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2013.03.15

朝鮮半島で静かに進行している六か国協議破綻の余波

 個人的な印象に過ぎないのかもしれないが、自民党安倍政権になってから、国際情勢や安全保障について国内の報道や議論は見えにくくなったように思える。いや、そうした傾向は民主党政権下でも同じだったのかもしれない、と、いうような印象論だけ展開しても雲を掴むようなので、具体的な事例から見ていくと、例えば、国際世論を無視して2月12日に実施された北朝鮮の核実験だが、それから1か月が経ち、どうなのだろうか?
 どうなのだろうか? というのは、あれは何だったのか? あれをどう受け止めたらよいのか? 日本の安全保障にとってどういう意味があるのか?
 そうした議論が、なにか風船でも萎むようになんとなく消えてしまったような印象があるのだが。
 まず前提として、今回の北朝鮮の実験がどのようなものであったかすら、それを解明する続報があまり見られないように思う。その点はどうだったのか。
 ロイターが12日付け「北朝鮮の核実験以降、放射性物質は検知されず=監視機関」(参照)で次のように報道している。


[ウィーン 12日 ロイター] 放射性物質の監視などを行う包括的核実験禁止条約(CTBT)機関は12日、北朝鮮による2月の核実験以降、放射性物質は検知されておらず、今後も検知される可能性は非常に低いとの見解を示した。これにより北朝鮮が利用した核物質の科学的な特定は困難とみられている。
 同機関のトゥンボルク報道官は「現時点において何かが検知される可能性は非常に低い」と語った。その他の詳細には触れていない。

 表題の「北朝鮮の核実験以降、放射性物質は検知されず」というところからすると、その後、北朝鮮が核実験はしていないと受け取れそうだし、そう受け取ってもよいのだが、報道内容を見ると、2月12日の核実験の内実は今後もわからないという意味である。
 それはではどういう意味なのかというと、単純な話、今回の実験が、プルトニウム型なのかウラン型なのかわからないということだ。少なくとも、世界が懸念したウラン型であったとは言えないということになる。
 つまり、1か月経ってみて、なんとなくではあるが、あれはウラン型ではないという暗黙の合意なようなものが形成されつつあり、であれば、結局、北朝鮮のブラフ(こけおどし)だったかということもその暗黙的な合意に含まれることになる。
 ブラフ説を裏付ける報道もようやく流れてきている。14日付け共同「北の核実験めぐり軍と穏健派が内部対立か 韓国報道」(参照)である。

 14日付の韓国紙・中央日報は、北朝鮮が2月に核実験を実施する前、金正恩第1書記の叔父の張成沢国防副委員長ら穏健派が実験に反対したが、朝鮮人民軍の強硬派が強行することを主張、最終的に金第1書記が軍の意見を受け入れ実験に踏み切ったと報じた。北朝鮮消息筋の話としている。
 消息筋によると、張氏ら朝鮮労働党を中心とする穏健派は、核実験を実施すれば中国が背を向けることを理由に反対したが、崔竜海軍総政治局長ら強硬派は昨年12月の事実上の長距離弾道ミサイル発射に対する国連安全保障理事会の制裁強化決議に反発し、体制存続のために核実験が不可欠だと主張したという。
 韓国の情報当局者は「金第1書記は体制結束と対米交渉力強化のため、軍部の意見を受け入れたようだ」としている。

 その消息筋情報をどの程度受け止めるべきかだが、心証としては概ねあたっているように思われる。別の側面から言えば、北朝鮮内部、特に、張成沢が強行派に対立している点が重要である。
 話が少しそもそも論になるのだが、北朝鮮についての報道ではどうしても金正恩が中心に出て来て、あたかも彼が強い意志をもった独裁者であるかのような枠組みになる。しかし常識的に考えてもこの若造はただのハリボテであって、裏で動かしているのは、張成沢であろう。実際、これまでのこのハリボテの動きを見ていると、親中派らしい張の思惑が透けて見えたものだが、それがここに来て急激に強面に転じているのは、張の立場の変化を物語っているとみてよいだろう。
 話を戻すと、張の立場が揺らいでハリボテが強行派の看板化しているとはいえ、この強行派の動きもまた無視できるものではない。さらに核実験などをやりかねない素地は残っている。3月8日に北朝鮮が韓国との相互不可侵・非核化宣言を破棄し、敵対国に「先制的な核攻撃」を加える用意があると言い出したのもそうした動向にある。また、11日は朝鮮戦争の休戦協定が白紙になったとも朝鮮労働党の機関紙が伝えたが、これについては、国連としては認めていない(参照)。
 北朝鮮内の強行派が独走しているとなれば、その抑制に国際社会も動かざるをえないののだが、というところで米国もメッセージを出している。14日産経新聞「「核実験に見返りはない」 オバマ大統領、北朝鮮に圧力」(参照)より。

【ワシントン=犬塚陽介】オバマ米大統領は13日に放映されたABCテレビのインタビューで、米国は核実験を強行する北朝鮮に見返りを与えてきた過去の「パターンを打ち破った」と強調。米国は「悪行に報償を与えることがないよう努めている」と述べ、挑発行為にも圧力強化で対抗するなど、強い姿勢を維持する考えを示した。
 また、北朝鮮に寛容な姿勢をみせてきた中国が、北朝鮮情勢について「再計算を始めている」と指摘し、対応に変化の兆しが出てきたことを歓迎した。

 まとめると、張成沢の弱化という軸にすると読みやすい。ただ冒頭に戻るのだが、こうした情報は現状、ばらばらになっていてなかなか読みづらいし、日本国内での分析・評論があまり見当たらない。
 以上は現下の状況論で見てきたのだが、国際動向なり日本国家の安全保障という点から見ると、軸は、中国の対北朝鮮動向にある。今回の事態でも、中国が張成沢の側についたことで話がまとまってきた。
 日本国内で報道や論評がないのになんとも奇妙な感じがするのは、ここである。この状態は、どう見てもこれまでの六か国協議が破綻したことを意味しているはずである。端的に言えば、米国オバマ政権の対北朝鮮政策が失敗したことであり、それに追従した日本の対北朝鮮政策も破綻したということで、普通に考えても、ゆゆしき事態なのだが、そうした報道や視点を日本国内であまり見かけないように思う。私が見落としているだけかもしれないが。
 国際的にはしかし、すでに六か国協議の破綻の文脈で動いており、逆に中露はそこを建前にした動きを見せている。4日の聯合ニュース「北朝鮮制裁は6カ国協議再開が目的=ロシア国連大使」(参照)。

【ニューヨーク聯合ニュース】国連安全保障理事会で3月の議長国を務めるロシアのチュルキン国連大使が3日、タス通信の単独インタビューに応じ、対北朝鮮制裁などについての見解を示した。
 チュルキン国連大使は、昨年12月の北朝鮮による長距離ロケット発射を受け安保理が先月採択した制裁強化決議に基づき適切な対応を取るべきだと述べた。その上で、「安保理の新しい(renovated)対北朝鮮制裁は北朝鮮の核活動に焦点を合わせ、朝鮮半島の非核化に向けた6カ国協議再開を目的にしなければならない」と強調した。
 チュルキン国連大使のこうした発言は韓国や米国、日本などが主導する強力な対北朝鮮追加制裁に拒否感を示したものとみられる。これは今月の議長国であるロシアが今後、安保理での協議を融和的に主導することを示唆したものとして注目される。
 タス通信はまた、多くの外交官が3回目の核実験を行った北朝鮮に対する安保理での制裁協議が今月中に終了するとみていると伝えた。
 中国もロシア同様、適切なレベルの制裁と6カ国協議再開に主眼を置いた対応を求めているため、韓日米の譲歩が得られれば今月中に安保理の対北朝鮮制裁決議案が採択されるという見方が出ている。
 先月25日にはロシアのラブロフ外相が北朝鮮のミサイル・核開発計画に対する制裁は当然だが、これを朝鮮半島周辺国の軍備増強の口実にしてはならないとけん制した。さらに、制裁決議案は6カ国協議再開が北朝鮮の核問題を解決する唯一の解決策だという点を明示しなければならないと強調した。
 韓米日の3カ国は今回の対北朝鮮制裁決議案に、平和に対する脅威、破壊、侵略行為について加盟国が強制的な措置を取ることができる国連憲章7章を援用する方向で協議を進めているが、ロシアと中国はこれに反対している。

 一見すると、中露の対応がまともなように見えるが、この態度、すでにどうにも手が付けられなくなっているシリア問題と同じ構図である。実際のところ、行き先がないとわかっている口実として中露が難癖のネタに六か国協議の枠組みを持ち出している。
 そこでこの難癖の意味なのだが、表面的には北朝鮮への制裁を緩和せよとするかのようだが、具体的に中露側の安全保障にとって、現下の北朝鮮がどういう意味をもつかという問題が背後にある。
 どういうことなのか。中国の立場に立って、北朝鮮が核化するとどうなるかと考えるとよい。
 まず中国が北朝鮮の脅威に置かれるということはない。やる気になれば、中国はあっという間に北朝鮮の体制をひねり潰すことができるからだ。
 ではなぜかというと、「北朝鮮が韓国との相互不可侵・非核化宣言を破棄」の帰結を考えるとわかりやすいが、つまり、韓国が再核化するという懸念である。
 単純な話、状況の国際政治上の課題は、韓国の再核化にあると見てよい。その延長には日本の核化の問題もある。
 中国としては、韓国の再核化は避けたいし、まして日本を核化させたくはない。そのため、中国の情報操作活動はこのあたりに集約されてくることも想像されるが、問題は、国際的な状況が客観的に変化すれば日韓国内世論の操作だけではどうにもならないことだ。
 米国に目を転じる。米国はこの事態をどう見ているか? 米国は韓国の再核化をどう見ているかである。
 この部分は印象によるが、米国は韓国の再核化を望んでいないようだ。当然、日本の核化も望んでいない。中国の軍事化にさらなる燃料を注ぎたくないうことでもある。
 米国は現状、六か国協議についてのオバマ政権の失態をあまり明白にしたくないし、中国を刺激もしたくないというあたりで、ぐだぐだしている。
 他方、関係国以外はどう見ているかだが、フィナンシャルタイムズがけっこうぞっとするような意見を出していた。8日付け「北朝鮮の拡大する脅威(The growing threat from North Korea)」(参照)より。中国側も日韓の軍事強化は望んでいないだろうという流れで。

That said, the US needs to give China some reassurances. Washington must make clear that a diplomatic shift by China away from the North Korean regime does not run against Beijing’s regional interests. China has always feared that the collapse of the North Korean regime would lead to a strengthened US military presence across the Korean peninsula. Washington must make clear that maintaining such a military presence is not its long-term goal.

そうは言っても、米国は中国を安心させる必要がある。米国政府は、中国政府が北朝鮮体制から距離を置く外交転換をしても、この地域における中国国益に対立しないことを明瞭にしなくてはならない。中国は北朝鮮体制の崩壊が、朝鮮半島全土における米軍強化になることをずっと恐れ続けていた。米国政府は、そのような米軍駐留が米国の長期計画にはないことを明確すべきだ。

The US should also send a strong signal to Beijing that if Korea is ultimately unified, it would withdraw.

朝鮮半島が最終的に統合されるなら、米国は軍隊を撤去するという合図を強く中国政府に送るべきである。


 フィナンシャルタイムズ社説は、当面の課題である、在韓米軍に焦点を置いていて、在日米軍については議論していないが、統一朝鮮において、米国の軍事力が全面撤退するビジョンを中国に伝えるとよいと主張しているのだ。
 率直なところ、呆然という印象を持つ。
 現下の状況で言えば、韓国は非核化のまま米軍に見放される恐怖に怯えた状態にあり、そのなかで、米中が、統一朝鮮からの米軍撤退を密約すれば、韓国はさらなる疑念に駆られる。統一朝鮮は北朝鮮の核を廃棄して自律的に非核化するかさえわからない。統一朝鮮は対日政策だけで核化を進めかねない。
 もちろん、対抗して日本が核化せよとか、在韓米軍や在日米軍を許容せよといったばかげた話ではない。そもそも統一朝鮮といったビジョンそのものをこの地域が持ちうるのかすら皆目わからない。
 いずれにせよ、なんとも雲を掴むような日本国内世論というか、自国を含めた安全保障の議論が、曖昧模糊としているのはなんともならないのだろうか。
 
 

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2013.03.13

ランチドレッシング、売ってた

 春の陽気に誘われて散歩がてらにあまり使っていないスーパーマーケットにまで足を伸ばして、適当に食材を買ったのだけど、そのおり、たまたま、ランチドレッシングを見つけた。え? あるの? 日本に? 驚いたのである。しかも、キューピーだった。
 キューピーのドレッシングのラインナップはけっこうウォッチしているのだけど、うかつだった。いつごろ出たのか気になって、帰宅してからググってしまったよ。そうしたらわかったのだけど、今年の1月25日に発表という話だった。毎日新聞のサイトに「キユーピー、「バターミルクランチドレッシング」を発売」(参照)という発表記事まであった。けっこう、力入れてんじゃん。記事を読むと、その意気込みに少し笑える。


 キユーピーは、当社ドレッシングの主力シリーズ、金キャップシリーズから、牧場(RANCH)を語源にもつ「キユーピー バターミルクランチドレッシング」を新たに発売します。
 「バターミルクランチドレッシング」は、バターミルクパウダーのコクとほんのりとした甘みが特徴の洋風ドレッシングです。
 バターを作る過程で生じる液体清乳のことを「バターミルク」と言い、それを粉状にしたものを「バターミルクパウダー」と呼びます。このバターミルクパウダーを使い、ほんのり甘く、クリーミーでコク深い味わいに仕立てた「バターミルクランチドレッシング」は、レタスなどの葉物野菜はもとより、アボカド、ベーコンやチキンなどの肉類、チーズや卵などともよく合うことから、ご家庭で主菜サラダを手軽に楽しむのに便利な一本です。また、ほんのりとした「甘み」のある味付けが子どもにも食べやすく、ファミリー向けとしての需要も期待できます。

 まあ、そうなんだろう。
 なぜか日本でランチドレッシング売ってなかったものな。知らない人も少なくないだろう。
 知らない人にどう説明するか、悩んだのではないか、キューピー。その結果が「バターミルク」かあ。売り方をいろいろ考えたんだろう。
 前々から、なんで日本にランチドレッシングがないのか不思議だった。
 厳密にいうと、ないわけでもない。輸入食材とかにあることもある(参照)。ユウキというところから「カリフォルニアクリーミー」(参照)という名前でも売られている。たぶん、「ランチ」では通じないと思ったのか、ランチは分類名だから、ブランドとして変えたのか。
 「ランチ」というと、ランチ休憩というような、お昼のランチを連想する。日本語で「ランチ」と言うと昼飯になってしまうというのもネーミング上の問題だったんだろう。
 正しくは、Ranch、つまり、大牧場のことだ。最初、牧場で提供していたというか、乳製品なんで、牧場っぽかった。
 この手の話はどっかに書いてあるだろうとググると、ウィキペディアに書いてあった(参照)。

 1954年にスティーブ・ヘンソンとガイル・ヘンソンがカリフォルニア州サンタバーバラに"Hidden Valley Ranch"という観光牧場を開いた。そこで二人はスティーブが発案したドレッシングを訪問客に提供した。これが人気を博したため持ち帰り用の瓶詰を販売し始めるとともに、工場を作ってマヨネーズとバターミルクに混ぜるためのランチ・シーズニングのパック詰めを売り始めた(このパック詰めは現在も売られている)。そして1972年にクロロックス(en:Clorox)がこのブランドを800万ドルで買収した[1]。

 詳しい人いるんだなと思ったら、これ英語の項目の訳ですな。
 で、これ、ランチドレッシング、普通にアメリカで人気のドレッシングである。ウィキペディアにも書いてあるけど。

 アメリカにおいては1992年以降イタリアンドレッシング(en:Italian dressing)をしのぎ最も販売数の多いドレッシングとなっている[1]。ディップ用ドレッシングとしても用いられる。

 そんな感じ。
 なのになかなか日本では見かけなかった。コストコなら売っているだろうと思って探したけど無かった。
 無いものは作ってしまえということで、手作りもできないでもない。サワークリームとマヨーネーズをまぜてガーリック/パウダーでフレーバーをちょいと付ければ、なんか似たようなものができる。レシピは探すと、いろいろあるにはある。

 ところが、だんだんドレッシングを手作りしなくなってしまったのですよ。
 自著『考える生き方』に30代前半、ふらふらと旅行をした話を書いたけど、ギリシャとか地中海あたりの、普通の食い物屋にはいると、テーブルに、オリーブオイルとワインビネガーの小瓶が2つ並んでいて、あれです、昭和の食卓に、醤油とソースがあるような感じですね。まあ、あるわけだ。
 ほいで、ドレッシングとして、自分で、このオリーブオイルとワインビネガーをかけろよ、ということになっている。場所によっては、レモンとかサービスで出てくるので、それをかけろよ、というのもある。
 ようするに、地中海食だと、わざわざドレッシングなんてものは作らなくてよいわけで、私も、けっこう長いこと、そうしてきた。
 なのに、なんか、市販のドレッシングを使うようになって、特に、キューピーのイタリアンは定番になってしまった。
 トホホとか思っていたけど、一度逆走すると、それも止まらず、もう、なんでもありになり、ランチドレッシングも知ったのだけど、売ってないよ、3と4が出て、コマは冒頭に戻るみたいなことになった。
 さて、使ってみた。
 うまいですよ。
 でも、カロリーは高いはず。自分は肥満とかではないけど、あまり高カロリーなものは食うもんじゃない。
 ウィキペディアにはこうある。


ランチドレッシングは脂肪分が高いことで知られる。小さじ2杯分で145kcal(608kJ)、15gの脂肪を含む。カロリーの94%が脂肪に由来する[4]

 145kcalというと、だいたい、ご飯一杯分。
 「小さじ2杯分」で? まさか。
 と、原文を見たら、"A typical 2-tablespoon"とある。誤訳ですね。「大さじ2杯」です。
 でも、多いには多い。
 キューピーのこれはどうかと見たら、「大さじ約1杯(15g)当たり/エネルギー量60kcal」とある。大さじ2杯で、120kcalなので、やっぱり高カロリーの部類でしょう。うまいけど。
 ちなみに、キューピーのイタリアンドレッシングだと、「大さじ約1杯(15g)当たり/エネルギー量40kcal」。
 ドレッシングを使うということはそういうことです。
 でも、マヨネーズだと200kcal(30g)なので、みなさんが普通に利用されているマヨネーズを考えたら、大したことはありませんね、って、マヨネーズがそもそも高カロリーなんだけど(参照
 ドレッシングのカロリーを気にするなら、ヨーグルトベースでなんか手作りしたほうがいいかもしれない。
 まじめに、最終ランチドレッシングのレシピ考えてみるかなあ。
 
 

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2013.03.12

finalvent著『考える生き方 』に書かなかった「あとがき」のことなど

 ちょっと勘違いしていた。明日、13日に掲載されるはずと思っていた、finalvent著『考える生き方』の「あとがき」的な話が、今朝、ダイヤモンドオンラインに掲載されていた(参照)。先日、同書の「はじめに」をここで公開したのが第一回となり、今回のは第二回となっている。これでおしまいで、第三回はない。
 今回の話は、ダイヤモンド社の小冊子「KEI」に寄稿したもので、『考える生き方』を脱稿してからしばらくして、書籍紹介を目的に書いたものだ。話は、紹介的な内容に加え、脱稿後だったので謝辞的な思いも入ってしまったが、特に目新しい内容は含まれていない。なお、小冊子「KEI」については、PDFでの配布があるとも聞いている。
 自分もそうだが、書籍を買うときは、「はじめに」と「あとがき」をさっと読む。特に「あとがき」を読むと、書籍の概要がわかることが多い。書評家なども、あとがきをさらっと読んで書くものではないか。その点で言えば、「あとがき」がないことは、書籍の海図がないに等しい。『考える生き方』ではそうしたことを意図したわけでもないが、「あとがき」があっても蛇足だろうし、一度書籍にしたものは、どう読まれてもしかたのないものだと思っていた。幸い、いろいろ読後の感想や書評をいただくと、「ああ、ここまで読んでくださったか、ありがたい」と感慨深いものが多く、謝念に胸あふれる。
 本書の裏話的な話も、うるさいばかりだが、この本を書くにあたって、できるだけ参考にした書籍や知識めいた話を本文に込めるのは控えるようにしていた。が、それもかえって不自然になので、骨組みがまとまったあとで、話の流れであったほうがよい書籍については言及した。
 個別の参照ではないが、この本を書いている途中で、しばしば思い出した本が二冊あった。
 一つは、R.D.レイン『レインわが半生』(参照)である。精神医学者のR.D.レインが30歳になるまでの半生を書いたものだ。ちょうど、主著『ひき裂かれた自己』(参照)が世に問われる前までの彼の人生を記したもので、書籍の意味合いとしては、『ひき裂かれた自己』などで反精神分析といった呼称でも問われる、R.D.レインの思想の形成背景を示したことになっている。
 それはそうなのだが、私は同書を読んだとき(もちろん『ひき裂かれた自己』などの主著を読んだあとで読んだのだが)、仮にそうした功績がなかったとしたら、この本はなんだろうと思ったものだった。ちなみに、オリジナルタイトルは『Wisdom, Madness and Folly』(参照)で、旧約聖書「伝道の書」2章11節に由来している。


 わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。
 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。
 知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。
 わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。
 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。

 R.D.レインが自身の精神医学への思想から「知恵が愚痴にまさる」ことを読むのはたやすいが、彼の思いは、もう少し文学的なものではなかったかと思っていた。その核心は、伝道の書の「知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう」ということではなかったか。
 人生に成功したかに見える人も、人生に失敗したかに見える人も、「同じように死ぬ」。どうしたことであろう。
 「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」というなら、人生の失敗というもののある普遍性というものがある。
 R.D.レインの書籍にはもう一つ、それを読んだ日から忘れられない、しかし、やや難解なフレーズがあった。それも『考える生き方』を書きながら、なんども思い出していた。

 私たちの個人的な「現実」はきわめて従属的な”変数〔可変物〕”であり、それは、この「現実(リアリティー)」に従属または依拠していないのに私たちを左右していながらも私たちを越えた何らかの非従属的な〔独立した〕「実在(リアリティー)」の中に存在しているように思われる要因の結果または産物なのだ、と私は悟った。

 手元に原文がないのでもう少しわかりやすい訳文にはできないが、そのまま読めばオカルトとか宗教、せいぜいよくてもプラトニズムのようにも受け取る。このフレーズが出てくるのは、R.D.レインが催眠術を体験したときでもあり、またこれを契機に彼はある種、超常現象の存在を信じるにようにもなった。
 が、私はこのR.D.レインの考え方は、そう神秘的にとらなくてもよいと思っていた。そうではなく、人々が、たいていは凡庸な人生を歩みながら、その意味をなんとか汲もうとしているとき、個人を越えた、人間とはなにかという問題が、その人の人生を例示として、開示されると理解した。
 もっと簡単に言えば、凡庸で、社会的には失敗したよなあという人生を生きて、それでも自分の人生の意味を汲み取ろうとすれば、人間とはなにか、という問題がそのなかですかし絵のように見えてくるのではないか、ということだ。
 照れながら「自分語り」ですよとは言ったもの、自分の経験の受容がどこまで普遍的な意味に達するかは、その語りが、どこまで普遍的に届くかにかかっているし、その普遍というのは、自分が普通の市民であるということに極まるはずだ。自分に思想というものがあるなら、そこが基点だろうと思っていた。
 実際には、私の場合は、R.D.レインのような業績もなく、その半生記とは異なり、むしろ大学を出てから55歳に至る部分が中心となった。
 特に35歳までの、社会的に脱落していく姿は、それを素直に表現すれば、その時代の社会を映し出す鏡になるだろうとも思った。逆に35歳以降は、自分がそれまで想定してもいない人生展開でもあった。それもできるだけ素直に書いてみた(自分が自分の人生にびっくりした)。
 R.D.レインの話に戻れば、不思議なことに、彼は実際には、同半生記と主著を30代で仕上げたのちは、死ぬまでずっと沈黙したに等しい。その沈黙の意味も大きいがなかなか言葉になってこない。
 もう一冊、『考える生き方』を書きながら、なんども思い出していたのは勝小吉の自伝『夢酔独言』(参照)である。
 勝小吉は、あらためて言うまでもなく、とあらためて言ってしまうのだが、勝海舟(勝麟太郎)の父親である。彼の書いた自伝が『夢酔独言』である。「夢酔」は「海舟」同様、雅号であり、私なら「終風」といったころ。さながら『終風独言』といった連想もした。
 勝小吉については、当然ながら、勝海舟の父として想起され、実際、『夢酔独言』も勝海舟全集9巻にも含まれているように、勝海舟という傑物の背景としてまず読まれる。だが、『夢酔独言』が書かれた時期には勝海舟はまだ歴史に残りそうな人物として世に出ているわけではなかった。
 その意味で、『夢酔独言』は無名な人の無名な自伝であった。実際に読んでみると、破天荒な自由人であり、それ自体も面白い。
 子孫に宛てて書いたという建前になっている。

おれほどの馬鹿な者は、世の中にもあんまり有るまいとおもう。故に孫や曽孫のために咄してきかせるが、よくよく不法もの、馬鹿者のいましめにするがいいぜ

 表記は直したが、そのまま現代にも通じる口語で書かれている。もとも小吉は文字がまともに書ける人でもなかった。
 小吉は、自分を「馬鹿な者」として、いわば反面教師としての自伝という建前で書かれているし、それなりの説教なども散らしている。書いてある自伝は、なかなかの傑物を思わせるが、それでも勝海舟がいなければ、この自伝は世のなかから実質消えただろう。
 私が思ったのは、勝小吉のように爽快な小気味よい自伝回想ではないが、世に消えてしまうという点で共通に、凡庸な人間の自分というのを見つめてみたかった。
 うかつにも『考える生き方』を書いている時点で、気がついたのだが、小吉がこの自伝を書いたのは、40歳ほどだった。すでに家督を息子・麟太郎に譲って隠居していたので、自分と同じ55歳くらいに思っていたのだった。
 小吉はまだ若かったなと思った。彼は48歳で死んでいる。そう思ったとき、じんわり涙がにじんで、小吉さんに「てめーのくらだない人生論でも、自分がいいと思うなら、さっさと書けよ」と励まされているようにも思えた。南無南無。
cover
考える生き方
Kindle版eBook
 話は全然変わるが、昨日、『考える生き方』のKindle版が出ていた。以前にも書いたが、Kindle版を待たれたにもかかわらず、書籍のほうを買ったかたには申し訳ない。かく言う自分も、昨日、Kindle版を購入した。表紙はどうなっているかと見ると画像だった。また本文中でも「……」のところが画像処理してあった。自著を電子書籍で買うというのは、なんかとても変な感じがした。夢か、これ、みたいな。
 
 

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