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2014.05.26

中国語学習(ピンズラー)、90日を終えた。中国語も普通の言語だなあと実感した。

 当初、1か月、つまりフェーズ1(一段階)でやめようと思っていた、ピンズラーの中国語学習だが、今日、フェーズ3を終えた。つまり、90日間、中国語を勉強した。
 一回のレッスンは30分だが、「ちょっと今んとこ、もう一度確認したい」とか「そこ復習もしておきたい」という感じもあって、結局、一日一時間くらいは中国語の学習にあてただろうか。ざっと100時間くらいは中国語を勉強したことになるのではないかと思う。
 成果はどうかというと、率直なところ、それほど大したことない。ちなみに最後のレッスンのフレーズはこんな感じだった。

  我要给我的太太买一块表。
  谢谢。你们的熱情的招待。
  我的普通话会比现在流利。

 中国語のレベルでいうなら、4月から始まった今期の「まいにち中国語」の現在のレベルにも及ばないのではないか。しかも、「まいにち中国語」のほうは、4月はほとんどを発音学習に充てていたので、その意味でいえば、「まいにち中国語」のほうが、はるかに学習のテンポが速い。それに文法の解説もけっこう充実していて、これはためになる。ああ、つまり、「まいにち中国語」のほうも5月から並行して勉強していますです。

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Chinese (Mandarin) III
 それでもピンズラー方式の学習で、けっこう素早く口ついて中国語が言えるようになった。限定された語彙と文法に限るけど、日常の普通話の速度で発話できるようになった。あれれ、自分は中国人みたいだなという変な感じもするくらい。
 というか、アジア圏にいて中国語を話す人も、普通話についてはネイティブではない人が多いのだから、普通話を喋っていたら中国人とさして変わりない。
 実際中国人と見られる大半はそういうふうに生きているのではないか。そのほうが普通の中国人ではないのかと思うようになった。
 その意味で、未来の日本が中国語を公用語に加えて中国語を話す日本人が増えても不思議ではないし、米国に国境を接するカナダが英語とフランス語話しているのとさして違いもないなあという感覚になった。
 そういえば、私はピンズラー方式で英語で中国語を学んだのだが、ピンズラー中国語については、ユーキャンから日本語で教える教材があるを知っていた。だが、以前、その手を話題を書いたらユーキャンのステマだとか言われてむっときたので詳細を確認しかった。改めて見たら、やはりフェーズ1だけだったようだ。
 その先のレッスンのニーズは日本ではないのだろうか。あるいは、日本だとピンズラー方式で中国語を教えるのはあまり効果的ではないのかもしれない。
 中国語の文法って何?という問題について、この間、いろいろ悩んでいたけど、依然、よくわからない。ただ、かなり慣れた。慣れたというのは、所定の構文であれば、特に違和感なく理解できるので、とりあえずわかる文法の範囲で、それに語彙を学んで、それと語彙に付随する語法を理解してくと、当面なんとかなりそうな感じがしてきた。このあたりの感覚は、欧米の言語とかなり違う。
 学習の途中、ブログにもちょっと書いたけど、中国語って、英語より日本語に近いのではないかという話、つまり日本語の「てにをは」を除けば、けっこう中国語になるんじゃないかという感覚についてだけど、不思議とその後は、消えてしまった。
 現在の感覚だと中国語はやはり、どっちかというと英語に近いなあと思う。何かを発話するとき、やはり動詞中心に発想されるようになっているからだ。
 ただ、そのあたりなのだが、フランス語をピンズラー方式で学んだときとはけっこう違う。フランス語の場合は、言語の基本的な構造としては英語とそっくりだし、そもそも英語ってフランス語のピジン言語じゃないかと思ったのだが、中国語だと、きちんと中国語の意識というのが自分の中に別枠として定着してきたような気がする。
 その自分の意識のなかで、中国語という感覚ができつつあるせいか、その感覚が漢文へのフィードバックとして働き、以前もちょっと書いたけど、漢文の意識はさらに変わった。普通に漢文は古典中国語だなあという意識に包括されつつある。
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禅 ZEN [DVD]
 それと、私は道元を好むのだが、彼の書いた文章から中国語の響きのようなものを感じ取れるようになった。これは率直に言って、ちょっと驚きだった。道元師、脳は中国語だったんじゃないかというくらいに思える。道元をテーマにした映画「禅」で道元が中国語を話していたが、まあ、現代の普通話のわけはないが、それでもああいう感じだったのだろうな。
 ところでこの映画だが、道元の禅がこういうものかと言われると、ちょっとなあと思うことは多い。それでも、寂円の描写はよい。というか、寂円と道元のことを思うと感動に涙がにじんでくる。懐奘こともそうだな。それだけでも道元の個人の人生は幸福であった。しんみり。話がそれた。

 中国語を英語を通して、音から学ぶというピンズラー方式は結局どうだったのか。よくわからないというのが実感。いくつか中国語の入門書を見ると、ピンズラー方式はけっこう違うなという実感もあった。副詞の位置をけっこう意識して教えていた。英語とそこが大きく違うからだろう。それと、「是~的構文」の練習がけっこう多かった。「花」とかは、最初から児化が入っていた。
 フェーズ2の終わりころ、かなりギブアップに近くなった。やっぱどうしても漢字が思い浮かぶ。レッスンの後の復習で書き起こしの勉強をやってみた。その過程で、拼音入力を覚えた。
 あれですね、拼音入力ができると発音が矯正されますな。これは思わぬメリット。
 それと漢字が目に浮かぶと記憶しやすい。ただ、これにはちょっと弊害もあって日本語の音読みとの対比に意識がそれやすい。それでも、漢字がわかると記憶の補助になる。朝鮮語を学ぶ機会があれば、やはり漢字は使いたいと思う。
 中国語は上級になるにつれ増える単語が、かなり日本語とおんなじなので、英語を通してフランス語を学ぶようなメリットがけっこうある。
 ピンズラー方式で中国を90日間もやり続けられた理由の一つは、お手本のネイティブスピーカーの発音がきれいなことがある。いくつか日本で発売されている中国語学習教材付属のCDを聞いたり、「まいにち中国語」のお手本とかも聞くのだけど、それらのネイティブはきちんとした発音なのだろうけど、声にあまり魅力を感じない。それに比べてピンズラー方式の、とくに女性の声は美しかった。こういうとこにけっこう語学のポイントいうのはあるなあと思う。外国人に日本語の教材を作るなら、絶対、声優を使うべきです!!! 日本配音演员也会吸引中国人。
 ところで、今回のフェーズ3の終わりで、これでおしまいという感じだったが、ピンズラー方式の中国語は昨年だったか、フェーズ4ができた。
 つまり、この先がまだ30日ある。
 やるかどうしようか? この先は「まいにち中国語」でもいいじゃないかという気もするが、まあ、やってみるかな。
 言語学習マニアになる気はさらさないが、学習法の比較としてスペイン語かイタリア語も学んでみたい。
 日本語の仕組みを知る上で(それと儒教を知る上で)朝鮮語を学びたいとも思っている。
 それと、ドイツ語と、大学でやり残したロシア語にも心残りがある。現代ギリシア語にも興味がある。
 そんなにできるわけないよなあと思うが、まあ、関心はある。老後の趣味が語学というのも悪くないんじゃないか、脳の訓練にもなるし。
 そういえば、ピンズラー方式で学んだフランス語だが、しらばく「まいにちフランス語」も聞いていたが、今期が面白くない。変わりに、Duolingoのフランス語を始めた。これが、最初は何?この低レベルと思ったが、半分を超えたあたりから。ぐへっと難しくなった。難しいといってもせいぜいこのくらいだが。

 Il est actuellement fermé pour travaux.
 Ce sont mes nouveaux vêtements.
 Les chapeaux des femmes sont chers.
 Leurs manteaux sont grands et noirs.
 Ces animaux marchent très lentement.
 C'est une maison avec beaucoup de travaux à faire !
 Ils sont sûrement très beaux.

 ピンズラー方式では音で言語を学ぶため、正書法は学んでいなかったツケががっつんと来る。フランス語は正書法が英語よりはるかに発音を意識して調整されているから、音読すれば音になるし、音のイメージから意味はわかるのだけど、「Leurs manteaux sont grands et noirs.」とか複数形の一致を正しく書くのは大変。
 ようするに言語学習に近道はないということでもある。
 とりあえず、Duolingoのフランス語も終えたいなと思っている。一応半分は超えた。マスコットの梟は、すでに95%のフランス語は読めますよと励ましてくれる。少しだが、翻訳プロジェクトにも参加した。よくわからないのだが、間違いばっかりであってもフランス語を書くのはなぜかけっこう楽しい。英語だとそういう感じがしたことない。
 中国語は、ピンズラー方式のフェーズ4を終えたらどういうふうに勉強していくかイメージがわかない。まあ、まだ先のことだが。

 
 

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2014.05.25

私たちは「悪魔の代弁者」にどのように耳を傾けるべきなのだろうか?

 この話題は少しやっかいなので書くかどうか悩んでいた。あるいは少しではなく、かなりやっかいな問題かもしれない。だが、少し書いておこうと思う。
 というのは、何がどう問題なのか、それ自体がまずもって誤認されやすいからだ。
 話の発端は、先日触れた「ストークス氏書籍は翻訳者に無断加筆されたか: 極東ブログ」(参照)である。注意してほしいのは、これから述べたいと思うことは、直接的にはその話題ではないことだ。
 誤解を減らすために、何の話題ではないのか、という背理面を先に述べておきたい。
 除外されるのは、先日のエントリーの表題のように「ストークス氏書籍は翻訳者に無断加筆されたか?」という疑問である。なぜこの件を除外するのか。そして、でもなぜ、それに先に言及するのか。そこから書いてみたい。
 その話題を除外する理由は、ごく簡単に言えば、私が一次ソースを持っていないからである。では、どこがそれを持っているかというと、「GoHoo|マスコミ誤報検証・報道被害救済サイト」(参照)である。またそれは、同サイトの「南京大虐殺否定「翻訳者が無断加筆」 著者ら否定」(参照)という話題に、追記的に、同サイトが主体となってストークス氏にインタビューをした、その内容である。概要はこう記されている。


 英国人記者の著書に盛り込まれた「南京大虐殺」否定の文章が翻訳者の無断加筆によるものだったと共同通信などが報じ、これを否定する「著者の見解」が発表された問題で、著者のヘンリー・ストークス氏(元ニューヨーク・タイムズ東京支局長)が5月14日、日本報道検証機構の単独インタビューに応じ、「著者の見解」に示されたのと同様、「南京大虐殺」はなかったとの見解を主張し、内容を事前に把握していなかったとの指摘を否定した。一方、翻訳者の藤田氏は、共同通信の記事が配信される前に、英文で記したストークス氏の見解を担当記者に送っていたが、記事に反映されなかったことを明らかにした。
 ストークス氏のインタビューは英語で行われた。共同通信の報道で問題とされた文章のうち「歴史の事実として『南京大虐殺』はなかった」(as a histrical fact, “Nanking Massacre” had never occurred.)という部分について、ストークス氏は、英語で”a massacre”(日本語では通常「大虐殺」と訳される)と呼ばれるようなことは起きていなかったということだと説明。「『南京大虐殺』は中華民国政府に捏造されたプロパガンダだった」(”Nanking Massacre” was a propaganda created by KMT government.)という文章についても、「中華民国政府のプロパガンダだったことは確かだ」と語った。ただ、南京事件そのものを全否定しているわけではないとも述べた。
 南京大虐殺の記述を知らなかったと報じられた点についても、ストークス氏は「全くばかげている」と一蹴し、翻訳者の藤田氏とこのテーマについて何度も話し合ったと強調した。

 該当のインタビューの一部は同サイトがユーチューブに一部を公開している。これのロングバージョンもいずれ公開されるとしている。
 くりかえすが、共同通信の該当報道が「誤報」であったかについては、私には二次的にしかわからない。それは、先のサイトの報道、さらに今後の報道検証に任せたいし、それを各人が受け止めればよいと思う。
 何度も繰り返すが、私は、共同通信が誤報をしたかについては、私の意見は現時点で存在しない。
 では、何の話題を私は書こうとしているのか。それはこのショートバージョンのインタビューに関連する。

 私が関心をもったのは次の点である。訳は動画の訳をそのまま引用した。が、オリジナルの英語は同動画でも検証できる。


質問「共同通信の報道は不正確だと思いますか?報道について訂正を求めますか?」
ストークス「他人の仕事への訂正要求は気が進みません。同じ会社の人は別として。ただ、共同通信の報道から感じるのは不正確というよりはむしろ彼らは真実の詳細に無頓着だったのです。無頓着だった。彼らは、真実が何かに全く目を向けず、私や藤田氏をやっつけたがってばかりいました。とても私たちを引き離したがっていました。彼らはとても攻撃的でした。なぜかは分かりません。(ビデオ中断が入る)この件で受けたインタビューのうち今回が一番よかったです。あなたが励ましてくれましたし、大切な友人の藤田氏は、とても我慢強くて、口を挟まず何も言わないでいてくれました。ありがとう、藤田さん。」
質問者「ありがとう」

 私が関心を持ったは、共同通信となされたインタビューにストークス氏が全体としてどのような印象を持っていたかである。3点ある。

 (1)共同通信のインタビューは攻撃的だった。
 (2)共同通信はストークス氏と藤田氏を分離したがっていた。
 (3)共同通信のインタビューではストークス氏の発言が終わるまでは待っていなかった。

 これらは印象であって事実については、共同通信を含めて検証する必要があるが、アンジェラ氏のメールからもストークス氏と藤田氏を分離の印象はうかがえるのが興味深い。
 ストークス氏のこの発言から、私が推測するのは、以下の4点である。あくまで推測でしかないが、ストークス氏のこの発言とは整合するだろう。

 (1)アンジェラ氏が聞いた録音の一部では、ストークス氏の発言が藤田氏に誘導されているように聞こえた。
 (2)しかし、ストークス氏はそれを誘導とは受け止めていなかった。だが、同時に、それが誘導のように聞こえることに懸念していた。
 (3)共同通信のインタビューは、ストークス氏の発言が終わるまえに矢継ぎ早になされていた。
 (4)ゆえに、今回のインタビューで藤田氏がストークス氏の代弁のような発言をすれば、誤解がさらに広がるとストークス氏は懸念していた。それがなかったことをストークス氏は大変に喜んでいた。

 このインタビューの最後の部分が特に印象深い。「ありがとう」というストークス氏の言葉は、どうもこの画面には映っていない藤田氏と思われる人物に向けられ、むしろ誤報サイトのインタビュー者への「ありがとう」はその付け足しになっているように見える。ストークス氏はパーキンソン病を病んでいてつらそうだがそれでも、藤田氏と思われる人物への謝意にあふれている。
 これはどういうことなのだろう?
 私は、率直に言うと、共同通信のインタビューは、ストークス氏の発言を諸所遮るように攻撃的になされたのではないかという印象を持つ。だが、それでもなお、共同通信のインタビュー手法がよくなかったとも思っていない。なぜか。
 私がこの件で連想したのは、1992年から1993年に話題となった統一教会脱会事件である。
 この事件でまず思い出されるのが、山崎浩子元新体操選手の統一教会脱会事件である。もう20年以上も経つのかと感慨深い。
 1992年8月に、山崎浩子や歌手・桜田淳子が韓国で実施された統一教会の合同結婚式に参加した。結婚式ではあったが、山崎は入籍していなかった。
 翌1993年3月山崎と入籍予定だった統一教会信者の証券勤務者が、山崎の失踪を訴えた。この間、しかし、山崎は親族から熱心な説得を受けて統一教会を脱会した。
 同時期のテレビキャスター飯星景子の統一教会脱会も話題になった。彼女の場合は、作家で元新聞記者である、彼女の父・飯干晃一が娘を統一教会から取り戻すとして、同教会の批判活動を活発に繰り広げた。
 現時点で考えると、この問題は、後のオウム真理教事件とも重なって見える。いずれにせよ、この時の世論の空気は、概ね、娘を宗教に取られた親族の視点から、統一教会への批判が多かったように思える。正確に言えば、大人になった市民の信教の自由に関わることに違和感を覚えた人もいないではなかった。
 私がこの事件をストークス氏のこのインタビューで思い出したのは、おそらく共同通信側のインタビューは、統一教会脱会騒ぎと同じ構図で、ストークス氏が、妖しげな宗教にも似たよからぬ思想に感化されていて、そこからストークス氏を引き離すという「善意」の意図が背景にあったのではないかと思えたことだ。
 そのことはある意味で了解しやすい。
 現在世界の枠組みでは、「南京大虐殺はなかった」とする主張は、単純に歴史修正主義とされ、糾弾される。問題のある歴史観であり問題のある思想であるとされる。ストークス氏がそうした問題ある歴史観・思想に感化されているなら、正しい世界観に立ち戻らせることは正しいことだと言える。
 だが、そのとき、仮にだが、「悪の思想」に感化されたストークス氏自身が自分の思いを十分に語る必要はないのだろうか?
 今回のストークス氏のインタビューで彼が強調しているのは、発言が遮られたことのくやしさと、もう一つ、共同通信インタビュー者が、ストークス氏が関心を寄せる「事実」に関心を寄せていないことだった。
 もっとも、こうした枠組みでという限定だが、共同通信インタビュー者側としては、そうしたストークス氏の「事実」などナンセンスだという前提はありえるだろう。
 ここでもう少しこの問題に踏み込んでみる。今回のインタビューからうかがえる範囲に限定されるが、ストークス氏は「南京大虐殺はなかった」という歴史修正主義を意図的に主張しているようには聞こえない。彼はその点を強調してさえいる。もっともそれは修辞の差でしかないという反論は成り立つだろう。
 では、一体、何が問題なのだろうか?
 つまるところストークス氏の発言内容より、彼の置かれた立場が、共同通信的な立場にあるのか、それとも、藤田氏側にあるかという、立場だけが問われる構図のなかで、当のストークス氏は、そのこと(立場だけが問題とされその言葉の内容が顧みられないこと)に心痛している、その事実をどう受け止めるか、ということではないだろうか。
 私の印象を述べれば、ストークス氏は「悪魔の代弁者」である。私たちは、こうした「悪魔の代弁者」にどのように耳を傾けるべきなのだろうか?
 そのことが、問われているように思えた。
 
 

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2014.05.24

パソコン遠隔操作事件、その後の雑感

 世間的にはパソコン遠隔操作事件はあっという間に終わってしまったのかもしれない。だが、この数日間、関連して私の心には奇妙に沈んだものがあった。でもなあ、また、いやなコメント貰うくらいなら黙っていてもいいのだけど、とも思う。でも、やはり少し書いておこうかとも思う。うーん。書いてみよう。
 その話の前に、関連はあるけど、直接的に関係した話ではないことに少し触れておきたい。佐藤博史弁護士の会見報道(参照)で思ったことだ。この部分である。


《あふれる涙をこらえる姿を見せると、会見場に詰めかけたカメラマンは一斉にシャッターを切った》
 佐藤弁護士「ただ、これから私たちの仕事は胸を張ってというものではないですが、これ(弁護人に嘘をついていた片山被告の弁護)も仕事と割り切っている」
 《佐藤弁護士は、カトリック教会における「悪魔の代理人」という言葉を引き合いに出した》
 佐藤弁護士「宗教裁判で悪魔として裁かれる人を弁護することが語源ではないかと思っている。刑事弁護人の生き方を表す言葉で、刑事弁護人は悪魔を弁護する覚悟がないとできない。これから私が本物かどうか試される」
 《佐藤弁護士はこう述べて、今後も片山被告の弁護人を続けることに強い意志を示した。記者からの質問が始まる》

 この報道を見たとき、あれ?と思った。誰か突っ込みを入れた人はいないかなとネットを探したが、私には見当たらなかった。
 あれ?と思ったのは、「悪魔の代理人」という用語である。私もこの用語を、「悪魔の代弁者」ということでブログで使ったことがある(参照)。そこでは「かわいい悪魔の代弁者」である。
 英語では"Devil's advocate(デビルズ・アドヴォケット)"という。訳語としては、私が使ったように「悪魔の代弁者」が普通ではないかと思う。あるいは、もしかすると佐藤弁護士の言う「悪魔の代理人」は"Devil's advocate"とは別のことかもしれないが。
 もしかして……とウィキペディアを見たら簡素に「悪魔の代弁者」の項目があった(参照)。ので引用する。

悪魔の代弁者(あくまのだいべんしゃ、英語:devil's advocate、ラテン語:advocatus diaboli)[1]は、ディベートなどで多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割。悪魔の代言者[要出典]、悪魔の代言人[要出典]などとも呼ばれる。ディベートのテクニックのひとつである。同調を求める圧力などで批判・反論しにくい空気があると、議論はうまく機能しなくなり、健全な思考ができなくなることが往々にしてある。それを防ぐ方法として、自由に批判・反論できる人物を設定することがある。三省堂「新グローバル英和辞典」電子版devilではdevil's advocateの意味が「列聖調査審問検事」「(議論のために)わざと本心と反対の意見を述べる人」となっている。
 語源は、かつてカトリック教会において設けられていた、列聖や列福の審議の際にあえて候補者の至らぬ点や聖人・福者たる証拠としての奇跡の疑わしさなどを指摘する職の名称。人間の悪徳を神に告げる天使としてのサタンの側面にちなむ。1983年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって廃止された。

 間違った記述ではないように思う。なお英語版の同項目にはもう少し別の情報もある。
 で、この用語解説から佐藤弁護士の理解を見ると、あれ?違っているなあと思ったのである。彼は、「宗教裁判で悪魔として裁かれる人を弁護することが語源ではないかと思っている」としているが、そうではなく、むしろ聖人を吟味するのが「悪魔の代弁者」のお仕事である。
 この事件では、私は、本来の意味での「悪魔の代弁者」を考えていた。
 私から見るネットの論調の多くは、警察・検察が悪であり被告を冤罪であるとした主張が多く見られたが、私の「悪魔の代弁者」は、「いや、彼が真犯人ではないのか?」と呟き続けていたからだ。
 ただ、それを言わなかったのは、私が「悪魔の代弁者」になると、私がネットでは悪魔にされて、私の魔女裁判のようになるのが怖かったせいもある。
 今のネットの空気では、「悪魔の代弁者」が悪魔とされて、魔女裁判のように吊し上げられるようなるからなあと、感じている。
 ところで、当の話だが、被告が犯人であると自白し、大方そのように空気が変わったとき、私は二つのことを思った。一つは、私は「かわいい悪魔の代弁者」にはなりえても、きちんと社会のために「悪魔の代弁者」になるだけのキンタマはねーよなということである。
 もう一つは、被告に対して、「うげぇ、こいつ気持ちわり-」ということである。嫌悪感である。この嫌悪感は、被告の初犯にも感じていたのだが、ここに来てそれが倍増した。
 と、書いて、実は、キンタマちいさい私は、「うげぇ、こいつ気持ちわり-」とかブログに書いていいんだろうか、と少し戸惑っているのである。まあ、そういう言い方が、お下品なのはわかっているくらいのハミキンは出しているのだけど。ちゃお。
 実は、冒頭書いた、心に沈んだことというのは、その二つ目の、この奇妙な嫌悪感だった。
 「こいつキモくね?」って思う嫌悪感である。
 それはどういうことなのか?
 私なりの、これについての考えは二つある。一つは、そういう嫌悪感を露骨に社会に出してもそれほど意味はないなということ。つまり、嫌悪感を表明してもこの件に関連して市民社会に利することはあまりなさそうだなということ。
 もう一つは、いや、自分がいだく嫌悪感というのは、むしろ正常なんじゃないか?という疑問である。
 で……仮に。
 もしそれが正常なら、逆に嫌悪感を抱いてなさげな表明をしている人のほうがどっかおかしいんじゃないか、ってことはないだろうか?
 嫌悪感がない人が異常だという意味では全然ない。嫌悪感を無意識に抑圧しているんじゃないだろうか、ということだ。抑圧するのはなんかその人の自我にとって都合悪いんだろうということだ。
 もちろん、そのあたり、私の嫌悪感が違うのかもしれないなとも思う。
 というか、私の「かわいい悪魔の代弁者」は、「おめーが変」と言っているような気もしないではない。まあまあ。
 具体的に、この件で、他人の感覚はどうだろうかとネットを見回してみた。
 この事件の裁判を丹念にフォローしていたジャーナリストの江川紹子は、今日付けの記事で関連してこう書いていた(参照)。彼女は、この被告にどういう思いを今抱いているのだろうか? どこかに、私が抱いたような嫌悪感があるだろうか?

弁護人の説明によれば、片山被告は事件を起こす経緯について、「軽い気持ちでやってみたら、できちゃった」ということらしい。ここまでは分かった気になってみるとしても、逮捕後に実に巧妙なウソや演技を重ねて、弁護人や世間を欺き続けた心理は、私にはどうしても理解ができない。


弁護団は、片山被告の無実を信じて、実に献身的な弁護活動を行っていた。主任弁護人は、片山被告の母親を元気づけようと、2人を事務所旅行に招待した。そういう人たちを欺くことに、彼はなんら心の痛みを感じていなかったようだ。あたかも、そのような痛みを感じる回路のどこか大事な部分が、すっぽり抜け落ちているように思える。自身の行為によって誤認逮捕され、虚偽の自白にまで追い込まれた人たちの苦しみに対しても、リアルに想像することができないでいるのだろう。


5月22日の公判で、片山被告は従来の無罪主張を取り下げ、新たに全面的に起訴事実を認めた後、弁護人の問いに答える形で、自分が欺いた人たちや巻き込まれて誤認逮捕された被害者に対しても謝罪した。しかし、頭では「悪い」と分かっていても、心でそれをどこまで感じているか、疑問だ。そもそも、そんなにすぐに反省できるようであれば、ここまでウソを重ねることはできなかっただろう。弁護団の献身を裏切っていることを、心苦しく思っていたに違いない。

 そこには、彼女自身の疑問はあるが、それは誰に向けた疑問か不定形だし、実質佐藤弁護士に近い思いを寄せていたように見える彼女は、いくばくかは被告に騙されていたとはずだが、そこはどうなんだろうか?
 しかし、彼女には、そこで嫌悪感はなさそうに見える。
 そしてこう、現時点では、お話が結ばれている。

 そういう彼の内面に光を当てていかないと、なぜ彼が事件を起こし、人を欺き、稚拙で愚かな“真犯人メール”の工作まで行うに至ったのか、その全体像は解明できない。彼は有罪判決を受けて服役することになるだろうが、いずれは社会に戻ってくる。心の問題が解決しないままでは、社会にうまく馴染めず、また問題を引き起こす可能性もある。多少の時間がかかったとしても、彼が今回のような愚かな行為をせず、無罪を主張し続けていたことを考えれば、有益なことに時間をかけるのは無駄ではない。発達障害も含めた心理、もしくは精神医学の専門家の助けを借りて、彼の心の状態を明らかにしていくことが必要だと思う。

 「そういう彼の内面に光を当てていかないと」、という内面の一端は、彼の現在でも見られる現実感のなさということだが、その点については、私は以前に触れた。
 私が気になるのは、「彼の心の状態を明らかにしていくことが必要だと思う」として、この問題を、自分から切り離して、まるで物理的な世界を観察のように見ていることだ。
 私にも彼女に似た観察眼もあるが、同時に、このなんとも言えない嫌悪感という、私の問題として、まず受け止めている。
 率直にいうと、この問題は、市民社会がもっとこの「嫌悪感」というものに向き合うべきなんじゃないだろうか?と疑問に思っている。
 この事件の被告について言えば、最初の遠隔操作が、どっちかというと運良く行きすぎて増長してしまったということがあるが、プログラミング能力もなく、悪を成すには運が悪いが、それでもこの被告のように、平気で人を騙す人々というのは、市民社会のなかに一定数存在する。
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平気でうそをつく人たち
虚偽と邪悪の心理学
(草思社文庫)
 私たちは、そういう人々に向き合ったとき、「こいつキンモー」という嫌悪感を抱きつつ、生きている。
 もちろん、市民社会で市民が他の市民に接するとき、そうした個人的な嫌悪感を表明するかどうかは個人の自由だし、どちらかといえば、そういうものは表出しないほうがよいと思う。キンタマは小さくして生きた方がいいとは思う。
 それでも、平気で嘘をつく一群の人々には、私たちの生活感覚は正常に嫌悪感を促すものだろうとも思う。
 私は以前に読んだ『平気でうそをつく人々』(参照)の次のくだりを思い出す。

 健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。相手の邪悪性があからさまなものであるときには、この嫌悪感は即時に生じるものである。相手の邪悪性がより隠微なものである場合には、この嫌悪感は、相手との関係が深まるにしたがって徐々に強まってくる。


嫌悪感というのは、おぞましいものを避け、それから逃げ出したいという気持ちを即時に起こさせる強力な感情である。そしてこれは、邪悪なものに相対したときに、健全な人間が通常の行動を起こすための、つまり、そこから逃げ出すための、最も有効な判断手段となるものである。人間の悪は、それが危険なものであるがゆえにおぞましいものである。邪悪なものは、長期にわたってその影響下に置かれている人間を汚染し、または破滅させるものである。自分のしようとしていることを十分に理解している場合は別として、邪悪なものに出会ったときにとるべき最良の道は、それを避けることである。

 平気で嘘がつける邪悪な人間を知ったとき、私たちの生活感覚が嫌悪感を抱くのは、著者によればむしろ自然なことであるとしている。
 では、なぜ、それを抑圧しているかに見える人がいるのだろうか?
 抑圧によって、それを避けるという心理機構かもしれない。だが、それは実際には抱え込んでいる嫌悪感に対する欺瞞ともなり、その欺瞞を正当化するために、さらに抑圧を続けることになるのではないだろうか。
 著者は邪悪な人間に向き合ったときのもう一つの反応についても触れている。

 いまひとつ、邪悪なものに相対したときのわれわれに生じる反応がある。それは混乱である。ある女性は、邪悪な人間に出会ったときの自分に生じた混乱を、「突然、自分が考える能力を失ったかのようだった」と書いている。この場合もはやり、その反応はきわめて適切なものである。うそというものは混乱を引き起こすものである。邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。患者に相対したとき混乱を感じた施療者は、まずはじめに、この混乱は自分の無知からくるものではないかと疑うべきである。しかし、それと同時に、こう自問すべきである。「この患者は、私を混乱させるようなことをしているののではないだろうか」

 著者は述べていないが、自分のなかに生じた嫌悪感のあり方・行き方が混乱をもたらすのではないだろうか。
 そうであれば、まず、きちんと自分が抱えた嫌悪感に向き合うことが、こうした問題の大前提ではないだろうか。
 著者は、邪悪な人々は自己嫌悪の欠如を見ている。

 このように自己嫌悪の欠如、自分自身にたいする不快感の欠如が、私が邪悪とよんでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪であると考えられるが、だとするならば、その原因は何であろうか。

 その一つに著者は自己愛を挙げている。
 ちょっと強引な教訓を引き出すようだが、邪悪な人間は自己愛があっても自己嫌悪はあまりないのだろう。
 私たちは普通に生活していれば、たんまりと自己嫌悪を抱く。そして邪悪な人に接しては、たんまりと嫌悪感を抱く。
 しかし、それが人間の正常というものだし、そういう正常が市民社会を支えていくんじゃないか。
 
 

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2014.05.21

日本人学生の問題解決能力って高いんじゃん

 OECDによる「生徒の学習到達度調査(PISA) 2012年問題解決能力調査」について、この4月に発表された当初、いくつかニュースで見たように記憶している。記憶を辿ると日本ではゆとり教育から脱した成果が見られたかという文脈で、米国では米国の教育は呆れるほど低いといった文脈だったかと思う。
 この手の調査は、通常アジア諸国、日本、韓国、シンガポールが上位に来るものなので、さして面白くもないものだと思っていた。強制的な詰め込み教育をすればテストの成績はあがるだろうが、それが人間に必要な学力と言えるかそもそも疑わしい、そう思っていたのである。どうも違うようだ。
 そう思ったのは、19日付けのフィナンシャルタイムズ記事「問題解決に優れている国は批判的思考法を促進する(Countries that excel at problem-solving encourage critical thinking)」(参照)という記事を見かけたからである。
 表題のように、ここで問われているのは、問題解決の能力であり、批判的思考法という学力である。こうした面では、日本は劣っていると日本国内的なイメージでは思われていたのだが、記事を読むとそうでもない。これは同記事の15歳の年齢で比較した問題解決能力の各国比較のグラフに端的に表れている。

 一位はシンガポール、二位は韓国。日本はそこから差を開けられて三位である。フィンランドはぐっと下がる。欧米はかなり低い。
 さすがシンガポール、さすが韓国、と言いたいところだが、国家規模を考えるとシンガポールはご愛敬だし、韓国は日本の半分ほど。すると日本の少年少女の能力はそれ自体が国際社会で国威と言っていいくらいのものがある。
 とはいえ、こうした問題解決や批判的思考法というのもいわゆる詰め込み教育と相関しているのだろうとはいえそうで、そうした言及も同記事にはあるのだが、どうも日本については、もうちょっと変わった点があるらしい。


But there were interesting exceptions to the rule. When Japanese students were compared with children in other countries of similar performance in maths, science and reading, the Japanese teenagers showed better problem-solving abilities.

しかしこの法則には興味深い例外があった。日本の学生を、数学・科学・読解力で同能力の他国学生と比較すると、日本の10代は比較的優れた問題解決能力を示していた。

This, the OECD suggested, might be explained by Japan’s focus on developing problem- solving skills through cross-curricular, student-led projects.

OECDの示唆では、これは、日本が、生徒主体の総合学習を通して問題解決能力を発達させているからかもしれないと説明されている。


 ほぉという印象を持った。本当なのかなという疑問もある。個人的に思ったのは、日本人の子どもはなにかとこぎれいで、思考もこぎれいなところがあり、それが問題解決の能力に重なっているんじゃないかということである。ま、ごく個人的な印象として。
 ところでこれって文科省とかに資料があるんじゃないかと探すとあった(参照PDF)。
 読んでいくとなかなか面白い。たとえば、よく貧富の差が学力差に反映するという議論が日本では盛んだが、問題解決能力ではさほどでもないらしい。

日本は、生徒の家庭の社会経済文化的水準と問題解決能力の得点との関係が弱く、かつ問題解決能力の平均点が高いことがわかる。つまり、日本は、家庭の経済状況や教育環境の違いが問題解決能力に影響する程度が小さく、生徒が問題解決能力を獲得する教育機会において、平等性の高い教育システムを築いていると言える。

 これはなかなかに含蓄深い。個人的な印象をいうと、これは学校システムというより日本の情報世界が本質的に持っている学習効果ではないだろうか。そう思うのは、ごく個人的な印象だが、高学歴と言われる人が日本だとさほど一般的な問題解決能力が高くないように見えるからだ。
 もう一つ気になったのは、問題解決能力の男女差で、日本にある特有の現象が見られることだ。ごく簡単にいうと、男女差が、男子優位に大きいのである。もっとも女子も全体的には高い能力を示しているのだが、他国と比べていると、どうにも奇妙な印象がある。この点について文科省の資料には記載されているが、問題としてのコメントは見られなかった。

 日本は、問題解決能力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの各分野において、男子が女子よりも得点が高い一方、読解力の分野において、女子が男子よりも得点が高く、それぞれ統計的な優位の差がある。OECD平均も同様の傾向が見られる。

 問題解決能力が数学的リテラシーと科学的リテラシーに相関しているならそれの結果とも言えないこともないが、日本にやや特異に見える現象は奇妙な印象が残った。
 以上を総合的に見ていくと、学力という点では、日本はほとんど問題ないようだ。
 ただ、それを言うなら、シンガポールや韓国のほうがさらに上ではないかというのがあるかと思う。シンガポールのような小国は例外として、韓国については、PIAAC(Programme for the International Assessment of Adult Competencies/ 国際成人力調査)(参照)という成人(16歳から65歳)の能力比較で見ると、各面で日本が韓国に優っている。将来的にこれが縮まってはいくだろうが。
 
 

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2014.05.20

パソコン遠隔操作事件、雑感

 パソコン遠隔操作事件で、威力業務妨害罪の公判中・保釈の片山祐輔被告が、関連する10件の事件について関与を認めた。
 事件の全貌が解明されたわけではないが、概ねこの事件については大きく一区切り付いたと言っていいだろう。ネットから見るこの問題の焦点は、片山祐輔被告が無罪ではないかということだった。
 この事件については片山被告が逮捕される以前に一度触れたことがあるが、その後の言及を私は控えていた。彼が無罪であるとも有罪であるとも確信が持てないでいたからだった。
 ネットを通して見る論調には、検察暴走による冤罪だという意見が多かったように思う。私はそれにも与しなかった。
 私は、このブログで2003年時点で、東電OL殺人事件で逮捕されたネパール人は冤罪であると主張したことがある(参照)。これはその後冤罪となった。私の見立てが正しかったが、そのことを再度主張するのは拙いように思えた。また私は、和歌山毒物カレー事件や筋弛緩剤事件についても冤罪であるとの主張をブログに書いた。東大阪集団暴行殺人事件については、冤罪ではないが量刑が正しいとは思えないという主張を書いた。
 こうした事件では、自分のなかにそれなりに確たる心証があったからだ。
 だが、このパソコン遠隔操作事件については、そうした冤罪の心証がついに得られなかった。そのあたりから雑感を書いてみたい。
 この事件が発生したころ、この事件の犯人のプロファイルをメディアに書いたことがある。それなりに理由を挙げて、犯人は情報技術者としては上級とは言いがたいと結論した。だが、そのプロファイル部分は編集サイドからチェックが入り公開しなかった。私としては特段言論の自由が妨害されたとは思わなかった。編集側が慎重な態度を取っているのがわかったし、異論もあるだろうと思った。ブログのほうでさりげなく言及した。
 そのおり自分のプロファイルした犯人像があり、それがこの事件を見るときの一つの定点になった。
 簡単に言うと、そのプロファイルから片山被告が反れるということはなかった。
 メディアから得られる情報からは、検察の対応のまずさが目立ったように思われた。
 私はといえばまず片山被告が語るところを動画で見てみたいと思っていた。スチルの画像では作り手の思惑がかなり入るが、動画だと、それよりその人の心証が得られるのではないかと思っていた。熱心に無罪を主張するにも、また隕石に当たったふうに困惑しているにせよ、そこになんらかの人格的な統合性を見て、そこからの片山被告の人間像を一人格として理解したいと思っていた。
 彼が釈放された後、その様子はネットで見ることができた。結果は困惑だった。
 一見すると彼はこの事件にまったく関わりがないかのように見えた。その無関与さが心に引っかかった。
 これはあまりよくないバイアスなのだが、彼には前科がある。私は彼の前科についてそれなりに調べていたので、その前科という経験をどのように彼が現在の人格に統合しているかが気になっていた。
 だが、それが、釈放後の映像から見える無関与さとうまく一人の人格像を結ばないのである。
 単純な人間なら過去を反省し、現在をそれと結びつけられないように自我を防衛するような意識の核を持つはずである。それがなかった。
 私が見た印象では、彼は前科についても無関与の態度を取っていて、それのありかたは、問われている事件の無関与と重なった。
 私の理解としては、これは一種の人格障害か、あるいは、この事件についての認識が前科と重なっているからだろう、ということだった。さらに言えば、ここに出現しているのは、キリスト教的な意味でのある種の「悪」というものではないかと疑念を感じた。もう少し率直に私の印象を言えば、その「悪」の可能性にぞっとした。
 もちろん、そのようにブログに書くのも拙いし、前科などそもそも忘れられる権利として守られるべきものなので、不当な物言いだと思う。こうして後出しのように言うもあまりよいことではない。ただ、私という市民が、その人生の内観からこうした事態をどう見ているかという事例として述べてみたい。
 関連してもう一点ある。
 この無関与さというのは、ある種、解離性障害に近い。そうした特性から言えば私にもよく当て嵌まることである。
 簡単に言えば、このタイプの人間にとっては、世界や他者の実在感が、普通の人より希薄であり、平素はそれほど意味をなしていない。
 では、どうなるかというと、その意味の希薄を補うために、多様なシナリオを世界に対して想定するようになる。世界で発生している無意味で乱雑な事象、理の通らない他者というものに、筋書きのあるシナリオを与えようとする傾向が生まれる。これは強迫でもある。
 今回の事件で、犯人はいろいろメッセージを送ってきたが、この関与の執拗さは、ある種の解離性障害に近い人格が持つシナリオ形成と同じ雰囲気が感じ取れた。
 さらに言えば、犯人はそのシナリオ形成にある種の強迫を持っていると、このタイプの人間である私には感じ取れた。
 そもそもこの犯罪の全体構造が、そうした強迫の実現だとすら思えた。
 この点では、私によるプロファイルに統一性があり、それが動画で見る被告と齟齬がなかった。彼が犯人である可能性は否定できなかったし、冤罪とも思えなかった。
 私はさらにこう考えていた。シナリオ性の強迫が、片山被告が勾留されてからぴたりと止んだのはなぜだろうか、と。
 もちろん、そこには、彼が犯人だろうという推測が混じらざるを得ない。しかし、もう少し重要なのは、犯人はかならずやこのシナリオ性の強迫に従って、次の行動を起こす日があるだろうと確信していた。それが16日の「小保方銃蔵」メールだった。そしてそれは私の目には、シナリオ性の強迫としては予想していたものだった。
 私の推測はここまでである。
 片山被告が真犯人であるという推測は行き詰まった。私にはそれ以上はわからなかった。ただ、この事件、片山被告が真犯人でなければ日本の検察は終わりだろうな。それはそれで大変な事態だとは思っていた。
 現時点で蓋を開けて、ゾッとしたことがある。「片山被告が真犯人」という報道ではない。捜査の側が、どうやら私が推測したような、シナリオ性の強迫を、捜査シナリオに組んでいたように見えることだ。ごく簡単にいえば、捜査側は犯人が次の物語に挑んでくることを想定していたし、それをアクティブに捜査シナリオとして組み込んでいたのだろうということだ。刑事コロンボの物語みたいに。
 顕著なのは、今回の事態につながる河川敷に埋められた携帯電話である。時系列に見るとそうした疑問が沸く。東京新聞「片山被告 携帯からDNA型検出 地検、保釈取り消し請求」(参照)より。


 捜査関係者によると、東京都内の河川敷で十五日夕、片山被告が何かを埋めているのを被告の行動確認をしていた警視庁の捜査員が目撃。被告が東京地裁の公判に出廷中の翌日午前十一時四十分ごろに「真犯人」を名乗るメールが関係者に届いたことを受け、同日夕に地中を掘り起こしてビニール袋に入ったスマートフォンを見つけた。メールが届いた相手に、同じ文面のメールを同時刻に送信していたことも確認した。東京地検は、片山被告がタイマー機能を使い、公判中にメールを送るようセットした疑いがあるとみている。

 時系列で見ると。

 15日 片山被告が何かを埋めているのを捜査で確認したものの、捜査はそれに触れていない。
 16日午前 被告が東京地裁の公判に出廷中に「真犯人」メールが発生。
 16日午後 埋められていたものとしてスマートフォンを発掘。

 普通に考えれば、保釈中も四六時中監視していたのは怖いものだなという理解になるかと思う。私はそうは思えなかった。そう思えなかったというのは、四六時中監視のことではない。怖いというのも、その監視そのものではない。
 片山被告は自分が保釈後に自分が監視されていたことは十分注意を払っていたに違いない。
 検察シナリオはそのガードをどのように解くかが重要だったはずだ。
 ネットでは片山被告がスマホを埋めた件について、うかつで稚拙な行為だとしている指摘があるが、逆だろう。そう行動が取れるくらいの緩い監視に見せかけて、シナリオ性の強迫を誘導したと見るほうが合理的だろう。スマホの入手やその「真犯人メール」のための情報整理活動など、捜査がノーガードだったとは到底思えない。
 捜査側が、刑事コロンボの物語のように、被告に新しい犯罪を起こさせたというほどではないが、被告に決定的なアクションを取らせるように仕向けていたとは言えるだろう。
 そのことにもぞっとした。
 もちろん以上のような私の考えを妄想だという指摘はあるだろうし、まあ、また罵倒コメントとかいろいろくらうんじゃないかと思うが、それでも書いておきたいと思ったのは、この事件の市民社会での特性による。
 頭を冷やしてみれば誰でもわかるが、これを大事件にしたのは警察・検察である。そもそも遠隔操作に陥れられた人を威圧的に殊更に取り上げて見せしめにせよとしたのは当局である。もちろん、メールの脅迫文など無視すればよいさとは言えないのは、昨今のストーカー殺人などからもわかるので、簡単に対処できることではないとしても。
 そしてその警察・検察の失態は明確になった。
 それがさらに当局側は意固地になってこの事件をあたかも大事件に見せかけた。ブラフによるレイズは高くなり、この顛末が、片山被告無罪であれば、日本の警察・検察は終了したことだろう。
 だが、私には、その後のネットでの展開は別の意味で大事件に思えた。
 多くの人がこの事件を、さらなる警察・検察の大失態とし、あまつさえ冤罪だと見ていくようになった。そう見る人の多くは、むしろ善意の篤い市民である。市民社会がよくなるように、警察・検察が市民を冤罪に巻き込むことがないようにという思いがそこには愕然とある。だが、この事件はその思いをまんまとあざむいた。私がこの事件にキリスト教的な意味での「悪」を見るのは、善なるものを誘惑して貶める悪意の実在を感じ取ったからだ。
 冤罪は恐るべきことであるが、知性を伴った「悪」の顕在もまた恐ろしいものだ。それに向き合ったとき、一人の市民の日常生活の経験はどう反応するのか、自分はこうであったというのを記しておきたいと思ったのである。
 
 

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2014.05.16

[書評]江戸の朱子学(土田健次郎)

 先日、加地伸行の『漢文法基礎』の書評をcakesに書いたおり(参照)、江戸時代における朱子学の歴史をできるさけ最新の知見で、かつ実証的に見直してみたいと思っていた。本書『江戸の朱子学(土田健次郎)』(参照)はそうした関心・視点から読んだ。そしてそこからすると、実に簡便に全体が見渡せる良書であり、また今後のこの関連の読書の手引きとなる情報を多く、レファレンス本としても有益だった。

cover
江戸の朱子学
(筑摩選書)
土田健次郎
 本書は、「あとがき」にも書かれているが、「専門家のみに書かれた書でないため」とあるように、一般的な読書人にとっても読みやすいレベルで書かれている。
 特に、この関連の分野では実質必読文献である丸山眞男の『日本政治思想史研究』(参照)、またその一般向けとも言える『日本の思想』(参照)では荻生徂徠に焦点がとなりゆえに同時代性パースペクティブが失われがちだが、本書ではこれに同じく国学の本居宣長なども含め、江戸時代における朱子学や関連した知識人の全体が空間的かつ経時的に俯瞰できる。このことは著者にもかなり意識されているので、そうした側面から本書を読まれてもよいだろう。筆致は抑制的で丸山批判となっているわけではない。
 特に本書は、表題どおり江戸時代の朱子学を基本としながらも、中国における朱子学の基本的な歴史・文脈、さらに朝鮮における朱子学も視野に収めれていて、この関連は非常に面白い。個人的には朝鮮朱子学に関心があるのでその側面と、中国近世における口語文献や清朝での考証学などの側面がもっと掘り下げて書かれていたらうれしく思えた。が、それだと本書の利点であるパースペクティブに問題が生じたかもしれない。
 読み方によっては丸山批判とも受け取れないこともないが、丸山が朱子学を旧体制の学問としてのとは逆に、本書は朱子学が江戸中期、後期から興隆し、さらに明治時代にまで影響している強い側面を実証的に描いている。当然のことながら、教育勅語における朱子学的な側面についても、抑制的ではあるが言及されており、従来紋切り型で語られてきた皇国史観的について修正を検討するのに役立つ。
 当たり前とはいえるが、それでも本書は学術的な文脈で書かれているため、この分野に関係し、おそらく現代日本においてもアクチュアルな思想課題となりうる小林秀雄『本居宣長』(参照)や山本七平『現人神の創作者たち』(参照)についてはまったく言及がない。意図的に無視しているというより、著者はおそらく悪い意味ではなくこれらを通俗書として読んでいないと思われる。このことは本書の「あとがき」で本書のような概説書を書くことを若い時代は恥じていたとする意図の言及からもうかがえる。
 小林の書籍はひとまず置くとして、山本の同書を読めば、本書の思想的な課題は本書と十分に重なるところがあり、逆に山本側の視点からすると、本書の論述に奇妙な欠落を感じるだろう。具体的には「皇統論」である。

 ただ現実の権力の頂点に立つ将軍こそが日本の正統なる支配者であるという見方の方が当初多かったのは当然のことである。朱子学者でのごく代表的な例のみあげれば、新井白石が朝鮮都の関係を対等にするために、将軍の称号を「日本国大君」から格上げして「日本国王」に改めようとしたのは有名であり、また闇斎学はの佐藤直方も皇室を正統とは認めていない。それでも次第に皇統を正統とする無言の了解のようなものが徐々に広がっていき、幕末となると尊王攘夷論が輿論のようになっていくのである。

 率直にいえば、本書のような視点から山本の視点を補うか批判することで、「次第に皇統を正統とする無言の了解のようなものが徐々に広がっていき」をより実証的に解明することが重要であるようには思われた。
 また冒頭、「加地伸行」に言及したが、彼の儒教論、たとえば『儒教とは何か』(参照)で論じられている祭祀としての儒教と、朱子学など儒学の関わりについては、印象としては極力否定的に描かれている。その描出に説得力もあるのだが、実際に日本人の葬式がどう見ても儒教である背景などとの繋がりは逆に見えてこない。
 ついでに現代思想的な関連でいうなら、三島由紀夫の思想との関連で問われることのある陽明学についても、本書ではその内側や社会実践的な側面についてはあまり言及されていない。逆に陽明学について学問的にかなりきれいに位置づけられていることは好ましく思えた。
 その他、本書の利点としては、室町時代からの医学と儒学の関連、神道、仏教との関連もわかりやすいパースペクティブで描かれていていてためになる。『神皇正統記』を著した北畠親房が真言宗の僧侶であるといった指摘も、『真言内証義』を著したことから当然ではあるが、朱子学との関連の視座で見るとはっとさせられるものがあった。同類の指摘では、戦国時代の「天道」観についても言える。なお、この面においては当時の切支丹思想の影響があるのだが、その実態はよくわかっていないようだ。
 
 

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2014.05.14

ストークス氏書籍は翻訳者に無断加筆されたか

 あまり気乗りする話題ではないが、気になってはいることなので、メモがてらに書いておこう。最初からややこしいのだが、「ストークス氏書籍は翻訳者に無断加筆されたか」とはいうものの、多少関心点が違う。
 では「何に」気になっているか。ということ自体が、あまり明確にはなりがたい。ところが、この話題は、やたらと明確にしたがるある通念のフレームワークのようなものがあり、しかもそれ自体が逆に混乱をもたらしてしまうかのように見え、さらにその連鎖がその「何か」に関連しているようにも思われる。
 とりあえず目立った形での事の発端は共同通信の次の記事だった(ここで発端がこれではない含意で書いているのは後で触れたいと思う)。
 5月8日付け「南京虐殺否定を無断加筆 ベストセラーの翻訳者」(参照)より。


 米ニューヨーク・タイムズ紙の元東京支局長が、ベストセラーの自著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社新書)で、日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分は、著者に無断で翻訳者が書き加えていたことが8日明らかになった。
 英国人の著者ヘンリー・ストークス氏は共同通信に「後から付け加えられた。修正する必要がある」と述べた。翻訳者の藤田裕行氏は加筆を認め「2人の間で解釈に違いがあると思う。誤解が生じたとすれば私に責任がある」と語った。
 同書はストークス氏が、第2次大戦はアジア諸国を欧米の植民地支配から解放する戦争だったと主張する内容。「歴史の事実として『南京大虐殺』は、なかった。それは、中華民国政府が捏造したプロパガンダだった」と記述している。
 だがストークス氏は「そうは言えない。(この文章は)私のものでない」と言明。「大虐殺」より「事件」という表現が的確とした上で「非常に恐ろしい事件が起きたかと問われればイエスだ」と述べた。
 藤田氏は「『南京大虐殺』とかぎ括弧付きで表記したのは、30万人が殺害され2万人がレイプされたという、いわゆる『大虐殺』はなかったという趣旨だ」と説明した。
 だが同書中にその説明はなく、ストークス氏は「わけの分からない釈明だ」と批判した。
 同書は昨年12月に発売、約10万部が売れた。ストークス氏単独の著書という体裁だが、大部分は同氏とのインタビューを基に藤田氏が日本語で書き下ろしたという。藤田氏は、日本の戦争責任を否定する立場。ストークス氏に同書の詳細な内容を説明しておらず、日本語を十分に読めないストークス氏は、取材を受けるまで問題の部分を承知していなかった。
 関係者によると、インタビューの録音テープを文書化したスタッフの1人は、南京大虐殺や従軍慰安婦に関するストークス氏の発言が「文脈と異なる形で引用され故意に無視された」として辞職した。(共同=ベン・ドゥーリー、木村一浩)

 詳細な相違点については、「相違点のポイント」(参照)としてまとめられている。
 まず2点を整理したい。
 (1) 元来著者主張ではないことを翻訳者が無断で、著者名で追記したのであれば、問題である。また「日本語を十分に読めないストークス氏は、取材を受けるまで問題の部分を承知していなかった」ということは、言論の倫理に逸脱し、翻訳者が著者を故意に騙したと受け取ってもよい。このことから問題は「加害」と「被害」の構図に見える。そこでは、第一の「被害者」は著者ということになる。「加害者」は翻訳者である。
 (2) その無断追記内容が「『南京大虐殺』はなかった」という主張であることから、翻訳者による歴史修正主義的な思想態度であることが問題にされた。
 次に、この「ニュース」の根拠性を整理したおきたい。
 整理のために、仮に「加害者」と「被害者」を明示しておきたい。だが、彼らが本当に加害者・被害者であるかについては、この時点では留保したい。
 「8日明らかになった」としているが、明らかにした主体は「共同通信」である。共同通信の積極的な関わりで、ニュースとなったと見てよい。具体的な文責はベン・ドゥーリー氏と木村一浩氏である。
 では、どのように共同通信が「ニュース」を明らかにしたか。「共同通信の取材に答える英国人の著者ヘンリー・ストークス氏=7日、東京都千代田区」とあるように、共同通信の、「被害者」である著者への直接取材である。
 また「藤田氏は「『南京大虐殺』とかぎ括弧付きで表記したのは、30万人が殺害され2万人がレイプされたという、いわゆる『大虐殺』はなかったという趣旨だ」と説明した。」とある。共同通信による翻訳者・藤田氏のインタビューがあったように受け取れる。
 以上でこの初報道と構図は整理はできたようだが、最終段落の「関係者によると、インタビューの録音テープを文書化したスタッフの1人は、南京大虐殺や従軍慰安婦に関するストークス氏の発言が「文脈と異なる形で引用され故意に無視された」として辞職した。」にはやや奇妙な印象が残るので後で触れたい。
 構図上、無断加筆をした「加害者」である藤田氏については、さらに翌日、共同通信の報道が続いた。「「ゆがめられた歴史正す」 無断加筆の藤田氏ら」(参照)。

 ヘンリー・ストークス氏の著書に無断で加筆した翻訳者の 藤田裕行 (ふじた・ひろゆき) 氏は、南京大虐殺や従軍慰安婦問題などの「ゆがめられた歴史を正す」ことを目的とする保守派団体「史実を世界に発信する会」の中心メンバーだ。
 藤田氏らは、南京大虐殺や従軍慰安婦問題は「特定アジア諸国による悪意ある反日宣伝」で、日本の国益が損なわれていると主張。英文のニュースレターをウェブ上などで発信している。藤田氏によると、同書には同会代表の 加瀬英明 (かせ・ひであき) 氏も深く関与した。
 藤田氏は、自分の著作でストークス氏の主張を紹介するのではなく、あえてストークス氏の著作という体裁をとった理由を「外国特派員がこういう内容について話をしたら面白いと思った」と説明。「私が書いたら『あれは右翼だ』と言われます」と語った。
 加瀬氏は、1993年に出版され日本の韓国植民地支配を正当化したベストセラー「醜い韓国人」(光文社)をめぐり95年、韓国人著者の原稿に大幅な加筆修正を加えたとして「真の著者は加瀬氏」と批判され「文章を手直しした程度だ」と反論した。
 加瀬氏は取材に対し「ストークス氏に『こういう本を書いたらどうだ』とは言ったが、それほど詳しくはタッチしていない」と述べた。(共同)

 この記事からは、藤田氏が捏造したことを自ら告白しているように受け取れる。また、この「事件」の背景に加瀬英明氏がいたことを暗示している。
 問題はまず、「被害者」の側から考慮されなければならない。被害者の認識が問題だからとも言えるからだ。
 その意味で、ストークス氏自身がこの問題ついて、「加害者」の藤田氏をどう捉えているかが気がかりなる。
 この点について、直接、「被害者」である「著者の見解」が、該当書の出版元を経由して明らかにされた。「『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』に関する各社報道について」(参照PDF)である。

『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』に関する各社報道について
平成25年5月9日

当該書の各社報道について、問い合わせをいただいておりますが、
あらためて著者の見解を確認したところ、以下のようなものでした。
著者からのメッセージをここに掲載します。
株式会社 祥伝社


著者の見解

1. 共同通信の取材に基づく一連の記事は、著者の意見を反映しておらず、誤りです。
2. 「(南京)虐殺否定を無断加筆 ベストセラー翻訳者」との見出しも事実ではありません。
3. 著者と翻訳者の藤田裕行氏との間で、本の内容をめぐって意思の疎通を欠いていたとの報道がありますが、事実と著しく異なります。
4. 共同通信は、1937年12月に南京で起きた事に関する第5章の最後の2行の日本語訳が著者の見解を反映していないと報じています。共同通信は、針小棒大にしています。
 著者の見解は「いわゆる『南京大虐殺』はなかった。大虐殺という言葉は、起きた事を正しく表現していない。元々、それは中華民国政府のプロパガンダだった」というものです。
5. 本書に記載されたことは、すべて著者の見解です。祥伝社と著者は、問題となっている2行の記述についても訂正する必要を認めません。
ヘンリー・スコット・ストークス


Regarding the news reports of various media, we inquired with the author and obtained the statements below.
Shodensha co.,ltd

The Note from the Author

1. Various reports based on Kyodo News are wrong and they do not reflect the author's opinion.
2. The cross-head of Kyodo News which says "Best-seller translater added lines to deny Nanking Massacre without author's consultation" is not true.
3. The reports which says the author and the transrater, Hiroyuki Fujita, lacked communication regarding book contents is wrong and far from the truth.
4. It was reported by Kyodo News that the last 2 lines of the Japanese translation of Chapter 5 regarding what happened in Nanking on December 1937 did not reflect the author's view. The Kyodo News made a big deal out of it.
The author's opinion is: The so-called "Nanking Massacre" never took place. The word "Massacre" is not right to indicate what happened. It was originally a propaganda tool of the KMT government.
5. The above statements are all based on my opinion.
The publisher, Shodensha, and the author agreed that we have no need to make any corrections for the 2 lines in question at this stage.

The author
Henry Scott Storks


 PDF文書にはストークス氏本人の署名があることから、この証言は真正であるとみなしてよいだろう。
 このことは、冒頭に整理した(1)の問題における「被害者」「加害者」の構造はこれで十全に解消されたと判断してよい。つまり、「被害者」「加害者」は存在しない。
 また、相違点としてあげられている点については、著者側からは、共同通信の誤解であると理解されていることがわかる。つまり、共同通信の誤解からニュースが作られた印象を受ける。
 なお、「祥伝社」による著者ノート訳文の5には「at this stage(現時点では)」という留保が抜けているが、条件によっては訂正もありうるという含みは感じられる。ついでに、「The above statements」が「本書に記載されたことは」と訳されているが、文脈から注視されている二行への限定があることは明瞭だろう。
 さて、では、共同通信の報道は誤報だったのだろうか?
 WebサイトGoHooもこの問題を「南京大虐殺否定「翻訳者が無断加筆」 著者ら否定」(参照)で取り上げていた。同サイトの主旨からすると、共同通信報道が誤報であったかのような印象を受ける。だが、同記事には、この記事を誤報だと見なしている文章は含まれていない。「誤解を与える可能性」に留めている。

著者はこれまでにも「『南京大虐殺』は中国のプロパガンダ」との主張をしたことがあるが、共同通信の報道は、著者と全く異なる見解を翻訳者が無断で加筆したかのような誤解を与える可能性がある。

 問題を一歩進めよう。当事者側からの応答に、共同通信はどう応答したか。
 この件については、9日に「南京虐殺加筆報道を著者「否定」 記事正確と共同通信」(参照)がすでに発表されている。

 米ニューヨーク・タイムズ紙元東京支局長が、日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と自著で主張した部分は翻訳者による無断加筆だったとして、修正を求めていると伝えた共同通信の報道について、出版元の祥伝社は9日、これを否定する「著者の見解」を発表した。
 著書は「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社新書)。元東京支局長は共同通信の取材に対し「(翻訳者に)後から付け加えられた。修正する必要がある」と明言していたが、「著者の見解」では「記事は著者の意見を反映しておらず誤り」と指摘している。
 共同通信社総務局は「翻訳者同席の上で元東京支局長に取材した結果を記事化したものです。録音もとっており、記事の正確さには自信を持っています」としている。(共同)

 共同通信側としては、「翻訳者同席の上で元東京支局長に取材した結果」であって誤報ではないとしている。録音を元に最終的に争える自信も示されている。
 共同通信側の理解としてはそれで矛盾はないのだろう。
 だが、2点、疑問点は残る。
 (1)初報道では著者が翻訳者の捏造の被害者であるかのような構図描かれているし、相違があったとする自社報道について著者側から疑問が呈されているのだから、再度、著者へのインタビューを試みて、その結果が報道されるべきではないだろうか? その結果、共同通信の取材に間違いがないとしても、共同通信が誤解していたことがあきらかになる可能性はあるだろう。
 (2)取材の経緯は正しかったのだろうか?
 この2点目の疑問については、ネットから見える資料からはほとんど明らかにならない。ただ、GoHooサイトの先の記事には興味深い言及がある。

 祥伝社は12日現在、共同通信社に記事の訂正や撤回の要請は行っていない。ただ、角田取締役は、8日共同通信記者に取材された際、「一日あれば出版社として公式コメントを用意するから配信を遅らせてほしい」と要望していたことを明かし、「報道機関として公平を期すのであれば、一日待って反論も載せてほしかった」と話している。共同通信は9日に配信した記事で「著者の見解」を伝えた。

 祥伝社・角田取締役への言及はどこから得たものか、この記事からはわからない。
 しかし、時系列を整理すると、「報道機関として公平を期すのであれば、一日待って反論も載せてほしかった」という彼の説明は理解しやすい。というのは、著者見解が、共同通信記事の翌日にすぐに出てくるのは多少不自然な印象を受けるからだ。
 祥伝社・角田取締役のこの言及が正しければ、共同通信はその一日をあえて待たないで記事を出したと見てよいだろう。その切迫性は何かというと、あくまで推測に過ぎないが、祥伝社発表より急がなければニュース性が減じられると見たことではないだろうか。
 その意味では、共同通信がもう少し双方公平に手順を踏んで一日待って報道していたら、初報道は随分変わったものになった可能性は高い。
 ところで、この件については、もう一点、気がかりなことがある。先に触れたが初報道の次の言及である。

 関係者によると、インタビューの録音テープを文書化したスタッフの1人は、南京大虐殺や従軍慰安婦に関するストークス氏の発言が「文脈と異なる形で引用され故意に無視された」として辞職した。

 このスタッフが誰であるかは、共同通信は報道していないが、アンジェラ・エリカ・クボ氏本人がすでに名乗り出て、この件に関連し、辞職にあたって藤田氏に送ったメール(5月2日)とストークス氏に送ったメール(5月4日)を公開している。Japan Subculture Recerch Centerサイト「In regards to “Questions surround reporter’s revisionist take on Japan’s history”」(参照)である。気になる部分を見てみよう。

(藤田氏宛)
It seems that words are being put into Henry’s mouth and that the interviews don’t reflect his real opinions or thoughts–and that there are many leading questions (誘導尋問).

言葉がヘンリー氏口に押し込まれ、インタビューは彼の真意や思考を反映せず、多くの誘導尋問があったように思えます。



(ストークス氏宛)
Henry, I have a lot of respect for you, and I pulled out of this job because of this respect. I will be at the press club tomorrow and would like to speak to you about this transcripts. Perhaps you should consider speaking to someone about this issue, because I find it very serious that your book is very different from what you say in the audio.

ヘンリーさん、私はあなたを大変尊敬しています。そして、その尊敬の念がが、私をこの仕事から引かせてくれました。私は明日、記者クラブに臨み、あなたとこの口述についてお話したいと思います。もしかすると、あなたは、この件について誰かと相談を検討することになるでしょう。なぜなら、あなたの書籍は、あなたの録音中の発言とは非常に異なっている事態を私は非常に深刻なことだとわかっているからです。


 メールからは、5日に記者クラブの会見と会談があったことが伺われる。
 実際にクボ氏とストークス氏の会談があったかについては、ネットの情報からはわからない。だが、藤田氏とストークス氏は事態を了解していただろうし、おそらく、この時点で共同通信が問題に関心を寄せただろうことは理解できる。
 クボ氏のメールで気になるのは、「I was asked to do the transcripts for an English version of the book. (私はこの書籍の英語版の書き起こしを頼まれていました)」という点である。
 クボ氏は共同通信が問題とした日本語の該当書を担当したのではなく、新たに作成しようとしている英語版のプロジェクトに参加したように見える。おそらくその過程で、該当書の資料として以前の録音を聞いたのではないだろうか。
 この件については、クボ氏とストークス氏の会談があったのなら、そこでクボ氏の誤解であったかについては議論されたことだろう。その結果、クボ氏が誤解と了解した可能性も否定できないが、9日時点でこのメールが公開されていることは、その可能性は低いだろうと推測される。あるいは、議論はなかったのかもしれない。
 この経緯にどの程度共同通信が関わっていたかについてはわからないが、共同通信がクボ氏の名前とその会談に言及していないのは、クボ氏と共同通信のなんらかの関係を暗示しているかもしれない。
 以上が今回の関連で思ったことだが、国際的にはストークス氏の見解が歪められて伝わったという問題でないだろうことは、TIME記事「Best-Selling Author Feels the Heat in Japan’s History Wars」(参照)からもうかがえる。
 共同通信のベン・ドゥーリー氏と木村一浩氏、翻訳の藤田裕行氏、著者のヘンリー・ストークス氏、およびアンジェラ・エリカ・クボ氏を交えた公開のパネル・セッションがあれば経緯はより明らかになるだろう。共同通信が提案してもよいのではないだろうか。
 
 

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2014.05.05

[書評]読む・書く・考える IQ200の「学び」の方法(矢野祥)

 そういえば、自著「考える生き方」(参照)を書いたとき、当初「学び方」の本を含めた二冊構想だった。だが、「学び方」のほうの話はとりあえず後にして、その前振り的な部分を小さく先の一冊の章に納めることにした。自分の「学び方」にそれほど自信がないのと、もう少し「メタ学習」の方法について自分を実験材料にして知りたいという思いもあった。
 残念ながらその二冊目を書くかどうかはわからないが、最近はいろいろな手段もあるのでいつか書くだけは書いてみたいとも思う。そうなると以前のことを思い出し、もっと、「学び方」「メタ学習」について知りたいと思う。

cover
読む・書く・考える
IQ200の「学び」の方法
 と、いう背景もあって、本書、「読む・書く・考える IQ200の「学び」の方法(矢野祥)」(参照)を読んだ。天才はどう学習しているのだろうか、私のような凡才が得られる「メタ学習」のヒントもあるんじゃないか、という願望もある。
 私は矢野祥という人をまったく知らないままこの本を読んだが、メディアでは10年以上前から有名な人だったらしい。「僕、9歳の大学生! (新潮文庫)」(参照)という本もあった。そちらを先に読んだほうが、たぶんよい。この「IQ200の「学び」の方法」は、9歳の天才のその後の、22歳になったまでの話だからだ。それでも結果的に「IQ200の「学び」の方法」を先に読んで、ちょっと間を置きたい感じもしている。
 IQ200という話を聞くと、すごい天才だと思う人も多いかもしれないが、子どもの場合IQは、生活年齢と精神年齢の比であるか、同年齢集団の偏差なので、基本的に早熟というくらいの意味だろうと思う。大人になるにつれ意味は自然に薄れる。それでも暗黙に想定される天才というのもそこに含まれるだろうし、この著者が天才であることは疑いようもない。
 しかし、読みながら奇妙なもどかしさも感じた。
 読みやすく整理されているわりに、個人独自の内的な人格の核の感覚(そこにこそ天才の秘密があるだろう)が文章に微妙に反映されていないように思えた。
 文章というものの妙味は、「書き手自身」と「自分が書いた文章という他者」の関係がもたらす未知の困惑に現れる。そういう部分がこの本にはあまり見当たらない。こういうことはゴーストライター本に多いのだが、まさかこの天才がゴーストライターを使うとも思えない。
 その疑問は最後のページで解けた。どうやらこの本の原文は英文で、父親が翻訳したらしい。あのもどかしさの由来は、本人の文章という肉体が微妙なバッファを介していたからだろう。もちろん、翻訳によっても人格の核の感覚や肉体的な感覚は文章に表現できるものだが、この本では父の理解を通してすっきりフィルターされているように思えた。
 けして非難していうわけではないが、おそらく著者は日本語は堪能ではあるだろうが、このような自己表出的な文章は日常の日本語では書けないのではないだろうか。
 もう一点関連して思ったことがある。これは彼の天才の秘密に関連しているだろうと思うが、クリスチャンとして育ち、また主に母親の絶対的な肯定感を得て育ったせいか、常人が人生に持つくだらない悩みのような部分が、すっきりと捨象されていることについてだ。それが天才の一つの秘密に関係しているだろう。
 私はそのことに必ずしも批判的ではない。私は思うのだが、大半の人類がもう数千年すると、こういうタイプの人間知性(雑事をすっきり捨象する知性)を持つようになるのではないかと思う。
 それは「信仰」にも関連してはいるだろうが、著者はその知性から類推しても明らかだが、いわゆる狂信的な信仰を持っているわけではない。むしろ理性的に生きている。当然と言えば当然だが。
 これに関連して、彼は読者に、根源的な問いの例をいくつか投げかけている。

 ここで、読者であるあなたに「考えて」みていただきたいと思います。以下は私からあなたへの「問い」です。

*私たちはみんな、生まれて100年も経たないうちに、何の跡形もなく消え去ってしまいます。いつかは太陽もなくなってしまいます。そんな中であなたは、自分の行いが(他の人の行いよりも)よいことで、意味のあることだと正当化できますか?



*なぜ世界から争いや偏見が消えないのでしょう。

 問いは、8つある。しかも、究極的に問いを出したよいうより、思いつくままに考える練習として出されている。
 彼の主張は、こうした問いを各人のなかでじっくり考えてみることが重要だということだ。そしてじっくり考えた結論だけが「後の自分の行動に悔いをのこさなくさせるのです」と主張する。
 おそらく彼自身、こうした究極的な問いをたて、理路整然とした答えを得ているのだろう。特に、私が引用した「いつかは太陽もなくなって」という問いにも、肯定的に答えているのだろう。
 ここで私を引き合いに出すのは冗談みたいだが、私もこうした問題を大人になってもしょっちゅう考える。しかし、まったく答えがでない。全部疑問のままである。
 そこが天才と凡才の差といえば、そうだが、ここで私はこう考える。こうした問題に答えを出せたら、人生はどれほどか整然と進むだろう、と。
 私はそして、ちょっといやったらしい言い方になるのだが、こうした問題は、私の人類の知性レベルでは解けないのだろうと思う。
 その場合、彼のようには解けないのだから、解かずに解けるふりをしたら、それなりに人生は整然と進むのではないだろうか。
 私がここで思っているのは、「信仰」である。
 そして私が疑っていることは、彼はその「信仰」に立ってしまったから、天才なのではないだろうか、ということだ。
 くだらない話をしているようだが、この問いは、天才というものへの私の内的な了解とも関係しているので、もう少し続けたい。
 天才とはなにか?
 私なりに思ったことは、特にモーツアルトについて考えて思ったのだが、天才とは、ただその人に憑依した別人格の能力なのではないだろうか?ということだ。
 多くの人が天才に憧れるが、天才というのは、ただ天才という別の人格の頭脳がその人にたまたまくっついているだけなのではないのだろうか?
 私は冗談を言っているのではなく、逆にそのように自己と能力を分離できることが、実は天才の秘密なのではないかということだ。
 そうした点で本書を読んでいくと、多少だが、気になることがある。読書についてこう言及している点だ。速読法の説明のようにも聞こえる。

 自分にとって適度なスピードで読んでいるとき、私の中の「心の声」は消え、完全に静かな世界になります。ところが「この本は、あとどれくらいで終わるのだろう」などと、ちょっとでも考えたりすると、また声が戻ってきます。そういう意味では、読書は「瞑想」に似ているのかもしれません。雑念が邪魔をするのです。


 静かな気持ちになり、すべてに対して心がオープンであれば、読書の主体である自分は、どんな時代へも、どんな地域でも、そして誰の心の中へでも飛んでいくことができます。そこにはまったく制限がありません。

 読書に夢中になれる人なら誰でも体験することだとも言える。
 が、天才の秘密の一端として見てもよいかもしれない。ここで述べられている「心の声」「雑念」が、私たち凡人の自意識なんだと考えてよいように私は思える。
 天才というのは、自己の意識を静寂にして、実質別の人格の能力を存分に利用しているのではないだろうか。
 この引用の先はさらに興味深い話が続く。

子どものころからそうなのですが、詩集などを読んでいるときは、詩にある韻に影響されるのか、メロディーが頭に出てくることがあります。

 このあたりはモーツアルトなども同じだし、作曲をする人なら誰でも、どこからともなくやってくるメロディーの神秘については共感できるだろう。
 私が関心を持つのは、おそらく聴覚に由来する他者分離感は天才の秘密に関係しているか、あるいはそうした音感の脳の働きが、現状の人類が獲得した知性のさらに延長の可能性を意味しているのではないかという点だ。
 以上は私の視点から読みだが、本書は、この本に求められるコンセプトとして、通常の勉強法、高校生や大学生の勉強のヒントなる学習法についての言及も多い。
 ただ、それはメソッド化できるほどには整理されてはいない。それでも読む人が読めば、「ああ、あれか、あれが勉強のコツだよな」と思うことはあるだろう。
 
 
 

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2014.05.04

[書評]7カ国語をモノにした人の勉強法(橋本陽介)

 書名に惹かれて「7カ国語をモノにした人の勉強法(橋本陽介)」(参照)という本を読んでみた。面白かった。かなり同意できる内容だった。

cover
7カ国語をモノにした人
の勉強法
 書籍の名称は、たいていは出版社や編集者が付けるものだ。よく書評なのでは書名についていろいろと評が付くこともあるが、そういう場合、著者というのは困惑するしかない。とはいえ、この書名については、嘘があるというわけでもない。では、モノにしたという「7カ国語」は何か、とまず見ていく。

 私はこれまで言葉と文学に関する研究を行いつつ、数多くの外国語を学んできました。母語である日本語の他に、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語を習得し、まだ習得には至りませんが、韓国語などを学んでいます。

 「7カ国語」は、日本語を含めて、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語ということだろう。
 韓国語についてはかなり謙遜されているので、逆に言えば、他に上げられている言語の習得度はかなり高いのではないかと思われる。それに加えて、よく多言語者の言語カウントに多いロマンス系の語が少ないこともその信頼性を高めているだろう。フランス語とスペイン語が混乱したという挿話も本書には含まれている。
 また、中国語が筆頭に置かれているのも興味深い。本書を読むとわかるが、著者が実際に外国語習得として意識されたのが、高校三年生のときの中国への短期留学だった。そのとき、こう感得された。

 外国語で話すということは、こういう感覚なのだということが、このときにつかめたのでした。すると、それまでの英語から始まった自分の語学学習の方法が、まったくダメなものだったということがわかりました。

 本書の真価は、この「外国語で話すということは、こういう感覚なのだ」という内的な感覚についての、ある種、レポートになっている点にある。

 この本の読者の多くは、日本語を母語とし、新たに外国語を学ぼうという人たちだと思います。外国語を母語にすることは、特別な環境でもないかぎりムリですが、「母語のように話す」のであれば、まったく不可能なことではありません。この「母語のように話す」ときの感覚とは、いかなるものなのでしょうか。
 外国語のできない人は、この感覚がつかめていません。私も外国語のひとつも話せなかったときには、外国語で話すということがどういう感覚なのか、まったく見当もつきませんでした。もちろん、どういう勉強をすれば、それが可能になるのかもわかりませんでした。
 いまの私は、複数の言語を外国語として理解し話すことができますが、たしかに不思議な感覚です。まずその不思議な感覚について、振り返ってみることにしましょう。

 そして語られることが興味深いのだが、まず、外国語を話すということは「モード」の切り替えであり、そうてきぱきと切り替わるものではないとしていることだ。通訳や翻訳のプロセスとは違うとしている。
 次に、「空欄」という表現をしている。英語、フランス語、スペイン語を例として。

 つまり、それらの言語を喋っているときは、頭の中にそれぞれ、「冠詞のスペース」「名詞のスペース」「be動詞のスペース」「形容詞のスペース」というような空欄ができあがっていて、そこに自然に語が埋まっていく感じになります。

 このあたりの説明で、「ああ、あれか」と共感する人が多いだろう。
 特に、英語とフランス語を学ぶと、このあたりの感覚は、あれだと思うものがあろうだろう。
 著者はこの先に、ロシア語の例を持ち出す。ロシア語の場合、この三か国の「空欄」の仕組みが異なるというのだ。そしてそれゆえに、ロシア語の習得は難しかったという。と同時に、難しいがゆえに、先の三か国語の「空欄」的な要素に気がついたともいう。
 この話題は本書ではいったん途切れるが、では著者はどうやってロシア語を習得したかという記述を繋いでいくと、見えてくるものがある。
 短期留学で徹底的にロシア語の音に耳が慣れたときに、ある変化が起きた。

音声の体系が頭に入ると、不思議なことに、あれほど頭に入らなかったロシア語の単語もするする暗記できるようになりました。この点は本当に強調しておきたいところです。とにかく、死ぬほど音を聞くのが大切です。


 ところが、教科書のような話し方ではなく、実際にはロシア人がロシア語で話すリズムをずっと聞き続けていると、一週間後くらいから話せるような気がしてきました。すると、複雑な語形変化が自然と頭に入るようになり、単語はすんなりと覚えられるのです。2週間もするころには、すっかりロシア語のリズムが身についており、単語帳はそれほど増えていないのにもかかわらず、原書をスムーズに読めるようになりました。


改めて言語のリズム、ネイティブスピーカーが話すリズムをきっちりととらえることが、「文法」「リーディング」「語彙力」にまで、よい影響を及ぼすことを痛感しました。

 著者のいう、「空欄」と「言語のリズム」が、外国語習得の鍵であるということが伺われるが、その内的な部分へのアプローチは、私の読んだ限りではまだ十分に考察はされていない。おそらく、その「言語のリズム」が「空欄」を形成するのだろうと思うし、おそらく著者もそれに同意するだろう。
 もう一つ重要なことがある。この過程で、著者は音と世界を結びつけるという点に注目はしている。そしてソシュールなどにも言及されている。しかし、重要なのは、ただソシュール言語学的な記号的結合よりも、状況と発話の結合である。

 外国語が何ヵ国語もできる人を私は何人も知っていますが、そういう人たちは初級の内から学習した言葉をすぐに使うことができます。なぜすぐに使えるかというと、最初から覚え方が違うのです。
 彼らは、与えられた文を単に暗記するのではなく、それを実際に使う場面を想定し、頭の中で、あるいは口に出して使っています。

 こうした語学学習のある秘訣みたいなものをこうした形で抜き出すと、ほとんどピンズラーの原理と一致するのも興味深い。私がそういう視点で読んでしまったというのもあるだろうが。
 あと、ちょっと些細な点を取り上げるみたいになるが。「"strength"をどう発音するか」という項が興味深かった。この著者の説明が間違っているという指摘ではないのでそこは留意されたい。

"strength"をどう発音するか
 次に音節の話をしましょう。(中略)
 ところが、英語などでは違います。例えば、"strength"という語は、"e"という母音を中心とした、ひとつの音節です。その母音の前に、"s""t""r"と3つも子音が重なっています。
 ところが、この単語をカタカナで表記すると、どうなりますか。「ストレングス」です。日本人は、ひとつの音節である"strengh"を「ス」「ト」「レ」「グ」「ス」という6つの「単位」で認識しています。ここで、音節ではなく、単位「モーラ」という語を用いたのは、この2つが微妙に異なるためです。
 私たちが実際に「ストレングス」を発音するときも、さすがに「ス、ト、レ、ン、グ、ス」というように6つの音節にまではなりませんん。おそらく"strengus"くらいの感じになっているのではないでしょうか。それでも、もとの言葉は1音節ですから、それが4つか5つの音節で発音されてしまうが、ほとんどです。

 些細な話というのは、"strength"という語の発音は、IPAで示すと、/strɛŋkθ/というように、"g"の音は無声音になることだ。
 あるいは、さらに"g"がドロップして、/strɛŋθ/または/strɛnθ/になる。
 なにがこういう現象を引き越しているかというと、まさに「言語のリズム」に関連した法則があるからだ。
 と同時に、"strength"というのは、実は英語という言語の正書法の結果であり、語学学習は、その母語者の再学習と同じように正書法をつい一緒に学んでしまうことになる。この例で言えば、"strength"という語が"strong"と関連があることを文化として覚えよという正書法の要請からこのように表記されている。
 実際、語学を音声から学ぶとき、実にやっかないな問題は、正書法だ。障害だと言ってもよいかと思う。
 特に英語の場合、正書法を権威づける国民国家の機関が存在しないので、さらに混乱が広まる。もちろん、そこが英語のよい面でもあるのが、困った面でもある。
 英語を学習するとき、この点(正書法とリズムの関連)が、もっとも配慮されなければいけないのではないかと思うが、日本の英語教育では難しいだろう。
 
 

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2014.05.03

無料語学学習サイト・Duolingo(デュオリンゴ)の微妙な楽しみ

 無料で語学が学べるDuolingoというサービスがある。知っている人もいるかもしれない。へえ、いいじゃないのと思う人もいるかもしれない。しかし、先日までは日本語話者を対象にしていなかった。だから知らない日本人も少なくないだろう。英語を使う人がフランス語やスペイン語を学ぶという感じのサービスだったのだ。
 そこで僕は英語でフランス語学習をするのにこれを使っている。音声中心のピンズラー方式でフランス語を学習したので、"je veux"と"elle veut"の違いがわかっていなかった。お恥ずかしいかぎり。
 で、Duolingoが便利かというと、微妙な感じ。話が前後するけど、このサービスにはディスカッションの機能があって、「現状Duolingoはこれでいいのか」とか「文法をもっときちんと教えろよ」とか、いろいろみんなが議論はしている。それもけっこう面白い。
 このDuolingo、先日、日本人向けに英語学習のサービスができた。
 そういうのあるといいよねと思っていたので、どんな感じなのか触ってみた。
 結論からいうと、まず怒った。
 教材が変なのだ。正解が、これじゃなーい、の連発。おまえら日本語がおかしいだろ、という感じだったのだ。そして、がっかりした。
 それで終わりでいいじゃんと思っていた。しかたないよ、無料だし。こんなものよ。昨今の無料ブログのクオリティを見れ。
 だったのだが、怒りモードにあるとき、私のほうが正解ですよ、というのをちょこっと通達したら、数日後、あなたの解答を採用しました、という連絡があって、ほぉっと思った。
 そこで僕は考えなおした。
 考えてみたらDuolingoというのは利用者が作っていく語学サイトなんだよな。
 せっかく自分は日本語のネイティブだし、それなりに英語も勉強してきたんだから、これは日本語としてどうよ、というのをいちいち指摘していくかな、と思い直した。
 というわけで、この数日は精力的にやっている。もう教程の半分くらいに来た。
 当初は、これじゃなーい、を連発したが、正しい日本語やきれいな日本語というのでなくてもいいか、それも許容かな、というのはそれでいいか、と思うようになった。そして、さすがにこれはなあ、というのだけ指摘するようにした。
 その過程で、いや、反省。意外と考えさせられる事例もあり、存外に自分の英語の勉強になる面もあった。
 話はそんだけなのだが、文章で書いてもリアリティがないんで、ちょっと例でも上げてみますかね。




スープはドリンクするのか?

 思わずスクリーンショットしたのが、これ。「私は私のスープを飲みます」の英訳なんで、"I eat my soup."としたら、不正解。正解は、"I drink my soup."。いやあ、切れるでしょ。フツー。

 そのあと、ちょっと考え直して、"I drink my soup."って言うのかな、現代英語では、と思って、いろいろ調べてみた。
 結論、言える。どうやら、スプーン使うならeatだけど、マグでぐびっだとdrinkだよね、ということらしい。ほお。Duolingoにはマグの絵は出てこなかったのだけど。




日本語で主語を省略するのは「私」だけではないよ


 「その都市を知っています」というので、"We"で訳したら、バツだった。
 正解は、"I"というわけ。
 まあ、一人称だと日本語では省略されるという原理で教材作っているのだろうな。ちなみに、僕が"We"にしたのは、フランス語だと"On"だし、フランス語の"On"の感覚が日本語の人称省略に近いと思っているからだ。
 おまけに言うと、"On"使うと、"Nous"の活用形覚えなくていいしね。さらについでいうと、"Tu"だと"Vous"の活用形覚えなくていい。というか、フランス語ってそういう仕組みの言語になってんじゃないの。つまり、"Nous"と"Vous"にはちょっと構えた感じがあるんじゃないか。ええと、話題は、Duolingoでした。戻る。




「船長は朝に港にいます」なのか?

 "The captain is in the port in the morning."という問題を見て、まあ、これはあれだなあ、今のDuolingoのスタッフだと「朝船長は港にいます」が正解だろうなとわかった。
 そこで読点を使うかな「朝、船長は港にいます」とも思った。
 口語だとそういうことなんだろうけど、書き言葉的には、それはちょっと文法が違うんで、これは、「船長は朝は港にいます」だろうと考えた。「昼は別のとこだよね」という含みである。まあしかし、これは不正解だろうなと思ってデバッグがてらに入れたら、案の定の結果だった。
 しかも「船長は朝に港にいます」は日本語として不自然。このあたり、不自然と感じる日本語の能力がまだスタッフにはないのだろう。なぜ、それが不自然かの説明はちょっと難しい。「に」が重なることにも不自然さがあるが、それは修辞上の問題。「船長は朝には港にいます」なら自然になるので、文法的な問題。しかし、まあそんな議論をしていてもしかたないよね。




「ここにランプがあります」のランプは、"a lamp"それとも"the lamp"

 「ここにランプがあります。」もちょっとためらった。ランプをどう英訳するか。
 重要なのは「が」という格助詞。日本語の「が」については、三上章が提起してそれをFillmoreの格文法とかで受けて、新情報と旧情報で使い分けるとかいう議論がある。あれをまとめたのは久野暲だったかな。いずれ、「が」が新情報を担っているので、ここは、"a lamp"になるのだけど、まあ、そういう回答をしてみるか、不正解。まあ、しかたないか。
 しかし、英語で見たとき、"Here is"と来たとき"the"が想定されるやすいというのが、あるのかもしれない。「ほらあれがめっかった!」という感覚かもしれない。




「あなたは人間です」って、それまでベム?

 これはシュール。「あなたは人間です。」。いや、それどういうシチュエーションの発話なんだろ? この手のシュールな問題は、フランス語学習のDuolingoにもよく出てくるので慣れていた。
 ただ、どう答える、これ?「あなたは人間です。」の英訳?
 考えると、シチュエーションをつい想定するし、やたらとシュールなシチュエーションしか浮かばない。
 ベタに訳したらどうかなと。Duolingoでは多くの場合、ベタに訳すと正解になるし。で、"You are a human being."。
 バツでした。正解は、"You are a person."、うーむ。
 ところで、"You are a human being."っていう英語はありなのか。ちょっと気になってコーパス的に調べると、言えなくもなさそうだった。
 そういえばと思って、Gingerにもかけてみた。文法的なんじゃねの答えが出たあとこんなお勧めが出た。


You are a great human being.
You are a valuable human being.
A wasted human being you are.
You are a free human being.
You are a beautiful human being.
You are a wonderful human being.
You are a fabulous human being.
You are a disgusting human being.

 英語だと、"human being"が問われるのは、「汝はいかなる存在なりや?」ということみたいですね。つまり、ハイデガーのように存在そのものを答えるのではなくと、ああ、これ冗談です。最近ツイッターとかでも思ったのだけど、冗談って通じない人多いものです。というか、僕の冗談がひねくれているのもあるけど。




「少年と彼の父」って日本語はどうだろか

 "It is like the relationship of a boy with his father."は、ああ、これはDuolingoベタが回答だろうと思った。つまり「それは少年と彼の父の関係に似ている。」なんだろう。
 だけど、日本語でそう言わないです。「少年と彼の父」なんて、日常言うのは僕くらいなものです。
 というわけで、回答例にあるかなと思って、より自然な「少年とその父」を入れてみたら、バツでした。Duolingoは300くらいまで解答が入れられるので、この解答も採用されるとよいけど。
 そういえば、"a boy with his father"よりも、"a son with his father"じゃないのと思って、Gingerにかけたら、そう勧めが出て来ましたね。




見えたカップルは一組?

 「カップルが見えます。」かあ、覗き? うーむ、まあ、べたに考えると、"I can see couples."かな、感覚としては、"some"が来そうなんだけどと思って入れたら、バツでした。正解は"I see can see a couple."または"I see a couple."でした。
 "see"には「見える」という含みがあるので、"can"は要らないよねとも思ったのだけど、ついベタに考えてしまった。というわけで、Duolingo使っていると、Duolingo的な語学の学習になっちゃう面はある。
 で、"a couple"か"couples"かなんだけど、前者だと、「おーい、いるかよ、ホントにカップルがいるかあ?」という感じではないかな。
 というわけで、この手の話もそろそろ飽きてきたことかと思います。詳しく知りたいかたは、有料のnoteのほうでどうぞ(冗談です)。




でもまあ、これはこれで面白いんじゃないの

 Duolingoの現状、これじゃ語学の勉強に使えないという人もいるかと思う。
 だけど、割り切ってしまうと、裏にいる英語話者とかバイリンガルの人の言語感覚がわかって、それはそれで面白いもんです。
 僕としては、普通に日本語のネイティブとして、これじゃなーいのバグチェッカーとしてDuolingoに貢献したいなと思うようになった。
 ちなみに、Duolingoの面白さはこうした、無料の教材より、本来の翻訳プロジェクトとディスカッションやSNSの機能にある。だけど現状、日本人向けにはそのサービスが公開されていない。
 いや、ディスカッションはあるんでちょっと覗いて見たら、お前もそうだよと言われるかもしれないけど、延々とした些末な議論なども見られた。
 日本人って、これもお前もなーの部類だけど、英語にコンプレックスありすぎなんですよね。ツイッターが日本で流行って、年に一度バルス祭りがあるといった一種の特殊な文化的な現象として面白いのかもしれないけど。
 
 

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2014.05.01

李白「静夜思」を巡って

 中国語の勉強をしていると漢文について学んだことが別の視点から見えるようになっていろいろ面白いのだが、なかでも漢詩について得ることが多い。どういうことかという一例として、李白「静夜思」を取り上げてみたい。
 暗記し、吟詠している人もいるだろう(ちなみに僕もね)。味気ないけど、あえて横書きにするとこう。

床前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷

 下しはいろいろあるかと思うが、私の場合。

  床前、月光を看る
  疑うらくは是れ地上の霜かと
  頭を挙げて山月を望み
  頭を低れて故郷を思う

 いきなり余談だが、現在の中国では縦書きはほとんど見かけない。先日、自分が中国語を勉強しているという話を人にしたおり、日本語と中国語は縦書きですよねという話になり、いや、そうでもないんですよと言うと驚いていた。さておき。
 吟詠は流派とかあるんだろうけど、こんなたとえば、こんな感じ。録音悪いけど、字面が見やすいので。

 若い女性の詩吟もあった。これはよいなあ。

 この李白「静夜思」だが、ほとんど中国人が暗記して、朗詠できる。小学校で必須で習うらしい。というわけで、小学生向けの教材がけっこうある。なお、この教材、詩の朗読のあとに中国語の解説が付いているが、そうしないと意味が現代の中国人には伝わらないためだろう。一般人でいうなら、漢文をしっかり学ぶ日本人のほうが中国古典には強い傾向がある。

 みんな知っているので、ついメロディも付くようだ。

 ところで、この中国人が朗詠したり歌ったりしている歌詞だが、というか、詩だが、こうなっている。

床前明月光
疑是地上霜
举头望明月
低头思故乡

 一句目が「窗前明月光」となっているのもある。いずれも、日本で普及している李白「静夜思」とは違う。簡体字など漢字表記の差というのではなく。

床前看月光    床前明月光
疑是地上霜    疑是地上霜
挙頭望山月    举头望明月
低頭思故郷    低头思故乡

 どっちが正しいのかというと、この手のことはたいてい漢文の研究が進んでいる日本のほうが正しい。単純な話、推敲の原義を尋ねてもわかるが、練られた漢詩において同じ言葉が二度出てくるわけはない。しかし、まあ、その手の話は専門家に任せるとして。
 一番の違いは、その「明月」にあるのだが、「山月」を「明月」にするのはそれほど違和感がないが、冒頭の「看月光」が「明月光」となるのは、「看」は動詞だろうと思うと、けっこう違和感がある。他の句にはそれぞれ動詞が配してあるのに、そこが抜けてて中国人には違和感がないのか? たぶん、ないのだろう。というあたりで、漢詩を吟じる中国人の意識というのは、どうも日本人のそれとは違う。

cover
続・新発想 中国語の発音
言葉遊び・漢詩編-
 そもそも、音の音楽性を重んじているのだろうし、小学生の教材になっているのは、拼音の学習の一環らしい。というようなことを「続・新発想 中国語の発音 言葉遊び・漢詩編」(参照)を見てても思った。ちなみにこの本にも「静夜思」は載っている。
 ところで、この中国語で読んだときの漢詩の音楽性だが、実際の李白はどう読んだのかというと、現在の普通話のわけはない。そこで古代の音に再現する試みというのもある。これは表記が現代的なんで考証としての信頼性はそれほどないにせよ、その一例であれ、実際に聞くとけっこう衝撃的である。

 押韻を見ると現在の普通話と大きく差がなく、基本的に漢詩は普通話で読んでもそこに大きな差はでないので、韻文であることは変わりない。だから現代中国でも愛されているのだろう。
 問題は、平仄である。平は平声、仄は上声・去声・入声で、日本だとこれを記した辞書を使って漢詩を作ってきたわけだが、現代の普通話では入声がない。そのため、平仄の原理の一つが基本的に壊れているし、いわゆる漢詩の平仄は当てはまらない。そこでいろいろと話があるらしいが、普通話「静夜思」で見ると、押韻に加えて、その前の語の声調は揃っているので、やはり韻文に聞こえるのだろう。
 再現された普通話「静夜思」は入声(子音で終わる語)があるため、どっちかというと、日本人の白文読みに近い。
 さらに古代の中国語の音はどうかというと、地域差などもあってこの再現があっているのかどうかわからないが、そうだとするとこれもけっこう衝撃的なものがある。

 日本語の漢字に入声が残ったのは、唐代くらいまでの音が定着したからだろうが、このあたりで興味深いのは、桓武天皇・延暦11年(792年)に明経之徒(学生)は漢音を学べという勅令が出ていることだ。ようするにこの時代でも、漢音がそれほど普及していなかった。翌年には僧に対しても同趣旨の勅令が出たところを見ると、寺院では呉音を使っていたのだろう。
 ただ、日本書紀は基本的に漢音なので、そのころから唐化は進められていただろうし、個人的には日本書紀の原型は唐が作成したのではないかと思うので当然だろう。
 だんだん話がずれてくるが、古事記は呉音なので古いという議論があるが、文選読みが呉音なので、時代ということより、唐化との距離の問題だろう。
 こうして見ると、唐というのが日本文化の成立に与えた珍妙な影響は大きなもんだなと思うし、反面、唐が早々に滅亡したおかげで、日本文化が、変な方向に自由に進んでいくことができたのだろうなと、しみじみとする。
 
 

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