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2013.11.23

秘密保護法案について

 秘密保護法案についてツイッターなどを覗いていると騒がしい議論や意気込んだ反対運動などが察せられる。人それぞれの思惑というのがあるだろうし、その人の背景の思惑というのもいろいろあるのだろう。民主主義国なのでいろいろあっていいと思うが、こういうニュースは伝わるのか、記者さんはどのくらい理解して伝えているのか、と多少疑問に思えたニュースがあった。
 今日の毎日新聞「秘密保護法案:国連人権理の特別報告者 日本に懸念表明」(参照)より。


【ローマ福島良典】国連人権理事会のフランク・ラ・ルー特別報告者(グアテマラ、表現の自由担当)は22日、日本の特定秘密保護法案について「内部告発者やジャーナリストを脅かすもの」との懸念を表明、日本政府に透明性の確保を要請した。国連人権高等弁務官事務所(本部スイス・ジュネーブ)が報道声明で発表した。
 ラ・ルー特別報告者は「内部告発者や、秘密を報じるジャーナリストを脅かす内容を含んでいる」と法案を批判。秘密漏えいによる損害が国民の「知る権利」という公益よりも大きな場合に限って秘密保持が認められるが、その場合でも、独立機関による点検が不可欠だと主張した。
 国家機密を漏らした公務員らに厳罰を科す内容が法案に盛り込まれている点について「違法行為や当局の不正に関する機密情報を『良かれ』と思って公にした公務員は法的制裁から守られなければならない」と指摘した。

 この毎日新聞の報道が不正確だということはではない。むしろ、「秘密漏えいによる損害が国民の「知る権利」という公益よりも大きな場合に限って秘密保持が認められる」ことを明記していてる点はよいとも言える。
 NHKにも類似の報道があった。「秘密法案に国連人権事務所懸念」(参照)より。

 国会で審議が行われている特定秘密保護法案について、国連人権高等弁務官事務所の特別報告官は声明を発表し、「法案では、秘密の範囲が非常に広くてあいまいで、透明性を脅かすおそれがある」などと懸念を示し、日本政府に対してさらなる情報の提供を求めました。
 声明を発表したのは、スイスのジュネーブにある国連人権高等弁務官事務所で各国政府から独立の立場で人権状況の監視などを行っている特別報告官です。
声明では、日本の国会で審議が行われている特定秘密保護法案について「透明性は民主的な統治の核とも言えるものだが、法案は透明性を脅かしている」として、「深刻な懸念」を表明しています。
 具体的には、「法案では秘密の範囲が非常に広くあいまいであるだけでなく、秘密を内部告発したり報道したりする人たちにとっても、深刻な脅威となる要素を含んでいる」としています。
 そして「たとえ例外的に秘密にするケースであっても、独立の機関による再検討が不可欠である」と指摘し、秘密の指定が適切に行われているかチェックする機関の設置が法案に盛り込まれていないことにも懸念を示していて、日本に対してさらなる情報提供を求めるとしています。

 こちらも不正確な報道というわけではない。「たとえ例外的に秘密にするケースであっても、独立の機関による再検討が不可欠である」といった重要な部分も明記されている。
 オリジナルの声明は「Japan: “Special Secrets Bill threatens transparency” – UN independent experts」(参照)である。毎日新聞記事やNHK報道と比較して内容に相違があるわけではない。
 冒頭触れた懸念がどのあたりにあるかというと、国連人権高等弁務官事務所は人権状況が主眼でジャーナリストを守ろうとしているのだが、この件、つまり、特定秘密保護法案にはまず国際的な前提があり、その上で、国連人権高等弁務官事務所が述べているのだが、そうした背景が、日本の報道でどの程度伝わっているだろうかと気になったのだった。
 案じるほどのこともないのかもしれない。この問題の背景には、世界70か国の安全保障の専門家と関連法律家500人が集まって2年以上も議論し、今年の6月、南アフリカのツワネでまとめた「ツワネ原則(The Tshwane Principles)」(参照)がある。なお、日本弁護士連合会による試訳(参照)もある。
 ここで、国家安全保障上の理由で非公開とされた情報についての、現状の国際世界での水準がまとめられた。機関の関係の上では直接とは言えないが、識者の対応からして、国連人権高等弁務官事務所の先の表明が関連している。
 やっかいなのが、この「ツワネ原則」もまた、間接的な報道からは誤解されやすい性質があるように思われることだ。
 たとえばカナロコ「特定秘密保護法案を問う:国際指針「ツワネ原則」に照らし見直しを」(参照)ではこう紹介されている。

 国家の秘密保護と国民の知る権利は対抗する。しかし、バランスを取ることは可能だ-。政府による秘密の指定において知る権利や人権など配慮すべき点を示した「ツワネ原則」と呼ばれる国際的なガイドラインがある。特定秘密保護法案の今臨時国会での成立が見込まれるなか、日本弁護士連合会は「原則に照らし、秘密指定の範囲や方法、期間、解除方法、処罰対象など多くの欠陥がある」と指摘。「法案をいったん白紙に戻し、全面的に見直すべきだ」と訴える。

 気になるのは、「ツワネ原則」では「国家の秘密保護」という一般的な提起ではなく、「国家安全保障における秘密保護」が問題となることだ。
 「ツワネ原則」のロジックは、国家安全保障には秘密が避けがたいからこそ、その歯止めが必要だということであって、前提として、国家安全保障には秘密が認められている。
 「ツワネ原則」の冒頭はこうである。

These Principles were developed in order to provide guidance to those engaged in drafting, revising, or implementing laws or provisions relating to the state’s authority to withhold information on national security grounds or to punish the disclosure of such information.
本原則は、国家安全保障上の理由により情報の公開を控えたり、そのような情報の暴露を処罰したりする国家の権限に関わる法津又は規定の起草、修正又は施行に携わる人々に指針を提供するために作成された。

 どのような国家であれ、国家安全保障上の理由で非公開とする情報はあり、その保護のために処罰規定を作らなければならないから、その国家権力にどの程度の合理的な歯止めを掛けるかというのが問題意識になる。ここでようやく、これを背景に先に触れた毎日新聞記事やNHK報道の意味が現れる。
 別の視点から「ツワネ原則」を見ると、国家がその安全保障上、合理的に秘匿されうる情報の原則だともいえる。原則9に、こうした国家が安全保障上、秘匿する情報について、明記されている。

Principle 9: Information that Legitimately May Be Withheld
原則 9: 合理的に秘匿され得る情報

(a)Public authorities may restrict the public’s right of access to information on national security grounds, but only if such restrictions comply with all of the other provisions of these Principles, the information is held by a public authority, and the information falls within one of the following categories:
(a)公権力は国家安全保障を理由に、情報にアクセスする公衆の権利を制限することができるが、そのような制限は、本原則の他のすべての条文に適合しており、その情報が公的機関によって保有されており、下記のカテゴリーのいずれかに当てはまる場合に限られる。

(i) Information about on-going defense plans, operations, and capabilities for the length of time that the information is of operational utility.
(i)その情報が戦略上有効である期間中の、進行中の防衛計画や作戦、状況に関する情報
(ii) Information about the production, capabilities, or use of weapons systems and other military systems, including communications systems.
(ii)通信システムを含む兵器システムその他の軍事システムの製造、性能、使用についての情報。
(iii) Information about specific measures to safeguard the territory of the state, critical infrastructure, or critical national institutions (institutions essentielles) against threats or use of force or sabotage, the effectiveness of which depend upon secrecy;
(iii)国土や重要インフラ又は重要な国家機関を、脅威または妨害工作や武力の行使から護衛するための具体的な手段に関する情報で、機密であることでその効果を発揮するも
の。
(iv) Information pertaining to, or derived from, the operations, sources, and methods of intelligence services, insofar as they concern national security matters; and
(iv)情報局の活動、情報源、手段に関連又は由来する情報で、国家安全保障の問題に関するもの、及び
(v) Information concerning national security matters that was supplied by a foreign state or inter-governmental body with an express expectation of confidentiality; and other diplomatic communications insofar as they concern national security matters.
(v)外国や政府間機関からとくに極秘を期待されて提供された国家安全保障の問題に関する情報、及び他の外交上のコミュニケーションで提供された国家安全保障の問題に関する情報。


 繰り返すが、国家は、こうした情報を国家安全保障上の問題と非公開にせざるを得ないということが、前提にあるからこそ、「ツワネ原則」が重要になる。
 日本の事例に戻ると、「秘密保護法案」というように一般的な呼称があるために議論が広がりすぎる傾向があるが、この法案は、日本国家の国家安全保障上必要とされる秘密をどのように扱うかということが原点にあり、むしろ、日本の国家安全保障上の状況が切迫してきたから必要性が増してきた。
 日本の国家安全保障上の状況との関連では、近いところでは今年の10月3日に東京で開催された日米安全保障協議委員会がある。通称「2+2」と呼ばれるが、今回は日本側からは小野寺五典防衛大臣及び岸田文雄外務大臣が,米側からはチャック・ヘーゲル国防長官(The Honorable Chuck Hagel, Secretary of Defense of the United States of America)とジョン・ケリー国務長官(The Honorable John F. Kerry, Secretary of State of the United States of America)が出席した。内容は「JOINT STATEMENT OF THE SECURITY CONSULTATIVE COMMITTEE」(参照)である。防衛省の試訳もある(参照)。
 関連するのは以下である。

情報保全
 情報保全の強化により、二国間の信頼関係は引き続き強化され、両国間の情報共有が質量双方の面でより幅広いものとなり続ける。閣僚は、情報保全が同盟関係における協力において死活的に重要な役割を果たすことを確認し、情報保全に関する日米協議を通じて達成された秘密情報の保護に関する政策、慣行及び手続の強化に関する相当な進展を想起した。SCCの構成員たる閣僚は、特に、情報保全を一層確実なものとするための法的枠組みの構築における日本の真剣な取組を歓迎し、より緊密な連携の重要性を強調した。最終的な目的は、両政府が、活発で保全された情報交換を通じて、様々な機会及び危機の双方に対応するために、リアルタイムでやり取りを行うことを可能とすることにある

 「2+2」の声明では概略が記されているが、日本の安全保障は、実質同盟国の米国との連携が欠かせないので、その軍事同盟上の「秘密情報の保護に関する政策」が必要になる。ごく簡単にいえば、今回の「秘密保護法案」は米国との軍事同盟の前提になるものである。
 まとめると、現下の東アジアの軍事的な状況において、日本の安全保障上、どの程度、同盟国と米国と軍事的な関わりを持つかということが問題の起点にあり、次に、その関わりの維持のために、日本の安全保障の秘密をどの程度強化しなければならないかという問題に派生する。
 現状の秘密保護法案だが、国会の過半数を得た自民党はかつての民主党のように強行採決でこれを通すこともできるだが、安倍政権はあえて国会の議論を優先し、ゆえに紛糾したかにも見えるが、まさに国会とは議論のためにあるのだから、東アジアの軍事的状況と米国との軍事同盟の意味を理解した上で、「ツワネ原則」に則った形で熟議を経て法案をまとめていくとよいだろう。
 残念ながら現状では、日本の安全保障という前提が意識されない廃案運動や、「ツワネ原則」から反れた議論(残念ながら日本の知識人に多く見られる)、さらには「ツワネ原則」よりも強力すぎる案(「外国からの情報」に限定する民主党案は強すぎる)などが錯綜している。
 
 

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2013.11.21

[書評]『ドライブ・マイカー』(『多崎つくる』以降の村上春樹文学)

 村上春樹の、長編というよりは中編作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』以降の作品はどのようになるのか。今月号の文藝春秋に発表された短編『ドライブ・マイカー』は、その点で非常に興味深いものだった。
 『多崎つくる』についてはcakesの『新しい「古典」を読む』(参照)のほうで書評を書いたが、独特の情感と倫理を基調にシンプルに描かれたようにも読めるし、初期作品のようなトリッキーな謎解き風の仕掛けは目立っていないものの、象徴と暗喩の構造が入り組んでいて、従来にない独自のパラレルワードが仕組まれているシュールレアリスム的な作品として難しい作品でもあった(リアリズムのなかにシュールレアリスムを埋め込む実験作品でもあった)。村上春樹文学の系列としては、彼の現状の中期的な作品である『国境の南、太陽の西』の、小説技法の一端を継いだ形になっている。
 この転機とも見られる中編的な『国境の南、太陽の西』自体もまた、表面的なシンプルさの背後に、村上独自のシュールレアリスムの装置があり、この点、あまり評論家などに読み取られなかったのか(もともと彼の作品は文化・社会現象として読まれる傾向が強く、作品自体の文学考察は存外に少ない)、彼自身が著作集の自著解説でそのヒントを出していた。
 この点についても、cakesの連載では触れたが、あえて触れなかったもう一点がある。ある意味よく知られてはいることでもあるが、この作品が『ねじまき鳥クロニクル』のバイプロダクツであることだ。シンプルに系として見ると『国境』から『ねじまき鳥』、また『国境』から『多崎つくる』という二系がある。前者が主題的、後者が技法的と見ることもできるが、彼の文学の独自の主要テーマが関連しており、むしろ技法はそれの道具立てとして現れてきたものだった。
 ではその、村上文学の「主要テーマ」とは何か。初期の作品でのその生態については、cakesで『風の歌を聴け』の書評以降の一連(参照)で扱ったが、象徴的には「直子問題」と言えるだろう。これが後期、特に、『国境』以降は独自の屈折をしているのだが、基本は、あまりこなれた言い方ではないが、「妻の問題」と言えるだろう。妻である女性の他者性、とでも言うようなものである。ややこしいのは、「妻」というと直接的には村上春樹の夫人が連想されるが、どちらかというと初期の「直子問題」の継承としたほうがよい。
 「妻の問題」は、作品系列に現れる最初のインスピレーション的な短編としては、その叙述から明白に、短編小説『パン屋再襲撃』収録の『ねじまき鳥と火曜日の女たち』があり、これが後の『ねじまき鳥』に発展している。
 『ねじまき鳥』は複雑な作品で、それ以前の村上春樹文学を集大成した趣きがある半面、当初期待されていた全体構成が崩れ、特に三巻が実質破綻した。このため、英訳では日本語オリジナルとは別の再構成が施されている。この問題をどう見るかが難しく、私などはこの「事件」を契機に長期に村上春樹の作品が読めない期間があった。
 私としては、『ねじまき鳥』の第三巻が失敗そのものだと見ていたのだが、『アフターダーク』以降彼の文学に立ち返って全作品を追い直してみると、すでに述べたように、原形が『ねじまき鳥と火曜日の女たち』であることから、むしろ、『ねじまき鳥』の主題が「妻の問題」と見てよく、むしろ、満州史などを挟んだ壮大な虚構の構築はその暗喩として見たほうがよいのかもしれないと、評価を改めつつある。
 いずれにせよ、『国境』以降に現れる「妻の問題」の行方は、『多崎つくる』のなかでも、シロとクロの線からも浮かんでいるとはいえるが、もっと直接的に肉薄する作品として、今後の発展があるのか不明瞭に思えていた。
 もう一点、補助を加えると『蜂蜜パイ』(参照)がリアリズムの形式で「直子問題」と「妻の問題」を継いでいるとは言える。その意味で、よりリアリズム的に(彼が後期に大きな影響を与えた日本の第三の新人の文学のように)、展開される新しい作品が登場するかという関心である。
 そこで今月号の文藝春秋に発表された最新作と思われる『ドライブ・マイカー』なのだが、その関心のど真ん中に当たる作品だった。非常に驚いた。
 まず気になることだが、文藝春秋ではサブタイトルに「女のいない男たち」とあり、それが次期短編集を予想させる点である。また、この短編作を読むとすぐに連想されることだが、初期に近い短編集『回転木馬のデッドヒート』(参照)に文章や展開の質が似ている。また、短編集『レキシントンの幽霊』の『トニー滝谷』にも質感が似ている。『トニー滝谷』もまた文藝春秋に当初発表され、後、短編集に含まれたので、今回の『ドライブ・マイカー』にもその期待がかかる。
 村上春樹文学観察の側からの接近ではなく、直接、この作品そのものとしてはどうか。先に述べたように、従来の村上春樹、どちらかというと若いか中年、それも40代くらいの語り手という装置から描かれているが、今回はかなり明瞭に50歳以降の人間の視点から描かれている。具体的には55歳と見てよいだろう。また第三の新人の文学のような、実際には極めて日本文学としては異質な文体の感触もある。
 結局のところ、村上春樹もまた60代後半を迎え、人生の、あるいは人間というものの、その関係性総体の奇妙な謎のようなものに向き合うようになっている。起点は20代の、原初喪失としての「直子問題」だったが、これが喪失を生きることが他者との共生となり「妻の問題」として成熟してきた。

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恋しくて
TEN SELECTED LOVE STORIES
 文藝春秋側としては編集の意図だけかもしれないが、紹介の煽りに「ラブ・ストーリー」としている。ラブ・ストーリーとして読めないわけでもない。ラブ・ストーリーの短編集として彼が最近編んだ『恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES』(参照)も、今年ノーベル文学賞を得たアリス・マンローの『ジャック・ランダ・ホテル』などもよい例だが、いわゆる日本人のラブ・ストーリーという思惑からそれている。あるいは、ラブ・ストーリーとはこういうものだということである。
 なお、この短編集『恋しくて』には、彼自身の書き下ろし『恋するザムザ』も含まれていて、その意味で、これらが次期短編集に再掲され、まとまる可能性はあるだろう。ただ、『恋するザムザ』がシュールレアリスム的な、どちらかと言えば知的な作品であるので、『ドライブ・マイカー』とはうまく調和しないような印象もある。余談だが、『恋しくて』では私などはシンプルにマイリー・メロイの『愛し合う二人に代わって』が面白かった。
 『ドライブ・マイカー』ではドライバーの女の子が特徴的に描かれていて、その発展にも、ラブ・ストーリーも予感させる。これがそのまま、長編に発展していく可能性もないではない。だが、そうなると、死んだ妻の時間の回想を組み込むことになり、また長編ではどうしても村上春樹お特異のシュールレアリスムが仕組まれるので、『1Q84』的な形態になりやすい。
 ただ、『1Q84』もまた17年後の未来を残した、喪失された時間があり、そこにもまだ未完の領域がある。
 今気がついたのだが、この作品の時間が現代であれば、主人公・家福が30歳だったのは1990年になる。現在を5年ほどずらせば、1984年時点あたりにもっていくこともできるだろう。またその時代からの連想から、家福の設定は『ダンス・ダンス・ダンス』(参照)の五反田君や『納屋を焼く』の「彼」にも重なる。初期作品に見られるような村上ワールド・クロニクルの後半を再構成しているのかもしれない。
 
 

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2013.11.20

年取って学んでも意味ないとも思うけど、学ばないと社会の害になりかねない。そこでお勧めの三冊なども。

 先日、ぼやっとツイートしたのだが、「年取って学んでも意味ないとも思うけど、学ばないと社会の害になりかねない」ということ。あとからぼんやりいろいろと考えた。
 まず、ネット的な文脈で言うと、誰かを批判するという意図はまるでない。つまり、あいつは年取って学んでないから社会の害だとか非難・糾弾する気はない。なにより、自分について思うことだ。
 もうちょっと言うと、僕なんかもいろいろ本や雑誌を読んだり、英語のサイトとか読んだりしているけど、基本、知的関心からで、さほど「学ぶ」という意識があるわけでもない。気になることは調べるかな、というくらいだ。ただ、その調べるかな、ということが普通の知的関心で済む範囲をちょっと超えるあたりで、「学ぶ」という感覚が起きる。普通に、高校生が「生物」や「地理」を学ぶというくらいの感覚だが。
 そこで、じゃあ、実際にそうして「学ぶ」ということをして、社会の害になるのを若干免れたかもしれないという実例はなんだろうかと、思い直してみた。
 いろいろ思うことはある。このところよく書いている筋トレとか語学とか。しかし、もうちょっと一般的な意味で、いわゆる知的関心の読書から、「勉強になったなあ」という部分に移行するような読書としては、具体的にどういうのがあるかなというと、ふと三冊思い浮かべたので、そういう文脈で書いておきたい。
 新刊書ではないし、ある意味、状況的に若干古くなっているのだけど、この三冊を読んで「学んだ」おかげで社会や世界をきちんと見ることができるようになったなという実感はある。たぶん、その分、社会の害にならずに済んだのではないか、とも。

1 「世界を動かす石油戦略」
 2003年に出た本なのでもしかして絶版かなと思ってアマゾンを覗いたら案の定、絶版だった。ただ、中古で1円から売っているし、たいていの図書館とかにもありそうだ。

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世界を動かす石油戦略
 この本で、なるほどなあと勉強になったのは、石油というのは、ありがちなコモディティだということ。いやそんなことは当たり前ではないかと頭では理解はするのだが、昭和32年生まれの私などは、若い頃リアルに石油ショックを経験しているし、日本が戦争に追い込まれた歴史などもよく聞かされたものなので、石油について、「油断」大敵的な考えや、米国石油メジャーがどうたらとつい連想してしまいがちだ。ちなみに、逆に言えば、先日cakesに書評を書いた山崎豊子『不毛地帯』(参照)などはつい心情的に理解できたりする。
 しかし実態はというと、OPECにも石油メジャーにも石油価格の価格決定権のようなものはないし、米国の石油の中東依存は低く、また今後、石油が枯渇して世界経済が困窮することもない。こうした悪夢のような幻想は本書を学ぶとすっと消える(別の問題意識は生じるが)。もっとも、この手の幻想を騒ぐ人には独特の雰囲気があって、それだけでちょっと引いているものの、関心の片隅くらいには置くといった負担もなくなる。
 本書出版から10年経て、現状はどうかというと、状況は多少変わりつつあるし、リビアの石油の特殊性やアフリカの石油資源といった問題もあるが、本書の基本的な枠組みが変わるわけでもない。この10年間、本書の指針で世界を見ていくとけっこうすっきりとわかったし、その延長から理解できたことも多かった。
 本書の考え方の延長から、現下のシェールガスやロシアの極東開発なども見えてくる部分もある。これらの問題もすっきり見える書籍があるとよいのだけど、あまり知らない。特に、今後北極海航路がエネルギー戦略にどう影響があるかなど、中露関係と絡めて知りたいが、良書は知らない。
 いずれにせよ、今読んでも本書は良書だし、この本を読んでないで、変な幻想をばらまいて社会の害になっている老人は多いなあと思うことがある。

2 「アジア三国志」
 著者のビル・エモットはそれ以前からフォローしていた論者だが、本書が出た2008年には随分と野心的な作品だなと思った。内容はというと、表題が暗示するように、これからのアジアの力学は、日本・中国・インドを中心に経済・軍事面で動くということだ。ちょっと蛇足的にいうと、韓国は基本的に雑音でしかない。困った雑音や道具にはなりうる。北朝鮮は軍事的な意味より、現下のシリアなどと同じで国際ルールと人道問題にはなりうる。

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アジア三国志
 本書が出た2008年時点ではまだ中国の軍事的な海洋進出が明確ではなかったが、各種の動向は本書のフレームワークできちんと説明できた。また日本政府が軍事面で長期的に何を意図しているのかもよくわかったし、民主党政権がその点で旧来の頭脳のまま壊滅的な道を進んでいることもわかった。まあ、これらも社会の害の部類だなあと傍観していた。
 インドについては、浮沈は大きい。現状は沈静している。また、日本ではほとんど報道されないが、中印の軍事緊張はこの間、けっこうあった。ただ、両国ともけっこうきっつい状況になるとそれなりに緩和に乗りだし、特に李克強はいい仕事をしている。このあたりの中印の交渉などは、日本ももっと注視すべきだが、日本のジャーナリズムの意識は薄い。あと、日本がうっすら抱くインドに対する親和感は甘すぎるかなという印象はある(核やミサイル問題も)。
 いずれにせよ、そうしたリアリズムや全体フレームワークを見る面で、未だ本書は必読書と言っていい。多少情報が古くはなっているし、震災と民主党政権で思わぬ弱体化をくらった日本が想定外だったというのはあるもの、現在のほうが出版当時より理解しやすい。

3 「日本経済にいま何が起きているのか」
 2005年の出版なので絶版になっているかと思ってはいた。これも案の定絶版だった。著者は現在日銀副総裁ともなった岩田規久男である。当然、リフレ論なのだが、高橋洋一などのリフレ論とは違い、また他の岩田の書籍とも違い、リフレ論を高校の教科書のように懇切に説明している。表題を見ると状況論のような印象を受けるが、きわめてシンプルな書籍である。そこが良かった。

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日本経済にいま何が
起きているのか
 本書が良書かというと、いろいろな評価があると思う。また、専門スジからはそれなりの実証的な批判もあるだろうと思う。
 自分にとって良書だったのは、リフレ論については、20年前くらいのクルーグマンの論調などの影響もあって、けっこう相対的に見ていた自分だったが、本書を丹念に追っていって、そのシンプルな説明でけっこう腑に落ちたことだった。
 安倍政権になってから、リフレが日本経済の突然主役に乗りだし、当初は珍妙な批判が目に付いたが、時が経つにつれそうした初期の珍妙さは減少したものの、状況論的な暫定的な是認のような議論が多くなってきた。これは、実はけっこう危ういなと思っている。露骨にいうと、安倍政権への敵意からせっかくのまともな金融政策までおじゃんにするような政争のトリックが仕掛けられる可能性はある。もちろん、安倍政権を単に支持するわけではないが、現行の金融政策はせめてあと一年は継続してほしい。雑音が起きて、状況が変わると、状況論的な暫定的な是認はすべて逆流するので、そのあたり、流されるのではなく、基本のリフレ論を理解しておくほうがよいだろうと思うのである。これは、リフレ派が正しいとかいう次元の話題ではないが、まあ、私などもけっこう誤解された。
 本書もかなり古くなっていて、その後の米国FRBの動向の意味などは十分に反映されていない。なかでも、次期FRB議長に指名されているジャネット・イエレンはリフレ派の基本をさらに労働市場の観点から見ている人なので、むしろ、そうした視点での、本書の延長のようなシンプルな解説書があれば、読んで学びたいと思う。こんなことは初歩の初歩だと識者からは笑われそうだが、シンプルな説明で腑に落ちるというのがとても大切なことだと思う。
 蛇足がてらにいうと、こうした基本もわからずに、日本経済の成長だとか企業の生産性だとか、奇妙の煽りを盛り立てては社会の害になる議論は、ご勘弁してほしいなあと思うのである。
 
 

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2013.11.19

20代でも脳年齢が50歳!? いや、20代と50代と脳はそんなに変わらないし、体型もそんなに変わらないよ。

 ブログがお留守になったので無駄話でも。
 で、オバマケアの頓挫でオバマ大統領もついにレイムダックかってな話もどうかと思うし、シリア情勢やエジプト情勢などは以前の予想からさして大きな変化もない。リビアもひどいまま。イラン核問題はあまり期待していない。フィリピンの台風は大変だったなあというのもあるけど、特に言及することもない。
 さて無駄話だが、先日、Woorisというサイトで「20代でも脳年齢が50歳!? 脳にダメージを与える10個の悪習慣」(参照)というネタを見て、ちょっと思ったことがあったのだった。
 僕は56歳なんだが、20代と50代と脳はそんなに変わらないし、体型もそんなに変わらないんですよね。
 元ネタは体型についての話題ではないけど、そっちでは、20代前半のころは55kgだったかな。身長は171cmあるので、BMI18.8。たぶん、痩せている部類だっただろうと思う。そのころいたガールフレンドも、僕のことを痩せていると見ていたと思う。30代に入ってどうかというと、57kg。少し増えたといえば増えたが、まあ、それでもBMI19.5。まだ痩せているほうだし、そう見られていた。
 一時期、マクロビオティックをやって52kgくらいになったことはある。即身成仏というか釈迦の苦悩図みたいな身体になった。いろいろあって、そういうのも行きすぎだなということで55kgから57kgくらいに戻る。
 その頃、父親が死んで急遽喪服を作ったおり、叔父がこれから中年になると太るから太めの礼服にしときなさいと言われ、だぶっとしたのを作ったが、さほど体型は変わらず。
 沖縄に移住したら、げ、10kg太りました。自分でもこりゃなんだと思った。さすがに中年かあと。ところが意識していると、62kgに戻り、そのくらいで中年体型が落ち着いたかなと思ったけど、この初夏から筋トレ・有酸素運動とかしていたら、58kg。そこから筋肉が多少ついて現在59kgといったところ。
 BMIで見ると、だいたい30代に戻った。
 一時期を除けば、20年くらい前のものでも普通に着られる。もっと30年くらい前のものでも着られる。ただ、体型はちょっと変わって、20代30代のころは大腿筋が太かったが、これは40代後半から痩せてがっかり。あまり戻らない。筋トレでは上半紙にちょっと筋肉が付き、特に肩筋が付いたので、ナチュラル肩パットで服が着やすくなった。
 うだっと書いてしまったが、20代の体型は50代になっても、それなりに維持できるもんだった。
 体型は変わらないが、相貌は爺になった。それはけっこう自覚している。そこは頑張ってメイクしようとかいう気はない。そもそもアンチエージングとか関心ない。
 体力はどうかというと、これも面白いなと思うのだけど、筋トレしたら、力が出るようになった。20代もへなちょこだったから、現在のほうが力が出るんじゃないか。持久力もそれほど変わらないような気がする。ただ、疲れやすさみたいのはあるし、若いときのような深い眠りはない。余談だが、試しにグリシン3g飲んだら、眠りは深くなった。これが健康にいいかわからないので継続はしていない。
 さて、脳はどうかというと、これが意外にボケない。
 特に40代くらいのころは、あれ、年取ってもあまりボケないものだなと思って変な感じがした。さすがに50代後半に入って、ちょっとボケた感じがしたので、チェックがてらにフランス語にチャレンジしているのだが、実感として、どうもボケてない。20代のころにフランス語を学んだ能力より、若干増しているような感じがする。
 他、読書などでも脳が衰えたということは特にない。徹夜して読書ということはなくなったか。文章を書く点ではたぶん能力は向上している。数学は読むばかりで実際に数式とか使わなくなったので、衰えた感はあるが、どうもこれもただ習慣っぽい。
 もっとベタな脳の能力はどうかなと、このところ『ZOO KEEPER』(ズー キーパー)をよくやっているのだが、こんなものでもやっていると能力が向上して、園長さんに褒められることもある。その他、べたなゲームもやっているとそれなりに能力が向上してきて、年齢的な限界というものでもない。ちなみに、『ZOO KEEPER』をやると脳の疲れが取れる感じがする。やっていると一種、無心の境地になるみたいだ。
 視力はじわりと衰えている。よくネットでも老眼、爺、とか言われるが、なぜそう言われるのか理解できない。老眼はほとんどないからだ。近眼と乱視。聴覚は残念ながら衰えた。たぶん、これは持病のせいだろうと思う。すごく残念。それでも、ある種の音は普通の人より聞きわけれるんじゃないかなと思うことがある。
 まあ、自分は50代になっても20代のころと変わらないことが多い。
 えっへんとか言いたいわけではない。
 自分で、なんだか、変わらないものだなあとむしろ変な気持ちでいる。
 感性はどうか?
 若い人と感性は合わない。「進撃の巨人」とか「キングダム」とか愛読しているが、「黒子のバスケ」とか、面白くない。「ファイブレイン3」はそれにかかわらず面白くない。ぷんすか。
 そのあたり、年寄りに見られるかもしれないが、これはどうもただ世代の差みたいな感じがしている。僕が20代・30代のころの文化と現在の文化が違うという差なんじゃないか。とはいえ、そう若いころの文化に愛着があるわけでもない。というか、70年代、80年代カルチャーは、き・も・い。
 話を戻して、Woorisというサイトで「20代でも脳年齢が50歳!? 脳にダメージを与える10個の悪習慣」というネタだが、これって英語サイトのネタをぱくったものらしい。
 変な気がしたのだ。米人は「20代でも脳年齢が50歳!?」といった発想はしないんじゃないか。
 ということで、同サイトにはリンクがなかったのだけどちょっと元ネタを調べたら「The 10 Best Ways to Damage Your Brain」(参照)というサイトだった。
 読んでみると、20代とか50代とかいう話は一切ない。ただ、単純に「脳にダメージを与える10個の方法」というだけのこと。つまり、Woorisというサイトの人は、脳にダメージを受けたのが50代なのだという解釈を押しつけたわけだ。
 いや、怒るというのじゃなくて、たぶん、その人、50代のことを知らないなんだろうなと、かく思った。
 その元ネタの「脳にダメージを与える10個の方法」だが、これ。Woorisと元ネタを並べてみた。


(1)朝食をぬかす(Skipping Breakfast)
(2)食べ過ぎ(Overeating)
(3)タバコを吸う(Smoking)
(4)大量の糖分摂取(High Sugar Consumption)
(5)大気汚染(Air Pollution)
(6)睡眠不足(Sleep Deprivation)
(7)頭まで布団をかぶって眠る(Cover Your Head While Sleeping)
(8)病気の時に頭を使う事(Working Your Brain During Illness)
(9)刺激不足(Lacking In Stimulating Thoughts)
(10)あまり人と会話をしない(Talking Rarely)

 9の「刺激不足」は「知的な刺激不足」としたほうがいいかもしれない。
 これらのリストだが、常識的にそうだろうという他には、さほど医学的な根拠はないんじゃないか。
 自分の経験からすると、脳にダメージを与えるのは、アルコールだろうと思う。適度ならアルコールなら健康によいとも言われるし、ストレスが低減されるというメリットもあるだろう。というわけで、人は酒を飲むのだね。僕は自著(参照)にも書いたけど、やめました。
 もう一つ、経験的に思うのは、知的関心に加えて、美的関心の欠如というのがありそうな気がする。
 まあ、そんな気がするというだけのことだけど。美しい物、美味しい物とか、そういうのに触れてないと、なんかずぶずぶ沈んでしまいそう。
 

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