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2013.05.01

とても賢い14歳のベトナム人少年の話

 日本だと弥生時代、中国では漢の時代。第七代皇帝・武帝は隣国を攻め国を広げたが、たびかさなる戦争のための徴兵で人々の生活は苦しいものになっていった。そこで八歳で武帝を継いだ第八代皇帝・昭帝は若いながらも、徴兵を軽減し、内政に力を注ごうとした。内政の充実には、民間から広く賢者を集めることが大切である。昭帝はその自覚のもと、自らその賢者の選抜にも当たった。
 その選抜の年は昭帝が十八歳であっただろうか。宮殿内の庭に壮年から初老まで見るからに賢そうな学者の並ぶなかに、みすぼらしいと言えないまでも質素な身なりで小柄で色の黒い少年が一人が混じっている。あれはいったいなんなのだと若い昭帝は思ったが、自分より若いその少年の目の輝きに興味を引かれ、少年が自分の前に現れるのを待つことにした。
 少年の番となった。眼前にすっと立つ少年に昭帝はまず年を聞いた。
「おまえは何歳だ?」
「十四です」
「十四だと。賢者を集めるこの選抜になぜおまえのような年端もいかぬ少年が混じっているのだ。おまえはいったい何者だ?」
「学者であります」と少年は答えた。「皇帝が賢者を募るのというので、はるばるやってまいりました」
 少年が答える途中で昭帝はおかしくて吹き出してしまった。「おまえのような少年が学者か。自ら賢者だというのか。私を笑わせに来たお笑い芸人ではないのか」
「お言葉を返すようですが、私は学者であります。皇帝は広い世界のなから最高の賢者を探し求めているというので、遠路をいとわず参じたのです。学者というのは年や身なりから推し量るものではありません。その学才をもって問うものであります」
 昭帝の朗々たる笑いは苦笑に転じ、険しい目つきとなった。言葉も荒く「おまえはどこから来たのだ」と問う。
「日南からまいりました」
 日南は今日の北部ベトナムである。
「名前はなんというのか?」
「張重と申します」
 現代のベトナムなら、チョン・チュオンとでも呼ぶだろうか。昭帝の父・武帝はベトナムの中部までを漢の領土としたのだった。これも父の所業の結果であろうかと昭帝はふと思う。
「日南の出身と申したな。日南とは、それ、太陽の南の地ということか。するとおまえは故郷で太陽を北の方角に見ていたのであろうな」昭帝は少年をからかってみた。
 少年は軽く目をつぶり、そしてかっと見開いて歌うかのように答えた。
「北方に雲中という地あり。その国人は雲の中に暮すや。東方に雁門という地あり。その地に雁を連ねたる門のありや。東北に北海という地あり。その国人は海中に暮らすや。西南に塩城という地あり。塩にてなる城のありや」
 ありはしない。言い込められてむっとした昭帝に少年はさらにこう語る。
「日南の地ゆえに太陽の南の地だと理解するとは、なんと愚かなこと。皇帝は天下一のバカ殿様なのでしょうか」
 昭帝はぐぬぬと怒りに顔を紅潮させた。それを見た大臣たちも血相を変え、「張重なる者、皇帝陛下を愚弄しております。処罰せねばなりません。殺せとのご命令を」と声を上げた。
 昭帝は思わず肯き、怒りの目を少年に向けると、少年は目を閉じて合掌している。さては観念したのだろうか。と直後、少年は目を開き、天を仰ぎ、高らか笑った。清く澄み、天にまで響くほどの笑い声であった。
「なんと」驚いたのは昭帝だった。「私はおまえをここで殺そうとしているのだぞ。私が一声かければ、そこに居並ぶ強者が刀をもっておまえを切り刻むことになる。なのにその愉快な笑いはどうしたことだ?」
 少年は皇帝の目を貫くように見つつ、「あまりの幸運に喜びに耐えず、思わず歓喜の笑いをあげてしまっただけなのです。失礼しました」と答えた。
 昭帝が黙っていると、少年は言葉を継いだ。「私が日南で暮らしていたら遠からず、熱病で死に骸は奥深い密林にうち捨てられることでしょう。葬式を司る喪主もなく葬礼もなく土に帰していくことでしょう。しかし、なんたる幸運。皇帝の手によってここで死ぬというなら、あなたさま、皇帝がわが喪主となるのです」少年は大臣や兵士らを静かに見渡して言う。「そしてここに居並ぶ大臣や高位の方々が私の葬礼に連なるのです。なんという名誉でありましょう」
 昭帝は静かにじっと少年を見つめた。いきり立つ大臣たちを目で抑えた。
「みごとな機転だ。みごとな度胸だ。おまえは、雲中の長官となれ、よいか」
「私は政治家ではありません。学者なのです。学者とお認めになり、中華第一の学者の称号をお与えください。もし、お疑いであれば、皇帝にお仕えする学者とここで議論をして打ち負かしてごらんにいれましょう。私が負けるようなことがあればここで自害するといたしましょう」
「まだたいそうなことをほざくか」昭帝は静かにそう語り、奥まった列で青ざめた顔をしている韋玄成をわずかに見て、その父・韋賢のことを思い出した。韋賢は「鄒魯の大儒」と呼ばれた賢者であった。四書五経に通じ、知恵をもって民を導くことを幼い日の昭帝に教えたものだった。韋賢のすずしげな声で歌う詩経がふと脳裏をよぎる。
 「いや、私が試そう」昭帝は微笑みながら少年に語った。「天に頭がありや」
 「ございます」すっと少年は答える。「乃ち眷として西に顧みる」と歌う。
 昭帝は微笑み心中に思った。みごとだ。詩経だ。韋賢の声を聞くようだ。『乃ち眷として西に顧みる』とは、天が情をかけること。自らへの温情もだが、恥をかかさないように韋玄成をおもんばかったことを察しているのだろう。
 「天に口はありや」皇帝は問う。
 「ございます。『玉女、投壺し、天之がために咲う』」少年は即座に答える。
 笑いが堪えきれず吹き出したのは昭帝である。自らを玉女として投壺(天女がダーツのような遊びをする)するので天が笑うとは、私の笑いを誘ったユーモアであろう。しかも天は天女が壺を失して笑うのである。この少年、まじめくさっていながら、心の余裕からおどけてみせているのだ。
 「天に耳がありや」
 「ございます。『鶴九皐に鳴き、声、天に聞こゆ』」
 「『声、天に聞こゆ』か」昭帝は詩経の句を思わず呟く。少年の学才はもう私に十分とどいたと答えたのである。この少年を用いて、国の文化を新しく起こそう。そうではないか、少年。
 「天に足はありや」
 「ございます。『天の歩みは艱難なり』」
 「よろしい。中華第一の学者を称するがよい。私の治世の艱難を共に歩もうぞ」昭帝は優しく声をかけると、少年は、いや、14歳にして中華第一の学者・張重は、深く若い皇帝に頭を下げた。
 
 『千字文』に「男效才良」とある。男の子は、サイリョウとしわざのよからんことを、ならえ。
 

cover
千字文
(岩波文庫)

 
 

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2013.04.29

「帚木」のことなど

 このところ小林秀雄のことなどを思い出しては考えたりする。きっかけの一つは『考える生き方』(参照)を書いたことがある。この本で55歳の小林秀雄について少し触れた。そういえばと、彼がまだ50代で『本居宣長』(参照)を書く前のこと、59歳の声を『現代思想について―講義・質疑応答 (新潮CD)』(参照)で聞くと、なんとも心に迫るものがある。
 59歳と言えば、けっこうな年齢だが、自分も今年は56歳となり、それ近い年齢にもなりつつある。彼はこの時期、後の『本居宣長』を構想していた。その後の新潮での連載は、僕が高校生時代に話題だったものだが、あのころを回想すると、数度、長期の休載があった。
 休載の理由はなにかと言えば、源氏物語を読み返していたらしい。源氏物語といえば、同書の冒頭に折口信夫の思い出の挿話が印象的だが、さて、50代にもなって源氏物語を読み返すというのはどういうことだろうか。自分も読み返してみたい気になり、ぽつりぽつりと読むに、なかなか微妙な心持ちになる。
 光源氏自身は、もちろん虚構の人物だが、「幻」から見るに52歳を過ぎたころ亡くなった。55歳には届かなかっただろうから、私なぞ差し詰め物語を眺むる死霊のごときではある。そういう立場から源氏物語を読むと人間の一生の奇妙な味わいを感じるし、どことなく村上春樹が64歳で書いた『色彩を持たない多崎つくると巡礼の年』(参照)にも似た基調を感じる。
 「帚木」の雨夜の品定めなども、この年齢になると、年長をもって弁じる左馬頭なども30歳くらいだろうか、それでも年齢的には若いものだなと思うし、しかし、この女への男の感性は現代では45歳くらいだろうかなどとも思う。
 ところで、これがエントリーの話題なのだが、「帚木」は後半、方違えの話題から、後の空蝉との出会いに転じていくのだが、ここで、あれれと思った。
 源氏が紀伊守の屋敷にくつろぎ、夜中、その父・伊予介の後妻(空蝉)の寝所に闖入して一夜を過ごすのだが、さて、このとき、つまり、やったのか?
 この時の源氏は17歳くらいだろう。対する空蝉の年齢なのだが、弟・小君が12歳くらいだろうから、そう年は離れていないとは思いつつ、既に一女は儲けているので、19歳くらいなのではないか。
 僕が高校三年のときだが、どういう趣向だかしらないが、教頭が古典の時間枠で源氏物語を教えた。枯れた感じであまり色気のある爺さんではなかったが、今思うとどことなく色気があったかな。そういう面を高校生には出さなかったが、自分も年を取るとちょっと思うことはある。で、その頃というか、それ以降もだが、空蝉は「帚木」では源氏にスカを食わしたとばかり思っていた。
 どうなんだろうか。どうも描写がよくわからない。


消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、「違ふべくもあらぬ心のしるべを、 思はずにもおぼめいたまふかな。好きがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。

 ちなみに与謝野訳。

当惑しきった様子が柔らかい感じであり、可憐かれんでもあった。「違うわけがないじゃありませんか。恋する人の直覚であなただと思って来たのに、あなたは知らぬ顔をなさるのだ。普通の好色者がするような失礼を私はしません。少しだけ私の心を聞いていただけばそれでよいのです」と言って、小柄な人であったから、片手で抱いて以前の襖子からかみの所へ出て来ると、さっき呼ばれていた中将らしい女房が向こうから来た。

 この「かき抱きて」というのは、現代語の「お姫様だっこ」というやつなのかよくわからない。与謝野訳だと「片手で抱いて」とあるが、ちょっと状況が想像つかない。右腕で小脇に寄せて歩かせたのだろうか。とすると、空蝉もそれに従って歩いたというシチュエーションなのだろうか。
 問題はむしろその先だ。

心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、……

 与謝野訳だと。

こう思って胸をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座敷へ抱いて行って女をおろして、それから襖子をしめて、
「夜明けにお迎えに来るがいい」
 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わった。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟おきてに許されていない恋に共鳴してこない。

 情事があったとすればこの過程だろうと思われるのだが、どうもはっきりしない。やったのか、やってないのか。
 というあたりで、「流るるまで汗になりて」という描写は、心理描写じゃなくて、実際に、源氏と空蝉が、ぎしぎしとやりあって、汗、汗、汗、という描写じゃないのかと読み返す。いや、文法的には、心理描写ではあるから、与謝野晶子の訳が違っているというわけではないが。
 それにしても、空蝉が本当に嫌だというなら、やってきた中将(女)に助けを求めるか、源氏に恥じをかかせるような動向をとるかするはずだが、そうでない理由はその前に、一応こうある。

並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。


並み並みの男であったならできるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。

 相手が源氏だし、大騒ぎして人に知られるのもいやだから、受け入れちゃったということなのだろう。ふーむ。しかし、これは現代的には単なるレイプだなという感じはするなあ。
 変なところに拘るようだが、ここで一発やっているといないとでは、空蝉の物語の意味合いは随分違うような気はするのだが。どっちなんでしょうかね。
 というか、古典を読むというのは、こういう部分で解釈を決めるコードが存在していて疑問を持たない、ということかもしれないとは思う。「たけくらべ」などでも、美登利の変心をどう取るかでもめていることがあったが、一葉には特定のコードが存在したかもしれない。こういうコードというか、社会コンテキストの評価が文学では難しいところだなと思う。
 ただ、なんというか、この年になってみると、源氏と空蝉は、とりあえず汗だくつゆだくになってやっちゃってから、相見ての後の心をうだうだと応答しあっていたという解釈が正しいような気はする。
 
 

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