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2014.05.20

パソコン遠隔操作事件、雑感

 パソコン遠隔操作事件で、威力業務妨害罪の公判中・保釈の片山祐輔被告が、関連する10件の事件について関与を認めた。
 事件の全貌が解明されたわけではないが、概ねこの事件については大きく一区切り付いたと言っていいだろう。ネットから見るこの問題の焦点は、片山祐輔被告が無罪ではないかということだった。
 この事件については片山被告が逮捕される以前に一度触れたことがあるが、その後の言及を私は控えていた。彼が無罪であるとも有罪であるとも確信が持てないでいたからだった。
 ネットを通して見る論調には、検察暴走による冤罪だという意見が多かったように思う。私はそれにも与しなかった。
 私は、このブログで2003年時点で、東電OL殺人事件で逮捕されたネパール人は冤罪であると主張したことがある(参照)。これはその後冤罪となった。私の見立てが正しかったが、そのことを再度主張するのは拙いように思えた。また私は、和歌山毒物カレー事件や筋弛緩剤事件についても冤罪であるとの主張をブログに書いた。東大阪集団暴行殺人事件については、冤罪ではないが量刑が正しいとは思えないという主張を書いた。
 こうした事件では、自分のなかにそれなりに確たる心証があったからだ。
 だが、このパソコン遠隔操作事件については、そうした冤罪の心証がついに得られなかった。そのあたりから雑感を書いてみたい。
 この事件が発生したころ、この事件の犯人のプロファイルをメディアに書いたことがある。それなりに理由を挙げて、犯人は情報技術者としては上級とは言いがたいと結論した。だが、そのプロファイル部分は編集サイドからチェックが入り公開しなかった。私としては特段言論の自由が妨害されたとは思わなかった。編集側が慎重な態度を取っているのがわかったし、異論もあるだろうと思った。ブログのほうでさりげなく言及した。
 そのおり自分のプロファイルした犯人像があり、それがこの事件を見るときの一つの定点になった。
 簡単に言うと、そのプロファイルから片山被告が反れるということはなかった。
 メディアから得られる情報からは、検察の対応のまずさが目立ったように思われた。
 私はといえばまず片山被告が語るところを動画で見てみたいと思っていた。スチルの画像では作り手の思惑がかなり入るが、動画だと、それよりその人の心証が得られるのではないかと思っていた。熱心に無罪を主張するにも、また隕石に当たったふうに困惑しているにせよ、そこになんらかの人格的な統合性を見て、そこからの片山被告の人間像を一人格として理解したいと思っていた。
 彼が釈放された後、その様子はネットで見ることができた。結果は困惑だった。
 一見すると彼はこの事件にまったく関わりがないかのように見えた。その無関与さが心に引っかかった。
 これはあまりよくないバイアスなのだが、彼には前科がある。私は彼の前科についてそれなりに調べていたので、その前科という経験をどのように彼が現在の人格に統合しているかが気になっていた。
 だが、それが、釈放後の映像から見える無関与さとうまく一人の人格像を結ばないのである。
 単純な人間なら過去を反省し、現在をそれと結びつけられないように自我を防衛するような意識の核を持つはずである。それがなかった。
 私が見た印象では、彼は前科についても無関与の態度を取っていて、それのありかたは、問われている事件の無関与と重なった。
 私の理解としては、これは一種の人格障害か、あるいは、この事件についての認識が前科と重なっているからだろう、ということだった。さらに言えば、ここに出現しているのは、キリスト教的な意味でのある種の「悪」というものではないかと疑念を感じた。もう少し率直に私の印象を言えば、その「悪」の可能性にぞっとした。
 もちろん、そのようにブログに書くのも拙いし、前科などそもそも忘れられる権利として守られるべきものなので、不当な物言いだと思う。こうして後出しのように言うもあまりよいことではない。ただ、私という市民が、その人生の内観からこうした事態をどう見ているかという事例として述べてみたい。
 関連してもう一点ある。
 この無関与さというのは、ある種、解離性障害に近い。そうした特性から言えば私にもよく当て嵌まることである。
 簡単に言えば、このタイプの人間にとっては、世界や他者の実在感が、普通の人より希薄であり、平素はそれほど意味をなしていない。
 では、どうなるかというと、その意味の希薄を補うために、多様なシナリオを世界に対して想定するようになる。世界で発生している無意味で乱雑な事象、理の通らない他者というものに、筋書きのあるシナリオを与えようとする傾向が生まれる。これは強迫でもある。
 今回の事件で、犯人はいろいろメッセージを送ってきたが、この関与の執拗さは、ある種の解離性障害に近い人格が持つシナリオ形成と同じ雰囲気が感じ取れた。
 さらに言えば、犯人はそのシナリオ形成にある種の強迫を持っていると、このタイプの人間である私には感じ取れた。
 そもそもこの犯罪の全体構造が、そうした強迫の実現だとすら思えた。
 この点では、私によるプロファイルに統一性があり、それが動画で見る被告と齟齬がなかった。彼が犯人である可能性は否定できなかったし、冤罪とも思えなかった。
 私はさらにこう考えていた。シナリオ性の強迫が、片山被告が勾留されてからぴたりと止んだのはなぜだろうか、と。
 もちろん、そこには、彼が犯人だろうという推測が混じらざるを得ない。しかし、もう少し重要なのは、犯人はかならずやこのシナリオ性の強迫に従って、次の行動を起こす日があるだろうと確信していた。それが16日の「小保方銃蔵」メールだった。そしてそれは私の目には、シナリオ性の強迫としては予想していたものだった。
 私の推測はここまでである。
 片山被告が真犯人であるという推測は行き詰まった。私にはそれ以上はわからなかった。ただ、この事件、片山被告が真犯人でなければ日本の検察は終わりだろうな。それはそれで大変な事態だとは思っていた。
 現時点で蓋を開けて、ゾッとしたことがある。「片山被告が真犯人」という報道ではない。捜査の側が、どうやら私が推測したような、シナリオ性の強迫を、捜査シナリオに組んでいたように見えることだ。ごく簡単にいえば、捜査側は犯人が次の物語に挑んでくることを想定していたし、それをアクティブに捜査シナリオとして組み込んでいたのだろうということだ。刑事コロンボの物語みたいに。
 顕著なのは、今回の事態につながる河川敷に埋められた携帯電話である。時系列に見るとそうした疑問が沸く。東京新聞「片山被告 携帯からDNA型検出 地検、保釈取り消し請求」(参照)より。


 捜査関係者によると、東京都内の河川敷で十五日夕、片山被告が何かを埋めているのを被告の行動確認をしていた警視庁の捜査員が目撃。被告が東京地裁の公判に出廷中の翌日午前十一時四十分ごろに「真犯人」を名乗るメールが関係者に届いたことを受け、同日夕に地中を掘り起こしてビニール袋に入ったスマートフォンを見つけた。メールが届いた相手に、同じ文面のメールを同時刻に送信していたことも確認した。東京地検は、片山被告がタイマー機能を使い、公判中にメールを送るようセットした疑いがあるとみている。

 時系列で見ると。

 15日 片山被告が何かを埋めているのを捜査で確認したものの、捜査はそれに触れていない。
 16日午前 被告が東京地裁の公判に出廷中に「真犯人」メールが発生。
 16日午後 埋められていたものとしてスマートフォンを発掘。

 普通に考えれば、保釈中も四六時中監視していたのは怖いものだなという理解になるかと思う。私はそうは思えなかった。そう思えなかったというのは、四六時中監視のことではない。怖いというのも、その監視そのものではない。
 片山被告は自分が保釈後に自分が監視されていたことは十分注意を払っていたに違いない。
 検察シナリオはそのガードをどのように解くかが重要だったはずだ。
 ネットでは片山被告がスマホを埋めた件について、うかつで稚拙な行為だとしている指摘があるが、逆だろう。そう行動が取れるくらいの緩い監視に見せかけて、シナリオ性の強迫を誘導したと見るほうが合理的だろう。スマホの入手やその「真犯人メール」のための情報整理活動など、捜査がノーガードだったとは到底思えない。
 捜査側が、刑事コロンボの物語のように、被告に新しい犯罪を起こさせたというほどではないが、被告に決定的なアクションを取らせるように仕向けていたとは言えるだろう。
 そのことにもぞっとした。
 もちろん以上のような私の考えを妄想だという指摘はあるだろうし、まあ、また罵倒コメントとかいろいろくらうんじゃないかと思うが、それでも書いておきたいと思ったのは、この事件の市民社会での特性による。
 頭を冷やしてみれば誰でもわかるが、これを大事件にしたのは警察・検察である。そもそも遠隔操作に陥れられた人を威圧的に殊更に取り上げて見せしめにせよとしたのは当局である。もちろん、メールの脅迫文など無視すればよいさとは言えないのは、昨今のストーカー殺人などからもわかるので、簡単に対処できることではないとしても。
 そしてその警察・検察の失態は明確になった。
 それがさらに当局側は意固地になってこの事件をあたかも大事件に見せかけた。ブラフによるレイズは高くなり、この顛末が、片山被告無罪であれば、日本の警察・検察は終了したことだろう。
 だが、私には、その後のネットでの展開は別の意味で大事件に思えた。
 多くの人がこの事件を、さらなる警察・検察の大失態とし、あまつさえ冤罪だと見ていくようになった。そう見る人の多くは、むしろ善意の篤い市民である。市民社会がよくなるように、警察・検察が市民を冤罪に巻き込むことがないようにという思いがそこには愕然とある。だが、この事件はその思いをまんまとあざむいた。私がこの事件にキリスト教的な意味での「悪」を見るのは、善なるものを誘惑して貶める悪意の実在を感じ取ったからだ。
 冤罪は恐るべきことであるが、知性を伴った「悪」の顕在もまた恐ろしいものだ。それに向き合ったとき、一人の市民の日常生活の経験はどう反応するのか、自分はこうであったというのを記しておきたいと思ったのである。
 
 

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