« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

2014.03.26

とりあえず30日間ピンズラー方式で中国語を勉強してみた

 というわけで昨日だったが、ピンズラー方式による中国語の学習、30日間を終えた。
 なんでも20時間学ぶとそれなりにものになるという考え方(参照)からすると、とりあえず、そこには到達した。
 で、どうか?
 結論からいうと、よかった。やってよかったということ。日本人は初歩的なレベルでいいから中国語を学ぶべきだとまで思うようになった。
 英語を勉強している人も、中国語を勉強すべきだと思う。それは無理とか嫌だというなら、せめてピンインをきちんと学ぶべきだと思う。なぜか? 現代で英語に触れる人はいやでも中国人名や中国地名など中国語を英語にした単語に触れるだろうけど、あれ、ピンインがわかっていないと誤解してしまうからだ。
 いや自分、ほんとうかつだった。ピンインをローマ字くらいに思っていた。いやいや、あれはいちおうローマ字と言ってもいいのだけど、xiとかqiとかの音は、ラテン文字から連想しちゃだめなのな。この点は、英語国民にも言えることではあるけど。
 さて、とりあえず30日間ピンズラー方式で中国語を勉強してみて成果はどうかというと、まあ、ほんと大したことないなあと思う。
 フランス語を学んだとき、この時点(参照)では、同じく大したことないなあと思いつつも、それなりにフランス語を学んだという実感があった。今回はなかなかその実感もおぼつかない。
 じゃあ、無駄だったかというと、いやその逆で、ようやく中国語の入り口に立てた充実感がある。最初、なんじゃ?と思っていた中国語の音が、あのころに比べるとかなりくっきり聞こえる。町なかで中国語を喋っている人の声を聞いても、内容はわからないけど、音は聞き取れる感じがする。
 それでもなぜフランス語と中国語とでこんなに差が出たかというと、フランス語のほうは、英語と違う部分はあるにせよ、だからこそ、英語との対比で文法の体系は30日もすれば全体が見渡せるようになった。だから、他にも学習書や単語集を買ったりして、適当に自己学習ができる。習熟してなくても全体が見渡せた。
 中国語はそういかない。
 少なくとも僕にはそういかなかった。発音がまず思いがけず難関だったが、文法がいまだに皆目わからない。
 いやもちろん、中国語の文法と称する書籍をいろいろ見て回った。どれがいいかはわからないが、基本的に、どれも語法は書いてあるんだが、英語やフランス語的な意味での文法書が存在しない、としか思えない。
 もうこれはなんつう言語だろと思っていたのだけど、先日丁寧なコメントを頂いたのもきっかけではっとわかったのだけど、中国語というのは基本、前置詞句と動詞句の差が先験的にはない。「在北京」というのは、動詞句か前置詞句かというと、まあ動詞句だけど、前置詞句と理解してもかまわない。
 そのあたりから、うっすら、なんじゃこの言語を思った。
 たとえば自分の難関としては、「是」と「很」がある。「是」はあきらかに、英語でいうBe動詞的ではない。じゃあ、なにかというのがいまもってわからない。copula(連辞)の機能はもっているがそれだけではない。
 「很」は、英語でいう"very"の意味もあるし、ピンズラー方式でも基本そのように指導しているのだが、これ、"very"ではないな。「今天很热」というというのは、"very"でもあるのだけど、この「很」は主題提示のマーカーみたい思える。つまり、形容詞述語文におけるcopulaなのだろう。

cover
Why?にこたえるはじめての
中国語の文法書
 まいったなあ、なんだろこの言語と思いつつ学習して、それでもなにか一冊参考書が欲しいなと思って、「Why?にこたえるはじめての中国語の文法書」(参照)を買った。先の「很」の説明などもあったからだ。
 というあたりで、「你普通话说得很好」の「得」も同様のマーカーであり、これは形容詞述語文の主題に補文が埋め込まれている(NPを持っている・動詞句)のマーカーなんだろうと思う。英語なんかの文副詞のマーカーだろう。とかいうのだが、英語の文法には文副詞という概念はあまり明瞭ではない。
 つまり、「你说普通话」という文(S)が形容詞的に評価(判断)されるために、主題形式(NP?)で「你普通话说得」となり、これが述部で「很好」で受ける、となって、全体が「你普通话说得很好」なのではないか。先の参考書などを見ると、この「得」の構文は「程度補語・様態補語」となっている。
 自分としては、「你说普通话」がなぜ「你普通话说得」に変形されるのか、そのあたりの文法が知りたいのだが、皆目わからない。
 あるいは、以上のような変形の文法概念はないのだろうか?
cover
Basic Patterns of
Chinese Grammar
 参考書といえば、あと「Basic Patterns of Chinese Grammar」(参照)はためになった。英書である。英語国民がおかしやすい中国語の間違いをまとめたものであり、また英文法の視点から中国語を実践的に解説した本である。が、体系的にまとまっているわけではない。
 中国語のど初心者のわりに文法論的にはちょっと込み入ったことを書いてしまったが、自著にも書いたけど高校生のときに学校英文法で感じたもどかしさを、中国語の文書にも感じた。
 しかし、こうしたもどかしさは、初学者だからだろうなという楽観論もある。
 実際のところ、私は日本語ネイティブだが、日本語の文法がどうなっているのかさっぱりわかっていない。いや、もちろん、高校とかで学ぶ日本語の文法なるものは知っているが、あれ、正直言って、そもそも文法になってないでしょ。語法の説明くらないもの。つまり、その点では、中国語も日本語も同じ。
 というか、中国語の文法の感覚は、一般的には英語のようにSVOだとか言われいるのだけど、どうも日本語の省略表現とよく似ている。
 「私あした、台北行って、学生声援するよ」みたいなことは普通に日本語で言うわけだけど、これ動詞句のとこだけVOに入れ変えればそのまま、「我明天要去台北助威学生」とかなるのだけど、これで案外中国語なんじゃないのか?
 だんだん話がばらけてきたが、そういえば、中国人が喋る日本語の偏見的な表現に「~あるよ」あるよね。「わたし、勉強した、あるよ」とか。あの「あるよ」が何に由来しているかというと、「有没有」の「有」の感覚ではなかろうか。
cover
ビジュアル中国語・文法講座
&例文ドリル/基本の表現編
 まあ、もう少し学ぶと何かもう少し見えてくるものがあるんじゃないか。さて、何を教材として学ぶかなと「ビジュアル中国語・文法講座&例文ドリル/基本の表現編」(参照)が良さそうに見えたので、買ってみた。
 これ悪くないし、わりやすいのだけど、なんかいまいち、どこに向かって学んでいるのか自分のほうがわからない。
 結局いろいろ考えたのだけど、ピンズラー方式の第2フェーズに進むことにした。つまり、もう30日間、ピンズラー方式で中国語を学んでみようということ。英語で、音声中心で、ということ。できるかなあ。
cover
Chinese (Mandarin) II, Comprehensive

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.03.25

その問題で思った、もう一つのこと

 昨日の記事に含めようとしたものの、話がいつにもましてごちゃごちゃするといけないから避けていたことがある。この問題、黒子のバスケ脅迫事件で考えさせられた、もう一つのことだ。結論から書くこともできるのだけど、あえて、これを考えたきっかけ話からだらっと書いてみたい。
 きっかけは、ドミニオンである。
 ドミニオンというのは、カードゲームだ。自著にも書いたが、私はけっこうカードゲームをする。
 ドミニオンがどういうゲームなのかというのを、まったく知らない人に伝えるのは難しい。多分、ウィキペディアには解説があるだろうと覗いて見ると案の定あるのだが、まったく知らない人がこれで理解することはできないのではないだろうか。しかし、難しいゲームではない。小学生でもできる。これが、けっこう面白いのだ。
 ドミニオンをあえてごく簡単に言えば、トランプゲームのようなものだが、日本のトランプゲームにありがちなストップ系(早く上がった人が勝ち)ではなく、一種のお買い物ゲームである。領土に関するお買い物でもっとも得点の高い人が勝ちになる。
 つまり、富を最大に得た人が勝ちである。国家間の争いにも似ているが、同時に資本主義社会にも似ている。
 つまり、ゲームの目的は、富を最大限にすること、だ。
 いや、そのはず、だ。
 実際、このゲームを基本セットという基本の枠組みでやると、「富を最大限にすること」だけに専念した方針のプレイヤーがけっこう強い。ドミニオンを知っている人向けに言うと、地味に高価な貨幣カードを増やし手繰りをよくすれば、けっこう勝てる。これはある意味、ドミニオンの常勝公式だとも言える。ついでにいうと、資本主義社会の常勝公式の一つでもあり、華僑など本能的ともいえるように実践しているものだ、しかも二代をかけて。
 だが、ドミニオンというゲーム自体の面白さは、その戦略性にある。そこで、アクションとして、富の獲得の手順に別の多彩な手法を織り込むことができるようになる。
 当然問題になるのは、つまりドミニオンの基本の枠組みでまず問題になるのは、その常勝公式とアクションを駆使したプレイのどちらが優位かということになる。
 これもまた当然だが、常勝公式はつまらない。手が最適化されていてプレイの妙味がないからだ。必然的に、ゲームもまたそうした常勝公式をいかに崩せるかという問題意識が仕組まれている。アクションをどう巧妙に組み合わせるか。これを仮に常勝公式に対してアクションプレイとしよう。
 アクションプレイもまたしかしマンネリ化する。そこでドミニオンは基本の枠組みをどんどん拡大したり、崩したりして、アクションプレイを多彩にする方向に進化する。ゲームの枠組みが進化するのがモダンゲームの特徴でもある。
 当初の進化は、ゆえにバリエーションの影響を深くする「陰謀」、世界の拡大として「海辺」といった方向だった。
 が、これもある飽和点に達し、まあ、ドミニオンも飽きたなあという感じがしてきていたのだが、「暗黒時代」「異郷」あたりから、一段とアクションプレイが深くなった。
 ちょっと驚いたのだが、基本の枠組みである「富を最大化する」に対して、それまでは富を蓄積するというのが常だったのだが、アクションだけでも、結果的に富が達成できるようになった。
 ゲームの進化の要因は、先にも述べたマンネリ化があるが、もう一つは、ハラスというプレイである。ハラスメントの俗語だ。邪魔をすること。他のプレーヤーが富を蓄積するのを邪魔するということである。
 ちょっとドミニオン話に突っ込みすぎたが、いずれにせよ、ここまでは、こういう世界観がドミニオンにはあるということだ。
 ここまでは最大命題はゲームの目的性から「富を蓄積せよ」ということだった。次に「そのために戦略を駆使せよ」であり、「戦略には、他者の富蓄積を妨害せよが含まれる」ということである。
 私は先日までそう理解していたのだが、ぎょっとするような事態が起きた。
 ドミニオンは通常四人のプレイヤーで行うのだが、中盤から一人のプレイヤーに異変が起きた。ハラスだけに特化してきたのである。つまり、「自分はこのゲームに負けることは必然だから、他のプレーヤーの目的、それ自体を破壊させてしまえ」とするのである。具体的にどうやるかはさらにドミニオンに特化した話なんで、そういうことが可能になるとだけ理解してほしい。
 当初、私はその意図が見抜けなかった。
 通常のハラスが暴走しただけだと思っていたのだ。つまり、そのプレイヤーもいくらハラスをしても最終的には「富の蓄積」という目的を基本的な枠組みに置いているはずだと思っていた。一位ではなくて二位でもいいじゃないですかみたいな考えを採ると思っていたのだ。
 違った。
 彼はもはやただゲームの破壊だけがプレイ目的になっていった。
 そのことに気がついたのは、もはやゲームが破壊されたことを認めざるをえない時点になってからだ。私はある種呆然とした。そしてちょっと怒った。これじゃない!と思ったのだ。
 いや、これもプレイでしょと彼は言う。
 え?と思って、他のプレイヤーに発言を促すと(本来はそういうことをしてはいけないのだけどね)、いや、これもプレイでしょと言う。実際、もう一人の負けが決まったプレイヤーも報復的に破壊プレイに実際参加すらしていた。
 私の呆然には拍車がかかった。
 そこで私は、れいの黒子のバスケ脅迫事件の被告陳述を思い出したのだ。
 ああ、これだ。
 資本主義経済というのは、プレイヤー側からはゲームとして見れば富を最大限にするという目的が設定されていると言ってよい。もちろん、実際にはそれだけではなく、国家を作り、富を再配分するといったゲームも仕組まれてはいるし、それも本質的な枠組みだが、それはどちらかというえば、富を最大限する現実のゲームに必要なことだからだ。
 そのため経済学では、合理人を想定する。このゲームに合理的に参加するプレイヤーを仮定するわけだ。
 しかし、実際の人間の経済活動では、合理人は存在しない。
 そこで、合理人ではない非合理人も想定したらどうなるかという経済学も存在する。だがその場合でも、基本的に非合理人も合理人の補完なり、局所的な問題となる。もちろん、局所が重要なこともあるが。
 非合理人があってそれは、各プレイヤーが「富を最大限にする」という目的自体を破壊することが目的だとする異質なゲームを並行的に存在させる、というものではないはずだ。というか、どうなんすか?
 そのドミニオンについていえば、私は「富を最大限にする」というゲームをしていたが、二人のプレイヤーはもはや「ゲームを破壊すること」が目的のゲームをしていた。
 どうしたらよいのだろうか。
 どうしたらこれに防戦できるのだろうか。私はできるかぎりの智略を尽くして惨敗した。といっても破壊者より負けるわけでもない。
 ゲームが終わってみると、勝者はいた。当然、勝者が生まれる。一番巧妙なプレイヤーである。彼に聞いてみた。どう、これ?
 いわく、「読んでました(李牧の声で)」。
 僕が必死に防戦に切り替えるとき、こいつは、「ああ、このプレイヤーゲームを破壊しているな」と読んでその対応をしていたというのだ。
 どう防戦したの?
 いや、防戦じゃないっすよ。
 え?
 というわけで解説を聞くと、そのプレイヤーがゲームを破壊することで生じる利得が存在するから、それに賭ければいいということだった。
 私の言葉で翻案すると、ゲームの破壊者は破壊者として合理的にプレイしているから、読みやすい、というのだ。
 絶句した。
 その通りだ。
 ゲームが二人の対戦であれば、自滅を目的にすることはただのナンセンスである。三人であれば、自滅者と巻き添え二人だが、相対的に一人は勝者になる。その場合、巻き添えを避けるという防戦より、もう一方の巻き添えをゲームの破壊にたたき込めば、自分が勝利できる。これが四人だと、より戦略的に組みやすくなる。
 私が何をここで考えたかはもうおわかりだろう。
 この世の中もそうできているに違いないのだ。
 現実の社会は、合理人だけが存在しているのでなく非合理人も存在していて、それが補完している、なーんてもんじゃない。
 現実の社会は、その社会を破壊させることが目的のゲームのプレイヤーとして参加している人が存在し、そのやっかいに見える存在と活動が「富を最大限にする」ゲームの目的になるように結果的に支配されているのだ。
 簡単にいうと、この社会は、社会を破壊することが目的のプレイヤーが「富を最大限にする」ゲームの道具として組み込まれている。
 テーゼ的に言うなら、テロリストこそ社会勝者の道具なのだ。
 社会の破壊を目的として合理的に参加しているプレイヤーは、まさに社会に実際は認可されて存在している。
 黒子のバスケ脅迫事件で言うなら、ああいう嫉妬から破壊を求めるプレイヤーは、特異な存在でも事象でもなく、この社会のシステムの普通の顕現なのだ。
 だとすれば少数の勝者以外の参加者、市民の利得を全体的に向上するには、(1)破壊者を徹底的に粉砕する(自由主義を越えて)、(2)破壊者のプレイで利得を上げる勝者の存在を構造的に排除する、ということが求められる。
 そうしてみると、実際に現在の社会で実施されているのは、(1)破壊者を徹底的に粉砕する、という方策と、それでも破壊者を使って利得を上げる結果的な操作、の二つの均衡から成り立っていると言えるだろう。
 しかしそうではなく、(2)破壊者のプレイで利得を上げる勝者の存在を構造的に排除する、が正解でなくては、多数の利得は得られない。その正解を求めるべきではないのか。
 じゃあ、具体的にどうしたらいいかとなると、まあ、よくわからない。
 もっとも私が今頃気がつくようなことは、もっと頭のいい人が考えているだろうから、そういう人の研究を探して参考にするかなと思っている。それでも、いわゆる経済学やそれを補完する行動経済学でもダメだろうし、そもそもこういうのをモデルにしたゲーム理論(目的の違うプレイヤーが参加してゲームの破壊によって利得を得るゲーム)も知らない。
 ただ、こうは言えるだろう。
 この世界には「破壊者のプレイで利得を上げる勝者」が存在するということだ。破壊者は実際にはその勝者に間接的に操作されているということでもある。
 端折って言うなら、それは人々の感情をかき立て騒ぎのなかで破壊の熱狂(嫉妬)に巻き込むことで利得を得る人々であり(なぜならその情念で彼らは合理的に破壊活動をするようになるから操作しやすい)、さらに言うなら、「正義」の旗を掲げて実際には、破壊プレイの正統化を喧伝しそうした被操作者を結集させる人である。
 ニーチェは弱者の怨恨(ルサンチマン)・弱者正義を社会の善とすることに異を唱えた。だが、もう一歩進めるべきなのだ。嫉妬を含めた弱者のルサンチマンは勝者が弱者を操るための道具なのだ、と。この道具を無化しないかぎり、弱者の利得は実際にはない。
 
 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2014.03.24

心に引っかかっていた、そのこと、その一つ

 なんとなくブログを書かない日が続いたが、ネットから消えたわけでもなく、それなりにこの日々だらだらとツイッターには書いていたりした。何も書くことがないわけでもない。ということで心に引っかかっていた、そのことを少し書いてみようとかとも思うのだが、そう言い出してみて、やはり気は重い。
 その一つは、れいの「黒子のバスケ」脅迫事件である。
 「黒子のバスケ」というアニメ(実は私もたまに見ることがあるし、コミックも持っていたりもする)と簡素に説明をするにもどうするかなと思って事実関係を見直そうとニュースを見直す過程で、早々にウィキペディアに項目があったことを発見した(参照)。事件を知らない人で知りたい人がいたら参考にするとよいだろう。
 当初このニュースを私が聞いたとき、作者に個人的な怨みのある人物の犯行ではないかと思ったが、少し関心をもっただけでそういう印象は消えた。むしろ、なにか社会的なメッセージ性の強い、テロにも近い事件ではないかとの直観があった。だからこそか、その否定的な精神性にあまり接近したくないと思い、以降あまりニュースを追っていなかった。
 しばらくして容疑者が捕まった。大阪市東成区に住む36歳の男である。ふと気になって「黒子のバスケ」の作者の年齢を調べてみると32歳であり、まったく同年齢というわけでもなかった。報道された犯行理由は、成功した他者への嫉妬ということであった。であれば、私がなお関心を持つような事件でもない。そのような不定形な嫉妬にはなんら解決策もないことはわかりきったことだからだ。いや、それでよいのだろうか。
 やや不自然に抑え込んだ関心には滲むような無意識のひっかかりがあるものだ。その正体がうっすらと見えてきたのは、「黒子のバスケ」脅迫事件初公判での被告冒頭意見陳述だった。これがネットに伝聞としてではあるがおそらくかなり正確に掲載されていた(参照参照)。一読して圧倒された。なによりその動機として語られる内容が異様だった。


 動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
 ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。

 奇妙な話のようでもあり、「秋葉原通り魔事件」のように誰かを特定しない通り魔に近い事件として概括できるかもしれない。「社会的安楽死」という彼の術語もその印象を支援する。しかしこれは通り魔事件ではないな。
 「人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたい」というのは、一つの形式として神学的な神義論ですらある。
 このあたりで、自分の心のなかに重苦しい石のようなものを感じる。おそらくこれはそれなりに神義論なのだから、神学に志すものなら、正統な回答をすべきではないのか? 私にそれができるだろうか?
 できない。私も彼と同じ理不尽さを世界に感じて生きて来たからだ。次の表現はまさに私が言いそうなことでもある。

自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。

 私も30代を過ぎたころ「人生オワタ」状態になった。生きる気力も湧かないような事態もあった。幸い他者のもめ事に巻き込まれていたので、自分の人生を忘れて過ごしていた。そのあとは、自殺するほどの意義も自分の人生に感じられず、死ぬまでの暇つぶしに自由に生きようと思った。というか、それまでの人生を両手一杯に放り出したときに、自由を感じた。そのことが奇妙な転機となったのだがそれは自著に書いたとおり。
 彼のほうが私より、そうした人生への直観は優れている。引用を長くするのもなんだが、この文章はある種の感動をもたらす。

しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。自分は犯行の最中に何度も「燃え尽きるまでやろう」と自分に向かって言って、自分を鼓舞していました。その罰によって30代半ばという年齢になるまで何事にも燃え尽きることさえ許されなかったという意識でした。人生で初めて燃えるほどに頑張れたのが一連の事件だったのです。自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。

 好意的に考えれば、生を燃えるほどに頑張れる何かが嫉妬事件でさえなければ、彼にはなにか別の人生の転機があっただろう。
 社会的に見れば、そのほうがましである。つまり、私のような凡人になり、たまに罵倒コメントをいただくくらいが関の山のブロガーになりさがることができたはずだ。

カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。

 恐ろしいことだが、彼はその高らかな自嘲のなかである勝利を得ている。彼はその神義論において絶望をもって神に勝ったと言ってもよい。どうです、神様、私の不幸があなたの義にまさったでしょう、と。
 結局どうなのか?
 それでいいわけはないなあ。
 神義論とか言い出さなくてもよいが、私たち市民は、彼が提示する絶望の義には勝たなくてはいけないと思う。
 もちろん個別的には、法はこの事件にきちんと凡庸な罰を与えるだろうし、そのことにはなんら異論があるわけでもない。山手線が日々運行され、毎朝菓子パンがコンビニ店舗に届くのと同じような社会の仕組みというだけのことだ。
 だが、市民社会としては、絶望の義は打ち砕かれるべきだろう。「キモブサメン」や「同性愛者」が「人生オワタ」とならないように生きられる社会を作っていかなくてはならないはずだ。
 具体的にどうしたらよいのかというのは、率直に言ってわからないなあと思うが、理路としては、失敗者から成功者への嫉妬をどのように解体するかということだから、「成功」の意味、つまり、社会的な成功の意味付けを、市民が組み替えていけばよいのだろう。
 とすれば、社会的な成功者ではない凡庸な市民が、それなりに愉快に暮らして、自然が与える死を受け入れるまで生きていけるような事例を地味に重ねていけば、ある量の臨界で質が変わるのではないだろうか。
 
 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2014.03.09

ピンズラー方式による中国語学習14日目の雑感

 ピンズラー方式による中国語学習は14日目。毎日欠かさずであれば15日目であるはずだったが、忙しく疲れた一日があって、休むことにした。フランス語を学んでたときは、大晦日も正月も一日たりとも抜かすことはなかった。が、そこまでの気力はもうない。それと、こうした感想は、とりあえず当初の目的で30日で書くはずだったが、いろいろ思うこともあるのでざっと記しておきたい。
 まず、慣れてきた。中国語の音や会話に慣れてきたのである。
 言語の学習というのは不思議なもので、ただ自然に慣れるという部分がある。特に音だけを頼りにしていると、音に慣れる。
 フランス語の時でも感じたが、今回の中国語ではさらにその印象は深かった。特に、聞き取れない「変な」音も、次第に自然には聞こえるように変わる。脳の無意識の学習があるのだろう。
 それと似たことだが、音から漢字が浮かばなくても、ある程度耐えられるようになったことだ。それでもyàoとかyǒuとか、知ってる漢字なんだろうな、要と有だろうなという思いは去らない。つい調べる。何しているんだろうか、自分?と思う。が、そのあたりもうちょっと調べていったら、ピンズラー方式でマンダリン(普通話)を学ぶ米人も同じように思う人がいるのか、漢字の書き下しを見つけた。まあ、そうだよね。というわけで、書き下しはレッスン語の確認に使うことにした。
 というわけで、できるだけ聞いた音から入る。漢字を読むことを先行しない。
 おそらく漢字を読むという態度で中国語に接するとフレーズがわかりにくいのではないか。「我不知道」というとき、日本人だとどうしても四文字熟語みたく見えてしまう。
 しかし音で聞くと、微妙な間の取り方で文法構造がはっきりしてくるし、Wǒ bù zhīdàoというふうに聞けば、I don't know.という構造の感覚は浮かびやすい。
 文革で、普通話をピンインにしてしまえと彼らが考えたのも、そういう理由もあるかもしれない。
 中国語を学びつつ思うことには、適切な補助学習書がみつからないこと。
 フランス語の学習のときは、15日目くらいの時に、補助用に学習書をいくつか買ったし、辞書も買った。今回も、自分という人間はそうするだろうなと、いくつか手にしたのだが、なんとも歯がゆい。これという補助学習書がまったく見当たらない。とりあえず英中辞書は買った。
 中国語の文法書というのはいろいろあるし手にしたのだが、自分が見た範囲では、どれも語用説明にはなっていても、文法になってないなあという感じがしてならない。もちろん、ここでいう文法は、結局自分の固定概念が印欧語の文法に拘束されているからだ。
 では、初期の生成文法的にS→NP+VP(文は名詞句と動詞句からなる)みたいに説明したものがありそうにも思うのだが、見当たらない。SVOといった部分はわかるのだが、問題は補語や語形成の規則や拘束(Binding)が知りたいのだが、わからない。
 しかしそれは無理というものなんじゃないか。
 そもそも、中国語というのは印欧語ではないのだから、それをモデルにした文法体系で考えるのが間違っているのだろう。逆にフランス語の文法が比較的楽にわかったのは、印欧語文法のメタ知識があったからだろう。
 このあたりから、ちょっと奇妙な疑問が浮かぶ。
 そもそも中国語に文法ってないんじゃないのか? いや、ひどいことを言っているなあというのは自覚しているし、あるいは無知を晒しているという自覚もある。
 その疑問がもわっと浮かんできたのは、フランス語を勉強したとき、ある程度学習が進むと、字引を使えば、デカルトでもパスカルでも読めるという体験があったからだ。日本の歴史に対応させると、江戸時代初期ころのデカルトやパスカルのフランス語というのは、それなりに現代フランス語の圏内にあり、フランス語、というか、オイル語というか、一応400年くらいの単一性みたいなものがある。逆に英語だとノルマン征服でピジン語化的な大きな変化をしている。
 そういう歴史性がどうも中国語になさそうに思える。
 もちろん、私たちの大半が今高校とかで読まされていた漢文というのは、中国語の一部ではあるのだが、これらと現代中国語との連関みたいのは、どうもフランス語ようにはなってないんじゃないのか? 清朝時代あたりに、一種、ピジン化して現代の中国語ができているんじゃないのか? もうちょっと言うと、五・四新文化運動のころに事実上人工的に創作されたのではないか。近代日本語と同じように。
 近代日本語は、丸谷才一などがずけずけと言っていたが、その調子を真似るなら、西洋言語の翻訳下し文を変化させて作成された言語であり、その意味で、いざとなれば、西洋語に直せば日本語がわかるようになっている。その最たるものが、我らの日本国憲法で、あれが何を言っているかは、原文に当たればわかるようになっている。英文な。
 つまり、実質的に近代日本語の文章が意味をなしているかは、印欧語に翻訳できるかにかかっているともいえる。まあ、極論だけど。
 ところが、近代中国語の場合、そういう参照規範言語をもっていないのはないだろうか。あるいは、ある程度までは日本語がそうだったのだろう。どうやら共産党も成立当時のリンガフランカは日本語だったようだし。
 現在の中国語がそうした参照規範言語としての日本語の影響が残っているかというと、どうもなさそうには見える。
 では、どうやって現代中国語は、文法構造の規範を持っているのか?
 実は、ないんじゃないか? もっと丁寧にいうと、五・四新文化運動が継続しているのではないだろうか。
 まあ、そのあたり、自分の中国語の能力が上がればわかってくるんじゃないかという期待がある。
 もう一つ、そういう疑問を持つのは、さすがにここまでconjugation(活用)のない言語というのは何か異常な感じがするからだ。
 さすがにこれでは日常言語として異常だというのが、児化の背景にあるだろう。あと、我阿という表現を見たときも、え?と思った。
 もしかすると、漢字で表現するために、conjugationが禁止されているという言語が中国語なのではないだろうか?
 もっと探ると、切韻が文書化されときに、こういう変な言語になることが運命付けられていたのではないだろうか。
 ちょっと話がずれるが、先日、人混みのなかを歩いていると、中国語らしき会話が聞こえるので、これはどの中国語だろうかと耳を澄ましてみた、というか、デカイ声だから澄ますほどでもないが。結論からいうと、わからない。捲舌音の響きがないので、普通話ではないんじゃないかくらい。
 で今回、参考書の一環で、ちょっと広東語と台湾語の本も覗いて見たのだが、初めて見たわけではないが、ある程度普通話に馴染んでから見ると、圧倒的なくらい別言語なんで驚いた。先日のエントリで広東語話者さんからのコメントを貰ったのだが(谢谢你!)、すごく納得しましたよ。
 これら(広東語や台湾語)も一応漢字で表現できる。その意味では、切韻が文書化された歴史みたいのはあるんだろう。
 しかしなあ、普通の言語変化なら、どこかで、conjugation(活用)や格変化が生じるもんじゃないかと思って、ふっと唖然としたのだが、そういう逸脱言語が古代にあって、それが百済語の基礎だったのではないか? そしてそこから漏れてきたのは日本語の古型で、そこにヤポネシアというかポリネシア系の語彙を嵌めたのではないかな。
 ちょっと話を戻すと、切韻的な漢字対応の規範性が広義にその後の中国語を決めたのではないか(つまり政治的に)。
 そういう点で普通話の音韻体系を眺めてみると、捲舌音あたりに奇妙なComplementary distribution(相補分布)みたいなものがあって気になった。これ、つまり、qとchiというのは、phoneme(音素)としては独立してないんじゃないかという疑問がちょっと浮かんだわけだ。もちろん、La linguistique synchronique(言語の共時制)として見ると、体系としては、phonemeとしてよいのだろうが、それにしても、これはなんだろと思った。
 これはたぶん、捲舌音が普通にできない中国人のためのredundancy(冗長性)なんじゃないか。
 別の言い方をすると、そもそも普通話というのは、捲舌音ができない民族でも漢民族になれるようなredundancyを持っているんじゃないか。(基本は清朝だろうなあ。)
 その他も、たぶん中国語の会話というは、漢字を離れると、文脈依存的に冗長性があって、tonal(音調)が合っているなら、それなりに変な発音でも通じるようにできてるんじゃないか。
 もうちょっというと、実際のところ、ピンイン(現代版切韻)で区別が付くのは、二語以上の語で、その二語の情報の複雑性が文脈と合わさって、冗長性を確保しているんじゃないか。知ではなく知道、白ではなく明白、というように。
 簡単に言うと、中国語というのは、functional(機能的)な語と基本語以外は、二語構成にせざるをえないんだろうな。
 ま、そんなことを思って、中国語の勉強を続けています。
 我阿想這様的事情、並継続学習普通話。(日体w)
 
 

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2014.03.05

ウクライナ情勢、雑感

 ウクライナ情勢の変化は国際情報を読む上でも非常に興味深い展開だった。ブログにも留めておきたい。
 興味深い一つには、情報の混乱がある。なかでも「最後通告」についてである。
 一例として、ANN(03/04 17:08)「“最後通告”期限が過ぎ…ウクライナから最新情報」(参照)を挙げてみよう。緊迫感を伝えているようでもあるが、読むと内容は意外に曖昧である。


 「投降しなければ攻撃する」。ロシア軍がウクライナ軍に対して行った最後通告の期限が過ぎて5時間が経ちました。

 (荒木基記者報告)
 (Q.最後通告について、ロシアのメディアはほとんど取り上げていないが、ウクライナのメディアはどのように報じている?)
 実はウクライナでも、あまりこの話は多くは伝えられていません。3日夜、大統領代行のトゥルチノフ氏が「実は、このような最後通告は、以前にもあった」と地元のメディアに伝えていました。また、クリミア半島の現場指揮官レベルでこうしたやり取りが続いていたのではないかという情報も入っています。今、こちらのテレビでは、3日夜から4日朝にかけての国連でのウクライナに関する議論のやり取りが刻々と伝えられている状況です。そして、こちらに入ってきた最新の情報では、ロシアの通信社によりますと、プーチン大統領が演習からの撤退を部隊に命じたということです。ただ、これがクリミア半島の部隊まで含むのかどうかは、まだ分かっていません。
 (Q.クリミア半島の緊張、緊迫した状況を受けて、今、キエフの街の中はどんな様子?どんな空気?)
 私たちは3日、キエフの軍の兵士を募集する事務所を取材してきました。こちらには、私たちが行った時には20人近くの人が並んでいて、多くの人がIT技術者、あるいは会社経営者ですが、彼らが「国を守るためには武器を取って戦うんだ」と私たちに話をしてくれました。欧米による外交努力が今も続いていますが、ロシアに手を引かせるだけの決定打があるわけではありません。町の雰囲気は、戦争の足音が少しずつ聞こえてきている感じがします。


 書き出しの重々しさ(「投降しなければ攻撃する」)に反して、実際はよくわからない。
 そこで事実だけ掬ってみると、「ロシアのメディアはほとんど取り上げていない」「実はウクライナでも、あまりこの話は多くは伝えられていません」「実は、このような最後通告は、以前にもあった」ということだ。
 事実を追ってみると、「最後通告」報道の実態は報道からはよくわからないということがわかる。ANN報道を批判しているのではなく、ANNのこの報道の意図は、「よくわからーん」ということなのかもしれない。
 こうした事態では通常、NHK報道は比較的慎重なのだが、今回はNHKもだいぶぶれていたのが印象深かった。
 3月4日1時27分の「ロシア軍黒海艦隊 ウクライナ軍に最後通告」(参照)より。

 ウクライナ情勢を巡って、南部のクリミア半島を現地に駐留するロシア軍がロシア寄りの地元政府と共に事実上、掌握する事態となるなか、インターファクス通信は現地に駐留するロシア軍の黒海艦隊がウクライナ軍の部隊に対し、現地時間の4日午前5時(日本時間の4日正午)を期限に投降を求め、投降しない場合攻撃すると最後通告したと伝えました。

 このNHKが孫引きにしたのはインターファクス通信なのだが、その典拠はこうなっていた。

 こうしたなか、インターファクス通信は3日、ウクライナの国防省の話として、現地に駐留するロシア軍の黒海艦隊が現地のウクライナ軍の部隊に対し、現地時間の4日午前5時(日本時間の4日正午)を期限に投降を求め、投降しない場合攻撃すると最後通告したと伝えました。
 暫定政権からの正式な発表はなく、今のところ、ロシア側からもこうした情報は伝えられていません。

 事実は、「暫定政権からの正式な発表はな」いということ。
 では、「ウクライナの国防省の話」はどのように伝わっていたか、またインターファクス通信の「報道」をNHKがどう評価したか、だが、これが曖昧である。
 同様の構造は共同にもあった。2014/03/04(10:22)「ウクライナ軍に最後通告 ロ本格介入へ陸海空展開 クリミア独立へ加速」(参照)より。

ウクライナ南部クリミア半島の重要拠点を掌握し実効支配を固めつつあるロシアは3日、本格的軍事介入を視野に陸海空から態勢づくりを進めた。インタファクス通信はウクライナ側の情報として、ロシア黒海艦隊司令部がクリミアのウクライナ軍に対し4日午前5時(日本時間同正午)までに投降しなければ攻撃すると最後通告したと報じた。通告について、ロシア側の情報はない。

 他ソースにあたっても「最後通告」の話は、インターファクス通信以外には見当たらない。
 他方、インターファクス通信は次のような視点の異なる報道もしていた。ロイターの孫引きだが、2014年03月04日(火)04時34分の「ロシア黒海艦隊、ウクライナに最後通告行っていない=インタファクス」(参照

[モスクワ 3日 ロイター] -ロシア黒海艦隊はウクライナに対し最後通告は行っていない。黒海艦隊幹部の発言として、ロシアのインタファクス通信が3日、報じた。
 同通信は黒海艦隊本部に所属する幹部の話として、攻撃は計画されていないと伝えた。同幹部は「攻撃はまったくのナンセンスだ」と発言したとしている。
 インタファクス通信はウクライナ国防省関係筋の話として、黒海艦隊がクリミア半島に駐留しているウクライナ軍に対し、0300GMT(日本時間4日正午)までに投降しない場合は攻撃すると通達したと報じていた。

 時系列にインターファクス通信の視点で整理すると、「ウクライナ国防省関係筋の話」として「最後通告」を報道したのも、「黒海艦隊本部に所属する幹部の話」として「攻撃は計画されていない」を報道したのも同日である。よって、日本時間4時34分の時点では、「最後通告」の報道はどちらかというと、ロシア側の謀略でも想定しないかぎり、打ち消されている印象が濃い。
 この点、ロイターの報道はさらに興味深い。
 ロイターは、インターファクス通信の「最後通牒」報道を次のように伝えていた。3月4日04:11JST「ロシア艦隊、投降しない場合攻撃と通達─ウクライナ国防省筋=報道」(参照)より。

[キエフ 3日 ロイター] -ロシアの黒海艦隊はクリミア半島に駐留しているウクライナ軍に対し、0300GMT(日本時間4日正午)までに投降しない場合は攻撃すると通達した。ロシアのインタファクス通信が、ウクライナ国防省関係筋の話として報じた。
 ウクライナ国防省はインタファックス通信の報道内容を確認していない。ロシア黒海艦隊からもコメントは得られていない。

 断言はできないまでも、ロイターは、インターファクス通信の裏を取ったように見える。またこれには、「ロシア黒海艦隊」のコメントも意識されていた。
 総合すると、ロイターを追う限りでは「最後通告」話は、報道の暴走のように見える。
 ロイターが孫引きしたインターファクス通信の話題だが、共同の孫引きから見ると、さらに付加的な内容があったことがわかる。2014/3/4(4:32)「ロシア軍、ウクライナへの最後通告否定 情報操作示唆」(参照)より。

【シンフェロポリ=共同】ウクライナ南部クリミア半島セバストポリに駐留するロシア黒海艦隊は3日、同艦隊がウクライナ海軍部隊に対し攻撃の最後通告を行ったとの報道を「全くのでたらめだ」と否定した。インタファクス通信が伝えた。
 ウクライナのメディアは、黒海艦隊がウクライナ軍に対し4日午前5時(日本時間同正午)までに投降しなければ攻撃すると最後通告したと報道。これとは別にAP通信もウクライナ国防省当局者の話として、同国海軍艦船2隻が黒海艦隊に進路を妨害され、投降を要求されたと伝えていた。
 黒海艦隊当局者は「われわれがウクライナ軍を攻撃しようとしているという報道の背後に誰がいるのかは明らかだ」と批判、ウクライナ側による情報操作との見方を示唆した。

 検討されるべきことは、インターファクス通信がこの情報の混乱の出所ではあるが、その前にインターファクス通信その混乱の意図を持っていたかが気になる。その点、時系列的に見ると、ウクライナ側とされる報道に対して数時間後にロシア側からの否定の双方を出しているので、意図的というより、通常の通信社としての作業であったと見られるだろう。
 さらに共同が孫引きしているAP通信の状態からもその傍証になる。「最後通告」情報は、インターファクス通信のみが情報源ではなく、かつ、両者がウクライナ国防省当局者となっているからだ。
 その後の経緯を含めると、今回の「最後通告」報道は、概ねウクライナ暫定政権側の情報操作だと見てよいように思われる。
 ただしそのことは、ロシア軍の威圧的な行動を肯定するわけではないし、ネットのソースは見当たらなかったが別途フランス2がクリミアに入った報道などを見るとロシアの軍事的な威圧を裏付ける状態は簡単に見て取れる。
 さらにその後の状況を考慮する上で重要なのは、プーチン大統領自信が軍事介入を否定する記者会見を4日午後モスクワ郊外の大統領公邸で行ったことだ。共同「プーチン大統領、軍事介入せず クリミア併合も否定」(参照)より。

 ロシアのプーチン大統領は4日、モスクワ郊外の大統領公邸で記者会見し、ウクライナ南部クリミア自治共和国で軍を使う「必要はなくなった」と述べた。ロシア系住民が多数を占める自治共和国を「併合する計画はない」と否定した。


 ただ、親露感情が強いウクライナ東部の住民から要請があれば、「あらゆる手段」を講じる権利があると強調。軍の使用は「最後の手段」と親欧米のウクライナ新政権を威嚇した。

 奇妙なのは、同会見についてのNHK報道である。印象は逆になる。3月5日5時14分「プーチン大統領 軍事介入の構え崩さず」(参照)より。

 緊迫した状況が続くウクライナ情勢について、ロシアのプーチン大統領は本格的な軍事介入も辞さない構えを改めて示したのに対し、ウクライナを訪れたアメリカのケリー国務長官は外交による解決を目指す重要性を強調しました。
 ロシアのプーチン大統領は、4日、モスクワ郊外で記者会見し、ウクライナの欧米寄りの暫定政権の正当性を認めない考えを示しました。
そのうえでロシア軍が事実上掌握したクリミア半島について、今の状況では「軍事行動の必要性はなくなった」と述べる一方、今後、ウクライナ東部も含め混乱が拡大した場合、本格的な軍事介入も辞さない構えを改めて示しました。
 この会見を受けて、ウクライナの暫定政権のヤツェニューク首相は4日、ロシア軍がすでにウクライナの主権を侵害していると改めて非難する一方、ロシア政府との間で閣僚レベルで協議を始めたとして、対話を模索していることを明らかにしました。
 南部のクリミア半島では、ロシア軍が駐留地の外に部隊を展開し、ウクライナ軍の部隊の施設を包囲して投降を迫るなど、偶発的な戦闘が起きてもおかしくない、緊迫した状況が続いています。
 一方、アメリカのケリー国務長官は、ウクライナの首都キエフを訪れて暫定政権の幹部と会談し、ロシア軍の動きについて侵略行為だとして非難する一方で、「われわれは対立を望んでいない。21世紀の現在、今回のような対立を解決するには武力ではなく、外交と主権の尊重が必要だ」と述べ、国連安全保障理事会など、外交の場で解決を目指す重要性を強調しました。

 一応NHK報道としても「軍事行動の必要性はなくなった」とのプーチン大統領の言明を伝えているが、強調点は「軍事介入も辞さない」にある。
 誤報とまで言えないにせよ、今回の件では、NHK報道側にややバイアスがあるように思える。
 以上をまとめると、今回の事態のおそらく真相は、ロシア軍が「最後通告」をしたという報道はウクライナ側からの情報操作であり、ロシア軍は、むしろ武器を使った暴発の誘発を抑えるために、即座の圧倒的な軍事力でクリミアを、彼らの合法的範囲内で沈静化した、と見られる。
 この合法性には異論もあるが、逆に言えば、異論があることはロシア側からの論旨に明確に無理があるとも言いがたいことを意味している。国連のレベルでの一致した対応は不可能だろう。
 では、なぜロシアが今回の行動をとったか?
 マクロ的には理解しやすいが、現実の流れのなかでは、西側報道からは見えにくい論点があった。これはロシア側、さらにはロシア系の多いクリミアを中心とした東部側の視点から事態を振り返ってみるとうっすら見えてくる。
 日本語で読みやすい記事では、産経「露メディア激しく批判 欧米報道は「でっち上げ」」(参照)がある。

 親欧米派が実権を握ったウクライナの政変について、ロシアの国営・政権派メディアでは「非合法な政権奪取」として暫定政権や欧米諸国を激しく非難する論調が目立つ。政権転覆につながったデモが過激かつ暴力的だったとの印象を植え付ける一方、ヤヌコビッチ前大統領には見切りをつけたというのが露政権派主要メディアの報道姿勢だ。(キエフ 遠藤良介)

 産経記事は、「政権転覆につながったデモが過激かつ暴力的だったとの印象を植え付ける」として、ロシア側の見解を情報操作的に見ている。だが、ここでも事実を追ってみると興味深い。

 国営ロシア新聞(電子版、以下同じ)は24日付で、デモでは「国の少数派の利益を代表する戦闘員」が活動し、「欧米は過激派を鼓舞した」と前政権時代の野党勢力や欧米諸国を批判。その半面、ヤヌコビッチ氏はあらゆる方法があったのに事態を収拾せず、「結果的に選挙民や同志を裏切った」と論じた。

 ここで述べられていることは、事実が含まれている。このことは、前回「読みが難しかったウクライナ争乱」(参照)でも触れたが、ウクライナ与野党の合意が一瞬にして崩れたのは、ウクライナ野党側の武装集団の要因が大きいように思われるからだ。
 産経はさらりと次のようにも触れている。

 露政権派メディアは、ロシア語を地域公用語に定めることを認めた前政権時代の法律が議会で廃止されたことも批判。ロシア新聞は、少数言語の権利を尊重する「欧州の基準」からの後退だと主張した。

 産経記者の言及のようすからすると、この問題、「ロシア語を地域公用語に定めることを認めた前政権時代の法律が議会で廃止」したことがロシア側で重視されている意味合いにあまり気がついていないようにも受け取れる。
 ここで重要なのは、この「議会」の特質である。
 これは、れいの武装勢力が含まれた「議会」であり、正統的な議会と呼べるか疑問が残る。この点については、NHKの石川一洋解説委員が明確に述べている(参照)。

●暫定政権とは
親欧米の暫定政権で影響力を強めているのは、ウクライナ西部の民族主義勢力です。西部ウクライナは第二次世界大戦中にソビエトに武力で併合され、極めて強い反ロシア感情を持っています。
 ウクライナ民族主義者は、革命の主体となり、多数の流血の犠牲の上に政権を打倒したのは自分たちだと考え、暫定政府の名簿も彼らの同意を得て作成されました。すでに自らの手に武器を持ち、治安機関の枢要なポストも押さえています。

 議会も事実上、民族主義勢力、つまり、極右勢力によって支配されているし、そのことは同時に、暴力が市民国家に収納されず、この党派のもとにあることがわかる。
 この極右勢力による事実上の「議会」支配がまさに、極右らしい活動を即座に開始していた。これが、「ロシア語を地域公用語に定めることを認めた前政権時代の法律が議会で廃止」に関連している。
 ロシア側の声に近い、ロシアNOWの記事「ウクライナの“中立性”の尊重を要求」(参照)に日本語で読める関連情報がある。

 外務省が懸念を示しているのは、国民統一政府の代わりに、キエフに過激な民族主義者を含む「勝者の政府」が築かれていること。「過激派の活動で社会が今後極性化することを許さない」よう呼びかけている。「国家的言語政策基本」法の廃止、少数派の権利の制限に導くキエフの政治家のイニシアチブ、マスメディアの自由の制限、個別の政党の活動禁止についても懸念を示している。
 「ウクライナ情勢に関する問題で西側諸国にはロシアとの協力を求める。情勢が武力衝突に発展する前から提案を行っていたが、西側諸国はあまり関心を示さなかった。だがロシアには相互活動の用意がある。これがウクライナの全国民と全パートナーの利益をくんだ合意とその履行の可能性にもとづいた、誠実な活動であることを踏まえたうえで行うべき」
 北大西洋条約機構(NATO)事務総長が、ウクライナの加盟を依然として優先課題であると発言したことについても反発。「挑発的な声明をやめ、ウクライナの『国内・外交政策基本』法に定められたウクライナの中立性を尊重することを強く勧める」

 まず焦点としたいのは、「国家的言語政策基本」法の廃止である。これはどういうことか。ヤヌコビッチ追放後のウクライナ「議会」で何が起きたのか。
 ロシアの声「ウクライナ議会 国家言語生活に関する法律を廃止」(参照)にこの関連の報道がある。

ウクライナ最高会議(議会)は、2012年7月3日に可決された国家言語政策に関する法律を廃止した。334人の議員のうち232人が賛成票を投じた。
 最高会議は2012年7月3日、地域党が提案した「国家言語政策の基本」に関する法案を可決した。
 法律は、2012年8月10日に発効したもので、少数派の人口が10パーセントを越える地域では、2言語を公用言語とすることが認められると規定されている。

 これだけでは読み取りづらいかもしれないが、ようするに、現状のウクライナ議会が「ロシア語を準公用語化した言語法を廃止」(参照)したということ、つまり、ウクライナ内のロシア語国民を二流市民化する民族政策の実施を掲げたことになる。
 武力を背景にした勢力が国家を借りて、言語弾圧という文化的ジェノサイドに手を伸ばす姿を見て、その対象にある人々が怯えないわけはないだろう。
 これが大きな問題であることは、極右勢力ではない西部のウクライナ人にも理解されていることは、アレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行の意識にも現れている。ロシアの声「ウクライナ新当局 ロシア語を公用語から除外しないもよう」(参照)より。

 ウクライナ最高会議により任命されたアレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行は、言語に関する法律取り消しに関する議会の決定を発効させないだろう。クリミアで同大統領代行のスポークスマン、セルゲイ・クニツィン氏が明らかにした。
 27日トゥルチノフ大統領代行は、言語に関する新しい法律を「早急に準備する」作業グループを創設するよう委任した。彼の言葉によれば「新法の中では、ウクライナの東部や西部、あらゆる民族グループ及び民族的少数派の利益が考慮される」。
 ウクライナ議会 国家言語生活に関する法律を廃止
 これに先立ち欧州議会は、ウクライナ最高会議に対し、少数派の権利を遵守し「ロシア語や他の少数派の言語の使用」を保証するよう求めていた。

 また、4日に開催された国連安全保障理事会の緊急会合でロシアのチュルキン国連大使がヤヌコビッチ氏の書簡の内容を公表したがそこでもこの件が問題の主要な例になっていた。ロイター「UPDATE 1-ヤヌコビッチ氏、ウクライナへの軍事介入をロシア大統領に要請=ロ国連大使」(参照)より。

 書簡は「西側諸国の影響を受けたテロや暴力が公然と行われている。人々は言語や政治的な理由によって迫害されている」と主張。「そのため合法性、平和、法、秩序、安定を回復し、ウクライナ国民を守るためにプーチン・ロシア大統領に対し軍事力を行使するよう要請する」としている。

 これに対して、米側の反論は次のようであった。

 書簡は1日付。米国のサマンサ・パウエル国連大使はウクライナでロシア語を母語とする住民の生活が阻害されているという主張には裏付けがない、と反論した。

 確かに現下の状況では、言語迫害が生じているとは言えない。それでも先に見たように西部議会側にその動きがあったことも事実である。米側が言うようにそれ自体が介入の口実にはなりにくいのも確かだが、問題の根は西部議会にある。
 論点を整理すると、ヤヌコビッチ追放後西部に登場した議会は事実上、極右勢力の影響下にあり、その活動にロシア系住民が恐怖を覚え、対応的な行動に出たとしても十分理解できる。
 これに対して、ロシア国益の観点を含めて、ロシア側が行動したこともミクロ的な範囲ではぎりぎり合理的な活動であり、またマクロ的に見ても、現状の推移からは、国際社会の反対も考慮されている点で、性急な、クリミアのロシア併合も想定しにくい。
 むしろ問題なのは、ウクライナ議会に影響力を持つ武装した極右勢力を西側諸国がどのように正常化させるかにかかっている。
 現時点からの今後の展望だが、前回にも触れたように、「決定的なことは2つ。ウクライナはEUには入らない。そして、ロシアはウクライナを失うことは絶対にしない」ということがある。
 その上で、西側つまりNATOは口先やその他裏面的な活動以外では、軍事的には動かない。理由は単純で、ウクライナがNATOに含まれないからである。
 ロシア側の行動は、現状の西側報道から見るよりははるかに合理的にかつ西側諸国と連絡を取り合っており、現状の線からはクリミア併合といった事態も想定しづらい。また、その事態が迫る場合は、武力によるのではなく、クリミア域での住民投票が先行させられるだろう。
 そこまでに至らず、西部の極右勢力の活動が沈静化され、新しい体制ができれば、ロシアとしても以前のようにウクライナとの関係を友好的なものにしていくだろう。
 
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »