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2013.11.21

[書評]『ドライブ・マイカー』(『多崎つくる』以降の村上春樹文学)

 村上春樹の、長編というよりは中編作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』以降の作品はどのようになるのか。今月号の文藝春秋に発表された短編『ドライブ・マイカー』は、その点で非常に興味深いものだった。
 『多崎つくる』についてはcakesの『新しい「古典」を読む』(参照)のほうで書評を書いたが、独特の情感と倫理を基調にシンプルに描かれたようにも読めるし、初期作品のようなトリッキーな謎解き風の仕掛けは目立っていないものの、象徴と暗喩の構造が入り組んでいて、従来にない独自のパラレルワードが仕組まれているシュールレアリスム的な作品として難しい作品でもあった(リアリズムのなかにシュールレアリスムを埋め込む実験作品でもあった)。村上春樹文学の系列としては、彼の現状の中期的な作品である『国境の南、太陽の西』の、小説技法の一端を継いだ形になっている。
 この転機とも見られる中編的な『国境の南、太陽の西』自体もまた、表面的なシンプルさの背後に、村上独自のシュールレアリスムの装置があり、この点、あまり評論家などに読み取られなかったのか(もともと彼の作品は文化・社会現象として読まれる傾向が強く、作品自体の文学考察は存外に少ない)、彼自身が著作集の自著解説でそのヒントを出していた。
 この点についても、cakesの連載では触れたが、あえて触れなかったもう一点がある。ある意味よく知られてはいることでもあるが、この作品が『ねじまき鳥クロニクル』のバイプロダクツであることだ。シンプルに系として見ると『国境』から『ねじまき鳥』、また『国境』から『多崎つくる』という二系がある。前者が主題的、後者が技法的と見ることもできるが、彼の文学の独自の主要テーマが関連しており、むしろ技法はそれの道具立てとして現れてきたものだった。
 ではその、村上文学の「主要テーマ」とは何か。初期の作品でのその生態については、cakesで『風の歌を聴け』の書評以降の一連(参照)で扱ったが、象徴的には「直子問題」と言えるだろう。これが後期、特に、『国境』以降は独自の屈折をしているのだが、基本は、あまりこなれた言い方ではないが、「妻の問題」と言えるだろう。妻である女性の他者性、とでも言うようなものである。ややこしいのは、「妻」というと直接的には村上春樹の夫人が連想されるが、どちらかというと初期の「直子問題」の継承としたほうがよい。
 「妻の問題」は、作品系列に現れる最初のインスピレーション的な短編としては、その叙述から明白に、短編小説『パン屋再襲撃』収録の『ねじまき鳥と火曜日の女たち』があり、これが後の『ねじまき鳥』に発展している。
 『ねじまき鳥』は複雑な作品で、それ以前の村上春樹文学を集大成した趣きがある半面、当初期待されていた全体構成が崩れ、特に三巻が実質破綻した。このため、英訳では日本語オリジナルとは別の再構成が施されている。この問題をどう見るかが難しく、私などはこの「事件」を契機に長期に村上春樹の作品が読めない期間があった。
 私としては、『ねじまき鳥』の第三巻が失敗そのものだと見ていたのだが、『アフターダーク』以降彼の文学に立ち返って全作品を追い直してみると、すでに述べたように、原形が『ねじまき鳥と火曜日の女たち』であることから、むしろ、『ねじまき鳥』の主題が「妻の問題」と見てよく、むしろ、満州史などを挟んだ壮大な虚構の構築はその暗喩として見たほうがよいのかもしれないと、評価を改めつつある。
 いずれにせよ、『国境』以降に現れる「妻の問題」の行方は、『多崎つくる』のなかでも、シロとクロの線からも浮かんでいるとはいえるが、もっと直接的に肉薄する作品として、今後の発展があるのか不明瞭に思えていた。
 もう一点、補助を加えると『蜂蜜パイ』(参照)がリアリズムの形式で「直子問題」と「妻の問題」を継いでいるとは言える。その意味で、よりリアリズム的に(彼が後期に大きな影響を与えた日本の第三の新人の文学のように)、展開される新しい作品が登場するかという関心である。
 そこで今月号の文藝春秋に発表された最新作と思われる『ドライブ・マイカー』なのだが、その関心のど真ん中に当たる作品だった。非常に驚いた。
 まず気になることだが、文藝春秋ではサブタイトルに「女のいない男たち」とあり、それが次期短編集を予想させる点である。また、この短編作を読むとすぐに連想されることだが、初期に近い短編集『回転木馬のデッドヒート』(参照)に文章や展開の質が似ている。また、短編集『レキシントンの幽霊』の『トニー滝谷』にも質感が似ている。『トニー滝谷』もまた文藝春秋に当初発表され、後、短編集に含まれたので、今回の『ドライブ・マイカー』にもその期待がかかる。
 村上春樹文学観察の側からの接近ではなく、直接、この作品そのものとしてはどうか。先に述べたように、従来の村上春樹、どちらかというと若いか中年、それも40代くらいの語り手という装置から描かれているが、今回はかなり明瞭に50歳以降の人間の視点から描かれている。具体的には55歳と見てよいだろう。また第三の新人の文学のような、実際には極めて日本文学としては異質な文体の感触もある。
 結局のところ、村上春樹もまた60代後半を迎え、人生の、あるいは人間というものの、その関係性総体の奇妙な謎のようなものに向き合うようになっている。起点は20代の、原初喪失としての「直子問題」だったが、これが喪失を生きることが他者との共生となり「妻の問題」として成熟してきた。

cover
恋しくて
TEN SELECTED LOVE STORIES
 文藝春秋側としては編集の意図だけかもしれないが、紹介の煽りに「ラブ・ストーリー」としている。ラブ・ストーリーとして読めないわけでもない。ラブ・ストーリーの短編集として彼が最近編んだ『恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES』(参照)も、今年ノーベル文学賞を得たアリス・マンローの『ジャック・ランダ・ホテル』などもよい例だが、いわゆる日本人のラブ・ストーリーという思惑からそれている。あるいは、ラブ・ストーリーとはこういうものだということである。
 なお、この短編集『恋しくて』には、彼自身の書き下ろし『恋するザムザ』も含まれていて、その意味で、これらが次期短編集に再掲され、まとまる可能性はあるだろう。ただ、『恋するザムザ』がシュールレアリスム的な、どちらかと言えば知的な作品であるので、『ドライブ・マイカー』とはうまく調和しないような印象もある。余談だが、『恋しくて』では私などはシンプルにマイリー・メロイの『愛し合う二人に代わって』が面白かった。
 『ドライブ・マイカー』ではドライバーの女の子が特徴的に描かれていて、その発展にも、ラブ・ストーリーも予感させる。これがそのまま、長編に発展していく可能性もないではない。だが、そうなると、死んだ妻の時間の回想を組み込むことになり、また長編ではどうしても村上春樹お特異のシュールレアリスムが仕組まれるので、『1Q84』的な形態になりやすい。
 ただ、『1Q84』もまた17年後の未来を残した、喪失された時間があり、そこにもまだ未完の領域がある。
 今気がついたのだが、この作品の時間が現代であれば、主人公・家福が30歳だったのは1990年になる。現在を5年ほどずらせば、1984年時点あたりにもっていくこともできるだろう。またその時代からの連想から、家福の設定は『ダンス・ダンス・ダンス』(参照)の五反田君や『納屋を焼く』の「彼」にも重なる。初期作品に見られるような村上ワールド・クロニクルの後半を再構成しているのかもしれない。
 
 

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