« [書評]果てなき渇望 ボディビルに憑かれた人々(増田晶文) | トップページ | 米国のシリアへの軍事介入案をどう見るか »

2013.08.26

ブロガーであることは自由な言論社会で成り立つ

 昨日だったかツイッターのタイムラインを見ていたら、ブロガーサミットという話題があった。ブロガーが多数、一同に会して議論するらしい。サミット(頂上)というのだから、著名なブロガー中心の会合だろう。
 そういう会合があることは二週間くらい前だろうか、一応知っていた。それ以上の関心は、なかった。私に関係なさそうだったからである。
 私も、もう10年前だが、アルファブロガーと呼ばれたことがある。今ではすっかり落ちぶれブロガーで、日本のブログ界の中心からは離れている。愛も叫ばない。誰からのお誘いというのもない。もともとブロガーとして長いこと一切の付き合いをしてこなかったせいもある。ちょこっと出て来たのは昨年からだ。
 などと言うとひがみのように聞こえていけないが、その10年前、同じくアルファブロガーとなり、その後は飛ぶ鳥を落とす勢いの切り込み隊長さん(いまでは「やまもといちろう」さん)にもお声はなかったらしい。よくわからない。まあ、ブロガーサミットになんら批判的な思いがあるわけではない。(追記8.27 やまもとさんには企画段階でお声がかかってたそうです。)
 ブロガーサミットで何が話題になっていたかは、その後、ツイッター経由でいくつかブログで見かけた。が、よくわからない。もしかすると、「プロブロガー」が話題だったのだろうか。プロブロガーというのは、ブログで収入を得ていくブロガーである。職業ブロガー。その成功の秘訣・儲ける秘訣のようなことがブロガーサミットで話題だったか。ということでもなさそう。
 仮に私がなんらかのブロガー会議のようなものに出席したとして、そして何か言うとしたら、何を言うだろうかと、ふと思いをはせた。たぶん、ブロガーであることは自由な言論社会で成り立つ、ということだろう。
 日本でブロガーであることは、陰湿な嫌がらせを受けることはあるが(これが10年間にけっこうあったものだったが)、権力サイドから脅され、危機を感じるようなことはなかった。もう時効だと思うが、このブログも以前、NHKクローズアップ現代でブログがテーマのおり取材を受けたことがあったが、最終でカットされた。いや、それほど大した話ではない。取材の一つを整理して最終で外したくらいだろう。私としては、もともとメディア側から見たブログ像には、このブログは合わないだろうと思っていた。
 こう言うのはなんだが、このブログは結果に過ぎないのだけど、そしてあまり注目されないのも幸いといってよいのだが、政治的にかなりきつい発言をしてきた。中国など言論規制の強い国であれば、私はさっさと牢獄入りである。ゆえに、そうした言論ゆえに牢獄に入った各国のブロガーに共感を持ってきた。日本人だから暢気なことをブログで言ってられるが、そう言えない社会がこの地球にはまだまだある。日本人でブロガーであることは、彼らと共感を得る地平で何かを語れることだろうと思ってきた。
 話は連想ゲームのように中国の言論規制に向く。先日、中国のネットで「九号文件」が暴露された。英語では「Document No. 9」と呼ばれている。自由な言論を規制をするための中国共産党の指針をまとめた文書である。19日に香港の明鏡新聞網に一部が掲載された(参照)。


《明鏡月刊》獨家全文刊發中共9號文件
明鏡新聞網記者 陳曦

 今年春天以來,國內和海外即盛傳中共高層下發文件,要求“七不講”,一些網絡活躍人士並披露了“七不講”的具體內容,但是一直沒有得到官方權威證實。是真是假?衆說紛紜。於2013年8月上旬最新出版的《明鏡月刊》43期,獨家全文刊發了中共中央辦公廳9號文件,人們才得知“七不講”的源頭——雖然措辭和文意在坊間流傳過程中,已經與原來的論述有了出入。


 私は中国語はわからない。GlobalVoiceの英語版に一部英訳があった(参照)。その前に。GlobalVoiceだがこう日本語で説明がある。

GVについて
グローバル・ボイスは 300 人を超える世界中のブロガーや翻訳者からなるコミュニティで、国際主流メディアには取り上げられない意見に重点を置き、さまざまな地域のブログや市民メディアの記事を届けるため力をあわせています。

 GlobalVoiceの日本語には「九号文件」の話題はない。
 「九号文件」の要点は、7つ破壊動向(seven subversive currents)を定めた項目である。戦前の日本の特高が目を付けた危険思想の、現代中国版のようなものだ。

1. Promoting Western constitutional democracy. Attempting to negate current leadership and deny the socialist political system with Chinese characteristics.
2. Promoting the universal value of human rights. Attempting to shake the party's ideological and theoretical foundation.
3. Promoting civic participation. Attempting to disintegrate the social basis of the ruling party.
4. Promoting neo-liberalism. Attempting to change China’s basic economic system.
5. Promoting Western-inspired notions of media independence. Challenging the principle of party-controlled media and the press and publication management system.
6. Promoting historical nihilism. Attempting to negate the history of Chinese Communist Party and the history of the New China.
7. Questioning the Reform and Opening up, questioning socialist nature of socialism with Chinese Characteristics.

 重訳になるが試訳を付けておく。

1. 西側の立憲民主主義の促進。現行の指導者と中国らしさのある社会主義政治制度を否定する試み。
2. 人権の普遍的価値の推進。共産党のイデオロギー的かつ理論的基礎の動揺への試み。
3. 市民参加の推進。共産党統治による社会的基礎を不調和にする試み。
4. 新自由主義の推進。中国の経済制度基盤の改変の試み。
5. 西側から唱道されたメディアの独立という考え方の推進。中国共産党によるメディア管制の原則と報道及び出版管理制度への挑戦。
6. 歴史的ニヒリズムの推進。中国共産党の歴史と新中国の歴史の否定の試み。
7. 改革開放への疑念。中国らしさのある社会主義者のありかたへの疑念。

 これらを見ていると中国に関心をもつ人なら「七不講」を連想するだろう。5月18日産経新聞記事「「七不講」騒ぎが示す習近平体制」(参照)より。

 昨年11月の共産党大会で習近平体制が発足して半年。習総書記は「中華民族の偉大な復興を果たすという中国の夢を実現しよう!」と呼びかけ、当初はそれなりに一般大衆などの人気も得た。だが政治・経済改革への極めて保守的な姿勢が次第に明らかになり、知識人や若者らの失望や反発を強めている。
 「習政権が七不講(チーブジャン)と言い出した」。ある知識人は最近、緊張の面持ちでこう語った。
 各種情報によると、七不講とは「七つの言葉を使ってはならない」との党中央弁公庁の指示で、具体的には(1)人類の普遍的価値(2)報道の自由(3)公民社会(4)公民の権利(5)党の歴史的錯誤(6)権貴(特権)資産階級(7)司法の独立-を指す。
 それぞれを解読すれば、(1)人権侵害(2)言論統制(3)政治活動の制限(4)国政選挙権の不在(5)(文化大革命や天安門事件などの)歴史的過ち(6)特権層の権益独占と腐敗(7)党権力による司法の支配-となり、こうした共産党独裁体制の矛盾や恥部に対して国民の目と口をふさごうというわけだ。
 インターネット上の情報や香港紙によると、こうした通知文書が先週、一部の地方政府や学校に届いたもようだ。しかし今ではネットで検索しても、関連情報は「削除された」との表示が残っているだけだ。
 真相は不明だが、共産党政権は新規の政策や指示を地方や一部組織で試し、反応を見ながら全国に広げることが多い。「七不講」への反発があまりに大きいため、党中央がひとまず引っ込めた可能性もある。

 話を「九号文件」に戻すと、これは真正の中国共産党政府が発した文書なのだろうかという疑問が沸く。
 日本国内の報道機関では、「七不講」を取り上げた産経新聞を含めて、「九号文件」報道を、なぜか、見かけない。欧米では、ニューヨークタイムズ記事(参照)などでも取り上げられている。
 印象としては偽文書でもなさそうだが、この文書の位置づけや政治的な意義については、よくわからない。
 それでも、この「九号文件」が敷かれた中国には言論の自由というものはない。自由なブロガーというのも存在しづらい。
 で、ブロガーに求められることは何か?
 自由に発言できる社会基盤についての世界規模での連帯の意識ではないだろうか。
 
 

|

« [書評]果てなき渇望 ボディビルに憑かれた人々(増田晶文) | トップページ | 米国のシリアへの軍事介入案をどう見るか »

「ネット」カテゴリの記事

コメント

完全なる匿名ブログで優れたのがないのが残念だなぁ。

もともとテレビ的メディアをネットができなかったから、ブログのネットワークで広がってきたんだろうけど・・・

今や、テレビ的な方が、まずは下品なところからスタートはしているけど、しっかりしたドキュメントとか、思想とかに広がっていくんじゃないかな。

ブログが今後残れるのは、グーグルの検索次第なんじゃないかな。どんどん、ブログは不利になって、プログ機能を提供している会社の収益性がさがって、そろそろ閉鎖とかでてくるんじゃないかな。で、レンタルサーバーでほそぼそと続いているというのが、未来なような気がする。

投稿: | 2013.08.27 08:37

私ぁブロガーじゃないけんど、その結語ではそりゃハードルが高過ぎじゃないけ?理想?理念?的にはそうかもしれんが、個人ブロガー間の関係ならせめて自由に書ける場所への誘導や脱出の勧めぐらいで。本当にブロゴスフイアというものが情緒的なものでなく全員に確信的にあるなら、そういう理念をそこで掲げるのは当然かも知れんけど。
Nhkが此処を扱いあぐねたというのは納得。どう弄っても合わせ鏡的にグドグドしそう。

投稿: ト | 2013.08.28 23:10

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ブロガーであることは自由な言論社会で成り立つ:

« [書評]果てなき渇望 ボディビルに憑かれた人々(増田晶文) | トップページ | 米国のシリアへの軍事介入案をどう見るか »