日本語の無助詞文は中国語とどう違うのか?
中国語を勉強していて、これは日本語の無助詞文となんか関係があるんじゃないかと、ときおり思う。が、特に結論はでないので、以下、適当にぐだぐだと書いてみる。
日本語の口語は無助詞文が多い。実は書き言葉としゃべり言葉がけっこう違っている。
いわゆる「てにをは」だが、しゃべり言葉では、「てに」は省略されないことが多いが、「をは」はけっこう省略される。
いや、これは、省略なのか?というのも気になる。そもそも、日本語の口語の文法が書き言葉の文法と違っているんじゃないか。
こうした現象はちょっと気に留めれば、日本人なら誰にでもわかることなので、ざっと調べてみるといくつか研究もあった。ただ、ざっと見たところ、十分な説明はないようだ。それとこれに関連した語順の問題があまり意識されていない印象があった。
具体的に例えば。
「大丈夫、それ、食える。」
という文だが、書き言葉(敬体)にすると、「大丈夫です。それは食えます」となるかと思う。すると、「それ」の後ろに「は」が抜けたということになる。また、
「彼、日本語、変」
だと、「彼の日本語は変だ」だろう。おなじく「は」の抜けに見える。だが、「は」でなく、「が」でもいい。
「彼、日本語が変」
とも言える。
「が」と「は」の差ついては、「は」は「が」の主題化として見てもよいので、「彼、日本語が変」→「彼、日本語は変」とも見れる。
ここで気がつくのは、この発話の主題は「彼」なんで、実は書き言葉は「彼は日本語が変」で、いわゆる「象は鼻が長い」構文だろう。
ためしに主題を入れ替えると、「日本語、彼、変」になる。「日本語は彼が変」(彼女は変じゃないのに)。主題が変わることで意味が変わる。
この例で変則的に「変、彼、日本語」と言えないこともないが、これだと、倒置という意識が働いている。その意味でやはり「変」の部分は意識的な倒置以外では移動できない。
というあたりで、実は、日本語の無助詞文の背後には、意外と語順の規則が存在している。
ということは、無助詞文で語順規則があるというのは、そういう言語である中国語となんか関係があるんじゃないか?と疑問がわく。
この例だが、「象は鼻が長い」構文である。口語的に無助詞にすると。「象、鼻、長っ」である。
この構文は中国語にもある。主述述語文である。
「大象鼻子很长」(Dà xiàng bízi hěn cháng)
面白いことに日本語同様、「象の鼻は長い」のように「大象的鼻子很長。」とも言える。そのほうが自然なのかはよくわからないが。
他の言語にこうした現象があるのかもよくわからない。英語だと無理そうだが、「Elephant nose long」と言われると通じるだろうから、意味的な補いは自然に効く。それでも、英語だと日本語や中国語のような語順の規則姓が影響しているわけではない。「Long elephant nose」でも同じだろう。
日本語と中国にどうしてこういう文法構造があるのかわからない。ざっと中国語の文法書を見ても、主述述語文として分類しているだけで、その文法を可能するする基底的な規則は示されていない。まあ、しかし、日本語ですらわからないのだからしかたない。
話がちょっとずれるのだが。例えば、次の無助詞文、
「ビットコイン、換金、どこ」
は、「ビットコインの換金はどこか?」だろう。
これを「できる」で言い換えると、
「ビットコイン、換金、どこでできる」
になって、「どこで」は無助詞になりづらい。
また先の主題化の制約からすると、
「換金、ビットコイン、どこでできる」
は意味は通じるが、無助詞文としては非文っぽい。
で、この文だが、中国語だと、
「我可以在哪儿换比特币」(Wǒ kěyǐ zài nǎ'er huàn bǐtè bì)
になるはず。
「我」は省略できるし、省略しても自然なので、
「可以在哪儿换比特币」
となる。
さらに口語では、哪儿("where")を文頭にもってきて「在」が省略できるらしい。
「哪儿可以换比特币」
これだが、「哪儿」を文頭に持ってきたから、「在」が消えたのかもしれない。「可以哪儿换比特币」と言っても通じるだろうが、むしろ、「哪儿」を文頭にした「哪儿可以换比特币」のほうが自然なのではないか。
というあたりで、英語のwh-句が文頭に出るのと同じような文法原理が中国語にも働いて、それに合わせて、「在」を削除しているように見える。
あと、たぶん、
「可以换比特币在哪儿」とも言えるだろう。
日本語の場合はどうか。
「ビットコインは換金がどこでできる」というのを、
「どこでできる、ビットコイン、換金」のようには「どこ」wh-句が前に出ずらいが、
「どこ、ビットコイン、換金」
とは言える。
「誰、それ、喰った?」
は自然に言えるのと同じ。
以上、特にまとめはないのだが、日本語の場合、口語だとかなり無助詞なんで、実際には、中国語みたいになっていることがけっこう多い。
こうした背後に(日本語と中国語の共通の)どういう文法意識があるのかよくわからない。なんかあるんだろう。
案外中国語というのは、日本語の無助詞化の過程と同じようなことが、古代になんらの理由で起きたために、ああいうふうになっているんじゃないかという気もする。
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コメント
俳句と中国語は似ているようなきがした、これ読んで。
漫画と俳句も似てるかな。
つまり、写生文と理想文の違いで、省略されたりされなかったりするのかも。
ネットは、ガンコな理想文の人たちが多いよね。そういう人が俳句をひねると、つくれないか、つまらない句ばかりだよね。で、一応、俳句表現は、世界で通じるのが、日本文化の不思議なところでもあるね。
投稿: | 2014.04.21 19:34
これが日本語と中国語の関係につながるかってことはわからないんですが、漢文をひっくり返して訓読できてしまうこととは関連があるかもしれませんね。
ちなみに、日本語のたどたどしい中国人(初学者とか、来日間もない人とか)が、無助詞文っぽい日本語を使ってるのはご記憶かと。そういう人と日本語で喋ってると、こっちにまで伝染します。なぜかその方が楽だったりして(いっそ中国語で話した方がもっと楽なんですが)。
戦時中に日本軍が使っていた中国語もどきが、単語(名詞、動詞、形容詞、代名詞等)は中国語なのですが、日本語っぽい語順だったような話も聞いたことがあります。「出てはいけない」が"出去的不好"だったりとか。ちゃんと調べたわけではないので、不確かな情報ですけども。
日本語の無助詞文が口語にのみ有効なのにも注意が必要で、それは対話している双方が状況を共有しているため、助詞による指示関係の厳密さが求められていないからではないかと思います。
では、なぜ中国語ではしばしば日本語の無助詞文のような表現が可能なのかですが、それは中国語がより文脈に依存して成り立っているからではないかと。活用や格変化、時制による形態の変化が基本的にないことは確かですし。
あと、蛇足ですが"长"は形容詞(長い)の場合は"cháng"と発音します。"zhǎng"は動詞(育つ、生長する)という意味。
投稿: cirrocumulus | 2014.04.22 03:04
cirrocumulusさん、ご指摘ありがとうございます。特に「长」((chang2)、訂正しました。
投稿: finalvent | 2014.04.22 12:08
うーん、日本語の主語は助詞が決めるのではないでしょうか?
助詞が省略された話言葉では空気を読めということでは・・・
名詞の格変化を考えるとそうではないかと。
中国語のことは解らないので話がずれているかもしれません。
投稿: val | 2014.04.27 23:33