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2013.09.28

バレエ風ラジオ体操が面白い

 ラジオ体操をしていてやだなあと思うことが二つあって、一つは、号令。なんか軍国主義的なおっさんの声で号令が入っているじゃないですか、ラジオ体操。これが、ぐへえ。
 僕の性向の問題かもしれないけど、他人から自分の身体を動かす命令を受けるのが、そもそも、極度に嫌なんですよ。ただ、これは言ってもしかたないし、社会生活で他人との協調を乱してまで、自分のそういう性向を主張したい気はさらさらないので、たいていは黙って、言われたとおりにしています。でもなあ、起立、礼、着席、とか、おぇっ、おぇっ、おぇっ、という感じです。
 自分一人でラジオ体操するときは、やっぱり、号令は止めて欲しい。実際には、命令ではなく、「前回しぃ」とか名詞形だけど、「前回しせよ、おらぁ」であるわけで、嫌だ。
 でも、回避可能。だったら、回避しよう。回避方法は二つ。簡単なのは、号令の入ってない伴奏だけというのがある。まあ、それでいいかなということなんだが、その話には続きがあって、後ほど。
 回避方法のもう一つは、号令が、笑えたらいいんじゃないの。調べてわかったのだけど、ラジオ体操の号令が、方言とか英語とかイタリア語とかいろいろ、あんのな。

 英語の声は、ぱっくん。個人的にはイタリア語がけっこういいなと思った。
 この手のバリエーション、でも、ほとんどが、ネタなんで、ラジオ体操第1しかなない。第2まできちんとないと、やる気がしないなあ。
 それと号令が、ウチナーグチやイタリア語であるのはいいとして、ピアノが美しくない。というか、ラジオ体操の伴奏の曲が美しくない。なんとかならないのか。探すと、リミックスとかもあるんだけど、これが、だせー。
 ラジオ体操がいやだなあと思うのは、伴奏曲が美しくないこと。
 ってなうちに、めっけてしまいましたよ。バレエ版ラジオ体操。

 これは、ええ。

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西島千博
バレエ・ストレッチ
[DVD]
 もう即買いましたね。正確にいうと、ITMSで動画だけ、第1と第2がもちょっと安価に売っている。
 どうか。結論からいうとその動画だけでもいいのだけど、いやもっと結論からいうと、DVDのほうがいい。このDVD版、二枚組になっていて、もう一枚は音楽CD。こちらに、ピアノとバイオリンの伴奏だけの音源が入っている! これがよかった。
 メインはDVDの映像。西島千博のラジオ体操。これが、美しい。
 最初見たときは、そのネタ性に笑ったけど、さらに見ていると、実に正統。手足の細かいところから完璧なバレエじゃないですか。
 あと、僕にはそういう趣味はないのだけど、いや、ほんと、ないんだけど、いやいや、疑わないでくださいよ、オープニングに出てくる西島さんの上半身裸身の肉の付き方が、これまた美しい。鍛えられた手足と肩、背筋に比して、大胸筋のなさで、あばら骨がぐっと浮かび上がるところが、美。自分も、30代のころ、こういうのが理想だったし、基本的な肉の付き方は彼と似ているのだけど、残念ながら私は昭和型人間なので手足が短い。
 DVDには、もちろん、第1と第2が入っているのだけど、率直に言うと、いくら美しくても、これは、ネタだなあ。動きは完璧すぎるし、練習にも使えない、から。
 そのあと、バレエの基礎トレーニングの動画も入っていて、これが普通にきれいというか、プリエ、タンデュ、デガジェ、など、基本の動きと解説がある。これは、いい。うっとりしてしまう。願わくば、これらの基本が、ラジオ体操、第1と第2にどう反映されているか分析的な説明があるとよいんだが、それは、ない。もちろん、個別に体操の説明はあるけど。
 30代のころ僕もバレエをやりたくて、アメリからその手のワークビデオを取り寄せたりもしたけど、こればかりはきちんとレッスンしないとダメで諦めた。友人宅近くに、個人バレエ教室やってる大きな家があって、夏場、通りがかりでもちょっとレッスン風景が見えることがあるのだけど、どうも小さい女の子ばかりで、そこにおっさんがいたら変態ですよね、というのと、バレエの原形から派性したオイリュトミーのほうをしていて、現代バレエにちょっと疑問もあった。遠い目。
 それでも、バレエはいいなあ。糸川英夫先生は60過ぎてバレエやっていたのだから、僕も努力すればなんとかなるんじゃないとは幻想するんだけど。遠い目。
 話をラジオ体操に戻すと、このバレエ風、見る分にはいいけど、実際にするのは難しい。でも、さっきも書いたけど、音源のほうは普通にラジオ体操に使える。ピアノのメロディの基本は変わらないけど、アレンジがエレガントだし、牧山純子さんのヴァイオリンが美しくて、救われる。朝一番のラジオ体操はこれですよ。
 実際に聞けばわかるけど、このアレンジはオリジナルに比べると、少しテンポが遅い。もともと、ラジオ体操のテンポって速すぎないかと思っていたので、これも満足。遅すぎるということはない。ただ、慣れないと体操の種類によっては、ジャンプとかね、リズムが取りづらいかもしれない。
 ラジオ体操でなくてもいいから、10分くらいでバレエの基本になるような動的ストレッチで美しい伴奏の体操っていうのはないものかなあ。
 
 

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2013.09.25

朝食を抜くと痩せるかとかなんだかんだ

 今週の日本版ニューズウィークに「要注意!証拠なき朝食信仰のワナ」という面白い記事があった。面白いというのは、その邦題の内容とは、実は、それほど関係ない。つまり、朝食を取るべきか抜くべきかという話題として読めば、それほど面白くはない。というか、僕にはさほど関心ないのこと。
 とはいいつつ、多少その記事の冒頭に関連していうと、そもそも「朝食を取るべきか抜くべきか」は何に対してなのかというと、暗黙に「健康のため」が想定されている。が、その「健康」がやや曖昧である。もうちょっとざっくばらんに言うと、痩せようとして太った人が朝食を抜くのは、痩せることを介して健康が意味されるのか、痩せるとは直接の関係なしに健康が意味されその結果痩せることもある、みたいな話なのか。うへえ。それはさておき。
 面白かったのは、医学研究の扱い方である。記事にもあるように、「朝食を取るべきか抜くべきか」という研究の大半は、健康のためには朝食は取ったほうがよいという結論が出ている。肥満との関連でいっても、肥満予防のためにも、朝食は取ったほうがよいともされている(参照)。朝食を取ったほうが痩せるという調査もいろいろある(例えば参照)。じゃあ、それで、いいんじゃないの? 朝食抜くなよ、とか。
 ところが、これほどこってりある調査研究の信頼性が疑問視されたというのだ、その記事。どっかの国の医薬品承認過程みたいな問題かというと、それがそういうことでもない。捏造はない。朝食を抜くことと体重の増加には、明確な相関関係がある。じゃあ、何が問題だよというと、そうです、相関関係は因果関係ではないということ。
 でも、そんなことは当たり前すぎて、この手の研究者たちだってわかってたったんじゃないの? というと、そのあたりからが面白いのだ。
 切り込み口は米国臨床栄養誌の記事(参照)で、過去の研究を、研究の意図と結果の点でメタアナリシスをしたところ、「朝食抜きは太る」という見解が調査結果に影響を与えていたらしい。
 その具体的な意味合いは要約からは読みづらいので、先の記事をなぞると、朝食抜きと肥満の相関は1990代初期から1998年代には明らかだったのに、研究者は以降も同じスキームで研究を繰り返していた。因果関係を主張したいなら、二重盲とはいかないにせよ、無作為に選んだ被験者を二群に分けて対照研究をすればよいのだが、そういう研究は少なかった。記事では、その実験がされなかったのはコストがかかるからと続くが、いずれにせよ、そういうスキームが少なく、わかりきった結論が繰り返されてきた。記事ではそれは、自己予言になるのではないかと疑念を投げている。つまり、スリムになりたい人が朝食を取りようになり、仮説に合う標本が増える。ちなみに、ネットでは血液型性格学は偽科学とよく言われるが、山岸俊男の書籍にあったが、日本人くらいこれを信仰していると自己予言的に成立してしちゃい、統計的に相関が出てしまう。
 記事ではそれから、数は少ないものの対照実験をしたらどうだったかに言及していて、これはちと笑える。朝食を抜くと体重は、減った。
 もちろん、十分な数の対照研究がないので、それが科学的な真実だとまでは言えない。邦訳記事の表題はそのあたりを狙っているようだった。
 でも、そもそも、わかりきった相関の出る研究を延々と繰り返しているのはなぜかというほうが、興味深い。
 オリジナル記事はどうだろうか。探したら、スレートにあった(参照)。予想していたように、邦訳記事と比べると、結構抄訳になっている。でも、省略と重点に差はあるものの、以上の話の大筋まで違っているというものでもなかったので、まあ、いいか。
 ただ、抄訳になくてオリジナルにあった、「The pro-breakfast lobby has only gotten stronger in the past few months. 」という文章は印象的だった。「朝食推進派がやっとこの数か月強化している」というのだが、ようは、「朝食推進ロビー」なるものがあるわけね。なるほ。
 ちょっと粗雑にいうと、「朝食推進ロビー」が要請している研究が繰り返されるというか、科学という箔が付くわけだ。研究費との関連まではどうかよくわからないが。
 そもそも「朝食推進ロビー」なるものがなぜ存在しているのかというと、米国の場合、朝食がパッケージの商品化されているからだろう。
 ちょうど最近、そんなことを僕も考えていたのだった。近所にちょっと大きめの食品店が出来て、やたらとイージーな食い物が多いわけですよ。簡単にヘルシーな朝食いろいろみたいなものも。
 みなさん、こういう朝食をしているんだろうなと。これが一定以上広まると、「朝食推進ロビー」みたいなものが出来てもおかしくはないだろうな。
 ちなみに僕の朝食は秋にはいってからは、スロークッカーで作ったミネストラベースです。BMIは20.7くらい。
 
 

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2013.09.23

そういえば、ラジオ体操というのがあったな

 筋トレや有酸素運動のついでにストレッチもしている。だが、ストレッチが身体によいのか確信が持てないでいる。
 先日、クランチがよくないという話を書いた。書いてからやっぱり書かないほうがよかったかと悔やんだ。ストレッチもしないほうがよいという話題が欧米にあるが、これも書かないほうがよいかもしれない。どうだろうか。私が知らないだけで、日本でもすでに常識化しているのだろうか。ちなみにサッカーをしてた学生に聞いたら、ストレッチではなく、「ブラジル体操」してたとのこと。
 少し触れておくと、2002年に「英国医学誌」に掲載された研究に「運動前後のストレッチがもたらす筋肉痛とケガのリスクへの影響」(参照)があり、結論は引用先を見てもわかるように、筋肉痛の軽減にもならないし、ケガの予防にもならない、ということだった。その後の研究もある(参照)。複数の研究からも概ね否定的(参照参照PDF)。
 ストレッチはしないほうがいいのか。この話題を扱った以前のニューヨーク・タイムズの記事(参照参照)では、静的なストレッチではなく、動的なストレッチがよいのではないか、という方向に話を向けていた。そのわりにその主張もそれほど実証的ではない。最近の研究では、動的ストレッチでも筋肉の力の弱化をもたらしそうである(参照)。

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Full-Body Flexibility
 一般的な指針としてはどうなのだろうかと、網羅的にストレッチ技法が書かれていることで定評がありそうな「身体全体の柔軟性(Full-Body Flexibility)」(参照・Kindle)を読んでみた。結論からいうと、前のほうでかなりしっかりと運動前の静的ストレッチはやめなさいという議論があった。もちろん、ストレッチは運動のパフォーマンスやケガ軽減だけが目的ではないが、デメリットの部分もかなり明確に書かれているものだなと思った。実際、掲載されているストレッチのレパートリーも動的ストレッチが少なくない。どうも、米国では現代ではストレッチというと、動的ストレッチのほうが主流になっている印象がこの本から受け取れる。
 でだ。その動的ストレッチを見ていて思ったのだ。これって、日本のラジオ体操じゃないのか? ラジオ体操は、動的ストレッチだったのか。
 30代のころ、ヨガやフェルデンクライスに凝った話は自著『考える生き方』(参照)にも書いたが、他に、野口体操とかも少しやっていた。実際に野口三千三先生に教わったこともある。野口先生の本も読んだし、関連の本なども読んだが、その野口体操は、いわゆる体操――つまりその代表的なのがラジオ体操なのだが――を批判して形成されたものだった。逆に、ラジオ体操については、ミュラー体操を起点に出来たものだった。
 ミュラー体操を、解説したミュラー(Jørgen Peter Müller)自身による、1904年の著作「我が手法(My System)」は、当時、欧米で大ブームとなり、フランツ・カフカもその心酔者だった。
 ミュラー体操はロンドンをベースに教習され、英米圏に影響を与えたらしい。当然日本にも影響を与えたと思われる。が、同書が日本語に翻訳されていたかはよくわからない。なお、ラジオ体操の具体的な直接起源はよく知られているように、米国メトロポリタン生命保険会社が保険業のために考案して、1925年に広告放送とした「運動をしましょう(Setting up exercise)」である。
 ちょっと調べたらミュラーの翻訳書はパブリックドメインになっていた(参照)。驚いたことにオリジナルのミュラー体操を60年継続している人もいるようだった。実際にミュラー体操を見ると、ラジオ体操よりもピラティスに似ている印象がある。ユージン・サンドウを含め、この時代の古典ギリシア志向の身体訓練観は興味深い。

 話題が反れてしまったが、ようするに、動的ストレッチとしてラジオ体操を見直してもいいんじゃないのかと思って、ITMSから「ラジオ体操」の音源を買って、久しぶりにラジオ体操をやってみた。
 驚いたことに、覚えている。第2もできる。で、もうひとつ驚いたことに、できるとはいっても正確なやりかたなのか、まったく自信がない。きちんとラジオ体操というのを学んだことないのだ、気がつくと。

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DVD付き
もっとスゴイ!
大人のラジオ体操
 では、きちんとしたラジオ体操の解説書とかDVDでもあるだろうかと探すと、あった。あるもんだなあ。「DVD付き もっとスゴイ! 大人のラジオ体操 決定版」(参照)である。読んでみると、自分が大きく勘違いしている部分はなかったが、細かい点では、けっこう、へえと思えることはあった。なにより、この本、最初からラジオ体操を動的ストレッチとして位置づけていたのである。それぞれ個別の体操の分析まで載っている。
 というわけで、でもないが、ラジオ体操もすることにした。第2を合わせて6分半。大した手間かからないし、場所とらないし、「身体全体の柔軟性」の本にも書いてあったが、それなりにきっちりすると、適当に心拍も上がる。
 それにしても、ラジオ体操かあ。いろいろ身体技法とか関心もってきたけど、まさか、こんなところに行き着くとはなあ。河童もラジオ体操しろよぉ。
 
 

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2013.09.22

[書評]明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち(山田詠美)

 死という不在を軸に紡ぐ物語は存外にたやすいものだし、「明日死ぬかもしれない自分」という自意識は、ぐっと死に迫るときの本人にはリアルなものであっても、他者にとってそれほど意味のあるものでもない。とすればそのモチーフ自体は陳腐な大衆作品にしか導かないのだろうとも思いつつ、通販カタログでも連想させるような「美しい」装幀に潜む、なにか歪んだ不在に心惹かれて読んでみた。山田詠美らしく繊細で美しく、いつもながらの他者の肌触りを感じさせる物語だった。詠美さんもきちんと歳を取ったなとも思った。

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明日死ぬかもしれない自分、
そしてあなたたち
 短編連作として全四章をそれぞれ分けて読むことも不可能ではない。第一章は姉、第二章は次兄、第三章は妹、第四章は家族。家族の物語ではあるが、長兄である澄生は17歳のときに不慮の死を遂げて不在。その不在の感触が、母の心の病を通して語られる。アルコール依存症を心の病というのは正確ではないかもしれないが、多少なりとも身近に患者を見てきた人にとっては、本書の描写はずいぶんと正確なものだなと感じられる。
 物語は、優雅でもあった母親が最愛の長兄を17歳で失ってアルコール依存症となり、残された三人の弟妹と再婚の父親による家族が次第に崩壊し、また再構成していく過程を描いているとも言えるが、著者の冷ややかな視線に逆説的に救われているように、それは同時に、ありがちな不幸によってひとりひとりの人間が、普通に傷つき、成長していく過程としても読める。家族と親、あるいは家族と子という関係が、家族の親密性を保ちながらも個人になっていく内面の動きが、きわめて上質に描かれているのは、他者という存在そのものが、愛おしくもあり憎悪の対象でもありうる透明な知覚を、この不幸な家族というあいまいな境界のなかで、あたかも小説実験のように純化したからだろう。
 割り当てられた章ごとの弟妹によるそれぞれの「私」の支点は、山田詠美の才能のすべてを活かして描き分けられていると思えるほどの成熟さを感じさせる。基本的に傷つきやすい繊細な人の内面しか描けない彼女だが、そのはかなさのなかで可能なかぎりの他者の視点を、巧緻な数式のように三つに分解しているのも興味深い。しかも、結局のところのその弟妹でもあり他者たちでもある視点は、弟妹それぞれが大人になっていく副産物のようなそれぞれの恋愛の内面性を迂回して、病む母に集約して注がれる。母は、54歳。作品のオリジナル連載時に換算すれば、作者・山田詠美自身を模している趣向だとわかるが、そうした文学的な洒落よりも、母に向けさせるその弟妹の視線によって、彼女自身の内面を巧妙に表現している技法が面白い。病む美しい母の内面は、子どもたちの対話のなかで断片的に吐露されるが、その間接性によって母という他者の感触を維持している。あるいは読者は気がつくはずだ、母の内面の独白が禁じられていることを。この小説に描かれる「死」は、人の死というものの本質に根ざすものというより、この母の独白の禁制に対する装置として機能している。
 章ごとの短編は、円熟した筆致で静謐な哀しみを響かせつつ、読者によっては緩急ある涙を誘うかもしれないが、そうした感情的なカタルシスは、まるで老練シスターのようにいつも希望を語らずにはいられない作者の倫理のなかで可能なかぎり抑制されている。と同時に、倫理は静かにではあるが、これも山田詠美らしく、想定される終局に向けて加速される。その速度は大衆小説的にも感じられる。しかし、この倫理性もまた文学というものの本質の一つだろうし、そこには忠実に人生を過ごして54歳になった一人の表現者としての女の生き方が刻まれている。
 ただ、できれば愛よりももっとエロスを描いてほしかった。死に酔わせるエロスではなく、他者の質感のなかで孤独に狂おしいような、エロスを。その糊代は十分にあった小説だからである。
 
 

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2013.09.17

[書評]がんの花道 患者の「平穏生」を支える家族の力(長尾和宏、藤野邦夫)

 村上春樹の短編『神の子どもたちはみな踊る』(参照)に収録されている『タイランド』という短編小説の冒頭、主人公のさつき(50歳を越えていた)は、タイに向かう飛行機のなかで、乗客に医師がいるかとの機内アナウンスを聞いて名乗り出るか、ためらう。乗客に緊患が出たのだ。が、彼女は病理医であって臨床医ではない。以前、似たような状況に遭遇して名乗り出たとき、たまたま乗り合わせた別の開業医から、間接的ながらも、病理医の必要はないと諭された。開業医には、前線で指揮をとっている古参将校にも似た落ち着きがあったと、さつきは感じた。

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がんの花道
 そこに医学と医療の差がある。医学はネットの情報など知識を通して見るとすっきりとした科学であるようにも見える。科学であることの旗を勇猛に奮う医師もいる。が、医療の現実は戦場に近い。そこで求められているものは、医学を元にしているとはいえ、その臨床医の全人間存在かもしれない。本書『がんの花道 患者の「平穏生」を支える家族の力』(参照)という対談集の一人、開業医、長尾和宏の話を読みながら痛切に思った。
 対談集ということからもわかるように、読みやすい本である。対談のもう一人は翻訳家でもあり、自身も前立腺癌治療を受けたこともあることから、癌患者のサポート活動を続けている藤野邦夫氏である。
 対談の目的も、非常に明確で、癌患者を支える家族をどのように応援するか、ということに尽きている。まさに、身近に癌患者のいる家族のための本であり、またそうなる可能性の高い人のための本でもある。読みながら、患者自身のための本であるとも思えた。
 対談は軽妙に進行するのだが、言葉の一つ一つが重く、そして具体的かつ実用的である。癌患者家族のための実用書としてもよい。がんの告知をどのように受けたら良いか。セカンドオピニオンはどのように得るべきか。巻末にもまとめられているが「がん拠点病院」の利用法、医療補助の受け方など、詳しい話がある。どれも役立つ。
 全体は5つの章で成り立っていて、各章を追って、初期、治療期、小康期、終末期、その後と進む。圧巻は、終末期を描く4章「自宅での平穏死を選ぶ「家族の決断」」だろう。補助題には「抗がん剤治療のやめ時、在宅療養、そして看取り」とあるが、抗がん剤治療のやめて死を迎える終末期が扱われている。
 本書の二人は、抗がん剤治療を否定していない。それどころか、2章の治療期などを読まれるとわかるが、抗がん剤治療の有効性にも言及している。しかし、当然ながら、抗がん剤治療は万能ではなく、患者によっては限界がくる。そこで患者にも家族にも悩みが生じる。抗がん剤治療を継続すべきか。
 そういう状況で継続するとどうなるか。

現在の日本では、がん患者さんの約9割が病院で亡くなっています。そこでフルコースの延命治療が行われた結果、耐え難い苦しみに襲われて暴れられるので、最期は麻酔をかけて意識を無くしたまま亡くなっているのが現実です。

 臨床医の経験的な証言という限定ではあるが、おそらくその通りだろう。
 病態の変化によっては、抗がん剤治療を打ち切る時期が検討される時期があるだろう。であれば、そこから死までをどのように家族と生きるかが、問われる。
 その時期については、当然ながら、臨床医の観察と示唆が重要になるが、長尾医師は最終的には患者本人の自己決定としている。正解はないと彼は述べながらも、一般的な目安として「はっきりと痩せてきた時」としている。
 その結果を「平穏死」として受け取るのは、本書の対談を読み進めるにつれ、抽象的に過ぎるとわかる。というのは、具体的に、水の補給を含めた栄養点滴を最小限とし、脱水・誤嚥・餓死を怖れないとした対応が語られるからだ。軽妙な語りのなかで壮絶な光景が浮かぶ。それは緩和な安楽死なのではないかとの疑問が読者に付きまとうかもしれない。こうした点にも対談は丁寧に説明されている。
 読後の率直な自分の思いを述べれば、往診可能な開業医のもとで、在宅で家族と共に最期を迎えられるならそれは幸せな死の姿だろうということだ。そして誰もがそうすることは可能なのだろうかと疑問ももった。いろいろと具体的な難関も思い浮かぶ。そもそも長尾医師のような開業医は少ないだろう。終末期のその対応は、医学というより開業医の、やはり全存在をかけた医療の成果でもあるだろう。そうした開業医を私たちの社会は十分にもつことができるようになるだろうか。
 
 

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2013.09.16

[書評]病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘(シッダールタ・ムカジー )

 1981年まで日本人の死因の一位だった脳卒中は癌にその座を譲った。現在日本人の三人に一人は、癌で死ぬ。脳卒中が比較的減ったのは、それを予防する医療体制や、たんぱく質摂取を容易にする栄養状況の改善などが理由だろうが、むしろ癌が増えた理由のほうが大きい。高齢化である。癌は高齢者の病気だとは言えないし、種という視点から見れば老化の一種だとも言えないが、高齢者が増えれば、癌に罹患する人は統計的には増える。私たちが長生きをするにつれ、癌で命を閉じる人は多くなる。人々の人生の最後の主要な関心のひとつは癌となる。

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病の皇帝「がん」に挑む
上巻
 ならば私たちは自分の人生と死を知るためにも、より癌について知っておくべきだろうとも言える。だが、その最適な書籍は何か、と問われると困惑したものだった。もちろん、癌についてはいろいろな書籍に書かれてきた。ネットにも情報はあふれている。なのに、患者の視点を配慮し、今後社会がどう癌と取り組むかという点で、癌を俯瞰できる書籍というのはこれまでなかったようにも思われた。今なら、ここにある。『病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘』(参照・上巻参照・下巻)である。
 「人類4000年の苦闘」という翻訳の副題からも連想されるように、本書は、癌について人類が取り組んだ歴史を医学史の全体のなかでわかりやすく簡素にまとめている。なおこの点、本書を元に現在、2015年公開に向けてドキュメンタリー映画も制作されている(参照)ので、将来、NHKなどで放映されるかもしれない。
 原書は米国では2010年に出版され、2011年に「ピューリッツァー賞一般ノンフィクション部門」に輝いた。原書表題は『全ての病気の皇帝 癌の自伝(The Emperor of All Maladies: A Biography of Cancer)』(参照・Kindle)である。余談めくが、まだここでは書評を書いてはいないが翌年の同賞同部門受賞の『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(参照)よりも、個人的には面白かった。今年を振り返って、あの本を読んだなと思い出す本は本書かもしれない。
 邦訳書にして上下巻400ページを越える大著である。内容も医学的な記述が多いせいか、そう容易な読書とは言えないかもしれないと思わせるのは、ネットを見回してみたが、出版されて3週間ほどたつが、本書の話題は本書の解説の転載くらいしか見当たらず、アマゾンの評も見当たらなかったことだった。しかし本書は、今後も確実に読まれているだろうし、あまり強く言うのも好ましくはないかもしれないが、今後も多くの人に読まれなければならない書籍となるだろう。私たちひとりひとりの身近な命のあり方にかかわる癌という問題に真摯に触れているし、それは今後も抱えていく人類の課題でもあるからだ。
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病の皇帝「がん」に挑む
下巻
 本書は、一種の教養主義的な叙述を突き抜けた独自の人間ドラマでも、ぐっと読者を引きつける。その一面は、主に前半で展開されるが、1971年に当時のニクソン大統領が「がん対策法」に署名(参照)するまでの背景である。同法は日本を含めて先進国のその後の癌政策に大きく影響を与えることになった。ここでいわば物語の主人公となるのが、癌の近代化学医療法の父シドニー・ファーバーと、彼を支える、ロビーイストと言ってよいだろう、メアリ・ラスカーである。彼らを巡って、第二次世界大戦前からこの「がん対策法」に至るまでの経緯と政治的な動きは、累々と折り重なる患者の悲劇を相まって、上質な戦記を読むように息が詰まる展開である。戦記という比喩の連想から言えば、敵と呼ぶのも適切ではないが、化学医療医が癌に立ち向かいつつ、他面で外科医と向き合う姿も悲壮なものがあり、さらに放射線治療との微妙な関連も歴史というものの壮大なアイロニーも感じさせる。
 また仮に戦記のように読むなら、1971年以降の展開は、壮絶な敗戦だとも言える現実も痛ましい。人類は癌に勝てないのだろうか。癌とはなんなのか。そうした思いは表題の「全ての病気の皇帝」という言葉に集約されてくる。
 並行して、本書の人間ドラマにはもう一つの側面が加わる。著者ムカジーが接する癌患者の物語である。彼は2003年にレジデントプログラム(臨床研修訓練)を終え、腫瘍免疫学をテーマに大学院で研修を終えたのち、ボストンにあるファーバー癌研究所とマサチューセッツ総合病院で腫瘍内科医として専門研修を開始した。本書の原点がファーバー癌研究所にまつわるファーバーであったことも頷ける経緯だが、それより一人の臨床医として、癌患者に接する経験が彼の人生を変えていく。
 本書では、数名の癌患者と彼との交流の物語が描かれ、その進捗が小説のような感興を与えるが、下巻に読み進むにつれ、それぞれの物語が、一般的な癌患者の治療への指針になっていくことに気がつく。日本でもそうだが、米国でも癌治療、特に化学治療への批判や疑念は多い。まるで効果などないという極論もある。だが、著者ムルジーはここで一人の臨床医として公正に現在の癌治療の地平を明かしてくれる。本書の価値のすべてがここにあると言ってもよいくらいである。
 下巻からは、戦記的な枠組みとしての治療の物語から、公衆医療としての予防の歴史、特に1980年代後半から癌研究の苦闘のなから浮かび上がってきた癌という病の特質、さらに分子標的薬や、癌発生の条件を経つという戦略を採る新薬の背景などが語られる。よく知られた話題ではあるが、なかでも分子標的薬グリベックによって癌の一部を人類が克服するかに見える物語なども興味深い。
 本書は、最近女優アンジェリーナ・ジョリーで話題となったが、BRCA1/BRCA2遺伝子についても2010年出版時点で公平な見解と背景の説明を加えているなど、現在の癌医学の最前線に近い部分までカバーしている。「癌幹細胞説」についての言及もある。だが、邦訳書の上巻巻末の著者インタビューにあるように、「免疫システムの再活性化」などの話題には触れていない。英国では、癌細胞がオフにする免疫を再度オンにする機序による新薬の開発なども進められており、欧州連合もこれを支援している。巨大医薬品会社だけが新薬に取り組んでいるのではないというオープンイノベーションも今後の話題だろう。
 本書の完読に困難を覚えるなら、本書の上巻巻末の著者インタビューだけでも読まれるとよいだろう。この部分だけを切り出し、患者の視点からその後の癌医療の最前線を加えた新書サイズの一冊があっても、有益だろう。
 

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2013.09.15

40歳過ぎのランニングで寿命が延びそう

 ツイッターのタイムラインを見ていたら、「40歳過ぎたらランニングは勧められない」という話題があった。なんだろうとリンク先を追うと、日経ビジネス・オンラインの対談記事「40歳過ぎのランニングは「元気の浪費」」(参照)があった。対談に含まれる各種の健康についての話題の一つに、その「40歳過ぎたらランニングは勧められない」という見出しがあり、面白そうな話題もあった。以下、「岡本」とあるのは岡本裕医師である。


――例えば、健康のためにランニングをしているビジネスパーソンが今とても多いのですが、岡本先生はランニングは危険だと言われています。
岡本:基本的にそれもリテラシーの問題だと思うんですが、自然界で自ら好き好んで走る動物は人間以外いないんです。それは、走るということが有害だからです。
 もちろん敵から逃げるとか、獲物を追う時は走りますが、あくまで短時間です。2時間も走っている動物はいない。
 ある程度の負荷をかけるのはいいんです。骨粗しょう症の予防にもなります。息が切れない程度のジョギングはいいけど、人間ってエスカレートするでしょう。タイムトライアルに夢中になって、4時間を切ったとか3時間を切ったとか熱中してやり過ぎますよね。若い人は精神力をつけるために多少はいいかもしれないけど、40歳過ぎてやるものじゃないです。体が下り坂に向かっている時に自ら痛めつけるというのは愚の骨頂です。
――走るよりは、自分のペースでの山登りなどを勧めていますね。
岡本:そう。リラックスもできるだろうし、景色を見ながらハイキング程度がいいんじゃないですか。
 走る人は寿命が短いというデータも実際あります。走ったら元気になるんじゃなくて、元気な人が走ってるだけ。元気を浪費してるだけ。

 確かにそういう考え方もあるだろうと思う。
 自分もよく奇妙な誤解されることもがあるが、この話で重要なのは「息が切れない程度のジョギングはいいけど、人間ってエスカレートするでしょう」という点で、肯定的に見るなら、「息が切れない程度のジョギングはいい」ということだ。
 実際そうした研究は近年よく見かけるようになった。なかでも注目されたのが、今年の4月に疫学の専門誌「アメリカン・ジャーナル・オブ・エピデミオロジー」に掲載された「男性・女性ジョガーの長寿:コペンハーゲン市心臓研究(Longevity in male and female joggers: the Copenhagen City Heart Study)」(Am J Epidemiol. 2013 Apr 1;177(7):683-9)だ。日常ジョギングをする幅広い年代層1,878人(男性1,116人、女性762)を対象に、日常ジョギングをしない人との比較で、最大35年間追跡調査したところ、ジョギングをする人では、男性で 6.2年、女性で5.6年の寿命が延びていた。
 延命の影響は日頃のジョギングと見てよいだろう。調査には各年代層が含まれ、統計的にも年代層が考慮されているようなので、40歳過ぎのランニングでも寿命が延びる、と受け止めてもよいように思われる。
 同調査で興味深いのは、先の岡本医師の発言とも呼応するが、「エスカレート」するとこの効果は弱まることだ。つまり、適度なランニングに延命効果があるが、度を超すとそうはいかない。
 では、適度とはどのくらいか? 同研究を指導したペーター・シュノル博士の話では(参照)、速さは、呼吸に少し負担がかかるが息苦しくない程度(中程度)で、時間は、一週間に1時間から2時間半まで。これを一週間に二、三回行うのが理想的らしい。
 実行しやすい最低限で見るなら、一週間に二回、30分ほど軽くジョギングすればよいということになりそうだ。
 効果は、酸素吸収効果を高め、インスリン抵抗性を改善し、善玉コレステロールを増やし、高血圧を下げ、血管内をきれいにし、免疫力を高め、骨密度を上げ、炎症しににくい体質にし、肥満を防ぐ……なんだが、いかがわしい健康食品の宣伝文句みたいだが、シュノル博士はそれらの効能を述べている。
 しかし、その研究だけで40歳過ぎてからのランニングって延命効果があるとまで言えるのだろうか。とか、コメントのツッコミがありそうだ。
 近年、米国癌研究所(NCI)が行った別研究もあった。PLOSメディスンに掲載された「適量から精力的な強度までの余暇の身体活動とその死亡率(Leisure Time Physical Activity of Moderate to Vigorous Intensity and Mortality: A Large Pooled Cohort Analysis)」(参照)である。
 こちらは40歳以上の寿命に関心を置いて調査している。結論は、ランニングとは限らないが適度な運動をしている人の寿命は3.4年から4.5年ほど延びていることだ。ここでの適度な運動の指標としては、WHOによる一週間に150分のきつめのウォーキングが挙げられている。これだと、一週間に5日30分のウォーキングになる。ちなみに、ウォーキングでの負荷は心拍数で管理するのもよいと思われる。以前書いた「ウォーキングには心拍計付き時計を」(参照)も参考までに。
 詳細に関心ある人は、それぞれリンクをたどるなどしてオリジナルに当たってみるとよいだろう。PLOSにも編集者による一般向けの解説があり、また米国癌研究所の研究にも別途、一般向けの説明記事(参照)もあるので、これらも参考にするとよいだろう。

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2013.09.13

一人でマッサージができるフォームローラーが、気持ち、ええ。

 筋トレ関係の本を読んでいると、フォームローラー(foam roller)という道具が出てくる。発泡スチロールみたいな素材でできた、直径15センチで1メートルほどのポールである。床において転がし、筋肉のマッサージのように使うものらしい。ライフ先生も使っていた。

 使い方の動画なんかもけっこうネットにある。

 

 見てるとなんか気持ちよさそうなので、とりあえず買ってみることにした。

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スレンダーポール
 僕がアイアンガーヨガをはじめたころはヨガマットもプロップも日本では入手が難しくて米国から買ったものだったが、フォームローラーはどうかというと、日本でもいろいろあった。
 っていうか、間抜けなことにあとで気がついたのだけど、ジムにも置いてあった。けっこう普及しているようだ。名称はかならずしもフォームローラーではないようだった。とりあえず、形状も同じみたいなので、スレンダーポール(参照)というのを買ってみた。
 届いて手にしてみると意外にでかいというか、アマゾンのでかい箱に入ってきたせいもある。そしてそのわりに軽い。非常に軽い。当然だろうとは思う。固さはというとけっこう固い。発泡スチロールみたいに壊れやすいかというと、それがそうでもない。あとこの手のものは化学物質臭がひどいことがあるけど、そうでもない。なんか気に入った。小さい子供がそばにいたら、「泣く子はいねがぁ」とか言ってぽかっとやりたくなるようなツールである(やっちゃだめですよ)。
 早速、床に座ってライフ先生よろしくふくらはぎの下に置いて、コロコロとやってみる。あー、気持ちええです。なんかこのままコロコロとやってテレビでも見ようか。とつい、録画していた「酔いどれ小籐次」を見ながら、ナレーションのおもてなし声にうっとりしちまいましたよ。そんなことをしている場合か。
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ミニフレックスローラー
 他の部位にも使えるというか。背中のコリとか腰のコリをほぐすのにも使える。マッサージ器の類より効果的な感じがする。寝るとき使えたらいいんじゃないかと小型のも買ってしまいましたよ。ミニフレックスローラーというやつ(参照)。これはこれで便利。
 大きい方のフォームローラーだが、マッサージ以外にもストレッチにも使えるし、コアトレーニングにも使える。あれだ、プランクでコロコロと。動画がありそうなもんだと思ったら、あった。

 ライフ先生の本を読むと、フォームローラーは、自己筋膜解放(SMR: Self-Myofascial Release)に使うとある。マッサージというわけでもない。いろいろ理論とか背景はあるらしい。身体がほぐれて気持ちよければええんでないの。

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Foam Roller Workbook
 ということなのだが、ついもっと知りたくなり、解説書もあるかと思って探したら、「ポールを使ったコロコロダイエット」(参照)くらいしか見当たらない。そう来たか、日本。
 ああ、そうだ、ライフ先生の本にもあったのだから、別に日本語でなくてもいいやと探すと、「Foam Roller Workbook」(参照・Kindle)というのがあって、見ると、これで十分かな。いろいろ使おうと思えば、使える、と。
 ユーチューブや各種サイトにも解説はあるけど、この本のほうがフォームローラーの使用法という点では少し詳しいようだった。というか、それなりに詳しい。
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The MELT Method
 ついでにその関連のお勧め本を見ていたら、フォームローラーを使ったヒーリングの本というのがある。「The MELT Method」(参照)である。ついでに買ったみた。ごちゃごちゃいろいろ書いてある。それほどトンデモ理論でもないけど、リフレクソロジーっぽい内容も含まれている。世の中いろいろなんこと考える人がいるもんだなあ。
 読んでてこの本で面白いと思ったのは、足裏のほぐしに小さいボールを使うというのがあって、その小さいボールって、あれ夜店のスーパーボール釣りのあれじゃないのとか。
 そう思ったら止まらない。早速百均でスーパーボールを買って、足の裏でころころとやってみる。ふひゃあ、これもまた気持ち、えーです。自宅でパソコンしているとき、座りながらころころとやったりとか。
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スーパーボール
 「スーパーボールですっきりリフレ」みたいな本でも書きたくなりますね。「リフレですっきり安倍総理」とか。消費税はいそいで上げないでくださいね。話題が違う。
 
 

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2013.09.12

腹筋トレーニングでなぜシットアップとクランチがいけないのか

 Ooops! 前回の記事で、腹筋のトレーニングでシットアップとクランチはもう標準的じゃないよっていう余談をつい書いてしまったら、なぜだよ、仄めかさないで教えろよ、みたいな声が、あった。でも、あえて書くまでもないじゃん。そんな情報、あちこち落ちているじゃん。ネーバーまとめとかにもあるんじゃないの。
 うーむ。どうかな。ちょっと書いておきますね。腹筋トレーニングでなぜシットアップとクランチがいけないのか。それと、どうすりゃいいのか。
 そうはいっても、僕みたいな、筋トレ初心者が書いてもなんなので、2009年のNewsWeekにあった関連の話題を簡単に紹介するってことで、ここはひとつ。オリジナルは"Stop Doing Sit-Ups: Why Crunches Don't Work"(参照)。以下、意図は汲みつつも適当な話に作り直しているので、正確にはどうなんだよというのが気になったら、英語のほうの情報をきちんと読んどいてくださいな。
 それでは。
 
   ※   ※   ※
 
 みなさん、下腹を引っ込めたいと思ってるわけですよね。だから、きっつい腹筋運動をしたら、おなかが引っ込むと思っているわけです。クランチとかいう腹筋レーニング(仰向けに寝ながら上体を曲げて起こして頭をおなかに近づける運動)を何十回もペコペコと運動すれば、いいんじゃないの、とかね。でも、それってほんと?
 残念。クランチみたいな腹筋運動って体幹を鍛えるのに最善の運動ではない。それどころか、背骨とか腰を痛めるかも。
 リチャード・ガヤ(リチャード・ギアじゃないよ)っていう背骨の専門家の先生は、「もうずっと前から、長時間のクランチは教えてない」と言ってる。あまりに、ぐにっと体幹を曲げていると背骨の一番弱いところに力がかかりすぎるからだ。そこは、たくさん神経が集まっていて、痛めやすい部分なのだ。

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Low Back Disorders
Ph.D. McGill Stuart
 別の背骨の専門家、スチュワート・マギルという先生も言ってる。背骨というのは小さい盤を積み重ねたようにできているから、腹筋運動で何回も曲げていると、その盤の接続が金属疲労みたいになっちゃうよ、と。やり続けていると、接続部分が、ぶにゅっーと飛び出して、椎間板ヘルニアになって、痛くてひどいことになるよ、とも。
 じゃあ、腹筋運動、どうしたらいいのさ?
 マギル先生によると、だからぁ、背骨を曲げるんじゃなくて、脚のほうから曲げて腹筋に力を入れるといい。
 腹筋台とかに寝て、ぐいっと上体を起こす、よくある腹筋運動、シットアップなんかはどうなの?
 マギル先生の答え。「あれ、一回やるごとに背骨をちょっとづつ壊しているようなもんですよ」。先生のお話は、続く。
 クラッチを一、二度やって終わりにする人はいなくて、なんとかおなかをへこまそうと腹の筋肉が痛くなるまで何十回も繰り返す。あれねえ、水着でかっこよく見せるよりも背骨のことを考えたらどうかね、と思うけど。あの手のことを勧めるコーチもいるけど、あんなのやっても腹の筋肉が偏って発達するだけで腹周り全体がスリムになるわけじゃない。結局、シットアップとクランチで頑張っても、だめ。
 どうしたらいいんですか、マギル先生。
 もともと、腹筋ってなんのためにあると思う? シットアップやクランチあるわけじゃないんだよ。人間が何か動作をするときに背骨を支えるのが腹肉の役割なんだ。背骨自体は、支える筋肉がなければ、ゆるゆるしているわけ。だからだね、腹筋を鍛えるなら本来あるべき用途で鍛えないといけない。体幹というのは腹筋だけじゃないんだから総合的に鍛えないとね。だから、腹周りだけきれい見せるための運動は、ない、ということ。運動するなら、従来とは違った運動のほうがいい。
 例えば、腕立て伏せなんかでも、普通に考えられているよりいろいろな筋肉を使うものだし、体幹を強化する機能も向上させる。これには腹筋も含まれている。人間の動きとしても本来ある体幹の筋肉のありかたに合っている。自然に身体全体を鍛えれば、体幹も鍛えられる。背骨を伸ばして仰向けになり腰を手で支えた状態で、足を直角に上げてから静かに降ろして一定の角度で止めるという運動とかもある。他にもあるからユーチューブ見といて。
 ああ、そもそもだね、体脂肪が多すぎるなら、体幹を鍛える以前の話。改善の9割は食事を見直すこと。それに合わせて、サーキット・トレーニングして身体全体を動かして、カロリーを燃焼させたほうがいい。体幹の運動にもなる。通常の筋トレでももいい。体脂肪を10パーセント以下に落としてかっこよく見せたい気持ちもわかるけど、身体を壊すよりはましでしょ。


 
 

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2013.09.11

[書評]一流選手の動きはなぜ美しいのか からだの動きを科学する (小田伸午)

 ところで2020年のオリンピック開催が東京に決まった。すでになんども書いてきたがオリンピックには関心がないものの、東京には来ないだろうとは思っていたので驚いた。欧米諸国からは遠いし、チェルノブイリ原発事故のように福一原発事故を理解している欧米諸国でもあるからだ。
 しかし、決まってみると、そういえば、オリンピックって中国が大量に金メダルを獲得するし(当然中国人がたくさんやってくる)、韓国も日本より多くの金メダルを取るのだから(当然韓国人がたくさんやってくる)、中韓がそろって東京オリンピックに取り組むというのも、この地域の緊張緩和にはよいこという想定もあったのでは、と思えてくる。

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一流選手の動きは
なぜ美しいのか
からだの動きを
科学する (角川選書)
 オリンピックには経済効果はないとも言われているし(とりわけ騒ぐような話題でもない常識として)、しかも2020年の東京オリンピックは湾岸でのエコノミーな大会になるので、1964年の東京オリンピックとはわけが違う。それでも、投資分くらいの経済の活性化はあるだろうし、この件で気持ちも前向きになる人が、後ろ向きになる人よりも多そうだから、まあ、いいのではないか。余談ついてで言えば、1964年の東京オリンピックをリアルに見てきた自分としては、あれは、東京に残る戦前・戦中の軍都の施設や占領軍施設(参照)を撤去する口実にもなっていたなと思う。そのあたりの感性を持つ人がめっきり減ったなあと感慨深い。
 かく、観戦スポーツには関心のない私だが、スポーツ全体に関心がないわけでもない。学生時代は陸上をやっていたし、大学では水泳、『考える生き方』(参照)にも書いたが、社会人になってからヨガとかフェルデンクライスとかしてたし、ダンスもやりたいなとかも思っていたものだった。最近ではマイブームは筋トレ。
 で、『一流選手の動きはなぜ美しいのか からだの動きを科学する (小田伸午)』(参照)。あっと驚くような新知見はないように思えたが、普通に面白い。著者は1954年生まれで私より3つ年上だが、冒頭彼が中学生で陸上部だったときの話が出てくる。「マック式ドリル」である。ようするにももを高く上げれば速く走れるという指導で、僕が中学生のときでもそんな雰囲気だった。もちろん、これはそう簡単な話ではない。そこから、この本は、身体の主観的な感覚の話題に移る。このあたりも、なるほどと思える。最近、エリプティカルマシンを使うのだが、これ前進しているのか後進かよくわからなくなる。マシンのほうで負荷をいろいろ変化させているみたいだが。
 第2章がまた面白い。いわく「細マッチョがゴリマッチョに勝つ」ということで、100キロのボディビルダーと60キロの空手選手の腕相撲の話がある。想像が付くように勝つのは空手選手。瞬発力が違うからだとも想像できる。が、では具体的になぜその瞬発力が出るのか、ボディビルダーは運動神経がトロいのかというと、そうではなく、「得体の知れない力」があるからで、それを解析すると空手選手は力を込めるときに、身体を急速に降下させ、つまりその加速で瞬間だけ百貫デブ状態になるからだ。それで「得体の知れない力」が支えられる、と。まあ、この話も中国武術にある発勁ですね。また、相手の力の入れ方をだますという話もあるけど、これも武術の本とかによくある話。いずれにしても、「からだの動き」でその機能は変わる。第2章では足の機能の話もいろいろあって面白い。余談だが、現代人は足が機能的に硬くなっているなあと思う。
 第3章はいわゆる体幹(コア)の話が多い。このあたりもすでによく話題になるところ。私が学んでいたフェルデンクライスでは、コアというより背骨から力をどう伝導させるかという話題だった。実際のところ、表題でもある「一流選手の動きはなぜ美しいのか」というのは、コアとの連動の機能的な美しさでもあるのだろう。
 最後の第4章は走り方に特化した話題。このあたりは、最近のボルト走法の研究とかでも興味深い分野だが、本書ではれいの「なんば」に集約されている。
 全体としては誰が読んでも面白い本だなという印象だが、56歳にもなった自分からすると、もうこうはいかないんですよね。最近、筋トレ関連で、スポーツをする中高年をよく見かけるようになったが、楽しくてやっているという心理効果が重要だとしても、これはまずいんじゃないかという体型や動きをよく見かける。中には若い気分の人もいるし、タニタの体組成計とかだとかなり10歳くらい若い年齢が出る人もいるのだが(ちなみに自分)、体組成と運動はまた別の話。
 とりあえずスポーツ習慣は中高年には健康によいとはいえるのだろうけど、これでいいのかなあという感じがしている。
 筋トレなんかでも、一生懸命腹筋100回!というのも見かけるけど、先日、ネットでちょっと話題になった、米国では学生には平泳ぎはさせないと同じようで、米国の筋トレにシットアップはもう事実上ない。代わりにでは、クランチかというと、これももうなくなっているんですよ。「10のパワー 週一回のゆっくりフィットネス革命(Power of 10: The Once - a - Week Slow Motion Fitness Revolution)」(参照)やその関連で紹介した「「科学による身体 一週間に12分で効果の出る科学的プログラム(Body by Science : A Research Based Program to Get the Results You Want in 12 Minutes a Week)」にも、シットアップはないし、いわゆる繰り返すクランチもない。理由は簡単で、身体壊すから。
 そのあたりの、そうだなあ、スポーツで身体を壊した中高年、なんつう本があったら読んでみたいものだが、ちょっと話題が暗いですよね。
 
 

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2013.09.08

ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ。

 『歴史が面白くなる東大のディープな世界史(祝田秀全)』(参照)という本を暇つぶしがてらに、にやにやしながら読んでいたが、「ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ」という設問に至って、くすりと笑った。

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歴史が面白くなる
東大のディープな世界史
 この本は、分野としては受験参考書なのだろう。東大入試の世界史の過去問から面白そうな設問を取り出して、解説を付けながら、模範解答を示すという書籍である。世界史は暗記物とも言われるが、この本に掲載されている問題の大半は論述問題なので、単に事項を暗記して答えるわけにはいかない。解答に至るまでの理路を理解することが重要になる。
 しかしまあ、それだけ言うと、やはり受験参考書ですよね。そういう受験参考書が珍しいわけではない。
 ところが、この本で選ばれた問題はなかなかひねりがあって楽しい。さすがは東大というべきなのか、東大の先生はクイズがお好きだなというべきか。なかでも、先の設問である。全体は、こうなっている。

 近代になってから韓国の出版物の多くは、日本の漢字仮名交じりと同様に、漢字ハングル交じりで作成されてきたが、近年ではハングルのみとする傾向が強まっている。ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ。
[2004年度・第3問・問(5)]

 設問を見て吹いてしまった。やるなあ。即答できますか? 
 面白いと思ったのは、この問題、前半の文章はなくてもいいはずである。設問というなら、「ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ」だけでいいはず。
 前半の「近代になってから韓国の出版物の多くは、日本の漢字仮名交じりと同様に、漢字ハングル交じりで作成されてきたが、近年ではハングルのみとする傾向が強まっている」というお話はうるさいよという感じだが、ようするに、クイズ番組(といいつつ最近のクイズ番組というのを見たことなくて、先日「タイムショック」が復活しているのを知ってびっくりした)の早押しひっかけと似たような構図になっている。
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Kindle版
歴史が面白くなる
東大のディープな世界史
 この本でも指摘されているが、前半部分がないと「訓民正音」あるいは「正音」と答えそうになる。出題者側からは、そういうふうに条件反射するか受験生、という趣向になっていたのかもしれない。
 その点で出題者の思いは前半にあるはずだが、その思いは相当にひねくれている。
 まず、「近代になってから韓国の出版物の多くは」というのは、近代以前の韓国の出版物はどうだったか、という含みがある。
 そもそも「近代以前の韓国」ってなんだよ、というのはさておくとして、概ね、女真族と見られる李成桂が打ち立てた李氏朝鮮の時代を指しているとしてよいが、ちょっと微妙なのは、李氏朝鮮が1897年にに国号を大韓帝国として皇帝を頂く帝国を自称して以降は近代のなのか。いずれにせよ、李朝ではハングルは「漢字ハングル交じり」ではなかった、ということを出題者は言いたいことがここからわかる。
 「漢字ハングル交じり」になったのは近代以降である。その嚆矢はというと、この本にもあるが、朝鮮政府顧問の井上角五郎が提言して実現した官報「漢城周報」で、それ以前の「漢城旬報」は朝鮮の公式文書のように漢文だった。
 この井上の提言は、朝鮮の近代化には、ナショナルな言語である朝鮮語の新聞の発行が重要だとした福沢諭吉の示唆を受けてのものだった。ようするに、福沢諭吉が、「漢字ハングル交じり」を生み出したと言ってもいい。当時の朝鮮知識人はこの「漢字ハングル交じり」に反発していた。
 つまり、前半の「近代になってから韓国の出版物の多くは、日本の漢字仮名交じりと同様に、漢字ハングル交じりで作成されてきたが、近年ではハングルのみとする傾向が強まっている」というのは、「福沢諭吉の指導で、韓国の出版物の多くは、日本の漢字仮名交じりと同様に、漢字ハングル交じりで作成されてきた」ということ。そして「近年ではハングルのみとする傾向が強まっている」という近年は、光復後のことである。
 あらためて言うまでもないが、日本語と韓国語の文法はほとんど同じ(おそらく同起源の言語に日本が白村江戦で負けてから和語を当てはめて作成した人工言語が日本語なのだろう)なので、「漢字ハングル交じり」のハングル部分は、いわば日本語の「てにをは」に当たる。このため、この時代の朝鮮人は、「てにをは」に相当する日本語を覚えるだけで、日本の岩波文庫はもとより、日本で流布されている書籍の大半をそのまま読むことができた。うがった見方をすると、そういうことがないように、李承晩は「漢字ハングル交じり」を排したと言えるのではないか。幼い子供にも千字文を学ばせていた国なんだから、戦後の日本のように基本の漢字くらいは残しておけばよかったように思うが。
 設問に戻ると、ハングルは李氏朝鮮の第4代王の世宗が「訓民正音」として1446年に公布したもので、意味は「民を訓える正しい音」ということ。つまり、漢字の音を表記するための工夫だった。漢字があってこその「ふりがな」と言ってもよいだろう。元来は、朝鮮半島が元朝支配下にあったときの文化遺産であるパクパ文字を元にしたものだった。
 なお、「訓民正音」はその公布年からしても、当時のその音の仕組みを記した漢文書籍を指す。その書籍の公布をもって「訓民正音」という歴史事象が創作されたというほうが正しいかもしれない。いずれにせよ、それをもって「ハングル」の当時の呼称と言えるかは、むずかしい。
 世宗は「ハングル」の普及のために諺文庁という文化機関を設置したが、李氏朝鮮の第10代王・燕山君の時代、1504年にいわばハングルの焚書坑儒的な弾圧が行われた。また燕山君がクーデターで失脚した後の第10代王・中宗もハングルの弾圧は引き続き、諺文庁も閉鎖された。かくしてハングルは公式には禁止された。もちろん、日本人のひらがなのように民衆の文字としては利用されてはいた。
 さて、当の設問に戻る。
 「ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ」だが、どう答えるか。
 ここでウィキペディアを見ると、関連項目はこう書かれている(参照)。

1446年にこの文字が頒布された当時は「訓民正音」あるいは略して「正音」と呼ばれた。これは「民を訓(おし)える正しい音」の意である。しかしながら、この文字は当初から「諺文(언문、オンムン)」という卑称でも呼ばれていた。

 ウィキペディアを見ると、東大のこの過去問の答えは、「1446年にこの文字が頒布された当時は「訓民正音」あるいは略して「正音」と呼ばれた」とあることから、「訓民正音」あるいは「正音」となるだろう。
 そうなのだろうか? ちなみに本書は、この答えを採っていない。
 歴史学的には同時代資料、あるいはその時代に近い資料を探る必要がある。重要なのは、史書「世宗實錄」巻102の、世宗25年(1443年)12月30日、庚戌の条にこうあるこことだ。

是月, 上親制諺文二十八字, 其字倣古篆, 分爲初中終聲, 合之然後乃成字, 凡干文字及本國俚語, 皆可得而書, 字雖簡要, 轉換無窮, 是謂訓民正音

 資料では28文字は「諺文」(おんもん)と記されている。実際、この件で形成されたのが「諺文庁」であった。設問が問う、同時代の呼称としては、「諺文」が正しいのではないか。ただし、その機能を称賛して、「訓民正音」とも呼んでいる。これを字母の呼称と介せないわけでもない。
 なお、ウィキペディアには「諺文」について、「卑称」とし、こう続ける。

「諺」とは本来俗語の意であり、中国語に対して朝鮮語を指して「諺」あるいは「諺語」と呼んだものである(文字頒布の書である『訓民正音』においてもこの用語が現れている)。従って「諺文」とは「俗語(朝鮮語)を表す文字」という意味である。この「諺文」という呼称はその後広く用いられ、日本併合時代までこの呼称が用いられた。

 この説明は正しいだろうか?
 この時代、中華圏の文化に迎合していた李朝では、漢文が公式文書である。当然、それ以外として、ひらがなのように読み下すための表音文字が公式ではないとされるのは同義反復にも近い。また「中国語に対して朝鮮語を「諺」と呼んだ」というのは、彼らの意識では、中国語が方言化したようなものだったということではないだろうか。
 ただし、燕山君以降の弾圧の経緯を見ると、このウィキペディア的な解釈はそのころにはあっただろう。
 ま、話は以上である。東大側の正解は何であっただろうか。
 余談になるが、ウィキペディアを見ると、なんとか、「諺文」を「正音」に置き換えようと、努力している人がいるようすがうかがえる。それをもって歴史修正というほどでもない。歴史とはそもそも史観であり、史観のなかで歴史事象が命名されるものだから、歴史学的に「正音」としてもよいだろう。が、「ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ」となると、それとは別になる。
 ところで、この問題で私が「くすりと笑った」のは、ウィキペディアでは「日本併合時代までこの呼称が用いられた」とあるが、これは昭和の時代の人なら「オンモン」という呼び方を知っていた。日本にいる朝鮮人や朝鮮系の人々も普通に使っていたものだった。つまり、そのころは、普通に、現在、ハングルと呼ばれている表音文字は「オンモン」だった。東大の問題は昭和的には常識の部類だったのである。もちろん、それゆえに歴史学的に正しいというわけではないが。
 むしろ「ハングル」の登場に多少違和感があった(朝鮮語という意味ではある程度知られていたが)。
 私の記憶にもあるが、NHKで「ハングル講座」が開始したのは、1984年つまり昭和59年のことだった。このころいろいろ話題になっていた。普通に考えれば、「ハングル講座」ではなく、「朝鮮語講座」だからである。もめていた。「朝鮮語講座」ではなく「韓国語講座」だろなども。結局、「アンニョンハシムニカ・ハングル講座」になったが、さらにもめていた。「ハングルって文字だろ」「ハングル語講座か?」などなど。そのなかで、「文字はオンモンだろ」とも言われていたのだった。
 
追記(2013.9.11
 DG-Lawさんが『赤本』と『入試問題正解』を当たったところ、両者とも正解は「訓民正音」とのこと。




 

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2013.09.06

[書評]10のパワー 週一回のゆっくりフィットネス革命(アダム・ジッカーマン)

 筋トレ本をいろいろ読んで、それなりに試している。今回は「10のパワー 週一回のゆっくりフィットネス革命(Power of 10: The Once - a - Week Slow Motion Fitness Revolution)」(参照・Kindle)という本。Kindleで英書。表題は試訳。
 たぶん、日本語翻訳はないんじゃないだろうか。実践的な筋トレ本なので、英語はそれほど難しくない。

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Power of 10
 内容はというと、いわゆるスロトレ。「いわゆる」と付けたのは、日本のスロトレだと、たとえばダンベルの上げに4秒と下ろしに4秒くらいだが、この本だと10秒。表題の「Power of 10」は通常は「10乗」という意味だが、ここでは、「10秒のスロトレで力を付ける」という洒落になっている。
 10秒ほどのスロトレは、スーパースローと分類されているらしい。本書にも言及があるが、考案したのは、ケン・ハチンズという人。彼はそのメソッドにSuperSlowと名前を付けて商標化している。さらに本書の受け売りだと、このタイプの筋トレを考案したもう一人が、筋トレ用機械・ノーチラスマシンの考案者アーサー・ジョーンズとのこと。合わせて、彼は「高強度運動(HIT)」というのも考案した。その定義だが、高い強度で筋不全になるまで筋トレして終わるということらしい。
 「らしい」というのは正確な定義がよくわからないからだ。というのも、「高強度運動」という言葉だけ取り上げると、酸素摂取量(VO2)で定義されることもあるからだ。こちらの場合は、ジョギングとか有酸素運動の概念で、筋トレのような無酸素運動ではない。
 いずれにせよ、この手のスーパースロー系のトレーニングの場合、ゆっくりと筋トレを行い、もう力が出ないという地点で終わり、ということのようだ。本書「10のパワー」でもそんな感じになっている。
 加えて、スローというわりには、セットでやらないので、基本12分から20分くらいとか短時間で終わる。しかも、週一の筋トレでいいらしい。そのあとは筋肉を休めておきなさいということだ。
 それで効くのか? 疑問に思ってやってみると、通常の「IRM70%で10回繰り返し3セット」という、いわゆる筋トレよりも効く感じはする。ということで、すでに何回か試してみた。
 やってみて、意外に抵抗があったのは、スーパースローよりも、筋トレは週一でいいというあたり。いわゆる筋トレ本だと、超回復は二、三日ということなので、そんなに休んでいていいのかなと逆に不安になった。現状の自分だと4日開けると、なんか不安になる。
 実際のところ、このあたりのトレーニング周期だが、本書もよく読むと、初心者は週二でよいともある。初心者の場合、筋肉がまだ十分に発達してないので、ちゃんとした負荷がかからないからではないかと思う。
 その他、この本の内容だが、疲労回復の期間に触れたが、これに食事の原則が筋トレに加わって、「三つの柱」が重要としている。とはいえ、食事法については、以前ライフ先生の筋トレ本にあったのとほとんど同じ内容なので、独自性はあまりない。
 本書のメソッドを試してみたと言ったが、最初読んだときは、なんかうさんくさいなこれ、という印象が強かったし、エアロビック運動(カーディオ)は不要というあたりも、そうかなという疑問は残った。他の本も読んでみたいとは思った。
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Body by Science
 そこで、この本の関連でお勧めされた「科学による身体 一週間に12分で効果の出る科学的プログラム(Body by Science : A Research Based Program to Get the Results You Want in 12 Minutes a Week)」(参照・Kindle)というのも読んでみた。まあ、表題からして、これもうさん臭いぞいう感じはした。が、いちおうそれなりに、主張のそれぞれに典拠がついていた。それでもリサーチベースというわりには、リサーチよりも、普通に医学書のコピペ的な内容が多く、クエン酸回路の説明とか科学的に間違っているわけでもないのだけど、いちいちそんな話は書かなくてもいいよのがこってり書いてあって、読みづらい。
 こちらの本の内容も、お勧めで出て来たことでも予想していたが、基本スーパースロートレーニングだった。その意味で、「10の力」と基本は同じ。ただ、「10の力」のようにかっちりとしたメソッドかはしてなく、筋トレプログラムにも幅をもたせている。
 というわけで、「科学による身体」を読んでから、再び、「10の力」に戻ると、当初読んだときの、いかがわしさよりも、筋トレの指導者がいいそうな実践的な指導が多いという印象に変わった。細かいところで経験的な原則とかも出て来て、意外とそのあたりがためになる。
 ところで、スーパースロー系の主張だと、有酸素運動は要らないとのことで、「科学による身体」などではいかにそれが効果がないかという研究が取り上げられているが、個別に見るとけっこう短期間の調査が多く、公平な評価になっているとは思えないし、実際、有酸素運動をすると、それなりに身体機能は改善する。ということで、自分のワークアウトでは筋トレだけというのはしないことにした。
 あと、核心部分であるはず内容も、疑問は残っている。二書それぞれ、筋不全を重視しているのだが、それが間違いとも言えないにせよ、筋肉の生理でいえば、スローな動きでトレーニング効果が出るのは、動きが厳密になるというよりも、力を加え続けている間、加圧トレーニング的な効果、つまり、化学的な刺激が生じているのだろうと思う。
 言い忘れたが、高強度運動というと、いかにも「高い強度」という印象があるが、スーパースローをやってみると、IRM40%くらいでも、がっつり筋肉に来る。一度にかける負荷は小さい。で、負荷が小さいということは、身体を壊しづらいということでもある。スジとか痛めにくい。
 「10の力」ではそのあたりの配慮もあって、なるほどなあと思った。ついでにいうと、若い時にマラソンとかしていると後年、足を痛めるよとの指摘もあった。私も、エリプティカルマシンという、有酸素運動の機械を使っていて思うのだが、地面とかトレッドミルだとランニング時に足に衝撃の負担かけているなというのがわかるようになる。走る系のアスリートだと、そういう負担に耐えるのも訓練のうちだろうが、私のように50歳過ぎた人間は向かないかもしれないような気がしている。
 話がだらだらとしてしまったが、マシンを使った筋トレを開始してだいたい3か月経った。結果はどうかというと、関連書籍にもあるように、その程度の期間ではさしたる効果は出ない。
 もともと肥満でもないし、メタボ腹でもないので、数値的にも効果は出にくいが、もうちょっとでBMIは20を切れそうだし、体脂肪は14%を切れそうな線は見えてきている。ただ、3か月やった実感からすると、意外とその線って遠いんだろうなとも思う。あと、腕にちょっと筋肉はついてきた感じはするし、ふくらはぎとかは運慶作仁王像みたいに割れている。大胸筋ぴくぴくとかも少しできるようになった。だからどうだというと、別にどうということでもないのだけど。
 

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2013.09.04

ハウス「炒めて香るカリーソース」作って食った

 スーパーのカレーコーナーにハウスの「炒めて香るカリーソース」というのが二種類あって、「何、これレトルト?」とか思って見ると、ソースだけはレトルトで、肉は後から自分で足せ、という商品だった。
 なるほどね。前々から思っていたのだけど、レトルトのカレーもだいぶおいしくなったけど、具がねえ、なんかどれもレトルトの具だよね、という不自然な印象があった。具は別にすればいいんじゃないと思っていたのだ。どうも考える人はいるらしい。つまり、それだ。
 二種類は、<チキンマサラカリーの素>と<ビーフペッパーカリーの素>。最初にビーフのほうを作って食ってみた。まあ、おいしいです。ただ、予想通り、ハウスの味だなあという感じはした。どちらも一袋で二人分。一人だったら残して冷凍してもいいんじゃないか。

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ハウス 炒めて香るカリーソース
ビーフペッパーカリーの素
400g×5個
 <ビーフペッパーカリーの素>で加えるのは、薄い牛肉と薄切りにしたタマネギ。これをちゃちゃっと炒めて、カレーに加えて温めるとできあがり。ほんの5分で出来ちゃいます。レトルトより簡単かも。
 作ってわかったのだけど、簡易にするために薄い牛肉にしたんだろうな。しかし、これ、ようするにハヤシライスというかハッシュドビーフですね。味の印象もそんな感じは否めない。ちなみに、普通のルーカレーでも、同じように作ると10分くらいでできます。薄い牛肉と薄切りにしたタマネギをちゃちゃっと炒めて水を適当に入れて温め、火を止めてルーを入れて、弱火で5分とか。牛肉は炒めず別にルーを溶かしたのに最後に入れてもいいけど。
 で、まだ試してないけど、このカレーなら、よくあるホテルのカレーみたいにステーキをミディアムに焼いて、サイコロに切ってぼしょっと入れるほうがおいしんじゃないか。次回はそうしようと思った。
 <チキンマサラカリーの素>のほうは、鶏もも肉をローストして、この温めたソースに入れろとのこと。鶏もも肉をきちんとローストするには10分以上かかるのでこちらはもうちょっと手間になる。大した手間ではないけど。
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ハウス 炒めて香るカリーソース
チキンマサラカリーの素
400g×5個
 たどうせだからもも肉をヨーグルトに漬けてから、オーブンで焼いたのを入れてみた。おいしかったです。カルダモンがかなり効いている。ちとしょっぱい。
 個人的にはもうちょっとバター風味があるといいかなとは思った。というか、それってバターチキンじゃねとか自分でも思うけど、あるいは、ヨーグルトと牛乳で伸ばしてもいいかもしれない。
 さっきも書いたけど、どっちもハウスらしさは感じる。もうちょっとハウスらしさを落としてインドカレーに近づけてもいいような気がするのだけど、そこは市場的に難しいのだろうな。
 話は少し反れるが、この夏はよくカレー食った。いろいろ出る先もあったりして、世の中のカレーってどんなだろうとあちこちで食ってみたりもした。その結論だけいうと、外食のカレーというのも基本はレトルトみたいですね。というか、手作り系はあまりおいしくない。
 カレー作りでは、ルーを使わずスパイスからも作ってみた。とはいえもっとも全部調合するのはそれはそれでめんどくさいので、基本は「アロマティカ・ボンベイスイートカレー」を使って、あとはこれにスパイスを足したりガラムマサラを足したりした。
 そういえば、S&Bシーズニングにもチキンカレーがあったので試してみた。こちらは普通にS&Bのカレー粉だなあという感じ。ちなみにこの商品ググってみても見つからなかった。僕がなんか勘違いしているかも。
 それにしてもよくカレー食うようになったなあと我ながら呆れる。そして、まあ、だいたい自分が作れそうなカレーも飽きてきた。
 日本人の口にも合うカレーというのじゃなくて、もうちょっとインド料理みたいにシフトした気はしている。コルカタで食ったカレーはもっとうまかったしなあ。
 
 

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2013.09.01

米国のシリアへの軍事介入案をどう見るか

 混迷のシリアに向けて米国軍を含んだ西側諸国の軍事介入があるのか、すわっ戦争か、ということでシリア情勢が一気に話題になってきているかにも見えるが、現状では、れいによって米国オバマ大統領お得意の修辞という以上の意味合いを見つけるのも難しく、その意味で、化学兵器使用と想定される目立った事象があったものの、具体的なシリア情勢に大局的な変化はなく、現状はどのように評価していいか、アイロニカルな思いになる。
 オバマ米大統領らしい修辞がさすがに目立つのは、即座に軍事行動を取るかに見えつつ、具体的な動向は、9日以降の米議会の承認を求めてから、としたことだ(あたかも変心のように演出されている)。
 米国の軍事活動は大統領の権限なので彼自身が独自に判断できる。戦争権限法に従った場合でも、60日後に議会承認を得て、さらに予算の承認を得るというのが通常のプロセスである。なのになぜオバマ大統領が今回このような議会優先の手順を採ったかだが、一般的には前ブッシュ大統領が無謀なイラク戦争を開始したと彼自身非難していたことの整合と、合わせて、現状、米国民がこの軍事介入を好ましいと見ていないことが上げられている。
 しかし、皮肉な見方をすれば、議会優先というよりも、大統領として苦渋の決断をしても非難されるような政治状況にあり、そうでなくても再度「財政の崖」が迫るなか、大統領のとしての責務、いわば尻を議会、特に共和党に押しつけるという巧妙な内政的政治手腕なのだろう。
 オバマ大統領のこの狡猾さはしかしそう責められたものでもない。シリア情勢について大局的に見た場合でも、何の落としどころもないことは明白で、そもそも何のための軍事介入なのかすら疑問視されている。米国としては自国の損失を出さないという点でも、議会に尻回してグダグダにしておくほうが国益にかなっている。
 もちろん、表向きは毒ガス兵器を使ったシリア政権は国際ルール違反であり、人道的にも許されないという修辞ではあるが、その改善が目的なら軍事介入の効果に対してどのような理路を採るのがまったくもって不明である。現アサド政権を崩壊させても、問題の解決にならないことは、シリアについての常識の部類だろう。
 ブッシュ大統領時代には、英国のブレア首相と強い連携があったが、オバマ大統領とキャメロン首相の関係は、表向きは良好だが微妙なところでねじれているようにも見える。今回オバマ大統領が軍事介入をこの時点で言い出したため、キャメロン首相は英国の政治プロセスとして議会に諮って、見事に転けた。
 このタイミングと英国の反戦気運からすれば、転けて当然なので、皮肉に見れば、オバマ大統領の手の打ち方はお見事といってもいいものだった。
 キャメロン首相もオバマ流にグダグダやるだけの機転はなかったのかとも疑われるが、この間のフィナンシャルタイムズのシリア論調などを見ていても、基本的に指導層はシリア政策には強行的で、むしろ遅きに失したという考え方があり、英政府としては焦ってドツボったということだろう。
 米国議会に回された尻の行方だが、共和党側としては、もともと強行的な姿勢があったのでとりあえず毒饅頭は食らわざるを得ない。が、この過程で、実際のところ、オバマ大統領が繰り返し述べているように、「限定的な軍事介入」という「限定」の線で落ち着くだろう。「限定」にどのような効果があるかについては、当然ながら、グダグダその2、くらいの意味しかないだろう。
 ワシントンポストなどを見ていると、特にクラウトハマーの意見が興味深いのだが、以前からシリア介入イケイケどんどんの論調だったが、オバマ大統領が介入を言い出したとたんに、米国の軍事介入は中東の大戦争を引き起こしかねないという愉快な様変わりをした。「じゃあ、どうしたらいいんだよ」というと、オバマ大統領くらい頭のいいクラウトハマーも黙っているのわけだから、やはりグダグダくらいがよろしいということではあるのだろう。
 一言でいえば、軍事介入を口先でもてあそぶ茶番、という印象だが、茶番のブラフでも効果があればよいのだが、現実を見ると、オバマ大統領が軍事介入を言い出してから難民がさらに増加しているようにも見える。人道とかの観点からすると、なんと言ってよいのかわからない。
 ただし、まったくの口先介入ではないことは輸送揚陸艦サンアントニオを地中海東部に配置したことから理解はできる。が、国防総省当局者は「予防的措置」としている。無人機の拠点とするためのカモフラージュかもしれないし、ブラフでレイズしてみただけかもしれない。オバマ大統領は、リビアにおけるカダフィ暗殺やビン・ラディン暗殺など奇手を好むので、なにか手が隠されているのかもしれないし、ベンガジゲートのような壮大なマヌケが仕込まれているのかもしれない。
 シリア問題の危機的な状況は、表向きには現状、毒ガス使用に目が向けられているし、国際社会としては、また日本の論調でもよく見かけるが、いわく、国連の調査に任せ、その判断を待つことが大切だとかされている。
 これもまた茶番で、そもそも国連の調査は、毒ガスの使用の有無だけが問われるのであって、政府側が仕掛けたか、反政府側が仕掛けたかはわからないことになっている。これは国際社会のグダグダプロセスの一環であり、むしろオバマ大統領に都合が良いからそのまま飲むのではないかとも見られていた。そもそも国連がシリア問題で方向性のある決議を出すことは不可能である。
 だが、ここでちょっと微妙な違いがあった。ケリー米国務長官が国連調査とは別に、米議会向けに、アサド政権側が毒ガスを使ったとの報告を出したことだ。もちろん、これは尻を預けた議会へのフォローではあるのだが、国連調査がナンセンスであることを先取りしていたものだ。なにゆえ。
 局所的な話題にすれば、毒ガス兵器が使用されたとして、政府側が仕掛けたか、反政府側が仕掛けたかについて、国際社会が確証をそもそも持てるものだろうか。答えは自明で、無理。先に述べたように国連調査はこの点では事実上ナンセンスになっている。では、ケリー報告が信じられるのかということだが、そもそもこの情報源が開示されていない。
 この辺りから、事態の解明にちょっと陰謀論的な風味が出てくる。もちろん、陰謀論みたいな愉快な展開を書く能力は私にはないので、地味に推論するしかない。
 日本ではあまり報道がなかったが、シリア問題が悪化していく過程で、なんどかイスラエルがシリア側を空爆していた。5月の時点では首都ダマスカスやその周辺の三つの軍施がイスラエルによって空爆され、シリア側は死者42人を出し、シリア政府は宣戦布告と同じだと息巻いていた。
 その後の経緯を見てもわかるように、「まあ、そんなこともあったっけ」みたいに静かに推移している。この沈静の流れを見ていると、イスラエルのピンポイント空爆は、シリアの野心を巧妙に砕いていたのだろう。おそらくイスラエルの諜報は、シリアの危険な動向について最小限の軍事介入を継続していたわけである。それだけの諜報能力を持っていることも示していた。この能力は米側にたぶん連携するだろう。
 そもそもシリア問題がなぜ問題なのかというと、米国および西側にしてみると中東の不安定化であり、原油にエネルギー事情を依存している現代社会に好ましくないということもだが、現実には、エジプト争乱の背景とも同じで、イスラエル問題が関係している。
 簡単な話にすると、シリア政府側は苦境に陥ったらイスラエルを刺激して泥沼に引きづり込む目論みがある。言うまでもなく、イラクの故フセイン大統領も同じ野望を持っていたし、これにさらにサウジを脅かす野望もあったため、サウジのお小姓チェイニーが主導するブッシュ政権に叩かれることになった。
 今回のシリア問題は、背景にイランが潜んでいることはもう明白になっているが、イランの野望はそもそもイスラエルを叩くことにあるし、関連してサウジの権威を引き下ろすことにある。
 その意味では、シリア問題は、イランを中心に、イスラエルとサウジが関わっているという構図である。その切っ先としてシリアが上手にイスラエルを巻き込むことが、イランの大局的な目論みになっている。アサド政権のアラウィ派もその線での存続を期待している。
 ついでに言えば、シリアに対してここまでイランが関与できたのは、シリアとイランの間にある国、イラクの上空をイランが通過できることが大きな要因になっていた。あまり注目されていないが、ブッシュ政権時代はこれが不可能で、いわば、イラクによってイランとシリアを上手に隔離していたのである。逆にいえば、オバマ大統領はここでもヘマをやっていたのである。
 当然、イスラエル側もそんなことは知っているので、引火しそうな火種を適時、ぷちぷちと潰していたのだが、おそらくクサイル陥落後、勢いづいたシリア側がイスラエルに手を出しそうする臨界点が、米国に伝わっているのだろう。その視点でいうなら、米国の「限定的な軍事介入」の目的は、「シリアよ、イスラエルに手を出すな」ということになるだろう。
 その線で考えると、ロシアとの関係も解きやすい。ロシアはシリアのタルトゥースをロシア海軍の補給拠点としてこの確保をライフラインとしている。ロシアの逆鱗とも言える。
 簡単にいえば、米国の「限定的な軍事介入」とは、タルトゥースを迂回するという意味がある。明確な合意があるかわからないが、オバマ大統領とプーチン大統領の間には無言の密約があると見てもよい。
 当面の図柄は以上のようなものだが、シリアのグダグダにはなんら解決の道筋もなく、しかも難民が増加しているのだが、それ自体がシリア政府の統治目的にかなっているのかもしれない。
 ただし、事態はそう単純ではない。北部では大量のクルド難民がイラク北部に流れ込んだ。これが将来クルディスタン運動強化に繋がらないともいえない。この難民は、アルカイダ下にあるヌスラ戦線の脅しによると見られている。反体勢各派の動きがもたらす結果は中期的には予想が付かない。
 最終的にシリアのグダグダは、アサド政権と反体制派のヌスラ戦線などの対立で、局所的にだらだら続くというのが、国際社会にとってひとまずの安定ということになりそうだ。
 
 

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