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2013.09.28

バレエ風ラジオ体操が面白い

 ラジオ体操をしていてやだなあと思うことが二つあって、一つは、号令。なんか軍国主義的なおっさんの声で号令が入っているじゃないですか、ラジオ体操。これが、ぐへえ。
 僕の性向の問題かもしれないけど、他人から自分の身体を動かす命令を受けるのが、そもそも、極度に嫌なんですよ。ただ、これは言ってもしかたないし、社会生活で他人との協調を乱してまで、自分のそういう性向を主張したい気はさらさらないので、たいていは黙って、言われたとおりにしています。でもなあ、起立、礼、着席、とか、おぇっ、おぇっ、おぇっ、という感じです。
 自分一人でラジオ体操するときは、やっぱり、号令は止めて欲しい。実際には、命令ではなく、「前回しぃ」とか名詞形だけど、「前回しせよ、おらぁ」であるわけで、嫌だ。
 でも、回避可能。だったら、回避しよう。回避方法は二つ。簡単なのは、号令の入ってない伴奏だけというのがある。まあ、それでいいかなということなんだが、その話には続きがあって、後ほど。
 回避方法のもう一つは、号令が、笑えたらいいんじゃないの。調べてわかったのだけど、ラジオ体操の号令が、方言とか英語とかイタリア語とかいろいろ、あんのな。

 英語の声は、ぱっくん。個人的にはイタリア語がけっこういいなと思った。
 この手のバリエーション、でも、ほとんどが、ネタなんで、ラジオ体操第1しかなない。第2まできちんとないと、やる気がしないなあ。
 それと号令が、ウチナーグチやイタリア語であるのはいいとして、ピアノが美しくない。というか、ラジオ体操の伴奏の曲が美しくない。なんとかならないのか。探すと、リミックスとかもあるんだけど、これが、だせー。
 ラジオ体操がいやだなあと思うのは、伴奏曲が美しくないこと。
 ってなうちに、めっけてしまいましたよ。バレエ版ラジオ体操。

 これは、ええ。

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西島千博
バレエ・ストレッチ
[DVD]
 もう即買いましたね。正確にいうと、ITMSで動画だけ、第1と第2がもちょっと安価に売っている。
 どうか。結論からいうとその動画だけでもいいのだけど、いやもっと結論からいうと、DVDのほうがいい。このDVD版、二枚組になっていて、もう一枚は音楽CD。こちらに、ピアノとバイオリンの伴奏だけの音源が入っている! これがよかった。
 メインはDVDの映像。西島千博のラジオ体操。これが、美しい。
 最初見たときは、そのネタ性に笑ったけど、さらに見ていると、実に正統。手足の細かいところから完璧なバレエじゃないですか。
 あと、僕にはそういう趣味はないのだけど、いや、ほんと、ないんだけど、いやいや、疑わないでくださいよ、オープニングに出てくる西島さんの上半身裸身の肉の付き方が、これまた美しい。鍛えられた手足と肩、背筋に比して、大胸筋のなさで、あばら骨がぐっと浮かび上がるところが、美。自分も、30代のころ、こういうのが理想だったし、基本的な肉の付き方は彼と似ているのだけど、残念ながら私は昭和型人間なので手足が短い。
 DVDには、もちろん、第1と第2が入っているのだけど、率直に言うと、いくら美しくても、これは、ネタだなあ。動きは完璧すぎるし、練習にも使えない、から。
 そのあと、バレエの基礎トレーニングの動画も入っていて、これが普通にきれいというか、プリエ、タンデュ、デガジェ、など、基本の動きと解説がある。これは、いい。うっとりしてしまう。願わくば、これらの基本が、ラジオ体操、第1と第2にどう反映されているか分析的な説明があるとよいんだが、それは、ない。もちろん、個別に体操の説明はあるけど。
 30代のころ僕もバレエをやりたくて、アメリからその手のワークビデオを取り寄せたりもしたけど、こればかりはきちんとレッスンしないとダメで諦めた。友人宅近くに、個人バレエ教室やってる大きな家があって、夏場、通りがかりでもちょっとレッスン風景が見えることがあるのだけど、どうも小さい女の子ばかりで、そこにおっさんがいたら変態ですよね、というのと、バレエの原形から派性したオイリュトミーのほうをしていて、現代バレエにちょっと疑問もあった。遠い目。
 それでも、バレエはいいなあ。糸川英夫先生は60過ぎてバレエやっていたのだから、僕も努力すればなんとかなるんじゃないとは幻想するんだけど。遠い目。
 話をラジオ体操に戻すと、このバレエ風、見る分にはいいけど、実際にするのは難しい。でも、さっきも書いたけど、音源のほうは普通にラジオ体操に使える。ピアノのメロディの基本は変わらないけど、アレンジがエレガントだし、牧山純子さんのヴァイオリンが美しくて、救われる。朝一番のラジオ体操はこれですよ。
 実際に聞けばわかるけど、このアレンジはオリジナルに比べると、少しテンポが遅い。もともと、ラジオ体操のテンポって速すぎないかと思っていたので、これも満足。遅すぎるということはない。ただ、慣れないと体操の種類によっては、ジャンプとかね、リズムが取りづらいかもしれない。
 ラジオ体操でなくてもいいから、10分くらいでバレエの基本になるような動的ストレッチで美しい伴奏の体操っていうのはないものかなあ。
 
 

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2013.09.25

朝食を抜くと痩せるかとかなんだかんだ

 今週の日本版ニューズウィークに「要注意!証拠なき朝食信仰のワナ」という面白い記事があった。面白いというのは、その邦題の内容とは、実は、それほど関係ない。つまり、朝食を取るべきか抜くべきかという話題として読めば、それほど面白くはない。というか、僕にはさほど関心ないのこと。
 とはいいつつ、多少その記事の冒頭に関連していうと、そもそも「朝食を取るべきか抜くべきか」は何に対してなのかというと、暗黙に「健康のため」が想定されている。が、その「健康」がやや曖昧である。もうちょっとざっくばらんに言うと、痩せようとして太った人が朝食を抜くのは、痩せることを介して健康が意味されるのか、痩せるとは直接の関係なしに健康が意味されその結果痩せることもある、みたいな話なのか。うへえ。それはさておき。
 面白かったのは、医学研究の扱い方である。記事にもあるように、「朝食を取るべきか抜くべきか」という研究の大半は、健康のためには朝食は取ったほうがよいという結論が出ている。肥満との関連でいっても、肥満予防のためにも、朝食は取ったほうがよいともされている(参照)。朝食を取ったほうが痩せるという調査もいろいろある(例えば参照)。じゃあ、それで、いいんじゃないの? 朝食抜くなよ、とか。
 ところが、これほどこってりある調査研究の信頼性が疑問視されたというのだ、その記事。どっかの国の医薬品承認過程みたいな問題かというと、それがそういうことでもない。捏造はない。朝食を抜くことと体重の増加には、明確な相関関係がある。じゃあ、何が問題だよというと、そうです、相関関係は因果関係ではないということ。
 でも、そんなことは当たり前すぎて、この手の研究者たちだってわかってたったんじゃないの? というと、そのあたりからが面白いのだ。
 切り込み口は米国臨床栄養誌の記事(参照)で、過去の研究を、研究の意図と結果の点でメタアナリシスをしたところ、「朝食抜きは太る」という見解が調査結果に影響を与えていたらしい。
 その具体的な意味合いは要約からは読みづらいので、先の記事をなぞると、朝食抜きと肥満の相関は1990代初期から1998年代には明らかだったのに、研究者は以降も同じスキームで研究を繰り返していた。因果関係を主張したいなら、二重盲とはいかないにせよ、無作為に選んだ被験者を二群に分けて対照研究をすればよいのだが、そういう研究は少なかった。記事では、その実験がされなかったのはコストがかかるからと続くが、いずれにせよ、そういうスキームが少なく、わかりきった結論が繰り返されてきた。記事ではそれは、自己予言になるのではないかと疑念を投げている。つまり、スリムになりたい人が朝食を取りようになり、仮説に合う標本が増える。ちなみに、ネットでは血液型性格学は偽科学とよく言われるが、山岸俊男の書籍にあったが、日本人くらいこれを信仰していると自己予言的に成立してしちゃい、統計的に相関が出てしまう。
 記事ではそれから、数は少ないものの対照実験をしたらどうだったかに言及していて、これはちと笑える。朝食を抜くと体重は、減った。
 もちろん、十分な数の対照研究がないので、それが科学的な真実だとまでは言えない。邦訳記事の表題はそのあたりを狙っているようだった。
 でも、そもそも、わかりきった相関の出る研究を延々と繰り返しているのはなぜかというほうが、興味深い。
 オリジナル記事はどうだろうか。探したら、スレートにあった(参照)。予想していたように、邦訳記事と比べると、結構抄訳になっている。でも、省略と重点に差はあるものの、以上の話の大筋まで違っているというものでもなかったので、まあ、いいか。
 ただ、抄訳になくてオリジナルにあった、「The pro-breakfast lobby has only gotten stronger in the past few months. 」という文章は印象的だった。「朝食推進派がやっとこの数か月強化している」というのだが、ようは、「朝食推進ロビー」なるものがあるわけね。なるほ。
 ちょっと粗雑にいうと、「朝食推進ロビー」が要請している研究が繰り返されるというか、科学という箔が付くわけだ。研究費との関連まではどうかよくわからないが。
 そもそも「朝食推進ロビー」なるものがなぜ存在しているのかというと、米国の場合、朝食がパッケージの商品化されているからだろう。
 ちょうど最近、そんなことを僕も考えていたのだった。近所にちょっと大きめの食品店が出来て、やたらとイージーな食い物が多いわけですよ。簡単にヘルシーな朝食いろいろみたいなものも。
 みなさん、こういう朝食をしているんだろうなと。これが一定以上広まると、「朝食推進ロビー」みたいなものが出来てもおかしくはないだろうな。
 ちなみに僕の朝食は秋にはいってからは、スロークッカーで作ったミネストラベースです。BMIは20.7くらい。
 
 

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2013.09.23

そういえば、ラジオ体操というのがあったな

 筋トレや有酸素運動のついでにストレッチもしている。だが、ストレッチが身体によいのか確信が持てないでいる。
 先日、クランチがよくないという話を書いた。書いてからやっぱり書かないほうがよかったかと悔やんだ。ストレッチもしないほうがよいという話題が欧米にあるが、これも書かないほうがよいかもしれない。どうだろうか。私が知らないだけで、日本でもすでに常識化しているのだろうか。ちなみにサッカーをしてた学生に聞いたら、ストレッチではなく、「ブラジル体操」してたとのこと。
 少し触れておくと、2002年に「英国医学誌」に掲載された研究に「運動前後のストレッチがもたらす筋肉痛とケガのリスクへの影響」(参照)があり、結論は引用先を見てもわかるように、筋肉痛の軽減にもならないし、ケガの予防にもならない、ということだった。その後の研究もある(参照)。複数の研究からも概ね否定的(参照参照PDF)。
 ストレッチはしないほうがいいのか。この話題を扱った以前のニューヨーク・タイムズの記事(参照参照)では、静的なストレッチではなく、動的なストレッチがよいのではないか、という方向に話を向けていた。そのわりにその主張もそれほど実証的ではない。最近の研究では、動的ストレッチでも筋肉の力の弱化をもたらしそうである(参照)。

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Full-Body Flexibility
 一般的な指針としてはどうなのだろうかと、網羅的にストレッチ技法が書かれていることで定評がありそうな「身体全体の柔軟性(Full-Body Flexibility)」(参照・Kindle)を読んでみた。結論からいうと、前のほうでかなりしっかりと運動前の静的ストレッチはやめなさいという議論があった。もちろん、ストレッチは運動のパフォーマンスやケガ軽減だけが目的ではないが、デメリットの部分もかなり明確に書かれているものだなと思った。実際、掲載されているストレッチのレパートリーも動的ストレッチが少なくない。どうも、米国では現代ではストレッチというと、動的ストレッチのほうが主流になっている印象がこの本から受け取れる。
 でだ。その動的ストレッチを見ていて思ったのだ。これって、日本のラジオ体操じゃないのか? ラジオ体操は、動的ストレッチだったのか。
 30代のころ、ヨガやフェルデンクライスに凝った話は自著『考える生き方』(参照)にも書いたが、他に、野口体操とかも少しやっていた。実際に野口三千三先生に教わったこともある。野口先生の本も読んだし、関連の本なども読んだが、その野口体操は、いわゆる体操――つまりその代表的なのがラジオ体操なのだが――を批判して形成されたものだった。逆に、ラジオ体操については、ミュラー体操を起点に出来たものだった。
 ミュラー体操を、解説したミュラー(Jørgen Peter Müller)自身による、1904年の著作「我が手法(My System)」は、当時、欧米で大ブームとなり、フランツ・カフカもその心酔者だった。
 ミュラー体操はロンドンをベースに教習され、英米圏に影響を与えたらしい。当然日本にも影響を与えたと思われる。が、同書が日本語に翻訳されていたかはよくわからない。なお、ラジオ体操の具体的な直接起源はよく知られているように、米国メトロポリタン生命保険会社が保険業のために考案して、1925年に広告放送とした「運動をしましょう(Setting up exercise)」である。
 ちょっと調べたらミュラーの翻訳書はパブリックドメインになっていた(参照)。驚いたことにオリジナルのミュラー体操を60年継続している人もいるようだった。実際にミュラー体操を見ると、ラジオ体操よりもピラティスに似ている印象がある。ユージン・サンドウを含め、この時代の古典ギリシア志向の身体訓練観は興味深い。

 話題が反れてしまったが、ようするに、動的ストレッチとしてラジオ体操を見直してもいいんじゃないのかと思って、ITMSから「ラジオ体操」の音源を買って、久しぶりにラジオ体操をやってみた。
 驚いたことに、覚えている。第2もできる。で、もうひとつ驚いたことに、できるとはいっても正確なやりかたなのか、まったく自信がない。きちんとラジオ体操というのを学んだことないのだ、気がつくと。

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DVD付き
もっとスゴイ!
大人のラジオ体操
 では、きちんとしたラジオ体操の解説書とかDVDでもあるだろうかと探すと、あった。あるもんだなあ。「DVD付き もっとスゴイ! 大人のラジオ体操 決定版」(参照)である。読んでみると、自分が大きく勘違いしている部分はなかったが、細かい点では、けっこう、へえと思えることはあった。なにより、この本、最初からラジオ体操を動的ストレッチとして位置づけていたのである。それぞれ個別の体操の分析まで載っている。
 というわけで、でもないが、ラジオ体操もすることにした。第2を合わせて6分半。大した手間かからないし、場所とらないし、「身体全体の柔軟性」の本にも書いてあったが、それなりにきっちりすると、適当に心拍も上がる。
 それにしても、ラジオ体操かあ。いろいろ身体技法とか関心もってきたけど、まさか、こんなところに行き着くとはなあ。河童もラジオ体操しろよぉ。
 
 

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2013.09.22

[書評]明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち(山田詠美)

 死という不在を軸に紡ぐ物語は存外にたやすいものだし、「明日死ぬかもしれない自分」という自意識は、ぐっと死に迫るときの本人にはリアルなものであっても、他者にとってそれほど意味のあるものでもない。とすればそのモチーフ自体は陳腐な大衆作品にしか導かないのだろうとも思いつつ、通販カタログでも連想させるような「美しい」装幀に潜む、なにか歪んだ不在に心惹かれて読んでみた。山田詠美らしく繊細で美しく、いつもながらの他者の肌触りを感じさせる物語だった。詠美さんもきちんと歳を取ったなとも思った。

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明日死ぬかもしれない自分、
そしてあなたたち
 短編連作として全四章をそれぞれ分けて読むことも不可能ではない。第一章は姉、第二章は次兄、第三章は妹、第四章は家族。家族の物語ではあるが、長兄である澄生は17歳のときに不慮の死を遂げて不在。その不在の感触が、母の心の病を通して語られる。アルコール依存症を心の病というのは正確ではないかもしれないが、多少なりとも身近に患者を見てきた人にとっては、本書の描写はずいぶんと正確なものだなと感じられる。
 物語は、優雅でもあった母親が最愛の長兄を17歳で失ってアルコール依存症となり、残された三人の弟妹と再婚の父親による家族が次第に崩壊し、また再構成していく過程を描いているとも言えるが、著者の冷ややかな視線に逆説的に救われているように、それは同時に、ありがちな不幸によってひとりひとりの人間が、普通に傷つき、成長していく過程としても読める。家族と親、あるいは家族と子という関係が、家族の親密性を保ちながらも個人になっていく内面の動きが、きわめて上質に描かれているのは、他者という存在そのものが、愛おしくもあり憎悪の対象でもありうる透明な知覚を、この不幸な家族というあいまいな境界のなかで、あたかも小説実験のように純化したからだろう。
 割り当てられた章ごとの弟妹によるそれぞれの「私」の支点は、山田詠美の才能のすべてを活かして描き分けられていると思えるほどの成熟さを感じさせる。基本的に傷つきやすい繊細な人の内面しか描けない彼女だが、そのはかなさのなかで可能なかぎりの他者の視点を、巧緻な数式のように三つに分解しているのも興味深い。しかも、結局のところのその弟妹でもあり他者たちでもある視点は、弟妹それぞれが大人になっていく副産物のようなそれぞれの恋愛の内面性を迂回して、病む母に集約して注がれる。母は、54歳。作品のオリジナル連載時に換算すれば、作者・山田詠美自身を模している趣向だとわかるが、そうした文学的な洒落よりも、母に向けさせるその弟妹の視線によって、彼女自身の内面を巧妙に表現している技法が面白い。病む美しい母の内面は、子どもたちの対話のなかで断片的に吐露されるが、その間接性によって母という他者の感触を維持している。あるいは読者は気がつくはずだ、母の内面の独白が禁じられていることを。この小説に描かれる「死」は、人の死というものの本質に根ざすものというより、この母の独白の禁制に対する装置として機能している。
 章ごとの短編は、円熟した筆致で静謐な哀しみを響かせつつ、読者によっては緩急ある涙を誘うかもしれないが、そうした感情的なカタルシスは、まるで老練シスターのようにいつも希望を語らずにはいられない作者の倫理のなかで可能なかぎり抑制されている。と同時に、倫理は静かにではあるが、これも山田詠美らしく、想定される終局に向けて加速される。その速度は大衆小説的にも感じられる。しかし、この倫理性もまた文学というものの本質の一つだろうし、そこには忠実に人生を過ごして54歳になった一人の表現者としての女の生き方が刻まれている。
 ただ、できれば愛よりももっとエロスを描いてほしかった。死に酔わせるエロスではなく、他者の質感のなかで孤独に狂おしいような、エロスを。その糊代は十分にあった小説だからである。
 
 

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