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2013.06.06

米語発音の実態。"Mary/merry/marry"の違い知ってますか? 「ねーよそんなもん」がほとんど正解。

 英語の発音の話。いや、正確にいうと英語じゃなくて、米語。で、ああ、また発音の話かよ、でもあるんだけど、いやこれがなかか面白くてね。今回のネタは、米国人でも米語の発音は地域でけっこう違うよという話。そうまとめると、そりゃそうだよね、くらいなんだけど、これが具体的になると、ほほぉ、という感じがするのだった。
 具体的な話で行きましょうか。似たような発音の3つの単語がある。これだ。"Mary/merry/marry"だね。この3つの単語の発音の違いわかりますか?
 意外と日本人だとわかっちゃうと思うのだけど、あえてカタカナ風にいうと、メアリー/メリー/マリー、とかかな。
 で、米人はどうよ?
 答えは、ほとんどの地域で、この3つの単語の発音は同じ。ほとんどって、どのくらいかというと、この地図の赤の部分。

 でも、東部のニュージャージーとかは緑。ここでは、"Mary/merry/marry"の3つの単語の発音は違う。その西に接するペンシルベニアだと"Mary/merry"は同じで、"marry"は違うらしい。
 でもまあ、この地図見たら、"Mary/merry/marry"は同じ発音でもいいやあ、ってことになりそうだ。
 ほほぉと思うでしょ。いや、僕は思ったのだけどね。やっぱそうかあというか。
 ありゃあ、と思ったのは、曜日の、Monday/Fridayの最後のdayのところの発音ね。あれ、僕は大学のときの発音矯正の授業で、ええとカタカナ風にいうとですね、「マンディー/フライディ」って直されたわけですよ。でも、米人の発音聞いていると、それほどそういう発音が多いっていうことはない。「マンデェ/フライデェ」でえんじゃないかと思うようになっていたのだけど、これ見ると、やっぱそれでいいみたいだ。

 外来語の「マヨネーズ」、スペリングは"mayonnaise"。これなんかの発音も米国で割れている。というか、南部だと2シラブルで、カタカナ風にいうと、「マネーズ」になるようだ。外来語はなあ。しかたないな。
 発音以外に言葉の使い分けの話もある。これもまた面白い。
 辞書なんかだといろいろ書いてあるし、一言ある人の多いのだけど、あれですよ、supperとdinnerの違い。
 日本人だと、カタカナ風にいうと「サパー」というのは軽い夕食で、「ディナー」はきちんとした食事というふうに説明しちゃうんじゃないだろうか。僕なんかもそうだったんだけど。
 実態はどうかというと、太平洋岸だと「サパーなんて言葉使わない」というのが大半。中部から東部の大半は、「違いなんかないよ」である。ところがサウスダコダあたりだと、「サパーは夜食でしょ」である。

 ほかに、炭酸飲料の呼び名とか、けっこう地域で違うなあとか、まあ、いろいろ思いました。っていうか、これ、高校の英語の授業とかで活用したらいいんじゃないか。いろんな例が122個もあって、本にしてもよいくらい。
 ネタ元は「方言調査の結果(Dialect Survey Results)」(参照)。調査したのは、ジョシュア・カッツさん(参照)。
 
 

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2013.06.04

[書評]フランシス子へ(吉本隆明)

 まさか吉本隆明が最後の最後にこんな傑作を残していくとは思わなかった。晩年のテレビ講演などを見ると、もうほとんど惚けているとしか思えない恍惚感まで浮かべていて、死ぬ前から著作物はもう期待されないだろうと思っていた。それがまさかのまさか。

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フランシス子へ
吉本隆明
 亡くなる三か月前までの肉声を伝える、この本、「フランシス子へ」はすごかった。老人惚けのような語りと極限まで押し詰められた思念が一つの純粋な言語の結晶となっているのだ。語りがそのまま詩になっている。
 吉本さんがこんな白鳥の歌を残していたんだと、読みながら、涙があふれてきた。それでいて、可笑しくて、笑いもこぼれる。こんな本ってあっただろうか。
 タイトル、「フランシス子へ」というのは、「フランシス子」と名付けられた猫(ばななさんが命名した)の死に捧げたものである。吉本さんの死に先立つ九ヶ月前のことだった。16歳4か月だったという。猫としては高齢の部類では入っていただろう。吉本の傍に寄り添って、そのまま死んだのだという。

 フランシス子が死んだ。
 僕よりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。

 一匹の猫と一人の人間が死ぬこと。

 どうちがうかっていうと、あんまりちがわねえって感じがします。
 おんなじだなあって。
 どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまう。


 愛猫ということだが、猫好きの吉本隆明がこれまで多数の猫と過ごしたなかでも、まるで自分とまったく同じじゃないかと思えるほど、心が一体になってしまった猫だったという。それでも普通の猫だったとも言う。

 とりたてなんにもいいところがねえよっていえば僕自身がそうだったわけで、そう思ってあらためて思い出してみると、痩せた体も、面長な顔も、自分とそっくりだったという気がしないでもない。


 僕は、自分の子どもに対してもそういうかわいがりかたはしたことがなかったと思う。長年連れ添った夫婦であっても、ここまでのことはないんじゃないか。そのくらい響きあうところがあった。


 もう、この猫とはあの世でもいっしょだというような気持ちになった。
 この猫とはおんなじだな。
 きっと僕があの世に行っても、僕のそばを離れないで、浜辺なんかでいっしょに遊んでいるだろうなあって。

 泣けた。
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なぜ、猫とつきあうのか
吉本隆明 (河出文庫)
 唯物論者で、親鸞すら浄土なんてものは信じてはいなかったと喝破してきた哲人・吉本隆明が、今や、静かに浄土というか天国を彷彿とさせているのは、その命のありかたを猫と同じまで掘り下げたからであって、老人として惚けていたわけではない。なんだか手塚治虫の「ブッダ」のタッタみたいだ。「最後の吉本隆明」とでもいうべき思想の行きつく姿でもある。
 猫の話から、そよ風のように話題は逸れ、ばななさんの息子、つまり吉本隆明は孫に移り、孫にも自分を見ていた。

 人が立っているときに寝転んでいたりとか、座って聞いていりゃいいのに立ったままで聞いていたりとか、なんだかへんちょこりんなかたちでさかさまになっている孫の状態を見ていると、僕とそっくりだなあ、よく似るもんだなあって。


 僕なんかは、今でもあのくらいの年の子とおんなじ、そっくりなんじゃないかって気がします。

 吉本さんという人はそういう人だった。
 いつでも、ずっとがきの心を持ち続けていた。というか、読みながら、ああ、俺も長生きできたとしても、がきの心のままくたばるんだろうなと思った。吉本さんは、いつも、俺だった。

 僕は、自分のやったことに積極的な意味をみだりにくっつけたりしたら、自分はもうだめだって思ってやってきました。
 なんでそうなるかっていったら、要するに自分は何かをいっぱしにやろうとしたところで、世間並みには振る舞えないってことがいちばん根底にあるだと思います。

 それから話は村上一郎にも移る。僕は、村上一郎を直接知る人から彼のことはいろいろ伺っているので、この話も興味深かった。死期ちかく吉本も村上のことを思うのだなと、思った。
 本書の面白さといえば、フランシス子との交わりもだが、中盤に出てくる「ホトトギス会」もけっこうなものである。いわく、ホトトギスは実在するのか? 執拗に問いかけるのである。なんだそれ。
 読んでて、吉本さんが何を言っているのか理解できない。ホトトギスがいるのは当たり前じゃないか。こないだも見たぞ。テッペンカケタカ、ホトトギス、だろ。いるよ。実在しているよ、よく見るじゃん、と僕などは思うのだが、そういう話ではなく、古典文学の文脈ということなのだろうか。
 このあたりから、村上春樹の小説のように話がシュールになってくる。いや、表向きは抽象的になる。

 これは何も「ホトトギス」に限ったことじゃないんでね。
 確実に「そんなものはいるわけはない。伝説さ」って言えるだけの根拠があれば、そういうことなんだけど、根拠はなくて、ただ疑いだけがある。
 そういう場合はどうするのかって問題でもあるんです。

 それはわかる。よくわかる。
 僕は、日章旗の起源は琉球旗でありさらにそれは蛇の目だろうと疑っている。古事記は偽書だと疑っている。聖徳太子あたり以前の日本史は全部デタラメだろうと疑っている。源氏物語の作者は紫式部ではないだろう。土佐日記の作者は紀貫之のわけないだろう。さらにお釈迦様は実在しなかっただろうとも疑っている。が、通説に反対するほどの確固たる根拠があるわけでもない。そういえば、福一原発事故の危険性(四号機プール)は依然まったく変わらないなとも疑っている。

 みんなはそう言っているし、反対するほどの根拠もないんだけど、自分はどうももやもやするんだよなあとか、いかにもよさそうなことだから反対もしづらいんだけど、なんか胡散臭いとかね。

 そこから親鸞の話に移る。
 僕も中学生のことは親鸞に傾倒したし、それなりに親鸞の関連は学び、吉本さんの親鸞物もよく読んだ。でも僕は結局、親鸞にはしだいに関心を失い、なぜか道元に傾倒するようになった。まあ、それは人それぞれということだろうけど。
 ただ、本書の親鸞は房総半島の旅の姿で描かれている。僕も一時期房総半島をよく旅していて、親鸞の足跡がこんなところにまであるんだと感心したことがあった。
 そして本書の最後にまたホトトギスの話になる。どうやら編集者がホトトギスの声を録音かなにかで吉本さんに聞かせているらしい。このようすだと、ほんとうに吉本さんはホトトギスの声聞いたことないのか? これって手の込んだ冗談か。まあ、その真偽もどうでもいいや、あははという感じで終わる。笑いが、いい。笑いを残してくれるのは、いいことだ。吉本さんは死んだんだなあとじんと胸に迫る。
 本書のゲラを直したのは、長女のハルノ宵子さんのようだ。僕と同い年である。って会ったこともないけど。
 このハルノさんの「鍵のない玄関」という後書きがよい。

 吉本ファン諸君よ! 私はあなた方とはなんの関係もないのだ。
 私は訪れる方々に、これからも父の生前と変わらず対応していこうという気持ちと、父の蔵書も資料も原稿もろともすべて、ブルトーザーでぶっ潰して更地にしてやりたいという、"黒い誘惑”との間を振り子のように揺れている。

 いいなあ。それでこそ。吉本隆明の娘さん。
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開店休業
ハルノ宵子
 というか、吉本和子さんの娘さん。隆明の背中に生えた悪魔の翼がばたばたするのをじっと見ていた女の目だろう。
 
 

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2013.06.03

[書評]手塚治虫の『ブッダ』読本(潮出版社編)

 昨日のエントリーで手塚治虫「ブッダ」を久々再読した話を書いた。きっかけは、「Yahoo!ブックストア」で2013年5月28日から2013年6月4日まで(ということは明日までか)無料で読めるとのことで、無料かあ、ほんとかなあ、以前全巻持っていたが、久しく読んでないから、この機会に再読してみようかということだった。

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ブッダ全12巻漫画文庫
(潮ビジュアル文庫)
 読み返してみると、いろいろ思うことはあった。ツイッターの反応で「仏教じゃねぇ批判はよく聞くけど、お釈迦様を主人公に、これだけ面白い漫画はないのでそこを評価してほしい」というのがあったけど、ああ、それはすまなかった。批判しているつもりはなかったし、面白い漫画だというのは前提のつもりだった。そうでなければ、思春期から青年期まで読み続けることはないよ。というか、cakesでの書評のようにきちんと評価を中心に描くべきだったかなとちょっと反省した。ええ、手塚治虫「ブッダ」は面白いですよ。女の描き方が、父親の描き方が……うーん、それじゃまた、ちょっと的が外れた感じかな。
 そういえば、コメント欄でも「ああ」さんというかたら「うんこ」という一言を貰ったが、気に入らなかったのかな。最近もまた、この手のたわいない罵倒コメントをよく頂くようになった。がんばってブログ書く気を無くしていきますので、よろしくね。
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手塚治虫の『ブッダ』読本
 この本の再読のついでに、「手塚治虫の『ブッダ』読本(潮出版社編)」(参照)も読んだ。こちらは無料ではない。でも、アマゾンでは古本で300円からと出ている。
 ざっと見たところ、これの電子書籍はないようだ。ずいぶんと以前の出版物かと思ったら、2011年6月4日刊で、東北大震災以降である。出版のきっかけは、本書にもあるが2011年5月28日に全国ロードーショーとなった「手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく」(参照)に合わせたもののようだ。この話も本書に書かれているが、ええ?「ブッダ」ってこれまでアニメ化されてなかったのかと逆に不思議な気がした。たぶん、「火の鳥」のアニメ化と記憶がこんがらがっているのだろう。

 そういえば、このブッダのアニメ映画化のポスターを見た記憶があるなあ。震災のどたばたのなかでなんか忘れていた。ちょっと調べたら、映画としては成功の部類だったようだ。

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手塚治虫のブッダ
赤い砂漠よ!美しく
【blu-ray】
 アニメ映画では原作の第2部全9章までらしい。
 来年、2014年2月に、第2弾の『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ 終わりなき旅』が公開予定とのこと。全体では三部作になるそうだ。
 映画の物語としては、二部までは作りやすいだろうが、三部は難しそうな気がする。タッタの伏線を原作以上に重くしないと、終決部を原作でなぞっただけでは、映画としては不燃焼なものになるだろうから。
 ブッダの映画といえば、ベルトルッチの「リトル・ブッダ」(参照)は見たことある。というか、あれもあれで面白いと思った。こちらの作品は、手塚治虫のような大乗仏教的な枠組みというより、もろにチベット仏教的な枠組みで、映像も「ラストエンペラー」(参照)や「シェルタリング・スカイ」(参照)のような絢爛なエキゾチシズムがよかった。
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リトル・ブッダ
[Blu-ray]
 余談が多くなってしまった。「手塚治虫の『ブッダ』読本(潮出版社編)」だが、簡単にいうと、これまで「ブッダ」の巻末にあった著名人の「解説」などを再録したもの。その意味では錚々たる執筆者が並んでいる。逆にいうと、錚々たる執筆者がけっこう書き飛ばしているのもわかる。
 萩尾望都の文章が一番熱がこもっているが文章はこなれていない。岡野玲子が手塚眞と結婚するまで手塚治虫を読んでなかったというエピソードも面白かった。1960年代生まれの彼女が手塚漫画を読んでいないということがあるのだろうかとも思ったが、あるんだろう。手塚眞はそのあたりに安堵する思いがあったのではないか。ちなみに手塚眞は1961年生まれ。父親と微妙な距離を置いている感が以前はあったが、気質としては父親とよく似ているんじゃないかと思うようになった。
 また話が少しそれてゆくのだが、今回手塚治虫の「ブッダ」を再読しながら、こっそりと自分の年齢を手塚治虫に重ねていた。
 本書に寄せた大林宣彦・映画監督の1993年の文章に「この「ブッダ」が描かれたのは手塚さんの四十三歳から五十五歳の間である」とある。実は私もそれは知っていた。ああ、自分も、手塚治虫が「ブッダ」を描き終えた年齢になったなあと思っていたのだった。そのせいか、自分と同い年の手塚治虫の人生観みたいなものがこの作品からじわじわ感じられた。それほど難しい話でもない。この作品のなかに描かれている「父」像に焦点を当てればわかるだろう。あの苦悩の王たちの父親としての苦しみに手塚治虫の55歳の思いが滲んでいる。タッタが父になるシーンなどもにもそれはあるだろう。
 手塚治虫は大正15年生まれ、私の父と同い年だったせいもあり、その点からも独自の関心を持っていた。父親世代の一つの典型に見えたからである。が、亡くなって直後、年齢詐称、というのでもないだが、実際の生年が発表され、1928年(昭和3年)生まれであることがわかった。江藤淳も死んで一年補正されたが、生年の公開には微妙な陰影があるものだ。
 本書には、錚々たる執筆者の解説文の他に、手塚自身を含めた関連インタビューが掲載されていて、興味深い。1980年5月「コミックトム」では、全体でどのくらいの長さになるかと問われて、「やめようと思えば、いくらでも早くやめられるんだけど(笑)。問題は、お釈迦さまにいつ年をとらせるかということなんですね」とあり、ああ、そこは考えていたのかと私は今になって知った。
 釈尊を描くことの本質的な難しさも当初から理解されていた。「お釈迦さまの教義とか本質といったものは、漫画にならないんですね。それを描くと、解説漫画になってしまう」とある。その意味で、あれは仏教ではないとかいう批判は最初から意味がないし、読者もそれは織り込んでいたはずだった(そうでもない人もいるが)。
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シッダールタ (新潮文庫)
 執筆に至る裏話もあり、意外だったのは、手塚自身から当初、日蓮を描こうかという意図もあったようだ。しかし、創価学会系ではあるのに編集サイドからは、その前にヘッセの「シッダールタ」のような作品を、という提案が出されて、「ブッダ」となった。やはり、「シッダールタ」は意識されてはいたのだろう。ちなみにこの作品も面白いといえば面白い。絶賛する人もいれば、小説としてはつまらないという人もいる。私はといえば、やはり、女の描き方と父の描き方に興味をもつ。
 手塚治虫の年齢の話に戻ると、本書に1977年のエッセイがあって、50歳を越えた彼の述懐がじんとくる。

 人間五十を越えるとがぜんエネルギーが衰えます。五十という年齢は、会社ならば管理職、訳書でも役付で、会議に出向いたり人に会うことが多くなってくるわりに、こまかな作業ができなくなってくる。ことにこまかい絵をかく作業は無理になります。
 エネルギーの喪失です。だから、現在の僕のペースは今までで最低だし、コンディションは最悪でしょう。

 ああ、それわかるなと思った。五十を過ぎてずーんと沈む感じというか、死のせまる感じは、自著「考える生き方」(参照)にも描いたけど、じんわりとくるものだ。手塚治虫は60歳で死んだが、僕もあと5年も生きたらいいかあなの感じはする。
 
 

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2013.06.02

[書評]「ブッダ」(手塚治虫)

 「Yahoo!ブックストア」で2013年6月4日まで、手塚治虫の「ブッダ」全14巻が無料で読めると聞いて、ああ、懐かしいなと思った。ニュースをざっと見ると、アンドロイド端末アプリを使うらしいので、持っているけど、あれで漫画を読む気にならないと思った。が、ふと気になってもう一度見ると、iPhoneアプリにも対応しているらしい。それでも画面が小さくて読む気にはならないが、もしかしてiPadで読めるのかもと思って試したら、読めた。そして、つらつら14巻を読んだ。他に、「火の鳥」全16巻と「ブラック・ジャック」全22巻も同期日まで無料らしい。そちらはいくつか覗いてみた程度。
 手塚治虫の「ブッダ」が、潮出版社の少年漫画雑誌「希望の友」に連載開始されたのは1972年のこと。僕が中学二年生の時だ。すでにその頃、僕は亀井勝一郎の「親鸞」(参照)とか、鈴木大拙の「日本的霊性」(参照)や梅原猛の「地獄の思想」(参照)とか読んでいた。中村元の「ブッダのことば―スッタニパータ」(参照)や金岡秀友の「仏典の読み方」(参照)なども読んでいた。仏典の原典も読んでいた。無駄な暗記力もあったので般若心経とかも覚えていた。それなりに仏教については知ったつもりでした。この手の知識分野への傾倒は、当時の学生によるあるタイプで、僕より一つ年上の大川隆法(ペンネーム)がご教祖様として出て来たときは、そういう世代だよなあ、なんか自分もちょっとしたきっかけでああなっちゃたかなという印象もあった。ああいう才能はなかったが。
 潮出版社はあらためて言うまでもなく創価学会系の出版で、当時住んでいた地域には創価学会の住民も少なくないことから普通の書店でも「希望の友」は売っていて立ち読みもできた。創価学会系で「ブッダ」かよと、当時ですら思ったものだった。が、「希望の友」はその前年から横山光輝の「三国志」も連載していて、なんというのか、いわゆる少年漫画でもないし、大人漫画でもないあたりを狙った、それなりにメジャーなコミック誌でもあった。
 「ブッダ」の連載は出版社は変わらないもの「少年ワールド」から「コミックトム」と続き、連載が終わったのは1983年。自著「考える生き方」(参照)にも書いたけど、僕はもうそのころはほとんど廃人状態だった。中二の思春期から人生オワタの25歳まで、考えてみると、手塚治虫「ブッダ」をずっと読み続けていたことにはなる。
 ずっと単行本で揃えていた。今でも思い出すのだが、後半に来て、たぶん「コミックトム」への移行の時期のせいだろう、長い休載があった(実際は半年ほど)。休載が明けると、主人公であるブッダの相貌が、いかにもお釈迦様になっていて、なんか物語のトーンも変わったような気がしたものだった(記憶違いかもしれないが)。
 手塚治虫「ブッダ」から感銘を受けたか。そこがなんとも微妙だ。結局ずっと関心を持ってリアルタイムで読んできたのだったが、最初から、これは仏教じゃないよなあ、でもなんとなく手塚治虫教でもいいじゃないかと思っていた。
 青年期になると、なんかもう惰性で読んでいたように思うし、最後のほうは関心も薄れていた。
 描かれているブッダの真理より、自分の人生オワタ境遇のどん底感が大きくなっていたように思う。その後は、書架に並べてあって、たまに読んだ。不思議なことだが、オウム真理教に傾倒する人達がこの漫画を好んでいるらしく、おまえらなあ、みたいな感想も持ったものだった。沖縄に転居する前ころ処分して、以降読んでいない。もう20年近くになる。
 で、久しぶりに読んだ。いくつかのシーンはリアルに覚えているが、記憶のシーンと微妙に違うので、初出との正誤を取りたいような気もしたが、まあ、めんどくさい。
 この年になって中二のころなど思い出しながら読むと、感慨深い。また、後半の物語の断絶感は今読むとどうだろうかとも思ったが、意外と違和感なかった。そもそもこの物語の実質の主人公はタッタであり、ブッダはむしろその背景であってもいいのだろう。
 また読みながら、ブッダのいわゆる悟りのシーンとか後半での真理の気づきみたいののズレ感から、ははあと思った。手塚治虫は創価学会系でもないし(共産党のメディアにも描いていた)、法華教信者でもないが、この作品は実質的に五時八教説をなぞっているわけだ。教相判釈に沿っていると言ってもよい。執筆にあたって、創価学会の影響は直接的にはなかっただろうが、結果的には天台系の思想になっているのだなと思った。
 描かれている手塚治虫流仏教は、言い方は悪いが、仏教とは似ても似つかない奇妙な思想だが、それでも、教相判釈でもあり、強烈に本覚思想でもあり、つまり、そういう点では、日本仏教の亜流と見てもよいのだろう。死後の霊魂もあるし、生まれ変わりもある。いやいや、むしろこれこそ日本の仏教か。

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ブッダ全12巻漫画文庫
(潮ビジュアル文庫)
 昔は、なんで仏陀に神(ブラフマン)が出てくるんだよとも思ったが(これは仏典にもあるので違和感ないとも言えるが)、今回読み返して、むしろ、神に従う預言者・仏陀というのは、けっこう大乗仏教での仏陀に近いのではないかと思う。大乗仏典を読めば、「仏説」とあり、「仏」が「説」くのだが、これは実際には預言の形態であり、ゾロアスター教などヘレニズム的な宗教と同形である。手塚風のブッダは西欧人もわかりやすいのではないか(何がわかるは別として)。
 普通に作品として見たとき、女の描き方にいろいろ心惹かれた。これは手塚治虫の他の作品でもそうだ。あの暗い想念とエロスへの渇望感みたいなのは、昭和という時代のものでもあるが、手塚治虫の個人的な資質でもあっただろうし、そのあたりに手塚治虫の秘密があるようにも思えた。あと、女を介した親子の葛藤なども、時代的といえばそうだが、そのあたりも、年取って読むとじんとくるものはある。
 cakesの書評がもう少し続けられるなら、いずれ手塚治虫も取り組みたいと思う。それは「ブッダ」かなあ、としばし考え込んだ。個人的には「アポロの歌」(参照)のような気がしているが。
 
 

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