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2013.01.04

産業革命は、なぜ起こったのか?

 愚問なのかもしれないが、正月、疑問に思った。産業革命は、なぜ起こったのか?
 そんなのことは自明ではないか。そう思ったあと、あれれ?と思った。意外と盲点だった。簡単に説明できない。
 問題をもう少しスペシフィックしてもよい。産業革命がなぜ英国で起こったのか?
 私の世代の歴史学はバリバリのマルクス主義だったから、あれだ、原蓄のプロセスに産業革命を位置付ければそれでいいとしていた。懐かしい。「原蓄」なんて最近の左翼さんは知っているだろうか。資本論すら読んだことない左翼さんも増えたようだし。
 「資本の原始的蓄積」の原語は、"Ursprüngliche Akkumulation des Kapitals"である。英語だと"Primitive accumulation of capital"である。"Ursprüngliche"は「オリジナル」「原初」「本来」といった含みがあるのだろうが、"Primitive"には、「アトミック」「構成要素的な」といった印象がある。いずれにせよ、マルクスは"des Kapitals"の自然性をモデル歴史的に遡及したのだろう。この考え方はギリシャ哲学から思索を始めたマルクスらしさもある。もっともこうした思考法はマルクスに限らないが。
 結論からいえば、原蓄論と産業革命起源説明には直接的な繋がりはない。資本主義の生産様式という様式の、高度な一形態が、技術の量的な拡大で質的な変化をもたらしたというくらいなものだろうか。私のマルクス主義歴史観というか、エンゲルス主義歴史観の理解が違うのかもしれないが。
 「原蓄」が出て来た手前、少し整理しておくと、ネットなどだと資本主義というのはけっこうずさんに言及されるが、資本主義というのは生産様式であり、その様式の特異性が問われるものである。
 その際のもっとも基本的な構成要素は、生産手段を奪われた労働者(都市労働者)と、生産手段と資本をもった資本家という二項である。
 そこで、この二項がどのように史的に発生したのかと問うのだが、この問いは普通に考えればわかるようにモデル理解であって史実ではない。が、マルクス主義の学者は中二病をこじらせる系の人が多いからか、実歴史とモデルの違いがよくわからない人が多い。あるいは、混同自体もアダム・スミスを含め、ある系の学の様式と言えないこともないかもしれないが。
 そこでこの史観では、説明の原点に、囲い込み(エンクロージャー:enclosure)が出てくる。
 エンクロージャーというのは局所変数をもった関数をカプセル化することではなくて、「農地囲い込みする運動」のこと。つまり、自営農民(Yeoman)が生産手段である農地を追い出されて都市に流れ出て、生産手段を持たない労働者に転落するが、他方、農地を獲得した強奪者から資本家が生じるという、お話である。とりあえず二項の説明にはなる。
 エンクロージャーという事象が英国史に存在しなかったということはない。第一次(16~17世紀)と第二次(18~19世紀)と二段階で見ることができる。そこで、原蓄は長期に渡ったとして、その帰結が産業革命である、みたいなお話になりがちだ、ということだ。
 補足すると、この土地の収奪とも言えるようなプロセスはひどいじゃないかとパッショネットに情念化するのがアジア的マルクス主義の一典型で、欧風のマルクス主義だとこのプロセスは、領主の財である農民や共同体構成要素の村民といった絆(束縛)から都市民への解放という側面がある。スターリンはこれを強制的にやってしまってもの凄い数の人を殺害した。毛沢東は逆に農民と労働者の違いがわからず、労働者のような農民を形成しようとしてさらにものすごい人を餓死させた。マルクス主義は正しく理解しないと、副作用が大きい。
 エンクロージャーは、封建制の基礎たる封土を通じた経済関係の解体とも言えるわけで、マルクス主義史観だと、このバイプロダクトとして市場が形成されとも考える。労働者はというと、資本主義生産様式の特徴である資本の自己運動から、剰余価値搾取後の労働の対価として貨幣を受ける。それが都市の市場に使われるという意味合いもあるのだろう。
 もっともらしいが、おとぎ話です。
 資本が資本としてどのような形態で蓄積されるかと考えても、よくわからない。普通に考えれば、貨幣だが。はて? 実際に金貨を袋に貯めるというものだろうか。なんであれ実際のトランザクションでは、売掛買掛で信用を基軸とするだろう。すると金融は存在していたわけだが、そのあたりは資本論で、さっぱりとわからん。その点ついては私が判らないのだけかもしれないが、W-G-WとかG-W-Gというなら、貨幣(G)が重要だが、資本論では、その由来は、金が貨幣化するとか、交換価値の一般的な象徴となるといった愉快な議論で覆われている。話がずれていて、ファンタジーの体系にも見える。
 史実的に見ると、エンクロージャーで農民が都市労働者となったとでもいうような人口流動は見つかっていないようだ。もちろん、結果的に産業革命を支える労働者は、農地から離れた労働者ではあるだろうが、「エンクロージャーで追い出された」説で済む話ではない。このたありは、以前ちょっと気になって調べたが、私の現時点の結論は「よくわからん」。むしろ産業革命や都市が潤沢になって人が集まってきたという、逆のプロセスなのかもしれない。
 ヘンテコな話になってしまったが、ようは、産業革命がなぜ起こったかについて、エンクロージャーから労働者が発生してとかいうのは、おとぎ話ということ。
 そもそも、産業革命がマルクス主義史観で言われるような生産様式の普遍的な変化形態でありえないのは、英国(オランダもあるが)でしか発生しなかったことから明白と言っていいだろう。つまり、産業革命が英国で発生したこと自体、特殊な出来事だったわけで、マルクス主義史観のような一般・普遍説明はそもそも枠組みから、ずっこけている。
 じゃあ、産業革命って何なの?
 前提として、「産業革命」という術語だが、原語"Industrial Revolution"の訳語としてはベタであり、この術語自体が歴史的な背景はあるので、失当しているとは言えない。が、歴史学用語としてはボケ臭い。
 普通に考えても、あるいはこれは普通にマルクス主義で考えてもわかることだが、対象は「工業」である。「工場制手工業(マニュファクチュア:manufacture)」が機械を使った「工業」に変わる「工業化(Industrialisation)」のことである。その意味で、「産業革命」というより「工業化革命」と呼ぶほうが史実に近い。そこで、機械と技術が焦点になる。
 英国の、この工業化革命が近代国家を介して、他国に伝搬して、世界的に工業化革命が進んだという点では、これは工業化のグローバリゼーションなのである。
 でだ、すまん、これ、前振り。
 当初の疑問は、これまたタスカのピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』(参照)に援用されているマンサー・オルソンの議論である。またしても、"redistributional coalition"(再配分連盟)の話が基点になる。
 簡単にいうと、産業革命と再配分連盟の関係である。
 話がそうでもなくても、まどろっこしくなってきたので、基本要素を挙げておくと、再配分連盟としてのギルドの解体が、産業革命に関連したという問題提起である。


中世期のヨーロッパでは、すべての都市が独自の経済を持ち、ギルドたちは関税、値段、技術の普及をコントロールすることで、みずからは高い収益をあげていた。しかし、王侯たちが行政を統合するようになり、それが全国規模で統合されたときから、ギルドのシステムは崩壊した。その結果、経営資源は効果的に互いの産業と結びつくようになった。
 このプロセスがいちばん早くはじまった国であるイギリスとオランダで産業革命が起きた。しかし、ギルドたちがコントロールして繁栄を誇った大都会では、経済がまったく回復することなく、現在にいたっている例がいくつかある。たとえばエクセタとヨークは、いまではイギリスの穏やかな地方都市にすぎない。


 中世期のヨーロッパで、当時の再配分連盟でもあったギルドが崩壊したきっかけは、イギリスやフランスといった国の統合があったからだ。ある都市だけの経済の繁栄、ある都市と都市で異なる経済構造が一国の経済に吸収され、変化を起こす。それまで一都市だけの「管轄区域」で通じた規制、習慣はすべて捨てられてしまった。中世期のヨーロッパで、長く守られてきたギルドという再配分連盟は、こうした新しい変化に直面して、崩壊したのである。

 興味深いのだが、いくつか注意しなければいけないのは、ギルドが崩壊したことが産業革命を引き起こしたということではない。
 シンプルに読めば、都市の上部に国家が出現することでギルドが崩壊し、それが産業革命をもたらす背景を整備した、という理解はできる。原因とまでは言えない。
 ギルドという再配分連盟の崩壊は、産業革命の条件ではあっただろうし、その崩壊というのは、ギルドという対象を潰すのではなく、「管轄区域」で通じた規制や習慣の変更である。
 このことを、オルセンは「ジュリスディクションの変化」と呼んでいる。

ジュリスディクションとは、直訳すれば「管轄区域」である。それぞれの「管轄区域」には、その区域の中だけで通用する固有の規制や法律がある。

 タスカは、オルソンの「ジュリスディクションの変化」から「ジュリスディクションの拡大」を、2020年に至る日本の未来の大きな要因としている。
 ここで提出されている、ジュリスディクションなのだが、「管轄区域」というのはよい。間違ってはいない。が、どうも気になったのは、原語"jurisdiction"である。
 これはオルソンの造語ではなく、普通の言葉で、一般的には「裁判管轄」「司法権」「裁判権」と訳される。"jurisdiction over foreigners"であれば、「外国人に対する裁判権」ということで、明白な放火犯であってもジュリスディクション(裁判管轄)が異なれば、「外国人に対する裁判権」は直接的に行使できない。こうした事例の含みから、"jurisdiction"は、「司法」や「正義」といった範疇で考えがちだが、オルソンの指摘はむしろ、商慣例に近い印象を与える。
 実はここではっとしたのだが、"jurisdiction"自体が、むしろ、商慣例のような意味を核としているのではないかということだった。言うまでもなく、民事というは、正義を定めるというより、規則違反に対する罰金の取引と言ってよく、それ自体が商慣例に近い。
 もう一つ連想したのは、七世紀のイスラムの台頭というとき、西欧の視点に立ちがちな現代だと、イスラムの新興勢力と武力を直結してしまいがちだが、イスラムの台頭は、イスラム法による商慣例ベースの「ジュリスディクションの拡大」であり、その結果の繁栄が軍事力なども強くしたということではないか。
 「ジュリスディクション」を「裁判管轄」とすると、法なり司法と考えがちだし、もちろんそれで正しいのだが、史的にはむしろ王侯の権利であり、さらに言えば、それによって王侯が定義されるような権利でもある。
 そして「ジュリスディクションの変化」というとき、実は、その変化によって、王侯の権利として現れたということなのだろう。別の言い方をすれば、「ジュリスディクション」は基本、「都市」の権利であり、都市という配分連盟(再配分とは言いづらい)の商慣例的な利権でもあった。
 自分が何に拘っているかというと、これは、「市民」「都市」という意味での"civitas"の原義が、国家や帝国によって保護される個人という構成の概念ではなく、むしろ、利権の保護による配分連盟の副次的な産物だったのかという点である。
 ちょっと思索がずさんになるが、「産業革命」というのは、「ジュリスディクションの変化」なり「ジュリスディクションの拡大」でもあるだろうが、"civitas"の変化でもあったということだろう。
 年末、よくわからない経緯だったが、ネットで天賦人権論が話題になっていたが、こうした議論、つまり、普遍的な人権概念が出て来たのは、元来都市ギルドに所属したジュリスディクションが国家・王侯に所属し、さらに国家を離脱していく過程にあったということかもしれない。別の言い方をすれば、市民革命それ自体が、「ジュリスディクションの変化」の副産物だったのかもしれない。
 
 

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2013.01.03

TPP・ISDS条項以前の話

 TPPの、なかでもISDS条項(投資家対国家の紛争解決)については、冷静な議論のアウトラインは概ね尽きているように思える(参照参照参照)。そのわりには現実ネットの世界では極度な地雷地域でもある。あえて地雷を踏む勇気を出してもナンセンスなので通り過ぎるのが無難だし、実際のところ民主党でも自民党でも政治力を持つ利権団体(再配分同盟)の力が支配的で現実的な対処は難しい。仕方が無かったとも言えるが、すでに期限的に「バスに乗り遅れ」ている状態にも等しい。こうした議論するだけ不毛かつ消耗の話題は、日本のWebの状況ではタフな面々に譲るほかはない。まあ、それはそれとしてだね。
 ピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』(参照)を読みながら、TPP・ISDS条項以前の話が興味深かった。同書は1997年と古い書籍なので、現状すでに変革されているのかもしれないが、簡単に触れておきたい。

日本の法は国際市場に耐えうるのか
 「日本の法は国際市場に耐えうるのか?」という問いそのものがすでにナンセンスかもしれないが、ここでは形式的に立ててみたい。タスカの1997年の同書より。


 たとえば、中近東やアジアで日本企業がビジネスの契約を結ぶ際に、日本の法律に基づいて契約することは、まずありえない。ほとんどはアメリカかイギリスの法律が下敷きにされる。

 なぜか。

日本の法律システムに国際競争力がまったくない分、日本の法律事務所は世界でのビジネス・チャンスをどんどん失っている。第一、契約がこじれて万一裁判になったら、日本では二〇年、三〇年の長期裁判も覚悟しなければならない。そんな話は、世界では通用しない。

 いくつか疑問が浮かぶ。
 1997年のこの指摘は今も妥当なのか? そうだとすると、日本はこの15年間、日本国の法的な未熟によってビジネス・チャンスを失うプロセスであり、現況はその結果なのだろうか?
 印象としてはそのように思える。
 その文脈にTPP・ISDS条項の話があるようにも思える。米英法に依存するよりも、あるいは下敷きとするよりも、より公的なルールが求められるのは合理的なプロセスだからだ。
 なお、日本のこの分野の法整備の不備は、法律の分野が強固な再配分同盟となっているからというのがタスカの議論だった。妥当な見解だろう。

なぜ英米法なのか?
 日本企業による国際ビジネスが英米法に拠っていたのはなぜか。


 イギリスとアメリカの法律同士の競争となると、アメリカの法律が頻繁に使われる。ただし、アメリカの法律システムにも大きな問題がある。裁判になって負けた場合、どのくらいバカバカしい金額を支払うことになるかがわからないのだ。そのためイギリスの法律事務所の世界での台頭が目立つが、むろん、特に才能やノウハウがあったり、イギリス企業がバックにあるという理由からではない。イギリスの法律システムそのものが、ある程度わかりやすく、比較的フェアで、裁判に負けても支払う金額は高くないといった評判があるからだ。そういったシステムを維持、監督するするためにはかなりのスタッフが必要といえよう。

 1997年のタスカの議論は、英国法の有利を人的な厚みとしていると同時に、法の運用が再配分同盟に実質制御されている日本ではそれが無理であることも示唆している。
 TPP・ISDS条項は、先にアウトラインとして参照した議論などを読む限りでは、こうした法的プロセスを簡素化し統合する役割を持つはずで、むしろ全体の有利に働くはずである。
 さらにTPPの文脈を外してISDS条項だけ見ても、TPP以前にすでにこの間、日本はISDS条項を含めた投資協定を各国と結んでいるわけで、そのことからも実質的に法整備の弱い国の側にISDS条項が不利になることをしてきたわけでない。もしそうなら日本自体が矛盾した立場になる。
 しかしTPPでも濠州はISDS条項に反対しているが、その理由は自国に法システムがあるためと見てよいだろう。日本の場合は途上国というよりは、先進国なので濠州のように自国法システムに異存するというのが理想的には第一選択になるはずだが、そうなってはいない。なれもしないのが現実である。日本では先に言及したように、再配分同盟によって国際ビジネスにおける法システムが死んでいるからだろう。

TPP・ISDS条項なしでやっていけるか
 「TPP・ISDS条項なしでやっていけるか」というのも形式的な修辞疑問に過ぎないが、仮に設定してみるのは、タスカの同書にある「ソフトのデファクト・スタンダード」の問題が関連するかだ。
 同書では扱いが短く、かつ曖昧な議論ではあるが、アジアでは高度な日本製品の購入先にはならないとしていた。1997年の指摘であることを念頭に。


 それに、この先二〇年間、日本の基幹産業は電気情報産業になるといっても、ソフトのディファクト・スタンダードは、依然としてアメリカが決定権を持ち続ける。つまり、アメリカとの関係を無視して、アジアに焦点を移動させるのはとても無理な話なのだ。

 ここでもいくつか疑問がわく。
 まず前提として、日本の基幹産業が電気情報産業であるというのは20年を待たずしてすでに崩壊している。なぜ崩壊したのかというのは別の話題になるが、ごく簡単にいえば、経営の合理化を問うおちゃらけ論などを別にすれば、そもそも日本の産業構造で主要な位置を占めるはずのサービス産業強化との関連の失敗と、金融政策のミスせいだろう。
 日本において今後、電気情報産業自体が独自に成り立たないとするなら、ソフトのディファクト・スタンダードを論じる以前の状態のようだが、この点についてはむしろ、現代の産業のインフラを支える情報技術が事実上米国に支配されている現実のほうが重要だろう。もはや議論以前に事実認識の課題である。その意味で現代の産業そのものが米国との関係を無視して存立しえないし、これは広義にソフトのディファクト・スタンダードとも言えるだろう。
 となれば、弱い位置に置かれた立場はできるだけ公的なルールを求めるしかなく、その点で日本の産業はどう存続できるかという議論でなければならない。普通に考えれば、ここもまたTPP・ISDS条項の文脈に思える。
 リアリティの全体変化もある。1997年時点では日本が優位性を持っている高度な製品の販売市場はアジアには求められなかったが、成長セクターであるアジアこそが今後は日本の高度な製品の販売市場となるのかもしれない。
 いずれにせよ現実問題として見ると、TPP・ISDS条項については「TPPの議論すらしてはならない」という日本の戦争末期の「敗戦の議論をしてはならない」と似たような空気に覆われている現状では、どの政党による政府でも身動きが取れない。すでに手遅れ状態に近い。手遅れでないとしても、法システムの不整備でいかんとも動けない日本にしてみれば、さほど焦る意味もない。どうにでもなーれの、安逸な状態であるというのもなんだが、考えるだけ困惑する事態になっている。

 
 

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2013.01.02

「再配分連盟」と「合理的な無関心」

 古い話題だとばかり思っていたが、「再配分連盟」と「合理的な無関心」は意外と今後の日本の政治に重要な視点かもしれないと思い直したので、少し補足的に書いてみよう。話の元はピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』(参照)である。

「再配分連盟」とはなにか
 「再配分連盟」は、ごく簡単に言えば、利権集団と言ってもよいだろう。ただし、ややこしくなるが、学術概念でもあるので、もう少し丁寧に見てみたい。
 「再配分連盟」は"redistributional coalition"の訳語だが、訳語としてこなれているとも思えない。定訳語なのかもしれないが、この概念を提出したマンサー・オルソン(Mancur Olson, Jr.)の、邦訳書『国家興亡論―「集合行為論」からみた盛衰の科学』(参照)のオリジナル"The Rise and Decline of Nations"をネット上のリソースで検索すると、"distributional coalitions"として含まれていた。この邦訳書では「配分連盟」とされているのかもしれない。後日確かめてみたい。また、邦訳書のなかでは主著的に見える『集合行為論―公共財と集団理論』(参照)のオリジナル"he Logic of Collective Action"もテーマ的には同一で、これにも含まれているかもしれない。これも同様、後日の課題に。
 "redistributional coalition"と"distributional coalition"の概念に差があるのか、ざっとネット上のリソースを見る限りでは、判然としない。基本的に同一と見てよさそうな印象がある。
 タスカの同書の孫引きになるが、彼は「再配分連盟」を次のように「利害団体」として捉えている。


一つの社会構造が長くつづくほど利害団体の数が増え、発言力も大きくなり、イノベーションを妨害して、経済のなかのフローを自分たちの懐に移転する

 以下引用中の「彼」はオルソンである。なお、ここでの労働組合は、直接的には日本的企業別組合を指しているわけではない。日本論ではないからである。

古典的な再配分同盟の例が労働組合だが、労働組合以上に大きな力を持っているのは業界団体である。補助金、関税、特別減税、あるいは新規参入を妨害するさまざまな規制によってメリットを受けている業界、団体はすべて再配分同盟の一種と彼は定義している。
 典型的な例は医療業界である。(中略)
 弁護士もまったく同じだ。(後略)

 再配分同盟が形成されるのは、長期間の安定した国家における、とも指摘されている。

重要な点は、再配分同盟をつくるのは簡単ではないということである。かなり長期間の繁栄と安定を必要とする。したがって、戦争、侵略、革命といった混乱を経験した国は、こうした連盟は少なく、発言力も弱い。

 ではどうしたらよいか。つまり、どうしたら「効率的でフェアなシステム」が構築できるか? 答えは無理。

こうしたグループは小さくなるほど、メンバー一人当たりのメリットが大きくなって、政治に対する圧力と意識も高くなっていくからだ。

 これに関連して、次の概念「合理的な無関心」が重要になる。

「合理的な無関心」とはなにか
 「合理的な無関心」とは、合理的に選挙民が政治問題に無関心になることだ。オルソンの概念なのかについては、不明。タスカの枠組みかもしれない。原語も不明。"Rational Indifference"という用語は一般的ではありそうだが。
 選挙民が政治問題に無関心であることが、合理的な状態だとも言える。なぜそのようなことが起こるのか。
 この問いは、「再配分同盟」が維持されてしまうのはなぜか、に関連する。「再配分同盟」のプレーヤーに対して。


 このように共通の利害を持っているプレーヤーたちは、自分たちの利益を守るために早い段階で強固な連盟を作ってしまうのだ。
 一方、大規模グループの代表者、一般消費者、預金者、サラリーマン、患者を代表するグループは、連盟、団体といったものを組織化しにくい。組織を作ったとしても、一人当たりが受けるメリットが小さいために、政治の場で自分たちの権利を声高に主張することがほとんどないからだ。

 「再配分同盟」が国家の富を偏在させても、大衆は合理的に無関心になる。

なぜなら、それぞれの問題の解決がもたらす一人当たりの得は、一人当たりの損をかなり下回るからだ。問題解決に労力を使って得が大きいならともかく、それがわずかでしかないならば、人々は死んだふりを決め込んでしまうのである。

 基本構図は以上の通りだが、原理的に見るなら、「再配分同盟」が国家の富を偏在させる傾向が、大衆の「合理的な無関心」を刺激する閾値のようなものは想定されるかもしれない。つまり、「再配分同盟」の利得があまりに公共の利益を毀損するか、不合理な利益を得ている場合である。
 こうした原理図からすると、その閾値がどこにあるのかが、問われているとも言える。

「車検制度」の事例
 「再配分連盟」と「合理的な無関心」の事例として、タスカは、「車検制度」を挙げている。


 たとえば、現在の日本の車検制度でメリットを受けているグループ、自動車業界および関連業界の一人当たりの得は、デメリットを受けているグループ、すなわち一般消費者の一人当たりの損をはるかに越えている。
 一般のユーザーにしてみれば、車検は二~三年(初回車検は三年)に一度なので、それほど重要な問題ではない。しかし、整備業者にとって、車検をなくすことは即座に死活問題となる。その結果、この問題を政治の場で一番議論するのは、車検でメリットを受ける修理工場業者という再配分同盟なのである。

 車検については他にも再配分同盟がありそうにも思えるが、基本構図はこれと同じだろう。
 タスカは別所でも指摘しているが、この再配分同盟が官僚の天下り先とシステム的に融合しているのが日本の大きなシステム上の問題でもある。

農業の事例
 日本の農業分野も再配分同盟とタスカは見ている。


 グループが小さくなるほど、一人当たりのメリットが大きくなるのは、農業分野を見ればよくわかる。日本では、農業は年々減少する一方だが、農協という農業団体は政治的にますます力を持つようになってきている。日本は農家が政治活動から受ける一人当たりのメリットは、本当の農業社会よりはるかに大きいにちがいない。

 農業についてはこの程度の言及しかないが、実態はさらに複雑だとも言える。農協は基本的に金融機関であることも自体を複雑にしている。それでも、農業、ここでは、補助金農業が、補助金農家を束ねる農協にとっては死活問題であることは確かで、これが大きな政治力を持っている限り、TPP推進などできるわけもないのだが、これはちょっと別枠で考えてみたい。

原発問題の例と今日的課題
 タスカの書籍を読み返して、原発についての言及が興味深かった。原発事故がない時代は普通に読み過ごしていた部分である。


 たとえば、原発が本当に安全であるかどうか。すべての国民がその問題を勉強したとしても、一人当たりが受けるメリットは低い。メリット、デメリットの比較でいえば、勉強するのは、原発がある、または原発建設予定地がある地域に住んでいる人々と業界だけだ。したがって、対立構造は業界対その地域の人々であり、その他の一般の国民にはあまり関心のない政治問題となる。

 原発事故が発生し、またそれを課題とする政党が乱立する総選挙が実施された時点で、この問題を再考すると、1997年時点のタスカの考察は誰もが不十分であると思うだろう。
 原発における「再配分連盟」が誰であるか、事故以前はそう明瞭ではなかった。
 明瞭に見えるのは、通称「原子力村」と呼ばれている「再配分連盟」である。これに対して、原発のデメリットが事故によって可視化されたかに見えた大衆・選挙民はどう行動したか。やはり、「合理的な無関心」だったのである。なぜか?
 おそらく、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が、それ自体が「再配分連盟」に、大衆・選挙民から見えたせいではないか。
 つまり、「再配分連盟A」対「再配分連盟B」の対決の構図のなかで、大衆・選挙民のメリットがデメリットを上回ることなく、「合理的な無関心」に移行してしまった。
 この構図で言うなら、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が、なぜ、大衆・選挙民のメリットに寄り添うことができなかったのか、という課題にもなる。

「再配分同盟」とマスコミ・Web運動の限界
 原発問題の例をさらに見ていこう。
 構図は、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団それ自体が「再配分連盟」に転換したかに見えたが、これが旧来からある「原子力村」という再配分同盟に敗退した、と見ることも可能だ。概ね、反原発、脱原発、卒原発の「再配分同盟」側は、そのように了解しているだろう。その憎悪ともいえる敵対感情からしても、これは一概に否定できない。
 実際のところ、「原子力村」は農業における農協のように、長く強固な政治勢力を維持しているため、新参の「再配分同盟」が排除されてしまうということはある。
 しかし、ここまで反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が総選挙で突出したのは、民主党政権登場の成功事例を踏襲したためではないか?
 つまり、マスコミやWeb運動を使って、対抗する「再配分同盟」を、罵倒し威嚇することで得た勝利の味に酔ってしまって、今回は、「合理的な無関心」によって押しつぶされたと見ることもできるだろう。
 この場合の再配分同盟の戦略は、(1)罵倒・愚弄・上から目線・啓蒙、(2)社会恐怖による恐喝、という2つが顕著だと思えた。
 逆にいえば、この2つが、マスコミやWeb活動で顕著化したとき、大衆・選挙民は「合理的な無関心」が発動してしまうというルーチンが形成されつつあるのではないか?
 同じことが、民主党政権かで醸成されたナショナリズムの興隆にも言えるだろう。国防の重要性、中国の恐怖といったものも、同じ類型に収束する。

問題は「合理的な無関心」の合理性
 全体構図のなかで、私が特に危機感を持つのは、「合理的な無関心」の合理性である。つまり、「合理的な無関心」が、今後の日本の国家運営にとって、合理的なのか、という課題である。
 従来の考え方すれば、大衆・選挙民の変化、つまりその「合理的な無関心」の発動は、(1)再配分同盟による政治の、あまりの不合理性の可視化、(2)明確なデメリットの提示、(3)それ自体の知性化を待つ、という契機になるだろう。
 しかしざっと見たところ、そのいずれも、今後の日本にさほどの有効性はなさそうだ。特に、Webを使った政治関与やIT技術を使った政治意識なども、さほどの意味はないだろう。
 このことが特に現下鮮明になるのは、金融政策という課題を考えてもよいように思える。
 金融緩和はもっともファンダメンタルに、国家を媒介した、原義的な再配分を強行する政策である。つまり再配分同盟にとって、もっと原理的な弱化を与えうる。が、弱化の影響力は広範囲なので、現存の再配分同盟の連結を推進させることも少ない。
 金融政策といった、高度に知的な課題において、Webを使った政治関与やIT技術を使った政治意識は、ほぼ無効だと思われる。
 では、有効なのはなにかというと、残念ながら、リバタリアン・パターナリズム(参照)しかないように思える。
 さらに、自分自身のリバタリアン的な思想と矛盾するのだが、リバタリアン・パターナリズムを推進できるのは、実質、知を担える官僚だろう。(日本の大学に知を期待してもしかたないだろう。)
 陰鬱な構図になってしまったが、現代において、特に現代日本では、政治そのものが技術化している以上、その専門性に、大衆・選挙民の「合理的な無関心」は対応できない。
 金融政策以外の例も挙げておくと、後期高齢者医療制度についても顕著だった。麻生政権時代、罵倒と威嚇を繰り出した新参の再配分同盟たちは、今、政治技術の前に沈黙せざるを得なくなっている。
 ただしそうは言っても当面は、(1)「再配分同盟」と「合理的な無関心」の対立、(2)既存「再配分同盟」と新参「再配分同盟」の、マスコミやWebを使った罵倒と威嚇の馬鹿騒ぎは継続されるのだろう。
 せめて、馬鹿騒ぎというなら、公共性を考慮しつつ「逆立ちカルボナーラ食いパフォーマンス in 渋谷」くらいに楽しいとよいのだが。
 
 

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2013.01.01

ようやく来るか、不機嫌な時代

 2013年、明けましておめでとうございます。
 こないだ2000年になったと思ったら、もう13年。早いもんです。雲取山登山の御一行は意外なご来光が拝めたでしょうか。
 私はというと、昨晩は紅白歌合戦を見ながら、ツイッターに浸ってました。一昨年あたりからの吉例なんですよ。うざいツイートでご迷惑をかけました。
 さてさて。
 

cover
不機嫌な時代
JAPAN2020
 昨晩はなんとなく寝つかれず、ぐだぐだした元旦となり、ぼけっーと書棚を見たら、ピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』があり、ふと手に取り、なんとなく読んでいた。2020年まであと7年かあとも思ったので。
 奥付を見ると1997年1月20日に出版された本だから、この本も16年前になるか。16年前に出された25年後の日本の予測の本。そして予測の期限でいうと、残り三分の一を切ったくらいか。どのくらい当たっているか。
 それにしても、時代の速さにちょっとびっくりしないでもない。
 1997年と言えば、小泉政権以前。橋本内閣のころ。橋本内閣から小泉内閣の時代に再読していたら、日本もけっこう改革に向かっているという印象だったろうけど、このどんより沈んだ現代日本で再読するとどうなんだろうか。
 再読した。
 結論から言うと、当たっている面と、すでに外れている面とあった。ただ、いずれも微妙な感じがした。
 「うあ、これは、めっさハズレだな」と思ったのは、タスカさん、1997年の時点で日本のデフレは終わりに向かったと予想していた点。どっこい、あれから16年しても日本はデフレに沈んでいたのでした。
 ただし、このインフレ転換の予言は、むしろ今年あたりから当たらないとも言えない。とすると、今この本を読み直す価値はあるか、なのだが、この本の枠組みでは金融政策は議論されていないので、やはり別の枠組みだろう。
 も、ひとつハズレたなと思ったのは、米国が日本やアジアへの関与を減らすということだった。これもある意味で当たりと言えないでもない。民主党政権ができたころのオバマ政権は日本に対する関心をかなり失っていた。原発事故のときも、あれでも引いていた。
 状況が変わったのはやはり民主党政権の功績と言えるだろう、逆説的にだが。
 現在でもそうとも言えるが、それまで日本が陰から支えていた東アジア諸国の安全保障のタガが外れた。中国様がずかずかと南シナ海に出て来た。各国、悲鳴を上げ、しかも親中かと見られていたオーストラリアも「中国、やべー」感が出て来て、間接的に米国の関与が少し深まりつつある。
 以上、けっこう大きな二軸で外れたとも言えるので今更読み返すまでもないかというと、未来予測としてのシナリオと見ると、どでも微妙に外れた感もあるものの、日本社会の根幹的な問題、特にマンサー・オルソンを参照した"redistributional coalition"(再配分連盟)の問題は、しみじみ民主党政権を通して理解できたので、しんみりと読んだ。
 これは簡単に言えば、利益団体のことで、従来は自民党的な政治の問題であり、小泉改革の文脈で論じられていたものだったが、日本の場合、民主党のほうがこれが露出することになろうとは。特に最悪だったのが、郵政改革のぶちこわしだった。
 日本社会に巣くう再配分連盟をどうするかだが、これも結論的にいうなら、金融緩和が当面有効だろう。じんわりと再配分連盟の弱化をもたらすことになるだろうから。逆に言えば、その抵抗勢力がこれからいっそう強くなるだろう。
 その他、個別に興味深い指摘もあった。
 これも民主党政権で痛感したことでもあったが、社会はその支配層の世代の人格形成期に影響されるというあたりだ。支配層は一般的に50歳から65歳。そして人格形成期は15歳から25歳である。同書が書かれた1997年ではまだ支配層が1945年から1960年としてしたわけで、まだ、戦後のアニマル・スピリットが残っていた。
 が、それから約15年シフトして、今の日本の支配層は1960年から1975年ということになる。「うぁあ、ダメじゃんその青春世代」という最悪の人格形成期である。このどたばたが民主党政権だったかと思うと、日本もすごいことやってしまった。
 これに併せて「合理的な無関心」という概念も提出される。オルソンの概念だろうか。再配分連盟が必死になっても、大衆はそこに利害を実感しないので無関心になるというものだ。それだけ言うならどうということでもないが。が、今回の選挙でも大衆の、政治無関心が話題になったが、この考え方すると、むしろ合理的というべきものだろう。
 やや勇み足でいうと、反・脱・卒などの原発に対する政治運動は、結果的に「合理的な無関心」によって抑制されてしまった。おそらく、そのことにいきり立つ一群の再配分連盟が十分な利益を構成できなかったからだろう。もっとも、TPP問題では、逆に再配分連盟が勝利するだろうことは明白でもある。
 いずれにせよ、これからの日本の政治課題は、「再配分連盟」と「合理的な無関心」の関連で、後者の部分を前者側にシフトさせるという意味での「Webで政治を動かす」はあまり有効でないように思う。普通に、「再配分連盟」の亜種になるか飲み込まれるかくらいだろう。むしろ「合理的な無関心」の側の大衆の無意識の高度化を見守るほうがよいように思う。
 同書の指摘で多少笑ったのだが、日本最大の再配分連盟は中年男性というのがあった。1997年ではそうだっただろうなと思わせるが、2013年ではどうか。
 この問題はごく簡単にいうと、「家計を維持するには妻が働かないといけないという状況になれば労働市場で女性が中年男性と競い合う」ということだ。
 ざっとした印象ではそうした傾向はまだ日本には見られないし、どうもそれを抑制しているのは、女性の側にもありそうな印象もある。
 あるいは、未婚化というのは、親という「再配分連盟」へのパラサイト化ではないか。同書にも指摘があったし、言うまでもないことだが、高齢者の資産はとりあえずそのままその次の世代に渡されるので、今の若い世代というのは、自立した家計を担うのでなければ、他の時代の若い世代と比べると、けっこう潤沢。
 どうにもこうにも「家計を維持するには妻が働かないといけない」という状況があれば、変化するだろう。そうなれば、つまり、日本の最終兵器、女性がまた出てくるわけである。「また」というのは、日本の戦時下で実は女性の労働力がマックスになっていた。それが戦争を長引かせてしまったと言えないでもないようだが。
 
 

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2012.12.31

2012年、今年よく聞いた曲

 2012年も今日でおしまい。今年は夏の暑さが長いわりに、あるいはそのせいか、一年は短かったなという感じがした。今年やったこと、思ったこと、お薦めの本とか、ま、そういう話はさておき、今年よく聞いた曲というかアルバムを5つほど。それほど、お薦めの曲というほどではないですよ、ちょっと趣味が人と違いすぎているし。

桜流し
 しばらくヒッキーの曲も聴けないだろうと思っていたので出ててびっくり。最初聞いたときは、『誰かの願いが叶うころ』みたいな、御詠歌みたいな曲だなと思ったが、母譲り、祖母譲りの声が大人になってきたせいか、ものすごい迫力。サウンドの造りもすごかった。

cover
桜流し
 歌詞はというと、ヱヴァンゲリヲンを知らないのでその文脈はわからないが、本人談ではその文脈を濃くしたというものでもないらしい。印象としては、「もし今の私を見れたならどう思うでしょう。あなたなしで生きてる私を」という「あなた」というのは、祖母であろうと思う。
 ポール・カーターのインストルメントもよかった。特にエンディングはたまらん。

 たまたまYabisiさんという人のカバーを聞いたが、これがけっこうツボだった。ヒッキーの縮緬ビブラートの部分が自己流にアレンジしていて、ちょっと欧風。そのわりに、アジア的な色気がぐっと。


Moments
 『Moments』(参照)は、Paul Hughesという人の曲。ジャンルは、クラシックなのだろうか。変な曲です。こんな変な音楽というのは聞いたことがありません。なんだこの変な曲は、なんだ、なんだ、といううちに、すっぽりに魅了されて、今年は飽きもせずなんども聞いていた。

cover
Moments
 ある種、病的な感じもするし、なにか精神の奥深いところに問いかけてくる、微妙にヒーリング的な何かがありそうなのだけど、よくわからない。アルバム全部を人に勧めるものではないが、一曲、これがベストというのは、"How the River Flows"(参照)という曲。視聴部分だとわかりづらいが、途中からクラシックの楽器に混じって高音域に変なパーカッションが入っている。後半の短音のピアノの打ち方も、これはなんだろういう感じ。この人、なにか、音楽の感性が変というか、私にぴったりすぎる。
 他にエレクトリック的に仕上げた"The Lord`s Prayer"(参照)もはまった。これも高音域に変な音がいろいろ入っている。たまらない。
 カバーの、アンリ・ルソー的な絵も本人によるらしい。


Laudate omnes gentes
 今年はテゼをよく聴いた。そのなかで聞きやすいお薦めはというと、"Laudate omnes gentes"(参照)かな。

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Laudate omnes gentes
 テゼについては以前に少し書いた(参照)が、カトリックがラテン語を失っていくなか、むしろプロテスタント的な運動であるテゼがラテン語の祈りを歌にしていく様子は興味深いものがあった。というか、ラテン語は美しいものだなと思った。


Feather on the Breath of God
 実は、というほどでもないが、ブログには結局書けなかったが、今年は、ヒルデガルドについていろいろ読んでいた。しかし、どうにもわからない。ヒルデガルドが巨大すぎるというのもあるのだが、魅了するわりにその確信がつかめない。

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Feather on the Breath of God
 思想の根幹は、まず、"Scivias(道を知れ)"なのだが、この黙示文学をどうあつかってよいのか途方に暮れた。ただのナンセンスなのではないかという感じもするが、スウェーデンボルイなどに比べると格段に難しい。
 そうしたなか、ヒルデガルドを見失っていくとき、この曲をよく聴いていた。曲はダイレクトに精神に語りかけるし、そのリアリティが"Scivias"に等しいのではないかとも思う。
 いうまでもないことだけど、このアルバム『Feather on the Breath of God』(参照)はものすごい名盤と言ってよいかと思うので、なにかの機会があれば是非、ご試聴を。


VIVA! 6×7
 『VIVA! 6×7』(参照)2004年のユーミンのアルバム。私は、沖縄生活の時、あれだけ好きだったユーミンを聴いていない。なにか『TEARS AND REASONS 』あたりで終わったような気がしていた。それでも2006年の『A GIRL IN SUMMER』(参照)からまた聴くようになり、最近は自分にとっての空白だったころのアルバムを求めて聴くようになった。やはりピンと来ないものは多い。

cover
VIVA! 6X7
 『VIVA! 6×7』もざっと聴いてなんにも心にひっかからなかった。が、「水槽のJellyfish」の変な音の作りが耳に残り、あ、これは「人魚姫の夢」のモチーフだと思い、そのあたりから、このアルバムの奇妙さに捕らわれた。
 「灯りをさがして」は、ざっと聴くととくになんの変哲もない曲のようだが、これは、彼女の旦那への愛の告白なのではないか。キャンティの思い出から、旦那との出会い、そして……というなかで、老いていく一人の女の愛情なのではないのか。

Without you
ひとりで歩いていた。
いつのまにかきっとあなたは先で待ってると
分岐点も見ず
人は耐えきれない痛みを与えられはしないの
あなたの笑顔が向けられないならつらすぎるかもしれない
それでも私は思い出をたよりに灯りを探すの

 そういう読みは違うのかもしれない。が、彼女は内面に、石女というわけでもないが、固い石のような苦しみを抱えていたのではないか。あるいは、ある時期からユーミンカンパニーを食わせるための細腕繁盛記というか。
 私は、ユーミンが10代のころからずっと聴いてきた。それは多少、愛のような感情も交じるのだが、そうした多少なり愛した女が老いに向かっていく心を顕したとき、どう受け止めてよいのかよくわからないなと思った。

    ※   ※

 来年は、もしかすると、ブログに関連してちょっとしたサプライズをお届けできるかもしれません(できないかも)。
 あ、それと、cakesに連載している書評の『めぞん一刻』編(参照)が、お正月期間には無料になるらしい。未読のかたは、よろしかったら、その際、ご一読を。その後もこの書評シリーズは、ここまでリキ入れるかよ的に入れてます。
 では、みなさん、よいお年を。
 
 

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2012.12.30

かつやの対決

 かつやの対決、といっても、あのイオン御曹司のそれではない。そんなの勝てる気がしない。そうじゃないんだ、かつやだよ、かつやだよ、かーちゃん。違う。トンカツの「かつや」だ。ポークコートレットだよ、いや、それ、全然違うってば。
 年末押し迫り、お前は何をしているのだと神様から静かなる細き声を140文字以内でつぶやかれつつ、寒風吹きすさぶ町を歩いていたら、いつになく、ごろーさんみたいに、腹が減ったのだ。

cover
孤独のグルメ
Blu-ray BOX
 おれ、あんまり腹が減らないおっさんなんだが、ここは、そうがつんと、ドンもので責めるか。がつん、どんどん。がつん、どんどん。ごろーさんみたいだな。
 そうしていたら、道のむこに、かつや、が、見えるじゃないですか。あれに見えるは、かつやじゃないか。かつや、と書いてある。イオンと書いてあるわけじゃない。
 かつや、か。それだ。
 前回、かつやで、海鮮カツ丼を食べたとき、猛烈に後悔したのだった。
 そもそもなんで海鮮カツ丼なんてものを食ってしまったんだ。いくら据え膳食わぬは男の恥といっても、そもそも据え膳じゃないだろ。自分で注文したんだろ。自己責任だろ。新自由主義だろ。あの時の自分は自分じゃなかった、なんて、男の台詞じゃないだろ。
 海鮮カツ丼。その甘美な響きにだまされた。カツ丼っていうから、カツが入っているのと思うじゃないか、普通。それ海鮮だ。迫り来るバルチック艦隊。ポークに海老、それに、牡蠣、どどーん、と連想してしまったのが死亡フラグ。期間限定とあるのも、アマゾンポチリ猿には、あとの祭りだよ。
 カツ、じゃ、ねーよな。これ。
 いや、カツか、カツなのか、これ。いや、これ、なんだ?
 海老フライ二つ。嘆息、嘆息。八年間、漁村でしかも海老の養殖所の近在で暮らした、おれは知っている。見知らぬ町で海老フライだけは食わないことにしようと誓ったのに。忘れていた。
 海老フライを囓る。
 だめだこれ。
 そして、牡蠣フライ。これは地雷だとわかっていて、ぐっと踏み込む。ぶっちゅう。
 そして、イカフライ。ああ、だめだめだ。
 こうなったら、どばどばと泥のようにソースをかけるしかないと理性を飛ばして、ヤンキー娘が泥レスリングできるくらい、ぶっかけた。
 食えない。食えないしろものになった。さんざんな目にあったのだった。
 あれから、三か月。リベンジの時を待っていた。前振りが長いぞ。
 迷うことはない。カツ丼だ。
 ソースカツ丼じゃないぞ。
 店内の脂ぎった熱い空気。戦場はここだ。
 「お一人様ですかあ、カウンターにどうぞ」とナースの言葉。
 カドの席に座る。思えば、これが最大の失敗だった。
 しかし当面の問題は、梅か竹かだ。
 松は、無理すぎる。
 梅か、竹か。それが問題だ。
 竹、食えるのか? 無理だろ。無理無理。理性を取り戻せよ。梅だよ。梅ちゃん先生。
 「梅」とおれは小声で言う。中国江西省の洞窟の中に取り残されたような、さびしい響きがした。
 かつやで、梅しか食えないのか、おれは。でも、しかたないな。
 あたりを見渡す。
 おっさんたちは、がっついている。だが、おれは、梅。これがおれの生きる道。梅。
 店は混んでいたので、カツの出も遅い。
 ポケットから、韓国製のスマホを取り出して、てろてれとツイッターを見ていた、その時だ。
 カドの、目の前の席に、おっさんが座ったのだ。おっさん? いや、爺さん?
 白髪交じりの髪はぼさぼさ。肌は皺くちゃで、あぶらけなし。カーキー色の汚いコートを羽織ったまま。おい、タイムスリップで昭和の神田古書店からやってきたみたいな男だ。そして、どことなく、インテリくさいのがたまらない。坂本龍一と新宿高校で同級生だったがよぉ、とか言いだしそうな爺さんである。
 おれより、年上だろうな。当然。
 いやこれで、おれもけっこうな爺さんだからな。ユニクロの薄手のダウジャケットとかぴっちっと着ていてもな。
 眼前に、おっさんの横顔。うへーなポジションである。見るなよ、おれ。と、ツイッターのタイムラインをすべらす。
 ははは、こちらは、ツイッターをばっち使いこなす(死語)、デジタルオヤジだぜ、と思った瞬間、アッパーカット。
 爺い、おもむろに、ずだ袋の書類のなかからタブレット端末を取り出した。
 え?
 そこでタブレット端末? ありかよ。
 何、機種なんだよ?
 と、思ったとき、そういえば、おれも鞄のなかに、先日買った、糞みたいなKindle Fire HDが設定途中で入れたたままだったことを思い出す。
 まずい。まずいな。
 なんてことだ。どうしてこんなときに、iPadを持ってこなかったのだ。
 ここでずしんとしたKindle Fire HDを出したら、おれの負けだろ、がちで。
 爺さんの機種ななんだ?
 まさか、Nexsus 7。だったら、おれの完全な敗北だ。
 いや、Nexsus 7 じゃないな、これ。分厚いぞ。
 この分厚い感は、レグザじゃあるまいか。最新型じゃないな。
 こ、これなら、Kindle Fire HDで勝てるかもしれない。しかし、おれのKindle Fire HDはWifiだが……しかし、この韓国製スマホのテザリングでなんとかなるはずだ。へいっ、こっちはノマドだぜ、ノ・マ・ド。
 そのとき、「梅」と声がした。
 ふっと、かつやに居ることを思い出した。
 おれは、かつやのカウンターでKindle Fire HDとスマホでテザリングしようとしていたのだろうか。むむむ。
 なんて悪夢だ。今は目の前のことに専念すべき時なのだ。かつやのカツ丼「梅」を無心に食う時なのだ。
 と、そのとき、またもアッパーカット。
 「竹」と爺いの声。
 竹、だと?
 竹、食うのか、爺い。食えるのか、竹?
 うああ、デジタルで負け、食欲で負け、女で負けるのか、おれ。あ、女は関係ないか。
 二発のアッパーカットを食らって、食欲も減退。
 梅ですら、食い切れないんだよ、おれ。
 その間、爺さん、ひたすら、分厚いタブレットを見ている。競馬速報か?
 といううちに、爺さんの前に「竹」出現。
 梅と竹と、こんなに量が違ったっけか。ずどどどーん。魚雷命中。
 沈んだな。北緯30度43分東経128度04分水深345m。
 完全な敗北だった。
 かつやの対決は終わりを告げた。
 梅すら食い切れなかったのだ。
 
 

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