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2013.02.16

[書評]新しいウイルス入門(武村政春)

 青少年向けに地球史・人類史・歴史をビジュアルにまとめた「137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史」(参照)を紹介するとき、私は「地球はどのように始まり、生命はどのように誕生し」と書いたが、書きながら、嘘をついているわけでもないが、同書には実は、生命誕生のプロセスについては実質記述がないことに気がついていた。地球史といってもよい同書なのに、しかも、おそらく重要なテーマであるはずの生命発生の謎について、ほとんど記述がないのはなぜか。定説が存在しないからである。

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新しいウイルス入門
(ブルーバックス)
 生命はどのように誕生したのか? これは通常、「生命の起源(Origin of life)」というテーマで議論される。実際にはもう少し限定されている。「生命の起源」というは、「神(創造神)が創造した、あるいは、生気といったような特異な生命実体がない」という前提から、つまり、「通常の物質からどのように生命が発生したのか」という問いになる。
 その意味で「生命の起源」というのは、通常「自然発生説(Abiogenesis)」を意味する。別の言い方をすると厳密には、自然発生説は「生命の起源」についての一説にすぎないのだが。
 のっけから余談になるが、日本のネットの世界ではなぜか創造神を実質想定するID(Intelligent Design)論は、ダーウィンニズムとしての進化論との対比で攻撃的な話題になるが、「自然発生説(Abiogenesis)」についてはさほど話題にならないように思える。「神が世界・生命を創造したなんてありえないじゃないか。生命は物質から誕生したのだ」というのはあまり見かけないという意味である。
 しかし「生命は物質から誕生したのだ」と科学的に言えるかというと、「それって科学的な命題なのか、であればどういう条件で科学的と言えるのか」というと、意外と難しい。
 この話題が回避されがちなのは、日本人の伝統精神では物質と生命の境界が曖昧で草木国土悉皆仏性的な考えになじむからかもしれない。物質から生命が誕生するのは自明だと日本人には見られているのだろう。だが、きちんと科学的に考えると、定説が存在しないように、この問題はよくわかっていない。
 ウィキペディアあたりがこの問題をどう扱っているかざっと見たが、各種の意見が統一的な視点なく、ごちゃごちゃとまとまっているという印象を受けた。が、「新しい化学進化説」(参照)としての指摘は面白かった。

DNAを遺伝情報保存、RNAを仲介として、タンパク質を発現とする流れであるセントラルドグマは一部のウイルスの場合を除いて、全ての生物で用いられている。1950年代から、これら3つの物質のいずれが雛形となったのかが、論じられてきた。そうした説の名称がDNAワールド仮説、RNAワールド仮説、プロテインワールド仮説である。


DNAワールド仮説
セントラルドグマが生命誕生以来、原則的なものであれば、まずはじめに設計図が存在していたと考えるべきであるが、DNAワールド支持者はRNAやプロテインワールドに比べて分が悪い。なぜならDNAは触媒能力を有しないとされていたからである。

 へえと思って読んだのは、たしかにセントラルドグマというのは、「はじめに設計図が存在していた」というので、ID論臭い印象は受けることだ。いや、ID論が正しいと想定するということでは全然ないが。
 話は前後するが、現状の生命起源論では、こうした物質から生命へというスキームより「生物進化から生命の起源を探るというアプローチ」が主流になっている印象を受ける。

化学進化説に関する考察や実験は、無機物から生命への進化を論じたものであり、1980年代まではそのような流れが支配的であった。1977年、カール・ウーズらによって第3のドメインとして古細菌が提案されると、古細菌を含めた好熱菌や極限環境微生物の研究が進行した。これらの研究から、生命の起源に近いとされる生物群の傾向が明らかになってきた。これにより生物進化から生命の起源を探るというアプローチが可能となった。
 生命誕生以降の生物進化から生命の起源を探る試みは、化学進化とは異なり非常に多くの生命のサンプルを要する。多くのサンプルを用いながら、真正細菌、古細菌、真核生物の系統樹を描くことから、そうした試みが始まったと言える。

 余談が多くなったが、日本版のウィキペディアからは、ようするに生命起源論についてあまり全体像が描けない。
 もともと定説がないからというのがあるが、生命起源との関わりで「ウイルス」がほとんど考慮されていないからだ。ただし、英語版のほうでは若干の指摘がある。

Virus self-assembly within host cells has implications for the study of the origin of life,[87] as it lends further credence to the hypothesis that life could have started as self-assembling organic molecules.[88][89]

宿主細胞の中のウイルスの自己生成は生命の起源の研究への示唆を持ってきた。というのは、生命は自己生成の有機分子として発生したという仮説により信頼性を与えるからである。


 ここでウイルスをどう進化論的に扱うかということが重要になる。
 だが、実際のところ、これが近年の話題に浮上してきたのは、ミミウイルス(mimivirus)の研究である。
 ミミウイルスは、1992に発見されたバクテリアサイズのウイルスである。当然、最初はバクテリアとだと思われていた。光学顕微鏡で観察できるのである。ところがウイルスだった。バクテリアを模倣している(mimic)ということでこの呼称がついたが("mimicking microbe")、擬態しているわけではない。実際のところ、発見者のディディエ・ラウールは、個人的な動機から"mimi"を付けたらしい。「ハドゥープ」みたいな感じですね。
 その後も類似の巨大なウイルスは発見され、「巨大ウイルス」とも呼ばれるようになった。また以前に不詳だったものが巨大ウイルスと認定された例もあるようだ。
 このミミウイルスだが、911個もの遺伝子を持つ。たんぱく質を合成するための必要最低限の遺伝子を持ち合わせているのである。
 それってそもそもウイルスなのかという疑問もあるが、ウイルスである。つまり、定義上、生命ではないのである。ところが、従来の「ウイルス」よりはるかに「生物」に近い。
 これをどう扱うか。つまり、「生命の起源」との関連でこれをどう見たらよいのかというのが、長い前振りだったが、本書「新しいウイルス入門」(参照)のテーマである。当然、非常に面白い。
 ただ、本書の3分の2近くは、一般的なウイルスの解説となっていて、どちらかというと、エキサイティングな話題は全体の3分の1という印象は受ける。その意味で、タイトルの「新しいウイルス入門」というのは穏当ではあるが、もう少しミミウイルスに特化した解説が欲しいところだった。それでも、道標がミミウイルスなので、旧来の病原体的なウイルス観とはかなり異なり、その点では良書と言ってよいだろう。
 ミミウイルスの研究は近年のもので、ゲノム解析などは進んでいるものの、そもそもこれってなんなのレベルでよくわかっていない。そのため、著者・武村政春氏の大胆な仮説を、かなり堅実に述べている。が、もっと想像力を駆使した読み物が読者としては欲しいと思った。
 著者も指摘しているが、「ウイルス」という枠組みが、生命起源論に、生命か非生命かという前提を持ち込んでいるが、どうやら、そうした議論の枠組みそれ自体を改変すべきなのかもしれない。
 本書が出たのは今年に入ってからだ。以前からなにかミミウイルス関連の一般書はないかと思っていたので、たまたま手にしたら当たりだった。とはいえ、なにかこのあたりの最新研究をまとめた書籍はないだろうかと、他にも探しているが、なにかありますかね。
 
 

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2013.02.14

[書評]137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史(クリストファー・ロイド)

 地球はどのように始まり、生命はどのように誕生し、人類はどのように進化し、この地球はどのように現在に至ったかという話題は、普通、「ナチュラル‐ヒストリー(natural history)」として語られる。

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137億年の物語
宇宙が始まってから
今日までの全歴史
 この言葉は、直訳すれば「自然史」だが「博物学」とも訳される。本書「137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史」(参照)は、この自然史・博物学という「ヒストリー」を、いわゆる歴史学という「ヒストリー」と接合して統合的に語ろうとした書籍である。邦訳書の帯に「理理系と文系が出会った初めての歴史書」というのも、ナチュラル‐ヒストリー(理系)とヒストリー(文系)という意味合いがあるだろう。総合的に現在の地球を理解したいというときには、この総合的な視点が求められるということで、本書は多くの人が求めてきたものであった。原書は欧米でベストセラーにもなった。
 本書には二点、特徴がある。一つは、本書は概ね子ども向けあるいは青年向けに書かれていることだ。だいたい中学生の知的レベルに合わせて記述されているので読みやすい。もう一つは、話題の扱い方にバランスの取れた現代性が感じられることだ。現代の定説と思われるところをわかりやすく刈り込んだ形で描いている。
 この二点はつまり、高校卒業して10年以上も経つ社会人にとって当然のように有益だということになる。青年向けの書籍だが、現代の大人が読んでも面白いということを意味している。
 加えて言うなら、本書がグローバルな歴史認識のスタンダードでもあるということも特徴になるだろう。ビジネスなどで海外の人に接することのある人で、それなりの知性が求められている人なら、本書の内容は、普通に常識という意味合いがある。
 ひねくれた言い方をすると、日本の知識人は、受験勉強ができてその上に専門分野的な知的装いを加えているというタイプが多く、本書のような俯瞰的な見解を持たなかったり、世界的な常識と乖離していることがある。そうした補正にも役立つ。
 本書は、その外形を見ても、日本の通常の単行本よりも大きく、506ページにもわたる大著であることから、見ただけで後込む人もいるかもしれないが、通して読む必要はなく、42のトピックに分かれているのでそれぞれを単体で読んでもよい。最初から意気込んで読まなくても、気になるところからつまみ食いのように読んでもよいだろう。単純に割り算すれば一つのトピックは12ページ程度なので、実はそれほど深い内容は扱っていない。ちょうど欧米の雑誌の科学コラムの分量であり、実際、著者クリストファー・ロイドはサンデータイムズ紙の記者であった経験がよく活かされている。
 私が本書で一番の美点だと思うのは、絵の美しさである。写真もきれいだし、表はよくまとまっている。本当に、書籍というものを作り込んでいるなと驚嘆する。それが評価できるのも、邦訳書がとてもよい仕上がりになっていることもある。子どもの頃、図鑑をわくわくして読んだ感興がよみがえる。
 具体的な内容的についてはどうか。バランス良く定説がまとまっているということは書いたが、逆に言えば、定説というのは必ずつまらないものである。皮肉な意味合いになってしまうが、本書を面白いと感じるということは、現在の最先端の科学や歴史学に精通していないということにもなりかねないし、本書の歴史観は基本的に古い枠組みをもっている。ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄—1万3000年にわたる人類史の謎」(参照)のような特定の方法論的な視点を取っているわけではない。ただ、そこを本書に求めるのはお門違いというものだ。
 やや凡庸な記述という印象もあるが、それでも、ぐっと引き込まされるのは、個人的にはイスラム文化やアフリカ、新大陸への扱いである。この点については、「銃・病原菌・鉄」のようなグローバル史への色目のようにも思えないではないが、読み進むにつれ、あるコアのイメージのようなものが沸いてくる。これは、実は、地球史ではなく、広義の英国史なのではないか?
 本書は自然史学の必然でもあり進化論の枠組みを取っているが、なかでも英国人としてのダーウィンに筆者が注目していることは明確であり、また、本書で扱われている多文化は基本的に、無意識的であるのだろうが、大英帝国の版図が反映している。アイロニカルな言い方をすれば、英国知識人はこのような世界観を持つという表明のようにも見える。
 英国的ということにも近いが、この拡大化された「博物学」は、またもアイロニカルな評に聞こえるかもしれないが、ミシェル・フーコーの「言葉と物」(参照)で指摘される古典主義時代のエピステーメーとしての博物学の現代的な拡大のようにも見える。フーコー的には、博物学は、生物学、経済学、文献学に変化していくのだが、本書はその逆流的な統合である。その文脈を誇張すると、「人間の終焉」をもたらした脱・博物学から、再び人類はグローバルスタンダードな「人間」の再構成を教育的に持ち込もうとしているようにも見える。これもまた英国的な知性として感じられる。
 ネットが広がることで、知識が広まった面もあるが、深化の点では劣化してきた面もある。ウィキペディアなどその両刃の剣である。それに比べて、書籍というのはきちんとした知の砦でありうるし、特に青少年向けの知というものは、こうした装備をしているべきだ、などということも本書から痛感させられる。
 
 

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2013.02.13

放射性炭素年代測定が適用できない現代は未来の歴史から消える

 考古学のニュースなどで遺物が何千年前のものといった年代推定が出されることがある。この推定によく使われているのが、放射性炭素年代測定である。遺物に含まれている放射性炭素の比率を計測することで、その年代が推定できる。ところが、『10万年の未来地球史 気候、地形、生命はどうなるか?』(参照)という本を読んだら、これが今後は怪しくなりそうなことが書いてあった。
 現代という時代の物が将来遺物として発見されたとき、放射性炭素年代測定で測定できなくなるかもしれないというのだ。
 ほんとかなあという印象も持つし、該当の説明である「5章未来の化石」を読むとちょっと誇張しているきらいもあるようにも思うが、この本の著者はそのスジの専門家でもあり、あながちめちゃくな話というのでもないだろう。
 その結果、私たちの未来はどうなるかというと、これが面白い。


 私たちが生きている間に生み出された文明の遺産を追跡する未来の科学者にとっては、放射性炭素年代測定によって年代を確定することが容易にはできなくなる。


 現在私たちが使っている時間の枠は、地質学的資料を字義通りに読んでいる限りは、存在しないことになる。放射能分析的な意味では、未来の歴史家の目から見た現在の私たちが生きている世界は、歴史の本からまるまる破り取られた、失われた一章となるだろう。

 どうやら少なくとも20世紀から21世紀あたりの人類が残した遺物は、放射性炭素年代測定からはずれて、いつの時代のものだか不明になるというのだ。
 それもいいじゃないかと私などは思うのだが、著者のエピソードがなかなかぐっとくる。どうやら著者カート・ステージャは私より一つ年上らしいので、なかなか同時代人の体験としてぐっとくるものがあるのだ。

私はいまだに古風なフロッピーディスクを何枚か保存している。それらはかつて1980年代に私のTRS-80型コンピューターにデータを入れるためのものだったが、もはや二度とそのデータを読むことはかなわないだろう。だがそのFDにはやっとの思い出手に入れた情報が詰まっているので、どうしても捨てることができないのだ。

 いや、これはシャレにならない。私も同じことに悩んでいる。
 私はTRS-80を使ってなかったけど、あれのモデル2から8インチ単密度FDDが利用できて、画期的なものだったのは知っている。というか、CP/Mが使えた。その後、5インチのモデルになったが、憧れの機種だった。ちなみに、Apple IIは最初から5インチFDDで沖電気のif800 model30も8インチでよく使ったものだった。
 話がそれたが、私も1980年代のデータは5インチFDDや3.5インチFDDに保存していて、もう読み出せない。小説とか書いてたんだけど、もう読み出せないのですね。まあ、読み出す必要もないよとは思うのだけど。そういえば、そろそろ10年前くらいに焼いたCD-Rも読めなくなっている感じだ。
 このブログのデータはというと、いわゆる媒体に保存しているわけではなく、ニフティのサーバーに保存しているわけで、かれこれ10年近くにもなってくるのだけど、有料契約なので、私が死んだら、一気に消えます。まあ、消えてもいいやとは思っているけど。
 本書に戻ると。

 今日の歴史記録の大半は、単に非常に多くの文書が電子化されているという理由だけで、結局は失われてしまうだろう。

 しかたないだろうな。
 逆に私は10代のころノートに詩や日記を書いていたので、あっちのほうが残る。実際、最近の例でいうと、電子書籍は私が死んだら消えてしまう。元データはどこかにしばらく残るのだろうけど。
 話を戻すと、なぜ放射性炭素年代測定がダメになってしまうのか。
 その前に、放射性炭素年代測定の原理については、最近では義務教育で教えているだろうか。
 放射性同位体とかいうとそれだけで誤解されそうな変なご時世になったけど、たとえば、ウランは天然に存在する放射性物質で徐々に原子核が崩壊し最終的には鉛になる。この「徐々に」「最終的」という時間の推移は決まっているので、それを使うと時間経過の測定に使える。ウランの場合は100万年とかいう単位なので、考古学の遺物の年代測定とかでは重視されないはず。
 これに対して放射性同位体の炭素14は、ベータ崩壊して、その半数が5,730年で窒素になる。そこで、遺物や化石は炭素14の含有量を測定すればいいということになり、「縄文土器は1万年以上も前」とかわかるという話になる。
 なぜ炭素14でわかるかという理屈は以上の通りなのだが、これには前提条件があって、「遺物なり化石とかが最初に出来たときの状態がわかっている」ということだ。もとの状態がわからないと半減していくというのは意味をなさない。
 そこでどのようにもとの状態が設定されているかというと、要するに「炭素14の自然的な初期の割合は、大気中の炭素14の濃度が一定である」という仮定に依存している。
 この仮定は正しいのかというと、概ね正しい。違う部分もわかってきたので、それをもとに補正もできるようになった。放射性炭素年代測定を使わないでも実年代がわかるものを比較研究していけばよいわけだ。
 ところが、『10万年の未来地球史 気候、地形、生命はどうなるか?』で指摘されているのは、その大本の仮定がどうも怪しくなったというのだ。
 大本の仮定というのは「炭素14の自然的な初期の割合は、大気中の炭素14の濃度が一定である」だが、この大気中の炭素14が、人間の人為的な二酸化炭素排出によって狂ってしまっているということだ。どう狂うかというと、炭素14が薄まるという方向で狂うらしい。
 人類が二酸化炭素を大量に放出するに従い、それ以前の遺物に比べて最初から含まれている炭素14の含有量が減っている。そこで実際より古い物だと測定されてしまうことになる。人為的な二酸化炭素の問題はこんなところにもあるというのが同書の話でもある。ただ、そこまで深刻かなという疑問もないわけではない。
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10万年の未来地球史
気候、地形、生命はどうなるか?
 話はそこで終わらない。1950年代以降、大国が核実験を繰り返したため、大気中の炭素14が増えてしまった。もともと、炭素14は宇宙線によって生成されるもだが、大気中の放射性物質の汚染によっても増えたわけである。このため、1950年頃以降の遺物には放射性炭素年代測定が適用しづらくなった。
 この話は一応知ってはいたのだが、同書によるとそこを逆手に使って、大国が核実験を開始した以前か以後かの区別には利用できるらしいという話もあって、面白かった。
 まとめると、人類が化石燃料を使うことで大気中に放射性炭素を含まない、きれいな二酸化炭素を多く放出したことと、核実験によって大気中の放射性炭素が増えたことで、バランスが取れて、いやいや、なにがなんだかわからないことになったというのだ。
 そこまで考えたことなかったので、なるほどねという思いがしたし、地球物理学とか考古学的に考えると、現代世界の電子媒体の文明なんて、あっという間に消えてしまうんだろうなというのが実に感慨深かった。
 実際に、本書の主張がそれほど深刻な問題なのかというと、ちょっと疑問であるが。
 
 

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2013.02.12

[書評]10万年の未来地球史 気候、地形、生命はどうなるか?(カート・ステージャ)

 「10万年の未来地球史 気候、地形、生命はどうなるか?」(参照)という邦題をそのまま借りて、「10万年後、地球はどうなるか?」という疑問を投げかけたい。どうなるのだろう。当然、そのころ人間はどうなるのだろうかという問いも含まれる。

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10万年の未来地球史
気候、地形、生命はどうなるか?
 本書は、この問いに、現代の科学からかなり妥当に答えを出している。なかなかの大著だが、SFのように面白い。というか、面白さの点でこれ、SFとなにが違うのか。
 本書にはもう一つの意図がある。地球温暖化問題である。簡単に言うと、人類が排出する二酸化炭素など温室効果ガスが、地球の未来に影響を与えるという点だ。
 そう言うと、「なんだ、当たり前ではないか」という反応もあるかもしれないが、問題は、その影響の範囲と、その影響が深刻だという場合、現在の人類に何ができるのかという問題になる。
 この問題は、いろいろ議論されてきたが、「10万年の未来地球史」という視点からどうなるだろうか。
 最初に、読む前の思い、あるいは私がこの本に関心を寄せた時点の思いを述べておくと、「10万年後の地球や人類なんて、あと20年も生きられない私にとってどうでもよいし、現存の10代の人にとっても100年は生きられないのだから、どうでもいい問題ではないか」、ということだ。
 加えて、「10万年後、地球はどういう形であれ存続しているだろうが、人類のほうはすっかり滅亡しているんじゃないか」とも思っていた。
 読んでみてどうだったか。
 基本はあまり変わらない。依然、10万年後はどうでもいいと思う。が、読後、自分の感覚は変わった。10万年後の地球や人類をややリアルに感じられるようになった。別の言い方をすると、どうせ10万年後に人類なんか滅亡しているよという思いは、かなり減った。
 本書には、私のような考えを持つ読者も想定されていて、率直にこの愚問にも答えている。その答えに納得するかどうかは置くとして、10万年後に人類はまだ地球にいそうだという感じはしてきた。それはどんな人類? 不思議な感覚でもある。センス・オフ・ワンダーというか、SFっぽいなという印象はそこからだ。
 本書の主張だが、地球温暖化問題の文脈で見ていくと、私にはなんともわかりづらい。科学的な説明が複雑だというのではない、「何が言いたいのだろう、この著者は?」という疑問が先に立つからだ。
 基本は、「地球温暖化問題は重要で、温室効果ガスは削減すべきだ」という立場になっていることはわかる。それでその理由はというと、よくある、地球温暖化を放置しておけば地球や人類や各種生物が終局を迎えるといった危機とは違う。ではなにか。
 このまま温室効果ガスを放置しておくと、13万年後に厳しい氷河期がくるからだというのだ。
 え?、なにそれという感じである。
 冗談というか、ポストモダン的な物語か、あるいは手の込んだ批評文学なのか。いやそういうことはあるまい。私の理解した範囲でいえば、温室効果ガスを人類が放出し続けなくても、地球は定期的な、弱めな氷河期を5万年後に迎えるのだが、温室効果ガスを放出したことで、その5万年後の氷河期は打ち消されてしまうというのだ。
 それって、いいことなんじゃないの? と、思わずにはいられない。
 そのあたりで、著者の主張がよくわからなくなる。寒冷化に向かう説明も、大著のわりにそこは、いったん上がれば下がるといった曖昧なもので、強いて意図を汲めば、地球振動による定期的な変動を考慮してのことのようだ。
 できるだけ著者の意図に沿ってみた私の理解でいうと、5万年後の氷河期は現状の温室効果ガスの累積で打ち消してしまっても、そのころにはもう人類には化石燃料が残っていないから、13万年後の氷河期が厳しいものになるというのだ。
 ちょっと、それは、どういう話なんだ。いや、ふざけたいのではない。
 そのあたりで、なんとも奇妙な迷路に陥ったような感じになる。私の率直な意見を言えば、10万年後の人類は、原子力によってほぼ無限のエネルギーを獲得しているから、その時点まで化石燃料を心配する必要はないだろうということだ。もちろん、「原子力」なんて現在日本の発狂キーワードを出すとろくでもない表層的な反論が来るだろうから、原子力と特定せず、未来エネルギーの開発と言ってもいい。いずれにせよ、10万年もあれば人類は、エネルギー問題は解決するだろう。
 しかも、その問題となる13万年後の氷河期なのだが、それで人類が死滅してしまうわけでもない。この点は著者も理解している。
 ではなにが問題なのだ?ということになるが、ここで、はっと気がつくのだが、こうした問題で、私たちはしばしば、地球滅亡や人類滅亡というフレームワークを設定してしまう。そういう危機を煽る制度的な思考はもうやめたほうがいいだろう。あるいは、人類が滅亡するなら、どういうプロセスになるのかといった話も冷静に考えるとよい。本書は、疫病のリスクや惑星衝突の挿話なども含まれている。
 現実を冷静に見るなら、つまり中国やインドなどの動向を見ても、温室効果ガスの排出は止まらない。
 もちろん、それを抑制するための人類の努力は重要だろうと思うし、それに加えて、地球物理学的に見れば、むしろ地球は次の氷河期を迎えるだろうことも普通に認めたい。
 そのあたりも含めて、普通に科学的に議論し、そこから可能な、妥当な国際合意を作ればよいだろう。さらに言えば、本書が指摘しているように地球温暖化がもたらす海の酸性化の生態系への影響なども、今後の人類の課題として取り組んでいけばよいだろう。
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Deep Future
 本書は、以上の、地球温暖化問題という枠組みだけなく、地球の歴史を扱った書籍としても読める。むしろ、そう読んだほうがよい。地球温暖化という関心の設定で損をしているような気がする。
 本書は、普通に地球と惑星のクロニクルとして読んでも十分に面白い。地球滅亡や人類滅亡という関心は挿話としてよい。なお、英語版"Deep Future: The Next 100,000 Years of Life on Earth"(参照)はまだKindle化されていない。邦訳もまだ。
 繰り返しになるが、私も含めて、これまでつい、地球温暖化問題を地球滅亡や人類滅亡といった黙示録的な問いに引っ張られがちだった。しかし、私については、本書を読むことでだいぶゆったりと見通せるようになったように思う。そう思いたい方は、ご一読を。高校生の科学学習にも向いている。
 
 

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2013.02.11

[書評]ハイパーインフレの悪夢(アダム・ファーガソン)

 アダム・ファーガソン著「ハイパーインフレの悪夢」(参照)は、1923年、ドイツで起きたハイパーインフレーション(過度なインフレーション)を扱った歴史書である。

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ハイパーインフレの悪夢
 第一次世界大戦勃発前夜の1913年、ドイツのマルク、イギリスのシリング、フランスのフラン、イタリアのリラの4種の通貨の価値はほぼ等しく、対ドルレートは4ないし5程度だった。が、この1923年末、他の3通貨に対してマルクのレートは1兆を越えた。事実上、マルク紙幣は紙ゴミに帰した。なぜそのような異常なインフレが起きたのか。
 ドイツといっても時代は第一次世界大戦後、1919年に発足したヴァイマル共和政の時代である(同政体は1933年に崩壊)。本書は、この異常なハイパーインフレの史実について、ヒトラーを生み出してしまったヴァイマル共和政の歴史としても描かれている。
 上述、この時代のハイパーインフレの基点を1913年としたが、これは本書・著者ファーガソンの視点を引いたもので、すでにこの10年間という期間の取り方に本書の特徴がある。
 実際のところは、異常なハイパーインフレの様相を示したのは1923年に限定されている。具体的なその変化の数値は、私の読み落としかもしれないが本書からはわかりづらいので、あまり確かなソースとは言えないがウィキペディアを引くと、対ドル為替レートで、同年7月に1ドル=16万マルク、8月に462万455マルク、9月に9,886万マルク、10月に252億6,028万マルク、11月には4兆2,000億マルク、とある。つまり、ハイパーインフレだけを史的事象として見るなら、1923年の夏が焦点となる。本書でも、この「1923年の夏」ついては当然一章が当てられている。
 恐るべきハイパーインフレではあるが、短期間の出来事であり、よって歴史の珍事とも言える。著者ファーガソンもそれは意識している。

 1923年のインフレはあまりに度外れた規模であるとともに、あまりにあっけなく終息したので、歴史上の珍事として片付けられやすい。確かに珍事ではあった。

 その意味で、珍事のなかから、ある一般的な教訓、たとえば、中央銀行の一般的な原則といったものを引き出すことは、実は難しい。
 しかし本書は、歴史書としてそこから一般的な教訓を読みだそうとする。引用はこう続く。

しかしこのインフレはもっと普遍的な経済や社会や政治状況の連鎖から生まれた事例として、捉えられるべきだ。二度とは起こりえない原因がそこに多いことは重要ではない。政治情勢が特殊だったとか、通常、金融の混乱があれほどまで進むことは考えられないとかいうことは肝心な点ではない。

 著者の意図はわかるが、暗黙の前提となるのは、このハイパーインフレは「二度とは起こりえない原因」によるもので、「政治情勢が特殊」であり、将来こうした事態が繰り返されることはないということだ。
 では、一般的な教訓はどこにあるのか。問題はその原因ではない、と著者は言う。

ここで考えなくてはならない――そして危険として認識しなくてはならない――のは、原因が何かより、インフレが国にどういう影響を及ぼすかという点だ。政府や、国民や、官僚や、社会はどういう被害を受けるのか。おそらく物質主義的な社会ほど、大きな打撃を受けるだろう。

 本書の重要性はここにある。
 そこから本書は、1923年の珍事であるハイパーインフレの前段階に着目していく。別の言い方をしよう。ハイパーインフレは悪夢であるが、その恐怖が問題なのではない。「物質主義的な社会」がインフレ下でどのようになっていたかという歴史から、何を人類が教訓とするかである。
 このことは、1957年生まれの私の世代を最後に日本でも強いインフレ時代に育った人間にとっては共感しやすい問題意識でもある。
 ハイパーインフレの原因は重要ではないとしても、原因を考察から外すわけにはいかない。その点はどうか。
 一般的には、この珍事たるハイパーインフレの原因は二点から見られている。一つは、第一次世界大戦の過大な賠償金である。言うまでもなく、インフレは借金を返済するスマートな政策だとも言える。二つめは、一つめの理由に関連しているが、1923年、フランスとベルギーが、ドイツの資源地域であり工業地域であるルール地方を、現物による賠償金支払いとして軍事占領したことである。これがドイツ経済と社会を破綻させることになった。
 この通説を本書はどう見ているだろうか。
 意外にも、この説に肯定的ではない。もちろん、この二点を除外するわけにもいかない。ではどうなのか。そこがイギリス人の史書らしいのだが、簡単にまとめることが難しい。
 私の理解では、一点目については第一次世界大戦の賠償金は原因の一つであって10年にわたるインフレはドイツ国内の事情があったということ、二点目についてはルール地方の占領は問題だが政治体制の事実上の崩壊が問題であるということだ。これがやがてヒトラーの登場を用意することになる。ただし、この私の理解については、関心のある読者によって受け取り方は異なるだろう。
 1923年ヴァイマル共和政のハイパーインフレについては、その終息の金融政策としてレンテンマルクと実質的にこれを采配したヒャルマル・シャハトがよく知られている。本書も当然、この話題を扱っているのだが、私の印象では意外と弱かった。私が本書に一番期待したのは、ハイパーインフレというより、シャハトという人物であった。シャハトという天才が事実上、ヒトラー体制を維持させるという歴史の逆説を招いたからである。
 以上のように、本書の価値は、ヴァイマル共和政のハイパーインフレを歴史の珍事として見るのではなく、その前史の10年に焦点を当てたうえで、人がなぜインフレに魅了されていくのかという歴史的な考察をするところに意味がある。
 では、本書はそのように読まれただろうか。
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When Money Dies
 本書が書かれたのは1975年と古い。歴史学的にも本書に描かれている話が現時点の通説にどの程度の影響を与えているのか、特に調べる以前に疑念が生じる。
 だが概ね、本書の価値が覆されているということはなさそうだ。というのも、本書は2010年にペーパーバックとして復刻され、多くの人に読まれたからだ。
 現在はキンドルでも読める。オリジナルタイトルは"When Money Dies: The Nightmare of Deficit Spending, Devaluation, and Hyperinflation in Weimar Germany(マネーが死ぬとき。ヴァイマル時代のドイツの財政赤字、切下げ、およびハイパーインフレの悪夢)"(参照)である。
 ではなぜ2010年に本書が復活したのか。
 リーマン・ショック後の世界への不安が背景にあっただろう。一部には、ウォーレン・バフェットが本書を推奨したという噂もあるが噂に過ぎない。時期的に見れば、米国連邦準備制度理事会(FRB)が実施した量的緩和政策(QE: Quantitative easing)を推進した時期に関わるので、QEによってヴァイマル時代の再現が起こる危険性として読まれたと見てもよいだろう。
 日本で翻訳されたのは2011年5月25日である。
 東北大震災後の復興が問われ、またそのための財政出動が問われていた時代である。この日本での文脈は、本書邦訳巻頭にある池上の解説からも理解できる。ただ、本書の意義は、池上彰の解説の視点に納まるものではないとは思う。
 
 

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2013.02.10

[書評]カウントダウン・メルトダウン(船橋洋一)

 上下巻に分かれた大部「カウントダウン・メルトダウン」(上参照下参照)は、元朝日新聞社主筆の船橋洋一による福島第一原発事故のドキュメンタリーなので、てっきり朝日新聞社の刊行と思ったら、文藝春秋によるものだった。その点は意外感があった。

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カウントダウン・
メルトダウン(上)
 なぜ船橋洋一が福島第一原発事故を扱うのかという点には違和感はない。彼は2010年に朝日新聞社を退職した後、一般財団法人日本再建イニシアティブを設立して理事長となっていて、その下に彼自身が設立した福島原発事故独立検証委員会、通称「民間事故調」でそのプログラムディレクターとなっていたからだ。その意味で、これは「民間事故調」をプレーンな船橋洋一の文体で書き直したものだろうという予想は付いた。
 実際、読んでみると、悪い意味ではなく、予想通りの作品である。さすが船橋さん、読みやすく、わかりやすく、そして、かなり公平に書かれている。なんで朝日新聞じゃないのだろうとここでまた思うが、それはそれとして、私が読んだ印象では、福島第一原発事故について、ここまで包括的に書かれた一般向け書籍はなかったのではないかということだ。福島第一原発事故を顧みる上で、必読書と言ってもよいだろう。
cover
カウントダウン・
メルトダウン(下)
 上巻の帯には、「『民間事故調』でも語られなかった真実の物語!」とあるが、この問題に関心をもってきた私としては、それほど驚くべき真実はなかった。私にはあまり意外性はなかったが、読む人によっては異なる印象を持つだろうか。
 別の言い方をすれば、意外に思えるような新説がないということは、新事実がないという意味で、安心して読めるということでもあった。著者・船橋としては、米側の取材部分を新味としたかったのかもしれない。下巻の帯には、「米海軍は政権内で横須賀基地からの撤退を主張!」とあるが、これは米海軍のやりそうなことだし、事件の経緯からも察せられたものだった。
 しかし米海軍の主張や立ち位置よりも、駐日米大使館、原子力規制委員会(NRC)を軸とした米国内での対立意見は、こうして整理されるとよくわかる。これだけまとまった形で読むのは初めてだったので、その状況が明確に理解できた。と同時に、それに対する日本側のひどさにもげんなりしてくる。民主党政権だったからということでもないだろうが、日本側の事故対応は、ほとんど国家の体をなしていない。なかでも、3月14日(米国時間)に米側で議論された、原発テロを扱う、NRCによるB5条b項の話は、圧巻である。率直に言って、下巻のこの部分だけで簡素に別書籍として切り出し、多くの人に読まれたらよいだろうと願わずにいられない。
 多少乱暴なまとめになるが、大著とはいえ、上巻は今回の事故の核心の数日間を基本とし、いわば『民間事故調』を船橋トーンでまとめたドキュメンタリーの域を出ない。質は悪くないのだが、それほど読み応えのある話ではない。対して、下巻の前半、米側の動向をまとめた部分は、真実といったものはさほどないせによ、今後の日本を考える上でも大変に示唆深い内容となっている。
 ただし下巻の後半は、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)を巡るごたごたと後日譚的な話がまとまっているのだが、懐かしの船橋トーンが満喫できるという感想は持つが、事故の本質からすると、やや情緒に流れたきらいがある。繰り返すと、本書は、私の考えでは、下巻だけ読まれてもよいし、むしろ下巻の前半だけ読まれてもよいと思う。
 それにしても、あの複雑怪奇な事件がこうも読みやすくまとめられるというのは、たいした手腕だと思うが、考えてみれば、そもそも福島第一原発事故は、日本の市民が歴史として受容していく、ある意味、神話的な物語でもあり、物語として受け入れられる形で提示される必要性があった。そのあたりは、船橋さんも長年のジャーナリストの勘で察せられていたのだろう。全体として見て、菅元首相、斑目元原子力安全委員会委員長、吉田昌男福一原発前所長、また愉快な民主党の仲間たちというと揶揄めいていけないが、この事故を物語として見たときの登場人物描写は、控えめでありながら、躍動感がある。
 さて、もっとも本質的な問いかけである、福島第一原発事故とは何だったか、という点で本書を読むとどうか。
 率直のところ、雲を掴む印象が残る。これが船橋さんのスタイルだという面もあるのだろうが、もう少し大胆な切り込みがあってもよかったのかもしれない。
 具体的にどういうことかというと、最終部で描かれている「神の御加護」が切り口になる。

 福島第一原発事故について、危機の間、菅を支えた首相秘書官の一人は後に述懐した。
「この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」
 菅自身は、「4号機の原子炉が水で満たされており、衝撃などの何かの理由でその水が核燃料プールに流れ込んだ」ことを例にとり、「もしプールの水が沸騰してなくなっていれば、最悪のシナリオは避けられなかった」とした上で、「まさに神の御加護があったのだ」と述べている。

 こうした述懐を聞くと、ひどく率直に言うなら、なんだよそれ、ふざけんなよという思いが自然に浮かぶ。日本を守る神などは存在しない。そもそも、そういう奇っ怪な発想はそもそもどこから出てくるのだ、と怒る気持ちが自分にはある。
 反面、そう理解した関係者の気持ちもわからないではない。よくこの事故がこれで済んだな、と。
 そして、この事故の本質というとき、私の念頭にあるのは、まさにその4号機プールである。船橋は「例にとり」というのだが、この事故の核心は、まさにそこにある。
 多少情感を込めて言うなら、著者・船橋はこれだけの大作を著しながら、この事件の本質を本当に理解していたのだろうかという疑問も残る。あるいは、そこは明確に意識されていたのだろうか。
 この事故の本質が何かということを念頭に冷静に本書の記述を再読されれば、事故の本質が原発そのものではなく、使用済み核燃料格納プールにあったことは明らかだろう。
 私はこの「物語」を転倒して解釈したいのでもなければ、原発の危険性を軽視したいのではない(そもそも軽水炉は大事故を起こせないのだが)。冷ややかにこの物語を再読するなら、そのテーマは、使用済み核燃料格納プールであることは、自然に見えてくるはずだと思う。
 本書を読みながら、私にはさほど目新しい知見はないと言ったが、一つ、「ああ、そうだったのか」と考えを深めた点はある。れいの二階から目薬作戦である。3号機、4号機の上空から水を撒くというあの悲壮なナンセンスである。本書でも、それが国民に向けてのショーアップであったことを示しているが、同時に、あれは、4号機プールの確認作業でもあったのだった。あの作業を通して、4号機プールになぜか水が入っていることが確認され、NRCがようやく方針を変えることになった。
 なぜ4号機プールに水があったのか。先の「神の御加護」である。偶然に流れ込んだというのだ。そんなことがあるだろうか。「神の御加護」など日本にはないと考える私はこの真相を疑っている。
 本書で知ったわずかな新知見として、3月13日の時点で東電が1号機上空から氷3.5トンを投下する計画が描かれている。密かに計画していたのだという。それ自体は、混乱のなか各種の模索があったという逸話に過ぎないが、私がこの逸話から嗅ぎ取るのは、端的に言って、まだ各種の活動が隠されているのではないかという疑念である。
 陰謀論を採りたいというのではない。陰謀論など唱える気もしない。しかし、では、「神の御加護」という偶然を信じるのかというと、そうできるなら、なんと暢気なことだろうと思えてならない。
 
 

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