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2014.03.24

心に引っかかっていた、そのこと、その一つ

 なんとなくブログを書かない日が続いたが、ネットから消えたわけでもなく、それなりにこの日々だらだらとツイッターには書いていたりした。何も書くことがないわけでもない。ということで心に引っかかっていた、そのことを少し書いてみようとかとも思うのだが、そう言い出してみて、やはり気は重い。
 その一つは、れいの「黒子のバスケ」脅迫事件である。
 「黒子のバスケ」というアニメ(実は私もたまに見ることがあるし、コミックも持っていたりもする)と簡素に説明をするにもどうするかなと思って事実関係を見直そうとニュースを見直す過程で、早々にウィキペディアに項目があったことを発見した(参照)。事件を知らない人で知りたい人がいたら参考にするとよいだろう。
 当初このニュースを私が聞いたとき、作者に個人的な怨みのある人物の犯行ではないかと思ったが、少し関心をもっただけでそういう印象は消えた。むしろ、なにか社会的なメッセージ性の強い、テロにも近い事件ではないかとの直観があった。だからこそか、その否定的な精神性にあまり接近したくないと思い、以降あまりニュースを追っていなかった。
 しばらくして容疑者が捕まった。大阪市東成区に住む36歳の男である。ふと気になって「黒子のバスケ」の作者の年齢を調べてみると32歳であり、まったく同年齢というわけでもなかった。報道された犯行理由は、成功した他者への嫉妬ということであった。であれば、私がなお関心を持つような事件でもない。そのような不定形な嫉妬にはなんら解決策もないことはわかりきったことだからだ。いや、それでよいのだろうか。
 やや不自然に抑え込んだ関心には滲むような無意識のひっかかりがあるものだ。その正体がうっすらと見えてきたのは、「黒子のバスケ」脅迫事件初公判での被告冒頭意見陳述だった。これがネットに伝聞としてではあるがおそらくかなり正確に掲載されていた(参照参照)。一読して圧倒された。なによりその動機として語られる内容が異様だった。


 動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
 ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。

 奇妙な話のようでもあり、「秋葉原通り魔事件」のように誰かを特定しない通り魔に近い事件として概括できるかもしれない。「社会的安楽死」という彼の術語もその印象を支援する。しかしこれは通り魔事件ではないな。
 「人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたい」というのは、一つの形式として神学的な神義論ですらある。
 このあたりで、自分の心のなかに重苦しい石のようなものを感じる。おそらくこれはそれなりに神義論なのだから、神学に志すものなら、正統な回答をすべきではないのか? 私にそれができるだろうか?
 できない。私も彼と同じ理不尽さを世界に感じて生きて来たからだ。次の表現はまさに私が言いそうなことでもある。

自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。

 私も30代を過ぎたころ「人生オワタ」状態になった。生きる気力も湧かないような事態もあった。幸い他者のもめ事に巻き込まれていたので、自分の人生を忘れて過ごしていた。そのあとは、自殺するほどの意義も自分の人生に感じられず、死ぬまでの暇つぶしに自由に生きようと思った。というか、それまでの人生を両手一杯に放り出したときに、自由を感じた。そのことが奇妙な転機となったのだがそれは自著に書いたとおり。
 彼のほうが私より、そうした人生への直観は優れている。引用を長くするのもなんだが、この文章はある種の感動をもたらす。

しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。自分は犯行の最中に何度も「燃え尽きるまでやろう」と自分に向かって言って、自分を鼓舞していました。その罰によって30代半ばという年齢になるまで何事にも燃え尽きることさえ許されなかったという意識でした。人生で初めて燃えるほどに頑張れたのが一連の事件だったのです。自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。

 好意的に考えれば、生を燃えるほどに頑張れる何かが嫉妬事件でさえなければ、彼にはなにか別の人生の転機があっただろう。
 社会的に見れば、そのほうがましである。つまり、私のような凡人になり、たまに罵倒コメントをいただくくらいが関の山のブロガーになりさがることができたはずだ。

カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。

 恐ろしいことだが、彼はその高らかな自嘲のなかである勝利を得ている。彼はその神義論において絶望をもって神に勝ったと言ってもよい。どうです、神様、私の不幸があなたの義にまさったでしょう、と。
 結局どうなのか?
 それでいいわけはないなあ。
 神義論とか言い出さなくてもよいが、私たち市民は、彼が提示する絶望の義には勝たなくてはいけないと思う。
 もちろん個別的には、法はこの事件にきちんと凡庸な罰を与えるだろうし、そのことにはなんら異論があるわけでもない。山手線が日々運行され、毎朝菓子パンがコンビニ店舗に届くのと同じような社会の仕組みというだけのことだ。
 だが、市民社会としては、絶望の義は打ち砕かれるべきだろう。「キモブサメン」や「同性愛者」が「人生オワタ」とならないように生きられる社会を作っていかなくてはならないはずだ。
 具体的にどうしたらよいのかというのは、率直に言ってわからないなあと思うが、理路としては、失敗者から成功者への嫉妬をどのように解体するかということだから、「成功」の意味、つまり、社会的な成功の意味付けを、市民が組み替えていけばよいのだろう。
 とすれば、社会的な成功者ではない凡庸な市民が、それなりに愉快に暮らして、自然が与える死を受け入れるまで生きていけるような事例を地味に重ねていけば、ある量の臨界で質が変わるのではないだろうか。
 
 

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コメント

ここまで冷徹に物事を分析できるのだったら個人テロじゃ無くて社会運動を始めればよかったんですが、まあ今の日本のリベラル左翼勢力を見たら社会運動しようとは思わないでしょうな。
つまりリベラルサヨクが悪いって事ですな。(ちょっとマテイ

投稿: murasaki | 2014.03.25 00:44

保身の裏返しでしょ。捨て身になれば、気楽だよね。

柔道の捨て身もきまるとかっこいいように、ネットでも捨て身がカッコイイわけで。それでも、ネットの中の保身勢力は強いねー、日本社会がそうだから。まぁ、国際社会に保身しようとする間抜ぶりもすごいよね。

ただ、世の中の方が先に変わるでしょ。保身社会は限界になってるから。

でねー、日本のネットは広いんだなぁと、このところ。スマホの人たちは、ぜんぜん感覚が違う。どっちかというと、ツイッターでバカな捨て身をさらすのが、あの迷惑行為の写真ね。ああいう捨て身を探し回っているみたいなんだよ。それをターゲットにすると、すごい数、スマホからくる。それがわかってるらしく、ニュースサイトも、ヤフーもライブドアもシフトしてきているし。

ま、彼らからしたら、保身するものがないのだから、つまり、捨て身になりたくてしょうがないのかもね。

ということで、どういう人と関係していくかなんじゃないの、今後のネットって。ま、はてなは、関係していく人間を見誤ってるかも。もともとは、ネットの中では、関係性が強かったのに、今じゃ、広告をいかに早くかでしょ? 笑

なので、スマホです! もってないけど、笑。 すくなくとも、若い人はスマホで、ジジーはPCってのは、現実の真実。

投稿: | 2014.03.25 07:13

ちなみに、アクセス解析をみると、スマホが、PCの2倍から3倍くるんだよね。これが、今年、一番、びっくりしたこと。そのサイトは、当然、たいしたことは一切書いていないよ。ツイッターからくるんだけど、ツイッターとスマホの親和性がすごいし、ぜんぜん違う人たちがいるんだね。

なので、たぶん、写真雑誌?のフォーカスみたいなのが、ツイッターユーザーにでれば、ちゃんと売れるんじゃないかな。証拠写真系ね。

あとは、極東ブログの支部で、スマホばかりから来るのをやってみれば? ツイッターは、拡散だけで、140字だけでは、足りない。ま、それだから、写真にも力入れてるのだろうけど、証拠写真は、撮影するほうがたいへんだし。ということで、別のサービスもでてくるかもね。

とにかく、ウエブは、広告が多すぎ。ストレートな広告、ただ集客するためのコピーライトとか、そんなんばっかり。それに、ウエブでは、炎上さえ、ほとんど起きてないし。もめごとがなさすぎる、笑。コメント欄に、オレみたいに、頭が変なのもいないし。ブログがではじめたころの特徴は、コメント欄が悲惨だったしね。

ということで、スマホです。勉強系なら、スマホでヒンズラー方式だろうね。これは、すぐ売れるでしょ。

投稿: | 2014.03.25 07:29

彼が自嘲のなかで得ている勝利は、漱石「明暗」の小林の勝利と同質なのでしょう。
文学的な人物ですね。ある種の魅力があります。

投稿: い | 2014.04.03 23:36

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