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2013.04.13

[書評]色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹)

 ブログの便宜上、[書評]としたけど、以下、それほど書評という話ではなく、読後の印象のような話。
 きちんとした書評を書くにはまだ読み込みが足りないのと、きちんと書くとなるといわゆるネタバレが含まれることになるので、現時点では避けておきたい気持ちもしている。一般のメディアに掲載される書評というのはどうしても広告的な側面があり、ネタバレは避けるのがお約束なので、きちんとした文芸批評的な書評を書くなら媒体を変えたい感じもしないではない。それはそれとして。

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色彩を持たない多崎つくると、
彼の巡礼の年
 前評判の高かった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(参照)だが、普通に面白かった。普通というのは、村上春樹ということを意識しなくても読めるし、彼の過去の作品群を知らなくても普通に読んで面白い小説だということ。村上春樹作品をこれまで読んだことがない人でも読まれるとよいと思う。高校生と30代半ばの人には独自な印象を残す大切な小説になるはずだ。
 作品内の基本の話は、36歳になるサラリーマン建築技師・多崎つくるが、自分の結婚願望の転機をかねて高校から大学時代に壊した友人との関係を修復しようとすることだ。
 友人といっても彼を含めて男三人と女二人の五人グループである。が、ある日突然、つくるは他の四人から絶交を言い渡され、彼は自殺したいほどに沈む。その後、なんとか社会人として生きてきたので、青春のつらい思い出は忘れようとしている。そんな日々、新しい恋人から過去を修復したほうがいいと勧められ、それまで被害者だったと思っていた自分を見直していく。その過程がリストの名曲「巡礼の年」に重ねられてこの作品で描かれている。タイトルの「色彩を持たない」というのは、登場人物の名字の比喩もあるが、つくるが、グループのなかで個性という色合いを持たない凡庸な自分だった、という意味合いがある。
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Liszt: Annes de Plerinage
MP3形式
 私の、個人的にだけど、そして宣伝みたいだけど、「ああ、これは自分が書いた『考える生き方』(参照)と同じだな」と思った。そう思うのは書いた本人くらいかと思ったらツイッターでそう思ったという感想を寄せてくれる人もいた。
 私の場合は大学院にいたときのことだったけど、実質大学関連の友だちすべてから見捨てられてしまった。自殺は思わなかったけど離人症になった。多崎つくるの症状も自殺志向というより、これは自分と同じ離人症に近いようだ。そして36歳まで結婚もせず、空っぽな人生を送っていた。僕の本を凡庸でくだらないと評した人もいたけど、自分はまさらに凡庸そのものの絶望に浸っていたし、春樹さんのこの小説も同じ、凡庸な人間の苦悩という線を描いていると思った。
 もちろん違いはある。一番の違いは、この小説では主人公が過去の修復に向かうところだ。
 35歳を過ぎて、自分の人生半ばだなと思う人たちが新しく生き始めるには、過去の修復は大切なことかもしれないし、それにぐっと押し出す感じのメッセージを出すあたり、こっそりと春樹さんも老いたなあと思った。衰えたというのではない。老いが見せる人生の真実の展望をぐっと表現するようになってしまったなということである。そのあたりも、自分が書いた本の思いと通じる。
 その意味で、現在30代の読者なら、この小説を普通に読みながら、自分にとって人生の修復とはなんだろうという、個人個人の人生の課題に向き合う大きなきっかけになるだろう。
 ただし現実の人生は、私もそうだったけど、この小説のように過去の友人と打ち解けるとは限らず、思いがけない他者に遭遇することのほうが多い。その点では、多崎つくるの巡礼は異例かもしれないが、そうした、過去の修復における隔絶した他者については、この作品では、シロと呼ばれる女性に集約的に表現されている。
 もう一つやや個人的な話になるけど、今回の話題の出版に合わせて、cakesからの提案で、『村上春樹の読み方』(参照・途中から有料)として初期の四部作について書評を書いた。この力を入れた書いた書評で、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の文芸的な読解の重要点は、結果的に押さえた手応えはあった。
 ちょっと偉そうな言い方になって嫌がられるかもしれないけど、今回の作品の秘密は『風の歌を聴け』の秘密に強く関連している。むしろこの作品は『風の歌を聴け』と同じテーマが隠れている。一言で言えば「直子問題」である。関心のある人は、cakesの連載を読んで頂けたらと思う。
 現状ではcakesの連載は、『風の歌を聴け』の前編で、これに次週以降、中編と後編が付く。粗原稿で一万字ほどだった。その後、『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』と続く。いずれも粗原稿は仕上がっていてどれも一万字ほどになった。現状の路線で公開できれば、cakesの連載としては12回分になりそうだ。まだ公開は未定ではあるけど。
 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』との、初期作品との関連でいうと、主人公をインスパイアする女性を使った構成は、『ダンス・ダンス・ダンス』とよく似ている。今回の作品を読みながら、沙羅との関係の結末は、ユミヨシさんになるかという予想は持ってしまった。また、沙羅は『ノルウェイの森』のレイコさんにも近い。また金太郎飴になるかと思ったが、その点は配慮されていた。
 いずれにせよ、こうした春樹文学の背景を知らなくても『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は読める。こうした話題はこれからの読者には必要なことではない。
 この作品の本格的な書評はひとまず置くとして、文学作品として心惹かれた点をメモ的に挙げておきたい。
 まず大学時代の友人・灰田とその父の挿話の重要性がある。この作品は時代が曖昧に書かれているが、多崎の父もだが灰田の父が村上春樹自身の全共闘世代に重ねられる。つまり、村上春樹の想像上の息子の物語になっている。
 『1Q84』では設定年代にもよるが、主人公たちには春樹さん自身が重ねられていたが、今回の作品では、時代を経ることの意味が付与され、息子的な他者の距離感があり、その基調は興味深かった。私も55歳になって自分の子供の世代を思うことにも関連しているせいもあるが。
 灰田にまつわる物語の系列は、この作品に重要な副旋律になっているが、この作品では十分には回収されていない。その点でいうなら、沙羅の物語も回収されていない。
 村上春樹は、未回収のテーマを別作品にすることが多いので、そうした点からすると、この作品は、あるべき作品の半分なのだろうと思えた。続編という形で出てくるか、あるいは沙羅の物語として出てくるわからない。あるいは別の作品系列になるかもしれない。いずれ出てくるだろう。それでも村上春樹も64歳なので、そのころは70歳に近い。それだけの作家の体力が維持できるかは多少疑問はある。
 この作品の一番の文学的な価値は、性の扱いにある。村上春樹の一時期の作品、特に『ノルウェイの森』や『1Q84』のような普通にポルノグラフィーでも通じるような描写はなく、さっぱりとしている。だが、『海辺のカフカ』をもう一つ推し進めて、性の意識の深い問題に触れるようになっている。灰田との独自の関係や、沙羅との不能状況、シロの妄想とクロの意識といった部分である。
 精神分析学的に言えば、土居健郎『甘えの構造』(参照)で提出された前エディプス期の同性愛的な問題の延長である。漱石的な話題とも言える。老婆心ながら土居が示すのは日常的な「甘え」という意味ではない。
 ラカンが縷説するように、前エディプス期の同性愛的親密性がエディプスの暴力性によって断ち切られるところに、他者の秩序が形成される。半面、そこが失敗すると泥のような不定形の暴力と狂気が露出する。
 この半面の微妙な部分が、作品の主要な話題の背景に語られていて、文学的には、人生の修復や和解といった倫理的なテーマよりも興味深い。しかもその部分で『1Q84』のリトルピープルの概念とも接触している。
 前エディプス期の同性愛的親密性は、土居が指摘するように日本人の情愛やホモソーシャルな権力によく適合していたのだが、現代という時代は、この情愛とそれが必然的にもたらす憎悪が、先進国の知識人全体に蔓延している。
 その点でこの作品は、欧米などの若い世代にも感覚的によく理解されるだろう。中国などの場合は、日本と同じ同性愛的なアジア的な心情も共有するのでそこでの理解もあるだろう。
 古典的に言えば、この悲劇は、ラカンが言うようにファルスの登場で解決されるはずだが、現代社会ではなぜかそうはいかない。むしろ、ファルス的なものは、滑稽で暴力的な倫理に転換し、倒錯した形で反体勢側でホモソーシャルな権力に転換する。まさにリトルピープル的に。
 この現代の人間の根源的な課題を、感性的に描き出しているという点で、村上春樹は現代の文学のそのものの最前線にあるのは疑いようがない。
 
 

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2013.04.11

振り込め詐欺はなくならないだろうと思った

 先月、警視庁が「振り込め詐欺」の新名称募集をツイッターでしていた。何に決まったのかとちょっと関連のニュースを見たが、まだ決まってはいないらしい。「振り込め詐欺」では多様な詐欺実態に合わなくなったこともあるだろうが、警視庁としては、ネタとして盛り上げて社会に注意を促したかったのだろう。とはいえ私としてはそれほど関心のある話でなかった。
 以前は「オレオレ詐欺」と呼んでいたように記憶している。昔から親族をいつわった詐欺というのはあっただろうが、2004年頃から、ある程度組織的に「オレオレ詐欺」のような詐欺が展開され、社会問題となったのだろう。
 それしても、と当時思った。世の中には、子供や孫が「おれだよ」とだけ言って、親や祖父母に電話して金を無心するというのがあるのかと、うらやましかった。
 私は、そもそも親に「おれだよ」とか電話したことはない。ではどう電話するかというと、名前を名乗る。それが普通だと思っていたのだが、若い頃世の中に出て仕事をしているとき、たまたま職場から親のいる自宅に電話をかけることがあり、そのとき、同僚から「今の電話の相手、お母さん?」と聞かれたことがある。
 「そうですよ」と答えると、「お母さんにいつもああいうふうに話をするの?」とさらに聞かれた。どうやら、同僚は親にはそういうふうに電話はしないらしい。その話を聞いて私のほうが驚いたものだった。私は、親に「おれだよ」とか言わない。
 思い出すと、親に対する電話の応答は、社会に出る前でもそうだった。なので、大学とかの友人で、その親に電話するのを聞いたとき、方言に変わって親密に語りだす人がいて、そうか彼は地方出身であったかと思ったものだった。
 私にはそういう方言はない。生まれたころからいわゆる標準語(共通語)を日常使っていた。家族間でもそうだし、親密な友だち間でもそうだった。若い頃の恋愛とかでも恋人に「おまえ」とかその名前を呼び捨てにすることはなかったように思う。正確には忘れちゃったけど。
 話をもとに戻すと、「オレオレ詐欺」っていうのが会話として成立してしまうのが、自分にとってはなんとも不思議な世界だった。さらに親密な関係で金銭のやりとりが簡単にできてしまうというのも不思議だった。たぶん、私の親であれば、そういう金の無心に乗ることはそもそもない。
 社会に瀰漫する「オレオレ詐欺」はその後、手法が変わり、「オレオレ」だけでなくなったので「振り込め詐欺」と呼ばれるようにはなったが、実態にある種の親密な会話がベースになっていることは変わらないようだった。しかし、新種の手法として、税務署などお役所というか公的機関を真似た詐欺が増えてきたようだった。これは私も二度ほど経験がある。
 一つは税務署を名乗った電話だった。が、私は昔からナンバーディスプレイを使っているので、その電話番号が税務署とは思えないなと奇妙に思って、話を聞いていた。
 最初から詐欺だろうと思ったわけではなかった。相手は、若い人の声だがお役人らしくきちんと話しかけてくるのだが、私はというとそれに輪をかけてきちんと話す人なのである。そのうち、相手が「これはなんだか変だぞ」と思っている、奇妙な動揺のような印象が伝わってきた。
 なんというのか、化けの皮が剥がれるかもしれないという不安のように、言葉が崩れだしてきた。そのあたりで、ぶちっと切れた。
 そのあと、ついでなんで税務署には、そういうことがありましたよとは一応報告した。市民の若干の役割のようなものだろう。
 もう一つの事例は、なんかよくわからない公的機関を名乗っていた。なんだろう、それ、と思ったが、私の丁寧な対応は特に変わらない。そして展開は同じようになってきて、相手の言葉にちょっとほつれが出て来た。この人、たぶん、日常はそういう会話してないんだろうなと私は思った。そのうち、なんだかよくわからないが相手が奇妙な理由を付けて切った。ボロが出ると思ったのだろうか。
 以降、この手のよくわからない公的機関からの電話はなかったが、先日、NHKの調査会社を名乗るアンケート調査と称する電話があった。以前の詐欺電話っぽい人のように若い男性ではなかったし、それほど丁寧は口調でもなかった。
 話を聞くに調査はNHK本体によるものではなく、NHKが外部に委託したようではあった。団体の名前は忘れたが、ナンバーディスプレイには0120で始まる番号が表示されていた。
 なぜフリーダイヤルから電話がかかってくるのだろうと少し疑問に思った。また委託団体に私の電話番号という情報伝えてよいと私がNHKに許可したことがあっただろうかとも疑問に思った。
 それでも、アンケートくらいは答えてもいいだろうと快諾を伝えたところ、テレビを付けてNHKにチャンネルを合わせて、どうたら操作をしてくれという。地上波のチェックをしたいらしい。
 その説明手順と意図がよくわからないので、正確に聞こうとすると、かなり細かいことを言い出したのだがさらに理解しづらい。困惑した。NHKの受信料はきちんと払っているので痛い腹を探られるということはないのだが、こうした相手からの指示に従っていくと、洗脳商法のように、次第に関連の指示に従うことに疑念が薄れてくるものだ。まずそれが嫌だった。私は基本的に他人から動作を命令されても納得しないとしないのである。
 このまま操作しても疑念などもあって途中で躓きそうだし、そうなってから、その操作は嫌ですとかいうのもめんどくさいことになりそうなので、その時点で、「口頭で答えられるアンケートには答えますが、操作を必要とするアンケートにはお答えするのはお断りします」と述べた。
 相手がどう出るかと思ったが、さらっとわかりましたと引き下がったのでほっとした。
 あれはなんだったのだろう。疑問のポイントは、本当にNHKからのアンケート調査だったのだろうかということだ。相手の0120で始まる電話番号は記録されているので、メモをしてNHKに問い合わせてみた。問い合わせは、よくわからないが通常の電話料金に加えて有料になるらしいが、それで疑問が解決できればいいかと思った。
 結果だが、NHKが正式に委託したものらしかった。電話番号もそれであっているとのことだった。つまり、さっきのアンケートは不審な電話ではなかったのである。
 新種の詐欺ではなかったのだなと思ったが、もう一つ疑問が残った。電話をかけた人が本当にNHKから委託の調査員であることは、どのように口頭で証明したらよいのだろうか、ということだ。
 公的な機関から電話があったとき、それが本当にその機関からの電話だということを、私はどのように知ることができるのだろうか?
 既知の間柄であればわかるが未知の人からの電話の本人を、その人が語るようなスターテスであることはどのように信頼できるのだろうか。
 しばし考えたのだが、私の中間的な結論は、なし、である。
 相手が偽装されているかどうか、知ることはたぶんできない。ナンバーディスプレイは多少役立つだろうが、それでも十分だとはいえない。
 その先思ったのは、私にかかってきたNHK委託の調査員はそれでいいとしても、これを詐欺に応用することは可能だ、ということ。しかもそうした応用に遭遇すれば、少なからず人が信頼してしまうのだろう。
 現在の「振り込め詐欺」などはまだATMといった戸外の装置を使っているが、いずれ携帯電話を含めて自宅の電子機器で金銭の授受などは可能になるだろう。というか、すでに携帯電話からでも金銭授受がからむ契約は可能だ。
 そうした場合、相手が本当に名乗っているとおりの人であるかはわかりえないのだから、新種の詐欺もまた防げない。
 公的な機関が、通信媒体を介したとき、信頼できないというのは、困ったことだし、解決策もなさそうだ。
 ツイッターとかなら本人認証マークみたいなものも取得できるが、そうした仕組みを公的機関にどう導入したらいいのか、わからない。
 これではいつまでたっても、「振り込め詐欺」のようなものは、名前をいくら変えても、なくならないだろうと思ったわけである。
 
 

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