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2013.02.27

「風の音にとぎれて消える母の子守の歌」は怖い

 昨日の続きのような話。1960年代に、沖縄の本土復帰前に本土で作られた「さとうきび畑」という歌だが、歌詞のなかにこういうフレーズがある。


ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
風の音にとぎれて消える母の子守の歌
夏のひざしの中で

 本土の人間である私などには郷愁を感じさせるメロディーに「母の子守歌」とくると、赤ん坊を抱いた若い慈母を連想してしまう。おそらく作詞者もそれを意図したのだろうと思うが、ふと、それは何の子守歌だろうと連想して、妙なものを思い出し、変な気持ちになったことがある。沖縄で暮らしていたころのことだ。
 この話は、今回書いた『考える生き方』(参照)の原稿にも書かなかった。生活人としての自分との関わりのなかで見える沖縄の像とは離れてしまうからだ。
 「妙なもの」というのは何か?
 その前に、「母の子守歌」という表現にも少し違和感があった。率直にいうと、「それって日本語の表現として、あっているのかな」という思いだった。
 日本語の表現として間違っているというつもりはない。言葉というのは変わっていくものだし、現代日本語的には、「子守歌」は英語の「lullaby」の訳語的になっていてもいいだろう。
 が、字義的に見るなら「子守歌」は「子守り」の歌である。つまり、親が歌うのではなく、子守り娘が歌うものである。このあたりの話は増田小夜の『芸者』(参照)を読むとよくわかるが、前近代において生産活動の労働力にならない女児などの労働が子守りであった。つまり、子守りというのはかなりつらい労働であり、だから、日本の子守歌なども見ると、そういうつらさの基調がある。五木の子守歌なども。

ねんねいっぺんゆうて
眠らぬ奴は
頭たたいて尻ねずむ
頭たたいて尻ねずむ

 寝ない子どもに体罰を加えるぞと心理的に脅しているわけである。また。

おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと
盆が早よくりゃ早よもどる

 これは、事実上人身売買の労働者である娘が年に二回の休暇の一つ、盆を待ち望むということで、「子守りなんかやだなあ」という思いが滲んでいる。
 赤い鳥がよく歌った竹田の子守歌も、そんな感じで、むしろ子守りを逃げて親元に戻りたいという思いで歌われている。ちなみに、近代語でないのはもっと当時の生活感が滲む。

守りも嫌がる、盆から先にゃ
雪もちらつくし、子も泣くし
盆がきたとて何嬉しかろ
帷子はなし、帯はなし
この子よう泣く、守りをばいじる
守りも一日、やせるやら
はよもいきたや、この在所越えて
むこうに見えるは親のうち

 これがどのように、本土歌「さとうきび畑」にある「風の音にとぎれて消える母の子守の歌」というような思慕の情感に転じていくかが歴史の面白いところだ。基本的には、この手の問題の大半がそうであるように、地域差や年代差による分類と分布が存在する。本土歌「さとうきび畑」の「母の子守歌」の情感は、江戸子守歌の類型に近いようにも思える。

ねんねんころりよ、おころりよ。
ぼうやはよい子だ、ねんねしな。

 しかし江戸子守歌も、やはり子守りの歌である。

ぼうやのお守りは、どこへ行った。
あの山こえて里へ行った。

 たまたま子守りは里に帰っているということで、竹田の子守歌などとも整合する。
 前振りが多くなったが、で、沖縄の子守歌はどうかというと、優しいほうでは「いったーあんまーまーかいが」というのがある。

いったーあんまー
まーかいが
べーべーぬ草刈いが
べーべーぬまさ草や
畑ぬわかみんな
姉小そーて、いこっこい

 意味は、「あなたのお母さん、どこ行くの? 山羊の餌の草を取りに」ということで、表面的には他の民謡同様、それほど近代詩的な意味はない。
 気になるのは、「母の子守歌」というのとは少し違うし、「姉小そーて(お姉さんも一緒に)」の意味合いがよくわからない。いやなんとなくわかるんだが、というか、そもそも母がいないという状況も。それはさておき。
 で、先の「妙なものを思い出して、変な気持ちになった」は、別の、沖縄の子守歌を思い出したからだだった。「耳切坊主(みみちりぼうじ)」である。手元のマルフクレコードの「沖縄の童歌」の歌詞を元に表記を少し変えて引用すると。

大村御殿ぬ角なかい
耳切坊主ぬ立っちょんどー
幾体幾体、立っちょがや
みっちゃい(三体)、ゆったい(四体)、 立ちょんどー
いらな(鎌)んしーぐん(小刀)ん、持っちょんどー
泣ちゅる童、耳ぐすぐす
へいよー、へいよー、泣かんどー

 意味はだいたいこう。

大村御殿の角に
耳切り坊主が立っているよ
三人も四人も立ってるよ
鎌も小刀も持ってるよ
泣いている子どもの耳はジョキジョキと切られるよ
へいよーへいよー泣くなよ

 これ、意味は、そうとうに怖い。
 泣いている子どもの耳を切りにくる、耳切坊主という妖怪のようなものがぞろぞろいると歌っている。泣いていると、耳切坊主がやってきて、耳を切られるから、泣くのをやめろ、というのである。
 このすごい歌、私が沖縄に居た頃はけっこう普通に歌われていた。たぶん、本土歌「さとうきび畑」ができたころは沖縄では、普通の子守歌として歌われていたはずだ。
 それにしてもなんで、こんな怖い歌が子守歌なのか。
 こうした学校の怖い話系がどこから生じたかだが、いろいろ後付けで伝説はある。だが、おそらくそうした伝説は歌の後から出来た可能性もあり、歴史的な考察対象になるかわからない。というのも、この歌の発生が自体がよくわからないからだ。なお、この手の脅しの歌は本土にもあるが、本土の人はあまり想起できない。
 沖縄の子守歌「耳切坊主」でわかることのひとつは、沖縄で、耳をぐすぐすと切る、つまり、じょきじょきと切る風習があったとみられることだ。耳切りは沖縄と限らず、中華圏にも日本にもあった。
 中華圏では五刑で、大辟(死罪)、劓(鼻切り)、刵(耳切り)、椓(宮刑)、黥(墨刑)があった。基本、墨刑のように、社会的に排除された人間であることの証明である。
 沖縄でもこの歌が歌われ始めたころには、そのような刑罰を受けて耳を切られた人間がいて、そこからこの歌が出来たと見てもよいだろう。ちなみに、耳切坊主の元の歌では、きちんと、鼻切りも出てくる。
 ただその切り取りの主体が、仏教の坊主に帰されているところが興味深い。本土の「耳なし芳一」伝承などを連想させられる。
 日本では戦国時代、耳切りを首刈りの簡易版としてよくやっていた。文禄・慶長の役の耳塚は有名である。
 話は戻るが、「風の音にとぎれて消える母の子守の歌」が「耳切坊主」だったとういうのは、ありえないことでもないなと、思ったものだった。
 いくつもバリエーションがある。鼻切りが含まれているのは珍しくなった。



 
 

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2013.02.26

「さとうきび畑」の歌は、本土側の「沖縄幻想」だったか?

 この話は、『考える生き方』(参照)に書かなかった沖縄の話の一部です。というか、途中で削除しました。理由は、単に書籍に取り込む話題のバランスのためでした。つまり、ページ数との関係で沖縄の話の比重が重すぎるのもどうかなということでした。



「さとうきび畑」の歌の風景

 本土復帰の前、本土側で沖縄を思ってよく歌われた歌に「さとうきび畑」がある。
 「ざわわ、ざわわ」というフレーズが繰り替えされ、広大なさとうきび畑に風が抜けていくようすが印象的だ。歌には、海の向こうから戦争がやってきて、鉄の雨に打たれうたれて父は死んでいったというストーリーが盛り込まれている。本土では当然ながら、これは沖縄戦を示していると普通に理解される。
 そして沖縄でもそう理解され、この歌が歌われていると思っている。
 たしかに、現代の沖縄ではそのように理解されている。
 歌われていないとは言えない。

cover
考える生き方
 だが、私が暮らし始めた1995年頃、沖縄の人にこの歌のことを訊くと、「なんね?」という違和感のあるリアクションもあった。どうやらピンときていないようだった。不思議な感触だったので、少し追ってみた。
 そこでまず「この戦ってなんだと思いますか?」ときいてみた。
 「フィリピンでしょうか」という答えもあった。
 それにはこちらが驚いたが、その他の答えでも印象としては、この歌の「さとうきび畑」を沖縄の情景だと思っていないようだった。
 この食い違った感じはなんなのだろうか。ずいぶん考えさせられた。
 たぶん、沖縄で語られる沖縄戦のイメージとかなりずれているからだろう。
 沖縄で語られる沖縄戦というのは、平和な海の向こうから、突然戦争がやってきて、肉親が殺されたというものではない。
 現地の沖縄では、沖縄戦は、一家で必死に逃げ回り、ガマと呼ばれる洞窟で敵兵や日本兵からじっと身を隠していたり、突然都市部に空襲が襲ったというイメージのほうが強い。
 さらに変なことに気がついた。
 さとうきび畑は、戦前の沖縄に、それほどはなかったようなのだ。
 もちろん、戦前の沖縄にも、さとうきび畑はあった。砂糖を作ることは、薩摩藩支配のころから、沖縄の重要な産業だった。
 だが、見渡すばかりのさとうきび畑になった沖縄の風景は、米軍統治下で作り出されたものだったようだ。
 沖縄戦が終わり米軍統治が始まった時期から数年は、食料の確保が急務であったため甘藷(さつまいも)栽培が奨励され、サトウキビ栽培は認可されず、戦前に比べても減少していた。
 1950年代半ばになって、米政府の指導のもとに、沖縄の主要農産物としてサトウキビ栽培が推進された。そして、1960年代に入り、沖縄で爆発的とも言えるさとうきび畑の広がりを見せた。
 1962年のキューバ危機などの影等から国際市場で砂糖が高騰したことも、沖縄のサトウキビ産業に拍車をかけた。
 そのころのことだ。「さとうきび畑」という歌が生まれたのは。
 沖縄復帰前、本土で流行した「さとうきび畑」という歌は、1964年、作曲家の寺島尚彦が、歌手・石井好子の伴奏者として沖縄を訪問したとき、糸満の摩文仁の丘を観光した印象をもとに作詞・作曲した曲だ。
 1964年という年代から考えると、そのさとうきび畑の風景は、米軍統治下で、しかも寺島が訪問する10年ほどの時代に出現した風景だったのではないか。
 気になって関連の統計資料を見ると、60年代に拡大の頂点を迎えるさとうきび畑と逆に、稲の耕作地が激減している。稲作地がこの時代に、さとうきび畑に変わっていたのだ。
 摩文仁の丘から見た戦争当時の風景は、稲作地ではなかったか。
 現地に住んでいたので、古老と、摩文仁からそう遠くない玉城に広がるさとうきび畑を見る機会もあった。広がるさとうきび畑で「きれいなものですね」と私がつぶやくと、彼は「昔は稲作してました」と言われた。
 ああ、やはり。
 すべてがそうだとは言わないが、現在の沖縄の、美しいさとうきび畑の光景は、戦前の田んぼから1960年代に変わった姿ではないだろうか。
 もしかすると「さとうきび畑」の歌は、内地がもっていた沖縄幻想ではなかったろうか。
 それが現代では沖縄の歌手も歌い、沖縄の歌のようになっているのかもしれない。
 沖縄は本土側の沖縄幻想をどんどんと吸い込んでいくところがある。本土受けのするイメージにもいいし観光にもいい。
 そういえば、沖縄の酒と言えば泡盛が話題だが、米軍統治下でよく飲まれていた酒はウイスキーだった。
 

 

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2013.02.24

『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部

 今回出版した自著『考える生き方』(参照)は、当初、現在の書籍のコンセプトと少し違って、ブロガーなのでブログ論のような部分から始まっていた。まあ、finalventというのはブロガーだしね、ということでもある。

cover
考える生き方
 基本テーマは、「ブログを通して自分が市民である意味を考える」ということだった。
 この市民というのは、具体的には、私の理解では、普通の人ということである。普通の人がどう市民として生きるのか。
 当初はこれを原理論的な枠組みで考えていた。が、途中、「で、それって自分が語りかけたい人に通じるの?」という疑問がわいてきた。ブログと本は違うだろう。
 こんな堅苦しいブログみたいなことを本で書いても、意味ない。
 本なら、もっと広い層にまで通じるように書きたい。
 それと実際のところ、ブロガーとしての自分を普通の人、市民の一例の人生として見たとき、もっと、見やすい構図のほうがいいのではないかと思うようになった。たとえば、「自分語り」というような。そのほうが実感を込めて書けるし。
 で、そのシフトをした。初期原稿を大幅に改稿した。
 が、そうなるとそれはそれで、「うぁ、自分の人生なんなんだ」ということになった。訥々と自分語りをしても、歳寄りが自費出版でだれも読まない自伝とか警世の書を出したりするのと変わらない。
 でも、そう読まれてもよいとも思った。
 自分の、「市民としての人生」という特殊事例のなかに、どれだけ市民原理が啓示されているだろうか、できるだけその視点を維持できればいいだろう。

 まあ、そんな次第で、以下は、そうしたシフトをする前の初期原稿の一部です。
 ひっぱり出して読み返すと、これは、普通にブログ向きのありがちな話ですね。




『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部

ブログを書き続けることの罠
 人によってブログを書く立脚点は違うものだ。社会のなかで置かれている場所も違うからだ。しかし、共通点もある。それは自分が何かを「正しい」と思う感覚だろう。
 私が見てきた範囲では、誰でもブログを書いて表現するとき、「なにが正しいのか?」が問われている。そこが、誰にも見せない日記とは違うし、お金をもらって仕事として書くというのも違うところだ。
 そして長くブログを書いていると、誰もが「なにが正しいか」という感覚が強くなってくる。そもそも、そういう中心的な感覚がないと、ブログは続かないからもしれない。
 自分の感性や経験や、またとりとめのない思いをブログに書きながら、その過程で、じっと自分の「正義」みたいなものの感覚を持つようになってくる。
 人は自分が正しいと思うことしか語れないし、語り続けるためには、正しいことを必要としてしまうのだろう。
 正義なら、他者が読むだろうという、孤独からの逃避もあるだろう。

正義を語ってしまいたくなる
 私がブログを10年も書いていて気がついたこと、そして自分なりに突きつめてことは、そうした自分の「正義」に、どのような根拠があるのだろうか、という謎だった。
 なぜ正義が気になるか。ブログの世界では、正義を語ることが当たり前の人がたくさんいる。
 誰もが自分勝手な正義を持っているから、ぶつかり合うし、言葉の喧嘩のようにもなる。
 しかし私は、正義を語ることは、一種の罠だと疑うようになったし、それ自体間違いかもしれないとも思うようになってきた。
 正義を語っていると、人はよいことをしている気分になる。しかし、「語られた正義」というものは、実は、他の人でも語れることだ。
 正義を語ろうとすればするほど、他の人でも語れる話になる。
 例えば、女性の天皇を認めるか、認めないか。認める人も認めない人も、どっちも、誰かそれなりの人が理屈を付けて正義として語っている。そしてブログで語られているのは、そうしたありきたりの正義の文章を多少表現を変えて切り貼りしているだけだ。
 「日本の原子力発電はどうあるべきか」と考えるとする。すぐに賛否の正義が思い浮かぶ。ブロガーは、つい原子力発電の推進派か反対派かということが、文章の読み手の側の関心でもあると予想する。
 ブロガーは、はそのどちらかの正義に自分を重ねてしまう。その正義を繰り返し述べていくことがブログの内容になってしまう。
 人によっては政治的な話はブログで表現するような話題ではないかもしれない。しかし、アイドルグループやアニメ映画について語っても、正義を語る罠は潜んでいる。
 どの分野にも正義の、ありきたりの表現が潜んでいる。
 どんなテーマにも対立する正義があって、それを上手に語る人がいて、そして、ブログはその、上手に語られた正義を、自分の表現だと思って語る。
 だが、そんな正義をブログで語る意味があるのだろうか。
 しかも、誰かが上手に語った正義を、結局真似して語ることで、自分らしさはどんどん消えてしまう。
 どうしたら、ブログで正義を語らないでいることができるだろうか?

自分を問いの形で見つけ直す
 ブログで何かを主張したいとき、主張したいがための正義が先行するようになる。
 そして、自分の思いが、その正義のおまけになってくる。そこに本質的な錯誤がある。
 長くブログを書きながら私は、しだいに正義を書くという罠に落ちてしまうのをできるだけ避けるにはどうしたよいかと考えるようになった。
 それには、正義といった結論を避けて、自分を問いの形で見つけ直すことが重要になる。
 答えではなく、問いを出すことだ。
 自分で出した問いに、自分で不格好でも自分だけの答えを書いてみる。それをブログで表現してみる。
 問うことに重点を置いて考えなければ、いくら自分が正義だと思っていても、ありきたりな正義のなかに自分は埋もれてしまう。
 自分ではない誰かが書きそうなことは、書かないことだ。
 どんなに立派に、正義に見えても、それは避けたほうがいい。するとどうなるのだろうか。

ブログの裏側の自分
 本書はブログの延長というわけではない。
 ブログというのは、建前上、誰かが読んでくれることを意識して書かれている。不特定な読者の前に、文章の形で立つことになる。
 すると、あたかもレストランにドレスコードがあってちょっとおしゃれをしていくように、自分を気取ってみせたり、あるいは逆に偽悪的に装ったり、少し自分を演出する部分ができてしまう。
 ブログやネットの持つ罠がそこにある。自分を演出したくなる。
 もちろん、演出がすべて嘘というわけでもない。文章の形で他人の目の前に立つことで、普通よりも自分らしさが表現されることがある。それは文学の仕組みに似ている。およそ文章表現というのは、そうしたある種の「気取り」の上に成り立っている。気取りを崩したかに見える文章もまた、それも一種の気取りにすぎない。
 太宰治の『人間失格』という小説には、太宰治その人と思えるような主人公として大庭葉蔵という人が出てくる。彼は作者の太宰治自身とよく似ているし、そう思わせるようにも書かれている。だが実際に太宰治の人生を知ると、『人間失格』の主人公とは違うことはわかる。すると、小説の主人公は作者の太宰治を偽装しているとも言える。しかし逆にそうした文学の偽装を通して、作者である太宰治のもっとも本質的な部分が語られるようになる。それが文学でもある。
 ブログは文学ではないが、たとえ本名で書いても、現実生活の自分とは違ってくる。書き続けていくと、ブログの人格のようなものが現れてくる。およそ、文章で自分を表現しようとすると、そうなるものだろう。
 人によっては、ブログでの人格と自分との間に違いを感じない人もいる。それでも、何年もブログを書いていると、そのなかで自分から分離した別の自分を見つけるようになるだろう。
 ブログを書きながら、私自身がその書き手の人格である「ファイナルベント」さんに向き合うことになった。
 自分にとっても、finalventとは誰なのだろうかという疑問は、二月の夜の雪のように積もっていった。
 いったい、自分はどこから表現しているのだろう。何かを書いて表現することは、自分の立脚点が自然に問われることになる。

ブログを通して市民になる
 矛盾が起きる。ブログで大切なことは、自分ではない誰かが書くことを書かないことだとすると、自分だけが知っていることとして、自分の私生活的な部分だけを書くことにもなりかねない。しかし、そんな自分のことなど普通は誰も関心を持たないし、読まれることすらない。
 誰かに読まれる価値のあることとは、どういうことなのだろうか。そう考えるしかない。
 それには、書く人と読む人が同じ場所にいることが原点になる。
 表現する人と、それを受け止める人が同じ場所にいること。共通に理解しあえる場所にいること。みんながみんなに語れる場所。言葉の表現にみんなが等しく立つ場所。
 それがきっと「公共」ということの一番基本的な意味だろう。
 「公(おおやけ))や「パブリック(public)」といってもいい。それが「社会」であれば、「私」と「あなた」は双方にとって、「市民(citizen)」になるということだ。
 ブログを書く「私」と、ブログを読む「あなた」は、同じ「市民」として立つということになる。
 「市民」というと、現代日本の言論風土では、「プロ市民」という皮肉な言葉によく現れているように、左翼的な政治の立場を推進する人たちの意味になりかねない。しかし、そうしたありきたりの意味は重要ではない。「市民」という言葉が重要なのではないからだ。
 ブログの書き手と読み手が、公共の言論の場を意識するとき、互いに平等になる。その意識を持つことが、「市民」ということだ。
 ブロガーの原点が「市民」だということから、言論の「公共」ということも、あらためて見直される。

公共の二つの層
 「公共」には、二つの層がある。
 一つは、「国家」である。日本人ということだ。その意味では、「日本人として語る」ということが、市民として語るということになる。これは簡単に「国民」と言ってもいいだろう。
 ブロガーが公共を意識していけば、それが国民の声となる。
 これまでは、テレビなどマスメディアや新聞などジャーナリズムが、国民の声の代わりをしていた。代わりのふりをして、実際には国民の声とはちがう特定の意見をまきちらしてもいた。しかし、ブログが公共を意識して発言するようになれば、マスメディアやジャーナリズムとは違った、明確な国民の声になる。
 もちろん、ブログが国民の声だからといって、同じ意見になるわけではない。違いはある。それでも、違いは共通する「公共」のなかで接近していくことができるし、合意を求めていくこともできる。正義を語って争うのではなく、同じ国民として利益を摺り合わせていけるようになる。
 しかし、「公共」は日本という国で終わりだろうか。そんなことはない。
 「公共」の、もう一つの層は、普遍的な人間である。
 つまり、「人として」ということである。より、明確に言えば、国家を越えた「人権」を見つめて、自分の意見をブログで述べるということだ。日本国内での人権問題という限定の人権ではなく、日本を越えたところで、どの国家の国民にも当てはまる人権の意識である。
 難しいことのようだが、これは普通に日本国憲法のなかに、日本人としての宣言として含まれているものだ。日本国憲法は国際的な人権の意識に支えられている。

 「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」

 日本人のひとりひとりが、この普遍的な人権意識を「公共」の言論の原点とするとき、争うためだけの正義が克服可能になる。
 あまり堅苦しく考えることはないが、日本語でブログを書いたって、世界の人が誰でも読もうと思えば読める時代になった。英語でなければ世界に発信できないということはない。英語だろうが日本語だろうが、世界の国のどの人でも原理的には読める。だから、その「公共」の原点の人権の立場が、ブログの原点になる。
 (以下、略)

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