なんとなく心に引っかかっている、やりきれない二つのニュース
なんとなくブログを書かない日が重なった。そういうことは珍しくもないし、このところどういう風の吹き回しか、フランス語の勉強に凝っていることなどもあってブログに回す時間が減ったこともある。が、もう一つ理由があって、ブログに向き合うとあのニュースの話題を書こうか書くまいかと悩んで行き詰まってしまう。それだけ心にひっかかっていることなので、少し書いておこう。二つある。
一つは、横浜市緑区の踏切内に倒れていた74歳の男性を助けようとした女性が電車にひかれて亡くなった事件である。痛ましい事件であり、ご遺族の方に哀悼したい。彼女の善意と勇気を称賛する反面、その結果にやりきれない思いもした。こういうとよくないが自分のような臆病者にはあまり直視したくない話題でもあった。
話題はその後、大きくなっていった。メディアが美談として取り上げたせいもあるが、政府が紅綬褒章を授与させたこともあっただろう。紅綬褒章は「自己の危険を顧みず人命の救助に尽力した者」に授与させる褒章である。今回の女性の行動はそれにふさわしいと言える。が、それを称えることで、同じような状況に置かれた人にこうした行動を促すことにならないだろうかという思いもあった。
よく水難事故で子どもが溺れているのを見て、親や大人が救助に飛び込み、そのまま大人が水死することがある。先日13日にも神奈川小田原市の海岸の岩場で、子ども二人が海に転落したのを助けようと飛び込んだ32歳の父親が水難で死亡した事件があった。痛ましい。
惻隠の情の語源のような話であり、人間の心情として理解できるが、よほど心得のある人でないと、水難事故の現場でそのまま飛び込んで救助ということは難しい。水難事故についてはそうした、ある種の原則が確立されているが、踏切事故についてはどうなのかと問われるとわからない。救助に確実に危険性はあるが水難事故と同様に考えてよいものなのか。
そうした思いを巡らしつつ、紅綬褒章が「自己の危険を顧みず人命の救助に尽力した者」に授与されるなら、近年の事例はどうなっているのか気になったので少し調べてみた。
今年の春の褒章の受章者を見ると電車事故関連の紅綬褒章があった。どのような事態だったか。言われると当時のニュースを思い出す人もいるだろう。2012年9月13日朝、横浜市中区のみなとみらい線日本大通り駅のホームから当時高校3年の女子生徒が転落した際、居合わせた通勤途中の会社員と警察官が線路に下りて、彼女を線路脇の側溝に運び一緒に避難したのだった。
当時のニュースを読み返すと、会社員は「自分が親なので、無意識に体が動いたのかも」「バサッという音がして女子生徒が倒れているのが見え、助けなきゃと思った。側溝で女子高生の頭と右腕を押さえたが、電車が警笛を鳴らしながら入ってきて怖かった」と話したとのこと。また警察官は「考えるより先に体が動いた」と話したともある。二人の反射的な行動だったかというと、他報道では、会社員はホームの向こうから迫る電車のライトを見て「十秒ある」ととっさに考えたらしい。10秒でできると即時に判断のしたのかもしれない。
2007年には踏切事故関係の紅綬褒章があった。これも言われると思い出す人がいるだろう。その年の8月25日、岡山県高梁市のJR伯備線広瀬踏切で、踏切内に立ち往生した大型トラックに気がついた警備会社員が、誘導を試みたが、その間、下り特急「やくも9号」が近づき警報機が鳴りだしたため、踏切西側の非常ボタンを押した。これによって急行の運転士が早めに踏切内の異状に気付き、踏切を30メートルほど過ぎた地点で停止できた。衝撃が抑えられ、特急乗客の惨事は避けられたが、非常ボタンを押した会社員は巻き添えをとなって命を落とした。
この二つの紅綬褒章と今回の事例を比べてみると、本質的に大きな差はないとも思える。その意味では、今回政府が紅綬褒章を授与させたことも異例のこととはいえない。こうした事故を紅綬褒章が促すことになるとまでも言えないだろう。
もう一つ、心にひっかかっていたニュースは三鷹市の女子高生ストーカー殺人事件である。2月にその隣の吉祥寺市でルーマニア人少年による女性殺害事件があったので、初報道があったときは、それに類するものかという印象があった。犯人が捕まった直後、犯人の名前が伏せられていたようにも思えたので、その点も疑問に思った。が、すぐに容疑者の名前が出て、ストーカー殺人事件であることがわかった。
ストーカー事件というのをどう捉えてよいのかよくわからないのである。自分も地域活動でこの問題の一端に関係したことがあるのだが、解決策が見つからなかった。一般的には、警察はどうしているんだという文脈になりがちであり、この事件でもそうした話題としての展開もNHKニュースなどでも見られた。警察署は今回、相談の内容から危険が差し迫っている状況ではないと判断し、警察署長に報告がされなかったとのことだ。私の印象では、自分の経験からしても、こうした事態で警察が動くことは少ない(むしろ警察は喧嘩両成敗的な態度に出ることが多いので困る)。現在の報道からの印象に過ぎないが、この事例のみ特段に警察の落ち度があったようにも思えない。こうした問題は、現状の体制では防ぎようがないのかもしれない。そのあたりも、やりきれなさにつながる。
関連のNHKの報道で奇妙に思えたのは、13日「逮捕直前に事件うかがわせる書き込みか」(参照)として、「東京・三鷹市で女子高校生が殺害された事件で、元交際相手の男が逮捕される直前に、インターネットの掲示板に事件を起こしたことをうかがわせる内容の書き込みをしていたとみられることが、警視庁への取材で分かりました」としていたことだ。が、この話題は、ネットに馴染んでいる人には事件の数時間後にわかっていた。13日になって報道したのは、被害者関連の情報が削除されたのを確認してという意味だっただろうか。
この事件では、痛ましい事件でありながら、女子高校生の活動をする非難する声も聞こえ、その点もある種のやりきれなさが募った。被害者が容疑者と知り合ったのはフェイスブックがきっかけで2年前という報道もある。そうであれば彼女が16歳ごろ、大学生だと思った容疑者と交際していたということになる。随分と恋愛の年齢が早いようにも思うし、その年齢だと交際のありかたは個人の自由とまでも言えないようにも思う。
恋愛の年齢が早いというよりも、内実が幼い恋愛だったのかもしれない。自分も含め少なからぬ人が、若い時代、幼い恋愛をして、手痛い失恋をする。上手に別れることもできない。幼い恋愛は互いの精神的な成長によって破綻することもある。つらいものだが、人によってはそうして大人になるしかない。社会としては、子どもに向けて大人の恋愛が可能になるような文化を配慮することではないか。
いや、そうした文学っぽい考え方よりも、この事件はどちらかといえば、偶発的で、そして容疑者の性向に問題があったような印象もある。どうにしたら防げるという問題でもないのかもしれない。というあたりで、やりきれないなと思う。
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コメント
どちらも不自然さが目立つ。無名な人の死に国が感謝するのは、人々の心が静まってからでいいと思う。マスメディアの毒に便乗しているような気持ち悪さ。若い人の犯罪は、犯罪としてはごくありふれた犯罪と分類できるけど、この若い二人の異常さ、とくに、ネットがマスメディアになってしまっている不気味さ。
日本全体のメディアがカオス化してきているんだろうなぁ。旧来のマスメディアも、ネットは意識しだしていることは確かだし。
ただ、ネットがメディアでなかった時の、メディアになろうとしていた清々しさや、暖かさを懐かしみつつ、そういう空間ができないかなぁと思う。きっと、梅田さんが最後の方に残していった概念、いろいろと塾ができるのかもね。売れているメルマガがちょっと塾っぽいし。
投稿: | 2013.10.15 06:29
なんと言うか耄碌されてるのでは?
努力も自分で決め付けてしまっていては無意味なことで…老いるのは自覚してても大変なのは父親を思い浮かべれば理解は出来るけどな
まあ前向きに(笑)
投稿: | 2013.10.17 05:08
そのやりきれなさは良く分かります。
この世の出来事にはすべて意味があるし、ものごとには必ず正解がある、と思っている人が多いんじゃないですかねぇ。
世界には色んなレベルの不条理が満ち溢れていますし、むしろすっきりと割り切れることが少ないと思います。ども。
投稿: たまむし | 2013.10.19 10:00