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2014.02.28

中国語の勉強を開始した

 若い頃はいろんな外国語ができたらいいなと思うもので、いろいろな外国語の基本みたいなものを概説書や入門書などで読んだりもした。が、実際に勉強するとなると、きつい。義務教育や受験勉強でこってりやっているはずの英語でもきつい。第2外国語とかやってみるとそのきつさがさらに実感される。そんなわけで、なかなか語学はものにならない。
 が、昨年秋から集中的に四か月間、ほとんどゼロのレベルからフランス語学習を始めてみた。いろいろ思うことはあったし、その過程についてもブログで書いてきた。ある程度までの学習成果はあったかと思うが、やはり語学は難しいものだとも思う。もうこれ以上手を広げるのもなんだなとも思っていたが、ふと、フランス語のときほどの意気込みなく、ちょっと中国語もやってみるかと思い、学習を開始した。

cover
Chinese (Mandarin) I,
Comprehensive
 今回もピンズラー方式である。つまり、英語で中国語を学ぶということ。また、音声中心での学習になる。ちなみに、ピンズラー方式の中国語については、ユーキャンから日本語から中国語を教える教材が出ている。前回、フランス語についてユーキャンの紹介をしたら、広告ブログですかみたいなコメントを貰ったが、実際のところ、私はユーキャンの教材についてはほとんど知らない。
 ピンズラー方式の教材は基本三段階から四段階に分かれている。それぞれが30日かかる。フランス語は四段階まであり、全部で120日かかる。それをとりあえずやってみたわけですよ。
 中国語も四段階まであるようだが、今回は、一段階まででやめようと思っている。30日分。
 フランス語のときの経験でいうと、一段階までは効果的で楽しく進められたがその先はだんだんときつかったので、現状そこまで気力はないだろうなと思う。
 しかし、前回ピンズラー方式でフランス語を学んだときは、当初第一段階まで終わることができるか自信がなく、5レッスン毎購入していったが。最後の第四段階は30日分一括販売なので、これ、できるのか自分?と思ったが、一括購入した。で、なんとかそれなりにこなせた。そこで、今回の中国語も第1段階(フェーズ1)の30日はなんとかできるんじゃないかと、一括で購入してみた。
 かくして、今日で5日目。どうか。
 まだ大したことは学んでいない。語数でいったら、うひゃわずか。40語あるだろうかくらいなものではないか。で、それがきっつい。いや、中国語の学習ってこんなきついものだろうか?
 私は高校生のとき漢文はけっこう得意なほうだったし、四書五経とか漢詩とかもよく読んでいるほうではないかと思う。共産党中国には行ったことがないが、台湾や香港とかには行ったことがあり、現地の中国語表記などもそれなりに読めたりもした。旧漢字が読めるのもメリットの部類だ。
 それと、若い頃にちょっと中国語の入門を囓ったとき、そんなに難しい言語でもないようにも思えたものだった。簡体字との差はあるとしても、基本の漢字はすでに覚えているから、日本人にとっては中国語は、英米人がフランス語を学ぶようなものじゃないかと、かく思っていたのである。
 全然!
 いやあ、全然違うな。なんじゃこりゃと思った。
 結論からいうと、自分の頭がすっかり中国語に向いてないということかもしれない。
 それと、ピンズラー方式ゆえのきつさがあるように思えた。英語で中国語を学ぶ、しかも音声だけ、ということで、漢字という文字は使わないことになっている。
 わかったのだ。漢字を見ていると、表意文字の性質からなんとか意味がわかったような気がしているだけで、言語の本質である音声から見ると、こりゃ、全然違うもんだ。
 よく英米人やフランス人で中国語を流暢に使う人がいるので、音声から学ぶほうが正しいんじゃないかと思ってもいたのだが、いやあ、まるで漢字が想像できない中国語の学習は、きついきつい。
 ウォーシャンチューイーテアルトンシ
 I would like to eat something.
 は?
 ウォーは「我」だ。シャンは「想」だ。チューは「吃」だ。これは知っていた。「イーテアル」はフランス語のun peuというか、れいの「儿」だな。れいのってなんだよ。
 で、「トンシ」は何だ?
 って、意味はsomethingだよ。quelque choseだよ。で、それって中国語でっていうか漢字でなんだ?
 「東西」
 え?
 なんか陰陽五行に関係しているらしいが。まいった。
 で、そんなことを知る必要があったのか?
 ピンズラー方式の原則からいうと、ない。それどころか学習の邪魔である。
 困ったなあと思った。
 しかし、中国語の音が頭に残ると、なんとなく、ぼわわわんと漢字が浮かぶのである。そこに漢字があるはずだよなという脳の働きが無意識に止まらない。
 ほんとまいった。
 まあ、ある程度は漢字を探すかなと諦めたが……。
 ついでに思ったのは、ピンインはどうだろ。
 ピンインで覚えたらいいじゃないか。そうだそうだ。そもそも文革のころの中国人というか、毛沢東は漢字を廃止しようとしていたくらいで、中国人にとっても漢字というのは、中国語の正書法みたいなもんで、言語の本質ではないはず。
 ちょっとピンインを調べてみた。
 Wǒ xiǎng chī yīdiǎn er dōngxi
 確かにカタカナよりはましだし、なにより四声がはっきり表記できる。が、わかったのだ。だめだ、俺には。
 你会说英文吗?
 Nǐ huì shuō yīngwén ma?
 って、ピンインの音と同じにはどうしても聞こえない。特に、会がhuìとは聞こえない。ホエ、って聞こえる。
 さらにちょっとこれも知らべてわかったのだが、ピンインというのは音の表記というより、これもまた正書法の一種なのな。あーあ。
 自分がどこまで中国語が学べるかわかったものではないが、ためにしにパソコンのIME(入力システム)を中国語にしてみたら、やはりピンインが使えないと使えない。ので、中国語をある程度勉強するなら、どこかの時点でピンインをきっちり覚えないといけないのだろう。
 ふー、溜息が出るなあ。
 ある意味、英米人みたいに、まず漢字の呪縛を離れて中国語を学べたらそれはでよいのかもしれない。
 でも、そのあと、日本語を学ぶのは、絶望的に無理なんじゃね? 漢字の読み体系が全然といっていいほど違うし。
 まあ、いいや。
 そういえば、沖縄で暮らしていたころ、作家の大城立裕先生から直接いろいろ教わる機会があったのだけど、先生は中国語ができる。で、朝鮮語というも中国語に似ていますねと、いろいろ例を上げて教えて貰ったことがある。
 朝鮮の場合、ある意味、言語政策では文革の先行をして漢字を潰して、ピンインみたいなハングル(オンモン)を使うようになったわけで、音だけにすると、そういう現象がはっきりしてくるのかもしれない。
 中国語は私には無理かもしれないが、それでも少し学んでいろいろ思うことはあった。西洋語だと、YES/NO思考というか、ロマンス系はそれ以外もあるし、英語もそれ以外があるようなないようだが、それでも、基本は疑問文はYES/NOで答えられるもんだが、ピンズラー方式ではちょっこっと、中国語にはそれはありません、とあって、そういうレッスンの仕組みになっていた。思うのだが、日本語でも元来はそうだったのではないかな。
 あと、私は道元が好きでその残してくれた文を読むのだが、彼は和語の達文を書く人でありながら、どうもところどころ、これって、中国語まんまじゃねという部分があり、中国語がわかるようなったら、少しそういう部分がわかるといいなと思っている。
 さらに言えば、李白の詩とか、普通語発音でもいいから、きちんと発音できたら、もっと美しいんじゃなかろうか。
 はあ。遠い目。
 你是美国人吗?
 是。我是美国人。
 え?
 
 

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2014.02.26

読みが難しかったウクライナ争乱

 ウクライナ争乱については読みが難しくなかなか書けなかった。まあ、私などが書いても毎度ながらいやなコメントを貰うくらいがオチだが、実のところ、2月20日以降、私の読みは外していた。そのあたりから少し書いてみたい。
 外したなあと思ったのは、21日時点の暫定的な和解でとりあえず政権崩壊は避けられるだろうと見ていたからだ。
 少し振り返る。21日AFP「ウクライナ政府、反政権側と「暫定的な和解」と発表」(参照)より。


【2月21日 AFP】ウクライナの首都キエフ(Kiev)で起きた反政権デモと機動隊の激しい衝突により多数の死者が出た前日から一夜明けた21日、同国のビクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領は3か月に及んでいる反政権派との対立を終結させるために、両者間で暫定的な和解が成立したと発表した。
 欧州連合(EU)が確認したところによると、ヤヌコビッチ大統領と野党の指導者らは長時間に及んだ協議の末、21日に「一時的な」合意書に調印する見込み。旧ソ連からの独立以来、最悪の危機から脱出するための大きな一歩となることが期待される。


 前日20日には、キエフの独立広場(Independence Square)でのデモ隊と機動隊の衝突により、昨年11月にデモが始まって以来最悪の少なくとも60人が死亡した。警察はデモの参加者に対して実弾を発砲し、またデモ側の医療関係者によれば、政権側の狙撃手が建物の屋上からデモ隊を狙い撃ちしたという。
 この事態に国際社会が懸念の声を強める中、政権側と野党側の緊急協議を仲介するためにポーランド、ドイツ、フランスの3か国は外相を、ロシアは特使を派遣した。

 ウクライナを取り巻く関係国の結束がこれでできたのでこれで、とりあえずなんとかなるだろうと私は見ていた。
 今回のウクライナ騒動は18日に大きな転機があった。

 今回の事態は、ロシア寄りのヤヌコビッチ政権が昨年11月にEU加盟への前提となる連合協定の署名を見送ったために、怒った親EU派が抗議行動を開始したことが発端。抗議デモはこれまで1月下旬の一時期を除き、概して平和的だったが、今週18日に戦場さながらの騒乱へと豹変した。政権側は過去数日間の死者は77人と発表しているが、反政権側は20日の1日だけで60人以上が警官隊に撃たれて死亡したと主張している。21日には独立広場に2万人が集まり抗議した。
 抗議に参加したセルゲイ・ヤンチュコフさん(58)は「(和解の)ステップは我々が必要としていたものだが、これだけたくさんの血が流された後で、あまりに遅すぎると思う。これは人道に対する罪で、ヤヌコビッチ(大統領)はハーグ(の国際刑事裁判所)へ送られるべきだ」と語った。

 18日の大争乱が大きな転機だった。私はこれを関係国の強力でなんとか押さえ込めるだろうと見ていたわけである。
 この時点では、その動向が強いようでもあった。同じくAFPで22日「ウクライナ大統領と野党代表が合意文書に署名、露は署名せず」(参照)より。

【2月22日 AFP】反政権デモと警官隊の衝突で3日間におよそ100人の死者が出たウクライナで21日、ビクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領と反政権派が、旧ソ連からの独立以降、最悪の危機の収束に向けて合意文書に署名した。


 合意文書は欧州連合(EU)の大国である独仏と、文化的にウクライナと関係が深いポーランドの3外相がEUを代表して2日間にわたって行った仲介でまとめられたもの。EUはウクライナ政府幹部らに対し、暴力行為に関わった責任があるとして、域内への渡航を禁止する制裁措置を発動している。

 ところがこの直後、大きな変化が起きる。
 反政権デモ隊によって首都キエフが掌握され、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領が首都キエフを出て、職権乱用罪で服役中のティモシェンコ元首相が釈放された。
 簡単に言えば、EUなどの合意が反政権デモ隊によって無視された形になった。合意に参加した反政府派はどうなっていたのか?
 そこが今回の争乱の、自分にとっては一種の謎であり、報道から未だに見えてこない。
 印象でしかないのだが、和平合意を崩す武装勢力がよほど大きな意味合いをもっていたのではないか。
 連想されるのは極右連合「右派セクター」である。毎日新聞1月31日「ウクライナ:極右連合「右派セクター」が第三勢力に」(参照)より。

【モスクワ真野森作】反政府デモが激化したウクライナで、極右連合「右派セクター」が第三の勢力として台頭してきた。今月19日、首都キエフでの治安部隊との衝突で、デモ隊側の反撃の中心となり、過激な「武闘派」として注目を集めると同時に、ヤヌコビッチ政権と交渉を重ねる野党指導者も批判し、独自の要求を掲げて、情勢を複雑にしている。
 ロシア通信によると、右派セクターは複数の極右団体の連合体として昨年末に登場した。ソ連崩壊後の1990年代に誕生した「ウクライナの愛国者」「ウクライナ国民会議」といった古参組織と、この数年に結成された「白いハンマー」など若者組織で構成。違法カジノの襲撃や取材記者への暴行で知られる組織も含まれ、反ユダヤ主義者や熱狂的なサッカーファンも加わっている。特定のリーダーはなく、集団指導体制をとる。


 同国の政治学者コルニロフ氏は、露有力紙「モスコフスキー・コムソモーレツ」に対し、「極右団体は今回のデモに当初から参加し、勢力を伸ばした。メンバーの戦闘訓練を行ってきたため、衝突にたけている」と語る。野党第3党の極右政党「自由」と一体の関係にあり、欧州的価値観を理想とする他の野党勢力や一般市民とは異なる民族主義的な国家像を目指しているという。

 この勢力が今回の争乱の転機をもたらしたということであれば、彼らの動きは、ウクライナの「一般市民とは異なる民族主義的な国家像を目指している」ことになり、俯瞰的な国際情勢の読みは今後も外れることになる。
 どうなのだろうか。この勢力の動向については、1月24日AFP「流血のウクライナ反政権デモ、過激化の裏に謎の右翼集団」(参照)が参考になる。

■親露でも親欧でもない新勢力
 「右セクター」はウクライナを「強い独立国」ととらえており、ロシアの影響を完全に排除したウクライナ国民による「人民の統治」の実現を目指している。同時に、野党主流派の掲げる欧州連合(EU)への加盟にも同意していない。
 「われわれ民族主義者は、祖国を占領する政権を革命的な方法で転覆しなければならない。それ以外の方法は存在しない」。AFPの取材に応じた「右セクター」指導者の1人、アンドリー・タラセンコ(Andriy Tarasenko)氏は、こう断言した。
 ごく最近までほとんど知られていなかったこの集団は、政権への効果的な対抗勢力になれなかったとして全野党を批判し、あらゆる野党勢力との協力を拒んでいる。
 ウクライナの既存の極右政党「自由(Freedom)」とも、その党首オレフ・チャフニボク(Oleg Tyagnybok)氏とも、全くつながりはない。11月以降のデモを率いてきた元ボクシング世界チャンピオンの野党指導者ビタリ・クリチコ(Vitali Klitschko)氏や、連合野党「祖国(Fatherland)」幹部のルセニー・ヤツェニュク(Arseniy Yatsenyuk)氏に対しても、拒否感をあらわにしている。
 「人々は抗議のために街頭に繰り出したのに、その間2か月にわたって舞台を占拠してきた野党指導者たちは、現状維持に全力を尽くしただけだ」とタラセンコ氏は非難した。19日の大規模集会では、クリチコ、ヤツェニュク、チャフニボクの3氏に、デモ参加者から中傷が浴びせられた。


■ネット通じて組織、「これは戦争だ」
 熱心なサッカーファンの集団をメンバーに含む「右セクター」は、SNS最大手フェイスブック(Facebook)を始めとするソーシャルネットワークを通じて運動を組織している。
 同連合は「ウクライナの伝統的なキリスト教と民族主義のイデオロギー」を原則に掲げる団体「トリズブ(Tryzub)」の分派だ。トリズブは、第2次世界大戦(World War II)中~1950年代に旧ソ連と戦った「ウクライナ蜂起軍(Ukrainian Insurgents Army、UPA)」の指導者、ステパン・バンデラ(Stepan Bandera)氏から影響を受けたと主張している。

 繰り返すことになるが、この勢力が今回の争乱にどれだけ関与していたのかが、よく読めない。
 ただ、私が当初想定していたように、いわゆる国際情勢に関心を持つ人々が、できるだけマクロ的に見てきた像とは異なる世界が突然出現したと言えるのではないか。
 補足すると、いわゆる国際情勢的な線でウクライナを見ていくと、大変化が発生する前までは、例えば、21日時点でのWSJ「ウクライナで何が起きているのか―理解のためのクイックガイド」(参照)や、同じく21日のAFP「ウクライナはなぜ炎上しているのか?」(参照)といった解説で事態が説明できたはずだ。しかし、これらの論説は現下の状況説明にはすでに弱い。もちろん俯瞰図は今後のウクライナや世界を考える上で重要な基礎知識ではあるが、今回の事態についていえば、私の予想と同様、読みの点で決定的に失敗していた。
 ともあれ、実際にこのように展開してしまったウクライナ情勢だが、今後をどう読んだらよいのか。
 私が修正した現在の状況認識は、手の施しようのないアノミーである。
 とにかく国家に収納される暴力が市街に露出している状態をなんとかできるかにかかっている。その方向が現状見えるのかというと、わからないとしか言えない。
 とはいえ、マクロ的な状況はそれなりに明確になっている。
 決定的なことは2つ。ウクライナはEUには入らない。そして、ロシアはウクライナを失うことは絶対にしない。
 この部分はブログらしく説明すべきなのだが、おそらく大方の識者の見解でもあるだろうから省略する。
 それに関連するのだが、ウクライナは分裂するか、という問題がある。東側のロシア寄りの住民がロシアに庇護を求めて、それをきっかけにロシアに編入される可能性はあるだろう。そうなるかまでは読み切れない。
 西側社会としては、ティモシェンコ元首相を5月の大統領選挙で支援してなんとか形だけはウクライナ統合持っていきたいところだろう。西側報道からはこの件で悪役に仕立てられがちなプーチンだが、メルケルと会談して所定の合意は取れているようにも見える。
 余談だが、報道という点では、ヤヌコビッチの悪政を暴く報道はロシア側から出ていることにご注意。これはロシアの今後の意向を踏まえた物語もあるだろう。
 
 

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2014.02.25

公立図書館開架の『アンネの日記』や関連図書の破損が発見されたというニュースの関連で

 東京都内の公立図書館開架に置かれている『アンネの日記』や関連図書の多数でページを破られていたことが発見された奇っ怪な事件は、海外にも大きく報道された。
 英語圏のニュースは特に意識しないでも見ているので、その範囲でもいろいろ見かけた。が、大半はBBC記事「Anne Frank's Diary vandalised in Japan libraries」(参照)のように抑制的に書かれていた。
 特にこのBBC報道でが適切に思えたのは、欧米などでよく見られる反ユダヤ主義(anti-Semitism)が基本的に現実にその社会に存在するユダヤ人を排除する意図、さらには、民族浄化の文脈で語られるものなのに、日本にはそうした背景が存在しないことを指摘している点だった。


For many Japanese the book forms the basis of their knowledge about the Jewish holocaust, the BBC's Rupert Wingfield-Hayes in Tokyo reports.

多くの日本人にとっては、この本がユダヤ人ホロコーストについての知識の基礎になっている、と東京在BBCのルパート・ウィングフィールド・ヘーズは報告する。

But what might have motivated the attacks remains a mystery. Japan has no history of Jewish settlement and no real history of anti-Semitism, our correspondent adds.

しかし、何がこの攻撃を動機づけたのかは、依然ミステリーであり続けている。日本、はユダヤ人入植地の歴史と反ユダヤ主義の本当の歴史を全然持っていないのだ、と、私たちの特派員は付け加える。


 日本について所定の知識がある見られるBBC特派員にしてみると、今回の事件が反ユダヤ主義(anti-Semitism)の文脈であるという印象はなかったようだ。
 また、『アンネの日記』が日本社会において独自の位置を占めていたことも記名の専門家のコメントで示唆されていた。

Professor Rotem Kowner, an expert in Japanese history and culture at Israel's University of Haifa, told the BBC that the book has been exceptionally popular and successful in Japan.

イスラエルのハイファ大学で日本の歴史と文化を専門とするローテム・コウナー教授は、この本は日本では例外的と言えるほど人気があり成功しているとBBCに語った。

He says that in terms of absolute numbers of copies of the book sold, Japan is second only to the US, and adds that for Japanese readers the story transcended its Jewish identity to symbolise more powerfully the struggle of youth for survival.

この本が販売された総数で見るなら、日本は米国についで二番目にあり、日本人の読者にとってこの物語は、そのユダヤ人アイデンティティとは別に、青年期の生きづらさを力強く象徴していたと、彼は語った。


 簡単に言えば日本における、『アンネの日記』は、日本特有の文化と戦後史のなかで、他国とは異なった独特の読まれ方をしていたし、それゆえに日本に影響力を持っていたということだ。
 とすれば、今回の事件もそうした、日本という特異な文脈のなかで考えらるのかもしれないが、BBCの記事はそこまで踏み込んでいない。
 いずれにせよ、欧米圏での主要メディアでは、今回の奇っ怪な事件が、日本という異文化の奇っ怪さの文脈で、ある意味で正しく報道されていそうだなという印象を持った。
 が、微妙な例もあった。
 欧米圏ではなく、実際にホロコーストが社会に生じた欧州ではどうだろうか(余談だが、米国の場合は、日系人がユダヤ人のように強制収容所に送られた)と気になって、フランス語関連を覗いて見た。
 いくつか見たのだが、フィガロの記事「Des exemplaires du Journal d'Anne Frank vandalisés au Japon」(参照)が興味深いものだった。

Cet incident survient alors que les critiques se multiplient contre le Japon à la suite de nombre de déclarations jugées «révisionnistes» sur le passé fasciste du pays, notamment depuis l'arrivée au pouvoir du nationaliste de droite Shinzo Abe.

今回の事件は、日本のファシズム時代についての「修正主義者」と判断される多数の表明に向けて批判者が増えていくなかで発生した。特に、国家主義者の安倍晋三が政権についてからのことである。

Le premier ministre avait choqué ses voisins coréens et chinois en visitant en décembre dernier le controversé santuaire Yasukuni pour honorer les âmes de 2,46 millions de militaires tués au combat pendant les guerres modernes.

この首相は、昨年12月、現代戦246万人戦死兵の魂を称えるために、異論の多い靖国聖堂を訪問したことで、隣国の朝鮮人と中国人に衝撃を与えた。


 フィガロ特派員は、今回の事件を、日本の「修正主義者」への反発の文脈で見ているし、特に、安倍首相の登場をその文脈の中心においている。
 こうした見立ては日本でも見られるので、フィガロ特派員の個人的な見解というより、日本での取材の反映もあるかもしれない。
 もっともフィガロ特派員も、日本における『アンネの日記』の特異的な読書現象についてはその前段で明確に述べている。そこに微妙な含みもある。

Le Journal d'Anne Frank connaît un succès étonnant au Japon, où il a été traduit en 1952. Symbole de la persécution des Juifs en Europe, le livre prend un tout autre sens aux yeux des Japonais pour qui la Shoah est un événement lointain.

『アンネの日記』は日本で1952年に翻訳され、その驚くべき成功が知られている。ヨーロッパにおけるユダヤ人の迫害の象徴であるこの本は、ショア(ホロコースト)が遠い国の出来事であるため、日本人の目には別の意味を持つ。

Dans l'après-guerre, de nombreux adolescents du pays, ayant eux aussi vécu les affres de la Seconde Guerre mondiale, se sont identifiés à cette histoire. Le Journal d'Anne Frank trouve encore un écho dans le Japon de nos jours.

戦後、第二次世界大戦の苦難なかを過ごしていた、この国の10代の子どもたちは、この物語のなかに自分たちを見いだした。『アンネの日記』は現在の日本でもその余波を持っている。

L'adolescente est même devenue un personnage de manga. Le journaliste Alain Lewkowicz s'est récemment intéressé à ce phénomène dans une BD-reportage publié sur le site d'Arte.

この10代の子は漫画のキャラクターにもなった。ジャーナリストのアラン・リューコビッチは最近、アルテのサイトでの漫画レポートでこの現象に興味を示した。


 このユダヤ人アラン・リューコビッチの作品は、ユダヤ人社会を持つ社会ではけっこう有名になったようだ。
 タイムズ・オブ・イズリアルの「Behind Japanese fascination with Anne Frank, a ‘kinship of victims’」(参照)も今年の1月に取り上げていた。ここで示されたリューコビッチの見解は、わかりやすい。

“She symbolizes the ultimate World War II victim,” said Lewkowicz. “And that’s how most Japanese consider their own country because of the atomic bombs — a victim, never a perpetrator.”

リューコビッチによると、彼女(アンネ・フランク)は、第二次世界大戦の究極の被害者の象徴であり、原爆によって大半の日本人はそのように自国を捉えている。被害者であって、けして加害者ではないのだ。


 同記事を読むとイスラエルのユダヤ人社会も、日本人の『アンネの日記』の受容には奇妙な印象を持っているようだ。

Currently, approximately 30,000 Japanese tourists visit the Anne Frank House every year, 5,000 more than the annual number of Israeli visitors. That figure places Japan 13th in a list whose top 10 slots are all occupied by European and North American nations.

現在、毎年3万人もの日本人観光客がアンネ・フランクの家を訪問する。これは、イスラエルからの年間訪問客より5千人も多い。この数字はリストの13位にあたるが、上位10位までは西欧人と北米人が占めている。


 リューコビッチの話に戻ろう。こう続く。

“Basically, every Japanese person has read something about Anne Frank, which is even more amazing considering the shocking ignorance on history of many young Japanese today,” Lewkowicz said. “The older generation has read the book, and they buy the manga adaptation for their children.”

「基本的に、すべての日本人はアンネ・フランクについて作品を読んでいる。これは、今日の多数の日本の若者が歴史に呆れるほど関心を持たなことを考慮すると、驚くべきことだ。年長世代がこの本を読み、そして彼らは子どもたちに漫画の翻案を買い与えている」とリューコビッチは語る。



“The Anne Frank-Japan connection is based on a kinship of victims,” Lewkowicz said. “The Japanese perceive themselves as such because of the atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki. They don’t think of the countless Anne Franks their troops created in Korea and China during the same years,”

「アンネ・フランクと日本の結びつきは犠牲者の親近感に拠っている。日本人は広島と長崎に原爆を落とされたゆえに自分たちをそのようにとらえている。彼らは、同時代、朝鮮や中国で彼らの軍隊が生み出した無数のアンネ・フランクを考えない」とリューコビッチは語る。


 日本人には厳しい指摘と言えるだろう。だが、今回の、『アンネの日記』や関連図書の多数でページを破られる事件は、そうした日本人の犠牲者欺瞞の象徴ゆえに起きたとも考えにくい。国際的に見て過剰なほどに『アンネの日記』が強調される日本の戦後社会の動向での、なんらかの反動という文脈にあるのかもしれない。
 いずれにせよ、どのような形で今回の事件の決着が付くとしても、日本人と『アンネの日記』の、特異な関係に今後もあまり変化はないだろうという気はする。
 
 

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2014.02.20

中台の閣僚級会談について

 11日から14日にかけて中国と台湾が1949年の分断後初めてとなる、閣僚級の会談を南京と上海で実現した。日本にとっても重要な話題のはずだが、日本からはオリンピックや豪雪の話題に隠れてあまり見当たらないように思えた。が、あらためてネットで検索してみるとそうとも言い切れないようだった。ただ、あまりわかりやすいとも言えないようには思えた。日本での報道検証をかねて、今後の日本の外交にも重要な話題であるのでこの時点で、まとめておきたい。
 会談の枠組みについては事前のロイター記事がわかりやすい。「中台が歴史的会談へ、政治問題は議題にならない見通し」(参照


[台北 28日 ロイター]台湾の大陸委員会の王郁琦主任委員(閣僚)は、2月11─14日に中国の張志軍外務次官と会談を行う。1949年以降で最高位級の中台会談となる。
 ただ、王氏は会見で「今回の訪問で難度が高い政治問題は取り上げない」とした。
 中国の習近平国家主席は昨年10月、中台問題の政治的解決を永遠に先送りすることはできないと述べ、政治対話の促進を呼び掛けた。これに対し台湾の馬総統は、政治対話は急を要しないとの立場を示し、貿易に力を入れる考えを表明している。
 王氏によると、2月の会談では、相互に代表部を設置する案や台湾の国際機関への参加、中国に留学している台湾の学生に対する医療について議論する。
 王氏は、会談が「誤解を回避するために、正常な意思疎通の仕組み」を作ることを目的としているとした。
 中国の国務院台湾事務弁公室の馬暁光報道官は、今回の会談について、「双方が踏み出すこの重要な一歩は、意思疎通と理解を向上させるだけでなく、両岸関係の将来の発展を共に促進することに貢献するだろう」と語った。
 会談は南京と上海で行われる予定。

 ざっと読むと中台の緊密な連携が進んでいるかのように見える。後で一例を挙げるがそのように受け取る人々も日本にはいる。
 ロイター報道に間違いはないが、微妙な部分もある。王郁琦主任委員が政治問題を取り上げないとしたのは、台湾政府・馬政権の意向というより、事前に台湾の議会で彼の権限が拘束されていて、公式な合意事項の書名や主権についての言及は禁じられているためだ。その意味で、台湾側からすると前提的な枠組みとして、今回の会合は政治ではありえなかった。
 そのような非政治対話であれば従来からも重ねているのに、なぜ今回の事態になったかというと、非政治対話が一段落して、話のネタが尽きたということがある。そこで、大陸側からの要望と台湾・馬政権の業績作りの思惑が重なって今回の会談になったと見てよい。つまり、台湾の市民の多数は今回の会談に警戒を持っている。この警戒心は、今期で終わる馬政権の評価に反映する。
 他方、大陸側としては、ごく簡単に言えば中国人の思考形式からして、なんらかの名目的な進展があればよいので、政治的対話に見えるような看板が掲げられたことだけで大きな成果になっている。加えて、台湾・馬政権が親中政権のうちに、台湾問題の歩を進めておきたいという思惑もある。
 さらにまとめると、この会談は、いかにも中国的思考の産物だと言える。日本人もこの思考様式については学ぶ必要がある。
 逆に、非難という意味ではないが、いかにも日本人らしい受け止め方、中台の緊密な連携という見方の一例として、東京新聞(中日新聞)の社説を挙げておく。13日「中台会談 真の民主共有してこそ」(参照)。

 中国と台湾が一九四九年の分断後、初めて閣僚級の会談を実現させた。時に鋭く対立してきた歴史を振り返れば、中台の平和的発展に向け新たな段階に入ったと歓迎できる。
 国共内戦以来、中台ともに中国大陸と台湾の双方を支配していると主張し合ってきている。
 中国は七九年、「台湾同胞に告げる書」を発表して、台湾の「武力解放」政策を、「一国二制度方式での平和的統一」へと大きく転換させた。
 こうした穏健な台湾に対する政策は国際社会の共感を得られるものである。
 将来的に、中台が平和統一を成し遂げるかどうかは、中華民族自身の決めることである。
 しかし、今の中台の政治や社会の姿をよく観察すれば、中国が切望する統一に向けた本格的な政治対話はまだ早いように映る。
 台湾はすでに、選挙による民主主義体制への平和的な移行と高度経済成長という“台湾経験”を成し遂げている。
 中国は社会主義市場経済という壮大な社会実験により、経済面では国民をある程度豊かにすることには成功した。
 だが、真の民主化という意味では、まだまだ民よりも党や国家に重きがあるように映る。
 中台会談が開かれた南京の地下鉄駅の壁には、習近平国家主席が訴える「中国の夢」の大きな公共広告が目立った。
 看板には「有国才有家」と大書してあった。「国があってこそ家がある」という意味だろう。道理はその通りであるが、やはり人間や家庭よりも国の権威を優先するような思想が垣間見える。
 習政権は「報道の自由」や「民主的な社会」など、学生に教えてはいけない七つの禁句を大学に通知するなど、社会の管理や言論統制を強めている。
 世論調査などによれば、台湾では圧倒的多数の人々が「現状維持」を望んでいる。最高指導者を直接選挙で選ぶ台湾の民衆は、今のままの中国と一緒になることを望むとは思えない。
 南京の繁華街・新街口の交差点には辛亥革命を成し遂げた孫文の大きな銅像が立っている。
 中国と台湾の双方で「国父」と尊敬される中華民族の偉大な先人である。
 孫文が説いたのも、民族、民権、民生の「三民主義」である。中台で真の民主を共有できるよう一歩ずつ対話を進めてほしい。

 事実レベルの間違いはないが、いくつか指摘したほうがよい点はある。
 まず、「中台の平和的発展に向け新たな段階に入ったと歓迎」できるか、それが中台の市民にどのような意味を持つかは具体的なレベルで考察する必要がある。現実問題からすると、現状そのような段階には入っていない。中国が台湾に向けて配備したミサイルの削減すら進展していない。
 次に「将来的に、中台が平和統一を成し遂げるかどうかは、中華民族自身の決めることである」ということだが、現状の国連の枠組み、つまり、米国主導でなされた中国政策の結果からすると、それが間違いでもない。だがそもそも台湾を「中華民族自身」としてしまうことを台湾の市民がどう受け止めているかについては、よく検討したほうがよい。ごく基本線で言えば、同民族でも同一国家である必要はない。まして、同言語でも同一国家や同一民族と見るべきでもない。国家とは政治体制への市民の選択であって、台湾市民が、大陸の独裁政治を受け入れるかについて、自由主義諸国は見守ったほうがよい。
 とはいえ、こうした論点を東京新聞が理解していないわけでもないのは、後段の論調からもわかる。
 あと一点補足すると、以下の結語は大陸でも台湾でも知識人の失笑を買うようには思われる。

 南京の繁華街・新街口の交差点には辛亥革命を成し遂げた孫文の大きな銅像が立っている。
 中国と台湾の双方で「国父」と尊敬される中華民族の偉大な先人である。
 孫文が説いたのも、民族、民権、民生の「三民主義」である。中台で真の民主を共有できるよう一歩ずつ対話を進めてほしい。

 東京新聞の記者は台湾での独裁政治時代の「三民主義」の扱いについて知っているだろうか。この記事からは明確には想像しがたい。万一、知らなかったら先輩記者から学ぶとよいだろう。
 日本での受容としてもう一例、対極的なのは、産経新聞だろう。台北で唯一発行されている日本本土の新聞でもあると私は理解している。同日「中台会談 台湾は民意映した戦略を」(参照)より。

 中国と台湾が1949年の分断後初めて、中台関係を担当する閣僚による直接会談を行った。
 朝鮮半島とともに「東アジアの火薬庫」ともいわれてきた台湾海峡で、対話による緊張緩和が進むことは歓迎したい。
 しかし対話が、強大化した中国に台湾が取り込まれていくプロセスになってはならない。台湾の馬英九政権には、現状維持を志向する民意を映した対中戦略を求めたい。
 国共内戦で血を流した双方は、相手の支配地域を含む「中国全土の正統政権」という建前の下、相互の主権を認めず、建前を棚上げして「民間」の窓口機関を介し、対話・交流をしてきた。今回の会談は、その「間接話法」から閣僚級の「直接話法」に切り替えたところに従来との違いがある。
 11日の南京会談では、実質的な領事機能を持つ連絡事務所の相互開設などが協議された。しかし、会談を中台統一への政治対話の入り口とみる中国側に対し、台湾側は実務的な経済関係の円滑化と信頼醸成に重きを置いたといえる。閣僚協議の継続に当たり、その基本線を崩すべきではない。
 台湾・行政院大陸委員会が昨年末に公表した住民の世論調査では中台の協議制度を「支持する」との回答が68・7%に達している。経済を中心にした対中依存の強まりを考えれば、当然だろう。
 だが、同じ調査で、84・6%が中台関係の「現状維持」を望むとし、台湾のケーブルテレビが昨秋に「独立か統一か」の二者択一で回答を求めたら、71%が統一を拒否する姿勢を示している。台湾の民意の所在は明らかだ。
 台湾の安全の守護者である米国も歴史的に関係が深い日本も、力による台湾海峡の現状変更を懸念し、対話による関係改善を促してきた。日米の国益は、台湾の民意と同じ中台関係の「現状維持」にある、といっていい。
 台湾海峡をめぐっては、世界第2の経済力を蓄え軍備拡張に走る中国がいつまでも現状に甘んじてはいない危険性がある。日米台とも警戒を怠ってはならない。
 会談に際し、「民主」「人権」への言及は中国側の要請で封印されたという台湾報道もある。台湾が中国とは際立って異なる価値観を放棄したのなら、残念だ。
 中国の思惑に引きずられないためにも、民意に根ざした対話指針を内外に説明してほしい。

 産経新聞らしい主張が多少鼻につくが、注意したいのは、「「独立か統一か」の二者択一で回答を求めたら、71%が統一を拒否する姿勢を示している。台湾の民意の所在は明らかだ」という点であり、先にも言及したが、この台湾市民の民意を無視すると、馬政権は吹っ飛ぶ。2012年の台湾大統領(総統)選挙で馬は「平和協定」に言及して撤回した経緯もある。
 もう一点、注意したいのは、「日米の国益は、台湾の民意と同じ中台関係の「現状維持」にある、といっていい」というのは正しく、米国側の思惑もそのとおりだろう。日本では日中間の枠組みで語られることが多いが、この問題の事実上の前線にいるのは台湾であり、米国と台湾の関係である。この事は逆の視点からいえば、台湾が大陸側の統一に傾けば、米国としても台湾への荷担がしづらくなり、しいては日本との同盟関係も弱体化せざるをえない。
 今後の動向だが、三つの注目点があるだろう。一つは、習近平・中国国家主席と馬英九・台湾総統との首脳会談を模索する動きである。今回の会談でもその片鱗が見えたようだが、現状ではほぼありえないだろう。またほぼありえないだろうというなら、馬総統が巧妙な手法で「中華民国が存在する事実」を中国に認めさせることだ。そうなれば、圧倒的な台湾の外交勝利にはなる。
 二点目は、すでに言及したようにポスト馬政権の動向である。現状では誰も読み切れないと言っていいだろう。具体的には、2016年の台湾大統領(総統)選挙である。前回は国民党の馬英九氏が民進党の蔡英文氏を80万票差で破ったが、馬の続投はない。現実論として台湾経済は大陸に依存している。経済的な政策は優先されるので、馬政権が大きく失敗しなければ次も国民党続投となる可能性は高い。
 三点目は2017年の香港の「行政長官普通選挙」である。2047年までは香港は一国二制度がとられていることが建前だが、その動向を占うのがこの選挙になる。すでに香港では活発な議論が進展している。日本ではあまりこの報道を見かけないような印象がある。が、この件については、意外というのもなんだが外務省の情報が簡素にまとまっている。「香港情勢と日本・香港関係」(参照)より。

2.最近の政治情勢
(1)香港SAR政府は、「反逆」、「国家分裂」、「反乱扇動」、「中央人民政府転覆」、「国家機密窃取」の行為等を禁止する「国家安全条例」を2003年7月までに成立させることを目指していた。しかし、同法案は香港市民の自由・人権を脅かすとして反対論が高まり、2003年7月1日には50万人規模の反対デモが行われ、同法案は9月には廃案となった。
(2)以来、民主派は民主化加速の訴えを強め、2007年の行政長官選挙・2008年の立法会選挙での全面普通選挙実施を要求した。しかし中央政府は、2004年4月には、2007年・2008年の選挙で全面普通選挙は実施しない旨の全人代常務委による「決定」を行い、民主派の要求を斥けた。2007年12月、全人代常務委員会は、2012年の行政長官選挙・立法会議員選挙での普通選挙の導入を再度否定するとともに、2017年の行政長官選挙及び2020年の立法会議員選挙での普通選挙の導入を可能とする「決定」を行った。2012年の二つの選挙(行政長官と立法会)については、2010年6月、立法会は、行政長官選挙委員会人数の800名から1200名への増加、立法会議席数の60から70への増加などを含む「香港基本法」改正案を採択した。
(3)新制度の下で2012年9月に第5回立法会選挙が行われ、民主派の獲得議席は70議席中24議席となり、引き続き選挙制度を巡る議論で否決権を有する三分の一以上の議席数を維持した。

 現実的に見れば、中国政府が香港の自治を認めるわけもなく、香港での締め付けは今後もきつくなるだろう。これは台湾の命運を事実上数歩先取ることになる。
 蛇足として日本がこうした動向にどう対応するかだが、全体構図から明白なのは、民主化の支援を図ることに尽きる。日本は防衛的で国家主義的な動向を進めるより、アジアにおける民主化の支援を優先すべきだ。同時に、国内に視野を狭める反政府的な批判より、アジア全体の民主化のなかで日本の役割を問いただしていくほうがよい。
 
 

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2014.02.17

フランスが2013年に国外で売った曲。Zazがトップ。

 先日、フランス語のAFPの記事を見ていたら、Zazの顔の写真が目についたので読んでみると、フランスが2013年に国外で売った曲の話だった。Zazがトップだったようだ。
 記事を読むと、現在のフランスのポップミュージックのシーンってこうなのかといろいろわかって、なんとなく面白かった。
 ので、試訳して、関連のアルバムとかユーチューブとか合わせてみたい。元記事は、「Zaz, artiste produite en France la plus exportée en 2013」(参照)。


2013年にフランスが国外に一番売ったアーティストはZaz

Zaz est l'artiste produite en France qui s'est le plus exportée en 2013, avec son deuxième album "Recto Verso", écoulé à plus de 300.000 exemplaires hors de l'hexagone, selon le bilan du BureauExport.

2013年、フランス国外に最も売ったフランスのアーティストはZazだった。なかでもセカンドアルバムの"レクト・ベルソ(私のうた)"が、フランス音楽輸出振興事務所(ビューロー・エクスポート)によると、この六角形の国の外で30万枚も売れたとのことだ。


 Zazの"レクト・ベルソ(私のうた)"がそんなに売れたのかというのはちょっと驚きでもあった。先日のブログ記事(参照)でひいた「On ira(行こう)」もこのアルバムに入っている。Zaz関連をユーチューブを見てたら、長めのライブがあった。これ、けっこういい。

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ZAZ~私のうた(初回生産限定盤)(DVD付)


ダフト・パンクの曲は米国製品

Daft Punk, qui a triomphé dimanche aux Grammy Awards, n'est pas comptabilisé dans ce palmarès car son album "Random Access Memories" a été produit aux Etats-Unis par la maison de disques Columbia, filiale de Sony.

ダフト・パンクは、日曜日にドイツ賞を得たが、輸出リストには載っていない。彼らの「ランダム・アクセス・メモリー」は、ソニー傘下コロンビアから出たため、米国製品になっているからだ。


 この話はやや意外だった。が、考えてみたら、音楽とは言え輸出品として見れば、産出国が問題になるのは当然であある。
 そういえば、坂本龍一にヴァージンから出ているCDがあって米国から買ったことがあるけど、音楽も売り元の国でカウントするものなのだろう。
 しかし、この曲だが、ダフト・パンクはフランス人だというのは、あらかじめ知らないないとわからないだろうな。フランス文化を売っているというのとは違うだろう。

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ランダム・アクセス・メモリーズ


第2位はフィニックス

Deuxième performance de l'année pour une production française à l'export, "Bankrupt!", le nouvel album des Versaillais de Phoenix s'est vendu à 235.900 exemplaires hors de France.

フランスからの輸出の第2位は、ベルサイエ・ド・フィニックスの「バンクラプト」で、国外で23万5900部を売った。


 知らなかったのだが、すでに日本販売がけっこう意識されているのだな。

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バンクラプト!<最強盤>


ストロマエも短期間に売った

Succès de l'année en France, "Racine Carrée" de Stromae a également séduit à l'étranger, avec 162.000 exemplaires écoulés un peu plus d'un mois après sa sortie mi-août.

フランスで当たったことで、ストロマエの「ラシーヌ・キャレ」も国外で注目され、8月中旬に出てしばらくして16万2000部を売った。


 ストロマエはブリュッセル出身。国籍的にはベルギー人じゃないか。このあたりがよくわからないが、たぶん、フランス製品として売っているという話なのだろう。
 聞いてみると、これもなかなかよい。

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racine carr e



ビューロー・エクスポートの認定数について

Les certifications du BureauExport prennent en compte les ventes sur la période allant du 1er octobre 2012 au 30 septembre 2013.

ビューロー・エクスポートの認定数は2012年10月1日から2013年9月30日までの期間である。

Depuis cette date, l'album de l'artiste belge totalise près de 300.000 ventes à l'international et rencontre notamment un "immense succès" en Allemagne, précise le BureauExport.

この期間に、ベルギーのアーティストは合計30万部を国際的に売り、ビューロー・エクスポートは特にドイツにおける「大成功」と述べている。


 ストロマエもこの部類に入るのかもしれない。


カーラ・ブルーニもリストに上る

"Little French Songs" de Carla Bruni fait également partie des succès de l'année, avec 85.000 exemplaires vendus hors de France.

カーラ・ブルーニの「リトル・フレンチ・ソング」はこの年度の成功の部類で、フランス国外で8万5000部を売った。


 これはちょっとびっくり。カーラ・ブルーニですよ。サルコジのかみさんですよ。ほえ。あまり意識して聞いたことはないけど、よいじゃないですか。

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Little French Songs


デヴィッド・ゲッタもよく売ったほう

Le DJ David Guetta, rois des ventes à l'export depuis plusieurs années déjà, confirme son succès. Son single "Play Hard" est le titre français qui s'est le plus exporté en 2013, avec plus d'1,7 million d'exemplaires.

これまで国外販売トップのDJのデヴィッド・ゲッタも成功を修めた。彼のシングル「プレイ・ハード」もフランスの歌として2013年に輸出され、1万7000部以上売った。


 これ、いい。フランス語ではないけど、いかにもフランスという感じ。以前、フランス製のシンセを打ち込みを使っていて、ちょっとわかんないことがあって制作元とやりとりしたことあるけど、そんなこと思い出した。

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Play Hard Remixes [Analog]


ビューロー・エクスポートについて

 ところで、このフランス音楽輸出振興事務所(ビューロー・エクスポート)なんだが、日本語のサイトがあった(参照)。残念ながら今年に入ってからの情報はなし。
 うーむ。と思って見ていくと、本家に国外向けのサイトがあって、英語もあった(参照)。こちらもそれほど更新されてなさげ。英語で「The internationally-available artists making music in France.」とか書いてあるけど、フランスの音楽というのもけっこう外に売って食っている部分は大きいのだろう。あるいは、ソフトパワーの一環か。
 ついでに本家のフランス語のほうを見ると(参照)、こりゃ普通にビジネスのサイトだなという資料が並んでいた。
 


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2014.02.15

オーストラリア近海にまで出て来た中国海軍

 日本に関連する国際報道を見ていて、たまに日本でさして話題にならないニュースに出くわす。海外の関心と日本の関心にズレがあっても不思議ではないが、多少気になるときは、ブログに記すようにしている。今回のそれは、先月末から今月にかけて実施された中国海軍の演習である。
 国内でニュースにならなかったわけではなかった。たとえば、2月7日共同「中国海軍が実弾訓練、西太平洋で」(参照)はこう伝えていた。


 中国国営、新華社通信によると、中国海軍南海艦隊の艦艇が西太平洋の海域で7日、実弾射撃訓練を実施した。遠洋での武器運用能力を確認することなどが目的という。
 同通信は「中国海軍が公海上に設けられた臨時の軍事訓練海域で訓練することは国際法に合致している」と主張し、海軍艦艇は今後も西太平洋で訓練を続けると強調した。
 訓練には揚陸艦やミサイル駆逐艦など3隻が参加した。3隻は1月26日、南シナ海の南端にある「曽母暗礁」(英語名・ジェームズ礁)で「主権宣誓活動」を行っている。(共同)

 共同の報道はごらんのとおり新華社通信の孫引きであるが、この記事をまとめた記者が問題の重要性を理解していないわけではないのは、1月26日のジェームズ礁の「主権宣誓活動」に言及していることからわかる。
 このニュースの重要性が日本人にうまく伝わっているのだろうか。そう懸念するのは、西太平洋やジェームズ礁の意味合いが日本人に伝わらないのではないようにも思えるからだ。
 1月26日のジェームズ礁での話題は、別のニュースもあった。同じく共同「南シナ海南端で示威行動 中国艦隊、領有権を明確化」(参照)より。これもまた、新華社の孫引きではあるが。

中国国営新華社通信は26日、中国海軍南海艦隊の上陸作戦用の艦艇などが同日、南シナ海の南端にあるジェームズ礁(中国名・曽母暗礁)で「主権宣誓活動」を行った、と伝えた。
 同礁周辺は石油や天然ガスの埋蔵量が豊富とされ、マレーシアなどが領有権を主張している。今回の活動は中国の領有権主張を明確に示すための示威行動とみられる。
 艦隊は上陸作戦用の艦艇やミサイル駆逐艦など3隻で編成。自ら参加した蒋偉烈司令官はセレモニーで演説し「戦いに備えて戦いに勝ち、実戦能力を不断に高め、海洋権益を守らなくてはならない」と訴えた。
 新華社電によると、戦略的要衝である同礁海域で、中国海軍は定期的にパトロールを行っている。
 同礁はマレーシアから約80キロの距離にあり、中国大陸からは約1100キロの距離。(共同)

 地図を見ると、その重要性が簡単に見て取れる。
 地図のピンの位置である。ここで中国は主権を主張したのである。

 さすがに国際社会が仰天した。
 米国でも反応を示さざるを得なかった。経緯は、「ジェームズ礁」の参照はないが、ワシントン白戸圭一氏の毎日新聞記事「米国務次官補:領有権巡り対中批判…「地域の緊張高めた」」(参照)が日本語で読める記事では比較的詳しい。


【ワシントン白戸圭一】ラッセル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)は5日の米下院外交委員会公聴会で、中国による東シナ海、南シナ海での海洋進出や防空識別圏の設定が「地域の緊張を高めている」と述べ、西太平洋の空と海で勢力拡大を図る中国を批判した。南シナ海での領有権拡大に関する中国政府の主張についても「国際法に矛盾している」と明言した。
 領有権争いで一方に肩入れすることを避けてきたオバマ政権が、中国の領有権に関する主張を否定するのは異例。ラッセル氏は4日の記者会見でも中国の対外政策を強く批判する一方、アジアの安全保障に果たす日本の役割を評価した。4月のオバマ大統領の訪日に向け、米国の「同盟重視」と「対中けん制」が鮮明になった。

 2月7日の共同より先に、日経は2月1日に同じ話題を扱ってはいた。「中国海軍、東インド洋で演習」(参照)より。

 【北京=島田学】中国海軍は1日までに、大型揚陸艦「長白山」などの艦隊を東インド洋に派遣し、敵との交戦を想定した軍事演習を実施した。近く潜水艦などと連携して「敵からの海上封鎖を突破する」ための演習も実施する。中国にとってインド洋から南シナ海に抜けるルートは、中東から原油を輸入するシーレーン(海上交通路)に当たる。今回の演習はシーレーン確保が念頭にあるとみられる。
 中国の国営新華社によると、同艦隊は1月20日に海南省三亜を出港。南シナ海を越えてインドネシアのスンダ海峡を抜け、同月29日に東インド洋に入った。
 これまで中国海軍の演習は中国近海や南シナ海、西太平洋が中心で、東インド洋での単独演習を公表するのは異例だ。

 記事は間違いではないが、日本の視点の文脈が抜けているので重要性がわかりにくい。
 この話題を日本のジャーナリズムがどう扱うのか気になって見ていくと、意外にも朝鮮日報が比較的詳細な記事を出していたのに気がついた。「「第1列島線」を突破した中国海軍に米日緊張」(参照)より。

 中国海軍が、米軍の「独壇場」だった太平洋で新たな航路を開拓し、勢力範囲を広げている。フィナンシャルタイムズ紙(電子版)が13日に報じた。習近平政権の発足後、中国は1980年代に自ら設定した海上防衛ライン「第1列島線(沖縄・台湾・フィリピンを結ぶ線)」を難なく突破し、米国・日本などを緊張させている。

 「第1列島線」の文脈はフィナンシャルタイムズ「Chinese navy makes more waves in the Pacific」(参照)にある。
 全体像の理解としては、朝鮮日報記事に掲載されている地図がわかりやすい。

 日本国内では、日中間の海域の問題は、尖閣諸島問題に矮小化されがちだが、基本はこの第1列島線の突破にある。別の言い方をすれば、尖閣諸島問題といった領土問題として扱っても問題の本質はつかめない。
 朝鮮日報の記事には、この問題がオーストラリアに与えた影響への言及はない。この地図からは同国も省略されている。しかし当然ながら、今回の、事前通知なしに実施された(参照)中国海軍の軍事演習はオーストラリアの近海でもあり("this was the first time the Chinese have carried out military exercises so close to Australia’s northern maritime border."・参照)、同国にも衝撃を与えた。オーストラリア・ネットワーク・ニューズによる同国外相の見解を一例としてあげておく。話題は11分あたりから。

 抑制して語られているが、これを機にオーストラリアの対中政策への変更が感じられる。オーストラリアのジャーナリズムも、これに関心を向けている。例えば、ブリスベンタイムズ記事"China's military might is Australia's new defence reality"(参照)など。


Asked about the significance of the Chinese navy exercises on Friday, Foreign Minister Julie Bishop told the ABC that China's growing power in the region and around the globe needed to be acknowledged.

中国の海軍演習の意義を問われ、ジュリー・ビショップ外相はABCに、この地域と世界に中国の台頭する軍事力は認めざるをえないと金曜日に語った。

''The United States has long been the single greatest power in the Pacific, in Asia, in fact globally,'' she said. ''But we recognise that there are other countries that are emerging as stronger economies, other countries are building up their militaries. Japan is also redefining its defence stance.

「米国は太平洋、アジア域、そして事実上地球全体で、最大の軍事力を単独で長く保持してきた。しかし、強力な経済力として出現しつつある他の諸国のことも私たちは認識している。こうした諸国は自国の軍隊を形成しつつある。日本もまた、自衛のあり方を見直している」と彼女は語った。

''So we are in a very different world. It's a changing landscape and our foreign policy must be flexible enough and nimble enough to recognise that changing landscape.''

「つまり、私たちはとても異なる世界にいるのです。状況は変わっていますし、私たちの対外戦略も、状況の変化を認識するために、十分に柔軟にかつ迅速である必要があります。」'


 こうしたところから、オーストラリア政府の変化やそれに対応する同国のジャーナリズムの動きが垣間見られる。対して日本はどうだろうか。
 安倍政権の右傾化については、日本国内のジャーナリズムでは頻繁に取り上げられているが、国際的には中国の軍拡への防衛の一面もあり、関係する他国との関連のなかでも捉えていく必要がある。
 ただ、今回の話題を見ていても、そういう面が日本のジャーナリズムには弱いようには思えた。
 

追記(2/16)
 ブコメや関連ツイートをざっと見たら、オーストラリアの地理に詳しくない人を見かけた。非難の意味はないが一例を挙げておく。なお、「マレーシア」とあるのはインドネシアの誤解か、実際には記事を読まれていないのかもしれないので、オーストラリアの地理理解の問題とは異なるかもしれない。

 欧米人でも尖閣諸島を見て「それ、日本近海じゃなくて中国でしょ!」といった反応を持つ人もいるくらいなので、しかたがない面もないかもしれないし、ゆえに高等教育での地理の学習が重要なのかもしれない。
 参考までにオーストラリアの経済水域に関連した同国海軍の地図を挙げておく。詳細は地図のリンク先を参照されたい。

Operation RESOLUTE is the ADF’s contribution to the whole-of-government effort to protect Australia’s borders and offshore maritime interests.
 

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2014.02.10

2014年東京都知事選、雑感

 都知事選が終わった。ツイッターのほうでは早々に書いていたが、開票の8時とともに舛添さんの当確となるだろうと思っていた。その通りにはなった、という意味では、予想は当たった。が、その他、予想していた部分からは見えなかったことが数点あった。
 今回の都知事選で一番興味深いことは、津田大介さんがメインに運営しているポリタスの運営だった。マスメディアからは見えづらい、各層の意見が可視になっていた。かく言う私も寄稿の依頼があり、寄稿した。「現実的な投票か、示威的な投票か ポリタス 「東京都知事選2014」を考える」(参照)である。
 率直に言って、寄稿依頼があったときは驚いた。私の意見は、世間に水を差すことが多い。メディアからは嫌われる。またそういう水を差すキャラとしてネットで人気を得たいわけでもない。基本ブログの転載はお断りしてきた。が、今回は私の「水を差す」意見も並べておくとよいのではないかと思ったのだった。
 寄稿したこともあり、他の論者の意見も比較的よく読んだ。基本的に「識者」が多いこともあり、メディアによく出てくる、率直に言えば、つまらない議論が多いようにも思えたが、それなりのバリエーションに各層の思いが連なっている様子は興味深いものだった。
 私のポリタス寄稿を執筆したのは、1月26日である。1月29日に公開になっている。その3日間に特有な大きな動きや自分なりの考えの変化はなかったが、寄稿で「ネット選挙だというけどネットから公約がわかりづらい」という部分で、ポリタスにも公約リンク集がないじゃないですか、という指摘をしたら、29日前にそれが公開されていたので、まあ、自分の思いが届いて良かったか。
 寄稿の趣旨は、ブログのスタイルとは別に表題でわかるようにしておいた。「現実的な投票か、示威的な投票か」である。しかし、「示威的な投票」という考えに馴染んでない人もいた。そもそも「現実的な投票」という考えを持たない人もいる。なので、あれでも、わかりづらいと思う人がいるようだった。
 寄稿で書いたように、この時点で私は、細川陣営が舛添陣営に迫るような選挙戦となるのではないかと予想していた。反原発運動、反安倍政権の気運、小泉旋風などの動きが、加速してくるだろうと思っていたのである。
 だがその間、ちょうと28日、日本外国特派員協会で細川さんが会見されたのだが、ここから私などは異様な印象な受けていた。
 

 


 人口学者によりますと、これから日本の人口はどんどん減り続けて、今1億3000万人の人口が50年後には9000万人、100年後には4000万人。4000万人というのは江戸時代に近い人口です。
 そういう中で今までと同じように大量生産大量消費の経済成長至上主義でやっていけるのか? 私は無理だと思います。
 今回の選挙はそういう意味で日本の文明のあり方を問う選挙であり、選択の機会であり、あるいは、まあ私たち日本人の価値観を問う選挙になるというふうに私は考えております。
 昔、道元禅師というまあ、日本の偉い禅宗のお坊さんですが、そのお坊さんがノーベル賞で平和賞を受賞したとき、あ、文学賞を受賞したときにこういう事を申しました。「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて冷しかりけり」。
(通訳者吹き出す。)
 「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて冷しかりけり」、はい。
(通訳ツッコミ)
 ああ、いや違います。あの川端さんが……

 
 誰にも言い間違いはあるものだし、ツッコミがあってすぐ訂正はしているのだが、やはり76歳の細川さんに年齢相応に見られる記憶・思考力の低下が見られた。それはしかたがないなと思う反面、「日本人の価値観を問う選挙」というあたりの話も、実は、年齢相応に見られる記憶・思考力の低下か、あるいは、日本新党のころの「腰だめ」の細川さんが今も変わらないのか、いずれにせよ、これはかなりまずいのではないかと私は思ったのだった。でもまあ、私は、毒舌ブロガーではないので慎んでいた。
 そして、でも、さらにデモクラTVスタジオで生放送の細川さんのインタビューである。1月22日のものらしいが、私が知ったのは29日のことだった。衝撃的だった。
 

 

 今日出た、数日前に私は見たんですけども、ロシアの国防軍がですね、出したっていう資料が、あー、極秘資料っていうものが出てきてね。それを見たんですが、(「なんの資料ですか」)福島で、福島の、えー、こないだ暮れに12月31日だったかな、あの爆発があったという小さな記事が出ましたね。 その数日前から実は水蒸気が上がっていて、何かおかしいという話があったのを私も確かに覚えているんですけども。あれはようするに完全にメルトダウンを起こしているということを、いろいろ分析をしていてですね、(「ロシアが?」)ええ、それでアメリカはですねヨウ素を1万5000袋だっかな、既にそのお2月の始めに配るという手筈を始めたということとかですね、それから、いま北極海とかいろんなところでシロクマ、アザラシ、その他の生物が生き物が大量死が続出していると、これはまさにその福島の影響であるということとかですね。いろんなものが出てきているわけです。これはまあ凄い話だと思いましたね。

 
 いやはや、これはまあ凄い話だと思いましたね、私も。
 これは、細川さん、終わっていると思った。
 もちろん、このインタビューが原因で終わったというのではなく、どのような意見を述べてもこの発想が基軸になっていたら、多数の人に心に都知事選の思いが届くわけないし、そもそもこういうインタビューが公開されてしまっている点で、選挙運営側に大きな問題があることは明白になっていた。
 ああ、細川さん、終わってた、と2月に入って私は思い直したので、ポリタスに寄稿した現実的な投票の意味はこの時点で消えてしまった。
 率直に言って、東京・自民党、東京・連合、公明党ががっつりスクラム組んだ舛添さんの圧勝はもうこの時点で確定的と見てよい。
 私が現実的な意味で選挙に行く意味なんかもうほぼゼロに等しい。でも結果、私は選挙に行った。その理由はあとで記す。
 ポリタスの寄稿ではこうも書いた。

失礼な言い方になるが、いわゆる泡沫候補や、毎回お馴染みの万年落選候補を除けば、宇都宮健児氏、田母神俊雄氏、家入一真氏の三氏が、示威的な投票の対象となるのだろう。三氏とも幅広い層からの支持が得られているようには見受けられない。それは同時に示威的な投票の対象だからだとも言える。

三氏への加勢の示威が意味するところは何か。ざっとした印象にすぎないが、宇都宮健児氏は反核および急進的な左派の代表、田母神俊雄氏は国家主義的な右派の代表、家入一真氏はネット世論や一部の若者世代の代表、ということではないだろうか。彼らについては、当確よりも、選挙後にその票数から都民の意識を読み取る材料になるだろう


 細川さんが2月に入るや沈没した点を除けば、1月26日に書いた、「宇都宮健児氏、田母神俊雄氏、家入一真氏の三氏が、示威的な投票の対象となるのだろう」は大きく外したわけではない。が、蓋を開けてみると、正確とも言えない結果だった。そこの反省を加味して、予定していた都民の意識を読んでみたい。
 細川氏が示威的投票の対象に堕ちてしまったという点を除けば、あるいはそれに関連するのだが、宇都宮氏の得票の延びは私が想定していた以上だった。宇都宮氏は982,594票で、細川氏の956,063票を、わずかと言ってよい差であると思うが、抜いた。私は、共産党と社民党が推している宇都宮氏は、同党の支持者とそのシンパを加えても40万票も行かないだろうと思っていたので、驚いた。
 理由はおそらく3点だろう。一つは細川票が流れたことと、二点目は反原発への共感、さらに三点目に福祉優先が望ましいが舛添氏は嫌いだ・自民党は嫌だというアンチ票だろう。二点目と三点目は同じようだが違う面もあり、意外と三点目が大きかったのかもしれない。
 この結果をもって共産党と社民党が蘇生していると見るかだが、印象ではそれほどでもないだろう。今回の特例でもあり、あるいは前回からも見られた宇都宮氏の人徳的な効果でもあるだろう。
 細川氏の票が宇都宮氏に流れたのではないかという点に関連するが、両者の票を合算しても、舛添氏の得票には及ばない。その意味では、急進的な反原発の動きは、政治的にはこの選挙でピリオドを打ったと見てもよい。もちろん、舛添氏も大筋では反原発にあるが、これは現実を捉えてということであり、その信頼が舛添氏の票につながったのだろう。
 蓋が開いて驚いたことの二点目は、田母神氏の得票である。610,865票もあった。私は20万票くらいではないかと思っていたので、かなり驚いた。一般的には右派の票がここに固まった、あるいは、石原元都知事の影響があったと見る向きが多い。それ自体は間違いではないだろう。
 この点について蓋が開いてからしみじみ考えさせられたのは、ポリタスに寄稿された古谷経衡氏の「田母神陣営の戦いから見る「ネット保守」のゆくえ」(参照)である。

田母神氏を支持する保守層が、共産・社民が推薦する宇都宮氏と拮抗する勢力を持ちえているのであれば、その得票は同等かそれ以上になるはずだ。一方、保守層が未発展であれば、宇都宮候補に大きく敗北する、という結果が予想される。

田母神氏の得票数がそのまま、日本の「ネット保守(≒否定的な文脈での“ネット右翼””ネトウヨ”)」やゼロ年代以降、新潮流として登場して来た保守勢力の「趨勢」をそのまま反映させる国勢調査的な意味合いを含んでいる、という事実からも、田母神陣営の戦いとその票数に注目したい。



この数字をわかりやすく「3.5倍」として計算するとして、仮に田母神氏の得票を50万票とすると、約175万人。100万票だとすると約350万人の「新保守」が日本に存在することになる。この推定が正しければ、「新保守」は共産・社民に匹敵する一大勢力であると言うことができる。巷間いわれる「ネトウヨが〜(このところ増えている)(一部に過ぎない)」などという、顔の見えなかった漠然としたイメージが、ハッキリとした数字となって現れてくるのである。

 解りやすく古屋氏は「得票を50万票とすると」としているが、すでに述べたように私はそれほどはいかないだろうと見ていた。他方、論者によっては40万票を一つの目安と見ていたので、50万票はちょっと「もった」数値であろうとも見ていた。古屋氏もその想定はしていた。

一部のネット上や保守界隈での圧倒的な盛り上がりをよそに、各種調査では田母神氏の得票予測はやや伸び悩んでいる。この予測通り田母神氏が40万票で宇都宮氏の次点敗北となれば、「ゼロ年代以降のネット保守を筆頭とした新しい保守の潮流は思ったほど伸びていない」という現状が浮き彫りになる。この状況を投票日までに打破できるかどうかが、田母神陣営の腕の見せ所であろう。

 だが、結果は約60万票である。
 古屋氏の見方からすると、ざっと、日本に200万人ほど「新保守」がいることになる。
cover
ネット右翼の逆襲
「嫌韓」思想と新保守論
 おそらくこの推定は正しいだろうと思う。というか、この数値に私はけっこう衝撃を受けている。衝撃を受けているのは、古屋氏の理路が正しいと思うからだ。実は、どうしようか迷ってこのブログに書評は書かなかったが、氏の「ネット右翼の逆襲--「嫌韓」思想と新保守論」(参照)は既読であり、かなり興味深い論考だと思っていた。出版社からのコメントがよく内容を著しているので引用しておく。

「ネトウヨ=ネット右翼」を批判する本は出ておりますが、全面的に肯定しているのは本書が最初です。
まず、ネトウヨのイメージは肥大化した虚像と社会問題としての実像があり、その組み合わせによって、かつてないほどの強烈なレッテルができあがりました。
 本書の前半部ではその虚像を1枚1枚はぎ取り(1、2章)、アンケート調査をもとに取材することにより、実態に迫り(3章)、韓国の対日感情への激変とかたくなに日韓友好を演出しようとする国内メディアの偏向報道がネトウヨと呼ばれる人たちを生んだ背景を描きます(4、5章)。
 いまや多くの日本人が抱くようになってしまった「嫌韓」を「差別」と一蹴しても問題解決にはならないことを指摘し、在特会を利用して保守全体を攻撃しようとするサヨクだけでなく、在特会を切り捨てようとする保守陣営に対しても、その点はきちんと批判しております。在特会問題の本質は日本人全体に広がった「嫌韓」とリンクしており、極めて歴史的な問題でもあります。ネトウヨとレッテルを貼り付けて解決できる問題ではなく、しかもこれからの問題であることが本書を読むとよく分かると思います。

 ブログで取り上げなかった理由は、私はこの分野の議論が好きではないことがまずある。そうでなくても、私は右翼呼ばわりされて、左翼から嫌がらせを受けてきているのでうんざりしている。また、「ネット右翼」というのはただの無教養人だと思っていたこともある。ただし、同書によってこの点、蒙を啓かれることになった。実際、推定200万人の新保守という存在を今回まざまざと実感し、本書の意義を再認識にすることになった。
 ひどく雑駁に言えば、私は「ネット左翼」というのも、ただの無教養人だと思っているので、基本、どちらの側も、きちんと物を考えていけば、私のように無気力で合理的で現実的なリベラルに堕落するのがオチだと思っていたふうがある。それでいて私は吉本隆明なみに、啓蒙というのが大嫌いなので、あまりこういうことに拘わりたくもない。しかし、そうもいかないわけだ、ここに至って。
 古屋氏の結語は、今となっては重たい。

確実なことは、選挙後、今後の「ネット保守」を巡る言説は必ず変更を迫られることになる、ということだ。

 今回の都知事選で、田母神氏支持が若い層に多いことも注目された。もっとも若い世代そものが昔から選挙に関心の薄い層でもあり帳票率も低いので総数としては大きくはない。それでも、若い世代にきちんと「新保守」が根付いているのは留意しておくべきことだろう。余談になるが、昨今の中韓の反日も彼らなりの「新保守」主義なのである。
 もう一点、今回の選挙で注目したのは、ネット選挙を打ち出した家入候補の得票率である。まあ、泡沫であろうと思っていたが、結果は88,936 票で、往年の泡沫、ドクター・中松の64,774票、マック赤坂の15,070票を越えた。これをもって善戦したと見てよいかだが、どっちかと言えば、よいと言ってもよいだろう。一つの見逃せないマイクロトレンド(参照)ではある。例えば、この層が動けば、ちょろいベストセラーくらは出せるという意味だ。ただ、総じて、家入氏の活動は忘れ去られるだろうと思う。
 さて話を戻して、昨日、雪積もる歩道を押して、私は投票所に向かった。一番の理由は、率直に言うと、私は模範的な市民として振る舞うからである。もう少し言うと、前々回石原知事の選挙に例外的に棄権したのは、さすがに嫌になったからだ。例外中の例外だった。私を石原擁護と見るコメントをいろいろ貰うが私は石原慎太郎が大嫌いなのである。ただし、その理路はこのブログに書いても通じないので、cakesに書いた(参照)。
 もう一つ、投票する気になったのは、脳裏にZazの歌「On ira(行こう)」が響いていたからだった。


 


On ira écouter Harlem au coin de Manhattan
On ira rougir le thé dans les souks à Amman
On ira nager dans le lit du fleuve Senegal
Et on verra brûler Bombay sous un feu de Bengale

マンハッタンの一角のハーレムの声を聞きに行こう
アンマンの市場で茶を赤く染めに行こう
セネガル川の川底を泳ぎに行こう
そしてベンガルの炎でボンベイが燃え上がるのを見に行こう

On ira gratter le ciel en dessous de Kyoto
On ira sentir Rio battre au cœur de Janeiro
On lèvera nos yeux sur le plafond de la chapelle Sixtine
Et on lèvera nos verres dans le café Pouchkine

京都の下に大空をひっかきに行こう
リオ・ジャネイロの中心で鼓動を感じに行こう
システィーナ礼拝堂の天井を見に行こう
そしてプーシキンカフェで乾杯しに行こう

Oh qu'elle est belle notre chance
Aux mille couleurs de l'être humain
Mélangées de nos différences
A la croisée des destins

私たちには素晴らしいチャンスがある
色々な色をした人間が存在する
私たちはそれぞれの違いを混ぜ合わせる
運命の岐路で


 
 On ira gratter le ciel en dessous de Tokyo!
 
cover
ZAZ 私のうた

(初回生産限定盤DVD付)
 ということだった。
 
 

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2014.02.08

日本国憲法にもあるコントロール(control)という言葉の意味合い

 日本国憲法の本来の原文、つまり英文なのだが、それを読んで私が一番不思議にそして多少不可解にも思うのは「コントロール」の思想である。
 あるいはその前段として「コントロール(control)」という用語である。前文の次の文脈に含まれている。


We, the japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

 日本国憲法を公式な日本語訳で読むと、あまり意識されないない人が多いかもしれないが、気に留めるとわかるように「支配する」というきつい意味合いで訳されている。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 この"control"という言葉に「支配」という訳語を当ててよいか。
 この訳語が悪いというわけではない。だが、率直なところ、この日本国憲法の訳文の「支配する」の言語が"control"であることの意味合い十分に考慮人は意外に少ないのではないかと思っている。
 "control"という言葉は、英語においては、フランス語からの外来語である。外来した時代は、英語を事実上、当時のフランス語(イル・ド・フランスのノルマン・フレンチ)で英語がピジン化したノルマン征服以降らしい。もちろん、さらにラテン語"contrārotulāre"に由来するし、ノルマン征服以降、英国やスコットランドの知識人は直接ラテン語からの外来語を増やしたので、その文脈で英語に定着し、さらに微妙に意味変化をもたらしたのだろう。
 そのため、現代フランス語と英語では、"control"の意味合いが微妙に違っている。
 ところでこの話題が浮かんだのは、先日書評を書いた『舛添要一の6カ国語勉強法 - 体験に裏づけられた上達への近道』(参照)に気になる話があったからだ。
 英語とフランス語の語の意味の違いに触れた話題で、"control"が出てくる。

 もう一つの例が、"control"で、この単語は英語だと「管理する」とか「支配する」と非常に重たいニュアンスの意味になる。ところが、フランス語の"contrôle"【コントロール】は、「ちょっと調べる」ぐらいの軽い意味で使われることが多い。だからフランス語で、
 "Vous êtes contrôlé par la poice."【ヴゼット・コントローレ・パー・ラ・ポリス】というのを、英語的な発想で受け取ると、「警察にcontrolされている」、つまり「あなたは警察にあやつられている」と思ってしまうが、実はそうではなく、これは英語に直訳するなら、"You are checked by police"とすべきで、「あなたは警察の検問を受けます」という意味になるのである。なまじっか英語を知っているために、フランス語で"contrôle"が出てきたのを、これは英語の"control"と同じ意味だろうと勝手に思い込むと、思わぬ間違いを犯してしまうことになる。

 まあ、それはそうと言ってよいのだが、重要なのかこの先である。

 これは第二次世界大戦に実際に起きた有名な事件である。あるとき、フランス軍の船がドイツ軍によって停船させられ、調べられたことがあった。そこで、そのフランス軍の船の乗員たちは、このことを味方の連合軍に
 「われわれの船はドイツ軍によって臨検されている」
 フランス語で「臨検」を"contrôle"【コントロール】ということから、
 "Our ship is controlled by the German navy."
と打電した。それを受信したイギリス軍は、"controlled"と言うからは、すでにフランス軍の船は敵国ドイツ軍にのっとられてしまったものと思い込んだ。「敵国の船になったのなら、沈めてしまえ」と爆撃して沈没させてしまったという。

 この話が本当かどうかよくわからない。
cover
Collins French - English
Dictionary & Grammar
 本当なら、英語の"control"は第二次世界大戦の時代に軍事の文脈で使われていたわけで、日本国憲法の"control"というのは、フランス語的な"control"ではなく、相当にきつい意味合いがあるだろうと思う。
 ただ、この舛添の話を読んでいて、これはちょっと違うかなという感じもした。文脈によっては「支配」というより、やはり「制御」があるのではないだろうか。
 手元の仏英辞書で、学習者向けのコリンズを引くと、舛添が指摘するように、仏英間の意味合いの差が強調されている。その意味で、舛添の説明自体はこれでよいのだが、オックスフォードの仏英辞書を引くと、フランス語の"contrôle"に英語の"control"を充てた項目が最初にある。オックスフォード辞書の歴史主義でもあるのだが、こちらの辞書を読んでいくと、舛添が指摘するような意味の差は、政治などの文脈に限られるようでもある。
cover
Compact Oxford-Hachette
French Dictionary
 また、英英辞書をいくつか当たってみると、ロングマンなどでもそうだが、"control"に支配権力の意味合いで"power"を最初に挙げているものの、意味合いとしては、力による支配というより、感情(emotion)を抑制させるという含みがありそうだ。さらに、フランス語"contrôle"に近い意味もあり、さらにこれが英語の技術英語における"control"の含み、つまり、「制御」に相当している。まあ、ざっとした印象ではあるのだが。
 まとめると、英語でも技術用語的な文脈では、"control"にはフランス語の"contrôle"のように、対照を用いたテスト、という意味合いがある。
 そこで、ああ、そうかと思い直したのが、"Scientific control"である。直訳すると「科学制御」とかになりそうだが、とか、まてよと英辞郎を引いたら案の定「科学的制御」とか出て来た。が、まあ、そう訳して悪いとまでは言えないが、統計学を多少なりとも学んだ人ならわかるだろうが、これは「対照実験」のことである。
 ちょっと気になってウィキペディアを見たら、次のようにあった。

A scientific control is an experiment or observation designed to minimize the effects of variables other than the single independent variable.

 つまり、「対照実験」である。
 話を英語の"control"に戻すと、"Scientific control"のように、対照してテストする、というまさにフランス語の"contrôle"の語感の一部がそのまま生きている。たぶん、19世紀から20世紀前半の学術用語におけるラテン語的なフランス語優位による外来語だからではないだろうか。詳しく追っていないのでこれも印象であるが。
 いずれにせよ、英語の"control"は技術系の文脈では、「支配」よりも「対照実験」のように、対照群を用いた査定といった意味合いがある。
 ここで日本国憲法の話に戻るのだが、先の文脈、果たして、起草者は現行訳のように「支配」の意味合いで使っていたのだろうか? その意識で読み返してみたい。

We, the japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

 明白なのだが、「対照」がきちんと意識されている。それは「the high ideals」つまり、現訳語「崇高な理想」である。
 日本国憲法における"control"は、「支配」よりも、対照群を使った実験技法の意味合いが強いのではないか。もちろん、「支配」の意味合いがないというわけではない。ただ、これは、"ruling"でも"governing"でも"dominating"でも"regulating"でもない。
 日本国憲法の起草者がどのような考えを背景に"control"を持ち出しかはよくわからないが、日本国憲法には他二個所にこの言葉が出てくる。
 まず、第72条である。
 

Article 72. The Prime Minister, representing the Cabinet, submits bills, reports on general national affairs and foreign relations to the Diet and exercises control and supervision over various administrative branches.

第72条
内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。


 ここでは、"control"は「指揮」と訳されている。「支配」と訳すと日本で意味合いが通らないと訳者は想ったのだろう。白州次郎ではないだろうか。
 いずれにせよ、第72条では"control"は"supervision"と並記されているが、順序的な意味合いもあり、おそらく、基準に照らして査定して、管理するということだろう。つまり、ここでも"control"はフランス語的な意味合いで使われている。
 もう一つは第89条である。

Article 89. No public money or other property shall be expended or appropriated for the use, benefit or maintenance of any religious institution or association, or for any charitable, educational or benevolent enterprises not under the control of public authority.

第89条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。


 ここでは前文同様「支配」の訳語が当てられている。
 この"control"の意味合いだが、「支配」でもよいのだが、構文および文脈としては、"public authority"が「支配」しているのではなく、"public authority"がやはり、「対照群」として扱われている。まさに、"Scientific control"のように、"under the control of A", "B shall be expended"という関係である。
 話は以上であって、特に、ここから何か特定な意見を述べたいわけではない。
 日本国憲法はときおり、大衆に理解を促すために、平易な日本語にパラフレーズされるが、より必要なことは、原文を検討して、きちんと翻訳しなおすことではないだろうか。
 冗談みたいだが、改憲よりも、原文の英語を現代的に検討し直した、新訳日本国憲法があってもよいようには思われる。
 
 

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2014.02.04

[書評]世の中への扉 よくわかる政治(舛添要一)

 舛添要一さんが近年、政治についてどう考えているのかと思って、いくつか著作を読んでみた。ネットではいろいろ彼について反原発派からネガコメが飛び交っているので、『舛添のどうなる日本?どうする日本!―国民で考えるエネルギー問題』(参照)という本も読んでみた。2001年の本である。どうだったか。
 普通。エネルギー政策について関心ある人なら普通に思うことが普通にまとまっているだけだった。つまり、私が読んだ限りでは特に原発推進派ということではかった。地球環境に配慮しつつ先進国のエネルギーミックス論から日本はこの時点で原発で三分の一のベース電源を作っているという事実を基本的に了解しているというもので、ドイツの例なども引き、反原発であれば、国民にそのコストの了解があればよいだろうとも述べていた。
 考えてみたら、舛添さんにまとまった反原発な発言があったら、すぐにでもネガコメの格好の餌にされてただろう。
 あと、しいて言うと2001年はそうだったけど、2014年の今年から見ると、さすがにこのエネルギー論は古い。そのあたりを現在の舛添さんがどう考えているかは、それとは別に関心はもった。というか、基本、脱原発と言っているみたいだが、その内実は段階的に自然エネルギーの比率を増していくということなのだろう。

cover
世の中への扉
よくわかる政治
 でだ、『世の中への扉 よくわかる政治』という本を見つけた。
 これ、子供向けの本でした。舛添さんが、子供にどう日本の政治を語るのだろうかと思って読んでみた。まあ、凡庸なことが書いてあるんだろうなあ、子供向けだしと思ったら、ちょっと、びっくりこいた。
 そのまえに時代を確認しておきたい。2010年8月23日に刊行された本である。鳩山由紀夫内閣が2009年9月16日から2010年6月8日。それから、菅直人第1次改造内閣が2010年9月17日から2011年。つまり、鳩山さんが降りて、菅さんが立つまでのあの奇妙な空白の時期に出た本であり、基本、鳩山時代に書かれた本である。
 びっくりこいたのは、彼が日本の政治で何が大切としているである。第六章で「今、知っておきたい八つの問題」として順序付けられている。
 一番目は、「一、政治とお金――お金のかからない政治を目指して」ということで、ありがちといえばありがち。ちょうど鳩山さんが政治献金問題ですったもんだしていた時期でもあったし。
 びっくりこいたのは二番目である。
 「二、景気をよくする――デフレよりもインフレ」。そう、アベノミクスをこの時点で先駆的に取り上げていたのだった。しかも、これを子供向けの本に書いていたのだった。僕はびっくりしましたよ。やるなあ、舛添さん。

 ヨーロッパなどでは、インフレターゲットとよばれる政策を行ってデフレをふせぐことに成功しています。これは、一年に二パーセント前後のゆるやかなインフレを起こして経済の安定成長をはかるものです。日本も一刻も早くインフレターゲットを取り入れて、デフレをとめる必要があると私は考えています。

 そう書いてある。子ども向けに。
 舛添さんが、インタゲを支持していたのは知っていたけど、子供向けの本にこんなにきちんと書いているとまでは思わなかった。大人ですら、理解できずに、変なこと言っている人がいまだにいるというのに。
 ついでなんで三番目だが、「少子高齢化のゆくえ――子どもを育てやすい社会に」としている。

 民主党政権は、二〇〇九年の衆議院選挙のマニフェストの目玉に子ども手当を出すことをかかげました。子どもひとりにつき月額二万六千円のお金をくばるという政策です(当初言っていた二〇一一年からの満額支給は断念されました)。
 私は厚生労働大臣として、保育所を増やすことに取り組んできました。なぜ子どもの数が減ってきたか調べると、子育てが大変であること、教育費がかかりすぎること、家がせまくて子どもを育てられないことなどが理由に挙げられています。(後略)

 関連して。

 大臣をやっていたときも、帰れる日はなるべく早く家に帰り、子どもといっしょにご飯を食べたりお風呂に入ったりしました。
 というのも、私は厚生労働大臣として「ワーク・オブ・バランス」という新しい生き方をしようとみんなによびかけていたからです。これは、仕事(ワーク)と家庭生活(ライフ)をバランスよく両立しようというもので、日本人の働きすぎをあらため、女性が社会に出やすくする政策です。ところが、厚生労働省の仕事はあまりにも多くて、職員がなかなか家に帰れません。そこで、私は職員にいつも口ぐせのように「なるべく早く家に帰るように、できたら、家族といっしょにご飯をたべなさい」「三度のメシをしっかり食べ、土日はしっかり休みなさい」と言ってきました。大臣が役所にいると、職員も帰りづらいので、私自身も帰れる日はなるべく早く帰りました。

 で、「四、失業する人を減らすために」が続く。

 なぜ失業者がたくさん出ているかというと、経済がよくないからです。日本のもっとも大きな問題は、十年以上にわたって不景気の状況が続いていることです。経済を早くよくしてもらいたいという国民の願いから政権交代も起こりましたが、民主党政権になって現状は今までよりももっと悪くなってしまっています。


 失業を減らすためには日本の経済を立てなおすしか方法はありません。国は、経済成長させるための政策を行っていく必要があるのです。

 ついでなんで以下、項目だけ挙げると、「五、観光問題は三つのEのバランス」「六、沖縄の米軍基地と日米関係」「七、教育は百年の大計」「八、福祉を豊にすれば働ける人も増えて景気がよくなる」。
 大半は同意できる。もちろん、ちょっと違うかなと思うところや、逃げちゃったなと思えるところもある。
 それにしても、これだけの見識を子どもにわかる言葉で語れる政治家だったのか、舛添さんは、という思いは新たにした。
 ついでにいうと、僕が今度の都知事選挙で舛添さんを支持しているのは、ポリタスにも寄稿したけど(参照)、示威的な投票ではなく現実的な投票を好むからで、それほど積極的に舛添さんを支持しているわけではない。76歳の爺さんはやめてくれよと思うくらいだ。消去法だね。
 だが、この本読んでみて、もうちょっと積極的に舛添さんを支持したい気持ちはなった。たとえば、政治家に何が一番必要だろうか?

 政治家にいちばん必要なのは、読書です。日本という船の舵をとるのが政治家の仕事ですが、私たちが経験できることは限られています。どちらの方向に進むか判断する材料を増やすには、やっぱり本を読むことが欠かせません。ぜひ、古今東西の歴史と古典の本をたくさん読んでください。

 また。

 そして、英語はもちろん、大学に入ってからでも、二つめ、三つめの言語を勉強してほしいのです。完璧である必要はありませんし、ネイティブのような発音ができなくても気にすることはありません。お互いの考えを伝えあうことができればよいのです。
 語学を勉強することは新しい世界への扉を開くことです。

 このあたりは、けっこう舛添さんの持論なわけね。
 しかし、率直にいうと、舛添さんも65歳。
 私は政治家も社会の一般労働者と同じように働くべきだと考えるので、政治家を引退されたほうがよいと思う。都知事選にも出ないほうがよかったんじゃないのとは思う。
 
 

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2014.02.03

[書評]舛添要一の6カ国語勉強法 - 体験に裏づけられた上達への近道(舛添要一)

 もっと前に出ていた本だろうと思った。1980年代の本だろうなと。違った。1997年の本だった。舛添さんがこれを執筆していたのは1996年。48歳のころ。ああ、それでも今の僕より若いのか。

cover
舛添要一の6カ国語勉強法
体験に裏づけられた上達への近道
 彼がメディアでばりばりと活躍して、今に残る罵言を吐いていたのもそのころ。東大の先生をしていたころ。まだ30代だったわけだ。栗本慎一郎さんもまだ40代だった、あの頃。
 舛添さんが東大をやめたのが1989年。桝添政治経済研究所を設立。この話はこの本の「はじめに」に書いてある。

そのまま勤めていれば、国家公務員として給料は保証され、生活は安泰。ましてや、東大の駒場と言えば内容はともかくとして、入学試験の難易度だけからみても全国一の難関としてしられる大学。

 やめたのは、本人談によると、大学への失望だったらしい。

だが、それゆえにこそ、大学改革の必要性を強く感じたのだ。「日本の大学はこのままではいけない」と思った。
 東京大学だけなく、一般に日本の大学の先生たちが怠け者になってしまうのはなぜか。
 それは一言でいって、あまりにも身分保障が強すぎるからである。いったん助教授や教授の椅子に座りさえすれば、競争もなく、何もしなくても定年退職まで給料がもらえる。

 それじゃ「月給泥棒」だろうということで舛添さんは娑婆に出たというのだった。

 だが、大学の終身雇用を批判しながら、その大学に自分がしがみついていたのでは筋が通らない。「むしろ、自分が率先して大学をやめることによって、大学改革に一石を投じるべきであろう。」そう考えたのである。

 1989年のこと。まあ、大学は改革されたかというと、これについては以下略的な話。
 その舛添さんだが、これで食っていけるかなと、それでも案じて、食えないときは、通訳になろうと思ったらしい。

 そのときに心の支えの一つとなったのが、語学であった。


なかでもフランス語には自信があり、いっぱしの通訳や翻訳家としてやっていけるだけの実力は十分にあると自負している。少なくともフランス語の翻訳や通訳をやって食っていくぐらいのことはできる。大学をやめたって、何とかなるだろう。こう開き直って、あっさりと大学の職に見切りをつけることができたのである。

 いや、意外に面白い話ではないか。
 この本、意外に面白いのである。
 この本、舛添要一、青春記なのだ。「あとがき」で書いている。

 書き始めるにあたって、自分がどのように外国語を学んできたか、自分流の方法をひとつひとつ検討してみたのである。したがって、自分の恥も何もかもさらけ出す羽目になってしまい、気恥ずかしいこと限りない本になってしまった。なにやら、青春時代の失敗記を書いたようなもので、へんちくりんの自伝とでもいうべきものができあがった。

 そこが、けっこう面白いのであった。
 ところで、書名にもなっている「6カ国語」って何か。

 これまでに私が習ってきた語学というと、まず中学校からの英語、大学では第2外国語でフランス語、第3外国語でドイツ語をとり、ついでに個人的にロシア語とスペイン語を習った。そして、フランス留学時代に向こうで学びだしたイタリア語。その他にもちょっとかじった程度の外国語はいろいろある。

 というわけで、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語、で、6か国語。
 すごいなと思う面と、ははあと思う面とがある。
 この6か国語。ロシア語を除くと、欧米の知識人、特にフランスの知識人ならならだいたいこなせる。ロマンス語が母語であれば、スペイン語とイタリア語はその延長。ドイツ語と英語は隣国の言語。難しいのは、ピンズラーも言っていたがロシア語だろう。
 で、そのようすが正直に書かれている。ロシア語はロシア人が直接習ったらしいが、十分に習得できたふうには見えない。教え方は口頭だけだったらしい。そこで舛添さんは文法と筆記がないと言語は学べないと感想を書いている。が、ピンズラー方式で学んで思ったが、似たのにミッシェル・トーマス・メソッドというのがあるのだけど、たぶん、そのロシア語の先生、ミッシェル・トーマス風だったように思われる。これはこれで優れた教授法ではなかったか。
 けなすわけではないが、実際に舛添さんが習得した言語は、英語とフランス語、そしてその派生としてイタリア語とスペイン語ということではないか。
 そのフランス語なのだが。フランスに行った舛添青年、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。

しかも、それ以上に愕然としたのが、自分のフランス語の語学力である。これまで日本でいっぱしにフランス語をかじったつもりでいた。けれども、いざフランスの食堂、「食券をください」("Doones-moi le ticket.")の一言すら、なんと言っていいのかわからないのだ。日本の大学で小難しい読本を読まされていたから、本を読んだりするのはある程度できても、日常会話の面では、フランス人の幼児以下にすぎなかった。その事実をいきなり思い知らされたのだ。

 というわけで、どうもフランス留学時点でのフランス語の能力は、それほどでもなさそう。ちなみに、ピンズラー方式だと逆にこういうところからしっかり教わることになる。この方式で学んでおくと、日常生活はあまり困らないのではないか。

 食料の買いだしにスーパーに行けば、自然と魚の名前を覚える。肉の名前、野菜の名前、とにかく生活の必要上、覚えざるをえない。野菜を例にとれば、ニンジン、キュウリ、トマト、タマナギ、ピーマンといろいろあるが、あなたはこれらの野菜の名前を英語ですべて言えるだろうか。

 言える。僕はけっこうレシピ本読んでるもんね。
 実際のところ、舛添さんは、フランスの生活でフランス語しっかり学んだということのようだ。その意味では、外国語学習法というメソッド的にあまり参考にならないとも言えるが、まあ、そういうものでしょう。
 英語のほうはどうかというと、だいたいエピソードを読んでいると、どのくらいの語学力かは察せられる。
 イタリア語については、これがまた面白い。

 フランスに留学していたときにイタリア語(l'Italiano,(英)Italian)も少しかじり始めた。そのきっかけは、当時の私の妻の出身が南フランスの出身で、親戚にイタリア人がたくさんいたからだ。

 このあたりのエピソードも面白かった。ようするに、その地域だと、フランス語とイタリア語はあまり差はないっぽい。
 ギリシア旅行の話も面白い。というか笑った。ギリシア旅行したら、英語もフランス語もドイツ語も通じないというのだ。

 ただ、ギリシア語の言葉は知らないけど、幸い私はかつてロシア語を習っていたことがあった。そのおかげで少しは助かった面がある。ギリシア語は、文字だけはロシア語と同じなので、ギリシア語の道路標識などを見て、意味は正確にはわからなくても、だいたいの見当が付くのだ。


 その経験からいって、語学というのは実用性の観点からするなら、発音がきちんとできず、文法のイロハ(A、B、C)も知らず、本が読めなかったとしても、それぞれの国の言語のアルファベットが読めるだけでも、すごいことなのだと思う。そのことを痛感させられた。

 僕は大学で古典ギリシア語を学んだので、ギリシア行ったとき、向こうの文字は全部読めましたよ。発音は古典ギリシアと違うなあと思ったけど。言われてみると、普通にそうしていたけど、それはそれなり便利だったな。ちなみに、僕はロシア語が第2外国語なんだけど(てへぺろ級)、ロシア語の文字とギリシャ語の文字が同じと言われると、どうなんでしょ。
 ってな感じで、とにかく面白い話がいろいろある。舛添先生青春記、だなあと。もっとフランス人妻の話が読みたいぜ。
 語学という点ではどうかというと、ところどころ、そうだよなあとうなづく話がある。

 語学力というのは、ある意味ではスポーツのようなものだ。日々の努力が肝心である。毎日少しずつ練習や基礎運動をやっていて、どうにか現状を維持できるかというものだ。さらに強くなるためには、もっと練習しなくてはいけない。

 たぶん、そうだろうな。

 そういう意味で、先述の"The New York Times Weekly Review"を読む習慣をつけたことは、非常によかったと思う。
 「現状の力を保つためには読む習慣をつけること。」
 である。

 それもそう。聞くのもそうだと思うけど。
 同様に。

 語学の実力というのは、同じような勉強のしかたをするならば、おおむね勉強した量に比例する。そして勉強した量は辞書を引いた回数に比例する。

 それもそうかも。ほいで。

 語学の勉強も自転車に乗るのと同様で、やり始めは非常に大変である。勉強のしかたの要領が悪いと、覚える単語の数より忘れる単語のほうが多いといったことにもなりかねない。なかなか進歩しないことにあせりを感じたりもする。だが、勉強を積み重ねて、語学力がある段階にまで達すると、そこから先は苦労を感じず楽しみながらやれるようになる。その域に達すれば、もう忘れる心配もなくなるのである。
 だが、当然ながら、いくら優秀で熱心な学生であっても、大学の教養課程の2年間だけで、その段階に達するのは無理であろう。少なくとも4年間は費やす必要があるのではないだろうか。それだけやれば、ある程度は自力で自転車を漕げるようになる。
 その域までいかずに、2年間だけで第2外国語を中断するのは、言ってみれば、まだ後ろで支えられながら、自転車に乗っている子供が、急に手を離されて自転車を漕げと言われるようなものだ。こわくて自転車に乗れないから、しようがなくハンドルから手を離してしまう。同じことをして、語学がものになるわけはない。こういうやり方は、教養課程での第2外国語そのものが貴重な時間の無駄使いに過ぎなかったということになりかねないのである。

 そうなんだろうな。このあたりは、僕にはよくわからない。

 この経験から言えるのは、語学というのは、とりわけ初歩の段階では、ある程度
「集中してやる必要がある」
ということだ。その点で、むしろ第2外国語のフランス語でやったように、最初の半年間に徹底して文法や発音などの基礎をたたき込み、それ以降は多少ペースを落としぎみにしてもいいから、読解を中心にやるという方法は、結果的には非常に効果的だったように思う。

 これもそうかな。

 覚える量と忘れる量が拮抗していれば、現状維持。
「覚える量と忘れる量が上回って始めて、語学力は進歩する」
のである。特に骨組みとなる「文法」においては、忘れないうちに覚えきってしまうのが秘訣である。それさえやり終えて、辞書を使って読めるようになれば、新たな文章を読むこと自体が習った文法事項の復習になるわけだ。もはや忘れる心配をしなくてもよくなる。その段階までいかに早く到達するかが、初歩の段階での重要なポイントとなろう。

 これがようするに舛添メソッド。たぶん、正しい。発音と文法を半年で叩き込め、そして辞書で読めである。
 その集中期の後はどうかというと。

 遊んだり、他の勉強をしたり、仕事をしたり、いろいろやりながら、ついでに語学もやるという感じでいいのではないだろうか。
 1日1時間かせいぜい2時間。
 集中力が持続するのは、そのぐらいが限度である。ただし、それを「毎日続ける」ことだ。あまり根を詰め過ぎるのは体によくないし、飽きてしまってかえって逆効果にもなることもある。

 そうかも。
 語学の学習について、海外で学べ論にはこう反論している。

 私自身の体験からいっても、ドイツ語の場合は、日本語で勉強した期間の長かったフランス語や英語と違って、ほんのちょっと基礎をかじっただけの段階でドイツに行ったわけだ。
 そうするとどうなるかというと、とりあえず日常生活に必要な言葉は覚えるけれど、最低限の生活さえできてしうと、もうそれ以上勉強しようという意欲がなくなるのだ。

 今回僕はピンズラー方式でフランス語勉強したのだけど、その間、米国人はどうやってフランス語を勉強するのか、について、いくつか英語の教材を見て回った。わかったことは、けっこう、フランス生活がこなせればいいという教材が多いことだった。語学の学習というのは現地でそれなりに生活できればそれでいいという面はある。
 現地の新聞の大切さも説かれているが、納得できる。

 こうしてみると、本当に現地人なみに語学ができると評価されるための条件とは、その土地、土地で出ている新聞をすらすらと読みこなせるということではないだろうか。
 逆に考えてみると、生きた語学を学ぶための最良の方法は、その言語の使われている現地で発行されている新聞を購読することではないかと思うのである。


 たとえば、アメリカの新聞を見ると、"GOP"という言葉がよく出てくる。
 これは実は、"Grand Old Party"の略で、共和党のことを指すのである。ところが日本で英語を勉強しているだけだと、民主党は"Democratic Party"、共和党は"Republican Party"としか習わないから、アメリカ人との会話で"GOP"という言葉が出てきても、何のことかわからない。
 アメリカに住んでいる日本人は別として、日本に住んでいるふつうの日本人で、"GOP"と聞いてすぐにピンとくる人はあまりいないだろう。もしいたとしたら、アメリカの新聞を購読している人に違いない。

 ちなみに、"GOP"はすぐにわかりましたよ。っていうか、そんなものか。
 とま、引用が多くなったけど、まあ、共感できる部分も多かった。
 自分とは考えが違うなという面もいろいろあった。それはそんなものだろう。
 都知事になったら、舛添さん、その語学を生かしてくださいな。
 

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