« 2013年1月27日 - 2013年2月2日 | トップページ | 2013年2月10日 - 2013年2月16日 »

2013.02.09

[書評]日本人はなぜ貧乏になったか?(村上尚己)

 自民党総裁に安倍晋三氏が返り咲いた当初、奇異な目で見られていたその経済政策、通称アベノミクスだが、比較的短期間に多くの人から支持されてきたようだ。理由は単純。安倍首相がアベノミクスを掲げただけで円高が止まり、株価が上がり、実感としてもこれから日本経済が前向きになってくる期待が醸成されたからだ。

cover
日本人はなぜ貧乏になったか?
村上尚己
 それはいいとしよう。では、実際に、アベノミクスの内実がどれほど理解されているというと、どうだろうか。なかなか難しそうだ。メディアで活躍された経済専門家もしばしばとんちんかんな説明をしたり、どうでもいい賛否両論でお茶を濁したりする。その点、本書「日本人はなぜ貧乏になったか?」(参照)は、アベノミクスの要点を、いわば想定問答集のようにして、通説の誤りを逐次指摘する形式で明確にまとめている。解答集の虎の巻といった趣向である。
 重要な論点の一つは、長期に渡り日本経済を蝕んできた「『デフレ』の正体」である。第2章の通説を眺めてみよう。通説6から始まる。

通説6 モノが安くなるのだから、デフレは庶民の味方
通説7 デフレといっても、年率1%未満の物価下落なら大丈夫
通説8 日本のデフレ、原因は現役世代の人口減少
通説9 日本のデフレは、安価な中国製品が流入したせいだ
通説10 安売り企業の価格破壊がデフレの原因

 書き写しながら、デフレについて、こうしたことが言われてきたものだとしみじみ思い出す。本書の語る真相はどうか。

真相6 否。モノよりも給料が安くなり、貧困を深刻にしている。
真相7 否。失業者や自殺者の増加こそがこのデフレの正体。
真相8 否。生産年齢の人口減少とデフレの同時発生は唯一、日本だけ。
真相9 否。それならアメリカや韓国はなぜデフレではないのか。
真相10 否。所得が増えれば、消費も増える。「満たされた日本人」は幻想。

 本書では各真相ごとに解説がつく。読みながら、概ねこれで正しいと思う。詳細では異論もあるだろう。たとえば、給与が保証されている層にとってはデフレは実質的な賃金増加をもたらしてきたことや、自殺者の増加は戦後ベビーブームの世代が高齢化していることが背景にあることなど、議論すればできないことはない。さらに細部ではデータの解釈差や勘違いもあるかもしれない。しかし大筋で、本書の真相は説得力がある。
 本書では、こうした21個の通説に対して、それぞれ真相が提示されている。が、いわゆるリフレ派と呼ばれる経済思想になじんだ人にとっては、さほど目新しい論点はない。きれいにまとめたという印象で終わるかもしれない。
 私としては本書の価値は、リフレ派の論点整理というより、米国連邦準備制度理事会(FRB)が実施した量的緩和政策(QE: Quantitative easing)についての簡素な説明とその評価にある。
 リフレ派の議論は難解なマクロ経済学をベースとしていること。また、伝統的な中央銀行の思想とは異なる面もあり、あくまで理論的な話にすぎないと見る向きがあった。現在でも、インフレターゲット政策についてデフレからインフレにもっていくための政策としては「世界初の実験」だとも指摘される。そう指摘されて苦笑を漏らさない人もいる。本書でも指摘されているが、そもそも先進国なら2%インフレターゲットが実施されていた。だから、日本のようなタイプのデフレに落ち込んでいる例はなかったからだ。日本が普通の国であったら、そもそも「デフレからインフレにもっていくための政策」は必要なかったのである。
 このことが如実に示されたのが、FRBのQEだった。QE1は2009年3月~2010年3月、QE2は2010年11月~2011年6月、QE3は2012年9月に決定され、現在も続いている。しかも失業率が所定値に下がるまで続くとした。米国では明確に、量的緩和政策が失業率と関連つけられて扱われている。
 こういう言い方にも異論があるかもしれないが、リフレ派の議論が、議論のための議論のように見られた時代に終止符を打ったのは、FRBであり、そのバーナンキ議長だった。それが議論を越えて現実に示されれば、どのような机上の理論も対抗できるはずもない。それなのに民主党政権下ではだらだらとデフレ政策が実施されていた。安倍首相でなくてもいずれ、日本がリフレ政策を採らざるを得ないことは予想された。現時点で振り返っても、問題は「いずれ」という時期でもあったのかもしれない。
 本書が示したように、これから日本経済は復活に向かうだろうか。
 本書の域を超えるが懸念事項がないわけでもない。そもそもアベノミクスは本書が焦点を当てている金融政策に加え、旧来の自民党政治型の財政政策と、小泉政権に近い成長戦略の三項から成立していて、項目間に必ずしも統合性があるわけではない。本書では、財政政策については触れていないが、その成長戦略については疑念も呈されている。また、本書は消費税増税に反対の立場を取るが、実質的な財務省ストーリーとしてのアベノミクスでは、消費税増税のための地均しなのである。現在期待されているアベノミクスが思いがけない換骨奪胎に終わる懸念もある(むしろ強いと見られる)。そうした事態に際しても本書は、いわばあるべき定規のような役割をするだろう。
 あと個人的には著者・村上尚己氏の「おわりに」とする後書きに共感した。41歳の彼自身が社会人として向き合ったのがまさに日本のデフレだった。

 デフレによって貨幣の価値ばかりが高まり(貯め込んだ現金だけで生活できる人だけが豊かになる)、その一方で若者の価値(給料)はまったく上がらず、押さえつけられたまま、こんな状況がいつまでも許されていいのか?

 後書きに呼応する著者の思いは第5章ではこう表現されている。成長する社会が重要だとして。

 だから「競争をやめて、皆が分かち合う温かい社会」を希求する人は、社会全体が成長を止めることを放置してはいけないのだ。「脱成長」の先にあるものは、「壮絶な奪い合い社会」でしかないのだから。

 私もそう思う。
 しかしそこに別のタイプの難しい問題がある。2012年元旦の朝日新聞社説を例にして。

 そしてこういった「脱成長」「ブータンのように低成長だが幸福な社会」といった話を受け入れてしまう人(朝日新聞のこの社説を書いた人もそこに含まれるのであろう)が、きわめて不幸なのは、そういった人たちがすごく心優しい人たちである場合が多いということだ。

 アベノミクスを「壮絶な奪い合い社会」と見なし、「競争をやめて、皆が分かち合う温かい社会」を希求する心優しい人たちを、苦笑して通り過ぎてはいけないのだろう。ただ、どうしたら伝えられるのだろうか。本書がその一助になりえるだろうか。
 
 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2013.02.08

[書評]昭和という時代を生きて(氏家齊一郎・語り、塩野米松・編)

 「痛快無比」という懐かしい言葉が、読みながら心に浮かぶ。昭和という歴史が眼前に躍動してくる。何度も思わず感嘆の声が漏れる。面白い。「昭和という時代を生きて」(参照)は、事実上、氏家齊一郎の自伝である。塩野米松がインタビューアーとなって書籍にまとめたものだ。

cover
昭和という時代を生きて
 氏家は偉人ではない。読売新聞グループ総帥・渡邉恒雄の親友という点からすれば、ヒール(悪玉)と見る人がいても不思議ではないくらいだ。いち新聞記者から、事実上の政商にのし上がったその経歴は、自民党政治とも一体化している。とてもではないが理想とはほど遠い。河野一郎や中曽根康弘との交流は胡散臭いし、児玉誉士夫や田中角栄との関わりは昭和の暗部を覗き込むようなスリルがある。
 ヒールの側面を感じさせながら、氏家は若き日に渡邉に誘われて共産党に入ったように、共産主義への理想も理解していた。カストロの友人であり、ホーチミンの友人でもあった。私は知らずにいたので驚いたのだが、日本共産党を支えた上田耕一郎とも思いをかわしていた。その性格の根幹に、嘘のない朗らかなものがあるのだ。
 渡邉が反共に逆走したのとは異なり、氏家の心のなかには若き日の共産党の理想は別の形で生き残っていた。それは彼のもう一人の親友、網野善彦の理想とも違っていた。本書は中盤から、生々しい昭和政治史の裏面と渡邉恒雄が語られるが、他面、全体にわたってなんども、網野善彦への思いが語られる。私などは氏家の視点から、網野の意外な一面を考えさせられた。
 氏家は理想家ではないし、悪玉でもない。それでも、人々を独特の興味を誘う。謙遜で語る部分もあるのだろうが、どう読んでも、明確な理念というのを持って生きて来た人でもない。運命に流されて来ただけのようにも見える。
 ただ、地頭がずばぬけて優れていたとしか言いようがないことと、この世代特有の実利的な理性は魅力的だ。それは山本七平などからも感じ取れる、大正デモクラシーの精神も含まれている。そういえば、氏家は私の父の生年月日と一週間と変わらない。その意味で、私自身にしても父の時代をきれいになぞる歴史がここに描かれていた。
 本書、第1章は「ジブリと私」と題されている。薄々というくらいは知っていたが、ジブリが今日存在するのは、氏家の功績なのだということがよくわかる。しかも、氏家の思いの根幹は、宮崎駿よりも高畑勲にあった。正確にいえば、宮崎の高畑への思いを氏家はよく理解していた。
 ジブリから氏家が語られているのは、本書の元がジブリの冊子『熱風』に2011年1月から2012年8月に連載されていたせいもある。本書も編集はジブリとなっているように、「このように氏家を語らせる」ということで、ジブリが表現する作品でもあった。
 いや、ジブリというより、プロデューサー・鈴木敏夫の作品と言ったほうがよい。鈴木の魂のなかで、氏家をこのように写し取ろうとした熱い思いがあった。鈴木と氏家の魂の交流ともいうべきもののなかで、氏家はゆったりとその人生の意味を明らかにしたのだった。その核心は何だったか?
 意外なことに、すべてが満たされたかのような氏家の人生のむなしさだった。鈴木の手による本書の解説で、氏家が「僕の人生、振り返ると何もやっていない」という意外な言葉を留めている。鈴木はこう回顧する。

 ぼくが驚いていたら、今度は「70年以上生きてきて、何もやってこなかった男の寂しさが分かるか」とひとりごちた。フォローしようと思ったが、うまい返答が見つからない。なんとか言葉を探して「マスメディアの中で大きな役割を果たしているじゃないですか。日テレだって経営を立て直したのは氏家さんでしょ」と言ったら、「馬鹿野郎!」と怒鳴られてしまった。

 氏家にしてみれば、その人生は、ただ運命を受け入れて、こなしてきただけにすぎなかった。「死ぬ前に何かやりたい……」ともこぼした。何がやりたかったか。

 そんな氏家さんが初めて自分から決めたやりたいことがあった。高畑さんの新作だ。
 「死ぬまでにもう1本、どうしても観たい」と相談された。そうして、準備を始めたのが、今、取り組んでいる「かぐや姫」だ。高畑さんがどういう作品にしようか悩んでいた時、氏家さんに要望を訊いた。そうしたら「詩情だな。彼の作品にはいつもそれがある」と言われ、高畑さんに伝えた。


 ジブリ作品では、この間、「制作」はスタジオジブリとし、「制作」はクレジットしてこなかった。しかし、この「かぐや姫」完成の暁には、制作=氏家齊一郎と表記したいと考えている。

 しかし、氏家齊一郎は「かぐや姫」を観ることなく死んだ。2011年3月28日。84歳だった。70歳以降は難病を抱え苦しむ人生でもあったが、死がその延長にあったわけではなかった。
 本書の語りは、氏家の死によって途絶えた形になっている。その意味では、未完の作品のようにも見える。だが、こうした書籍が残せたというだけで、ほとんど奇跡のように思えてならない。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013.02.07

[書評]統計学が最強の学問である(西内啓)

 統計学をその「意味」の視点からこれほどわかりやすく解説した書籍はないのではないか。「統計学が最強の学問である」(参照)という表題は挑戦的だが、実際、後半部の応用分野との関わりの解説に力点を置いて読むならなら適切とも言える。しかしなにより、統計学をわかりやすく解説した入門書としてすぐれている。現代人ならどうしても統計学の基礎知識は必要となるので、そういう点からも必読書と言ってもいい。

cover
統計学が最強の学問である
西内啓
 本書の内容は、cakesに連載されていたもので、私も連載当初から読んでいた。語り口が豊かでまた逸話も面白く、オンラインの読み物としてもすぐれているのだが、中盤の回帰分析の説明あたりから、これは集中して読んだほうがいいなと思い直し、年末から正月、Kindle PaperWhiteのブラウザー機能に落とし込んで読んだ。ある程度、濃密なコンテンツになると依然、書籍というのは有利なもので、この連載が書籍化されるなら、早速読んでみたいものだと思っていたら、すぐに書籍化された。再読し、さらに再々読した。読む度にうなった。ちなみに、本書はKindle版もある。再読に便利だ。
 統計学の入門書として本書が優れているといっても、他に良書もある。著者・西内啓氏自身の「世界一やさしくわかる医療統計」(参照)も「医療統計」としているものの、統計学の入門書としてもすぐれている。
 しかし、統計学は数学でもあり、つまるところ、ある程度は体系的に学ばないとわからない面がある。演習も必要とは言えるだろう。統計学を一定水準で学ぶためには各人がいろいろ工夫されるとよいだろう。ちなみに私は中学生のころ、教師の趣味でできた統計クラブというのに属していて電卓叩きをよくやらされたが、現代では、無料の表計算ソフトですら各種統計処理用の関数が用意されているので、具体的な事例をもとに簡易に計算してみるという学び方もあるだろう。
 問題はその先、あるいはその手前かもしれない。
 「なぜこういう統計分析をするのか」「その背景にどういう考えがあるのか」「こういう統計分析をしてどんな意味があるのか」ということは、いわゆる入門書からはわかりづらい。統計の専門家はどうしてもテクニカルな問題に関心を向けてしまうからだ。相関と因果関係についてはどの入門書でも指摘されているが、「両者を混同しないように」くらいな説明で終わらざるをえない。
 本書は違う。統計というものをこれほど徹底して考え抜いた書籍はなかったのではないかと思えるほどだ。本書の前半を読んでもわかることだが、統計学の意味がわかることが、実際のビジネスシーンにも大きな影響を与える。逆の言い方をすれば、統計学の技術だけで出された定量的な結果レポートは、そのために巨費をかけていても、実質ナンセンスということが多い。率直なところ、本書を読んだ経営者は以降、企画屋があげてくるプレゼンテーションに厳しくなるに違いない。
 本書の内容は、著者も率直に述べているが、前半では統計学の基礎説明を越えるものは特にない。その意味で、一通り統計学を学んだ学生にとっては、なーんだという印象ももつかもしれない。実は私も、前半三分の一までは、統計学者フィッシャーのエピソードの話などを読みながら、「ああ、あれね」という感じで過ごしていた。
 が、喫煙の被害についての、統計処理の背景にある考え方の説明あたりで、ぐっと引き込まれた。自分としてはフィッシャーの原理的な考え方が正しく、いわゆる各種疫学の論考にはそれほど意味がないのではないかと疑っていた。が、そのあたりが、ばしっと整理されていたのだった。
 もう一点は、これは単に私が無知なだけだったかもしれない。回帰分析に関連して「統計学の教科書は一般化線形モデルの扱いで2種類に分けられる」という説明には、感服。また曰く「一般化線形モデルという枠組みによって、データ間の関連性を分析したり推測を行ったりする解析のほとんどは、広義の回帰分析の一部であると整理することができた」。そうだったのか。という時点で自分の無知にあきれた。
 本書では、t検定の考え方と回帰分析の考え方が、実は同じなのだということをわかりやすい図を使って説明しているが、こういうの、これまで読んだ入門書や教科書の冒頭にきちんと書いてほしかった。というか、私の読み落としだろうか。なお、「t検定」については他の説明に比べて、この用語についての説明手順に省略があるように思えた。こうした点で巻末索引から見直したり、別途用語集があるとよかったかもしれない。
 後半三分の一、第6章「統計家たちの仁義なき戦い」以降は、統計学の6つの分野として、統計学の応用の話題に移る。ここらは統計学の基礎というよりは、現代の各種学問や企業活動、医療などの背景にある統計学の現状がそれぞれ簡素にまとめられている。読みやすいといえば読みやすいが、その分、個別の領域に潜む問題についてはどうしても浅くなりがちで、おそらく著者であれば各分野について一冊分の解説書ができるだろうし、今後も期待したい。特に、統計学と計量経済学については是非、経済学者を交えて深掘りをかけてほしい、難しいだろうが。
 本書の意義の一つは、回帰の説明が極まる第5章末の段落に現れている。

 人類はすでに因果関係を把握しコントロールする術を手に入れている。妖しげな霊媒師に頼るまでもなく、ちょっと勉強してデータをいじりさえすれば最善の判断は下せる。あとはもう、この知恵を使っていかに価値を生み出すか、というだけの話なのだ。

 誰でもちょっとデータをいじるだけでよいかという点では、ネット論壇的なものを見るとそうとも言えないかなと思い浮かぶ御仁が数名いるが、それはそれとして、きちんとした統計処理から、現代政治の政策課題の大半は、技術的な問題に帰しており、その技術面のプランでは有能な官僚の良心にかなり委託できる。が、現実の私たちの課題はその方向にそれほど進んでいない。別の難問があるのだ。
 余談めくが、私は著者の西内氏に先日会い、「うあ、これは昔よく見た天才のいちタイプだ」という印象をもった。きっと話せばいろいろ理解してもらえると思ったが、現実の私たちの社会・政治の難問は、実は、解決にはないのである。正しい解決は、活かされないと言ってもいい。そんなこと通じるかなあと思ったのである。
 最強の学問が最高の価値を生み出しても、なかなか現実には反映されないという点で、現実には別のタイプの難問がある。とはいえ、その難問の多くは、基本、市民間の関係や妥協・譲歩の倫理に帰すもので、個人のビジネスにはさほど関係ない。
 本書を理解した人間は、仕事や個人的な問題に直面したときは、かなり強みを発揮するだろうし、そこでは統計学を「ちょっと勉強して」の効果は絶大だろう。
 
 


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2013.02.05

エジプト争乱2年後の争乱

 エジプト争乱2年後の出来事として50人以上の死者を出す争乱が起きた。この2年間のエジプトでは最大の争乱だった。原因は、昨年2月のポートサイドのサッカー場騒乱の暴徒21人に1月26日、一審の死刑が下ったことの反発に加えて、いわゆる「エジプト革命」の2周年記念である(参照)。
 今回の争乱について日本で報道がないわけではないが、2年前に比べるとその扱いは小さい。また「この動乱は反革命であり、革命はまだ進行中である」といった議論も見かけた。私の見るところを簡単にまとめておこう。
 今回の騒乱の主導者については、フーリガン、ムバラク政権支持者、その秘密警察残党、金でつられたバルタギー(ギャング)といった指摘が目立つ。いわば混乱のための混乱を求める暴徒という指摘である。
 概ね当たっていると見られるが、これらの指摘は、現状のモルシ政権側の見立てをなぞっている面もあり、注意が必要だ。
 暴徒によるものか、2年前の民主化の要求が高じたものか、見分けの可否は、2年前の争乱の主体がどのくらい今回の争乱に関与しているか、あるいはどう評価しているかにかかっている。つまり、同胞団側の視点ではなく、世俗的な民主主義を希求する勢力がどのように今回の争乱を見ているかが重要になる。
 この点については、救国戦線指導者で国際原子力機関(IAEA)の元事務局長エルバラダイ氏の動向から概ね読み解ける。2日付けAFP「デモ隊が大統領府に火炎瓶 1人死亡 エジプト」(参照)より。


 主要野党の連合体「国民救済戦線(National Salvation Front)」のモハメド・エルバラダイ(Mohamed ElBaradei)氏は暴力行為が始まる数時間前、マイクロブログのツイッター(Twitter)上で、「モルシ政権が人々の要求に耳を傾けない限り、暴力と混乱は続くだろう」と投稿していた。だがその後発表した声明で、国民救済戦線はデモ隊に「最大限の自制を」と呼びかけ、大統領府前での暴力行為から距離を置いた

 簡単に言えば、エルバラダイは反モルシであるが、暴力行為には荷担しない、というものだ。その後の経緯を見ると、全体傾向としては、民主化勢力は暴動を避け、モルシ政権側との対話に向かっているとも言える。
 今回の事態の最大のポイントだが、民主化という文脈ではなく、モルシ政権および同胞団を政権のオモテに立てて裏に隠れていたはずの軍部が、姿を現した点にある。「エジプト革命」というものの正体である軍部クーデターの特質が露出した。
 実際のところ、今回の事態は軍の顕在化によって収拾したのだった。
 この点について邦文で読める記事としては、1月30日WSJ「「国家崩壊の可能性も」-エジプト国防相が反政府デモけん制」(参照)がある。他に、BBCなども注目していた(参照)。

過去5日間街頭で暴動が発生し、政治的なまひ状態が何カ月間も続いているエジプトで、シーシ国防相(軍最高評議会議長)は29日、軍が社会秩序維持のため、ムバラク前大統領を打倒後の革命初期と同様に再び介入するかもしれないと述べ、対立する政治勢力や街頭の暴徒をけん制した。

 WSJ記事でも指摘があるが、軍部がエジプト政治の前面に出たいわけではない。
 事態の全体図をわかりやすく描いたのは、1日グローバルポスト「Egypt protests: Can the army keep the peace?」(参照)だった。

A warning from Egypt’s defense minister this week that the Egyptian state was near collapse raised a lot of eyebrows.

エジプトが国家崩壊の縁にあった今週、エジプト防衛大臣からの警告で、多数の人々が眉をつりあげた。

Were the country’s secretive generals readying for another coup?

この国の秘密主義の将軍は、別のクーデターを用意していたのか?


 この「another coup(別のクーデター)」の含みだが、私の考えるように、2年前のいわゆる「エジプト革命」の正体をそもそも軍部クーデターと見ているわけではない。ここでは一応「革命」があり、その後軍部が乗っ取ったという筋立てで、軍部のクーデターとしている。いずれにせよ、今回の事態も軍部クーデターの兆候として理解された。
 エジプト軍部には、もとより直接的な国家政治支配の意向はない。軍部にとってのメリットがないからだ。軍部の利権はすでに達成されている。

With their economic and political interests now safeguarded under the Muslim Brotherhood-dominated government, however, the army may prefer to steer the current political crisis from the sidelines, analysts say, rather than upend its status quo.

軍部の経済的かつ政治的な利益は現状、同胞団支配の政府の元で守られているので、軍部としては、この現状を変えるより、傍観的な立場から現下の政治危機を操縦すること好むようだと、アナリストは語る。


 そもそも軍部の意向は、実質的なクーデターを傀儡政権で隠蔽し、その経済および政治的な軍産共同体を維持することだった。
 では、軍部とモルシ政権の関係はどうなっているのか。
 一見すると、軍部は昨年8月、モルシ政権に譲歩したかに見えた。

Morsi forced the previous defense minister into early retirement in August, usurping the military’s broad political powers for himself in a move that was hailed as a victory against army rule.

モルシは、軍部支配に打ち勝った活動で、軍部の政治権力を自身の手に奪い取り、8月には前防衛大臣を早期退職に追い込んだ。

But the army still commands a number of administrative posts — including governorships — and vast economic interests that keep its political reach far and wide inside Egypt. Analysts say the army’s lucrative economic empire ranges from tourist resorts, to processed food, to the manufacture of weapons and household appliances.

ところが軍部は依然、各知事職を含め、数多くの行政職と、エジプト全土にわたる政治権力を維持する経済利権を握っている。富を生み出す軍部の経済帝国は、観光地から加工食料品産業、武器や家電品の製造業にまで及んでいるとアナリストは語る。


 軍部の政治および経済利権は温存されている。もともとこの軍部の利権帝国を維持するために、敵対するムバラクファミリーを核とした新興階層を潰し、またその巻き添えを食わないようにすることが当初からの軍部クーデターの目論みであった。
 実際、この利権帝国の様相からすれば、軍最高評議会が退いたかのような形に見せたのは一種のお芝居であり、取引であった。
 問題は、軍部とモルシ政権という二項の取引きではないところに、エジプト情勢の複雑さがある。明確にはされていないが、取引には米国も噛んでいると見てよい。先のWSJ記事でも指摘があった。

 あるアラブ高官は、「人々は、米国がムスリム同胞団と結託しているかにみえるのをいぶかしく思っている」と述べた。この高官の政府は、イスラム原理主義者たちがカイロでますます権力を掌握することを懸念していると述べた。同高官はまた、エジプト政府批判に消極的な米国の態度について過去2カ月間、他のどのテーマよりも頻繁にオバマ政権と討議したと述べ、「われわれは合意できないことで合意した」と語った。

 米国側の取引材料は端的にエジプト軍部と政府への経済援助であり、その見返りはイスラエルの安全保障である。モルシ大統領は反米かつ反イスラエル的な言動を際立たせているが、国内向けのポーズにすぎず、実態としては反イスラエル的な政治は抑制されている。
 さらにこの三者の取引をもう一項拡張するなら、2年前の大衆運動を指導したかに見える民主化および世俗勢力側も米国との事実上の取引の上にあった。
 すると、軍部、同胞団、民主化・世俗化勢力、米国、その4項全てが、項間の強弱はあれ茶番を演じているということになる。
 モルシ政権側と組んだ軍部としては、政府からその経済利権の独立がこのまま、憲法からすらも超法規的に維持できれば、軍内部にある反米動向は抑制できる。
 問題は、モルシ政権を支えるかに見える同胞団だが、このセクターは米国の意向に明瞭に敵対している。モルシ大統領としても茶番のバランスのためにリップサービスが欠かせない。
 こうして見ると茶番とは言っても、極めて危うい均衡の上に成り立っている。この均衡が崩れたときは、軍部が露出する。グローバルポストでもその指摘はあった。

A former brigadier general and military analyst, Mohamed Kadry Said, said if Morsi doesn’t resolve the situation by engaging in serious dialogue with the political opposition, “the army may intervene in the same way it did after the revolution.”

前准将であり軍事アナリストのモハメド・カドリ・サイドは、仮にモルシが現況について、政治対立者間の真摯な対話で解決できなければ、「軍部は、革命後と同様の手法で介入するかもしれない」と語った。


 現下のモルシ政権が争乱で倒れれば、軍部がまた国家の中枢に現れるだろうという指摘である。

“The military never withdrew from politics and continues to play a powerful role,” said Hani Sabra, an analyst at the New York-based political risk research firm, Eurasia Group. “The military leadership is therefore comfortable with the status quo.”

「軍部は決して政治支配から撤退せず、強力な役割を果たし続ける。だから軍部指導者は現状に満足しているのだ」とユーラシアグループ(ニューヨークを拠点とする政治的リスク調査会社)のアナリスト、ハーニー・サブラは語る。


 現状、モルシ政権の対話路線が成功しているというものでもないが、争乱は鎮静化しつつある。軍部は威嚇に成功したので、これ以上の動きはしない。よって、もとの危うい茶番に戻ったと言える。だが、今後も進む経済窮乏化によって、社会不安からさらなる争乱は起こりえるだろう。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年1月27日 - 2013年2月2日 | トップページ | 2013年2月10日 - 2013年2月16日 »