パソコン遠隔操作事件、その後の雑感
世間的にはパソコン遠隔操作事件はあっという間に終わってしまったのかもしれない。だが、この数日間、関連して私の心には奇妙に沈んだものがあった。でもなあ、また、いやなコメント貰うくらいなら黙っていてもいいのだけど、とも思う。でも、やはり少し書いておこうかとも思う。うーん。書いてみよう。
その話の前に、関連はあるけど、直接的に関係した話ではないことに少し触れておきたい。佐藤博史弁護士の会見報道(参照)で思ったことだ。この部分である。
《あふれる涙をこらえる姿を見せると、会見場に詰めかけたカメラマンは一斉にシャッターを切った》
佐藤弁護士「ただ、これから私たちの仕事は胸を張ってというものではないですが、これ(弁護人に嘘をついていた片山被告の弁護)も仕事と割り切っている」
《佐藤弁護士は、カトリック教会における「悪魔の代理人」という言葉を引き合いに出した》
佐藤弁護士「宗教裁判で悪魔として裁かれる人を弁護することが語源ではないかと思っている。刑事弁護人の生き方を表す言葉で、刑事弁護人は悪魔を弁護する覚悟がないとできない。これから私が本物かどうか試される」
《佐藤弁護士はこう述べて、今後も片山被告の弁護人を続けることに強い意志を示した。記者からの質問が始まる》
この報道を見たとき、あれ?と思った。誰か突っ込みを入れた人はいないかなとネットを探したが、私には見当たらなかった。
あれ?と思ったのは、「悪魔の代理人」という用語である。私もこの用語を、「悪魔の代弁者」ということでブログで使ったことがある(参照)。そこでは「かわいい悪魔の代弁者」である。
英語では"Devil's advocate(デビルズ・アドヴォケット)"という。訳語としては、私が使ったように「悪魔の代弁者」が普通ではないかと思う。あるいは、もしかすると佐藤弁護士の言う「悪魔の代理人」は"Devil's advocate"とは別のことかもしれないが。
もしかして……とウィキペディアを見たら簡素に「悪魔の代弁者」の項目があった(参照)。ので引用する。
悪魔の代弁者(あくまのだいべんしゃ、英語:devil's advocate、ラテン語:advocatus diaboli)[1]は、ディベートなどで多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割。悪魔の代言者[要出典]、悪魔の代言人[要出典]などとも呼ばれる。ディベートのテクニックのひとつである。同調を求める圧力などで批判・反論しにくい空気があると、議論はうまく機能しなくなり、健全な思考ができなくなることが往々にしてある。それを防ぐ方法として、自由に批判・反論できる人物を設定することがある。三省堂「新グローバル英和辞典」電子版devilではdevil's advocateの意味が「列聖調査審問検事」「(議論のために)わざと本心と反対の意見を述べる人」となっている。
語源は、かつてカトリック教会において設けられていた、列聖や列福の審議の際にあえて候補者の至らぬ点や聖人・福者たる証拠としての奇跡の疑わしさなどを指摘する職の名称。人間の悪徳を神に告げる天使としてのサタンの側面にちなむ。1983年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって廃止された。
間違った記述ではないように思う。なお英語版の同項目にはもう少し別の情報もある。
で、この用語解説から佐藤弁護士の理解を見ると、あれ?違っているなあと思ったのである。彼は、「宗教裁判で悪魔として裁かれる人を弁護することが語源ではないかと思っている」としているが、そうではなく、むしろ聖人を吟味するのが「悪魔の代弁者」のお仕事である。
この事件では、私は、本来の意味での「悪魔の代弁者」を考えていた。
私から見るネットの論調の多くは、警察・検察が悪であり被告を冤罪であるとした主張が多く見られたが、私の「悪魔の代弁者」は、「いや、彼が真犯人ではないのか?」と呟き続けていたからだ。
ただ、それを言わなかったのは、私が「悪魔の代弁者」になると、私がネットでは悪魔にされて、私の魔女裁判のようになるのが怖かったせいもある。
今のネットの空気では、「悪魔の代弁者」が悪魔とされて、魔女裁判のように吊し上げられるようなるからなあと、感じている。
ところで、当の話だが、被告が犯人であると自白し、大方そのように空気が変わったとき、私は二つのことを思った。一つは、私は「かわいい悪魔の代弁者」にはなりえても、きちんと社会のために「悪魔の代弁者」になるだけのキンタマはねーよなということである。
もう一つは、被告に対して、「うげぇ、こいつ気持ちわり-」ということである。嫌悪感である。この嫌悪感は、被告の初犯にも感じていたのだが、ここに来てそれが倍増した。
と、書いて、実は、キンタマちいさい私は、「うげぇ、こいつ気持ちわり-」とかブログに書いていいんだろうか、と少し戸惑っているのである。まあ、そういう言い方が、お下品なのはわかっているくらいのハミキンは出しているのだけど。ちゃお。
実は、冒頭書いた、心に沈んだことというのは、その二つ目の、この奇妙な嫌悪感だった。
「こいつキモくね?」って思う嫌悪感である。
それはどういうことなのか?
私なりの、これについての考えは二つある。一つは、そういう嫌悪感を露骨に社会に出してもそれほど意味はないなということ。つまり、嫌悪感を表明してもこの件に関連して市民社会に利することはあまりなさそうだなということ。
もう一つは、いや、自分がいだく嫌悪感というのは、むしろ正常なんじゃないか?という疑問である。
で……仮に。
もしそれが正常なら、逆に嫌悪感を抱いてなさげな表明をしている人のほうがどっかおかしいんじゃないか、ってことはないだろうか?
嫌悪感がない人が異常だという意味では全然ない。嫌悪感を無意識に抑圧しているんじゃないだろうか、ということだ。抑圧するのはなんかその人の自我にとって都合悪いんだろうということだ。
もちろん、そのあたり、私の嫌悪感が違うのかもしれないなとも思う。
というか、私の「かわいい悪魔の代弁者」は、「おめーが変」と言っているような気もしないではない。まあまあ。
具体的に、この件で、他人の感覚はどうだろうかとネットを見回してみた。
この事件の裁判を丹念にフォローしていたジャーナリストの江川紹子は、今日付けの記事で関連してこう書いていた(参照)。彼女は、この被告にどういう思いを今抱いているのだろうか? どこかに、私が抱いたような嫌悪感があるだろうか?
弁護人の説明によれば、片山被告は事件を起こす経緯について、「軽い気持ちでやってみたら、できちゃった」ということらしい。ここまでは分かった気になってみるとしても、逮捕後に実に巧妙なウソや演技を重ねて、弁護人や世間を欺き続けた心理は、私にはどうしても理解ができない。
弁護団は、片山被告の無実を信じて、実に献身的な弁護活動を行っていた。主任弁護人は、片山被告の母親を元気づけようと、2人を事務所旅行に招待した。そういう人たちを欺くことに、彼はなんら心の痛みを感じていなかったようだ。あたかも、そのような痛みを感じる回路のどこか大事な部分が、すっぽり抜け落ちているように思える。自身の行為によって誤認逮捕され、虚偽の自白にまで追い込まれた人たちの苦しみに対しても、リアルに想像することができないでいるのだろう。
5月22日の公判で、片山被告は従来の無罪主張を取り下げ、新たに全面的に起訴事実を認めた後、弁護人の問いに答える形で、自分が欺いた人たちや巻き込まれて誤認逮捕された被害者に対しても謝罪した。しかし、頭では「悪い」と分かっていても、心でそれをどこまで感じているか、疑問だ。そもそも、そんなにすぐに反省できるようであれば、ここまでウソを重ねることはできなかっただろう。弁護団の献身を裏切っていることを、心苦しく思っていたに違いない。
そこには、彼女自身の疑問はあるが、それは誰に向けた疑問か不定形だし、実質佐藤弁護士に近い思いを寄せていたように見える彼女は、いくばくかは被告に騙されていたとはずだが、そこはどうなんだろうか?
しかし、彼女には、そこで嫌悪感はなさそうに見える。
そしてこう、現時点では、お話が結ばれている。
そういう彼の内面に光を当てていかないと、なぜ彼が事件を起こし、人を欺き、稚拙で愚かな“真犯人メール”の工作まで行うに至ったのか、その全体像は解明できない。彼は有罪判決を受けて服役することになるだろうが、いずれは社会に戻ってくる。心の問題が解決しないままでは、社会にうまく馴染めず、また問題を引き起こす可能性もある。多少の時間がかかったとしても、彼が今回のような愚かな行為をせず、無罪を主張し続けていたことを考えれば、有益なことに時間をかけるのは無駄ではない。発達障害も含めた心理、もしくは精神医学の専門家の助けを借りて、彼の心の状態を明らかにしていくことが必要だと思う。
「そういう彼の内面に光を当てていかないと」、という内面の一端は、彼の現在でも見られる現実感のなさということだが、その点については、私は以前に触れた。
私が気になるのは、「彼の心の状態を明らかにしていくことが必要だと思う」として、この問題を、自分から切り離して、まるで物理的な世界を観察のように見ていることだ。
私にも彼女に似た観察眼もあるが、同時に、このなんとも言えない嫌悪感という、私の問題として、まず受け止めている。
率直にいうと、この問題は、市民社会がもっとこの「嫌悪感」というものに向き合うべきなんじゃないだろうか?と疑問に思っている。
この事件の被告について言えば、最初の遠隔操作が、どっちかというと運良く行きすぎて増長してしまったということがあるが、プログラミング能力もなく、悪を成すには運が悪いが、それでもこの被告のように、平気で人を騙す人々というのは、市民社会のなかに一定数存在する。
平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) |
もちろん、市民社会で市民が他の市民に接するとき、そうした個人的な嫌悪感を表明するかどうかは個人の自由だし、どちらかといえば、そういうものは表出しないほうがよいと思う。キンタマは小さくして生きた方がいいとは思う。
それでも、平気で嘘をつく一群の人々には、私たちの生活感覚は正常に嫌悪感を促すものだろうとも思う。
私は以前に読んだ『平気でうそをつく人々』(参照)の次のくだりを思い出す。
健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。相手の邪悪性があからさまなものであるときには、この嫌悪感は即時に生じるものである。相手の邪悪性がより隠微なものである場合には、この嫌悪感は、相手との関係が深まるにしたがって徐々に強まってくる。
嫌悪感というのは、おぞましいものを避け、それから逃げ出したいという気持ちを即時に起こさせる強力な感情である。そしてこれは、邪悪なものに相対したときに、健全な人間が通常の行動を起こすための、つまり、そこから逃げ出すための、最も有効な判断手段となるものである。人間の悪は、それが危険なものであるがゆえにおぞましいものである。邪悪なものは、長期にわたってその影響下に置かれている人間を汚染し、または破滅させるものである。自分のしようとしていることを十分に理解している場合は別として、邪悪なものに出会ったときにとるべき最良の道は、それを避けることである。
平気で嘘がつける邪悪な人間を知ったとき、私たちの生活感覚が嫌悪感を抱くのは、著者によればむしろ自然なことであるとしている。
では、なぜ、それを抑圧しているかに見える人がいるのだろうか?
抑圧によって、それを避けるという心理機構かもしれない。だが、それは実際には抱え込んでいる嫌悪感に対する欺瞞ともなり、その欺瞞を正当化するために、さらに抑圧を続けることになるのではないだろうか。
著者は邪悪な人間に向き合ったときのもう一つの反応についても触れている。
いまひとつ、邪悪なものに相対したときのわれわれに生じる反応がある。それは混乱である。ある女性は、邪悪な人間に出会ったときの自分に生じた混乱を、「突然、自分が考える能力を失ったかのようだった」と書いている。この場合もはやり、その反応はきわめて適切なものである。うそというものは混乱を引き起こすものである。邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。患者に相対したとき混乱を感じた施療者は、まずはじめに、この混乱は自分の無知からくるものではないかと疑うべきである。しかし、それと同時に、こう自問すべきである。「この患者は、私を混乱させるようなことをしているののではないだろうか」
著者は述べていないが、自分のなかに生じた嫌悪感のあり方・行き方が混乱をもたらすのではないだろうか。
そうであれば、まず、きちんと自分が抱えた嫌悪感に向き合うことが、こうした問題の大前提ではないだろうか。
著者は、邪悪な人々は自己嫌悪の欠如を見ている。
このように自己嫌悪の欠如、自分自身にたいする不快感の欠如が、私が邪悪とよんでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪であると考えられるが、だとするならば、その原因は何であろうか。
その一つに著者は自己愛を挙げている。
ちょっと強引な教訓を引き出すようだが、邪悪な人間は自己愛があっても自己嫌悪はあまりないのだろう。
私たちは普通に生活していれば、たんまりと自己嫌悪を抱く。そして邪悪な人に接しては、たんまりと嫌悪感を抱く。
しかし、それが人間の正常というものだし、そういう正常が市民社会を支えていくんじゃないか。
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