとも五つの区の31館で計265冊に上る。23区の区立図書館で構成する特別区図書館長会が取りまとめた。
ようするに、「特別区図書館長会」が2月21日に情報発信をしたというだ。
またこの時点ですでに、「アンネの日記」や関連書籍が焦点化されていた。なお、同記事に「ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は20日、「衝撃と深い懸念」を表明した。」とあるがこれは時差によるものだろう。
スポニチ記事で興味深いのは、杉並区図書館による警察への被害届日が報道されていることだ。
杉並区内では3日、他の図書館から情報が寄せられたときは被害が確認できなかったが、6日にあらためて調べると、大量の関連本が引き裂かれていたという。12日に警視庁杉並署に被害届を提出した。
杉並区では12日の時点で杉並署に被害届を出し、中野区も「上旬」に被害届が出されている。この時点、2月の中旬までには、警察も事態を知ってはいたと思われる。が、杉並署や中野署というように分断されて共通の認識はなかったのかもしれない。
時系列の整理から興味深いのは、今回不起訴となった男の行動である。逮捕の関連する初報道を振り返ってみよう。3月13日の毎日新聞「アンネの日記:30代男が破損関与供述 建造物侵入で逮捕」(
参照・リンク切れ)より。
東京都内の公立図書館などで「アンネの日記」や関連書籍が相次いで破られた事件に絡み、被害に遭った豊島区の大型書店に不法に侵入したとして、警視庁捜査1課が30代の無職の男を建造物侵入容疑で逮捕していたことが捜査関係者への取材で分かった。男は図書館でアンネ関連の書籍を破ったことについてもほのめかす供述をしているという。ただ、供述にはあいまいな点もあることから男の関与について刑事責任能力も含め慎重に調べている。
捜査関係者によると、男は2月19日と22日、豊島区南池袋2の「ジュンク堂書店池袋本店」にビラを張る目的で立ち入った容疑で、今月7日逮捕された。同課の調べに容疑を認めているという。ビラには「アシスタントとゴーストライターは違います」などと意味不明の文言が手書きされ、思想的な背景はうかがえないという。
同書店では2月21日、3階の売り場で「アンネの日記」2冊が破られているのを店員が発見したが、男は同日にも書店を訪れていたことが確認された。この店では1月にも関連本数冊が破られていた。
都内では昨年2月以降、杉並区▽中野区▽武蔵野市--など計5区3市の公立図書館38カ所で計311冊の被害が確認された。うち最多の杉並区では11の図書館で121冊が破られた。大半の図書館は今年1月下旬~2月中旬に被害が発覚。手でちぎったように扇形に破られる場合が多いが、カッターナイフのような刃物で切り取られたものもあった。
この男が逮捕されたのは3月7日だが、その理由は、2月19日と22日にジュンク堂書店池袋本店にビラを張る目的で立ち入ったことであり、また、21日にもこの男が来店したおりにも、「アンネの日記」2冊が破られているのが発見されている。さらに遡って、「1月にも関連本数冊が破られていた」とのことだ。同書店側も警戒してたのだろう。
警察届出を2月中旬までに済ませた各図書館による「特別区図書館長会」が問題の発表をしたのは、2月21日である。
するとこの時点で、警察は、同書店や同会の情報に合わせて、この男をマークしていただろうと推測するのは自然だろう。
ここからすこし踏み込んだ推測になるのだが、この時点で、警察としてはこの男について注視する過程から、その心神喪失の状態の目星を付けていただろうと思われる。
もちろん、そのことを断定することは手続き上到底できないし、その間、この話題が国際ニュースに伝搬することに追加する情報とはなりえなかっただろう。
さて、こうした文脈からはこの男が「事件」と関連付けられているが、実際の「事件」がなんであったかは、実は依然よくわかっていない。
ごく簡単に言えば、多数発覚された破損本がすべてのこの男の心神喪失の結果であると見なすことは難しいだろう。報道では横浜市西区の市中央図書館でも被害があったが、この男によるものだろうか。
2月21日の毎日新聞報道では、関連して次のような言及があった。
豊島区では昨年2月と5月に計7冊の破損を発見。今年1月下旬以降に、新たに5冊の破損が見つかった。西東京市では先月22日に図書館利用者からの指摘で破損が発覚した。
今回不起訴処分となった男が昨年から地味に活動していたとも考えられるが、私などもよく毀損本をよく見かけることから考えると、一定数、公共図書館での本の毀損は継続していただろう。また、今回の不起訴処分の男がそうであったように毀損されやすい種類の書籍も存在するのだろう。
現時点で振り返ってもっとも興味深いのは、2月23日時点で書かれたオタポロサイトの「“中二病”の犯行ではない!? 被害は30年以上前から…図書館関係者が口に出せない『アンネの日記』破損事件の背景」(
参照)である。
一挙に国際問題にまで加速しつつある、この事件。ところが、当の図書館関係者からは「過剰反応では?」と戸惑いの声が挙がっている。本サイトの取材に応じた、都内の図書館関係者は語る。
「『アンネの日記』が、破損される事件は今に始まったことではありません。私が図書館に就職した1980年代には、そういったことはよく起こると、関係者の間では話されていました」
この関係者によれば『アンネの日記』とヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』は、図書館関係者の間では、昔から破られる被害の多い本だという。
「やはり、“ナチズム”や“ホロコースト”は特定の精神的構造を持った人を引きつける要素が強いんじゃないかと思います。私も過去に、図書館内でホロコースト関連の本を破っている人を見つけたことがありますが、その人物は刑事事件の責任能力がない人でした」
詰まるところ、精神医学的に“コダワリ”の強い人の犯行なのではと、図書館関係者は経験則から指摘をする。だからこそ、この事件にはコメントし辛い。その結果、すわ国際問題かというような妙な状況になってしまっているのである。
ちなみに、同様の図書館関係者しか知らない「あるある」はほかにもある。なぜか、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、毎年補充しなければならないほど、盗まれることの多い本なのだとか。
結果的に、この考察がその時点でもっとも優れていたと言えるが、それでも、「都内の図書館関係者」のおそらく一名からの話なので、残念がら、弱い見解と見られてもしかたのない面があった。
今回の「事件」が事件性を濃くした点については、容疑者逮捕後の3月23日であるが、京都大学大学院教育学研究科准教授・佐藤卓己氏が「画一的なアンネ本破損報道」(
参照)としてこうも主張していた。
2月に東京都内の図書館などで「アンネの日記」関連本が破られる被害が相次いでいることがわかったとき、たいていの人が同様の印象を持ったようだ。図書の破損はそれが何であれ厳しく追及されるべき犯罪だが「アンネの日記」は特別だ。ホロコースト犠牲者が残した記録を破損する行為はネオナチなど差別主義者の犯行にちがいない、と。
実際、中国や韓国のメディアは「日本の右傾化が背景」と報じ、2月27日付産経「主張」もこう指摘した。「欧米ではとりわけ、今回の行為は反ユダヤ主義的なものではないかともみられ、日本のイメージを損ないかねない」
被害にあった書店に不法侵入したとして建造物侵入容疑で30代の無職男が逮捕されたのは、今月7日である。つまり、犯人像も動機も不明な段階から、この事件は政治的に枠付けされていた。
「言動に不安定な部分もみられることから捜査1課は刑事責任能力の有無を含めて慎重に捜査している」(産経13日付夕刊)というが、既に報道されたステレオタイプから全く自由に報じることは至難だろう。状況の定義が、状況そのものを確定するからである。
今回の事件が国際的な大事件になってしまったのは、同氏の指摘するような文脈があったとしてよいだろうが、残された課題は、「既に報道されたステレオタイプから全く自由に報じることは至難だろう。状況の定義が、状況そのものを確定するからである」という点だろう。
ジャーナリズムはどうあるべきだっただろうか?
おそらくこの「事件」ついては、「発表」数日後のオタポロサイトの見解のような考察を、ジャーナリズムがより広域に行うべきだった。
図書館関係者や公共図書館をよく利用する人の証言を集めれば、今回の事件の陰影はかなり異なったものになっていた可能性がある。
ただし、大きな話題性のある「事件」を求める要求に答えた形で報道が形成されがちなのも、やはりしかたのないことかもしれない。
ブログとしては、以前に触れた話題でもあるし(
参照)、このままなんとなく立ち消えにするより、そのあたりのことを触れておきたいほうがよいだろうと思って、以上書いてみた。少なくとも今回の「事件」は、日本に反ユダヤ主義が存在する事例とは異なったものであることは、確認できるようにしておきたいとも思った。もちろんこのことは、日本に反ユダヤ主義が存在しないという意味ではまったくない。今後、発生するかもしれない。