ピンズラー方式による中国語学習14日目の雑感
ピンズラー方式による中国語学習は14日目。毎日欠かさずであれば15日目であるはずだったが、忙しく疲れた一日があって、休むことにした。フランス語を学んでたときは、大晦日も正月も一日たりとも抜かすことはなかった。が、そこまでの気力はもうない。それと、こうした感想は、とりあえず当初の目的で30日で書くはずだったが、いろいろ思うこともあるのでざっと記しておきたい。
まず、慣れてきた。中国語の音や会話に慣れてきたのである。
言語の学習というのは不思議なもので、ただ自然に慣れるという部分がある。特に音だけを頼りにしていると、音に慣れる。
フランス語の時でも感じたが、今回の中国語ではさらにその印象は深かった。特に、聞き取れない「変な」音も、次第に自然には聞こえるように変わる。脳の無意識の学習があるのだろう。
それと似たことだが、音から漢字が浮かばなくても、ある程度耐えられるようになったことだ。それでもyàoとかyǒuとか、知ってる漢字なんだろうな、要と有だろうなという思いは去らない。つい調べる。何しているんだろうか、自分?と思う。が、そのあたりもうちょっと調べていったら、ピンズラー方式でマンダリン(普通話)を学ぶ米人も同じように思う人がいるのか、漢字の書き下しを見つけた。まあ、そうだよね。というわけで、書き下しはレッスン語の確認に使うことにした。
というわけで、できるだけ聞いた音から入る。漢字を読むことを先行しない。
おそらく漢字を読むという態度で中国語に接するとフレーズがわかりにくいのではないか。「我不知道」というとき、日本人だとどうしても四文字熟語みたく見えてしまう。
しかし音で聞くと、微妙な間の取り方で文法構造がはっきりしてくるし、Wǒ bù zhīdàoというふうに聞けば、I don't know.という構造の感覚は浮かびやすい。
文革で、普通話をピンインにしてしまえと彼らが考えたのも、そういう理由もあるかもしれない。
中国語を学びつつ思うことには、適切な補助学習書がみつからないこと。
フランス語の学習のときは、15日目くらいの時に、補助用に学習書をいくつか買ったし、辞書も買った。今回も、自分という人間はそうするだろうなと、いくつか手にしたのだが、なんとも歯がゆい。これという補助学習書がまったく見当たらない。とりあえず英中辞書は買った。
中国語の文法書というのはいろいろあるし手にしたのだが、自分が見た範囲では、どれも語用説明にはなっていても、文法になってないなあという感じがしてならない。もちろん、ここでいう文法は、結局自分の固定概念が印欧語の文法に拘束されているからだ。
では、初期の生成文法的にS→NP+VP(文は名詞句と動詞句からなる)みたいに説明したものがありそうにも思うのだが、見当たらない。SVOといった部分はわかるのだが、問題は補語や語形成の規則や拘束(Binding)が知りたいのだが、わからない。
しかしそれは無理というものなんじゃないか。
そもそも、中国語というのは印欧語ではないのだから、それをモデルにした文法体系で考えるのが間違っているのだろう。逆にフランス語の文法が比較的楽にわかったのは、印欧語文法のメタ知識があったからだろう。
このあたりから、ちょっと奇妙な疑問が浮かぶ。
そもそも中国語に文法ってないんじゃないのか? いや、ひどいことを言っているなあというのは自覚しているし、あるいは無知を晒しているという自覚もある。
その疑問がもわっと浮かんできたのは、フランス語を勉強したとき、ある程度学習が進むと、字引を使えば、デカルトでもパスカルでも読めるという体験があったからだ。日本の歴史に対応させると、江戸時代初期ころのデカルトやパスカルのフランス語というのは、それなりに現代フランス語の圏内にあり、フランス語、というか、オイル語というか、一応400年くらいの単一性みたいなものがある。逆に英語だとノルマン征服でピジン語化的な大きな変化をしている。
そういう歴史性がどうも中国語になさそうに思える。
もちろん、私たちの大半が今高校とかで読まされていた漢文というのは、中国語の一部ではあるのだが、これらと現代中国語との連関みたいのは、どうもフランス語ようにはなってないんじゃないのか? 清朝時代あたりに、一種、ピジン化して現代の中国語ができているんじゃないのか? もうちょっと言うと、五・四新文化運動のころに事実上人工的に創作されたのではないか。近代日本語と同じように。
近代日本語は、丸谷才一などがずけずけと言っていたが、その調子を真似るなら、西洋言語の翻訳下し文を変化させて作成された言語であり、その意味で、いざとなれば、西洋語に直せば日本語がわかるようになっている。その最たるものが、我らの日本国憲法で、あれが何を言っているかは、原文に当たればわかるようになっている。英文な。
つまり、実質的に近代日本語の文章が意味をなしているかは、印欧語に翻訳できるかにかかっているともいえる。まあ、極論だけど。
ところが、近代中国語の場合、そういう参照規範言語をもっていないのはないだろうか。あるいは、ある程度までは日本語がそうだったのだろう。どうやら共産党も成立当時のリンガフランカは日本語だったようだし。
現在の中国語がそうした参照規範言語としての日本語の影響が残っているかというと、どうもなさそうには見える。
では、どうやって現代中国語は、文法構造の規範を持っているのか?
実は、ないんじゃないか? もっと丁寧にいうと、五・四新文化運動が継続しているのではないだろうか。
まあ、そのあたり、自分の中国語の能力が上がればわかってくるんじゃないかという期待がある。
もう一つ、そういう疑問を持つのは、さすがにここまでconjugation(活用)のない言語というのは何か異常な感じがするからだ。
さすがにこれでは日常言語として異常だというのが、児化の背景にあるだろう。あと、我阿という表現を見たときも、え?と思った。
もしかすると、漢字で表現するために、conjugationが禁止されているという言語が中国語なのではないだろうか?
もっと探ると、切韻が文書化されときに、こういう変な言語になることが運命付けられていたのではないだろうか。
ちょっと話がずれるが、先日、人混みのなかを歩いていると、中国語らしき会話が聞こえるので、これはどの中国語だろうかと耳を澄ましてみた、というか、デカイ声だから澄ますほどでもないが。結論からいうと、わからない。捲舌音の響きがないので、普通話ではないんじゃないかくらい。
で今回、参考書の一環で、ちょっと広東語と台湾語の本も覗いて見たのだが、初めて見たわけではないが、ある程度普通話に馴染んでから見ると、圧倒的なくらい別言語なんで驚いた。先日のエントリで広東語話者さんからのコメントを貰ったのだが(谢谢你!)、すごく納得しましたよ。
これら(広東語や台湾語)も一応漢字で表現できる。その意味では、切韻が文書化された歴史みたいのはあるんだろう。
しかしなあ、普通の言語変化なら、どこかで、conjugation(活用)や格変化が生じるもんじゃないかと思って、ふっと唖然としたのだが、そういう逸脱言語が古代にあって、それが百済語の基礎だったのではないか? そしてそこから漏れてきたのは日本語の古型で、そこにヤポネシアというかポリネシア系の語彙を嵌めたのではないかな。
ちょっと話を戻すと、切韻的な漢字対応の規範性が広義にその後の中国語を決めたのではないか(つまり政治的に)。
そういう点で普通話の音韻体系を眺めてみると、捲舌音あたりに奇妙なComplementary distribution(相補分布)みたいなものがあって気になった。これ、つまり、qとchiというのは、phoneme(音素)としては独立してないんじゃないかという疑問がちょっと浮かんだわけだ。もちろん、La linguistique synchronique(言語の共時制)として見ると、体系としては、phonemeとしてよいのだろうが、それにしても、これはなんだろと思った。
これはたぶん、捲舌音が普通にできない中国人のためのredundancy(冗長性)なんじゃないか。
別の言い方をすると、そもそも普通話というのは、捲舌音ができない民族でも漢民族になれるようなredundancyを持っているんじゃないか。(基本は清朝だろうなあ。)
その他も、たぶん中国語の会話というは、漢字を離れると、文脈依存的に冗長性があって、tonal(音調)が合っているなら、それなりに変な発音でも通じるようにできてるんじゃないか。
もうちょっというと、実際のところ、ピンイン(現代版切韻)で区別が付くのは、二語以上の語で、その二語の情報の複雑性が文脈と合わさって、冗長性を確保しているんじゃないか。知ではなく知道、白ではなく明白、というように。
簡単に言うと、中国語というのは、functional(機能的)な語と基本語以外は、二語構成にせざるをえないんだろうな。
ま、そんなことを思って、中国語の勉強を続けています。
我阿想這様的事情、並継続学習普通話。(日体w)
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コメント
>漢字で表現するために、conjugationが
>禁止されているという言語が中国語なのでは。。。
『皇帝の歴史』を刻むため、
conjugationのが禁止されているという言語。。。
ムッハーー(*゚∀゚)=3
宦官的な壮大を妄想してしまいます。
投稿: 昨日な世界 | 2014.03.10 13:44
> 二語構成にせざるを
そうですよ。だから中国語には同じ漢字を二つ続ける言葉がやたら多いんです。
日本で一番馴染みの深い中国語のひとつであるたとえば「谢谢。」とか。
これもしも「xie4。」とかだけ会話中で発すると言われた中国人はとても気持ちわるがるんです。
「好的。」も同じ。米欧語系の言語から文法的に理解しようとするとなにかがこの文章には省略されて隠されていることに、日本の初学者だとかはしたがる。
違います。「hao3。」だけ会話中で発すると言われた中国人は単純に気持ちが悪くなるんです。なんでもいいから補ってほしたがる。ただ、それだけ。日本語のたとえば「てにをは」とは違うんです。
投稿: 千林豆ゴハン。 | 2014.03.12 14:59
中国語が概観できるものとしては、こんなところはどうでしょう。日本語訳はこちら。
S.R.ラムゼイ著, 高田時雄編訳
中国の諸言語 (歴史と現況)
http://www.amazon.co.jp/dp/446921163X/
原著はこちらです。
S.Robert Ramsey
The Languages of China [ハードカバー]
http://www.amazon.co.jp/dp/069101468X/
英語で大丈夫なら、原著がオススメ。
投稿: iori3 | 2014.03.15 19:08
二重構造というのは、文言(書き言葉)と白話(話し言葉)ということになりましょうか。
ご存じかと思いますが、20世紀半ばまで、中国は識字率が2割以下だったといわれています。五四文化運動頃から、白話での文章表記が模索され、それがほぼ確立したのが1930年頃。北京官話をモデルに、語彙を拡充した「普通話」(標準語)の原型ができました。拡充された語彙には、方言由来のものや、日本で工夫された西洋由来の概念を含みます。後者は、留学生によって中国に輸入されたものが多かったようです。また、雑誌や新聞などのメディアの発達が、近代中国語の普及を促進します。
一方で、いくら白話で表記されていても、8割以上の「民衆」は読めず、貧困層は読み書きの必要性を感じることも少なかったようです。それでも、オーラルなコミュニケーションは当然行われていたわけで、現在の中国語とは少々異なりますが、明代・清代の白話は通俗文芸(講談をもとにした章回小説など)にその姿を伺うことができます。
識字率の向上は、人民共和国成立直後に行われた文盲一掃運動や、その後の『毛語録』学習会などを通じて、少しずつ成果を上げますが、文字を使える知識人(白話のみ読み書きできる人々も含みます)と庶民の間の溝が狭まり始めてから、まだ70年弱しかたっていません。ちなみに、中国で義務教育が施行されたのは1980年代になってからです。
五四文化運動で白話文が提唱されたのも、「国民国家」形成のため、庶民へ情報を届けることをねらったはずなのですが、当時はなかなか実を結びませんでした。古くは文言(雅)と白話(俗)に分かれていた「文化」を融合させようとしたものの、識字率の向上(常用漢字の普及)が追いつかなかったわけです。
なお、方言の問題はこれまた複雑で、少数民族言語を除いて文字(漢字)は共通していましたが、音韻的には各方言間で大きな違いがあります。各地域ごとに、地元でしか通じない話し言葉が使われていました。官僚は「官話」を習いますが、庶民は文法(「語法」といったほうがいいでしょうか)こそほぼ共通するものの、ほとんど違う言葉を話していたと考えていいように思います。北京語と広東語は、日本語と韓国語くらいの違いがあるイメージです。
文字の読み書きができれば各方言間で筆談が一応可能であるものの、「中国語」といっても多様性が非常に大きいのです。近年は「普通話」が普及しましたので、通じる範囲はかなり広くなりましたが、地元民同士は相変わらず方言を話すことが多いです。
「文法」は、乱暴な言い方をすれば「語順」のみです。そこに助詞や副詞、前置詞等のいわゆる「虚詞」が加わり、さらに「重ね型」(看→看看、明白→明明白白など)等によってニュアンスが形成されます。
活用に相当するのは、「動態助詞」なるものを動詞の直後につけて「完了」「持続」「経験」を表しますが、英語とは随分イメージが違うと思います。そもそも時勢が文脈依存なので、厳密な意味での「過去形」もありませんから。
以下、主な文型をば。
1.「動詞述語文(基本形)」=主語+動詞(+目的語)
(例)我喝水。
2.「動詞述語文(SVC)」=主語+“是”+目的語(←これは補語ではなく目的語とされます)
(例)他是日本人。
*“是”は一般に、動詞性を持たない「be動詞」的なものとされる(もともとは代名詞だった)。
3.「形容詞述語文」=主語+形容詞
(例)她很漂亮。
*何らかの比較対象を想定していない場合は、形容詞の前に程度を表す副詞(通常は“很”)をつける。“是”は不要。
4.「名詞述語文」=主語+数を伴う名詞
(例)我三十岁。(私は30歳だ。)
*否定は“我不是三十岁。”となる。
上記の1~4に、修飾語が組み合わさる。
1.連体修飾語(限定語):名詞を前方から修飾する。(しばしば“的”をともなう)
(例)你的车在哪里?(“你的”)
(例)我要买瘦一点的牛仔裤。(“瘦一点的”)
2.連用修飾語(状態語):動詞や形容詞を前方から修飾する。
(例)我明天去。(“明天”)
(例)你快回家吧。(“快”)*“吧”は提案や命令のニュアンスを表す助詞。
(例)他们在办公室工作。(“在办公室”)*“在”は場所を表す前置詞。前置詞句は原則として連用修飾語になる。
3.補語:動詞や形容詞を後方から修飾(補足)する。
(例)我昨天睡得很晚。(“得很晚”)=動作の様子
(例)你先走进去吧。(“进去”)=動作の方向
(例)我去过三次。(“三次”)=動作の回数 *“过”は経験を表す助詞。
(例)这个厕所臭得要命!(“得要命”)=程度
「補語」(後置修飾語)はいろいろと細かい決まり事が多いですが、とりあえず、上記の語順をイメージでき、適宜「虚詞」の用法に精通すれば、「読み書き」はできるようになります。
問題は、ピンズラー方式とどう融合させるかでしょうか……。
投稿: cirrocumulus | 2014.03.15 22:49
天漢さん、書籍情報ありがとうございます。参考にします。こういう書籍がすでにあることを知って心強いです。
投稿: finalvent | 2014.03.17 21:41
cirrocumulusさん、詳しい説明ありがとうございます。ちょうど、「我想坐飞机去香港」という構文が出て来て、英語とは随分違うものだと困惑している状態です。ピンズラー方式では、「坐飞机去」を教えて、それからすでに習った「我想」に繋げるという手順でした。一応は理解できるのですが、なぜ、「去坐飞机」とならないのかは理解できないでいます。
投稿: finalvent | 2014.03.17 21:45
“坐飞机去”は、「連動文」といわれる文型です。“坐飞机”と“去香港”の2つの動詞句を並べた形です。“去坐飞机”ですと、「飛行機に乗りに行く」という意味になってしまうんです。
「連動文」の定義は、通常下記の通りになります。
1.1つの主語に対して、2つの動詞句がある。
2.前の動詞句(“坐飞机”)が、後の動詞句(“去香港”)の手段、方法になっている。
3.前の動詞句で示される動作が、後の動詞句で示される動作が実現するよりも時間的に早く行われる(後の動作の実現のために前の動作がある)。
交通手段や使用する道具などが「前の動詞句」として示される場合のほか、“我去商店买东西”のようなケースもあります。“去坐飞机”もこれと同様にみなせますね(“去机场坐飞机”というふうに、行く場所を明示するとわかりやすいでしょうか)。
なお、中国語の前置詞はもともと動詞であったものが、動作を意味しなくなったものということができます。
(例)他在图书馆看杂志。(図書館で)
(例)我给你买一些礼物。(あなたに)
(例)你往前走吧。(前へ)
(例)我们从现在开始。(今から)
これらは「いる」「与える」「赴く」「従う」という意味の動詞にもなる言葉ですが、ここではあくまでも「~で」「~に」「~の方へ」「~から」という意味にで使われています。
英語等と突き合わせた場合は前置詞になるということから、便宜上「前置詞」としていますが、連動文における前の動詞句が動作を表さなくなったものを「前置詞句」としていると考えることもできます。
そういうわけで、中国語では「前置詞句」は連用修飾語として、動詞(形容詞の場合もあり)の前に置かれることが多いのです。
投稿: cirrocumulus | 2014.03.18 06:35
cirrocumulusさんへ。説明ありがとうございます。二つの動詞句を並べたと考えると、わかりやすいです。ただ、これが文法なのか、二つの動詞句を並べるという句構成があって意味的にわかりやすく並んでいるだけなのか(文法というより意味上の要請から)、そのあたりがどうなっているのだろうとは思いました。
中国語の前置詞については「在」について思っていたことでした。
なにか単純な原則のようなものがないかと考えてしまいますが、まずは、用例をいろいろ学んだほうがよさそうには思っています。
投稿: finalvent | 2014.03.18 13:54
補足。わかりました。動詞句と前置詞句と本質的な違いはなさそうですね。そして、前置詞句は副詞句的に主同誌の前に出てくるわけですね。勝手な思い込みかもしれませんが、すっと霧が晴れたような気がします。
投稿: finalvent | 2014.03.18 15:59
>>ただ、これが文法なのか、二つの動詞句を並べるという句構成があって意味的にわかりやすく並んでいるだけなのか(文法というより意味上の要請から)、そのあたりがどうなっているのだろうとは思いました。<<
中国語の「文法」というのは、まずは文字(もしくは単語)の順序、次に「句」の順序によって意味が成り立っているとお考えになって差し支えありません。とにかく優先されるのが「語順」なのです。中国では、自国語の「文法」を通常「語法」といいます。
中国語が「孤立語」といわれる所以ですが、さらに表意文字(漢字)の影響も大きいでしょう。漢字は、視覚的イメージと読音をもとに派生的な意味を生み出し、自己拡張する(意味を増やす=品詞も変わる)と同時に分裂・合体(会意文字など)さえします(なにやらiPS細胞のようです)。同じ文字であっても、そこから汲み取られるイメージに差が出かねません。だからこそ、語順は規範通りである必要があります。
ただし、庶民は文字を使わずに長い年月を過ごしてきたわけで、彼らの言語イメージというのがどうなっているのか不思議ではあります。ベトナム語あたりを学べば、少しはその手がかりが見つかりそうです。
では、その規範的な語順(あるいは「句」の並び順)がどうやって決まったのかですが、これは多分に経験則ではないかという気がします。私たちは、規範的な(正しいとされる)文章に触れ続けることで、「語順」を自家薬籠中のものにしていくしかないのでしょう。
>>動詞句と前置詞句と本質的な違いはなさそうですね。そして、前置詞句は副詞句的に主同誌の前に出てくるわけですね。<<
そのご理解で問題ないと思います(中国語学のプロパーが聴いたら、何か言うかもしれませんけれど)。もっとも、「どうしてそうなるのか」という話になると、私にもうまい答え(説明方法)が見つかりません。
何度も何度も失礼しました(笑)。
投稿: cirrocumulus | 2014.03.18 18:14