[書評]子どもの頃の思い出は本物か(カール・サバー)
暑い。猛暑だ、もうしょうがない。駄洒落を言っている場合ではない。が、そのくらいしか脳が動かない。せめても睡眠くらいは取りたい。と、夜は真夏向きのエアコンディションをするが、昨晩ちょっと設定を間違え、深夜、暑苦しさに目覚めることになった。暑苦しさで悪夢も見ていて、その悪夢から目覚めたという感じでもあった。
悪夢から目が覚めて、呆然としていた。襲われるとか殺されるとか、落下するとか突き刺さるとか、巨人に喰われるとか、そういうシンプル恐怖系の悪夢ではなかった。
夢のなかで私は四歳か五歳だった。夜になり部屋を開けると、部屋はがらんとしていて布団がなかった。私は呆然として空っぽの薄暗い部屋を見回し、お布団がない、お布団がないとつぶやいている。そのうち、お布団がないよ、お布団がないよ、お布団がないと眠ることができないよと、泣き出すのである。
実際には夢だから、寝ているのに。
夢のなかで幼い私は、悲しくて呆然として孤独に締め付けられるようにして泣き続けた。
そして目が覚めたのだった。悲しさがぐっと胸にこみあげたまま。
どうしたわけなのだろう。私は55歳である。鏡を覗くと、ネットでよく罵倒されるように爺然とした男の顔がある。四、五歳の子供ではないのだ。なのに、夢のなかではすっかり四、五歳の子供になって、お布団がないよ、寝れないよと、泣いているのである。
夢から目覚めて、冷蔵庫に冷やしてあるミントティーを飲んで、しばし呆然としながら、現実の老いた自分を確認するのだが、四、五歳の子供としての自分の自意識がまだリアルに残っているのを感じる。
やりきれない。
暑苦しさから、エアコンの設定が間違っているのを見つけて、調整し直したものの、眠気はもうない。
自分の無意識はいったい何を抱えているのだろうか。いや、ただ暑さの寝苦しさから見ただけの悪夢ではないか。そう思おうともする。
そうもいかない。あれは夢だったのか。もしかして記憶だったのではないか。と考える。というのも記憶のような実感が多少ある。
理性的になれよ自分、と問いかける。
記憶ではないだろう。だが、失われたか、あるいは抑圧された記憶が再構成されて、ああいう悪夢になったのだろうという感じはする。もし、記憶がそれに関連しているとしたらそれはどういう記憶であり、どういう事実が私の幼いころにあったのか。
いや、それはもうなんどもなんども考えつくして、諦めたはずだった。
子どもの頃の 思い出は本物か |
内容は、オリジナルのタイトルを直訳した「子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき」ということからそのまま想像してよい。人間の記憶はどんなにリアルに感じられても、真実だったというわけでもないし、まして子供の頃の記憶は歪むものだ。この心理学的な事実が、ジャーナリストであるカール・サバーによって、基本的には学術的に語られていく。説得力もある。
全体は12章あり、記憶の不確実性について淡々とまとめているという印象だが、本書の中心的な課題は、第5章「記憶戦争の勃発」から後半に展開される、子供時代のトラウマの記憶は本物かという点にある。
なぜそのような展開になるのか。背景には1980年代以降米国で問題となった"false memory"(偽りの記憶)の問題がある。精神医学的には本書でも使われているが、"false memory syndrome"(FMS, 偽りの記憶症候群)の問題である。この時代、精神的な問題やトラウマを抱えている人たちを催眠にかけ抑圧された記憶を引き出すと、子供時代に虐待された記憶が引き出されることがあった。こうした事例をもとに、米国では1988年「The Courage to Heal」(4版・参照)が書かれ、記憶のなかに抑え込まれた虐待のトラウマを明るみに出して対応することで、トラウマを克服していこうとする傾向が生まれた。実際には、父親から受けた性的虐待の克服という女性問題の文脈もあった。
日本でも1997年に三一書房から『生きる勇気と癒す力―性暴力の時代を生きる女性のためのガイドブック』(参照)として翻訳され、長く絶版だったが、2007年に新装改訂版が出された。なぜかアマゾンでは販売されていない。
本書『子どもの頃の思い出は本物か』は、明示して書かれているがこの『生きる勇気と癒す力』への科学的な見地からの批判書という趣きがあり、実際のところ、この問題が本書の価値と見なされていたといってよい。簡単にいえば、トラウマとなる子供時代の記憶は事実とは限らないということである。
なお、同趣向の書籍として 誠信書房から2000年に『抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(参照)も出ている。が、心理学的な実験も含まれているもののノンフィクション的であり、『子どもの頃の思い出は本物か』のような冷静なトーンで書かれているわけではない。
現状、米国の心理療法の世界では『生きる勇気と癒す力』のようなトラウマ記憶を復元して治療するという療法はもはや実施されてはいないように見える。
では、トラウマの問題はどうなのか。あるいは、たとえ虚偽の記憶であっても、記憶としてそれが心深く存在しているということはどういうことなのか。本書の結語ではこう暗示されている。
記憶が正確かどうかという問題とは別に、これまで考えられていたよりもはるかに強い関係が、記憶とアイデンティティの間にあることがわかってきた。
そんなこと当たり前だろうという印象もあるが、心理学的には現状こうした段階になるだろう。
私の内省からすると、記憶とは「自分」という存在の創世記的な神話だろうと思う。「お布団がないよ、眠れないよ」と泣く存在が私のアイデンティティの核近くにあるのだろう。
救いようがないなあ自分と思うが、それでも、これでも、少しずつ救いようがあるようにも思っている。
以前ならこうした悪夢は、憎悪の対象像を結びがちだった。いわく、親からの虐待の経験が素地になっているのだろうとして、親を憎悪するといったものである。が、今ではそうした憎悪対象的な感覚は抜けている。一つには、自分の人生を振り返ってもうそれが取り戻せはしないことを納得したこと(自著の自分への効果でした)と、そうした対象憎悪そのものが、一つの心の病なのだと自分で受け取るしかないだろうと観念したことだ。
| 固定リンク
「書評」カテゴリの記事
- [書評] ポリアモリー 恋愛革命(デボラ・アナポール)(2018.04.02)
- [書評] フランス人 この奇妙な人たち(ポリー・プラット)(2018.03.29)
- [書評] ストーリー式記憶法(山口真由)(2018.03.26)
- [書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵)(2018.03.28)
- [書評] 回避性愛着障害(岡田尊司)(2018.03.27)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
中井久夫の「兆候・記憶・外傷」を思い出しました。生々しい体験は、言語によって貧困化することによって、記憶に定着する、と。老人の記憶のほとんどは昔話として定着しているわけですね。歴史=物語というか。面白いのは、言語化できずに抑圧した記憶は生々しさを失わないフラッシュとして、ときどき蘇る、ということです。これも自分の体験で首肯できます。
投稿: mat9215 | 2013.07.11 21:15