2013年を振り返って
大晦日。年越しと正月の買い物はあらかた昨日に済ませた。今日になっていざとなるとどの店も混んで面倒だからだ。そのわりに、あるいはそのせいなのか、のんびりと朝起きて、ああ、今日は大晦日だったな、と改めて思ったりもした。今年はどんな年だったか。
今年、個人的に一番大きなできごとは、自著『考える生き方』(参照)を出したことだった(参照)。これまでブログを読んでいた層とその少し先の域のかたまでよく読んでいただけて嬉しかった。ありがとう。
この本では、本人としてはブログにこれまで書かなかった、どちらかというとパーソナル部分を、普通の市民の立場から書くことで、もう少し広い層にまで届くことを願っていた。
![]() 考える生き方 |
それでも個人的には、60歳の時点でこの本の続編は書きたいかなという気持ちは、その後、あった。ブログにあえて書かなかったことや、パーソナルな思いなどは今年も貯まってきた感じはする。では、そういうチャンスがあるかというと、それ以前にその歳までできるだけ健康に生きていたいものだ。
自著を書いたのはブログを書いて10年という節目と、55歳という年齢の節目があった。ブログを書いてきてよかったかというと、自分としては楽しいことも多かったが、振り返るとつらい部分もあった。随分とひどい罵倒を多くもらったし、裏でけっこう嫌がらせも受けた。
コメント欄も率直にいうと閉じようかと思った。個人的な名指しの罵倒でなければ、どのような意見もあってもよいというのが自分の立場だが、そもそも掲載に値しないトンチンカンなコメントをそのまま落書きのように公開してよいのだろうかという疑問が、なんとなくつのり、コメント欄のメンテナンスが億劫になってきた。
コメント欄の常連さんにはある種の妄想に近い感性を持っている人がいるようにも思えた。というわけで、今後はコメント欄で、「これは普通の神経ではどうなんだろうか」というコメントは公開しないかもしれない。むしろ、きつい批判は今後とも公開したいとは思っている。
微妙なコメントもある。たとえば。
お久しぶりです。最近はツイッターが主なフォローソースなんですか?コメント欄が寂しいですね。それともコメント欄は基本的に非公開にしたんですか?
ところで、弁当さんは最後まで評論家なんですね。もっとも、子供もおらず、年齢的にも評論家として逃げ切り可能なので、まあ幸せな時代に生きたということでしょうね。
日本は、我々の世代が当事者として支えていきますから、弁当さんも、目と指が健康なあいだは、評論家として頑張ってくださいね。
いやはや、どう応答してよいのだろう。「やあ、君も元気?」ということかな。
率直に言って、コメント欄に公開する意味はないだろうと思う。
一つわかるのは、自著『考える生き方』は、このかたには読んでいただけてないんだろうなということ。それでいいとは思う。だけど、もし気になるなら読んでいただけたらよいのに、と悔やまれはする。
健康については、難病を患っていることは自著に書いた。幸い今年は大きな発作は少なかった。このコメントのかたは「目と指が健康なあいだ」と書かれているが、たぶん老眼を指しているのではないだろうか。かねてから言っているが僕は老眼はない。老眼かなと思うのはどうも乱視のせいのようだ。目は難病の影響のほうが大きい。指はさして問題ない。喋るより早くブラインドタイプができる。なので、悪い目とブラインドタイプが結合すると誤字脱字になりがち。
健康状態がわりとよかったのは、この半年の筋トレの効果だったかと思う。半年、続けた。冬に入るころまで体調は妙に好調だったが、先月下旬、風邪を引いた。寝込むほどではないが、体調の不調はだらだらと続き、筋トレがうまくいかない。
半年筋トレやってどうだったかというと、残念ながら、筋肉むきむき、とはいかない。もともと標準体型の部類なので、何キロ痩せましたということもない。肩の筋肉は少しついた。自然な肩パットみたくなったのでその分、着るものが着やすくなった。体型は30代ころと変わらない。筋トレでさらに締まった。いわゆる中年体型ではないので、遠目には30代くらいに見えるのではないかと思う。
筋トレの成果は、そのくらい。実際のところ、並行している有酸素運動のほうが健康には効果があったようだ。現状、年末年始で体調は不調だが、これも来年も続けていきたい。その意味では、今年は、自分にとっては筋トレ元年だったし、そうでありたい。
個人的にも今年はいろいろあったし、来年もいろいろあることがわかっている。先にも触れたが、それはもし『考える生き方』の続編でも書く機会があったら書くというタイプの話題なので、ブログのほうに書く気力がない。
自著に似た活動では、今年も、cakesの書評『新しい古典を読む』(参照)の連載にけっこう注力した。
この連載だけのために既読書を含めて一日二冊ペースくらいで読んだだろうか。けっこうきつい読書でもあった。が、いずれ人生のどこかでこれらの本や著者については、きちんと書くべきだったという思いがあったので、ライフワークのような意識で取り組んだ。が、その割には、山本七平や小林秀雄などについてはまだ書いていない。
この連載は、ツイッターでの応答からは定期的に読まれているかたがいる。ありがとう。
広く読まれているふうはない。またネットでの話題にもなっていないようには思えた。その意味で、この連載も成功とは言いがたいのかもしれない。個人的には、この書評もできたら書籍にまとめたい気はしている。『考える生き方』で書かなかった部分もだいぶ表現できたようには思う。もっとも、それが読まれるかたにどういう意味があるのか。そこは悩むところだ。自分の書くものにそんな意味はないんじゃないかとも思う。
今年の思い出で、個人的なこととネット的な活動の中間にあるのは、この三か月間のフランス語の学習だった。56歳になって、ほぼゼロ状態の外国語を学習して、なんの意味があるのだろうか? ということが当初あったが、やってみてよかった。
先日、三ヵ月終えたという記事を書いたが、その晩、なんとも言えない奇妙な幸福感があった。ああ、自分ってまだ成長しているじゃないかというか、自分もそうダメなもんじゃないんじゃないかというか。そういう言葉にするとうまく表現できていないが、なんか10代のころの知への向かい方を思い起こしていた。
ちなみに、ピンズラー方式のフランス語学習だが、ちょうどフェーズ3まで基本は終わりで、その後は、むしろ応用になるようだった。今日もフェーズ4の二日目を終えた。
このフランス語学習のために自分の持っている時間をだいぶ調整することになった。結果的にブログを書く時間を削ることになった。ブログを書く時間があれば、フランス語学習に充てた。
それでも、ぼんやりとだらだら、ツイッターでつぶす時間はあったりもするが、そこを削るのはなんとなく無理のように思えた。
ブログに時間を割かなくなったことの関連で、毎年書いていたクリスマスの短編も書かなかった。まあ、今年は無理だ。書いても、いやなコメントもらうくらいだし。ダメなものはダメと受け入れようと思った。ツイッターで今年は書かないの?と聞かれても、ええ、くらいに答えた。
が、不思議なことに、書き出したら、まるで預言のように書けた。心のどこかでこの短編のことが引っかかっていたせいもあるんだろう。書いてみて、その内容とは別に、まあ、でも、今年もブログを書けたんじゃないかと思えた。それはなにか、自分に、ブログを書くということが神様のプレゼントにように与えられたような感じだった。
今年は、ブログの世界も変わってきたなと思えた。もちろん、自分も変わってきたが、どちかというと僕とブログの基本的な関係はあまり変わっていないように思う。
僕を政治的に非難する人は左派にも右派に多い。今年はどちらかというと左派からの批判が多かった。僕を「保守主義者」と呼ぶ人もいた。別にかまわない。僕は自分では保守主義者ではないと思っているが、その人に釈明する義務はない。
僕は、まだブログを書き続けるようには思う。僕は自由でありたいと思うからだ。自由な市民でありたい。
僕のブログは、僕が自由な市民であることの、ひとつの表明である。それ自体――自由に市民が発言すること――が一つの戦いだとも思っている。
Liberté, Égalité, Fraternité !
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