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2013.05.11

いかにして失恋から立ち直るかについて雨の日に考えてみた

 なんというか僕はもうけっこうな年なんで、いまさら失恋がどうたらというのは、学生時代に教科書の端っこに「芥川龍之介」の名前を何度も書くくらいの黒歴史(参照)みたいなものなんだけど、たまにだけど、どうしたら失恋から立ち直るかについて、ぼんやりと考えることがある。
 おい、失恋から立ち直ってないのかよと言われると照れるが、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(参照)ではないけど、「あなたは何かしらの問題を心に抱えている。それは自分で考えているより、もっと根の深いものかもしれない」的なもんがありそうな気がするのだ。結論からいうと、どうにもならないんだけど。
 しかし失恋から立ち直るというのは、これもけっこう普通の人の人生の大きな苦難で、歌とか聞いても出てくるし、小説とかにもある。でもそういう文学的なもんじゃなくて、なんかこう、心理学的にすぱっとなんとかなる方法とかあるんじゃないかとも思う。失恋外来みたいな。たまにあるんじゃないかと調べてみる。なさそう。
 まるっきりないかというと、心理学というのじゃないのかもしれないが、似たようなのが『45分で強い自分になろう』(参照)という本に書いてある。あ、これだこれだ。どうするかというと、好きだった人の嫌な思い出をリアルに思い出すと、その嫌悪感から、失恋のぐちゃぐちゃした思いなんか消えちゃうよというのである。7つの手順があるんだけど、2はこんな感じ。


次に元パートナーに味わわされたネガティブな経験を四つ思い出しましょう。すっかり頭にきたときのことや、いやけがさしたときのことを思い出すのです。頭に浮かぶのは、たぶん、ひどく感情を害されたときや心を傷つけられたときの体験でしょう。すぐに思い出せるよう、それをきちんと紙にメモし、リストにします。

 この嫌な感じをあと5つのステップで全身に行き渡らせると、失恋とかの思いが断ちきれるというのだ。はあ、なんかなあ。
 たしかに嫌だった経験もあるし、四つくらいは出て来そうな気はするのだが、その、ぐへぇぇという思いから失恋の痛手が消えるものかというと、なんかすごい心理的な抵抗感があって、自分ではなかなかそういう心理操作が試せない。どうなんでしょうね。
 そういえば、これはなんの本だったかな、すごく昔に読んだエッセイだったか小説だったか書名もすっかり忘れたのだけど、話は覚えている。女ときれいに別れる方法という話だ。どうするか。最後のセックス中にわざとウンコをもらすというテクニックである。そ、それはすごすぎると思って記憶に鮮烈に残っちゃったんだけど、さっきのネガティブフィーリングを使うどころか、ネガティブそのものの情景を相手に与えたら、相手も失恋の痛手とかなくなるんじゃないかというわけだ。それってとっても女に優しい別れ方なんじゃないか、とかふと思った。実践する気はないけど。
 でも、ウンコ漏らしまでいかなくても、女のなかには、別れるときにその手のぐへぇな面をずばっと見せてくれることがあって、ああ、いるなあ、というちょっと思い出すんだけど、時が経つと、あれって彼女の本心だったのだろうかという未練が残るような気がする。やっぱし、ウンコというのがポイントなんだろうか。
 1980年代ユーミン的には、失恋の痛手なんて、新しい恋で上書きしてしまえばいい、みたいのがあった。一つの恋に拘っていなくてもいいし、新しい恋で新しい自分が発見できるみたいなものだった。それでどうなるかというと、「冷たくされていつかは、みかえすつもりだった。それからどこへ行くにも着かざってたのに、どうしてなの、今日にかぎって安いサンダルをはいてた」みたいなことになる。解説はいいですよね。古いなあ。
 というか、最近思うのだ、それって1980年代的な心情なんじゃないか。NHKの朝ドラ「あまちゃん」とか見ているのだけど、小泉今日子演じるママがべたに1980年代少女の心情で、ああいうのって、四半世紀も過ぎてみると、なんだかとっても嘘ことというか、マジかよな感じがする。僕なんかにすると、小泉今日子なんかよりもさらに古い世代なんだけど。そもそも失恋とか、1980年代的な情感じゃないのか。
 なんの話だっけ。失恋の痛手からいかに立ち直るかだな。もうこの話はどうでもいいやなんだけど、先日これに関連してちょっとショックな発言を聞いた。白根柚木の真相はこうだったみたいな事実とか関係なくて、女性が失恋の痛手をどう思っているかという一般論。しかし、その女性がそれほど一般的な女性というわけでもないのだけど。
 話はこう。自著『考える生き方』(参照)を書いたおり、初稿ではそれほど失恋の話は書かなかったけど、書いた方がいいかなみたいのがあって、なんとか書ける分は書いたのだけど、けっこう痛かったわけですよ。未だに痛いもんだなと思ったりするのだけど。で、読まれたかたからも、失恋って痛いですよね、みたいな話があったのだけど、そうしたなかで、失恋の痛手みたいのって男性特有かも、というのがあった。で、その先。別れた男ってなんか昔よくかよったラーメン屋さんみたいなもの、という話を聞いた。腰が抜けた。痛え。
 そ、そんなのあり? 別れた男って、昔通ったラーメン屋さんみたいなものなのか。なつかしいけど、もう食わないみたいな。(たまに懐かしくて食ってみたくもなるんか。)
 その感覚っていうのはすごいものだと思った。なんか自分が、延びたラーメンになったような気がしたのだった。

 別れた女性に失恋で痛みがどうとかいうのじゃなくて、痛手もなくほんのり懐かしいような、すでに終わってしまったかっちりした記憶というか。それってすごいなというか、そういうふうに記憶が整理できちゃうっていうのはすごいなと思った。女性一般の心理とかじゃないと思うけど。
 でも、それはとても正しいことなんじゃないかとも思った。こういうことを僕は真剣に考え詰めるのですよ。それはもうヘーゲルの『精神現象学』を丹念に読むようにです。そして理念的にはそれが正しいだろうなと結論がついた。いかにして失恋から立ち直るか。それは過去の失恋の対象をなつかしのラーメン屋化することである。
 理念的には答えが出ても、それでどうとなるというものでもないので、なんかなあ、ぐだぐだするなあと思って、雨でも降っているので、ブログにぐだぐたと書いてみました。
 
 

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2013.05.10

普通の人が年齢とともに考えることはだいたい同じ

 世の中には一定数の割合で、他人の心が読めると思っている人々がいる。「お前がなに考えているかわかる」とか、「お前の本心はこうだろ」とかいう人々もそのくち。
 ネットにもけっこういる。いても別段不思議ではない。それだけは問題でもない。問題は、その人々が読んだと思っている他人の心とやらが、読まれたとされる側ではちっとも納得いかないことが多いことだ。普通なら、「おまえはこう思っているのだろ」と言うのに対して、「いや、そんなこと考えてないですよ」と言えば、それでちょっと考え直してもらえるものだが、この手の人々は、そういう返答を認めないのだ。というか、なにもかも抗弁というか、本心が読まれた弁解とかにされちゃう。あー、なんなんだろこの手の人々。

cover
心を上手に操作する方法
 とはいえ、普通に世の中を渡っていくには、ある程度、他人の心を読まなくてはならないものだ。むしろ、僕みたいに、他人の心というのがよく理解できなし、そもそも理解する気も薄いような人にとっては、他人の心を読むという技能は意識的に習得しなければならないようなものなので、ときおりそうした知識に関連する本を読む。
 『心を上手に操作する方法』(参照)という本を読んだのもそうした背景なのだが、読んでみると、面白い本ではあるが、この手の本を何冊も読んできた人にはさして新味な情報はないように思えた。特に『影響力の武器 なぜ、人は動かされるのか』(参照)の話が後半を占めているので、ああ、それ知ってると思った。(そう思っちゃうのがいけないのかもしれないのですけどね。)
 ちなみに、ちょっとググったら、『心を上手に操作する方法』の引用の多い紹介記事で、たくさんはてぶがつている記事(参照)があった。はてぶなみなさんには新鮮な内容だったのだろうか。
 でも、僕もこの本で、おおっと思った話があった。本のほうにね。はてぶな紹介記事のほうではなくて。ああ、これ知ってたら、自著『考える生き方』(参照)を書くとき、参考になったかなという話である。なにかというと、人の心を読むときには、その人の年代を見るだけで、わかることがあるというのだ。
 なぜそれが『考える生き方』に関係するかというと、自著だといちおう形式としては、僕がこれまで生きて来た経験談のように書いたし、実際に経験談でもあるから、退職した爺さんがよく書くタイプの本のように誤解されてもしかたがないんだけど、退職した爺さんのように自分は偉かったんだからして君らもこれを読むようにという意図ではなく、むしろその正反対で、僕の人生は凡庸だったから、けっこう多くの人に当てはまることや、参考になることがあるんじゃないか、それ書いておこうという意図だった。
 ある年代になると、普通の人の考えることはそれほど変わらないものじゃないかと思うのですよ。それを経験談的に書いたということなのだけど。
 それでこの本、『心を上手に操作する方法』では、そうしたことを、もっと一般的に簡素にまとめてあった。そこがなるほどと思った。もっとも、だからといって僕がそうまとめても意味はないし、結局体験談的に書くしかなったのだけど。
 で、年代ごとに考えることというのはどういうことなのか。適当にまとめるとこう。

  ※  ※  ※

18歳から35歳の人に共通する関心事
 ふたつある。
 キャリア向上と異性関係に関心がある。
 仕事とキャリア向上に関心があるから、この先、どういう勉強していくか、どういう能力を身につけるかにも関心がある。
 この年代の人は、物事の進展が遅く感じられ、自分の才能が実際より低く評価されていると思っている。
 30歳を過ぎると、年を取ることが心配になってくる。
 女性の場合は特に、安定したパートナーが見つけられかに関心がある。

18歳から35歳の人に共通する心理的特徴
 20代前半までは自分探しをいろいろする。熱狂できることをもとめ、自分らしさを探す。
 18歳から35歳の人では、表面的には自信がありそうに見えても内面には不安を抱えている。
 30歳を過ぎると、自分が決めたことなのに窮屈を感じ、なにかと制限されているように感じる。そのことがチャレンジにつながることもある。
 35歳前後は、仕事に専念して時間が足りないと思うようになる。

35歳から55歳の人に共通する心理的特徴
 若い時代の目標や夢がどれだけ達成できたかと考えるようになる。これからできることは何かも考える。
 女性の場合は、自分が選択した人生でよかったという確信を持ちたがっている。
 考えることが変化に繋がり、40歳前後で、転職したり、パートナーを変える人も多い。

56歳以上の人に共通する心理的特徴
 56歳以上の男性は、あとどれけ生きられるかと考え込む。
 男性もいわば更年期に入る。これまでの経験が悲しみや絶望になりがち。
 女性の場合は、老後の計画を考える。本気の恋がまだできるかも知りたい。

  ※  ※  ※

 なるほどねと思った。
 自分の場合、55歳で、この本のいう56歳以上の兆候がどどっと出てきたわけだ。
 他の年代でもそういう感じだったし、そういうことを自著に書いた。
 僕が平凡な人間だったからというのもあるんだろうけど。
 いずれにせよ、普通の人間って年代的に考えることはあまり変わらないみたいなんで、普通の人は普通の人生をいろいろ見ていくといいと思いますよ。親の人生をちょっと聞いてみたりするのもいいかもしれません。
 人と接するときにも、相手の年代から、この人も普通の人のような思いを抱えているんだなと想像すると、話を合わせるのによいと思う。
 
 

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2013.05.09

バングラデシュのビル倒壊とグローバリゼーション

 先月24日、バングラデシュの首都ダッカの近郊で、縫製工場が入居する8階建てビルが倒壊し、そこで働いていた労働者を中心に多数の死者が出た。こうした事故では救助の限界から日を追うにつれて死者数が増える。7日までに2400人が救助されたものの、死者は900人を越えた(参照)。
 ビル倒壊による事故は途上国ではそう珍しいことではない。韓国でも1995年6月29日、ソウル特別市瑞草区の三豊百貨店が突然倒壊し、死者502人を出したことがある。この事件でもビル建設の問題が指摘されたが、今回のバングラデシュのビル倒壊でも、現地では倒壊の危険がある程度予想されていたらしく、バングラデシュ警察は危険性を知りながら労務させた責任者を逮捕し、取り調べている。
 この事件の報道が日本に比べ、欧米で大きく取り上げられているのは、途上国にありがちな問題として矮小化されないからである。どのように問題となっているか。
 なお、日本の知識人と称する人たちは、途上国の労務関連の問題を、グローバリゼーションがもたらす労働環境の劣悪さや、それをもとにした日本の消費活動といった問題に歪曲しがちであり、グローバリゼーション批判という思考制度に嵌ってしまっているようでもある。
 今回の問題は大別して二つある。一つは、倫理基準である。そう言うとまたグローバリゼーション問題のように日本では受け取られがちであるが、事態は逆でもある。今回の事件では、倫理基準がなかったのではない。その適用に不備があったとはいえるとしても。結論から先に述べると、倫理基準をきちんと普及させることがグローバリゼーションであり、グローバリゼーションによって今回のような悲劇は回避が可能である。
 今回の事例で問われたのは、英国の倫理的業者推進非政府組織(NGO)の倫理的貿易イニシアチブ(ETI: Ethical Trading Initiative)である。1998年に英国の企業、労働組合、NGOが協力して、公正貿易の問題と企業の倫理規範を検討して、2000年1月に策定された倫理規範である。経緯から了解しやすいが背景には国際労働機関(ILO)の動向もある。
 今回の倒壊ビルで製品を調達していた激安ブランド「プライマーク(Primark)」は世論から事故の責任を問われたが、問われた要点は、日本でよく取り上げられる枠組みのように安売りのために倫理規範を無視していたことではなさそうだ。プライマークとしてはETIと共同し、倫理規範には配慮していたらしい(参照)。しかし現地で倒壊の懸念がありながらこの事故が発生したことは、ETIの現状の限界を示している。その意味で、問題は安売りをもたらすグローバリゼーションの弊害ではなく、グローバリゼーションをより厳格にするための、グローバリゼーションの推進の方向性にある。
 今回の事例でいうなら、バングラデシュでは建造物の施工規制が十分ではないので、むしろ対外的に規制強化を推進させる必要がある。
 もう一つの問題は、この事故をきっかけにグローバリゼーションをもたらす外国資本がバングラデシュを回避するとなれば、バングラデシュの産業が衰退し、この国の貧困を深刻化する懸念があることだ。
 今回の事態で、バングラデシュ政府が自国の繊維・衣料品産業を守ろうとして、労働者をないがしろにしているように見える部分もあるが、国家経済の全体を配慮せざるをえない側面もある。
 基本的にグローバリゼーションがもたらす安価な製品の貿易は、輸出側の国益にもかない、その国の生活レベルを向上させ、輸入側の貧困層にも安価な製品による生活レベルの向上をもたらす。グローバリゼーションは貧困層の生活水準を押し上げる避けがたい運動でもある。
 フィナンシャルタイムズへのジョングラッパー(John Gapper)氏の寄稿でも、同種の指摘がなされている。JBPressの翻訳記事「バングラデシュのために西側企業がすべきこと」(参照)より。


西側企業がまずしなければならないことは、最も簡単なことだ。今回の事故に関連してイメージが傷つくことを恐れてバングラデシュから撤退したりせず、同国内にとどまり、女性に仕事を提供し続けることだ。何はともあれ、繊維産業は別の選択肢――地方の農場で働くこと――よりも高賃金の仕事を提供しており、女性を解放する助けになってきた。

 もちろん、グローバリゼーションの弊害はある。だが、その弊害をもって、諸悪の根源にすることはできない。当たり前のことだが、その調整に政治や各種の政策が必要になる。
 
 

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2013.05.05

夕陽のあたる小道での出来事

 夕陽の美しい日だった。夕焼けにはまだ少し間がある。まっすぐに西に向かう歩道を夕陽が鋭く照らしていて、まるでその先が天国だか浄土だかに続いているような気がした。
 そんな気がしたのは、その道を歩いているのが僕一人だったせいもある。連休で多数の人々はどこかに出かけてしまったからだろうか。たまたま偶然、その時間帯、その歩道を西へと、とぼとぼと歩く人なんていなかったというだけのことかもしれない。いつもは、そんなに閑散とした小道ではないのだ。
 まぶしい夕陽が目に痛くも感じられて僕はどちらかというと下を向いて歩いていた。下を向いて歩こうよ。そんな歌があったっけ。心が沈んでいたわけでもないけど、そんな格好で歩いていると、心はちょっと沈んでくるのものだ。とはいえ真下を見ていたわけではない。3メートル先を見ていてたわけでもない。10メートルくらいは先を見ていただろう。もう少し先だろうか。きらーんと100円玉でも光ったら、ちょっとハッピーになれたかもしれない。
 がそのとき、10メートルくらい前方に見えたのは靴のサイズくらいの石の影ようなものだった。歩道に石が置かれているのだろうか。いいことじゃありませんねと思って、その影を見ていると、動く。石が動くのか。自分の意思で。いかんな。無言でだじゃれを思いついちゃったじゃないか。ふつう石は自分の意思で動かない。
 なんだろ。風が強いわけでもない。もっとも風であのサイズの石が動くわけもない。そう思っているうちに僕もそれに接近していくし、それがなんであるかは目の悪い僕でもわかった。鳩である。鳩が歩道を歩いているのだ。西に向かって。しかも歩道の中央を。巡礼の旅のように。
 なんで? 僕にだってわからない。接近しつつわかったことは、鳩は西に向かって歩いていることだけだった。おごそかな歩みである。僕だって西に向かって歩いている。西にはあるんだ夢の国。にんにきにきにきにん。
 急がないとお釈迦様の涅槃に間に合わないぞといった切羽詰まった思いは僕にはない。鳩にもないようだった。それに釈尊入滅のメッセージがスマートフォンで伝わってきたわけでもないのだ。僕らは西に向かってとぼとぼと歩いているだけなのだ。
 そこで問題に気がつく。鳩くんが歩む速度と僕が歩む速度が違うのである。どちらが速いかというと、僕のほうが速い。光の速さに比べれば同じようなものかもしれないが、後ろを歩む僕の速度のほうが速いから、その間の距離は縮まっていく。先ほどの鳩君発見地点Aからすると僕の現在地点Bは鳩君の現在瞬間的位置Cの半分になっているかもしれない。このままいくと、さらにその半分の地点Dを通過するだろう。そしてさらにその半分、半分と接近していくと、僕はついに鳩くんを追い抜くことはできない。なんてことはないよ。問題はそれじゃない。
 僕は鳩を追い抜くことになる。するとそのとき、鳩くんはびっくりするに違いなのだ。どひゃあ。後ろに人間がいたよ。しかも男だよ。年は55歳らしいぞ。
 驚かしてすまなかった、鳩くん。いや、女性で鳩さん、かもしれない。女性の後ろにそっと接近していくというのは僕の趣味じゃないんだ。困った。大問題じゃないか。鳩さんはどこかの地点で、とってもびっくりして、そして慌てて天に向かって飛び立つことになるに違いない。
 どうしたらよいのだろうか。ちょっと通りますよとか声をかけてみるのもいいかもしれないが、それもきっと鳩さんをびっくりさせてしまうことになり、やっぱり慌てて空に向かって飛び立たせてしまうことになるかもしれない。鳩さんの、この西に向かう輝く小道の精神的な歩行の意味を僕は壊してしまうかもしれない。
 なにか平和な手立てはないのだろうか。僕は先日のことを思い出した。この道のことである。そのときの僕は東に向かって歩いていたのだ。不死の薬がどこかにあるに違いないと思って歩いていたわけでもないが、ふと道脇のフェンスに鳩がいたのを見た。え? 驚いたのは僕だった。フェンスの高さは150センチくらい。つまり僕の目の先、20センチくらいのところに鳩がぼうっと休んでいるのである。もっともフェンスは草木が茂っていて、鳩は葉のなかに埋もれているふうに見えないこともないから、目の悪い僕なんかが気がつかないでしょと、たかをくくっていたのかもしれない。鳩がたかをくくるなんて奇妙なことだねとか思ったが、そのとき、目が合った。
 やあと心の中で僕は、一休みしている鳩に語りかけた。やあと鳩もそのチャネルで答えた。じゃあねと僕は言うと、じゃあねと鳩は言った。そこから先は沈黙。僕らは同級生でもないんだし、ここでつもる話もないしね。
 ああいうこともあるんだなあと思い出して、もう数メートル先に迫っている鳩さんのことを思った。同じ鳩ではない。色の違いでわかる。近くに寄るにつれこの鳩さんには緑色っぽい輝きがあるのがわかる。先日の鳩さんは、ふつうに鳩色だった。目立たないタイプだったのだ。
 困った。ここで急に歩を遅くしても不自然だ。ここはあれかな、心のなかで、ちょっと後ろを通りますよと念じてみるかな。
 そう思ったのが漏れちゃったのかわからないが、そのとき、彼女は振り向いたのである。
 どきっとした僕が見たのは、彼女がそれから右の道脇にそそっと寄っていく光景である。僕は左を通れということである。そんなことがあるんだろうか。鳩に道を譲ってもらうなんていう経験はしたことがないぞ。近くによったら、結局、鳩さんが飛び立つということになるんじゃないか。
 その瞬間。すれ違うその時。普通に、すれ違った。
 どもと僕は心で小声で鳩に語ると、鳩さんはさほど関心なさげに、はあという感じでちょっとだけ僕を見た。僕たちはもうすれ違うことはない。
 それから僕は夕陽のあたる小道を歩き続けた。振り向きもせずに。
 
 

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