[書評]舛添要一の6カ国語勉強法 - 体験に裏づけられた上達への近道(舛添要一)
もっと前に出ていた本だろうと思った。1980年代の本だろうなと。違った。1997年の本だった。舛添さんがこれを執筆していたのは1996年。48歳のころ。ああ、それでも今の僕より若いのか。
![]() 舛添要一の6カ国語勉強法 体験に裏づけられた上達への近道 |
舛添さんが東大をやめたのが1989年。桝添政治経済研究所を設立。この話はこの本の「はじめに」に書いてある。
そのまま勤めていれば、国家公務員として給料は保証され、生活は安泰。ましてや、東大の駒場と言えば内容はともかくとして、入学試験の難易度だけからみても全国一の難関としてしられる大学。
やめたのは、本人談によると、大学への失望だったらしい。
だが、それゆえにこそ、大学改革の必要性を強く感じたのだ。「日本の大学はこのままではいけない」と思った。
東京大学だけなく、一般に日本の大学の先生たちが怠け者になってしまうのはなぜか。
それは一言でいって、あまりにも身分保障が強すぎるからである。いったん助教授や教授の椅子に座りさえすれば、競争もなく、何もしなくても定年退職まで給料がもらえる。
それじゃ「月給泥棒」だろうということで舛添さんは娑婆に出たというのだった。
だが、大学の終身雇用を批判しながら、その大学に自分がしがみついていたのでは筋が通らない。「むしろ、自分が率先して大学をやめることによって、大学改革に一石を投じるべきであろう。」そう考えたのである。
1989年のこと。まあ、大学は改革されたかというと、これについては以下略的な話。
その舛添さんだが、これで食っていけるかなと、それでも案じて、食えないときは、通訳になろうと思ったらしい。
そのときに心の支えの一つとなったのが、語学であった。
なかでもフランス語には自信があり、いっぱしの通訳や翻訳家としてやっていけるだけの実力は十分にあると自負している。少なくともフランス語の翻訳や通訳をやって食っていくぐらいのことはできる。大学をやめたって、何とかなるだろう。こう開き直って、あっさりと大学の職に見切りをつけることができたのである。
いや、意外に面白い話ではないか。
この本、意外に面白いのである。
この本、舛添要一、青春記なのだ。「あとがき」で書いている。
書き始めるにあたって、自分がどのように外国語を学んできたか、自分流の方法をひとつひとつ検討してみたのである。したがって、自分の恥も何もかもさらけ出す羽目になってしまい、気恥ずかしいこと限りない本になってしまった。なにやら、青春時代の失敗記を書いたようなもので、へんちくりんの自伝とでもいうべきものができあがった。
そこが、けっこう面白いのであった。
ところで、書名にもなっている「6カ国語」って何か。
これまでに私が習ってきた語学というと、まず中学校からの英語、大学では第2外国語でフランス語、第3外国語でドイツ語をとり、ついでに個人的にロシア語とスペイン語を習った。そして、フランス留学時代に向こうで学びだしたイタリア語。その他にもちょっとかじった程度の外国語はいろいろある。
というわけで、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語、で、6か国語。
すごいなと思う面と、ははあと思う面とがある。
この6か国語。ロシア語を除くと、欧米の知識人、特にフランスの知識人ならならだいたいこなせる。ロマンス語が母語であれば、スペイン語とイタリア語はその延長。ドイツ語と英語は隣国の言語。難しいのは、ピンズラーも言っていたがロシア語だろう。
で、そのようすが正直に書かれている。ロシア語はロシア人が直接習ったらしいが、十分に習得できたふうには見えない。教え方は口頭だけだったらしい。そこで舛添さんは文法と筆記がないと言語は学べないと感想を書いている。が、ピンズラー方式で学んで思ったが、似たのにミッシェル・トーマス・メソッドというのがあるのだけど、たぶん、そのロシア語の先生、ミッシェル・トーマス風だったように思われる。これはこれで優れた教授法ではなかったか。
けなすわけではないが、実際に舛添さんが習得した言語は、英語とフランス語、そしてその派生としてイタリア語とスペイン語ということではないか。
そのフランス語なのだが。フランスに行った舛添青年、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
しかも、それ以上に愕然としたのが、自分のフランス語の語学力である。これまで日本でいっぱしにフランス語をかじったつもりでいた。けれども、いざフランスの食堂、「食券をください」("Doones-moi le ticket.")の一言すら、なんと言っていいのかわからないのだ。日本の大学で小難しい読本を読まされていたから、本を読んだりするのはある程度できても、日常会話の面では、フランス人の幼児以下にすぎなかった。その事実をいきなり思い知らされたのだ。
というわけで、どうもフランス留学時点でのフランス語の能力は、それほどでもなさそう。ちなみに、ピンズラー方式だと逆にこういうところからしっかり教わることになる。この方式で学んでおくと、日常生活はあまり困らないのではないか。
食料の買いだしにスーパーに行けば、自然と魚の名前を覚える。肉の名前、野菜の名前、とにかく生活の必要上、覚えざるをえない。野菜を例にとれば、ニンジン、キュウリ、トマト、タマナギ、ピーマンといろいろあるが、あなたはこれらの野菜の名前を英語ですべて言えるだろうか。
言える。僕はけっこうレシピ本読んでるもんね。
実際のところ、舛添さんは、フランスの生活でフランス語しっかり学んだということのようだ。その意味では、外国語学習法というメソッド的にあまり参考にならないとも言えるが、まあ、そういうものでしょう。
英語のほうはどうかというと、だいたいエピソードを読んでいると、どのくらいの語学力かは察せられる。
イタリア語については、これがまた面白い。
フランスに留学していたときにイタリア語(l'Italiano,(英)Italian)も少しかじり始めた。そのきっかけは、当時の私の妻の出身が南フランスの出身で、親戚にイタリア人がたくさんいたからだ。
このあたりのエピソードも面白かった。ようするに、その地域だと、フランス語とイタリア語はあまり差はないっぽい。
ギリシア旅行の話も面白い。というか笑った。ギリシア旅行したら、英語もフランス語もドイツ語も通じないというのだ。
ただ、ギリシア語の言葉は知らないけど、幸い私はかつてロシア語を習っていたことがあった。そのおかげで少しは助かった面がある。ギリシア語は、文字だけはロシア語と同じなので、ギリシア語の道路標識などを見て、意味は正確にはわからなくても、だいたいの見当が付くのだ。
その経験からいって、語学というのは実用性の観点からするなら、発音がきちんとできず、文法のイロハ(A、B、C)も知らず、本が読めなかったとしても、それぞれの国の言語のアルファベットが読めるだけでも、すごいことなのだと思う。そのことを痛感させられた。
僕は大学で古典ギリシア語を学んだので、ギリシア行ったとき、向こうの文字は全部読めましたよ。発音は古典ギリシアと違うなあと思ったけど。言われてみると、普通にそうしていたけど、それはそれなり便利だったな。ちなみに、僕はロシア語が第2外国語なんだけど(てへぺろ級)、ロシア語の文字とギリシャ語の文字が同じと言われると、どうなんでしょ。
ってな感じで、とにかく面白い話がいろいろある。舛添先生青春記、だなあと。もっとフランス人妻の話が読みたいぜ。
語学という点ではどうかというと、ところどころ、そうだよなあとうなづく話がある。
語学力というのは、ある意味ではスポーツのようなものだ。日々の努力が肝心である。毎日少しずつ練習や基礎運動をやっていて、どうにか現状を維持できるかというものだ。さらに強くなるためには、もっと練習しなくてはいけない。
たぶん、そうだろうな。
そういう意味で、先述の"The New York Times Weekly Review"を読む習慣をつけたことは、非常によかったと思う。
「現状の力を保つためには読む習慣をつけること。」
である。
それもそう。聞くのもそうだと思うけど。
同様に。
語学の実力というのは、同じような勉強のしかたをするならば、おおむね勉強した量に比例する。そして勉強した量は辞書を引いた回数に比例する。
それもそうかも。ほいで。
語学の勉強も自転車に乗るのと同様で、やり始めは非常に大変である。勉強のしかたの要領が悪いと、覚える単語の数より忘れる単語のほうが多いといったことにもなりかねない。なかなか進歩しないことにあせりを感じたりもする。だが、勉強を積み重ねて、語学力がある段階にまで達すると、そこから先は苦労を感じず楽しみながらやれるようになる。その域に達すれば、もう忘れる心配もなくなるのである。
だが、当然ながら、いくら優秀で熱心な学生であっても、大学の教養課程の2年間だけで、その段階に達するのは無理であろう。少なくとも4年間は費やす必要があるのではないだろうか。それだけやれば、ある程度は自力で自転車を漕げるようになる。
その域までいかずに、2年間だけで第2外国語を中断するのは、言ってみれば、まだ後ろで支えられながら、自転車に乗っている子供が、急に手を離されて自転車を漕げと言われるようなものだ。こわくて自転車に乗れないから、しようがなくハンドルから手を離してしまう。同じことをして、語学がものになるわけはない。こういうやり方は、教養課程での第2外国語そのものが貴重な時間の無駄使いに過ぎなかったということになりかねないのである。
そうなんだろうな。このあたりは、僕にはよくわからない。
この経験から言えるのは、語学というのは、とりわけ初歩の段階では、ある程度
「集中してやる必要がある」
ということだ。その点で、むしろ第2外国語のフランス語でやったように、最初の半年間に徹底して文法や発音などの基礎をたたき込み、それ以降は多少ペースを落としぎみにしてもいいから、読解を中心にやるという方法は、結果的には非常に効果的だったように思う。
これもそうかな。
覚える量と忘れる量が拮抗していれば、現状維持。
「覚える量と忘れる量が上回って始めて、語学力は進歩する」
のである。特に骨組みとなる「文法」においては、忘れないうちに覚えきってしまうのが秘訣である。それさえやり終えて、辞書を使って読めるようになれば、新たな文章を読むこと自体が習った文法事項の復習になるわけだ。もはや忘れる心配をしなくてもよくなる。その段階までいかに早く到達するかが、初歩の段階での重要なポイントとなろう。
これがようするに舛添メソッド。たぶん、正しい。発音と文法を半年で叩き込め、そして辞書で読めである。
その集中期の後はどうかというと。
遊んだり、他の勉強をしたり、仕事をしたり、いろいろやりながら、ついでに語学もやるという感じでいいのではないだろうか。
1日1時間かせいぜい2時間。
集中力が持続するのは、そのぐらいが限度である。ただし、それを「毎日続ける」ことだ。あまり根を詰め過ぎるのは体によくないし、飽きてしまってかえって逆効果にもなることもある。
そうかも。
語学の学習について、海外で学べ論にはこう反論している。
私自身の体験からいっても、ドイツ語の場合は、日本語で勉強した期間の長かったフランス語や英語と違って、ほんのちょっと基礎をかじっただけの段階でドイツに行ったわけだ。
そうするとどうなるかというと、とりあえず日常生活に必要な言葉は覚えるけれど、最低限の生活さえできてしうと、もうそれ以上勉強しようという意欲がなくなるのだ。
今回僕はピンズラー方式でフランス語勉強したのだけど、その間、米国人はどうやってフランス語を勉強するのか、について、いくつか英語の教材を見て回った。わかったことは、けっこう、フランス生活がこなせればいいという教材が多いことだった。語学の学習というのは現地でそれなりに生活できればそれでいいという面はある。
現地の新聞の大切さも説かれているが、納得できる。
こうしてみると、本当に現地人なみに語学ができると評価されるための条件とは、その土地、土地で出ている新聞をすらすらと読みこなせるということではないだろうか。
逆に考えてみると、生きた語学を学ぶための最良の方法は、その言語の使われている現地で発行されている新聞を購読することではないかと思うのである。
たとえば、アメリカの新聞を見ると、"GOP"という言葉がよく出てくる。
これは実は、"Grand Old Party"の略で、共和党のことを指すのである。ところが日本で英語を勉強しているだけだと、民主党は"Democratic Party"、共和党は"Republican Party"としか習わないから、アメリカ人との会話で"GOP"という言葉が出てきても、何のことかわからない。
アメリカに住んでいる日本人は別として、日本に住んでいるふつうの日本人で、"GOP"と聞いてすぐにピンとくる人はあまりいないだろう。もしいたとしたら、アメリカの新聞を購読している人に違いない。
ちなみに、"GOP"はすぐにわかりましたよ。っていうか、そんなものか。
とま、引用が多くなったけど、まあ、共感できる部分も多かった。
自分とは考えが違うなという面もいろいろあった。それはそんなものだろう。
都知事になったら、舛添さん、その語学を生かしてくださいな。
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コメント
ああ、今回のエントリは、痛いなあ。こんな賢い人でも、痛いこと書いてることに気づかないのは残念だなあ。
投稿: アスラー | 2014.02.03 23:21
何ヶ国語できても、使わなくちゃ意味が無い。今迄使ってきたところを知らない。
都知事に成って話す事や読む時を作らなきゃ意味が無い。
大学から出て、改革をしようって?出たらタダの人。内の人は相手にしないから、変わらない。学長にでもなれば変えられたのにね。
語学に強くても、日本語ちゃんと使えなくちゃ意味が無い。立候補記者会見じゃ、ただニヤニヤして応答していただけ。
あの人を小馬鹿にしたような顔つきって、自民系に多いんだよね。石破とかさぁ、甘利とかね。あ~キモイ
投稿: hotaka43 | 2014.02.04 10:06
使ってること見たことないですね。
日本で語学の天才と言えば、南方熊楠ではないですか?
明治の英語の達人について書かれた本を持ってますが、
その本の方が面白かったです。
投稿: さいのか | 2014.07.19 22:02