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2013.01.12

「南方週末」新年特集号・年頭社説書き換え事件

 広東省が拠点の週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説が、当局の指示で中国共産党賛美の内容にすり替えられた事件について、ざっと日本の大手新聞社説などを見回してみると、ややピンぼけの印象があった。補足がてら、その理由を少し書いておこう。
 まず、中国には政府の意向から独立したジャーナリズムは存在しないので、今回の事態も、特段に不思議なことではない。今回の抗議運動では、年間1000記事以上の書き換えがあるとも言われた。中国の報道ではこの手のことは日常茶飯事である。
 むしろ、なぜ今回に限ってこれが問題となったのかということが、事件だと言える。
 ゆえに、そこを議論しないと、この事件についてはまったくわかったことにはらない。なのにそのあたりの解説が日本国内の報道ではほとんど見られなかったように思えたし、大手紙の社説はピンぼけしていた。
 別の言い方をすれば、例えば、10日朝日新聞社説「中国の検閲―言論の自由とめられぬ」(参照)のように、上から目線で「自由を求める声は弾圧で消せるものではないことを、知るべきである」とかいうお説教などは、そもそもどうでもいい話である。
 ただし、この超上から目線の朝日新聞社説は、別の意味で非常に興味深い。同紙社説の過去の関連経緯を見ると、あらかた北京政府の胡耀邦系の人脈とのアコードをとる傾向がある。ということは今回の事態についても、共青団系の勢力が「弾圧を是としていない」というメッセージを漏らしていることになる。この系統の意向が朝日新聞にだだ漏れする点で、同紙はなかなか貴重な情報源でもある。
 ちょっと飛躍するが、共青団を構図に入れるなら、今回の事件、つまり、「なぜ今回に限って騒がれたか」というのは、太子党・上海閥の系統への政治的な対立を背景にした政治事件、というのが大きな構図になる。
 しかし、そうした権力構図だけが今回の要因ではないというのも、この事件の本質に関係している。これはあとで触れる。
 その前に他紙社説も軽く見ておこう。
 10日付け産経新聞社説「中国の報道統制 「異様な社会」を直視せよ」(参照)は、「共産党一党独裁下では当然の帰結だが、こうした異様なやり方がまかり通っていることを日本は直視しなければならない」というように、中国脅威論というつまらない文脈に帰着している。読む価値はない。
 12日付け日経新聞社説「醜悪な中国のメディア統制」(参照)も基本朝日新聞社説に近いが、上から目線お説教というより、事実に目を向けている。たとえば。


 ただ、楽観はできない。デモ参加者の一部を当局は拘束し、暴行を加えたとさえ伝えられる。共産党政権に近い新聞は言論統制を正当化する社説を掲載し、宣伝部門はこの社説の転載を他の新聞に指示して新たな反発を招いている。醜悪というよりほかはない。
 別の事件も起きている。開明的な知識人が結集して発行している雑誌「炎黄春秋」のサイトが、閉鎖を余儀なくされたのだ。
 就任して間もなく、習総書記は「共産党は憲法と法律の範囲内で活動すべきだ」と呼び掛けた。そして中国の憲法は言論の自由を明記している。習総書記と共産党政権の言行一致が問われている。

 この「習総書記と共産党政権の言行一致が問われている」というのは、ちょっと中国に関心ある人なら、尖閣諸島問題で胡錦濤政権が中国共産党としての言行一致が問われていたのと同じ構図であることがわかる。現実問題は弥縫策であっても現実的に対処したほうがよいのに、声高に大義を語りかけて政治問題にするというのは、毎度の中国劇である。
 さて、今回の事件だが、中国を見ている人なら気がつきそうなものだが、週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説が問題というわけではなかった。エレガントな指桑罵槐とはいえないまでも、罵槐で騒がれたなかに、別の指桑があった。何か。
 国内報道を見渡すと、8日付けNewsポストでジャーナリスト・富坂聰氏が、今回の週刊紙「南方週末」と一見関わりなく書いていた話題(参照)が重要である。これが指桑に関わっていると見てよいのはエコノミストなどの指摘からもわかる(参照)。
 富坂聰氏によると。

 政権交代を終えたばかりの中国の年の暮、共産党の足元を揺るがすような話題がネットを舞台に湧き上がった。
 発信源は、中国の大学教授や弁護士など約70人からなる知識人のグループであった。
 彼らがインターネットを通じて発表した要望書は、〈改革共識倡議書〉と題されていた。共産党政権に求めたのはズバリ「政治改革」だった。
 政治改革の中でも彼らがとくに指摘しているのは、「党と政府の分離」や「自由な選挙」、そして「報道の自由」など西側社会では至極当たり前なものだが、そもそも共産党政権にとっては絶対に認められないものばかりである。
 ネットを通じて突きつけられたこの要望に対し、党は現在のところ静観していて何のリアクションも示していない。

 改革共識倡議書を当局側(おそらく太子党・上海閥)が静観したのは、富坂聰氏も言及しているが、これは起草者・劉暁波をいまだ獄に繋ぐことになる「〇八憲章」のような革新性がないからだった。革新性がないから、問題になるというのはどうことか。

 起草者の一人である北京大学の教授はメディアの取材に対し、「要望書の中身は、1982年に改正された中国の現行憲法にある内容に沿ったもので現実的な提案だ」と語っている。
 このニュースの興味深いところは、中国が憲法などで歌っている民主的な部分を「実行してほしい」と要求している点だ。中国は憲法の上では非常に民主的であるはずなのだから、実際にもそのようにすべきだと、建前だけのきれいごとは許さないと婉曲的な批判をしているのだ。
 彼らが指摘した一つひとつはすべて共産党には頭の痛い問題だが、いずれも自ら憲法にうたっていることだとなれば、こうした要求を突き付けた者を裁くわけにはいかないというわけだ。

 共産党の建前上、改革共識倡議書に対して動くことはできない。そこで静観(事実上の黙殺)決め込んでいたのだが、これを静観させまいとする派が、週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説の書き換え事件を使って、これに着火して、問題化させたのである。
 今後の動向はどうなるか。
 はっきりした動向は見えないが、誰が言っても正義の主張、例えば日本だと「教育現場での暴力は許せない」といった自明すぎる正義の主張で、しかも、バッシング対象が明確になっている主張というのは、ネットを動員しやすい。
 おそらく、中国でも、ネットを通して週刊紙「南方週末」新年特集号・年頭社説の書き換え事件の小型版がぼそぼそと展開され、これが共青団の政治勢力として利用されていくことだろう。
 それでもよいではないかという見解もあるが、中国という国の統制がそれで取れるかどうかが問題であり、各政治権力の死活問題も関わっているので、思わぬところで、大粛清的な事件が起きてもおかしくない。
 
 

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2013.01.11

カレントTV売約とか

「あれ、どうなの? ゴアの?」
「17世紀に起きたとされたインドの戦争って話?」
「それじゃなくて」
「マグマ大使?」
「ベタな漫才やりたいわけじゃなくてさ、アル・ゴアがカレントTVを売ったって話なんだけど」
「何か問題でも?」
「あれどうなのかなと思って。日本の報道とか見ててもよくわかんないし、以前ゴアのことで騒いだ人も、この件で特に目立って何も言わないみたいなんだけど」
「アルジャジーラにメディアを売ったのが何か問題とでも?」
「あれ、2005年にリベラル層をターゲットに開局したテレビ局でしょ。なんかさ、偉そうなこと言って、結局、カネ儲けだったのかな」
「カネ儲けが悪いとでも? いいじゃん。これでゴアはロムニーよりも大金持ちになるれるだぜ」
「そんなに!」
「だいたいリベラルっていうのは、どこの国でもその手のカネ儲けの上手な人たちだよ。日本だって……ああ、まあ、そのぉ……下手に批判とかすると変な嫌がらせされから言わないけど」
「すごいカネだけど、カネ儲け自体が悪いとは思わないんだよ……ルールに則っているなら」
「じゃ、あれかな、カタールが産油国で、つまり化石燃料で儲けたカネが使われるのが心に引っかかるとでも?」
「そのうわまえのおカネでリベラル・メディアを買ったというのが、どうなんだろう」
「ゴアの『不都合な真実』とか言いたいわけね」
「ちょっと納得できないんだよね」
「二酸化炭素排出をやめろとか言って、国民当たりでみると二酸化炭素をばこばこ出しているカタールにそのメディアを売るというのは矛盾しているとか言いたいわけね」
「矛盾していると思うんだよ」
「気にすることないよ。この手の問題、矛盾とか気にしていたらきりがないよ」
「投げやりだなあ」
「買ったアルジャジーラはカタール首長の支配下にあるんだけど、首長は最近、ガザ地区のハマスに4億ドル、ぽーんと出しているんだよ。アルカイダ主体のシリア反対派にもカネを投じている。ハマスにもゴアにもアルカイダにも、カネを惜しまない。これが中立かつリベラルっていうことでいいじゃないか」
「ひどいこと言うなあ」
「現実だけど」
「なんか批判しているみたいに聞こえるけど」
「全然。これでアラブ圏の人にも『不都合な真実』とか広まるきっかけになっていいことだよ」
「本当にそう思っている」
「もちろん。しいて言えば、アルジャジーラが報道機関としてもう少し独立性があってもいいと思うけど」
「そこも気になるんだよね。アルジャジーラって、君がいうように、カタール首長の支配下にある権力側のメディアでしょ。中国なんかのメディアと変わらないと思うんだよね」
「それを言うなら日本だってそれほど変わらないよ」
「それもそうか」
「そうだよ」
「なんか、でも、嫌な感じだなあ」
「慣れるよ」
 
 

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2013.01.09

[書評]困ってるひと(大野更紗)

 「困ってるひと(大野更紗)」(参照)は感動もしたし、考えさせられもした。ただ、自分が受け止めたコアの部分をちょっとどう書いていいかわからないうちに、けっこう月日が経って、そのうち文庫本も出てくるようになった。多数の人に読み継がれるのは、とにかくいいことだろうと思う。

cover
困ってるひと (ポプラ文庫)
 実際、よく読まれているらしい。大半は肯定して受け止められいる。が、たまたまたアマゾンを見たら、きびしい評もあった。何にでもなんくせつける人はいるものだということではなく(したかないよね)、意外とこの本の受け止め方が難しいという部分があるからだろう。ちょっとくぐもった書き方になってしまうのだけど、そのあたり、まだちょっと自分からは言いづらいなというのもある。
 内容についてはあらためて紹介するまでもないかもしれないが、意外と読まれていないかたもいるかもしれないので、簡単に触れておくと、1984年、福島県生まれの大野更紗さんは、上智大学フランス語学科に進学したもののミャンマー難民との出会いから、その民主化運動や人権問題に関心もち、大学卒業後、ミャンマー社会の研究者を志したものの、2008年大学院に進学した夏、「皮膚筋炎」「筋膜炎脂肪織炎症候群」という難病を発病した。難病というものがどういうものか、事例としてもとても興味深いものだ。
 その筆舌に尽くしがたい闘病の過程が、独自のユーモアで描かれている。病気のすさまじい惨状とそれに結果的にバランスするユーモアに加え、大野さんの自立して生きたいという思想と、実は医療関係者が読むとよくわかる日本の医療の難問が透けて見えるような正確な描写も、この本をかけがえのないものにしている。
 個人的には、絶望の意味というのを考えさせられた。

ある日の朝、わたしが顔用のシェービングカミソリを手に、ぼーっと洗面台の前に立ち尽くしていたとき、クマ先生が、ヌッと突然顔を出して、言った。
「この619号室のシャワー室に鍵をかけて、シャワーを流しっぱなしにして、カミソリで手首を切ろうと思っているんでしょ」
「だいたい、考えてことは、わかりますよ」
 当時のわたしは、食べたい、寝たい、そういう日常的「欲求」と同じレベルで、「死にたい」と感じた。朝・昼・晩と毎日わたしの様子を気にかけ、ほぼ休みなし、全力投球で治療に励んでくれている主治医に、「死にたい」とは言いにくい。かなり申し訳ない。だが、思い切って正直な気持ちをそのまま、クマ先生に伝えてみた。「はい」と。先生は嫌な顔ひとつせず、微動だにしなかった。
「それは、苦痛から逃れたいという、ごく当たり前の人間の反応、ですよ」
 クマ先生は、難病ビギナーの「死にたい」妄想など、最初からお見通しである。

 この『難病ビギナーの「死にたい」妄想』という表現が、すごいなと思った。
 つらくて死にたいというのは、こう言うのはなんだけど、よくあるし、普通、誰しもつらい状況からそう考えてしまう傾向があるものだ。
 でも、この「難病ビギナー」というのはそういう「つらさ」の一般的な延長とはちょっと違うと思う。そのあたり、相当に難しい部分があって、この本はその意味合いをけっこうとことこん書いている。ここまで書いてしまえるというのは、とんでもない才能だなと思えるし、実際、この視点と生き方は、まさに、思想というものだ。
 もうひとつ、「はじめに」にある言葉も、ずきんと来た。

 ひとりの人間が、たった一日を生きることが、これほど大変なことか!
 それでも、いま、「絶望は、しない」と決めたわたしがいる。こんな惨憺たる世の中でも、光が、希望があると、そのへんを通行するぐったりと疲れたきった顔のオジサンに飛びついて、ケータイをピコピコしながら横列歩行してくる女学生を抱きしめて、「だいじょうぶだから!」と叫びたい気持ちにあふれている。

 いかん、引用して泣けてきてしまった。

そんなはた迷惑な気持ちなどいらないという意見はとりあえず置いておく。何があったかって? もーいろいろ、すごいことがありました。人生は、アメイジングなんです。

 そのアメイジングなことに出会って、人すべてを抱きしめたい気持ちというのに圧倒されている。
 これ、ふつうに体験なのであって、頭からひねり出した思いではない。体験というのは、名状したい本人の実在でもある。
 それを「奇跡的な体験」というとうさんくさいし、なにも神秘的な体験があったというわけでもない。だけど、人間が生きるということの経験の総体のその底のほうに、こういう奇妙なものががつんといる。「十字架のヨハネ」的というか。まあ、自分なんかが言っても、軽薄になるばかりなんだけど。
 あと、大野更紗さん、自分が若いときに結婚したらこのくらいに生まれた子どもの年代なんだなという、ちょっと娘という点から考え込みもした。別の言い方をすると、1984年生まれというのは、1980年代ですらあまり明確な記憶はもっていないのだろう。1990年くらいから始まった日本の風景のなかで、こういうふうな人生に遭遇するというのは、どういうものなのだろうと、思いに沈んだ。ぶくぶく。
 
 

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2013.01.06

[書評]中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?(NHK_PR1号)

 ツイッターについて自分なりに読んできた本のなかでは、「中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?(NHK_PR1号)」(参照)が一番面白かったと思った。

cover
中の人などいない
@NHK広報のツイートは
なぜユルい?
 ツイッターというものの、その生態の本質的な一面がこれだけきっちり書かれた本はなかったようにも思う。結果的ではあるが、東北震災や福一事故を挟んだツイッター史としても重要な書籍になっている。そういう面では意外に軽い本ではない。いや、読書としては軽く読めるが。
 NHK_PR1号さんがただ者ではない理由もわかる。いきなり結論めいたことをいうと、ツイッターは「バカ発見機」とも言われる面の対極に、とても優れた人を見つける仕組みでもある。NHK_PR1号さんのツイートを読みながら、「ゆるい」「いじられキャラ」としての楽しみのなかで、多くの人が実は、新しい日本社会のなかで、どう言葉を使ってどう関わるべきかを学んでいる。これはすごいことなのだ。
 この本は時系列的に書かれているので、時系列的に理解しやすい。出版されたのは2012年10月25日。後書きにNHK_PRのツイッターアカウントを始めて丸三年になると懐古的に書かれているが、私もツイッターにすっぽり浸かっていた人間なので、ツイッターでは三年前はけっこう遠い過去だという感覚は共有できる。
 あのころはツイッターがどういうメディアなのか多数の人が模索していた。本書のNHK_PR1号さんも、このメディアが何であり、そしてどう使うのかということを、三年前の当初からかなり意識していたことがわかる。この本の前三分の一くらいに及ぶ、新しいメディアへの意識のありかたの考察も興味深い。おそらく、ソーシャルと呼ばれているものの、まだ微妙な本質に触れている。
 大げさな言い方になるが、ある意味で奇跡なのだろう。NHKみたいな組織がどうしてこんな先進的なソーシャルメディアの活用ができたのか。
 本書でも触れているが、キャラのひな形になったのは「生協の白石さん」である。そのあたりは、こういうと良くないが、広告屋さんあたりが企画書を書きそうな部分だ。が、その企画がどんなに上手に出来ても実現しないのは、このソーシャルなメディアは決定的に、人を要求することろである。
 発言する・発信する人、その人のすべてがきちんと反映されてしまうということだ。「生協の白石さん」的なスタンスを一つの標準として意識することはできても、演じることはできない。演じたら、嘘になるし、嘘ははっきり出てしまう。その人が素でダイレクトに出てくる。このことをNHK_PR1号さんが初期の活用時点で模索しつつ自覚していくところも本書を読み応えあるものとしている。
 その自覚が東北震災や福一事故を挟んで問われるシーンの記録は読みながら、なかなか手に汗握る。重く書かれているわけではないが、NHK_PR1号さんが明確に、これでNHKから処分されてもしかたないとけっこうすごい覚悟をしていることが伝わってくる。この覚悟の核にあるのは、NHK_PR1号さんのツイッターを読まれる人への信頼である。自分の発言を信頼し、NHKを信頼している、そして言葉も交わしたことのある、そういう人の信頼を原点に置いたとき、危機にどうあるべきか。それが意識できちゃう人というのは、これはすごいやとしみじみ思った。福一一号機の外壁がなくなったときのこと。

 どう見ても事故だ。これは放射性物質が放出されたというレベルじゃないよ。建物の外壁がなくなっているんだから。とんでもない事故が起きてしまったに違いない……。これ、ツイートしたほうがいいよね……。どこからもまだ正式な報道はありません。こうした状況で、確認のとれていない情報を発信することに、私はこれまで受けたことのないプレッシャーを感じていました。本当にツイートしてもいいのかな。
 でも、もし本当に事故が起きていたら私はきっと後悔する。津波で多くの人が亡くなっていくのを、悲鳴のようなツイートを、ただ見ていることしか出来なかったあの時のような思いはもういやだ。あんな後悔はしたくない。だったらツイートしなきゃ……。
 私が一瞬迷ったその時、一人の解説委員が放送で「重大な事故が起きた可能性がある」と言い切りました。この人も覚悟を決めたんだ。よし私も覚悟を決めよう。

 そして発言をし、そしてそれから四日後には、ゆるいツイート(発言)に戻る決意をする。その心の動きがいちいち人間的であり個性的であり、その人間性を求める関係性がソーシャルメディアにかつて見たことのない劇として演じられている。
 いや、読後しばらく思ったのだが、この感触はかならずしも初めてではないかもしれない。最近ではあまり聞かなくなったが、私はNHKのラジオ深夜便を長く聞いていた。そのなかで、今回のような危機の場面ではないものの、アナウンサーの一人一人は独自の個性の持ち味をうまく生かしていた。そうか、NHK_PR1号さんは、スタンスとしては、ラジオ深夜便のアナウンサーに似ているなと思った。広義には、70年代以降のDJ文化が社会の全域に及んだ結果でもあるだろうが、かつては若者の文化だったが今は、もっと広がりがある。
 一人の市民として言葉を発し、一人の市民が言葉に耳を傾ける。放送の原型がなんども言葉を介して問い返される。その流れで、NHKが公共放送であるということはどういうことなのか?
 この問題意識が、NHKの中の人々によって明確に自覚され、ときおりそれが個性の顔をもって現れる。「公共」というもののまだよくわかっていない、それでいて大切な何かを表現しようとしている。
 本書タイトル「中の人などいない」は本書にもあるように吉田戦車のマンガの台詞に由来し、そしてそれがおそらく年代も暗示しているが、メッセージとしては、NHKという公共放送が中の人として区別されず、中から外という公共に接する意識をしゃれているものだ。
 余談だが、NHKのこうした新しい公共への自然な、個性的な取り組みは、言葉として見えやすいNHK_PR1号さんの活動以外に、映像の作りや子ども番組などにも見られる。これらは普通に作品のクオリティの高さとして見えるものの、その裏側に作り手の個性の裏打ちも感じられる。
 
 

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