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2013.07.23

中国の「海警局」発足の意味

 参院戦の騒ぎに隠れてしまったきらいがあるが、中国で22日、名目上は日本の海上保安庁に相当する「海警局」が発足した。それだけ聞くと、「中国にだって海上保安庁があっても不思議ではないでしょう」といった印象も持つ日本人もいるだろうが、もう少し深い意味がある。というのも、そういう印象の人には、「そもそもこれまで中国に海上保安庁がなかったのか」という疑問を投げかけてみてもいい。
 もちろんこれまでの中国にも海上保安庁に相当する国家機能は存在していた。通称「五龍」と呼ばれる、公安部公安辺防海警総隊(海警)、農業部漁業局(漁政)、国土資源部国家海洋局中国海監総隊(海監)、交通運輸部中国海事局(海巡)、海関総署密輸取締警察(海関)の五機関である。
 尖閣諸島海域関連では、なかでも農業部漁業局の漁業監視船、国土資源部国家海洋局中国海監総隊の海洋監視船がうろついていた。だが、そのように管轄が異なっていた各組織が今回「海警局」として統一されたというのが今回の表向きのニュースではある。
 統一されることの基本的な意味は機能強化と理解してよい。が、それは二つの面から理解できる。ひとつは、これまでは五龍は競合・対立していたことだ。中国におけるこの手の対立組織は、中国人の御得意行動なのだが、外国を刺激合うことで存在主張を高める。尖閣諸島あたりの中国船のうろつきも、彼らの内部的な権力闘争の側面があった。これが今後統一されるということは、中国の内政で強固な権力が出現したと理解できる。
 もうひとつの面は、その「より強固な権力」の必要性は何か、ということだが、これは表面的には、中国にとっては自国領土であるべき尖閣諸島および関連の利権を防衛するということである。日本などからもそう見られているむきがある。
 しかし、海洋資源が期待される、尖閣諸島を含む東シナ海であるが、そうした経済的な利権のために、それでだけこれだけ大がかりな国家機能の統合を行うわけもなく、当然ながらこれは軍事的な意味合いがある。
 なにより今回の五龍統合は人民解放軍の羅援少将の提案であることも暗示的だ。昨年3月9日の読売新聞記事「中国版の「海保」構想 9部門統合プラン 解放軍少将が提案」より。


【北京=竹内誠一郎】中国で、東シナ海などの海上警備にあたる準軍事部門「国家海岸警備隊」の創設構想が浮上し、全国人民代表大会(国会)開会中の北京で関心を集めている。人民解放軍の羅援少将が提唱しているもので、海洋権益の保護強化に向け、警備の効率化を図る狙いだ。
 羅氏によると、中国の海上警備には、国土資源省国家海洋局に属する巡視船「海監」、農業省漁政局に属する漁業監視船「漁政」など9部門があたっている。複数の部門が同時に同じ性能の船舶を導入するなど効率が悪く、複数の指揮系統により、警備行動の混乱を招くこともあったという。
 羅氏の提案は、9部門を統合し、国家海洋局を格上げした「国家海洋省」か、関係部門で設立する「国家海洋委員会」に所属させるものだ。羅氏は、日本の海上保安庁と同等の武装を想定しているとし、「日本側と同様の組織とするので脅威とはならないはず。ただ、相手の挑発行動があれば相応の対応をする」と語った。
 羅氏は、軍のシンクタンク、軍事科学院世界軍事研究部副部長などを務めた軍のスポークスマン的存在で、当局が、羅氏の発言を通じて、国内外の反応を探っているものとみられる。

 米国もこの動向に軍事的な意味合いがある点に注目していた。五龍時代の5月のニュースではあるが、「尖閣などへ中国「ファイブ・ドラゴン(五龍)」新たに30隻投入へ 米国防総省報告」(参照)より。

【ワシントン=佐々木類】米国防総省は6日、中国の軍事行動に関する年次報告書を発表した。尖閣諸島(沖縄県石垣市)をめぐる中国の挑発行為に初めて言及し、中国国家海洋局など5つの海洋執行機関「ファイブ・ドラゴン」の公船を使って圧力をかけ、それを海軍艦船が後方から支援していると指摘。ファイブ・ドラゴンは、2015年までに新たに30隻を投入するとの見方を示した。

 2015年という年号に独自の意味合いがあるが、同記事では説明されていない。これは後でふれる。
 今回の統合で、同局には北海、東海、南海の三分局が設置され、合計11の「海警総隊」という実動部隊をもつようになった。全配置人員は1万6296人。所属船艇は3000隻を超える。実動部隊というのは武器を使用するということで、報復措置用である。
 形式上は警察権力ではあるが、実質上、軍事的な意味合いをもつと想定できる。日本の海上保安庁も実質軍事的な意味合いをもたされているので、今回の中国海警局の発足は日本の真似と言えないこともない。余談だが、中国海警局の船舶デザインは日本の海上保安庁と米国の沿岸警備隊の船舶デザインに似ていていて、なかなか味わい深いまねっこ感もある。というか、そもそも日本の海上保安庁も米国の沿岸警備隊を模したものだ。米国の沿岸警備隊は五軍として軍として数えれることもあるように、基本これは軍隊のようなものである。
 中国「海警局」の本来の意味は何か?
 「第一列島線(First island chain)」の制海権確保である。

 別の言い方をすれば。第一列島線までの制海権が中国によって握られれば、日本にとってはシーレーンの確保が中国軍に奪われることになる。その末路は日本人ならABCD包囲網などから推測が付くだろう。
 この中国による第一列島線までの制海権の構想だが、1997年中央軍事委員会常務副主席を退任した劉華清が当時描いた中国海軍の発展計画では、当初、「躍進前期」として2010年までとしていた。すでに当初予定時期が過ぎていて、現状5年遅れたことになる。先ほどの「2015年」はそうした意味がある。
 ここから付随的に了解できることがある。中国側からは、「民主党政権時代に日本が尖閣諸島を国有化したから、中国の国益を守るためににこの海域に船舶を頻繁に送るようにした」というように言われるが、ようするに中国側の謀略(石原慎太郎など日本国内の国粋主義勢力に民主党政権が対応せよとして尖閣諸島の国有化にしむけたこと)に民主党が籠絡されなくても、現在の東シナ海の緊迫は中国としてはタイムスケジュール的な展開だったということだ(参照PDF)。
 今後はどうなるだろうか。
 単純な力の均衡だが、「海警局」の人員は先にふれたように1万6296人。対する日本の海上保安庁は1万2808人と若干劣る。大型船舶は中国側が2012年に60隻となり、日本の現状の51隻を越える。日本側の対処がなければ、これから2年以内に、中国「海警局」の力が上回ることになる。
 こうした力のバランスが崩れたとき中国がしかけてくるのは、先日のロックオン(レーダー波照射)でよくわかるように、日本側としては正当防衛であれ武力行使の誘発である。中国はこれから、日本側が武力行使を迫るような危機をなんども演出するようなシーンを打ち出してくることになるだろう。
 日本側としては、ひたすら我慢に我慢を重ねて、戦前のように「もう我慢ならない」とならないようにするしかないだろう。なんともやりきれないが、より具体的には、この海域の力のバランスを台湾とともに強化していくしかない。ただし、その台湾の軍事力も早晩、中国軍と均衡が崩れることになりそうだ。日本が我慢に我慢を重ねていても、第一列島線での暴発は、台湾やフィリピン側で起きるかもしれない。

cover
アジア三国志
 中国、日本、そして最近中国と軍事的な軋轢を深めているインドの三国の軍事的な状況は、2008年の書籍になるが、ビル・エモットの『アジア三国志』(参照)がわかりやすい。この書籍については、きちんとした書評を書いてこなかったが現時点でも多くの日本人が読まれるとよいだろうと思う。
 
 

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2013.07.22

2013年、参院戦、雑感

 事前に今回の選挙の予想をブログに書いてなかったという点では後出しジャンケン風になってしまうが、大きく予想外な結果というのはなかった。ブロガーでもあり実際のところ熱心な部類のツイッター利用者でもある私は、ネットからも今回の「ネット解禁選挙」を見ていたが、選挙結果とネット活動についても想定外のことはなかったように思う。
 ネットから覗いた選挙の風景では、山本太郎氏やワタミこと渡辺美樹氏が話題だった。が、私には彼らの主張とその国会議員としてのステータスが今後の国政に大きな影響力を与えるとは思えなかった。それでも話題は話題であり、ネットの話題らしく消化されていくのを面白ろおかしく傍観していた。
 話が今回の選挙の重点からは逸れるが、ネットで話題の山本太郎氏の主張と支持は、ネットと現実をまたがり、興味深い現象でもあったとは思う。彼の主張は基本3つあり、(1)反原発、(2)反TPP、(3)ブラック企業の規制、だった。このように簡素にまとめてみると、共産党の主張・論点と同じであることがわかる。ということは、山本氏の特徴はコンテンツ(主張内容)よりもメディア(何をつかって主張したか)とレトリック(主張のしかた)である。メディアとレトリックに酔う少なからぬ人がいたという意味だ。こうした現象をもって、メディアにはネットが活用されたとも逆説的に言えば言えるだろう(活用され過ぎて選管違反でもあるようにも見えたが)。また、共産党の今回の微妙な躍進には加えて、コンテンツ(主張内容)部分への共感と反自民党、さらに民主党への幻滅ということでもあっただろう。現実世界での共産党の活動は高齢層が多く、老人たちのパワーの潜在力に感得するものはあった。
 今回の選挙の重要な論点はなんだったか?
 実はそれが不在だというのが論点だった。有権者にしても自分の一票がどのように国政に反映するのかはっきりとしていなかった。
 山本氏の主張ような3点がこの選挙の論点だと思う人には明瞭な選挙ではあっただろうが、多数にしてみれば国政に求めるものは、生活につながる経済の向上であり、その点において、前民主党政権は失敗していたという幅広い印象が覆せなかった。経済が上向きなら、総選挙の重要性の認識が減るというのは大衆の「合理的な無関心」の当然の帰結である。
 経済が論点であるなら、アベノミクスが論点であり、その3矢、(1)金融緩和、(2)財政出動、(3)構造改革、についてどのように野党が対論を出せるかが論点になるはずだった。
 だが、その部分こそ、メディアやネットからははっきり見えなかった。くどいが、山本氏や共産党のような論点が事実上の目隠しになっていて、結果的に自民党を利していた。
 多様な意見はあるが、日本国民の暗黙の総意が今後の経済の向上であるなら、アベノミクスがどのように今後機能していくか、潜在的な問題点がどこにあるかが問われなくてはならない。そこが明瞭ではなかった。しいて言えば、みんなの党は論点を理解していた。維新党も一部では理解されていた。一部というなら民主党も同じ。この状況から言えば、こうした理解者を薄く団結する政治力が不在の選挙であった。この不在は、私が見やすかった東京都選挙区で結果的に大きな負の影響をもたらしていた(山本太郎は落選させることができたはずだったと思う)。
 山本氏・共産党的論点、あるいはその延長とも言えるが、(4)憲法改正、も論点化されてはいた。安倍自民党総裁も意図的にそこを薄い団結の焦点にしている向きもあった。
 しかし懸念されるという意味での改憲は自民党が単独安定多数になってからの課題であり、早急な課題ではない。今回の選挙の枠組みで課題になるとすれば、自民単独で参院が仕切れるようになればということだが、そうならなかった。今回の結果では公明党との連立がなければ不可能である。しかも公明党の主張は改憲ではなく加憲である。私も、加憲というのはよいアイデアであると思うので、この面では現実問題としては公明党を支持したい。
 参院選後の最大の政治問題は、10月をメドに迫る消費税増税の決定がある。これについて今回の参院選の結果がどのように反映するかが、実は、今回の参院の最大の難問でもあった。どう読むかが難しい。
 自民党が優勢になることが、消費税増税回避につながるとは言えないのがその難点の核心である。私の見てきたところでは、安倍総理は現時点での消費税増税は危険だという認識を持っているが、それが自民党内で支持されるかまで読み切れない。逆になる可能性も高い。
 単純な議論にすれば、であれば、消費税増税に反対する野党勢力に荷担すればよいではないかということになる。この点では増税策を推進してきた民主党の出番はない。すると、その補助勢力として役立つのは、みんなの党か維新党かということになる。そこが今回の選挙で個人的に迷ったところだった。なお、共産党や社民党など旧左翼系の政党も消費税増税に反対しているが理路がまったく異なるので、その荷担は混乱を招くだけになるだろう。
 この文脈で言えば、今回国政で自民党が優勢になったことで、旧来の自民党政治に戻ったという判断は選挙後の現時点で言うことはできない。その判断は、消費税増税決定が下される10月の時点でということになるだろう。以前も書いたが、消費税が日本経済に深刻な影響を与えるのは8%増税が終わった時点なので、その間、アベノミクスがまさに旧来の自民党のように利権と再配分の政党に堕してしまえば日本経済の先行きは懸念される事態になる(そうでなくても中国経済の消沈化も懸念されるが)。
 具体的に今回の選挙ついて、特に新味はないとも言えるのだが、NHKの結果表示がわかりやすかった。ちょっと見にはわけのわからない図だが、20秒も見入っているといろいろ納得する(参照)。

 今回の選挙で明瞭でもあり前回などからも予想もされていたが、一人区は優勢な政党が全取りしてしまう。今回は自民党が圧勝した。この時点で、自民党の圧勝と民主党の敗退は予想されていた。「ねじれ解消か」は偽の論点だった。
 二人区やそれ以上の区については後に回して、比例区については、基本的に国民の支持政党の傾向が反映する。これも今回は自民党と組織票の固い公明党ががっちりと押さえた。その他の党もそれなりに押さえていて、どの政党もきちんと選挙運動していたことが読み取れる。
 残りは、中選挙区的な二人区やそれ以上の区であり、数が増えれば比例区に近づく区分だが、ここではその傾向通り、国民の支持や既存基盤のある政党が比例的に上がってくる。ざっと見た印象では、民主党が壊滅したわけでもない。
 今回の選挙をもって二大政党は終わったという議論も見かけたが、むしろ、民主党は、鳩山さんや菅さんのように抜群に面白い人を整理して、みんなの党や維新党と集合すれば、新しい勢力にはなりうるだろう。アベノミクスが自民党の混乱で頓挫したときの代替勢力として期待したい。
 その他の雑感としては、社民党が諸派になるのかとか、沖縄の社大党とはなにかということも思うことはあるが別の機会にしたい。
 
 

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2013.07.15

[書評]きっとすべてがうまくいく 甘詰留太短編集(甘詰留太)

 2ちゃんねるのまとめサイトに先日、それほど面白いネタではないけど、ちょっと気になるネタがあった。「お前らのテンションがすげぇ上がりそうな画像見つけたwwww」(参照)である。該当画像を見れば、ネタの趣旨はわかる。

 40歳男の空しさというのは、55歳の私にしてみると、もう遠く過ぎ去ったことではある。正確に言うと自分がそういう気分になったのは40歳ではない。35歳くらいころのこと。その手の話やその後のことは自著『考える生き方』(参照)に書いたのでブログには書かない。ついでだけど「俺は少子化に加担していた」ということもないこともその本に書いた。
 なんであれ、この漫画の男に、かつての「お前は俺か」感はあった。絵の雰囲気から察するに、まだ物語は始まっていない印象がある。ではこの男の物語はどういう展開になるのだろうか。気になった。
 が、いかんせん、何の漫画かわからない。掲載されていたサイトにも情報はなかったように思う。アフィリエイトかなんかで情報があるかと見づらいサイトを見回してみたが、わからなかった。

cover
リニューアル+α版
甘詰留太短編集
きっとすべてがうまくいく
(ジェッツコミックス)
 ツイッターで聞いてみた。即座に教えて貰えた。ありがとう。それは『きっとすべてがうまくいく 甘詰留太短編集』(参照)らしい。
 アマゾンで表紙を見ると、先の男と思われる男の立ち姿に若い女がしなだれている。そういう展開になるのだろうな。というのと、そういう展開になる男の心理というのにも関心をもった。
 男は40歳、女は20歳くらいだろうか。であれば、それほど珍しことでもない。でも、それなりに若い女の思いや、年食った男の思いには、恋愛や結婚というものに関して微妙な陰影があるものだ。それは文学としては安易な構図でもあるから、実際に作品にするのは難しい。うまくいったのは川崎長太郎くらいではないか。
cover
甘詰留太短編集
きっとすべてがうまくいく
(ジェッツコミックス)
 絵の出典がわかると同時に、というか、この漫画はなんだろうか、ということでも気がついたのだが、「リニューアル+α版」である。リニューされていない版が存在する(参照)。リニュー版の表紙とは大きく異なり、この表紙はもろにエロを狙っている。これも後でわかったのだが、リニュー版ではこのエロ絵は口絵になっている。リニューに際して、短編集の表題作でもある、さえない40歳男の物語を前面に出したのだろう。あるいは、このほうがエロい物語の予感があるだろうか。
 その後わかったのだが、作者、甘詰留太は、エロ、とまで言えるかジャンルの特定がわからないが(18禁ではなさそう)、エロっぽい漫画では著名人であるようだ。先の2ちゃんねるのネタでスレが延びてないのも、「甘詰だろ、読んだよ」感がすでにあったのだろう。
 物語はどうだったか。その前に、先のページの見開きになる前ページはこうだった。

 母親から結婚を望まれているが、「教授になるメドもないんでしょアンタ!」とある。想像がつくように、彼は「助教授」である。「助教授」という言い方はもう時代遅れの感もあるが、それでも講師ではない。40歳でそれなりに学者として生計が立つわけだから、自分を「何かをするには歳をとりすぎて」というほどでもないだろう。2ちゃんでネタにした人もそのあたりを汲んでこのページは削除したのだろう。
 ネタバレというほどでもないが、この男が40歳の助教授であれば、院生とかの若い女が付いてくるというのは、よくあることだ。個人名を挙げるとなんだが、ネットで話題の彼や彼なども20歳も年下の奥さんをもっている。知的な中年男の知性に惹かれてしまう若い女というのはそれなりにいるものだ。渋江抽斎の妻・五百などもその部類かもしれない。
 しかしこのありがちな設定が物語の欠点と言うわけでもない。むしろ学者さんにありがちな若い嫁というフツーな設定は、あえてなされている。別の設定だと恋愛に別の要素がいろいろ混じる。
 短編作品「きっとすべてがうまくいく」は前編後編に分かれているが、先の絵に続く前編の部分を読んでみてもそれほど面白い物語ではなかった。女がなぜ中年男に惹かれたかという部分は、ありがちに知的な感性に惹かれたようだし、作品はある程度エロを志向せざるをえないので女の姿や表情の描写がまさっている。それでもどこかしら作者の、男と女によせる微妙な視線と展開が心にひっかかる。恋愛をするという感覚のある微妙で滑稽な感覚は描かれている。
 後編はもう少し、男女の内面に入り込む。ひとり暮らしが長い男は、それなりに生活に安定があり、その安定が恋愛の感情を阻む。そうなのだ。30半ばをすぎて、俺みたいなやつがもう恋愛なんかするわけねーよ、たはは、という入り組んだ自虐感より、恋愛でその生活が不安定にされることへの奇妙な怖れのほうが強い。まあ、これは、私などが思うところではだな、どっかんとちゃぶ台返しをするしかないものなんだけど、この物語はそうはぜずに、それなりに予想された恋愛ドラマに仕立ててハッピーエンドとしている。違和感は残る。特に、発表媒体とかの制約もあるのだろうけど、セックスシーンは事後がさらっと描かれているだけだが、現実にはそういうものでもない。40歳の男には、心の傷になっている女が二、三人はいるだろうし、20歳の女であれ(この作品では院生なので最低でも22歳)、男についての遍歴はあるものだ。あー、まー、ちょっと自分の思い入れが勝ち過ぎてしまったな。ついでに言うと、この40歳の男のキャラ設定はちょっと無理がある。40歳は実は年齢の葛藤があってももっと内面的に若い。この男のキャラだと50歳くらいが相当だろう。50歳の男と24歳の女というくらいに見える。
 このリニュー版+α版の「+α」は、前回の短編集に加え、作者インタビューと自作品解題、さらに読者サービス的に蛇足的エピローグが付いていることだ。それらを読むと、この「きっとすべてがうまくいく」は編集者からのお題だったらしく、後半に際しては作者も編集者づてであろう、そういうカップルと面談してネタを探したらしい。作者としての思い入れはあまりない作品だったようだ。また、作者もこれは30代前半で描いたらしく、執筆時点では、実際に歳喰った男への共感はまだそれほどなかったのだろう。
 短編集としてみると、他に5作含まれている。どれもそれなりに面白いとはいえるし、エロというニーズに配慮しつつも、普通に文学的な感性に接近した本質をもっている。その意味で上質な短編集である。表題作はおっさんがテーマになっているが、全体として見れば、当時の作者の年代、30代前半くらいの感性が描かれている。ただし、この30代前半の感性は現代の30代前半とはもう微妙に違っているだろう。そこを補正するなら、現在40歳の男が読めばけっこう普通に文学的な感興があるだろう。
 この短編集しか私は読んだことがないが、この作者の本質はよい意味でオナニストというものだろうと思った。オナニストというとヤフー質問の回答みたいに思われがちだが(参照)そういうものでもない。どう違うのかというと、このあたりでさすがに55歳の私ですら口ごもるのだが、男のエロス感性のとても基本的な何かだ(女にもたまにそういう感性を持つ人がいるが)。
 この作品集では「ふたりでもひとりでもエッチ」にオナニストの本質がよく表現されている。美人妻をもつ男がオナニーにふける物語である。振り返ってみると、この作品が短編集では一番優れているかもしれない。「ぼくの○○ペット」はその学生版というか、未婚者のオナニー幻想の核のようなものを虚構で描いている。宇宙人設定のロリっぽい話である「星の王女さま♡」も、オナニー幻想と言ってよいだろう。これが「+α」で洒落た展開になっているのは楽しめる。
 「あ行のプロ!」は、エロゲームの声優を描いた作品で、作者は声優取材をしてきっちり描き込んでいるため、普通にドラマとなっている。実写にしても普通に面白いだろうと思うが、ちょっと爽やかすぎる。
 個人的に一番好きだったのは「雨の日はカレー」という作品だった。英国文学とかあるいは映画とかに元ネタがあるのだろうか。個人的にはタンザニアのザンジバル島のような印象をもった。
 ジョナサンという少年は年長のハサンという男を尊敬していた。ハサンは国を出て活躍し、少年はハサンが帰るための海辺の家を守っている。そこに、ハサンの恋人と見られる、おそらくインド人であろうサラという女がやってくる。
 サラとジョナサンの恋の物語と言えるし、それほど入り組んだストーリーではないのだが、南国の女の肉体に溺れていく感じがぐっとくる作品である。短編なのできれいに仕上がっているが、もう少し伸ばして、ホモシーンとかサラのえぐいシーンとかまぜて中編に仕上げたらもっと面白いだろうなと思った。
 以上、こうした機会でもなけば読まなかったタイプの作品であり、おそらく甘詰留太の主要な作品のほうは今後も読まないような気がするが、この短編集は興味深い作品であり、興味がもてる作家だった。彼は、何かの転機で、けっこう国際的に評価される水準の作品を生み出しそうな気もする。感性の基本は意外と日本的ではないように思えた。
 
 

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2013.07.14

[書評」老けない筋トレ(山本ケイイチ)ほか筋トレ関連の本

 筋トレを再開して1か月。以前もなんどかやっては挫折している。たいていは病気や発作とかで中断してしまうとなかなか再開できずにいる、というのがある。今回もどこまで続くやら。でも、猛暑の前に体力作っておこうと思ったら、もう猛暑ですよ。もうもう。
 今回の筋トレ再開でいろいろわかったことがある。というか、以前は一定の筋力が維持できればいいやと思っていたし、そのレベルでは順調だったこともあるのだけど、今回はもうちょっと組織的に取り組んでみた。先日、『ライフ・プラン: どんな男性でも健康を維持し、セックスを楽しみ、強くしまった体が持てる』(参照)の話を書いたのもその一環。他にもいろいろ読んでみた。

cover
ジムに通う前に
読む本
スポーツ科学からみた
トレーニング
 『ジムに通う前に読む本―スポーツ科学からみたトレーニング (ブルーバックス)』(参照)は、その表題どおり、ジムに行く前に知っておくとよいことが書かれている。ジムといっても筋トレに限らず、ストレッチング、ウォーキング、ランニング、エアロビクス、水中トレーニング、ピラティス、ヨガなど多岐に亘っている。どれも的確にまとまっているという感じがした。筋トレ関係では、こんなあたりが重要点だと思った。引用ではない。

  • 筋トレと有酸素運動をするなら、筋トレが先で、その後、有酸素運動。
  • 筋トレ大きな筋肉から小さな筋肉への順で行う。
  • 筋トレは適切な負荷が大切。「これなら10回は反復できるという負荷」をかけて休息し、それから「10回はできない」という負荷を割り出す。例えば、40kgのバーベルを8回しか扱えないなら、IRM(repetition maximum:最大筋力)は、40÷0.8で50kgになる。
  • 筋トレでは、IRM70%以上が必要。持久力アップなら60%から70%。
  • 筋肉を増やす「超回復」は、初心者だと2、3週間かかることもあり、最初は注意。
  • 通常、超回復は2日、最終的には3、4日かかる。
  • 筋トレで筋肉が増えるのは2か月移行。それまでの2か月間は抑制がかかる。初心者なら筋トレの効果がでるのは3か月後。
  • 初心者のレベルを終えたら筋トレにはバリエーションを。または分割してトレーニングを。

 考えてみたらこれまでの筋トレは、ブルワーカーやチューブ、自重(自分の体重)とかで、IRMはあまり意識していなかったなと思う。そこで今回の筋トレでは、IRMを意識しようと思った。が、これ、けっこう大変だった。ダンベルにしても細かく重さの調節をしないといけない。さてどうするか。
cover
効く筋トレ・効かない筋トレ
体脂肪を落とす・
締まったカラダをつくる
(PHPビジュアル実用BOOKS)
 効果的な筋トレはなんだろうか、と思って読んだのが『効く筋トレ・効かない筋トレ―体脂肪を落とす・締まったカラダをつくる (PHPビジュアル実用BOOKS)』(参照)。まさに実用書という感じのつくり。自分にとって大切だったのは、こんなあたり。

  • 筋肉を増やす筋肥大は、筋肉を引き延ばす(エキセントリック収縮)による筋損傷で起きる。ダンベルなら上げるよりも降ろすときに起きる。例えば、上げる動作は1から2秒で、降ろす動作は2秒じっくり行う。
  • スロートレーニングや加圧トレーニングなどで、筋肉を低酸素状態にすると筋肥大しやすい。
  • 有酸素運動では基礎代謝は向上しないが、筋トレだと向上する。
  • 「超回復」で筋肉の増加がすべて説明がつくわけではない。
  • 筋トレには3つのポイントがある。(1)体幹周辺の大筋群種目を優先する、(2)多関節を動かす種目を入れる、(3)全身にバランスよく行う。
  • 筋トレは、IRMを考慮して8から10の反復が限界の負荷で行う。10回やって余力があれば足りない。回数より限界が重要。
  • 初心者は1種目を2から3セットまでにする。
  • セットのインターバルは、1から3分くらいとる。小さい筋肉なら1分、大きい筋肉なら3分。
  • 筋トレは、1週間に2から3回程度にする。筋肉を休ませることも大切。スプリットルーティン(部位を日で分ける)も検討してよい。
  • マシントレーニングでは筋損傷が起きにくい(効果が低い)。フリーウェイトがよいが難しいが、初心者には向かない。
  • 動作はストリクトに行う。チートしない。
  • 動作範囲はフルレンジにする。
  • 関節の動きをよく知ること

 チートは「ずる」ということだが、普通の意味とはちょっと違う。たとえば、ダンベルを持ち上げるときでも、鍛える対象以外の筋肉を使ってしまうことを指す。私は自著でも書いたが、フェルデンクライス・メソッドというのを長くやっていた。効果的に身体を動かす訓練で、これは筋トレ的にはチートの訓練だったわけだ。筋トレでは、あれと逆になるのかと今回考えさせられた。
 このムックではマシントレーニングはあまり勧めていないが、私のように自然にチートしてしまう人だと、マシンのほうが有益かなと思った。
cover
5つのコツでカラダが変わる!
筋力トレーニング・メソッド
 もう一冊似たようなムック『5つのコツでカラダが変わる! 筋力トレーニング・メソッド』(参照)も読んだ。こちらは、表題どおり5つのコツがポイント。

5つのコツ


  1. 対象となる筋肉の特性――どこにあるか、どう動くか――を知る。
  2. どの動きでも体幹(コア)を意識する
  3. トルク(関節を回す力)を最適にする
  4. 筋肉の動作の方向を意識する。動作で筋肉を選ぶ。
  5. 一定速度で負荷をかける。急がない。


筋肉を大きくする5つのメカニズム


  1. メカニカルストレス(適切な負荷)
  2. 筋繊維の損傷と再生(適度な筋肉痛)
  3. 代謝環境を整える
  4. 低酸素状態
  5. 成長因子を考慮(60秒休みで3セット)


 このあたりで、筋トレってけっこう難しいものだなとようやく思うようになる。ただし自分の場合は、それほどムキムキになるつもりもないのでとも思う。

cover
やってはいけない筋トレ
(青春新書)
 混乱するだけかもしれないが、ちょっと別の視点の筋トレ本も読んでみるかなと思って選んだのが、新書の『やってはいけない筋トレ (青春新書インテリジェンス)』(参照)。さらっと気軽に筋トレの全体像を見直そうと思って読んだのだけど、こういうのもなんだけど意外に良書だった。気になったのは次の点。

  • 腹筋が見えるのは体脂肪が10%以下になってから。つまり、腹筋は体脂肪がなければ見えるものだ。
  • 血糖値を保たないと筋肉が分解される(異化作用)なので、一定の糖分も大切になる。
  • 1セットで使われる筋肉は30%ほどなので、まんべんなく筋肉を使うなら3セットが大切。
  • エネルギー消費の点からすると、体幹よりも下半身・大腿筋が大切。
  • 腕立て伏せの自重では、膝をつけて制御するとよい。
  • 筋トレ効果が出るのが8週目以降なのは、脳がそれまでは筋トレに調整されないから。
  • 筋トレの基本は一関節で一筋肉を動かすこと。

 他の本と思想が違う点もあるが、読んでいるとけっこう説得力がある。逆にいうと、細かいところで混乱は増えた。でも自分は初心者なのでそれほど詳細が重要ということはないだろうと思うことにした。
 自分としては、チートが身につきすぎているので、筋肉をストリクトに適切に動かすのには、やはりマシンが適切だろうというのが現状の結論。

cover
老けない筋トレ
 そして、55歳の私としては『老けない筋トレ』(参照)。ということなのだが、この本、読んでみると、だいたい40歳くらいがターゲットのようだ。考えてみたら「老けない」を意識するのはその年代かもしれない。
 この本だが、こないだの『ライフ・プラン: どんな男性でも健康を維持し、セックスを楽しみ、強くしまった体が持てる』でも思ったのだけど、筋トレに特化せず、柔軟や有酸素運動もバランスよくプログラムしている。
 半面、プログラムはかなりきっちりと3ステージに分かれていて、なるほどこれがベスト・ソリューションなんだろうなとは思うし、ちょっと見た目は難しくはないのだけど、現実にこのステージをこなしていくのは、ほぼ無理なんじゃないかとも思った。
 ステージというのは、たとえば、最初の1か月に当たるステージ1であればまだ筋トレに入らず、ウォーキングなど有酸素運動やストレッチが中心。それから2週目のステージ2で自重系の1か月に入る。これはなんとなく学校時代のトレーニングっぽい。それからいわゆる筋トレのステージ3に入る。ようやく筋トレ。道は意外に長く厳しい。
 というか、私はこれ、参考にはするけど、これにそってすることはないなあとも思った。そういう我流がいけないのかもしれない。
 それでもこうした本を読んでみて、筋トレだからって有酸素運動は疎かにはできないというのは、この1か月の筋トレでもわかった。前からやっている水泳とエリプティカルというマシンも使うようにした。
 かくして1か月。
 どうなったか。
 各種入門書が言うように、筋肉への効果は弱いように思う、というか、あのレベルで筋肉が増えるわけないよな。
 そもそも筋トレをしようと思ってきたのは、55歳なんだから当然なんだけど、大腿筋が細りだして、まいったまいった、ということになったからだった。若い時から着やせするタイプで、でも以前はけっこう大腿筋があった。ジーンズがあまり似合わん。
 でも、大腿筋が細ってくるわけですよ。ええ、これ俺の足かよ、という感じ。年取るってこういうことかとがっかり。
 肩や腕の筋肉はもとからないし、40代にきちんと四十肩もやってしまった。ほんと肩が上がらないという経験した(病気のせいだったかもしれないけど)。
 それでもわずかな期間の筋トレだけど、機能的には少しずつ回復している気がする。身体が軽くなった感じがする。駅の階段が二段おきにひょいひょいと上れる。そういえば30代のころ、駅の階段はこうしてひょいひょいと走って上っていたものだった。今思うと不思議だけど、スーツ着て、けっこう大手町とか走り回っていたものだった。
 あくまで主観だけど、身体がしまってきた印象もある、あくまで主観ね。以前から腹周りは細いのだけど(76cmくらい)脂肪はついている。
cover
TANITA
【乗った人をピタリと当てる
「乗るピタ機能」搭載】
体組成計 シルバー
BC-705-SV
 先日、タニタの体重計で体内年齢(参照)というが計測できるので、冗談で計ったら、41歳と出た。あはは、間違っとる。俺、そんな若いわけないって。
 数日後、再計測した。体内年齢、28歳。
 なんじゃこれ。笑いを通り越して、苦笑。機械が壊れているんじゃないかな。まあ、また数日してやってみるか、今度は14歳だろうとか思って、やったら、27歳。よくわからん。
 普通に考えたら、間違っているのでしょう。でもま、悪い気はしないな。若くなりたいとかあまり考えなかったが、老化がずんずんと身体に来るようになったので、日常生活の機能維持にも一定の筋肉必要だなと思うようになった。
 今回はどこまで続くかな。
 
 

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2013.07.13

「アベノミクスが新たなリスク」の意味

 IMFチーフエコノミストのブランシャールが「アベノミクスが新たなリスク」だと指摘しているというニュースが流れた。なんだろそれと首をかしげていたが、どうも大した話ではない。この手の話題にありがちにスルーしておくかとも思ったが、ちょっと気になることもあるので、簡単にメモしておきたい。
 気になるというのは、参院戦の時節でもあり、自民党や安倍政権を批判したいがための人がこのネタを持ち出して有権者からさらなる失笑を受けるようなことになるのも、どうかなと思うからだ。
 このニュースについてわかりやすい記事は、7月10日付け朝日新聞「「アベノミクスが新たなリスク」 IMFが初めて指摘」(参照)である。


「アベノミクスが新たなリスク」 IMFが初めて指摘

 【ワシントン=山川一基】国際通貨基金(IMF)のブランシャール調査局長は9日、安倍政権の「アベノミクス」が世界経済の「新たなリスクだ」と指摘した。一方、IMFは同日、最新の世界経済見通しで、日本の2013年の実質成長率予想を前年比2・0%増に上方修正した。
 ブランシャール氏は同日の会見で、世界経済の新たな懸念材料として「中国の金融システム不安や成長の鈍化」「アベノミクス」「米国の量的緩和の縮小による世界金融の不安定化」の順で、言及した。
 IMFはこれまでアベノミクスを支持してきた。リスクだと指摘するのは初めてだ。


 この記事はどう読んでも、「アベノミクスが新たなリスク」であり、しかも「IMFはこれまでアベノミクスを支持してきた。リスクだと指摘するのは初めてだ」という指摘からは、暗黙にもはやIMFがアベノミクスを支持していないという誘導が感じられる。
 この記事の通りであれば、けっこうなニュースだと言えるし、ブランシャール調査局長の原文を検証してみないといけない。これはあとで。
 朝日新聞以外に関連のニュースを検索したら、7月11日付けで朝鮮日報に類似の記事があった。「「アベノミクスはリスク要因」 IMFが警告」(参照)である。先の朝日新聞の記事を念頭に読んでみていただきたい。

 国際通貨基金(IMF)のチーフエコノミスト、オリビエ・ブランシャール氏は9日、世界経済のリスク要因の一つとして、アベノミクス(安倍首相の経済政策)を挙げた。IMFはこれまでアベノミクスに好意的な立場を取っていたが、危険性を警告したのは今回が初めてだ。
 ブランシャール氏は同日、「世界経済見通し」の発表会見で、世界経済のリスク要因として▲中国の金融システム不安と成長鈍化▲アベノミクス▲米国の量的緩和縮小による世界経済の不安定化―を挙げた。朝日新聞は10日「IMFはこれまでアベノミクスを支持してきたが、リスク要因として指摘したのは今回が初めてだ」と報じた。
 ブランシャール氏は、日本政府が財政の健全性強化など構造改革を実行しない限り、アベノミクスが世界経済のリスク要因になり得ると指摘した。その上で「投資家が日本の財政の持続可能性に不安を抱き、日本の国債利回りが上昇しかねないことが懸念材料だ。そうなれば、財政運営が難しくなり、アベノミクスは苦境に立たされる」と分析した。

方顕哲(パン・ヒョンチョル)記者


 朝鮮日報の記事では、記事中に先の朝日新聞の記事への言及があるので、それを意識したものとも言えるし、基本の論調は同じものだと朝鮮日報は朝日新聞の記事を見ていると理解できる。
 朝鮮日報の記事は、このリスク要因に「日本政府が財政の健全性強化など構造改革を実行しない限り」という限定がついている。さらに「その上で」と条件を重ねて、その第二条件として「投資家が日本の財政の持続可能性に不安を抱き、日本の国債利回りが上昇しかねないことが懸念材料だ。そうなれば、財政運営が難しくなり、アベノミクスは苦境に立たされる」とある。
 朝鮮日報の記事から読み取れることは、IMF・ブランシャール氏の「アベノミクスがリスクになる」という意見は、次の二つの条件が順次適用された場合に限定されるということだ。経時的な二条件は、(1)日本政府が財政の健全性強化など構造改革を実行しない場合、(2)投資家が日本の財政の持続可能性に不安を抱き、日本の国債利回りが上昇した場合、である。
 このあたりで奇妙な印象を私は持つのだが、「日本政府が財政の健全性強化など構造改革」の意味がわかりにくい。印象としては、構造改革がなされれば財政は健全化されるという含みがありそうに思える。また、「など」に増税が含まれているかもしれない。
 普通のレベルの経済学的なセンスがあれば、日本財政の困窮は構造改革されないことによるのではなく、デフレによって名目上の税収が減ったことにあり、むしろデフレ脱却によって財政の健全化が達成可能になる。もう少し踏み込むと、アベノミクスのような2%のマイルドインフレは実質的には1%のインフレであり、これでは財政健全化に寄与できる名目上の税収向上には繋がらない。この点は、みんなの党が主張しているように4%のリフレが求められることになる。だが、現状ではまだそこまで議論できない段階だと見てよく、アベノミクスに現実性がある。
 また、同記事には「投資家が日本の財政の持続可能性に不安を抱き、日本の国債利回りが上昇した場合」とあるが、リフレをすれば国債利は上昇するのは当然で、問題は、どの程度の規模、どの程度の期間で上昇するかということになる。現状、日銀の11日の金融政策決定会合ではこう見られている(参照)。

長期金利については「米欧で上昇している中で、日本は極めて安定している」と指摘。日銀が毎月平均7兆円超の長期国債を買い入れることで「下押し効果が効いており今後も効果は累積的に高まる」と述べた。

 IMFのブランシャール氏が述べたとされるコメントに戻ると、氏が普通レベルの経済学的なセンスがないとは思えないので(まあ、私のいう普通レベルの経済学的なセンスというのがそもそも間違っているというのもあるかもしれないが)、氏の意見はどうも朝日新聞と朝鮮日報で奇妙な理解がされているのではないかという懸念があった。
 ロイターでは11日「日銀景気判断「回復」明記、中国経済の動向注視」(参照)としてIMF関連についてこう伝えている。

 国際通貨基金(IMF)のブランシャール調査局長が財政健全化策を伴わないアベノミクスを世界経済のリスクとして挙げたことに対して、「財政健全化が進まなければ、市場から不信任とみなされ金利が上がる懸念もあり得る」「今のところ日本政府は懸念を理解して努力している」との見方を示した。

 朝鮮日報よりは明瞭に「財政健全化」とされているので、これだと構造改革よりはわかりやすい。
 さて、こうした問題は原文を検証するに限る。原文はIMFのサイトに掲載されている「Global Outlook -- Still Three Speeds, But Slower」(参照)である。当面の話題の該当分は次。

The second is Japan's Abenomics, namely the "three arrows" of fiscal stimulus, aggressive monetary easing, and structural reforms.

第二点は日本のアベノミクスであり、これは通称「三本の矢」とされている。財政刺激策と、積極的な金融緩和、それと構造改革である。

Unless the second arrow is soon complemented by a credible medium run fiscal plan, and the third arrow reflects substantial structural reforms, the risk is that investors become worried about debt sustainability, and ask for a higher interest rate. This would make it difficult for Japan to maintain debt sustainability.

第二の矢が信頼できる中期的な財政策で早急に補完されず、かつ第三の矢に実質的な構造改革が反映されないなら、投資家が債務の持続可能性を懸念し、国債により高金利を求めることがリスクになる。このことが、日本の債務の持続可能性の維持を困難にするかもしれない。


 まず、第一の矢は問題になっていない。
 ではリスクは何から生じるのか? それは、(1)適切な財政策が遅れること、(2)実のある構造改革が進まないこと、の2点である。
 おそらくこの構造改革に含まれているのは、女性の社会進出だろう。市販薬のネット販売解禁とかの話題は安倍総理の冗談だと思いたい。
 ということで、朝日新聞の誤報とまではいえないまでも、アベノミクスがリスクになるというのは、第二・第三の矢が適切に進まないと、債務問題が悪化する可能性がありますよ、ということだ。
 参院戦の文脈でアベノミクスをまともに批判するなら、ブランシャール氏のように、財政出動を早急にきちんと実施しなさい、また女性の社会進出を進めるように保育制度を完備しなさいということになるだろう。
 別の言い方をすると、こういう批判ではないアベノミクス批判は、むしろブランシャール氏が懸念するリスクを高めることになる。
 ブランシャール氏は今回のコメントでもう一個所、アベノミクスに言及している。

Even in the core countries, forecasts have been revised down. Lower exports, and induced low investment, are playing a major role in Germany. A large fiscal consolidation is playing a big role in France. But there seems more at work here–a general lack of confidence in the future, which, if it does not turn around, may turn out to be partly self fulfilling.

主要国ですら、予想は下方修正された。投資低下がもたらした輸出低迷はドイツで多大な要因となった。大幅な緊縮はフランスで大きな要因となった。しかし、現状対処することは、未来に対する全般的な自信喪失であり、これが好転しないなら、いくぶんかは予想されたとおりに落ち込んでしまう。

One could say Japan falls in the three and a half speed. While it is too early to tell how much of it reflects Abenomics, growth this year has been stronger than expected, and confidence appears to be building.

日本は3.5の速度に落ちると言う人もいる。それがアベノミクスの影響かどうかについてはまだ言及できる時点ではないが、今年の成長は予想より力強く、信頼が形成されつつある。


 日本はむしろよい方向に向かっているので、もっと頑張れというのが、ブランシャール氏の意見と読めるだろう。
 
 

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2013.07.11

[書評]子どもの頃の思い出は本物か(カール・サバー)

 暑い。猛暑だ、もうしょうがない。駄洒落を言っている場合ではない。が、そのくらいしか脳が動かない。せめても睡眠くらいは取りたい。と、夜は真夏向きのエアコンディションをするが、昨晩ちょっと設定を間違え、深夜、暑苦しさに目覚めることになった。暑苦しさで悪夢も見ていて、その悪夢から目覚めたという感じでもあった。
 悪夢から目が覚めて、呆然としていた。襲われるとか殺されるとか、落下するとか突き刺さるとか、巨人に喰われるとか、そういうシンプル恐怖系の悪夢ではなかった。
 夢のなかで私は四歳か五歳だった。夜になり部屋を開けると、部屋はがらんとしていて布団がなかった。私は呆然として空っぽの薄暗い部屋を見回し、お布団がない、お布団がないとつぶやいている。そのうち、お布団がないよ、お布団がないよ、お布団がないと眠ることができないよと、泣き出すのである。
 実際には夢だから、寝ているのに。
 夢のなかで幼い私は、悲しくて呆然として孤独に締め付けられるようにして泣き続けた。
 そして目が覚めたのだった。悲しさがぐっと胸にこみあげたまま。
 どうしたわけなのだろう。私は55歳である。鏡を覗くと、ネットでよく罵倒されるように爺然とした男の顔がある。四、五歳の子供ではないのだ。なのに、夢のなかではすっかり四、五歳の子供になって、お布団がないよ、寝れないよと、泣いているのである。
 夢から目覚めて、冷蔵庫に冷やしてあるミントティーを飲んで、しばし呆然としながら、現実の老いた自分を確認するのだが、四、五歳の子供としての自分の自意識がまだリアルに残っているのを感じる。
 やりきれない。
 暑苦しさから、エアコンの設定が間違っているのを見つけて、調整し直したものの、眠気はもうない。
 自分の無意識はいったい何を抱えているのだろうか。いや、ただ暑さの寝苦しさから見ただけの悪夢ではないか。そう思おうともする。
 そうもいかない。あれは夢だったのか。もしかして記憶だったのではないか。と考える。というのも記憶のような実感が多少ある。
 理性的になれよ自分、と問いかける。
 記憶ではないだろう。だが、失われたか、あるいは抑圧された記憶が再構成されて、ああいう悪夢になったのだろうという感じはする。もし、記憶がそれに関連しているとしたらそれはどういう記憶であり、どういう事実が私の幼いころにあったのか。
 いや、それはもうなんどもなんども考えつくして、諦めたはずだった。

cover
子どもの頃の
思い出は本物か
 そういえばと、『子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき』(カール・サバー)を書架から取り出し、パラパラと捲る。原書は2009年、翻訳書は2011年に出ている。
 内容は、オリジナルのタイトルを直訳した「子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき」ということからそのまま想像してよい。人間の記憶はどんなにリアルに感じられても、真実だったというわけでもないし、まして子供の頃の記憶は歪むものだ。この心理学的な事実が、ジャーナリストであるカール・サバーによって、基本的には学術的に語られていく。説得力もある。
 全体は12章あり、記憶の不確実性について淡々とまとめているという印象だが、本書の中心的な課題は、第5章「記憶戦争の勃発」から後半に展開される、子供時代のトラウマの記憶は本物かという点にある。
 なぜそのような展開になるのか。背景には1980年代以降米国で問題となった"false memory"(偽りの記憶)の問題がある。精神医学的には本書でも使われているが、"false memory syndrome"(FMS, 偽りの記憶症候群)の問題である。この時代、精神的な問題やトラウマを抱えている人たちを催眠にかけ抑圧された記憶を引き出すと、子供時代に虐待された記憶が引き出されることがあった。こうした事例をもとに、米国では1988年「The Courage to Heal」(4版・参照)が書かれ、記憶のなかに抑え込まれた虐待のトラウマを明るみに出して対応することで、トラウマを克服していこうとする傾向が生まれた。実際には、父親から受けた性的虐待の克服という女性問題の文脈もあった。
 日本でも1997年に三一書房から『生きる勇気と癒す力―性暴力の時代を生きる女性のためのガイドブック』(参照)として翻訳され、長く絶版だったが、2007年に新装改訂版が出された。なぜかアマゾンでは販売されていない。
 本書『子どもの頃の思い出は本物か』は、明示して書かれているがこの『生きる勇気と癒す力』への科学的な見地からの批判書という趣きがあり、実際のところ、この問題が本書の価値と見なされていたといってよい。簡単にいえば、トラウマとなる子供時代の記憶は事実とは限らないということである。
 なお、同趣向の書籍として 誠信書房から2000年に『抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(参照)も出ている。が、心理学的な実験も含まれているもののノンフィクション的であり、『子どもの頃の思い出は本物か』のような冷静なトーンで書かれているわけではない。
 現状、米国の心理療法の世界では『生きる勇気と癒す力』のようなトラウマ記憶を復元して治療するという療法はもはや実施されてはいないように見える。
 では、トラウマの問題はどうなのか。あるいは、たとえ虚偽の記憶であっても、記憶としてそれが心深く存在しているということはどういうことなのか。本書の結語ではこう暗示されている。

 記憶が正確かどうかという問題とは別に、これまで考えられていたよりもはるかに強い関係が、記憶とアイデンティティの間にあることがわかってきた。

 そんなこと当たり前だろうという印象もあるが、心理学的には現状こうした段階になるだろう。
 私の内省からすると、記憶とは「自分」という存在の創世記的な神話だろうと思う。「お布団がないよ、眠れないよ」と泣く存在が私のアイデンティティの核近くにあるのだろう。
 救いようがないなあ自分と思うが、それでも、これでも、少しずつ救いようがあるようにも思っている。
 以前ならこうした悪夢は、憎悪の対象像を結びがちだった。いわく、親からの虐待の経験が素地になっているのだろうとして、親を憎悪するといったものである。が、今ではそうした憎悪対象的な感覚は抜けている。一つには、自分の人生を振り返ってもうそれが取り戻せはしないことを納得したこと(自著の自分への効果でした)と、そうした対象憎悪そのものが、一つの心の病なのだと自分で受け取るしかないだろうと観念したことだ。
 
 

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2013.07.10

文春の「安藤美姫選手の出産」アンケートで思ったこと

 フィギュアスケートの安藤美姫選手が未婚で女児を出産していたことについて、週刊文春が「緊急アンケート! 安藤美姫選手の出産を支持しますか?」(参照)としてをインターネット上でアンケートを実施し、話題になっていた。いや、話題というよりは、文春への批判で炎上と言ってもよいような光景があった。
 ネットでの典型的な批判は、この件で注目されていた弾小飼さんのブログのエントリー「あなたはあなたの母があなたを出産したことを支持しますか?」(参照)で読める。まず、こういう切り出しだった。


むしゃくしゃして書く。後悔のやり方は知らない。
緊急アンケート!安藤美姫選手の出産を支持しますか? | お知らせ - 週刊文春WEB

この突然の告白に対し、出産を祝福する声が上がると同時に、まだ結婚しておらず、父親が誰かも明かさないことへの疑問や、子育ても競技も中途半端になるのではないかなどの批判もあります。そこで、下記アンケートへのご協力をお願いいたします…

1)あなたは安藤美姫選手の出産を支持しますか?
2)子育てをしながら五輪を目指すことに賛成ですか?

何を言っているのかわかっているのか?

「安藤美姫選手の娘がこの世に生まれて来てよかったですか?」と言ってるんだぞ?

ブラック企業に対しては、就社しない権利もあれば、就社してしまったとしても退社する権利がある。我々にはある。

公職されるにふさわしくない候補には、投票しない権利が我々にはある。

しかし、自らを生まれなかったことにする権利、以前に能力が、誰にあるというのか。

これがまだ、安藤選手が妊娠する前に「結婚はしたくないけど、出産したいです」とでも表明していて、それに対するアンケートであれば、依然下衆ではあるとはいえまだ許されよう。それは彼女の未来で、彼女にはそうすることもしないことも選べるからだ。

しかし出産はもはや成されたのだ。娘はすでにこの世にいるのだ。


 私は率直に言って安藤美姫選手の出産にそれほど関心はなかった。以前、トリビアの泉で10代の彼女を見て、子供らしいかわいい人だなあという印象を持ち、またオリンピックの演技なども見ていたので、彼女に関心がまったくないわけではないが、出産にはそれほど関心はなかった。正確に言えば、「未婚」での出産ということに関心がないわけではない。が、俵万智のそれと同程度の関心でしかない。いずれ父親が事実上出てくるのか、どういう人生を辿るのかという関心と言ってもよいかと思う。
 アンケートを実施した週刊文春(文藝春秋社)のような関心はもたない。こうしたアンケートを見ても私という人はただ通り過ぎていくだけだが、一つ思うことはあった。あとで述べる。
 話を弾小飼さんのエントリーに戻すと、私にはこの反応のほうに違和感があった。率直に言うと、文春のアンケートからそういう受け止め方ができないわけではないが、その怒りの感情の根は氏自身が生み出した修辞なのではないかという印象を持ったからだ。総じて、ネットでの反応はバッシングの修辞をみんなで頷きあって炎上祭りを演じていたように思う。同化しがたい空気を私は感じたが。
 修辞ではないかなと思うのは、弾さんの引用にもあるが、原文では、次の文言があったこともある。その部分を強調しておく。

 フィギュアスケートの安藤美姫選手が7月1日の「報道ステーション」で4月に女児を出産していたことを公表しました。また、競技に復帰し、来年のソチ五輪を目指すことをあらためて語っています。

 この突然の告白に対し、出産を祝福する声が上がると同時に、まだ結婚しておらず、父親が誰かも明かさないことへの疑問や、子育ても競技も中途半端になるのではないかなどの批判もあります。そこで、下記アンケートへのご協力をお願いいたします。

1)あなたは安藤美姫選手の出産を支持しますか?
2)子育てをしながら五輪を目指すことに賛成ですか?

各質問にお答えいただき、理由も併せてお答えください。


 文春側としては、「出産を祝福する声が上がると同時に」とあるように、こうした状況で出産すべきかの是非が問われているわけではない。もちろん、この表現には、「出産を祝福しない声」も想定されている。が、修辞的に「出産を祝福しない声」を切り出すのではなく、意味は文脈から読み取るのが通常だろう。
 もう少し補足すれば、例えば、親や周囲から反対されて結婚した夫婦に子供が生まれた場合、その生まれたことを前提に、「その出産を祝福しない声」というのはあるだろう、という文脈での意味になる。
 文脈を歪めてまでバッシングしたいものだろうか、というバッシングへの一般的な批判がしたいのではない。誤解無きよう。普通に文春の問いかけ文はそういう文脈で読めるでしょうというくらいなものだ。
 とはいえ、ここは強調しておきたいのだけど、そもそも市民の出産についてとやかく関心をもつのはどうかと思う、というのはある。もちろん、安藤美姫選手は著名人であり、週刊文春はタブロイド的な大衆雑誌であるというのもあるだろう。
 加えれば、こうした文春の問いかけについて、インターネットの世界では基本的な反意の環境があるというのも言えるだろう。だから、そこに修辞的に足を掬われるような文春の問いかけが適切ではなかったというのもそうだろう。PC(ポリティカル・コレクト)な世界である。
 そう受け止めるなら、ひろゆきさんがブログ「安藤美姫選手のアンケートの結果を見たほうが良かったと思う理由 : ひろゆき@オープンSNS」(参照)でこう述べられている指摘には同意する部分が多い。

世の中には、多種多様な人達がいて、考え方が偏ってる人達もいるわけです。
安藤さんが母として生きることや、娘さんが生まれただけで批判されてるのが気にならない人が、日本の中にいるという事実を知ることは意味があると思うのですよ。

喜ばしいことではないですが、現実がどんなものか知らないと、対処の方法を間違えることがありますし。。。

ってことで、週刊文春は批判されるのがわかってスタートしたんだから、最後まで結果を出して批判されてくれればよかったのに。。。と思ったりするおいらです。

あと、出産と仕事が両立出来ないって前提になってるのがおかしいと思うのですよね。ベビーシッターを雇って、子育てを完全に外注して、今までどおり仕事するとか、やり方はいろいろあるのに、両立出来ない前提で考えちゃうのは、どうしてなんすかね?


 世代間の社会認識の違いというのを契機に明るみに出す、という意味で、ひろゆきさんの意見にはうなずけるし、「現実がどんなものか知らないと、対処の方法を間違えることがありますし。。。」とお茶を濁されている部分が、実際には、この問題の核心だったりする。
 ここも補足すると、弾さんの怒りは、具体的に私生児を産んだ人々への支援の契機を生まないだろうと思う。そして現実は、ひろゆきさんがお茶を濁されているように、私生児への世間の風当たりは強い。
 そのあたり、内舘牧子が脚本を書いた、2002年のNHKの朝ドラ「私の青空」(参照)が興味深かった。この10年も以前のこの作品は週刊文春の読者層とも重なっている部分があり、そうした影響から、むしろ、ネット上で活躍される世代より、もうすこし深い陰影がアンケート結果から見られたかもしれないとも思う。ちなみに、この作品はとてもよく出来たものでしたよ。
 さて先ほど「あとで述べる」としたのは、今回の文春の問いかけで、私が思い出したのは桐島洋子のことだった。
 東京オリンピックがあった1964年のことだったが、27歳の桐島洋子は未婚のまま子供を産んだ。これが後に世間に知られて大騒ぎになった。小学年の私ですらこの話題が記憶に残っているほどである。
 この時の子供が桐島かれんである。当時の話題はまさに今回の文春の問いかけそのもので、未婚で子供を産んでよいのか、ということだった。そこで私などは、「ああ、文春は桐島洋子の話題を繰り返しているのだろうな」と今回のことで思った。文春のようなオールドメディアは半世紀してもそれほど基軸の感覚は変わらないのだろう。
 このときには、未婚の母という以上の話題性もあった。一つは相手が妻子ある米人だったこと。また桐島洋子はけっこうな家柄の出のお嬢さんだった(斜陽でもあった)。この二つの要素は、小島信夫『アメリカンスクール』(参照)のようなインパクトもあった。同小説は1955年の発表だったが、1964年はそれから10年は経っていない。現在から2000年を振り返るよりも短い時間だった。
 今回桐島洋子を思い出したのは、もう一つ思うことがあったからだ。当時彼女は、文藝春秋の記者だったことだ。比較的現代のイメージだ『働きマン』とかのイメージにも近い。当時の彼女は、将来は編集者になりたかったのである。文春の編集者である。
 彼女の私生児出産は、勤め先の文藝春秋社にも当初は隠されていた(同僚までまったく隠すというのは無理だったろうと思うが)。会社には長期の病欠で出産し、その後一週間ほどで職場復帰した。生まれたばかりのかれんは知り合いに預けられた。かれんの幼い頃の記憶には、たしか母の思い出はなかったように記憶しているが、どうだっただろうか。
 翌年桐島はノエルを洋上で出産するも、これも隠し通そうとした。が、仕事がきつく、結局文藝春秋社を退職。フリーランスとなり、1968年にはローランド(今や参院戦で時の人!)を出産。妊娠はベトナムでだった。
cover
淋しいアメリカ人 (文春文庫)
 未婚の母、桐島洋子はかくして三人の子供を立て続けという感じで産んでいったわけだが、生物学的な父親である恋人の米人とはもつれた。その関連で米国に滞在してドラマのような経験をした。
 こうした自分の流転をネタに1970年、『渚と澪と舵』(参照)を出版。さらに翌年『淋しいアメリカ人』(参照)を出版して大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
 私はこれを月刊文藝春秋で読んでいる。今思うと、私は小学六年生で月間文藝春秋を読んでいたことになる。というか普通に読んでいたものだった。
 改めて言うまでもなく大宅壮一ノンフィクション賞は文藝春秋社の主催である。同書は文藝春秋社から刊行された。処女作『渚と澪と舵』も文庫では文藝春秋社に帰した。
 文藝春秋社は、ネタということもあっただろうし、桐島洋子も力量のあるライターとなったことも当然があるが、未婚の母である桐島洋子の人生を、結局、フルサポートしたのである。
 文藝春秋社というと、現在ではイスタブリッシュメントのように見えるが(余談だが私はあのレトロなロビーに入ったことがあるが)、ジャーナリストの集団であり、ジャーナリストというのはいわばインテリ・ヤクザである。アウトローである。娑婆で力強く生きて行くなら、私生児の母の味方である。と私は思う、50年ちかく文春を読み続けた私はそう思う。
 今回の安藤美姫選手のアンケートで、私がまず感じたのは、桐島洋子を結果的に支えたインテリ・ヤクザの臭いだった。しかしネットの世代のバッシャーたちは、「私生児の存在を許さないのかオヤジたちは」と思ったのだっただろう。
 時の流れと感性というものだろう。桐島洋子も先日、76歳になった。この年代の少なからぬ女性たちも、桐島の生き方をサポートしてきたものだった。
 現在のネットから見ると、日本社会の老人たちは保守的だとステロタイプで批判されることが多いが、ネットを出てみれば、そんなことはないとわかるものだ。私生児だろうが、被差別者であろうが、断固これを支持する70過ぎの老人たちも少なくはない。
 
 

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2013.07.09

テストステロン補充は無益で危険なのか、というか米国近年の実態は化粧品のようになっている

 男性の場合、当然といえば当然だが、加齢とともに男性ホルモンであるテストステロンが減少する。そこで昨日のエントリーではテストステロンの補充に、慎重ではあるが、どちらかと言えば肯定的な立場の書籍を紹介した(参照)。が、この逆の方向も米国では話題になっている。いわく、テストステロン補充には効果がないのに金がかかり、有害ですらあるというのである。
 特にこのところ話題になったのは、7月のコンシューマー・レポートの提言だった(参照)。これがけっこう強烈なもので、結論を先に言えば、テストステロン補充は効果がないからやめなさい、というものだった。
 話はコンシューマー・レポートらしく、テストステロンの市場での売上げ状況の説明から始まる。効果の有無は医学的な問題であり、市場動向とは直接は関係ないようだが、現実的には産業界の売らんかなの姿勢の影響はあるだろう。掲載されている棒グラフは確かにわかりやすい。一番上が広告費の増加、二番目が処方の増加、三番目が収益の増加。

 広告費の伸びの点で2012年が際立って増加している。売上げが二年間で倍になるのだから当然とも言えるだろう。対して、処方も売上げに増加しているが広告ほどではない。医療としては新しい傾向とはいえるだろう。
 テストステロン業界といったものがありそうに見えるが、実際には、二製品、アンドロジェル(AndroGel)と、アキシロン(Axiron)の寡占状態である。
 問題の効能についてだが、コンシューマー・レポートではまず、米国泌尿器教会は近年のテストステロンは過剰であり、治療には危険が伴うとしていることを伝えている。が、同協会のサイトからは明瞭には理解できなかった。同協会のこの話題について配布したパンフレット(参照)では、テストステロン療法はED治療ではないという点が強調されている。それはそうだろう。
 その他、同レポートでは2010年のニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンの研究から、テストステロン療法に効果が無かったという例を引いている。記事からは原典がよくわからないので別途探すと「テストステロン療法に関連した有害事象」(参照)のようだった。が、この研究の主眼はいわば心疾患の副作用なので多少文脈が違うようには思えた。
 その他の問題点も同リポートは言及しているが、医学的な確実性という点ではそれほど強固のようにも思えなかった。
 製薬会社としてもこの分野で一稼ぎしたいことはわかるし、現実、無用な、あるいは有害な結果となる処方はあるのだろう。が、一概に否定も難しそうだ。結局、専門医にまかせるということになり、コンシューマーの問題だとは簡単には言いがたいように思えた。
 いずれにせよ十分に知識のある専門医からの診断を得て実施するという他にはないのだろう。
 ここでちょっとちゃぶ台返し的な話の展開になってしまうのだが、現実話題となっているのは、アンドロジェルとアキシロンで、どちらも塗るタイプのものだ。アキシロンにいたってはデオドラントの化粧品のようですらある。

 利用者の理解としては、育毛剤のミノキシジルのような感覚になり、テストステロン補充療法という意識は薄いように思われる。
 昨日触れた『ヤル気がでる! 最強の男性医療 (堀江重郎)』(参照)はもっと明確に医療として理解しやすいし、『ライフ・プランの修得 健康で締まった強くセクシーな身体(Mastering the Life Plan: The Essential Steps to Achieving Great Health and a Leaner, Stronger, and Sexier Body)』(参照)のライフ先生の意見を読み返すと、彼はこうした外用タイプについて、吸収が安定的ではないし、セックス・パートナーや子供にも影響しかねないとして、好まないとしている。彼は注射を利用している。
 つまりここでも医療としてのテストステロン補充療法の明確さが問われていると見てよいのだし、逆にコンシューマー・レポートが問題視するのは、安易な外用薬のほうではないだろうか。
 まあ、ざっとこの分野を見ていると、すでに日本でもアンドロジェルとアキシロンは実質利用者がいるんじゃないだろうかという感じもする。
 
 

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2013.07.08

[書評]ライフ・プラン: どんな男性でも健康を維持し、セックスを楽しみ、強くしまった体が持てる(ジェフリー・ライフ)

 人間誰でも年を取り老化するものだが、それに抵抗していつまでも若くいようという「アンチ・エージング(抗老化)」という健康分野がある。僕は自著『考える生き方』(参照)にも書いたけど55歳。今年は56歳。あーあ。どうしても老化は自覚される。しかたがないから受け入れようという思いと、でもじわじわと老化していくのも嫌なもんだなという思いがある。病気も抱えているので(これも自著にも書いたけど)、できるだけ健康に留意しないというのもある。そんなこんな。
 そこでたまにアンチ・エージングの世界も覗いて見る。最近ではなんとなくツイッターでこの分野の権威である高須克弥先生(68)歳からツイートもらって、叱咤されることもある。けっこう面白い。


左ガッツポーズが高須克弥先生(68)

 米国でアンチ・エージングのスーパースターといえば、ジェフリー・ライフ先生である。ライフ(Life)って言う名前、洒落かなと思ったけど、どうも本名らしい。ライフ先生もまた凄い。


左が57歳のとき。右が74歳のとき。


近影

 うぁ、これはすごい、と思うけど、この手の高齢ボディビルダーの人もいることも知っているので、そんなものかなあとも思っていた。
 でも、このところ筋トレを始めるようになったので、ちょっと気になってライフ先生の本を読んでみることにした。結果からいうと2冊、Kindleで読んだ。翻訳があるのかについては知らない。あったら、コメント欄ででも教えてください(コメント欄は、ブコメは罵倒を書くためにあるわけでもないので)。

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The Life Plan
 『ライフ・プラン:どんな男性でも健康を維持し、セックスを楽しみ、強くしまった体が持てる(The Life Plan: How Any Man Can Achieve Lasting Health, Great Sex, and a Stronger, Leaner Body)』(参照)が一冊目。これ読んだときは、実は続編があるのを知らなかった。冒頭からいきなり、こうかます。

 ほとんどの男性、私も含めてだが、二通りに自分を定義するものだ。人生で何をしたかということ、それと、ベッドの上でどうしているかということ。

 人生で何をしたかについては僕も先に触れた自著で書いたけど(とほほな人生でした)、ベッドの上でどうしているかについては、なんであれ、ちょっと書くのをためらう。70歳を越えたライフ先生はどうされているのかと読み進めると、具体的には書いてない。でもまあ、書いてあるといえば書いてある。それを含めてこんな感じだ。
 ライフ先生、50歳のときに下腹ぽっこりの体型だった。筋肉も衰えてきていた。お医者さんでありながら見るからに不健康な状態。仕事にも熱が入らない。セックスの気力もない。ED状態。ど・メタボ。自分の姿を鏡で見て、ずどんと落ち込む。ライフ先生、59歳。離婚もした。だめだめちゃん。
 とか思うけど、離婚後、ささっと20歳年下の恋人を見つけちゃう。おい、EDはどうした。精神的な恋愛だったのかい。
 そんなある日、友だちがボディ・ビルの雑誌をくれた。いっちょやってみるかな、とライフ先生は思った。そこはお医者さんだから、医師仲間にも助けてもらった。実はあとでわかるのだけど、20歳下の恋人催眠療法家で、メンタルな援助もあったみたいだ。
 かくしてメタボなライフ先生が一念発起して筋トレに励み、高齢枠のボディ・ビルのコンテストに挑むこと5か月。1998年に優勝しちゃった。60歳のマッチョ。やったね。
 というわけで、みんな筋トレに励みましょうという話なんだろうと読んでいくと、さにあらず。ええ? 数年後、トレーニングしているのに下腹が出てきて筋肉も減少。ありゃりゃ。
 2003年、ライフ先生は男性の老化を扱う医学を知り、ホルモンレベルの調節をした。すると、ばっちグーな体型に戻った。72歳のとき、恋人と正式に結婚した。知的能力もアップし、20代の学生に混じって経営学も勉強し、MBA(経営学修士)も取得した。
 という話を読んで、僕は、なーんだ、そういうことか、とちょっと落胆した。と同時に、自分もそういうふうにホルモン・レベルの問題を抱えるようになるんだろうなと思い、そういう点からこの本を読むのもいいかもしれないとも思った。ところが。
 そのホルモンの問題は、それなりにページは割かれていてタメにはなるのだけど、基本的に一般論的にしか触れられていない。具体的には医療の問題になるから個人個人診断が必要になるということらしい。
 同書の内容のメインは、アンチ・エージングの話やアンチ・エージングの食生活(ダイエット)の話。それからワークアウトとして、柔軟、筋トレ、エアロビと続く。どれもタメにはなるけど、それほど驚くような知見はない(でも基本を知らない人には便利にまとまっている)。
 逆に言うと、筋トレは重要だけど、柔軟やエアロビも重視されているんだなあと思った。加えて奥さんの補助らしいけど、心理的な側面についてもけっこう言及されていた。米国の医療保険の話などもあり、このあたりは別の意味で面白い。
cover
Mastering the Life Plan
 もう最新の一冊『ライフ・プランの修得 健康で締まった強くセクシーな身体(Mastering the Life Plan: The Essential Steps to Achieving Great Health and a Leaner, Stronger, and Sexier Body)』(参照)だが、目次を見ると前作の焼き直し感があって、これどうなんだろうと思ったけど、書評などを読むとこれはこれで評価されているみたい。なので、どうかなあと疑問に思うより買って読んでみた。本というのはいろいろ読まない理由を付けるより、そんな手間があったら読んじゃうほうがいいもんですよ。
 「ライフ・プラン」というメソッドを売りにしている点では、前著と同じなのだけど、こちらのほうがメソッドが強調され、説明も詳細。ホルモン問題も当然一般的ではあるけどかなり踏み込んで書かれていた。書籍としては、前作のほうがライフ先生のパーソナルな面が出ていて良かったかなという感じもするけど、新著のほうではそういう話は前著で済んだというスタンスだった。
 ワークアウトの点では、前著のころからライフ先生が学んでいたピラティスの話題が増えていた。とはいえ、ピラティス・マシンはごく簡素なものだった。
 余談だが、日本でもピラティスがいつごろからかブームになっているけど、ピラティス・マシンをきちんと使う説明書みたいなのは見かけない気がする。そういえば、筋トレでも書籍とかだとダンベルやチューブや自重ものが多い。自分も筋トレやってみてわかったのだけど、マシンは最新式のきちんとした使ったほうがよいので、なんというのかなあ、日本の書籍って限界があるなあと思う。自分が30代に入れ込んだヨガなんかでもそうだけど。
 そういえば、ダイエットについてライフ先生はもう一冊新著を書いている。『ライフ・プランのダイエット(The Life Plan Diet)』(参照)。Kindle版は出ていない。
 関連してライフ先生のこれらの本、日本で翻訳するとどうなんだろうかとも思った。自分なんかにはすんなり理解できて良書、特に『ライフ・プランの修得』のほうはかなり実際的なんだけど、簡単でお気楽で安価な対応が求められちゃう日本だと難しいかもしれないと思った。
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ヤル気がでる!
最強の男性医療
(文春新書 919)
 ついでと言ってはなんだけど、男性高齢化のホルモン関係で『ヤル気がでる! 最強の男性医療 (堀江重郎)』(参照)も読んでみた。これはこれで一冊、書評で取り上げたほうがいいのかもしれないけど、この分野の最新状況がわかって便利な一冊だった。
 ライフ先生の本を先に読んでいたので、特にテストステロンについの新知見では同じことが書かれているなという部分も多かった。日本でこういう本が出るということは、自分もこれから老いていくどこかでホルモンチェックしたほうがいいのだろうなという参考にもなった。なお、こちらの本でも、ライフ先生の本同様、食事やサプリメントの話も多いが、多少違うなあという部分もある。
 こちらの本の特徴とも言えるのは、前立腺癌について、とくにPSAマーカーについての議論だろう。現状、健康診断のPSAマーカーの検査には疑問が付けられているが、著者・堀江先生ほど明瞭な知見のある医師のもとであれば、有益なのだろう。あと、癌一般についても言及され、癌幹細胞についても触れられている。一般書で癌幹細胞が出てくる時代になったなあとしみじみした思いもある。
 50過ぎた男性であれば、この本は一読しておくとよい本だと思いますよ。
 
 

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2013.07.05

エジプト混迷の背後にちらつくカタール

 またエジプトで軍部のクーデータが起きた。改めて言うまでもない。2011年初頭、ムバラク政権を倒したとする「エジプト革命」とやらも、ただの、軍部のクーデターだった。今回のモルシ大統領の排除となんら変わりない。もっとも多数のエジプト国民の賛意を背景に軍部がクーデターを実施したとは言える。途上国の軍部はその国の合理的なナショナリズムの先端でもあるので、多数の国民の意向にまったく反して行動することはない。いずれにせよエジプトは、前回も、今回も「アラブの春」とかとは関係ない、ただのクーデターだった。
 前回のクーデターが起きた理由は、ムバラク独裁への反抗だと言われている。が、実際は経済問題だった。二面あった。表面と裏面である。リーマンショック以降の国際的な金融緩和で途上国にインフレが発生し、エジプトでも物価が上がった。なかでも食料の高騰はエジプトでは以前からこうした暴動の原因となっていたものだった。これが表面。裏面は、エジプト国民の多数の不満に乗じた、エジプト軍部という軍産コングロマリットの利害闘争だった。ムバラクの息子ガマルを象徴にした新興経済勢力と軍部は利害関係で敵対していた。軍部クーデターの目的はムバラクの排除というより、新興経済勢力の排除であった。が、この成功によって、エジプトの新しい経済発展の道は閉ざされた。旧態依然のエジプト軍部という軍産コングロマリットではエジプトの経済発展はない。
 エジプト軍部としてもそれにまったく無知ではない。自分たちのコングロマリットは維持できてもエジプト国家の経営ができるわけでもない。そこで、見せかけの民主化を行い、経済運営とその他の行政から軍は手を引くことが計画されていた。しかし、エジプト軍部の一番の金蔓であり軍事支援国の米国との関係維持まで手を引いたわけではない。米国がエジプト軍を支援する理由はイスラエルとの和平であり、モルシ政権もそこはけっこう配慮していた。
 エジプト軍部としても思惑が逸れた部分がある。ムスリム同胞団の意向がここまで行政にのしかかってくるとは想定していなかったのだろう。ムスリム同胞団も当初は、国民の少なからぬ割合を占めるリベラル派やコプト教徒など異教徒への配慮を行うかに見えたものだった。しかも温和なモルシが大統領となった点で、その期待が高まった。が、モルシが温和であるということは実は彼自身の政治理念も温和であり、ようするにムスリム同胞団の幹部の意向が直接的に大統領に影響することになった。
 ここで米国を挟んで、軍部と政権に三すくみのような状況が発生する。軍部が行政に期待していた経済運営能力はムスリム同胞団に存在しない。軍部もムスリム同胞団も米国が嫌いだが、軍部は米国の金蔓および軍事支援国である米国と腐れ縁が切れない。米国はムスリム同胞団が嫌いだが民主主義の建前上異論は出せないし、軍部の腐れ縁を切れない。
 この状態で、モルシ大統領の政権と軍部と米国で(対イスラエル問題以外に、イラン問題やシリア問題も結果的に従属するのだが)、米国の支援と影響力を一定まで認めようと事実上の密約が出来た。この密約の形を整えたのが、ムバラク追放の表向きの責任者タンタウィ国防相・軍最高評議会議長をモルシ大統領が追放したという茶番劇だったのだろう。実際は、タンタウィを排除しても、エジプト軍部の予算と人事はモルシ政権から治外法権的な力を確保しているし、かつムスリム同胞団の意向を酌んだ昨年末の憲法でも軍部は拘束を受けない。
 今回のモルシ排除のクーデターでも、こうした軍部の治外法権的な力が最大限に活かされた。本来なら近代国家というのは最終の暴力装置として軍部という暴力機関を収納しているものである。しかし、エジプトではそれができなかった。なぜか。いかに国民の意向を酌んだかに見せても軍部が暴発したのか。違う。政治機構上、エジプトの場合、軍部が国家に所属していない独立機構という、近代国家としての最大の欠点にあったからだ。国家が暴力を収納する暴力装置でなければ民主主義のシビリアンコントールは実現できない。
 困った状態であり、ムスリム同胞団排除を是として、今回のクーデターを事実上、暗黙に承認している米国でも、建前として、こうした軍部の危険性に憂慮はしているようすは主要メディアからうかがえる。
 さて、今回モルシが排除された理由はなぜか?
 ムバラクが排除された理由と同じである。国民にとっては、経済の疲弊による不満がある。もちろん、この疲弊こそ最初のクーデターの必然的な産物ではある。軍部にとってはどうか。何が軍部の利権に抵触したのか? ようするに軍産コングロマリットであるエジプト軍部は理念ではなく、経済的な利害で動いている。
 簡単に考えられるのは、モルシ側つまりムスリム同胞団が軍産コングロマリットの利権を食い荒らし始めたということがある。いわゆるモルシ政権の腐敗である。これは少なからずあるようだが、構造的な問題とまでは言えない。
 この先がなかなか明瞭には言えないのだが、IMF融資問題ではないか。
 エジプトの経済困窮は、産業構造上の問題は緩慢だが、目下の問題は外貨不足であり、国際通貨基金(IMF)に48億ドルの支援を求めていた。これが昨年の年末には最終合意されるはずだったが、これをモルシ政権がちゃぶ台返しにした。
 温和なモルシのことだから、ムスリム同胞団の意向というだけだったかもしれない。あるいはモルシも理解はしていたかもしれない。IMFはただで金を貸してくれるわけではない。結果的にエジプト国民に負担を強いる政策(食品やエネルギーへの助成金削減や増税など)の実施が伴う。
 タイミング的にもこの時期、ムスリム同胞団の意向を酌んだ新憲法案の承認が課題だったので、IMF融資に伴う国民負担を打ち出せなかった。興味深いのはこの時点で、今回のクーデターの立役者、シシ国防相が政府と反政府派との政治的な仲介を申し出ていたことだ。
 軍側の仲介の背景もIMFが念頭にあったからではないだろうか。エジプト軍としては自集団の政治的な独立性は保持でき、軍産コングロマリットも維持できるので、あとはそれが寄生する国家経済をある程度軌道に載せる必要があり、IMFからの融資が避けがたかったのだろう。
 2013年に入り、外貨不足で絶望的な状況がじわじわと進展していくなか、春らしく椿事が起きた。カタールが30億ドルの支援を打ち出してきたのである。
 カタールはモルシ政権成立後も外貨不足のための支援を行っていて、すでに50億ドルにまでふくれあがっていた。もう限界と見られていたがこの追加である。モルシ政権やムスリム同胞団としては渡りに船という状態だが、問題はカタールの意向がわからない。善意とかのわけはない。またエジプト軍部としてはこのカタールをどう見ているのか?
 カタールの意向として普通に想像が付くのは、その経済的を利用した地位の拡大である。カタールによる融資の代償はIMFのように露骨ではないが、結果としてエジプト経済への食い込みが進展するし、緩慢にエジプトがカタールの経済植民地化される懸念がある。そのあたりが、軍部にとってカチンと来ている可能性がある。
 カタールを巡っては経済利害に加えてもう一点気になることがある。
 今回のモルシ排除のクーデター騒ぎで、前回と違って、実は非常に興味深かったのは、軍部がモルシ政権に及ぼした実力行使が、モルシ拘束は当然として、カイロのアルジャジーラ支局を閉鎖したことだった。表向きには、アルジャジーラの報道がモルシ政権側・ムスリム同胞団に偏っていたことがあり、これを軍部が嫌ったためだ。以前からカタール王族資本のメディアであるアルジャジーラはモルシ政権側・ムスリム同胞団に肩入れしていた。
 今回のクーデターの背景にはどうも、エジプト軍部とカタールとの対立が潜んでいるようにも見える。
 エジプトの二度目のクーデターはそれ自体で中東の不安定化をもたらす問題であり、またIMF融資が決まってもその対価の負担でエジプトの不満はさらに高まり、しかも軍部の地位には変化がないだろうとすれば、エジプトには民主国家としての未来はないかにも見える。が、それも一つの安定的な状態である。
 むしろ今回のエジプト・クーデターは中東混乱の派性であり、焦点がカタールにあるとするとそれはなんだろうか?
 カタールは通称「アラブの春」以降、いろいろ奇妙な動きをしている。リビア内戦のときの反政府勢力肩入れもだが、シリアでも反政府勢力を支援している。特にシリア問題では、反政府派の肩入れの点でサウジアラビアと協調しているかに見える。が、サウジアラビアはカタールが肩入れしているムスリム同胞団を嫌った。このことでこの協調が崩れている。
 議論は逆かもしれない。カタールによるムスリム同胞団への肩入れが、そもそもサウジアラビアへの叛意の象徴であったらどうだろうか。
 サウジアラビアは米国を介してその怒りを発揮するだろう。米国の歯止めがなければエジプト軍部は自動的に暴発できる。一見すると、このところお馴染みのオバマ政権の外交ドジがこのクーデターを招いたかのようだが、逆なのかもしれない。
 この構図がなんとも今回のクーデターの背景に透けて見えるのが、奇妙と言えば奇妙である。
 
 

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2013.07.01

[書評]一万年の進化爆発 文明が進化を加速した(グレゴリー・コクラン、ヘンリー・ハーペンディング)

 本書『一万年の進化爆発 文明が進化を加速した』(参照)が日本では翻訳出版されたのは2010年。原書「The 10,000 Year Explosion: How Civilization Accelerated Human Evolution」(参照)の出版が2009年なので一年ほどして日本でも訳本が出たことになる。私もそのころ読んで、困惑した。
 面白い本かといえば間違いなく面白い。似たようなテーマである『10万年の世界経済史』(参照)より科学的な装いをしているし、「人類はこの一万年間に飛躍的に進化している」とする仮説もスリリングだ。しかし、ほんとかね?

cover
一万年の進化爆発
文明が進化を加速した
 科学的にこれをどう評価してよいかよくわからない。が、1990年代だったが「Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life」(参照)という議論を呼ぶ書籍があり、私の記憶では腫れ物に触るような内容のため翻訳されなかった。それに比べると、本書の翻訳は存外に早いものだと思った。その後、本書の評価がどう定まったのか気になっていたが、書評を書くこともなく忘れていた。
 が、先日、女優アンジェリーナ・ジョリーが癌予防のために乳房切除した際、英語圏の情報を追っていたとき、「ジョリーはユダヤ人だったのか」という話題が意外に多く、そういえばと本書を引っ張り出してざっと再読した。気になっていたのはここである。

 ではなぜ、アシュケナージ系ユダヤ人は際だって知能が高いのだろうか?
 この疑問を解くには、アシュケナージ系ユダヤ人のDNAについての知識が役立つかもしれない。というのも、彼らにはもうひとつ別の興味深い特徴があるからだ。彼らは、ティ-サックス病、ゴーシェ病、家系性自律神経障害、そして二つの異なる型の遺伝子性乳がん(BRCA1とBRCA2)といった、まれで重篤な遺伝子病をもつ率が高いのである。他のヨーロッパ人と比べて、アシュケナージ系ユダヤ人のこうした疾患の有病率は一〇〇倍も高い。長い時間、こうした疾患は別の疑問も投げかけてきた。なぜ、この特定の集団では、こうした病気がこれほど多くみられるのだろうか?

 「ジョリーはユダヤ人だったのか」という話題の背景にはこの問題が隠れていたようだったが、この手の話題はユダヤ人差別に繋がりかねない。それでも欧米ではその側面でも話題なのだろうと奇妙な思いがした。なお、私の理解ではジョリーのBRCA1の遺伝子変異はアシュケナージ系を意味するわけではない。
 本書に戻ると、先の問いかけにこういう仮説が出されている。

 この二つの疑問は、一つの説明によって解決できるのではないだろうか。私たちは、アシュケナージ系ユダヤ人は知能において遺伝的な強みをもち、その強みは、彼らが北ヨーロッパに居住していた時代にホワイトカラーの職業で成功するための自然選択によって生じたものだという仮説を立てている。知能に対する強い選択には、いつかの不都合な副作用が伴った。ある対立遺伝子を一コピーだけもつ人はIQが高くなるが、コピーが二つそろうと有害な結果を引き起こすのである。

 これに続いて「もちろん、この種の説明が議論を呼ぶことはわかっている」とくる。このあたりで、先の「Bell Curve」にも関連してやっかいな議論になる。
 本書のアシュケナージ系ユダヤ人についての議論だが、これも面白いか面白くないかだけでいえば、残念ながら、面白い。ちょっとつう向けの話だが、本書はハザールについての言及はない。ではその上でアシュケナージ系ユダヤ人とは何か、またその歴史議論がどうなるか、という点も面白い。
 本書の議論としては、アシュケナージ系ユダヤ人の遺伝的な知的能力の向上と特定の遺伝子疾患の高い有病率は、すでに中世にその根はあるとしても1800年ころから見られるとしている。逆に言えば、それ以前のアシュケナージ系ユダヤ人は特段に他の西欧の人々と変わりないということである。
 話をアシュケナージ系ユダヤ人の遺伝病の説明に戻すと、通説的にはボトルネック仮説が適用されている。集団が極端に縮小し、その後爆発的に増大すると特定の遺伝子疾患のが増えるのも当然だというのである。ピンゲラップ島でも同種の現象は見らた。
 だが著者たちは、ボトルネック仮説であれば、偶然の産物なので、アシュケナージ系ユダヤ人のように限定された代謝経路に収束する傾向はないだろうと指摘する。また知能への影響はないだろうとも。
 どうなのか。私としてはなんとも評価しづらい、という先の感想に戻ってしまう。
 本書は表題からわかるように、アシュケナージ系ユダヤ人以外に、一万年の人類進化の仮説がいくつかの側面でコラム的に描かれている。ネアンデルタール人との遺伝子交雑、農業革命に対する進化論的身体適応、印欧語族と乳糖耐性の問題などもある。それぞれの話題は面白いが、科学的にどう評価されるものかは、まったくもってよくわからない。
 
 

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